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北大歴史散歩----札幌農学校に明治の開拓者精神を見る
 
 私は関西生まれの関東暮しであるが、北海道が大好きである。夏の大雪山の高山植物は日本一だし、ニセコで滑る粉雪は世界一だと思っている。太平洋戦争の敗戦に打ちひしがれていたとき、親父が 「北海道に行って大型農業機械の開発でもしようか」 といったのを、小学生だった私は小耳にはさんだことがある。この話は立ち消えになったが、北海道には日本離れした雄大な自然があるらしいと、永年憧れていた。私が実際に北海道を訪ねたのはずっと後で、所帯を持ってからである。

 北大には何となく惹かれるものがあったが、私とは特別の接点はなかった。ただ私の長女の母校ではある。北大のキャンパスの歴史散歩をしてみようと思ったのは、スキーの帰りに雪の北大に立ち寄った折であった。今回紹介するのは冬の北大であるが、四季の北大を取材する魅力に憑りつかれそうである。

 このホームページ作成にあたり、岩沢健蔵著「北大歴史散歩」(北海道大学図書刊行会)が大変役立った。また、北広島市教育委員会の学芸員遠藤龍畝氏には旧島松駅逓をご案内頂いた。ともに謝意を表したい。                (2002年12月、2003年2月)
クラーク博士の像
北大キャンパス・ガイドMAP
(北海道大学ホームページから引用させて頂きました)
 

 
時 計 台
(旧札幌農学校演武場)
 
北大歴史散歩の第一歩を時計台から始めることを奇異に感じられるかもしれない。札幌駅の南700mにある時計台は、実は明治11年の建設から27年間、北大の前身札幌農学校の演武場であったのである。明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称された。岩倉具視ら明治政府首脳の間では、殖産興業と北方防衛のため札幌に農学校を創設することを考えていた。当時の中米公使森有礼(後の文部大臣)が、マサチューセッツ州立農科大学を視察し兵式教練も見たという。やがて明治11年6月にマサチューセッツ州立農大のドリル・ホールを模した札幌農学校の演武場の建設が始まり、10月に落成した。クラーク博士が来日したのは明治9年5月、離日は10年4月だから、この演武場を見なかったことになる
 
札幌市時計台は27年間札幌農学校の演武場であった。実は現在の建物は、当時の建設地点から100mほど南へ引き家されたという。現在、1階は農学校発足当時の写真や資料を展示した博物館になっている。
 
展示された模型の一部と地図
この地には演武場のほか、講堂(教室)、図書館、寄宿舎などがあったことが分る。
 
                    クラーク博士と契約書
クラークは正式には札幌農学校初代教頭ということになっている。校長には、開拓使権大書記官 調所広丈がいた。ところが英文の方は Assistant Director と書いた後、President と書き込んであるのは、クラークが署名の直前に強く主張したからである。クラークは自分が校長であることと確信していたし、それで何の不都合もなかったという。(前記、岩沢健蔵著による)
 
時計台の2階には、当時の演武場の様子が再現されている。演武場というのはいわば体育館である。教室の上に体育館がある今の小学校のスタイルはここにルーツがあるのかもしれない。正面の「演武場」の揮毫は岩倉具視による。五稜星は北極星をかたどった開拓使徽章で、北海道のシンボル。
 

 
札幌キャンパス
 
北大の札幌キャンパスの広さは約176haというから、東京ドームの約40倍である。
この中に史跡がいっぱいある。キャンパスの北部にあるモデル・バーンは国指定の重要文化財、古河講堂、旧昆虫学教室、旧図書館は大学指定の保存建物である。キャンパスには、有名なクラーク博士の像を始めとして像は
32基、碑は17基設置されている。(いずれも平成12年12月現在) 正門でもらった「北大キャンパス・ガイドMAP」(ホームページの冒頭のもの)を片手に散歩するのは楽しい。
 
正 門
 
JR札幌駅に一番近い門。昭和11年、陸軍特別大演習が行われるに当り、昭和天皇を迎えるため新たに築造されたものである。
 
南 門
 
正門から入って100mほどのところに南門がある。現在の正門が築造されるまで正門として構えていたのが、昭和11年に南門として移設された。脇にある門衛所は明治36年に建てたてられたもので、現在もガードマン詰所として使われている。
 
佐藤昌介像
 
南門の近くに、初代総長佐藤昌介の胸像がある。彼はクラークの教えを直接受けた札幌農学校第1期卒業生13名の1人である。明治24年(1891年)、札幌農学校校長心得となって以来、昭和5年までの40年間、官職名は校長、学長、総長と変るが、一貫して北大の最高指導者であった。北大では、クラークと並ぶ顕彰者とされている。
初代総長佐藤昌介の胸像
 
百年記念会館
 
百年記念会館は、昭和51年に北大の創基百周年を祝って建てられた。八十周年記念のクラーク会館とともに教職員や同窓生が利用できる施設となっている。ところで、北大の百周年の起点は、明治9年(1876年)の札幌農学校の開校である。開拓使仮学校の設置(明治5年)は含まれていない。

東大では、江戸末期の種痘所開設や昌平坂学問所まで遡るべきだという意見があるが、明治10年の東京大学創立を起点にして百周年行事を行なったという。阪大でも、学内には緒方洪庵の適塾を起源とする気分が強いが、昭和6年の大阪帝国大学設置を起点として、昭和56年に50周年を祝った。
 
百年記念会館 クラーク会館
 
中央ローン
 
正門から入って100mくらいのところにある1.2ha のなだらかに起伏している緑地は、北大関係者に中央ローンと呼ばれている。ここは豊平川の扇状地で、かつてはここをサクシュコトニ川が流れ、サケが遡上したという。
 
実はここは、日本スキー発祥の地でもある。明治41年(1908年)春、予科ドイツ語教師ハンス・コラーが母国スイスから取り寄せたスキーを学生達に披露したのがこの付近だという説がある。一般には日本のスキー発祥は、明治44年1月12日新潟県高田でレルヒ少佐が教えたのが最初とされているが、こちらはそれよりも2年早い。
 
古 河 講 堂
 
明治42年(1909年)に財閥の古河家から寄贈されたので「古河講堂」と呼ばれるが、当初の名前は「林学科教室」である。明治20年に足尾銅山が鉱毒事件を起こした。古河工業会社の顧問をしていた原敬が「古河家も此のままに打ち過ぎては世間の非難を免れざる事につき」(原敬日記)ということで、古河家に対して政府に100万円寄付することを勧めたことから、札幌農科大学分の13万円を財源にして古河講堂が実現したといわれている。
 
フランス・ルネッサンス様式の美しい古河講堂は、文部省技師新山平四郎の設計で明治42年に建設された。
 
クラーク像
 
大正15年に除幕された元祖の胸像は、太平洋戦争中の昭和18年に「金属回収令」により函館の金属回収業者の手で鋳つぶされ、兵器に変ったのである。現在北大で最大の観光ポイントになっている二代目のクラーク像は、東京美術学校出身の加藤顕清氏によるもので、昭和23年に除幕された。
 
聖 蹟 碑
 
クラーク像の筋向いにあるこの石碑に気付く人は少ない。この石碑は、昭和11年10月、北海道で陸軍特別大演習が行なわれた際に、新築直後の農学部本館が昭和天皇の行在所(あんざいしょ、仮御所のこと)並びに大本営となったことを記念する碑である。当時、農学部本館が北海道で最も近代的な建物であったという。この10ヵ月後に支那事変が勃発、そして太平洋戦争へ突入。したがって、この年の演習が帝国陸軍の最後の大演習となった。昭和史がこんなところに刻まれている。
 
入学試験にやってくる高校生を歓迎しようと雪像造りをしている北大生に、後にある石碑は何かと尋ねたが、誰も知らなかった。昭和天皇の話をすると素直に聞いてくれた。帰りに見ると雪像はすっかり完成していた。
 
農学部本館
 
明治34年(1901年)以来、ここには札幌農学校の中心的建物である農学教室本館が建っていた。しかし木造のため、昭和11年に現在の堂々たる農学部本館に建て替えられた。
 
旧昆虫学教室
 
明治34年に工費9000円で建てられた旧昆虫学教室は、モデル・バーンの重要文化財に次いで古い建物
 
旧 図 書 館
 
明治35年に工費7700円で建てられた旧図書館  右奥にあるレンガ造りの建物は?
 
エルムの森
 
キャンパスには900本以上のエルム(正確にはハルニレ)の木があるという。農学部本館から理学部本館にかけては特に多いので、この辺りは「エルムの森」と呼ばれる。
 
レッドオーク(?)
シラカバ(?)の多い場所もある。 雪の中央道路の歩道を走る自転車 イタヤカエデ(?)
 
総合博物館
 
北大には札幌農学校の開校以来、現在まで120年余にわたる研究の成果として、400万点を超す貴重な学術標本を所蔵している。その情報を学内外に発信提供するために、1999年4月に北海道大学総合博物館が設置され、順次整備されつつある。館内には、札幌農学校に始まる北大歴史展示、古生物の化石などの学術資料展示、環境から見る自然と人などの学術テーマ展示に分かれている。一つ一つ眺めていると時間の経つのも忘れる。
 
総合博物館は旧理学部本館の中にある。この建物は昭和4年にできたもので、キャンパスにある鉄筋コンクリートの本建築として最も古い。
 
正面玄関を入ると、すぐ中央階段の吹き抜けの白壁、白天井のドームがある。誰が名付けたかアインシュタイン・ドームという。
 
北海道開拓の恩人といわれる内田瀞(きょし)の
ペンハロー教授の化学のノート(明治10〜11年)
内田瀞は明治9年に東京英語学校を卒業して、札幌農学校の1期生になった。
 
                      中谷宇吉郎博士の人工雪の実験装置
中谷宇吉郎といえば、「雪の研究」や「雪は天から送られた手紙である」 を思い出す。これは、「雪が結晶を成長させながら通過してくる大気層の温度・湿度などが、雪の結晶の形には刻まれている」 という物理学の意味である。静子夫人は、博士の没後、「天からの君が便りを手にとりて よむすべもなき春の淡雪」 という歌を詠んでいる。
 
岩石の標本
デスモスティルス(手前)とニッポノサウルス(奥) 岩石の偏光顕微鏡写真
 
ポプラ並木
 
クラーク像と並んで北大の観光名物であるが、老齢化で倒木の危険があるため立入り禁止になっている。ここにはじめてポプラが植えられたのは明治45年(1912年)。 因みに、ポプラは俗称で、正しくはセイヨウハコヤナギという。
 
夕日を浴びるポプラ並木
 
花木園と新渡戸稲造像
 
明治14年(1881年)新渡戸稲造は札幌農学校の2期生として卒業後、東大に進むが大学の勉強に裏切られて退学し、明治17年から米ジョンズ・ホプキンス大学大学院に学んだ。 明治24年にメアリーと結婚して帰国し、札幌農学校教授となった。 1920〜1926年に国際連盟事務次長を務めた。現在5千円札のモデルとしてお目に掛かれるが、近く樋口一葉の新5千円札に取って代られる。
 
花木園の前に新渡戸稲造の胸像がある。
ともに平成8年に建設された。 
新渡戸稲造の胸像に書かれている言葉
”I wish to be a bridge across the Pacific”
 
人工雪誕生記念碑
 
この地は、昭和10年10月、「常時低温研究室」が建てられた場所である。翌年3月、ここで理学部物理学科中谷宇吉郎がはじめて人工の雪の結晶を作るのに成功した。
 
都ぞ弥生歌碑
 
青春の一時期を過ごす寄宿舎(学生寮をこういった)には郷愁のドラマがある。北大の寄宿舎は「恵迪寮(けいてきりょう)」と呼ばれる。これは経書の一節
  「迪(みち)ニ恵(したが)フトキハヨシ、逆(さかしまなる)ニ従フトキハ凶(わろ)シ、
  コレ影響(かげひびき)ノゴトシ」
からとられたものである。

最初の
迪寮は、明治38年に建てられ、明治45年にここから寮歌「都ぞ弥生」が生まれた。その後昭和6年に新迪寮に移転した。寮祭のとき寮生が窓から裸でほうり出される映像を毎年テレビで放映していたのはこの寮であろう。昭和58年に現在の雪の結晶形の鉄筋コンクリート造りの迪寮が完成した
 
都ぞ弥生の歌碑
 
寄宿舎跡の碑
 
寄宿舎跡の碑  碑の周りにクロスカントリースキーの跡が残っているのは、さすが北大
 
恵 迪 寮
 
現在の恵迪寮は六角形の雪の結晶をイメージした立派な寮
右の航空写真は、「天から送られた手紙」 [写真集 雪の結晶] 中谷宇吉郎 雪の科学館より
 
キャンパス中の観光スポットには案内板が-- 新寮生募集のポスター
 
平成のポプラ並木
 
現在のポプラ並木は明治45年(1912年)に植えられ、90年以上経過し老朽化が進み倒木の危険がある。そこで、2001年の創立125周年記念事業の一つとして、「平成のポプラ並木」を造ることになり、現在のポプラ並木から北に約400m離れた農場の北の端に、300mにわたり、70本の苗木が植えられた。苗木は、現在のポプラ並木から採取された挿し穂を挿し木して苗木に育てられたということで、20年後には20mほどの高さに生長することが期待されている。
 
まだ頼りない若木であるが、無事育って欲しい。
 
モデル・バーン
 
この施設名の由来は、クラークが名付けた「模範的な家畜房」(model barn)にある。雪国で酪農を成功させようとするなら、何よりも動物たちに半年間の食糧とねぐらを保証できる「快適な牧舎」が必要であるとクラークは言ったという。このバーンはクラークの在任中に着工したが、竣工は明治10年(1877年)秋であるから、クラークは完成を見ることができなかった。

モデル・バーンが最初に建てられた場所は、キャンパスのもう少し南にあったが、キャンパス内の校舎が増えるにともない、明治43年に現在の地に移設された。昭和44年に、「9棟の建物群」 として国の重要文化財に指定された。
 
すっかり馴染みになった案内板 掲示してある地図  反時計回りに一周した。
 
農事事務所(ここで記名してから入場する) すべての建物に、建築・構造・解説を記した説明板が付いている。
 
反時計回りに順に見学すると、先ず右が牧牛舎、左が模範家畜房
 
              模範家畜房(model barn
クラークの構想によるこの巨大な家畜房(30m×15m、切妻造り総2階建)は、自然のエネルギーを最大限に利用するように工夫されている。すなわち、干草を満載した馬車がそのまま傾斜路を通って階上に積み込まれる。干草は僅かな人力で階下へ少しずつ落とすことで給餌作業が楽になる。動物の排泄物は地下に貯えられ翌春の肥料となる。
 
右は穀物庫で、当初は連絡通路がなく鼠返しがあった。左は脱ぷ室・収穫室、脱ぷは籾摺りのこと。 秤量所。馬車に収穫物を積んだ満載時と空車時の差から収穫量や収納量を求める。
 
釜場 竈(かまど)と釜を備え、豚などの餌を煮込む家畜飼料の加工場。防火のため石造とした。 精(製)乳所 市乳・バター・チーズを作る加工室、氷使用の冷蔵庫、雑菌の混入を防ぐ前室がある。
 

 
旧島松駅逓所
(クラーク博士別の地)
 
島松駅逓所は、明治6年(1873年)に札幌本道(函館〜札幌の道内初の車馬道)の開通により設置された。「駅逓」は交通が不便だった時代に、物を運んだり旅をしたりする中継地として宿舎や馬などを備えていて、最初の頃は郵便も取扱っていた。

明治10年4月16日、9ヶ月間の札幌農学校勤務を辞したクラーク博士が、教え子に送られて離別したのが、この駅逓である。国指定史跡として保存されている島松駅逓所の建物は、明治14年(1881年)の明治天皇の北海道巡幸の時に建てられたものである。寒冷地稲作の父、中山久蔵が駅逓取扱を命ぜられたのは明治17年からである。クラーク博士の離別はその何れよりも古いことになる。
国道36号で、札幌から約20kmのところで旧道に入る。
千歳川の支流、島松川
右側(左岸)が北広島市、左側(右岸)が恵庭市
旧島松駅逓は川岸の北広島側にある 
明治10年4月16日、クラーク博士は、ここ島松駅逓所で、
"Boys, be ambitious" の言葉を残して教え子達と別れた。
ここから馬上の人となり、函館から長崎行きの船に乗ったという。
 
左は中山久蔵の寒地稲作発祥の碑、右がクラーク奨学碑
 
青年よ、大志を懐け BOYS, BE AMBITIOUS クラークの業績と年譜が刻まれている
 
「寒地稲作この地に始まる」の碑と中山久蔵のレリーフ
 
中山久蔵が栽培した赤毛種の種籾、玄米、大豆の標本
 


島松駅逓は、明治14年(1881年)の明治天皇の北海道巡幸に際して、
明治7年 開拓次官黒田清隆から受けた表彰状
御昼行在所(昼食のため、仮の御所となるところ)に当てられた。 今は明治天皇と皇后の写真が掲げられている。 明治17年(1884年)中山久蔵は島松駅逓取扱を命ぜられた

  
島松駅逓見学の後、北広島市教育委員会の遠藤龍畝氏のご厚意で、北広島市の高台に案内して頂いた。ここから日高山脈の最高峰、幌尻岳(2052m)が遠望できた。山好きの私にとって、今回の「北大歴史散歩」に思いがけない写真を加えることができた。
 

 
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