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登呂遺跡---- 弥生時代の水田跡がわが国で
最初に発見された歴史的遺跡
 
 「登呂遺跡」 なんと懐かしい名前だろう。

 1945年(昭和20年)、小学4年生の時に私は終戦を迎えた。 当時日本人が敗北感で自信喪失していたときに、勇気づけてくれたニュースが3つあった。 子供心に覚えている。

@ 「フジヤマのトビウオ」 こと古橋広之進さんが
 水泳の世界新記録を連発(1947年) 
A 湯川秀樹博士が日本人最初のノーベル賞を
 受賞(1949年)
B 「登呂遺跡」で日本最古の水田跡の発掘調査
 (1947年)

 それ以来、ぜひ見学したいと思いつつ果たせなかった登呂遺跡を訪ねる機会が、ついに来た。 私が参加している横浜市遺跡公園のガイドボランティア有志で登呂遺跡を見学する企画を、仲間の天野さんが立ててくれたのである。   (2001年7月)
 
復元された水田
斜めに走るのは復元水路
遺構は地下1mにある
 
登呂遺跡発掘の鍬入式を報じる毎日新聞
1947年 昭和22年7月14日版(登呂博物館所蔵)
 
 

 
再発掘の現場
 1943年の第2次世界大戦中、軍需工場建設の際に発見された登呂遺跡は、戦時中にもかかわらず当時の専門家による発掘が行われた。 戦後2年経った1947年に本格的な発掘調査が行われて以来、数次に亘る調査が実施された。 登呂遺跡は、弥生後期(約1800年前)のわが国の農村の全体像が分る貴重な遺跡として、1952年に国の特別史跡に指定された。 今年度は住居跡と倉庫跡の再調査などが行われている。
 
住居跡発掘現場の責任者 岡村氏の説明を聞く 発掘現場の全景  今回の調査は、過去の発掘後に埋められた土を取り除くことから始まる。
 
登呂の住居跡は標高6〜7mにあり水位が高いため、発掘は排水しながら行われる。
 

 
復 元 水 田
 登呂遺跡の魅力は、何と言っても水田跡である。 水田跡は250m×400mの範囲にあり、約8ha(8万m)の広さであるが、境界を確認できないうちに周囲が開発されてしまったので、実際はもっと広かったかもしれないという。 遺構は復元された水田の地下1mのところにある。
 現在は農林省の特別許可を得て、弥生時代に作られたという赤米が栽培されている。 近くに商用水田があると、赤米の花粉が飛んで雑種交配し農家から叱られるが、幸か不幸か周りは住宅地なので問題ないそうだ。 ----- とすると、遺伝子組み替え農作物が栽培されている近くでは、「安全な非組み替えです」 と称していても交配されたものが混じることになる。 恐ろしい!
 
復元された水田と水路  弥生時代の遺構は地下1mにある
 
博物館の浅野氏から説明を受ける。  弥生時代に作られたという赤米
(ウルチとモチ)を栽培
 
「登呂遺跡と水田跡」 の説明板 交叉する畔(地下1mにある)
 

 
復元住居と復元倉庫
 遺跡の周辺に住居と倉庫が復元されている。 多くの高台にある弥生時代の住居が 「竪穴住居」 であるのに対して、登呂の住居は 「竪穴系平地式住居」 というらしい。 竪穴住居のように地面を掘り下げるとここでは水が出るので、掘る代りに周りに土手を築いている。 土手の周りは排水溝になっている。
 倉庫は 「高床式倉庫」 として復元されている。 高床式倉庫が倒れて地中に埋もれたのが発掘されたからある。 水中や湿度の高い地中では木材は腐らずに長持ちするらしい。 登呂で建物や木製品が多く発見されたのは、そのような事情によるという。
 
竪穴系平地式住居の断面図
復元された住居(竪穴系平地式) 一般の竪穴住居の断面図
 
復元された倉庫(高床式)
 

 
登 呂 博 物 館
 遺跡の一角に静岡市立登呂博物館がある。 2階は登呂遺跡で発掘された遺物を中心に展示され、1階は弥生時代の生活の体験ゾーンになっている。
 博物館に隣接して、静岡市出身の染織家で文化功労者の芹沢_介さんの作品が収められた静岡市立芹沢_介美術館がある。
 
弥生の建物をイメージした登呂博物館 弥生人母子の塑像
 
住 居
 復元された住居は竪穴系平地式で、高さ5m、面積73m。屋根は入母屋造り茅葺きである。柱は4本で、湿地のため柱が沈むのを防ぐ目的で礎板が敷かれていた。
 
復元住居模型 柱と礎板 板戸
 
倉 庫
 復元高床倉庫は、高さ4.3m、広さ4m×2.5mで、8本柱。ネズミ返しもついている。屋根は切妻で茅と杉皮を使用。
 
釘がなかった弥生時代には、「ほぞさし技術」 で、壁板材をつなぎ合わせた。 倉庫は原始的な校倉造りになっている。
 
復元倉庫模型 ネズミ返し ほぞさし技術
 
農 業 技 術
 登呂のこの地は沼地で、水田には向いていないので、水路を設けて導水排水を図ったらしい。弥生の農村生活を彷彿させる沢山の農機具が発見されている。
 
高低差のある水路や水田の畔に打ち込む 「矢板」 には、古材の再利用もあったようだ
 
木製の 「ひらぐわ」          穂づみ具
当時の稲は、実る時期の異なる品種が混ざって栽培されていたようなので、穂首刈りをしたと考えられる
 
田下駄 丸木舟とかい
 
土 器 と 木 製 品
多くの土器や木製品が発掘され展示されている。
 
小型の土器(つぼ)  硬く焼けていそうで、色も形もなかなか素敵
 
3つの部材からなる高杯 しゃくし 腰掛け  現在でもこのまま通用する
 
装 身 具
 古代の装身具は美しく身を飾るためでなく、地位の象徴などであったらしい。
 
ガラス小玉(直径3〜4mm) 腕輪と指輪(青銅製)
 
体 験 ゾ ー ン
 
博物館の1階は弥生時代の生活体験ゾーン
ボランティアさんが世話をしてくれる
 

 
 長年心に掛かっていた登呂遺跡をついに訪れることができ、満足感に浸っている。 登呂遺跡は、私達がガイドボランティアとして案内している横浜の 「大塚・歳勝土遺跡」 と対照的である。 登呂遺跡には、水田跡があり、多くの農機具や木製品が出土しているが、墓地がない、環濠もない(発見されていない)。 一方、大塚・歳勝土遺跡には隣接して方形周溝墓があり、環濠もあるが、水田がない(発見されていない)。 住居の形式も少し違う。 時代は登呂が弥生後期、大塚・歳勝土は弥生中期でこちらが100年ほど古い。

 私の個人的な趣味では、時代古きが故に尊しとせず、精神的・物質的に現代の我々の生活とのつながりを持つ 「ルーツ」 に興味が湧く。 これからも日本人のルーツ探しを続けたい。

 最後に、お世話になった登呂博物館館長の染葉さん、同博物館学芸員主事の浅野さん、発掘調査責任者の岡村さんにお礼申し上げたい。 
館長さんに撮って頂いた記念写真
 
登呂博物館のホームページを見たい方はクリックして下さい
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