中国シルクロードの旅(1)----西安、敦煌、陽関、玉門関など陜西省と甘粛省の旅 |
誰でも、永年憧れを持ち続けている海外の国や地域があるものだ。 私にとってシルクロードはその中の最たるものである。 西安(古代名、長安)とローマを結ぶシルクロードには、数千年の歴史がある。 アレキサンダー大王、漢の武帝、チンギス・ハンが活躍し、玄奘や マルコポーロが文化を伝えた。 中国の絹や玉、ガンダーラ美術、 ローマン・グラス、そしてペルシア絨毯が、運ばれた。 シルクロードを抜きにして東西文化の交流史を語れない。 これが私がシルクロードに魅せられる理由である。 初めて「シルクロード」という名を用いたのは、ドイツの地理学者リヒトホーフェン(1833−1905)であった。 彼は古代の東西交易史上、もっとも大きな役割を果たしたのは「絹の交易」であったとし、この中央アジア経由の道を「絹の道」(Seidenstrassen)と名付けたという。 Silkroadはその英訳である。 因みに、中国語では、「絲綢之路」という。 シルクロード、とりわけ現在の甘粛省と新疆ウイグル自治区の探検史は、遺跡発掘と遺物の争奪戦であった。 その中には、遅ればせながら我国の大谷探検隊も3次にわたり参加している。 敦煌の莫高窟の壁画などは、過去の探検隊の残渣を見ることになるのであろう。 ひとくちにシルクロードと言っても、大別して「ステップ路」、「オアシス路」、「南海路」の3つがある。 しかし狭義には中央アジアを東西に 横断する「オアシス路」をさす。 これは中継貿易を行っていた隊商 (キャラバン)たちの砂漠の交易路であった。 シルクロードは、時には戦争や征服のルートとして侵略に利用されることもあったが、その主要な機能は交易であって、その結果、付随していわゆる文化交流や宗教伝来がみられた。(長澤和俊編「シルクロードを知る事典」) 旅行社のグループ・ツアーで、「シルクロードの旅」と称するものは、おそらく100種類ほどあるだろう。 しかし多くのツアーは西安から 敦煌、トルファン、ウルムチまでである。 私は、西安からローマまで は無理としても、せめてトルコのイスタンブールまで行きたいと思うが、かつては時間が取れず、いまは体力が持たない。 そこで、今回は、シルクロードの中国内最西端のカシュガルまで訪ねる旅に行くことにした。 海外旅行ではすっかり馴染みになったユーラシア旅行社が催行する「カシュガルから敦煌・楡林窟〜南疆鉄道・天山越え〜」15日間の旅に、妻と2人で参加した。 1992年に上野の国立科学博物館で 会ったミイラ「楼蘭の美女」との再会を期待しながら - - - 中国シルクロードの旅(1)は 西安、敦煌、陽関、玉門関など、陜西省と甘粛省の旅 中国シルクロードの旅(2)は ウルムチ、ホータン、カシュガルなど、新疆ウイグル自治区の旅 中国シルクロードの旅(3)は カラクリ湖、南疆鉄道、トルファンなど、新疆ウイグル自治区の旅 である。 合せてご覧下さい。 (2006年9月) |
|||||||||||||||||||
敦煌莫高窟の第130窟(大仏) の9層の入口 |
|||||||||||||||||||
|
ローマと長安を結ぶシルクロードは3つあった |
A | 最近の研究によると、シルクロード には、3つの路があるとされている ステップ路(草原のシルクロード) 北方ユーラシアのステップ帯を 北緯50度付近で横断するもので、 遊牧民によって利用された。 オアシス路(砂漠のシルクロード) 中央アジアのオアシス群を北緯 40度付近で横断するもので、 史上もっとも多く利用された。 普通シルクロードといえばこれを さす。 南海路(海のシルクロード) 紅海またはペルシア湾からインド 洋、東南アジアを経て華南に達す るもので、特に近世以降ヨーロッパ 人が活躍した。 |
|
長澤和俊編 「シルクロードを知る事典」 東京堂出版 2003 を改変した |
上記のオアシス路(砂漠のシルクロード)は、さらに3つに大別される |
今回の旅は、天山北路、天山南路(西域北道)、天山南路(西域南道)を組み合せたコースである(下記) |
中国シルクロード(1)のコース | 下の画像をクリックして、しばらくお待ち下さい。 画像が大きくなります。 |
西 安 |
西安は、黄河最大の支流渭水の南岸に開けた陝西省の省都(人口600万)である。 中国六大古都*の1つで、唐の時代はシルクロードの東の起点である国際的な百万都市として繁栄した都「長安」として知られる。 *北京・南京・洛陽・西安(かつての長安)・開封・杭州(かつての臨安) BC11世紀から10世紀に至る約2000年間に、漢や唐など多くの王朝がここに都を置いた。 西安のメインストリートには近代的なホテルが立ち並ぶが、古都の佇まいもよく保存されている。 市街を取り巻く城壁があり、城壁の内外に多くの建造物や遺跡を見ることができる。 今回訪問したのはそのうちのごく一部で、何度か訪ねたい古都である。 この旅では、始めと終わりに西安を訪問したが、このホームページでは始めの部分にまとめて掲載する。 |
絲綢之路起点群像 |
西安空港から、先ず明代城門西門の近くにある「絲綢之路(しちょうのみち)起点群像」を見に行く。 ここは唐代に開遠門があった所で、西安美術学院が制作したシルクロードを旅するキャラバンを描いた大塑像が1988年に建てられた。 新しいもので、歴史的には意味がないが、「これからシルクロードを旅するぞ」という気持ちにさせてくれる。 |
A | ||
西安空港は正式には西安咸陽国際空港という | ボランティアであろうか、胡弓の演奏で迎えてくれた |
右にスクロールしてご覧下さい → → → |
全長56m(7枚接続パノラマ撮影)の中には、先頭のラクダを引く老人像の後ろに、ラクダにまたがった様々な国の人々の像がある。 前方には西域の人、後方には唐の役人などが描かれていて多国籍である。 |
長安城明代城壁 |
現在西安にある城壁は、唐の長安城を基礎に明代の1370−1378年にレンガを積み重ねて築かれた。その後たびたび修理が行われ、現在の姿になったという。 周囲の長さ14km、高さ12m、上部の幅12〜14m底部の幅15〜18m、城内の面積11.5km2。 西門(安定門)は、シルクロードを望む最大の城門で、ここから多くの人々がシルクロードへ旅立っていった。 |
西門(安定門) |
A | ||
城門の上に登る | 城門前に置かれた汗血馬(かんけつば)*の像 |
*汗血馬は、中国の歴史上で名馬といわれた馬の種類。「血のような汗を流して走る馬」という。前漢の武帝時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛(フェルガナ)にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので遠征軍を送り、これを得た。汗血馬は一日に千里(約500km)を走ると言われている。 |
A | ||
道路は城門を貫いている | 西門の上の城壁は幅約13mで、南北に約3km続く |
A | ||
西門の上の楼閣から西の方を眺める シルクロードの旅はここから始まる |
有名な王維の漢詩は、随所で売られている。私も購入した。 |
西門から東方(城内)を眺める。 正面に霞んで見えるのが、城内の中心にある鐘楼。 |
陝西歴史博物館 |
1973年、当時の中国の周恩来総理が、「陜西省には文物が多いのに、展示室が小さい。博物館を新しく建てたらいい」と指摘したのがきっかけで、1991年に落成した中国でもっとも設備の整った博物館の1つ。 陜西省立歴史博物館でないことに注意! 館内はノーフラッシュなら自由に撮影できた。 |
伝統的宮殿様式の外観をもつ陜西歴史博物館の本館(広角パノラマ撮影のため湾曲) |
A | ||
中国唯一の女帝「武則天」(日本では則天武后といわれる)の母の楊陵墓から出土した巨大な獅子像(これはレプリカ) | 旧石器時代のホモサピエンスの復元モデル |
A | ||
青銅製の鼎 |
A | A | |||
秦始皇帝の兵馬俑から出土した銅馬車 | 秦始皇帝の兵馬俑から出土した兵士像 |
AAA | A | A | A | ||||
秦始皇帝の業績の1つ度量衡の統一 左は枡、右は分銅 | 木材を繋ぐための金属、建築材として使った |
A | A | A | ||||
馬毬図(ポロを楽しむ人) ポロはペルシャから伝わった貴族のスポーツ |
唐三彩 |
金龍 中国の龍は走る |
A | A | |||
シルクロード |
礼賓図 (唐代の長安は国際都市であった) 図録では、左の3人は官人、順に東ローマ使節、日本または高句麗使節、中国東北地方の使節と解説 |
高松塚の壁画(レプリカ)が参考展示してあった |
西安ホテル・唐華賓館の朝 |
A | ||
西安のホテル「唐華賓館」は庭もなかなか立派 | ホテルで朝、太極拳の無料講習会があった |
大雁塔 |
慈恩寺の院内にある大雁塔は、西安のランドマーク的存在である。 西遊記の孫悟空が仕えた三蔵法師として子供にも知られている玄奘三蔵が、天竺(現在のインド)から持ち帰った仏典を保存するために建立された。 玄奘は、仏典の研究には原典による他ないとし、また、同時に仏跡の巡礼を志し、629年に国禁を犯して出国した。 河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺に至った。 ナーランダ寺で仏学を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て帰国の途につき、19年後の645年、657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。 帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。 |
A | ||
玄奘の像が南を向いている |
慈恩寺は、648年に唐の第3代皇帝の高宗が 母を供養するため建立した仏寺。 大雁塔はその院内にある。 |
A | ||
大雁塔は、四角形7層、高さ64m。玄奘がインドから持ち帰った仏典を保存するために652年に建立さた | 塔内は階段で最上階まで登れる |
大雁塔から北方を眺める |
A | ||
収蔵室を見学 左は「玄奘取経路線図」、右は玄奘が訳した「金剛般若波羅蜜経」(後世の写経であろう) |
碑林博物館 |
碑が林のように立っているので名付けられた碑林博物館。 漢字に親しむ日本人にはとりわけ楽しい博物館である。 館内はノーフラッシュなら自由に撮影できた。 |
西安碑林博物館の入口 |
A | A | A | ||||
孔子像と論語の一節が刻まれている |
中国における大秦景教(ネストリウス派 キリスト教)の流行を示す貴重な碑* 右はシリア文字で書かれている |
* 中国におけるキリスト教小史 中国への景教(キリスト教)の伝来は、635年にネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。 3年後に景教は唐により公認され、長安に寺院が建立されることとなった。 745年教団の名称が大秦景教と改称された。 その後、中国における景教は衰滅するが、中国の周辺地域ではネストリウス派信仰がウイグルなどのモンゴル高原や中央アジアの人々の間で存続していた。 その後、元の滅亡やイスラム教・チベット仏教の普及により東アジアにおけるネストリウス派信仰は衰え、明代に至って大秦景教流行中国碑が発見されるまで、景教は中国人に完全に忘れ去られることとなった。 |
A | A | |||
拓本をとる人 | だるま和尚の碑と、販売されている拓本 |
兵馬俑博物館 |
西安最大の見どころといわれる兵馬俑博物館(正式には秦俑博物館)。 1974年に井戸を掘っていた農民が偶然発見した兵馬俑は、中国の初代皇帝である秦始皇帝の陵墓を守る陪葬物として作られたもの。 一人一人の顔と姿の異なる6000体の兵馬の壮大さと銅車の精巧さは、筆舌に尽くし難い。 館内は自由に撮影できた。 |
A | A | |||
秦始皇帝 の石像 |
入口から建物までは 電気カートに乗る |
いくつかの建物があるが、 これは武装した兵馬俑が立ち並ぶ1号坑展示庁 |
1号坑展示庁の内部(正面から見る パノラマ撮影) 東西230m、南北62m、深さ5m、面積1万4200m2の地下坑の中に 6000体の武装した兵馬俑が、38列にわたって並んでいる。 |
1号坑展示庁の内部(横から見る) |
A | A | |||
今は色あせたが、発掘当時は彩色も鮮やかであった | 兵士の靴の裏には、滑止の縞模様が見られる | クリントン元米大統領と兵馬俑発見者の楊志発さんの写真 (楊さんはよく博物館に来るが、生憎会えなかった) |
秦銅馬車展示館では、2分の1の縮尺で製作された2組の銅車が展示されている。 1号車は高車といわれ先導車、2号車は安車といわれ車主の乗る車である。 写真は2号車。 ガラスケースが光らないように撮影するのに工夫した。 |
秦始皇帝陵 |
秦の始皇帝の陵墓は、兵馬俑から西1.5kmのところにある。(当然だが、兵馬俑が始皇帝墓の東1.5kmのところにあるといわねばならない) 始皇帝(BC257-210)は13歳で即位し、246年に中国で始めての統一王朝である秦を建国した。 彼は中国で初めて皇帝という称号を創出し、統一後には、法律、文字、度量衡を統一するなど後世に多大な影響を及ぼした。 しかし、過酷な法律や刑罰、万里の長城や墳墓の建設のための使役、焚書坑儒による思想弾圧などに対する人民の不満が、彼の死後大規模な反乱を招き、BC207年に秦は滅亡した。 |
A | ||
秦始皇帝の陵墓 大きさは、東西350m、南北345m、高さ76m。 司馬遷の史記によると陵墓は地下宮殿で、 珍宝が墓室を満たしていたが、項羽によって盗掘がなされ、埋まっていた財宝を30万人の兵士が 30日掛かって奪ったといわれている。 夕方で時間がなかったので、駆け足で10分で往復した。 |
A | ||
陵墓の山頂の「秦始皇陵地宮」という説明板 | 山頂からは暮色の山々とざくろ畑が見渡された |
A | ||
陵墓前ではこの地方の名物「ざくろ」が売られていた。 1個食したが、甘酸っぱくて美味であった。 |
華清池 |
始皇帝陵から2kmほど離れている華清池は、温泉と美しい風景の所であるが、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの地として有名である。 |
A | ||
華清池は風光明媚な観光地になっている | 楊貴妃の像は観光地には必需品であろう |
A | ||
楊貴妃が使ったという温泉のある貴妃池 |
A | ||
現在も実際に温泉が湧いている |
温泉水質分析表によると、主成分は硫酸カルシウム、炭酸カルシウム、塩化カルシウムである |
唐の詩人白居易(772-846)は、わが国では白楽天の名で知られている。 彼の詩はわかりやすく、流れるような美しい調子で、広く人々に親しまれ、 平安文学に大きな影響を与えた。 長恨歌は玄宗皇帝と愛妃・楊貴妃との 関係を恩愛の物語として詠った120句からなる叙事詩である。 ほんの触り を紹介する。 |
興慶宮公園 |
西安城外の東門の近くにある興慶宮公園に行く。 目当ては阿倍仲麻呂記念碑である。 たまたま道を教えてもらった中国人のお年寄りとの楽しい出会いがあったお蔭で、園内のもう一つの見学地、玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだという「沈香亭」を見忘れた。 |
A | A | 案内標識はあったが、なかなか 阿倍仲麻呂碑に辿り着けない。 そこで下の写真のお年寄りに尋ねたら、親切に案内して下さった。 筆談で「多大年紀?」と訊かれたので、71歳と答えると、彼は76歳と答えてくれた。 同じ文字を持つことから急に親しく感じた |
||
公園では太極拳ではない体操をしていた | 公園内にこんな標識がある | 「21世紀遣唐使の道」の碑の前で |
A | A | A | ||||
阿倍仲麻呂紀念碑の正面 |
阿倍仲麻呂の業績が書いてあるらしい |
阿倍仲麻呂が詠った漢詩 |
李白が阿倍仲麻呂の遭難死を知って贈った追悼の漢詩 |
遣唐使の随員として唐に渡り、717年に長安に到着した阿倍仲麻呂は、唐王朝に仕えて玄宗皇帝の厚遇も受けた。 「小倉百人一首」に収められている「天の原ふりさけ見れば---」という和歌に対応する漢詩は、「望郷詩」である。 朝衡または晁衡は阿倍仲麻呂の中国名である。 |
阿倍仲麻呂が帰国の際に帆船が難破して死亡したことを知った李白が、贈った追悼の漢詩。 実は仲麻呂の遭難死は誤報で、安南(今のベトナム)に漂着した。彼は再び長安に戻り、日本には帰らなかった。 |
青龍寺 |
遣唐使の留学僧の1人として唐に渡った空海(774-835)は、青龍寺で恵果和尚に弟子入りした。 恵果の教えを受け、真言の秘義を会得する。 恵果和尚が60歳で入滅。 空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。 806年に帰国して密教を伝えた。 醍醐天皇より「弘法大師」の名が贈られた。 |
A | ||
唐末には廃寺となったが、1973年に再建された。 日本から桜千本が贈られ、5月には満開になる。 |
五層からなる空海記念碑は 四国4県から寄進されたという |
A | ||
空海の先生、恵果和尚像 | 空海像 |
敦 煌 |
敦煌はシルクロードの入口。 ここから莫高窟、陽関、玉門関は近い。残念なことに敦煌滞在中に腹を壊し、鳴沙山と月牙泉に行き損じた。 |
西安空港から敦煌空港を経てホテルへ |
西安空港から敦煌・ウルムチ行のフライトで敦煌へ |
最近開港したという敦煌空港は砂漠の中に忽然と現れる。チョット感激する。(パノラマ撮影) |
3泊した敦煌賓館はいいホテルでした(逆光で上手く撮れません) |
敦煌舞踊ショー |
敦煌のホテルに滞在中に、ホテルが開催する敦煌賓館飛天歌舞団を鑑賞した。 このときチョットしたハプニング。 指定された時間に行くと前の席はすでに満席。 聞くところによると今日は政府のお偉いさんが鑑賞に見えているそうで、テレビ局も来ている。 今回の旅行では時々このようなことがあり、お国柄が窺えた。 |
A | ||
敦煌賓館飛天歌舞団の入場券 | 民族楽器を手にした踊り |
A | ||
リボン体操のような踊りは正に飛天である | 千手観音のような踊り |
ブロードバンドの方は、下の画像をクリックして、[開く] を選択して下さい 歌と踊りのビデオをご覧になれます |
A | A |
夜 市 |
A | ||
通りは賑やか | ナッツ屋 |
A | ||
日常衣服屋 | アクセサリ・飾物屋 |
朝 市 |
A | ||
無公害食品をうたっているらしい | 生きた鶏も食料品 |
A | ||
八百屋 | 羊肉屋 |
A | ||
ジャガイモ屋 | ハミウリ・果物屋 |
A | ||
麺を作る | 麺を並べる |
敦煌の周辺 |
敦煌の周辺には、5つの石窟群に812窟があるという。 我々は、そのうちの莫高窟と楡林窟を鑑賞した。 |
莫 高 窟 |
莫高窟は、大泉河に沿った鳴沙山の崖に全長約1600mに渡って作られた石窟で、石窟の数は、492あって4世紀から約1000年にわたって造営された。 この地方は、漢民族はもちろんチベット族やモンゴル族などさまざまな民族によって支配されたが、どの時代にも石窟の造営は続けられたという。 新疆ウイグル自治区にある石窟の多くがイスラム勢力によって大きな損傷を受けたのと対照的に、敦煌の石窟は保存状態がいいという。 しかし、20世紀初頭には日本を含めた列強諸国によって、文書、絵画、壁画、塑像の一部が海外に持ち出された。 敦煌の壁画は、総面積45,000m2、1列に並べると長さ30kmになるという。正に「砂漠の大画廊」の名に相応しい。 |
A | ||
莫高窟は、大泉河に沿った鳴沙山の崖にある。 | 莫高窟への入口の門 |
大仏のある130窟の九層楼は莫高窟のシンボル(ここだけは外から写真が撮れる) |
A | ||
入口から左側 | 入口から右側 |
莫高窟の壁画と塑像 |
莫高窟では窟内の撮影禁止は言うまでもなく、管理区域内へのカメラの持ち込みも禁止されている。 そこで、現地で購入した下記の図録からいくつかの壁画と塑像を紹介する。著作権の問題があるので、画像を小さくした点はご容赦下さい。 「世界文化遺産 敦煌石窟」、中国旅遊出版社、2004、日本語版 |
A | A | |||
249窟 | 45窟 | 328窟 |
A | ||
158窟涅槃仏 | 130窟大仏 |
楡林窟 |
楡林窟には唐代から清代までの石窟が41箇所あり、壁画の総面積は5,650m2、塑像は270体が残っている。 |
A | ||||
敦煌から楡林窟へ行く途中、いくつかの烽火台を見た。 間隔は、見通しのいいところで15kmくらいという。 |
A | ||
車窓から見える道路沿いのハミウリ売り | 建築中のイスラム寺院 |
A | A | |||
干割れがあるということは、 たまに雨が降るとヌカルミになるということ |
ラクダソウはトゲがあるが、 ラクダは食べるという |
タマリクス(紅柳)は、 数少ない砂漠の彩である |
A | ||
楡林窟は楡林河の浸食された岩壁に掘られた石窟 |
楡林窟の壁画 |
楡林窟も莫高窟と同様に窟内は撮影禁止であるので、現地で購入した下記の図録からいくつかの壁画を紹介する。 「世界文化遺産 敦煌石窟」、中国旅遊出版社、2004、日本語版 |
A | ||
楡林窟第3窟 | 楡林窟第25窟 |
陽 関 |
長安から、西域に行くには、まず河西回廊を通って陽関または玉門関に至る。 ここより西は漢民族の支配下ではなく、関所には5000人が駐屯したという。 陽関の名は、玉門関の南(中国では「陽」という)に在ることに由来する。 |
陽関博物館には際立った収蔵品はない |
A | ||
投石器などの武器の展示 | 電気カートで烽火台へ |
A | ||
関所跡を偲ばせるものは烽火台だけである | 現地の子供が馬を走らせていた |
烽火台の近くの展望台から、「西の方」を眺める |
A | ||
展望台から見た「復元された陽関の関所」。 最初見たときはテーマパークのような復元モデルに違和感があったが、このようなものがなければ、古代にここに5000人が駐屯したということは、想像も出来ないだろう。 | 展望台に、王維の詩碑があった。ガイドが中国語で吟じてくれた。 |
この漢詩は、高校の国語の時間に、先生の指導で全員が吟じた。 高校の卒業式の後で、就職で地方へ行く友人のために詠ったので、思い出深い。 |
A | ||
陽関から玉門関への途中にブドウ園で昼食 | ここのブドウは房が長い |
玉門関 |
玉門関は、陽関と並ぶ西域への関所である。 ここを通ってホータンの玉が運ばれたので玉門関の名があるという。 |
関所の入口を模して作られたもの |
A | ||
取調べを行う砦 南北27m、東西21m、高さ9.7m、2100年前のもの |
砦の内部 |
玉門関から見える川は「疏勒(スーロー)河」であって、「黄河」ではない。下の漢詩の作者王之渙は誤ったらしい。 それにしても、王之渙は素晴らしい詩人である。 笛の音とともに西の果ての情景が浮かんでくる。 |
漢代長城 |
玉門関の近くに、2000年前の秦の始皇帝の時代に作られた「漢代の万里の長城」がある。 明代に作られた石とレンガで築かれた立派な北京の八達嶺の万里の長城と異なり、こののものはいわば土塀である。 |
2000年の風雪で崩れた長城が西の方へ続いている |
A | ||
土と藁を重ねて層にして付き固める 「板築」工法で作ったものだそうだ |
砂漠の星空 |
敦煌のホテルから、昼間通った烽火台のところへ「砂漠の星空」を見に行く。 三脚を持っていなかったので、息を止めて10秒のシャッターを切るのは大変だったが、ロマンティックな思い出になった。 |
A | ||
幽かに見える烽火台 | 北天の 「北斗七星」 |
天頂に輝く 「天の川」 |
中国シルクロードの旅(1)ではいかがでしたか。 中国シルクロードの旅(2)は、ウルムチ、ホータン、カシュガルの旅 中国シルクロードの旅(3)は、カラクリ湖、南疆鉄道、トルファンの旅 です。 引き続き、下の [次へ] をクリックして、中国シルクロードの旅(2)をご覧下さい。 |
|
|
ホームページの中で検索したい |
|
ホームページの中で道に迷ったら |
|
nsdssmhp