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パタゴニアとギアナ高地(1)---- パタゴニアの旅
            ブエノス・アイレス、カラファテ、モレノ氷河、パイネ国立公園、プエルト・ナタレス、
            プンタ・アレーナス、マゼラン海峡、ウシュアイア、ビー
グル水道


 世界には訪ねてみたい国や地方は沢山ある。私にとって、パタゴニアとギアナ高地はその最たるものである。南米は過去2回行ったことがあり、最初の旅はアンデス・ブランカ山群のトレッキングであった。2回目はペルー・ボリビア・アルゼンチン・ブラジル4ヶ国旅行だった。(下線の部分をクリックするとご覧になれます) いずれも大満足の旅だったが、南米南端のパタゴニアと北部のギアナ高地が気残りだった。うまい具合にパタゴニアとギアナ高地を訪ねる旅が、ユーラシア旅行社にあることが分り、妻と2人で申し込んだ。

 パタゴニアは、アルゼンチンとチリに跨る南緯40度以南の地方である。湖に崩落するペリト・モレノ氷河や、花崗岩の塔であるパイネの山々、ナンキョクブナが優占する植生、マゼラン海峡・ビークル水道など探検史を彩る世界がある。

 ギアナ高地は、ベネズエラの東部、ガイアナとブラジルとの三国国境に近い奥地である。コナン・ドイルの小説 "The Lost World"(失われた世界)の舞台となった場所でもある。標高2000m、比高1000mを越すテーブルマウンテンは20億年前の地層といわれ、世界一の落差979mを誇るエンジェルフォールがあることで知られている。

今回の旅は、正に自然の驚異を訪ねる旅である。

パタゴニアとギアナ高地(1)は、パタゴニア
の旅
パタゴニアとギアナ高地(2)は、ギアナ高地の旅
である。 合せてご覧下さい。          (2011年2月)
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アルヘンティーノ湖に崩落するペリト・モレノ氷河
 
 
 
 
 
 

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       joy◎nishida-s.com
ただし、◎を@に変更して送信願います。 アドレスの自動収集を防止しております。

現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。原則的には「ヴィ」を用いましたが、
慣用的には「ビ
も用いました。

国  名 アルゼンチン共和国 チリ共和国 ベネズエラ・ボリバル共和国
(1999年に「ベネズエラ共和国」から改称)
首  都 ブエノスアイレス サンティアゴ カラカス
政  治 共和制
1816年7月9日スペインより独立
1945年10月24日国連加盟
共和制
1811年9月18日スペインより独立
1945年10月24日国連加盟
共和制
1811年7月5日スペインより独立
1945年11月15日国連加盟
面  積 276万6890km(日本の7.3倍) 75万6950km(日本の2.0倍) 91万2050km(日本の2.4倍)
人  口 4030万人(日本の1/3.2)
ヨーロッパ系97%,
メスティソ(白人とインディオの混血)など3%
1628万人(日本の1/7.8
メスティソ(白人とインディオの混血)65%、
ヨーロッパ系30%、,インディオ5%
2602万人(日本の1/4.9
メスティソ(白人・インディオの混血)69%、ヨーロッパ系20%、アフリカ系9%、インディオ2%
言  語 スペイン語(公用語) スペイン語(公用語) スペイン語(公用語)
宗  教 カトリック92%,プロテスタント2%,ユダヤ教2% カトリック89%,プロテスタント11% カトリック96%,プロテスタント2%
産  業 国土の70%が平原で世界有数の農業国である。小麦、トウモロコシ、ブドウが栽培され、5000万頭を越える牛とヒツジが飼育されている。穀物、食肉、羊毛は主要な輸出品。漁業は国内需要が少なく盛んではなかったが、世界的な魚介需要の高まりを受け、タラやアンチョビーの漁獲が増加している。

地下資源は近年になって開発が進められ、石油と天然ガスは国内需要を満たしている。工業は就業人口の4分の1ほどに成長し、食品加工、繊維、鉄鋼、化学などがある。

80年代に発生した驚異的なインフレは、90年代に入り自由化と民営化により克服されたが、世界的な金融危機の影響もあり対外債務が膨張し景気が低迷した。2002年には債務不履行と銀行の預金引き出し規制に追い込まれたため、変動相場制へ移行してペソ安へ誘導した。これにより輸出を拡大、景気悪化を食い止めたが、対外債務問題は解決していない。
農業に適した土地は少なく、総生産に占める比率は1割に満たない。中央平原で小麦、テンサイ、ブドウ、ジャガイモなどが栽培され、南部で牧羊がおこなわれる。ワイン、果物、羊毛が輸出される。ほかに南部の木材とアンチョビー漁による魚粉も重要な輸出品。

最大の産業は鉱業で、銅、硝石、鉄鉱石、モリブデンなどを産出する。銅の産出量は世界一である。石油と天然ガスも産出する。工業は食品、金属、パルプなど一次産品の加工が中心であるが、電機や自動車の組み立てなどもおこなわれる。
農業ではサトウキビ、綿花、コーヒーなどの栽培と、牛の放牧がおこなわれる。国土は広大であるが熱帯雨林はあまり開発されておらず規模は大きくない。このため穀物など食料の一部を輸入している。漁業が盛んで、エビ、マグロなどが水揚げされる。

地下資源では石油と天然ガスが豊富である。中南米最大の産油国で「石油輸出国機構(OPEC)」に加盟、輸出の8割を石油と石油製品が占める。76年石油産業は国有化された。ほかに鉄、ボーキサイト、金などの鉱物資源を産する。

工業は石油精製や金属が中心であるが、石油価格に翻弄される経済体質を改めるため、そのほかの製造業も振興されている。
1人当
GNI
5150米ドル/年 日本の13%
(2006年)
6980米ドル/年 日本の18%
(2006年)
6070米ドル/年 日本の16%
(2006年)

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南米の中のパタゴニア地方
大雑把に言えば、南緯40度以南のチリとアルゼンチン
パタゴニア地方の地図
パタゴニア地方をコロラド川以南とする人もいる


今回旅をした南部パタゴニア
 ━━━━ は主な訪問地




1日目
(2月2日)
成田アトランタ(機中泊)

成田を15:25発のデルタ航空DL280便(ボーイング777機)で出発し、米国アトランタに向かった。

ボーイング777機  BlueSkyBlogより転載

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米国カリフォルニア州とネバダ州に跨るデスバレーの上空を飛んだ。
客室のディスプレイに航路が示された。



2日目
(2月3日)
ブエノス・アイレスカラファテ(泊)

機中泊から明けると、ブエノス・アイレスに到着。航空機の乗り継ぎの間にブエノス・アイレス市内観光をして、再び航空機でパタゴニアの玄関カラファテに到着。

ブエノス・アイレスへ

アトランタで19:55発のデルタ航空DL101便(ボーイング767機)に乗り換えて、アルゼンチンのブエノス・アイレスに翌日の7:39に到着した。

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ボリビアからアルゼンチンに入って間もなく夜が明けた。

成田空港から30時間の長旅にも拘わらず、
ブエノス・アイレス空港に到着すると、早速観光バスで市内観光に出かけた。



モンセラート地区

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7月9日大通りに立つオベリスコは1936年に建てられた。1816年7月9日はアルゼンティンが独立した日。        コロン劇場の裏側、表側は工事中
ミラノのスカラ座、パリのオペラ座と合わせて世界三大劇場といわれる。1889年に着工し、11年後の1908年に完成した。 
            酔っ払いの木
名前の由来は、水分をたっぷりと蓄えた幹の形状がお酒の容器に似ていることだという。
 

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カテドラル・メトロポリターナ 1827年に完成したネオ・クラシック様式の大聖堂
異様な色調は、私が撮影の際に露光を間違えて、修正に苦労したため。
大聖堂の正面右側に燃える火は、
完成当時から絶えることなく燃え続けている

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大聖堂の内部は、厳かな雰囲気 マリア像 ステンドグラスが美しい

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斜めの通りからも見えるオベリスコ
高さ72mは、ペリト・モレノ氷河の先端部の高さに匹敵する。
 
 
ブエノスアイレス地下鉄は1913年にスペイン語圏初の地下鉄として開通し、日本最古の地下鉄銀座線建設のモデルにもなった。まだ木造車も使われているが、残念ながらこれは違う。現在は日本、ドイツなどの中古車も走っているという。

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  1810年5月25日の革命に因む5月広場に建つ大統領府
ピンク色に塗られていることから、Casa Rosada(ピンクの家)とも呼ばれる。 米国のWhite Houseと対比される? 手前のモニュメントは5月革命の翌年に建てられた「5月の塔」
ブエノス・アイレス市庁舎
 
 
 



ポカ地区・カミニート

ポカ地区は現在の北港が出来るまで、アルゼンチン随一の港だった。河口という意味の町ラ・ポカには労働者や船乗りが集まった。そんな男たちを相手にする安酒場が密集していて、官能的なタンゴはここで生まれたという。カラフルに塗られた家が並ぶカミニート(小径)は、かえって物悲しい。

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カミニートも4年前に来た時よりも小奇麗になった ほんの2、3分で通り抜けるられる短い通り


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最近はカミニートの裏通りに、喫茶店や
土産物店が出来て人気だという
 
サッカーのマラドーナ、大統領夫人エピータ、歌手カルロスの人形を飾った土産物屋 寂れた港
今は、北港にすっかりとってかわられた。
 



ブエノス・アイレスからカラファテへ

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ブエノス・アイレス7:50発のアルゼンチン航空AR1872便(ボーイング737)で、カラファテに向かう ブエノス・アイレスの人口は300万人、
首都圏人口は1000万人で南米一
ラ・プラタ川の河口の幅は275kmで世界一だ
というが、河口というよりも入り江のようなもの

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3時間余りのフライトでカラファテに着く
ここが「地の果て」カラファテか!
空港から氷河で削られた地形と湖が見えたが、残念ながら雲に遮られてフィッツロイ山は見えなかった カラファテ空港からチャータ車でホテルに向かう
 



カラファテのホテルへ

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ホテルへの途中、車窓からニメス湖のフラミンゴを見る 草を食む馬たち

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ニメス湖畔高台のホテル「メウレン」に到着 ホテルの客室



3日目
(2月4日)
カラファテ(滞在)

この日はカラファテに滞在して、ロス・グラシアレス国立公園の中のペリト・モレノ氷河を存分に観察した

ホテル付近の朝の散歩

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朝5:30頃のカラファテの町と裏山、ホテルの窓から

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朝食前にホテルからニメス湖畔の管理事務所まで散歩する フラミンゴ

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Mulinum spinosum 姑の座布団

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Senecio patagonicus

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植物「カラファテ」Berberis microphyllaとその実

A A この地でもっとも有名な植物、メギ科のカラファテ(Calafate: Berberis buxifolia)。

鋭い棘があり、家畜が食べないため放牧地でも藪を作っている。夏の終り(1〜2月)に濃い青色の実が付く。摘まんで口に入れると甘酸っぱい味がする。ジャムに加工して販売されている。

「カラファテの実を食べた旅人は、なぜか必ずこの地に帰ってくる」という言い伝えがある。
カラファテの花(植物図鑑より) 購入したカラファテの実のジャム



ロス・グラシアレス国立公園

ホテルを出発して車でロス・グラシアレス国立公園に向かう。

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カラファテの町には自然を愛する人達の住まいや別荘が多い  アルゼンチンの大統領の別荘は、上の写真付近という
現在のアルゼンチンの大統領クリスティナ・フェルナンデス・デ・キルチネルは、選挙で選出された同国初の女性大統領。女性大統領としては1974年、当時のフアン・ペロン大統領の死去に伴い、妻のイサベル副大統領が昇格、世界初の女性大統領となっている。

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ニメス湖畔に放牧された馬 フラミンゴの飛び立ち クロクビハクチョウ



ペリト・モレノ氷河(岸から)

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ロス・グラシアレス国立公園のゲート はるか彼方にペトリ・モレノ氷河が見える

待ち切れずに、ナンキョクブナ林越しにペトリ・モレノ氷河の写真を撮る

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これがナンキョクブナ(南極ブナ)、パタゴニアの優占種である

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ペトリ・モレノ氷河観察注意事項 木製の階段を下りて、氷河に近づく

ペリト・モレノ氷河展望台から見る氷河末端の全景(4枚パノラマ写真)
氷河は全長35km、先端部の幅は5km、ここからは全長35kmのうち14kmが見渡せる。
氷河が伸びて展望台のある岸に衝突することが数年に一度あるという。植生のないところがそれを物語っている。

氷河末端の大崩落は運がよくないと見れないが、このような小崩落は1時間くらい毎に生じる。
小崩落といっても高さ60mほどの氷壁が大音響とともに崩れるので見事である。

崩れた氷河は流氷となって湖を漂流する



ペリト・モレノ氷河(船から)

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遊覧船に乗って湖からペリト・モレノ氷河を眺める アルゼンチン国旗

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氷河展望台のある岸の地層は、傾斜した古い堆積岩だろうか。

氷河に近づく遊覧船

氷河に近づく遊覧船(拡大)

上流から流れてきた氷河は末端に近付くと、上流と下流との温度差と、氷河の両岸の幅の変化、
氷河の中央と両岸での流れの速さの差などのために、無数のクレパスを生じる



ペリト・モレノ氷河(再び岸から)

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カッコいい自然保護官(レンジャー) レストランで昼食

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展望台で、午後の崩落を待つ 恥ずかしながら記念写真

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展望台下の傾斜した堆積岩の地層

上の写真をクリックして、ペリト・モレノ氷河の動画をご覧下さい



ペリト・モレノ氷河について
ペリト・モレノ氷河を Google Earth で鳥瞰的に見る



ペリト・モレノ氷河は、アルゼンチンのロス・グラシアレス国立公園の南部にあり、ペリト・モレノ氷河展望台付近でリコ水道と合流し、ロス・テンパノス水道、アルヘンティーノ湖、サンタ・クルース川を経て、大西洋に注いでいる。

氷河の全長は30kmで、250km2の氷を有している。ペリト・モレノ氷河の終端部は幅5kmで、水面からの平均の高さは55〜75m、氷河の進む速度は一日あたり約2mである。

ペリト・モレノ氷河の上部は氷原になっていて高度2000m以上、末端の高度は175m、平衡高度は1150mといわれている。平衡高度より上部は氷河の涵養域、平衡高度より下部は氷河の消耗域といわれる。

氷河の生成と消耗の割合がほぼ同じため、若干の変動を除けば氷河の終端は前進も後退もしていないことになる。若干の変動といえば、氷河の末端が伸びて展望台の下に達すること(ダムアップ)が数年に1度生じる。YouTubeに掲載された2004年のダムアップの動画を右中に転載する。
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ペリト・モレノ氷河・アルヘンティーノ湖周辺の地図
















ダム・アップが生じると、リコ水道とロス・テンパノス水道の間が封鎖され、リコ水道の水位が20mほど上昇する。今回訪問したときはダムアップを生じていないので、リコ水道の水位は低く、右下の写真のリコ水道の岸(Aの部分)に植生がないことが認められる。

右下の写真のBの部分には多分標高差10〜20mの幅で植生がない。これは、Aの部分がリコ水道の水位の減少を示しているのに対してり、Bの部分は氷河の厚さが減少したことを示している。文献(安仁屋正武著 パタゴニア 古今書院)によると、B付近と思われる植生線の炭素14による年代測定が行われ、12世紀頃という数字が得られている。

ペリト・モレノ氷河の末端が大崩落する写真を、地球温暖化の象徴のように報じられているが、大崩落は地球温暖化とは直接関係はない。むしろ氷河の涵養域に降雪が多い(年間降水量は西側で7400mm、東側で6400mmという推定もある)ため氷河が成長し、末端が押し出され崩壊していると考えるべきである。右下の写真で氷河の側面Bに植生線が見られることは、氷河の厚さの減少を示しているが、植生線が12世紀頃のものということから、近年の地球温暖化の証拠とはいえないであろう。
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2004年に撮影された
ペリト・モレノ氷河のダム・アップ(対岸への接岸)
上の画像をクリックして動画をご覧下さい(YouTubeより)
ペリト・モレノ氷河の右岸(写真の左側)に植生線
(植物の生えている範囲の線)が見られる



植物と鳥

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黄色い新芽 Plantago lanceolata タンポポの仲間

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Tripleurospermum perforatum

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Gaultheria Escallonia rubra Geranium sessiliflorum

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Pernettya mucronata Geum magellanicum

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Embothrium coccineum 鳥の名は? コンドル



カラファテの町

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カラファテのメインストリートには土産物屋、レストランなどが多い なぜだかメインストリートにカジノがある
 



4日目
(2月5日)
カラファテアルゼンチンからチリへパイネ(泊)

今日はカラファテの町を出発し、車でアルゼンチンからチリへの国境を越え、パイネ国立公園に到着する。

アルゼンチンからチリへ

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朝の食事中のグアナコ  グアナコはラクダ科で、アルパカ、リャマと同様に、アンデス原産の動物であるが、
                   乱獲の結果、絶滅が危惧され、アルゼンチンでは貴重な動物として保護されている。
1520年にマゼランがこの付近に住んでいた先住民をみて、パタゴン族と命名した。パタはPata(足)、ゴンはGon(大きい)という意味である。パタゴン族の住む土地ということからパタゴニアという名がついた。ただし、パタゴン族が実際に足が大きかったのではなく、グアナコの毛皮でつくったブーツを履いていたので、大きく見えたというのが有力な説である。

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サンタクルス川は、アルヘンティーノ湖から
流れて出て大西洋に注ぐ
峠から、ついに待望のフィッツロイ山を遠望できた
  

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車窓に見えるプレアンデスの山々 マテ茶を飲む
マテ茶は、南米を原産とするイェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ、成分を浸出した飲料である。ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く、飲むサラダとも言われている。本場には、一組の茶器を使い複数人がマテ茶を回し飲みする習慣があるが、ここでは紙コップで頂いた。

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禿鷹の一種 「カランチョ」 ダチョウのように飛べない鳥 「チョイケ」  馬に追われて走るチョイケ

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すっかり見慣れた羊や牛の放牧地

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   エスペランサという名のレストランで、トイレ休憩
パタゴニアにはESPERANZA(希望)という名の店や地名が多い。地の果てで希望を持ちたいという願望か。
防風林に囲まれた民家
風の強いパタゴニアでは、ポプラの防風林が多い。
 

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羊の毛刈りのための囲い チリ国境にある「ようこそチリへ」の看板

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チリに入国して、昼食 ピスコ・サワー 野菜スープと仔牛のカツレツ(撮り忘れた!)
ピスコは、ペルーのブランデーで、平均アルコール度が42度。ピスコ・サワーは、
 ピスコにレモン果汁、卵白(泡を立てるため)、砂糖を入れたカクテル。



チリのパイネ国立公園

パイネ国立公園に入る手前で、思いがけず地球と生物の自然史を勉強する羽目になった。

サルミエント湖は長さ22kmの細長い湖、そこに学術解説のパネルが3箇所もあった。上はその1つ。
サルミエント湖の湖畔には、ストロマトライト*という白い物が付いた岩があるという。

*ストロマトライトは、シアノバクテリア(「藍藻」はこれが群をなしたもの)の死骸と泥粒などで作られた層状の岩石のことである。化石となったストロマトライトは世界各地で発見されるが、現生のものはオーストラリアなど、ごくわずかな水域のみで発見される。サルミエント湖のものは1万年前の最終氷期に作られたというから、現生ではないだろう。

シアノバクテリアは、身体を構成する細胞の中に細胞核を持たない原核生物で、真正細菌の一種である。生物の進化の歴史の中で初めて、酸素の発生を伴う光合成の能力を獲得した生物である。この地球上に酸素が豊富にあるのはシアノバクテリアのお蔭であるということができる。
10数億年前にシアノバクテリアが真核生物(細胞核をを有する生物)である植物の細胞に共生したことが葉緑体の起源であると考えられている。

サルミエント湖から少し南下したところにあるアマルガ湖は、トーレス・デル・パイネ(パイネの塔)が見える景色のいい所。ここの湖岸にも白いミネラルがあり、グアナコが食べにくるという。これもサルミエント湖と同様、ストロマトライトである。

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難しい学術解説パネルを見ているうちに、
チリのパイネ国立公園の入り口に来た
グアナコは、1匹のオスと10匹ほどのメスがハーレムを作るという ここにもチョイケが・・・
 

ノルディンフェールド湖で写真ストップ  天候も回復してパイネの山が美しい

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1985年の山火事の跡 キャンプ場を俯瞰して通過

ホテル「カバーニャス・デル・パイネ」に着く



5日目
(2月6日)
パイネプエルト・ナタレス(泊)

今日は、午前中ノルデンフェールド湖をハイキングし、午後グレイ湖のハイキングをした後、プエルト・ナタレスまで行く。

パイネの朝

ホテルの庭から眺める、セラーノ川の向うのパイネの山々の朝焼け

パイネ・グランデ(最高峰は右側の雲の中、3050m)

                          中央遠方はトーレス・デル・パイネ(パイネの塔)
  左はクエルノス・デル・パイネ(パイネの角、2600m)                 右はアルミランテ・ニエト(2640m)

トーレス・デル・パイネ(パイネの塔)をアップで

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右はチリの国旗、左の南十字星の旗は? チョット気になる三角山



ノルデンフェールド湖ハイキング

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朝食を終えて部屋に戻ると、朝焼けは終っていた バスストップから眺めるパイネの山々

パイネ展望台までのトレッキング

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偏形樹は風が強い証拠 植物は背を低くして、丸い姿勢で風を逃がす

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「姑の座布団」とは面白いネーミング
 
刺を生やして動物に食べられないようにするのも
成長が遅い寒冷地の植物の知恵か

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虹が出ていたサルト・グランデの滝

パイネ・グランデで雪崩が・・・

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雪崩を拡大すると雪煙が見える
 
午前中のハイキングの目的地の展望台から、
ノルデンフェールド湖の向うにパイネ・グランデが望めた

ペオエ湖に面したホステリア・ペオエで昼食

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レストランからの眺めは最高 レストランで使われている椅子は、何とナンキョクブナ製



グレイ湖ハイキング

午後はグレイ湖のハイキングに出かけた。

駐車場の近くに凄い褶曲した地層の露頭があった。近づいて見たが途中に棘があり、諦めた。

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人数が6人に制限された吊橋、よく揺れた

ナンキョクブナの森、森林文化の日本人にはホッとする一時である

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太陽に透かすと美しいナンキョクブナの葉
 
付近にナンキョクブナの幼樹を探すと、見つかった。持続可能な森だ。幼樹がない森は次の世代に引き継がれない。

ナンキョクブナの森を抜けると、広い砂浜のようなところに出た。
氷河が後退して残したモレーン(moraine、堆石)だ。

モレーンの向こうには、氷河湖(氷河が後退して残した湖)が、その奥にはグレイ氷河が望めた

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大粒の礫

小粒の礫
氷河から吹き下ろす強い風が、氷山を岸に吹き寄せる。
氷山は水から出ている体積の10倍が水中にあるので、岸に上陸できない。
モレーンの礫は波で洗われて
サイズが分別されている

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モレーンの突端にある岩山の小島まで行く 岩山の地質は海底で堆積した泥が固まった頁岩で、薄く剥がれる

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風の強いパタゴニアは、どこに行っても偏形樹がある トロ湖畔の展望台からパイネの最後の眺めを楽しむ




パイネの地質はどのようにして出来たか

A



@



A



B
パイネの山々はどのようにして出来たのか不思議に思っていたら、グレイ湖の近くに右上のような説明パネルがあった。
説明は小生にとっていささか難しいが、要約すると次のようだ。
  @かつてここは、火成岩(左)と堆積岩(右)で覆われていた。
  A1,300万年前に堆積岩の間にマグマが貫入した。
  B貫入したマグマはゆっくり冷えて花崗岩になった。そのとき周囲の堆積岩を熱して浸蝕に強い変成岩に変えた。
    その後幾度かの氷河期に氷河で浸蝕されて、現在の形になった。



パイネの植物

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乙女のスリッパCalceolaria uniflora Senecio patagonicus

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Empetrum rubrum Adesmia Cerastium arvense

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Cenecio darwinii 綿毛の中に種子がある Perezia recurvata



6日目
(2月7日)
プエルト・ナタレスペンギンコロニープンタ・アレーナス(泊)

今日は、プエルト・ナタレスのホテルを出発して、チリ国内をプンタ・アレーナスまで一路南下する。途中、オトウェイ湾のペンギンコロニーを見学する。

ホテルを出発して南下

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昨夜泊まったホテルの名は、シスネ・デ・クエー・ネゴロ(CISNE DE CUELLO NEGRO、クロクビハクチョウ)

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ホテルは、ウルティマ・エスペランサ湾(何と「究極の希望の湾」!)に面し、
漁業、牧畜(羊肉加工)、観光(パイネの入口)で生きるマガジャネス州第2の町(人口2万)

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強風にさらされた草原が続く 偏西風が作った偏形樹

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「風のモニュメント」が作られたが
設計不良で動かないとか
 
 
強風地帯だが風力発電所はほとんど見かけないのは、ここには電力の需要が少ないからか。風力発電で水を電気分解して水素を作って液体燃料として運ぶ計画もある。 石油が採れるらしく、それらしい施設が見られた
 
 
 




パタゴニアと風

パタゴニアはなぜ風が強いのか?

風はなぜ起こるのか?

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    地球が静止しているときの風
地球が自転せずに静止していると仮定すると、高気圧から低気圧に向かって気圧傾度力が働くので、風は高気圧から低気圧に向かって吹く。言いかえれば、風は等圧線に直角に吹く。
         コリオリの力
自転している地球の北極から赤道に向けてボールを投げたとすると、慣性系で見るとボールはますぐ飛ぶが、地球上の軌跡は右に曲がる。ボールは進行方向と直角右方向に力を受けて曲がったと考えることができる。この力をコリオリの力という。南極から投げると、逆に進行方向と直角左方向のコリオリの力を受ける。
 地球が自転しているときの北半球の風
自転している地球上では、空気は高気圧から受ける気圧傾度力コリオリの力と地面からの摩擦力を受ける。風は上の図のようにほぼ等高線に沿って吹くことになる。これは、低気圧である台風の風が反時計方向の渦になる理由でもある。南半球ではこれが反対になる。


地球規模の風

実際に吹く風は、たいへん複雑であるが、気候学者は簡単なモデルを作っている。

熱帯収束帯(赤道付近)では太陽からの熱入力が大きいので、大気は熱せられて上空に上り、低気圧が出来る。上空に達した空気は南北に分れて冷やされて中緯度(北緯30°付近と南緯30°付近)に降下して循環することになる(ハドレー循環という)。地上では、上で述べた気圧傾度力とコリオリの力と摩擦力を受けて、北半球では北東の風(偏東風)が、南半球では南東の風(偏東風)が吹く。偏東風は貿易風ともいわれる。

高緯度低圧帯(北緯60°付近と南緯60°付近)では両極に比べて太陽の熱入力が相対的に多いので低気圧が出来、極高圧帯と高緯度低圧帯の間に、北半球では北東の風(極東風)が、南半球では南東の風(極東風)が吹く。これを極循環という。

中緯度高圧帯と高緯度低圧帯の間(北緯30°〜北緯60°および南緯30°〜南緯60°付近)では、ハドレー循環と極循環の影響を受けてフェレル循環を生じ、地上では、北半球では南西の風(偏西風)が、南半球では北西の風(偏西風)が吹く。

以上は最も簡単なモデルであって、実際には地域的な事情が大きく影響する。日本のように大陸の西側では冬期には、大陸に出来た高気圧のために強い偏西風が吹く。
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大まかな大気循環モデル  Wikipediaを改変


パタゴニアはなぜ風が強いのか?

いよいよ「パタゴニアはなぜ風が強いのか?」である。

(1)パタゴニアは南緯40°〜南緯55°に位置し、偏西風が吹く地帯である。特に南部パタゴニアは南緯50°〜南緯55°にあり、高緯度低圧帯に近いため偏西風が強く、低気圧も発生しやすい。「狂う50度、叫ぶ60度」といわれる所以である。

(2)(1)だけの理由では北緯40°〜北緯55°もパタゴニアと同じように強風地帯かという疑問が生じる。確かに北半球でも強風地帯だがパタゴニアほどではない。右の世界地図でパタゴニアと同じ緯度の所を見ると、陸地が非常に少ないことが分る。しかも、この緯度の所では南米大陸の幅が非常に狭い。したがって、地上の障害物で弱められることなく、太平洋から大西洋に強い偏西風が吹きぬける。

以上が、私が考えた「パタゴニアはなぜ風が強いか?」の解答である。
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馬に乗る牧童たち? 日本ではアルゼンチン産の牛肉が多いが、ここはチリ

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羊たち  稜線の偏形樹と草原の縞模様(風の所為か) フラミンゴの行列

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トイレ休憩をした店 店の庭に建てられた都市の方位板、東京はなかった



ペンギンコロニー

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オトウェイ湾のペンギンコロニー(営巣地)の入口 コロニーの案内板

強風下で小さく丸く成長した草木の中の木道を歩く

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Senecio patagonicus

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マゼランペンギンは体長70cmほど、ここには約1万羽が地面に穴を掘って巣を作っている

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海岸で餌を採っている様は壮観である

マゼランペンギンの生活環
春にコロニーにやって来て「つがい」を作る  夏に産卵・抱卵し、雛を育てる  秋にはコロニーを離れる

上の画像をクリックして、動画をご覧下さい



昼食は羊の丸焼き

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1877年に出来た羊の競り市場 市場の隣に、羊の丸焼きを食べさせるレストランがある

厨房を覗くと、我々が注文した羊の丸焼きを作っている

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肉は臭みがなく、皮はパリッとして、なんとも美味! チリの赤ワインが合う デザートはプリン



プンタ・アレ−ナス

プンタ・アレーナスは、スペイン語で「砂の岬」を意味するチリ共和国の南端の町。南部パタゴニア最大の都市で、人口11万。マゼラン海峡に面し、町の繁栄は海峡の発見と共に始まり、1914年のパナマ運河の開通と共に静かな町に戻った。

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アルマス広場に建つマゼランの像
マゼランは自分が発見した海峡を見ている。下の原住民の足に触ると無事この地に帰ることができるという。

クルスの丘から眺めるマゼラン海峡とプンタ・アレ−ナスの町並。
色彩に乏しい北の地ならぬ南の地のためか建物がカラフルである。

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丘の上にある土産物の露店 古びた建物だと思ったら、「売ります」の看板が・・・

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丘の上の方位版には、なぜか HOKKAIDO NISEKO が・・・

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宿泊したホテル ディエゴ・デ・アルマグロ

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海岸通りは、車道と歩道の他に自転車道(しかも2車線)がある。 マゼラン地域博物館は残念ながら、5時で閉館

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プンタ・アレ−ナスのメインストリート スーパーには、寒冷地にもかかわらず、輸入の果物が一杯

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さすがチリは牧畜国だけあって、肉類は豊富で安い。



ホモ・サピエンスはいつ南米南端に辿り着いたのか?
ヒトの祖先がチンパンジーと別れたのはアフリカで600万年前だといわれている。ヒトの祖先は、その後、
 
猿人→原人→旧人→新人(ホモ・サピエンス) という進化を辿った。ホモ・サピエンスは、やはりアフリカで10万年前に誕生し、世界各地に拡散していった。

それでは、南米南端にホモ・サピエンスがいつ、どんな経路で移動したのであろうか? 考古学上の最大の謎は、最近ようやく解き明かされた。地球は10万年〜20万年の周期で「寒冷な氷期」と「温暖な間氷期」を繰り返してきた。1万5000年前は最終氷期が終ろうとする時期であった。まだ寒さは厳しかったので地球上の水は氷河に取られ、海面は今よりも90mも低かった。そのため、ユーラシア大陸と北米大陸の間にあるベーリング海峡は地続きで、ベーリング陸橋といわれる。
モンゴロイドの人達は、ベーリング陸橋を獲物を追いながら歩いて北米大陸に渡ってきた。 (因みに、日本でマンモスの骨が発掘されるのは、この時期に対馬海峡が地続きになっていたからだといわれている)

最終氷期の最盛期には北米北部は全て氷床に覆われていたが、1万5000年前を過ぎるころには、ローレンタイド氷床とコルディレラ氷床の間に無氷回廊ができたという。モンゴロイドの人達はこの回廊を歩いて南下し、中米を経て、南米に達したと考えられる。南米のチリ南部にあるモンテ・ベルデ遺跡の遺物を炭素14法で年代測定した結果、1万2500年前という年代が出ている。

無氷回廊を出たところから南米南端までの1万5000kmを、狩猟生活しながら仮に1000年で移動したとすれば、単純計算で1年間に15kmということになる。
驚くべきホモ・サピエンスの移動能力というべきであろう
                  推定されるホモ・サピエンスの拡散経路  国立科学博物館・NHK 「日本人はるかな旅」展 図録を改変」



7日目
(2月8日)
   プンタ・アレーナスマゼラン海峡フエゴ島
     チリからアルゼンチンへ
ウシュアイア(泊)

今日は、ホテルを発って、マゼラン海峡をフェリーで渡り、フエゴ島に行く。フエゴ島を車で走り、チリからアルゼンチンへ国境を越え、ウシュアイアまで行く。

マゼラン海峡を渡る

マゼラン海峡の夜明け

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朝5時半にホテルを出発して、マゼラン海峡の
一番狭いところ、プンタ・デルガータ港でフェリーを待つ。
しかしどこにもフェリーはいない。
 

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どこからともなくフェリーが現れた。 上陸用舟艇のように、岸壁のないところに接岸(?)する

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8:30に出航
 
 
途中、3頭のイルカがフェリーと並進するのを見る
 
 
8:52にバイア・スール港に到着
これでマゼラン海峡を渡ってフエゴ島に到着したが、ここはフェゴ島のチリ領だ。
フエゴ島は、1520年、大西洋を南下していたマゼランにより発見された。その時、断崖の上にいくつもの火を見つけた。原住民が暖をとるため天然ガスに火をつけていたのだと考えられている。マゼランは、ここをティエラ・デ・フエゴ(火の島)と名付けた。マゼラン海峡、ビーグル水道、大西洋に囲まれた三角形の島の面積は九州より大きく、チリ領とアルゼンチン領がほぼ半々である。

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サン・セバスチャンという国境の町で、チリからアルゼンチンへ なぜか国境に奇妙なキノコが生えていた。(車窓から)

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アルゼンチン側のサン・セバスチャンで、バスとガイドが変わる フエゴ島のこの辺りは石油が出るらしい



ガルバルディ峠を越えてウシュアイアへ

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 東西に117kmとアルゼンチンで一番細長いファニャーノ湖
湖の対岸はチリ。ファニャーノ湖の上をプレートの境界線が通っている。地震が多いが、温泉も出る。だが、規制があって観光用に使えないという。
 
    標高430mのガリバルディ峠(新道)からの眺め
すぐ下にある曲がりくねった道が1990年まで使われた旧道、その向うの南北(前後)に延びる湖がエスコンディド湖、遥か彼方に東西(左右)に延びる湖がファニャーノ湖、である。ファニャーノ湖の上をプレートの境界線が通っている。
フェゴ島は、スコシアプレートと南米プレートの境界線が通っているところである。
島村英二のホームページより   クリックしてご覧になれます


Wikipediaを改変
地球は約30枚のプレートで覆われている。
フエゴ島は、南米プレートとスコシアプレートの境界線が東西に通っている。
日本は、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートが
押し合っている。そのため、日本はプレート境界型の大規模地震が多いといわれている。


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峠を越えてビークル水道側に出るとスキー場がある。世界最南端のスキー場。シーズンが北半球と逆なので、オリンピック選手の練習にも使われるという。 湿地帯には赤いコケが見られる
 
 

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えぼし山(ボテネ山)
氷河で削られた山であるが、元々火山性の山かもしれない
五人姉妹という名の山
 

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峠を下り、ビーグル水道に面したウシュアイアの町に近づく
 
ウシュアイア湾には
大型観光船や南極行きの船も入港している

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オリビエ山と五人姉妹の山の見えるホテル トルケエンに連泊



8日目
(2月9日)
ウシュアイア(滞在)

ウシュアイアは、ブエノス・アイレスから3250km、南極まで1250kmに位置する世界最南端の都市、人口約64,000人。かつて監獄があったが、今は南極に行く船が出るなど観光で賑わっている。

今日は、観光列車「地の果て号」に乗ってティエラ・デ・フエゴ国立公園に行き、公園をハイキングした後、ビーグル水道クルーズを楽しむ。

観光列車「地の果て号」

世界最南端を走る観光列車「地の果て号」には、悲哀の歴史が秘められている。1883年アルゼンチンのロカ大統領は、フランスのニューカレドニア、イギリスのオーストラリアに倣って、フエゴ島に刑務所を作る法律を提出した。

この鉄道は、1910年に囚人によって建設され、ナンキョクブナの木を伐採する囚人(鎖で繋がれていた)と伐採した木材を運んだ。木材は機関車の燃料、刑務所の暖房に使われた。1930年には囚人の数は600人を越えた。囚人列車の元の走行距離は25kmであったが、現在は7kmの部分を整備して観光列車としている。

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「地の果て号」の乗車券
国立公園の入場券 アルゼンチンの国旗をつけた蒸気機関車(現在は石油を使用している)

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軌間(ゲージ)は僅か約60cm
 
窓は開かないし、乗車し終るとデッキには出られない 軌間のわりに内部は広く、3座席と通路がある
 

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途中に1つだけマカレナ駅がある 下車して、小さなマカレナの滝を2か所から見る

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先住民ヤマナ族の復元住居が3つある
 
伐採されたナンキョクブナの森はなかなか回復しない。
囚人たちが切った切株の高さは冬の積雪深を示すという。

途中駅下車を含めて、約1時間で終点のティエラ・デル・フエゴ国立公園に着く



ティエラ・デ・フエゴ国立公園

1960年に国立公園に指定された小さな公園だが、東京都の3分の1の面積がある。ナンキョクブナの仲間のレンガ、ニレ、ギンドが見られる。ノウサギ、ビバー等の小動物も多いという。

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地の果て号の最終駅を降り、
森を抜けると、エンセナーダ湾である
エンセナーダ湾は、ビーグル水道を挟んで対岸はチリ領。
ここには「地の果ての郵便局」がある。写真左下の赤いポストから家族に郵便を出した。

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海岸にビークル水道の地図があったが、円筒形なので撮影し難い。 手前はアルゼンチン領の島、向うはチリ領の山

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ここにもカラファテの木があった。未熟の青い実と熟した黒紫色の実 Chilliotrichium diffusum

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Pernettya mucronata Gunnera magellanica

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ナンキョクブナに寄生するサルオガセ
 
ナンキョクブナに特異的に寄生する
子嚢菌類のCyttaria
紅葉と黄葉
 

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ロカ湖(アシガミ湖)に咲くSenecio smithii

ティエラ・デル・フエゴ国立公園のレストラン前に設けられた地図に日本語を記入した



南極ブナの話
いわゆる南極ブナは、ナンキョクブナ科(Nothofagaceae) ナンキョクブナ属(Nothofagus)の木本で、35種ほどある。アフリカを除く南半球の温帯から熱帯にかけて広く分布する(もちろん南極大陸にはない)。
ブナ科(北半球中心に分布)に似ており、かつてはブナ科に含められたこともある。しかし分子系統的には近縁ながら別系統であるため、APG植物分類体系では別科としている。


なお、この科の由来となったナンキョクブナ属はラテン語で「偽のブナ属(Nothofagus)」という意味である。実は命名者のドイツ人カール・ルートヴィヒ・ブルーメは「南のブナ属」(Notofagus)と命名するつもりだったが、何らかの間違いで発表文献において"t"と"o"の間に"h"が入ってしまい、意味が大きく変わってしまったという。

パタゴニアには、7種のナンキョクブナがあり、ギンド(Guindo:Evergreen beech)などの常緑樹と、レンガ(Lenga:High Deciducous beech)、ニレ(Nire:Low Deciducous beech)などの落葉樹があり、樹齢は2000年のものもあるという。最近の日本国内のブナ林保護運動が、逆にパルプ原料の確保のためにチリの南極ブナ林の伐採・輸入を拡大したとの指摘もある。

以下はナンキョクブナ属だと思うが種が分らない。お分かりの方はお教えて下さい。

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ペリト・モレノ氷河の展望台付近は
ナンキョクブナの純林である
同左の葉
 

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ウシュアイアのレストラン前の大木は1000年物だという
比較のため現地ガイドのアンドレスさんに立ってもらった
同左の葉
 

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グレイ湖へ行く途中のナンキョクブナの純林
 
 
ナンキョクブナに付いたサルオガセ
場所によっては一面立ち枯れになっている。
原因は大気汚染だという研究もある。
大森禎子ほか、「大気汚染による南極ブナ.の立ち枯れ」 地球惑星科学関連学会2001年Cn-005

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ガルバルディ峠からウシュアイアへの下りで、
紅葉したナンキョクブナ?
 
ナンキョクブナに特異的に寄生する子嚢菌類のCyttaria
ウズラの卵大で、ゴルフボールのディンプル状の穴があいている。
若いときは黄色だが枯れると灰色になる。食用になるという。

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A A

                 



ビーバーダムを見た後、ラパタイヤ湾へ

ティエラ・デ・フエゴ国立公園の中にビーバー・ダムがある。ビーバーは水中に巣を作るが、
哺乳類であるから、呼吸をするために時々水中から出なければならないので、
ビーバーダムを作って自分の生活環境を確保している。

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現地に掲示されたビーバー・ダムの説明図に加筆した ビーバーの毛皮で作られた座布団
ビーバーは「自分の生活のために周囲の環境を作り替える、人間以外の唯一の動物」であるとも言われる。水辺の木を噛み倒し、泥や枯枝などとともに材料として、川を横断する形に組み上げ、大規模なダムを作る。ダムによってできた“ダム湖”の中心部にも木を組み上げ、密閉された個室状の巣を作る。巣の床は水面より上にあるが出入り口の通路だけは水面下にあり、天敵の侵入を巧妙に防いでいる。ダムを利用することで、巣のある上流側の水位を一定に保っている。驚くべき知恵ではないか!

1940年代、アルゼンチン政府は、毛皮を目的として 50 頭のアメリカビーバーをフエゴ諸島に移入した。天敵がいない土地に住み着いたビーバーは2008年までにおよそ10万頭に増加し、フエゴ諸島固有の木々を大量に噛み倒し森林破壊の原因となっている。2008年現在、アルゼンチンおよびチリ政府は、フエゴ諸島でのビーバーの大規模な駆除を計画している。   Wikipediaを改変した

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ティエラ・デ・フエゴ国立公園のラパタイヤ湾の案内板
アルゼンチン3079km、アラスカ17,848kmとあるのは
パンアメリカハイウェイのことである
ビーグル水道を背に記念写真
 
現地に掲示されている地図は、アルゼンチンが領有権を主張している南極部分がフエゴ島と合わせて表示されている。
パンアメリカンハイウェイはの整備構想が最初に提唱されたのは、1923年チリのサンティアゴで開催された第5回米州国際会議である。各国の道路整備については、計画・建設から建設費に至るまでアメリカが大幅な支援を行っており、特にその動きが顕著であった1940年代から50年代にかけてその整備が大幅に進んだ。パンアメリカンハイウェイは、そのような名前の1本の道を新たに建設したのではなく、既存の各国の主要幹線道路を「パンアメリカンハイウェイ」として整備・ネットワーク化したといった方がむしろ実態に近い。

一般に本線とされているルートは、アラスカ州フェアバンクス(Fairbanks)を起点に、北米大陸西岸から中西部を通ってメキシコから中米に抜け(一部道路が分断されている地点がある)、南米大陸の西岸を通りチリのサンチアゴから東へとルートを変えてアンデス山脈を横断し、ブエノスアイレス、さらにはそこから南下して大陸南端のフエゴ島(Tierra del Fuego)に至るコースである。   Wikipediaより



ビーグル水道クルーズ

我々のクルーズは上の図のもっとも短い赤いコースであるが、
観察のための停止や上陸を含めて3時間を要した。

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乗船券 乗船したエリザベータ号

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ビークル水道からも五人姉妹の山が見えた。
手前はアルゼンチンの艦船
大型観光船も入港している
 

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島の灯台まで行って、帰りに観察や上陸をする ウミウ(ペンギンに似ているが、飛べる点が異なる)

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オッタリアはアシカ科で、南米にのみ生息している。顔がライオンに似ているので、シーライオンと呼ばれる。
オスは2.8m、300〜400kg、メスは1.2m、150kgで、ハーレムを作る

ウミウの大群

ウミウの大群のクローズアップ

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飛び立つウミウ これはカモメの仲間か

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小島に上陸する ハトのような鳥が生息していた Geranium sessiliflorum

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Chilliotrichium diffusum Senecio patagonicus 花がないので分らない。同一種と思われるが、形態が少し異なる

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クルーズが終って、ウシュアイアの町を散歩する

上の画像をクリックして、クルーズの動画をご覧下さいクリック


 
南米南端航路の探検小史
Wikipedia等を参考にした
南米大陸の南端には、大西洋と太平洋を結ぶいくつかの航路がある。1914年にパナマ運河が開通するまでは、これらの南端航路が利用されていた。航路の探険の歴史を調べてみよう。

今回の旅行では「マゼラン海峡」、「ビーグル水道」を訪ねた。いずれも狭いフィヨルドの中の航路で、海図もない時代に、帆船でよく航海できたものだと驚く。

南米最南端のホーン岬と南極大陸の間のドレーク海峡は今回は行けなかったが、「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度」といわれる世界で最も荒れる海峡の1つ。合わせて、冒険者の人物像に迫ってみたい。
A


マゼラン海峡
マゼラン海峡(スペイン語Estreicho de Magallanesにしがって、最近はマガリャネス海峡と表記されることも多い)は、南米大陸南端とフェゴ島とを隔てる海峡。フェルディナンド・マゼラン(1480?-1521、ポルトガル人)は、1519年9月20日にスペインのサンルーカルを出港し、この海峡を発見して、1522年9月6日に世界一周を果たして帰還した。

もっともマゼラン自身は1521年4月27日にフィリピン諸島でイスラム教徒との戦いで戦死した。出航するときは5隻235名であったが、唯一のビクトリア号といっしょに帰港できた者は僅か18名であった。餓えと病気、相次ぐ難波、3隻が参加する大反乱を克服しての偉業達成である。地図もGPSもない時代に85トンの小さな帆船で、入江の多いフィヨルドの海峡を僅か7日間で通過したことは驚異といえる。

マゼラン海峡は1914年にパナマ運河が開通するまで、大西洋と太平洋を短絡する重要航路であった。なお、天体ファンによく知られる大マゼラン銀河(星雲ともいう)と小マゼラン銀河は、マゼランが航海中に観測したという話から名付けたれた。
A ビクトリア号(85トン)の復元船
フェルナンド・デ・マガリヤネス(マゼラン)


ビーグル水道

ビーグル水道(Beagle Channel)は、南米のフエゴ島と、その南側に位置するナバリノ島、オステ島を隔てる全長約240kmの海峡(水道)。チャールズ・ダーウィンが1831年から1836年にかけて行ったビーグル号による地球一周航海の際の経路であり、同水道の名前は同船に由来する。ビーグル号の最初の航海はストークス船長の指揮下で1826年に出発した。ところがフェゴ島の荒涼とした海域での困難な調査で船長は深い鬱状態になり、1828年に自殺してしまった。2度目の航海はロバート・フィッツロイ船長の指揮下で1831年に出港した。船長という孤独な地位で自殺したストークスのことがあったので、フィッツロイは仲間になってくれる博物学者を探し、チャールズ・ダーウィンが同行することになった。

ダーウィンは1834年に海峡を通過し、太平洋側のガラパゴス諸島には1835年9月15日から10月20日まで滞在した。ここで、ダーウィンはダーウィン・フィンチ(スズメ目の鳥)の多様性から進化論のヒントを得たといわれる。航海は当初は3年の予定であったが5年が経過した。2009年にはダーウィン生誕200周年の催しが世界中で行われた。

話は変わるが、船長のフィッツロイはなかなかの人物であったが、退職後次第に鬱に苦しむようになり、1865年に自殺した。ダーウィンは自伝にフィッツロイの性格をこう述べている。「義務に忠実で、失敗に寛大で、勇敢で、意志が強く、不屈の精神力を持ち、彼の支配下にいる人々全てと熱心な友人でした。・・・重大な欠点もあったが、彼の性格のいくつかは私がこれまでに知っている中で最も立派でした」 

今回の旅行で、フィッツロイの名がついたフィッツロイ山を遠望できた。 

ビーグル号の水彩画
 
 
A チャールズ・ダーウィン
航海から帰国した30歳前後
のときの肖像画
 
ロバート・フィッツロイ
 
 


ドレーク海峡
ドレーク海峡(Drake Passage)は、南米・ホーン岬と南極大陸との間の海峡。世界で最も荒れる海域の1つ。ギネスブックで世界一幅の広い海峡として認定されており、最狭部でも650kmある。この名前は、イギリスの海賊、私掠船船長、海軍提督である探検家のフランシス・ドレークに因んで付けられた。

1577年11月、300トンのゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊で、プリマス港を出航。大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って多大な財宝を奪った。その後、太平洋を横断してインド洋から喜望峰を回ってイギリスに帰国し、マゼランに続く史上2番目の世界一周を達成した。この途中、1578年にホーン岬とドレーク海峡を発見した。

1580年に帰港し、イギリスのエリザベス1世に金銀財宝を献上した。その額は30万ポンドを越え、当時のイングランドの国庫歳入よりも多かったという。この功績により、イギリス海軍の中将に任命されると同時に叙勲(サーの称号)を受けた。

晩年にはスペインとの戦争に従事したが、赤痢により55歳で亡くなった。死ぬ間際には、彼は病床で鎧を着ようとするなど錯乱状態であった。彼は鉛の棺に入れられて、水葬された。現在もダイバーが彼の棺を探しているという。
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A  
 
 
ドレーク海峡
 
 
 
  
フランシス・ドレーク
 
 
 
 



9日目
(2月10日)
ウシュアイアブエノス・アイレス(泊)

ウシュアイアのホテルを発って、空路でブエノス・アイレスへ行く。今日で、南米の旅の前半は終る。

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2泊したウシュアイアのホテル・トルケンから空港に向かう。
 
ウシュアイア空港は木材を使用したユニークな建物
カラファテ空港同様、個人所有の空港だという

A
ウシュアイア発11:55のアルゼンチン航空AR1853便
MD80機でブエノス・アイレスに向かう
ブエノス・アイレスには15:23着
機内の航空路線図には路線はないが、領有権を主張して
いるフォークランド諸島と南米の一部が入っていた。
 

アルゼンチンのホテルの夕食

A A
カプレーゼサラダ チキングリル リンゴのクランブルとアイスクリーム
赤のトマト、白のモッツァレラ、緑のバジリコ……、まさにイタリアの国旗の色を表すカプレーゼは、簡単なオードブルだが、美味でした。




パタゴニア関連年表

西 暦 主な出来事
1520 ポルトガル人のマゼランがパタゴニアに到着  マゼラン海峡発見
1531 スペイン人のフランシスコ・ピサロがインカ帝国征服
1578 英国人のフランシス・ドレークがフエゴ島調査
1816 アルゼンチンがスペインから独立
1818 チリがスペインから独立
1830 英国海軍のビーグル号がフエゴ島に到着、ビーグル水道を発見
1832 ビーグル号二度目の航海  ダーウィンが同乗してビーグル水道全域を調査
1833 英国がフォークランド諸島を占領
1848 チリのプンタ・アレーナス建設
1879 英国人がフォークランドから300匹の羊を移送  パタゴニアに初めて牧羊定着
1897 アルゼンチンのロカ大統領によりウシュアイアの流刑植民開始
1914 パナマ運河開通で南米周りの航路減少
1937 アルゼンチンのロス・グラシアレス国立公園開設
1947 アルゼンチンのペロン大統領ウシュアイアの刑務所閉鎖
1959 チリのパイネ国立公園開設
1960 アルゼンチンのフェゴ島国立公園開設
1982 フォークランド紛争勃発




17日間の南米旅行の前半、パタゴニアの旅は、無事終わった。湖に崩落するペリト・モレノ氷河、パイネの山々を望むハイキング、航海の歴史を偲ばせるマゼラン海峡とビーグル水道、自然史を物語るナンキョクブナの森と古い地層、いずれもここパタゴニアでなければ、体験できないものばかりであった。

さて、これから南米旅行の後半が始まる。ギアナ高地ではどんな世界が待っているだろうか。



パタゴニアとギアナ高地(1)パタゴニアの旅」は、いかがでしたか。
パタゴニアとギアナ高地(2)は、ギアナ高地の旅」です。
    引き続き、
下の [次へ] をクリックして、パタゴニアとギアナ高地(2)をご覧下さい。


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