台湾自然史の旅 --- 高雄、泥火山、月世界、阿里山、嘉義、921地震教育園区、石岡ダム、 台北、龍山寺、花蓮、タロコ峡谷、故宮博物館、陽明山、野柳、淡水など |
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太魯閣渓谷(本流の立霞渓) 太魯閣渓谷は台湾を代表する景勝地で、渓谷一帯の山岳地帯が国家公園に指定されている。険しい断崖は、かつての浅瀬のサンゴ礁が海底で石灰岩となり、さらにマグマの熱を受けて再結晶して大理石となり、それが隆起し地上に現れたものである。本流の立霞渓は不通のために先に進めなかったが、支流の砂卡礑渓を探勝した。 |
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台湾とその周辺国 |
★ 首都(非公式) 日本との時差 : 日本より1時間遅れ |
台湾の概要 |
地域名 | 中華民国(台湾) |
国 旗 | |
首都(非公式) | 台北 |
政 治 | 共和制 中華人民共和国では〈台湾省〉と位置づけているが、1945年より中華民国政府が統治 1971年、「中国」の代表権が中華人民共和国に移されたため国連を脱退 |
面 積 |
3万5980km2 |
人 口 |
2307万人(日本の1/5.6) |
言 語 |
北京語(公用語)、台湾語、高山語 |
宗 教 | 仏教+儒教+道教で93%、キリスト教4.5% |
産 業 |
農耕に適した風土であり、農業は主食である米を中心に、野菜や果物が豊富に栽培される。漁業では遠洋漁業が盛んである。森林は豊富だがコスト高のため林業はあまり盛んではない。地下資源では石炭、大理石が産出される。
工業は、輸出産業として積極的に育成された。外国資本による労働集約型の軽工業に始まり、重化学工業、電機、電子に到るまで急速に発展した。北部の新竹地区はハイテク産業の中心地で、“アジアのシリコンバレー”とよばれている。運輸、通商、観光も盛んである。貿易収支は黒字で世界有数の外貨準備高を誇る。しかし中国本土の成長と工場移転により、産業の空洞化が懸念されている。 |
GDP 2015年 |
5,236億米ドル/年 (日本の13%、世界22位) |
台湾の略歴史年表 |
時代区分 | 西暦 | 台湾の歴史 |
オランダ時代以前 ( ~1624年) |
マレーポリネシア系の先住民が住んでいた。 | |
1544 | ポルトガル船員、台湾を「Ilha Formosa(麗しき島)」と賞賛。 | |
1593 | 豊臣秀吉、台湾に入貢を促す。 | |
オランダ時代 (1624年~1661年) |
1624 | オランダ、台湾を占領。ゼーランジャ城、プロビンシャ城を造る。 オランダの東インド会社が台湾西南部に基地を置き、米とサトウキビの農園で働く労働者を中国で雇用。 |
1626 | スペイン、基隆(キールン)を占領。サン・サルバドル要塞を造る。 | |
1628 | スペイン、淡水(タンスイ)を占領。サン・ドミンゴ要塞を造る。 | |
1642 | オランダ、台湾北部からスペインを追放。 | |
1652 | オランダに抵抗する郭懐一の蜂起。 × | |
鄭氏政権時代 (1661年~1683年) |
1661 | 鄭成功が率いる明朝忠臣の一団が満州族による清朝の侵略から逃れて台湾に避難し、台湾からオランダ軍を駆逐して小王国を樹立する。 |
1683 | 清朝軍が台湾西部と北部の沿岸地域に進攻し、鄭氏政権崩壊。 | |
清国時代 (1684年~1895年) |
1685 | 台湾は清国領となり、福建省台湾府となる。 |
1854 | 米国ペリー艦隊、基隆に寄港。 | |
1871 | 台湾南部に漂着した宮古島の住民54名が当地の「牡丹社」を名乗る原住民に殺害された。(牡丹社事件) | |
1874 | 牡丹社事件の解決のため明治政府が台湾へ出兵。清国は遭難民に対する見舞金を支払い、日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認される形となった。 | |
1885 | 台湾、福建省から独立して台湾省に。 | |
1887 | 基隆 - 台北間に鉄道敷設 | |
1894 | 首府、台南から台北に移る。 | |
日本時代 (1895年~1945年) |
1895 | 日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより、日清講和条約(下関条約、馬関条約ともいう)を締結。清国は日本に台湾を割譲。 |
1895 | 1895年5月25日、大日本帝国への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言されたが、進駐した日本軍の前に間もなく崩壊。 | |
1896 | 台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立。 | |
1930 | 霧社事件(台湾の台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による最大規模の抗日暴動事件)。天皇と国家に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので、太平洋戦争時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多くいたという(皇民化政策)。 | |
1935 | 日本国内で大正デモクラシーが勃興する時期に台湾でも地方自治要求が提出された。しかし、これが実ったのは、1935年に地方選挙制度が施行されたときである。 | |
1940 | 台湾人の改姓名始まる。 | |
1941 | 皇民奉公会発足(日本統治時代の台湾における新体制運動を担う組織として結成された団体で、内地の大政翼賛会に相当する団体)。 | |
1943 | 6年制義務教育実施 | |
1944 | 日本軍による徴兵制度が発足。台湾住民にも衆議院選挙の選挙権が認められた。 | |
中華民国時代 (1945~1996) |
1945 | 第2次世界大戦終了、日本降伏。台湾、中華民国に復帰。 |
1945 | 第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のため、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が台湾に上陸した。南京国民政府は、台湾を中華民国の領土に編入すると同時に、台湾を統治する機関・台湾行政公所を設置した。だが、行政公所の要職は新来の外省人が独占し、さらには公所と政府軍の腐敗が激しかったことから、それまで台湾にいた本省人(台湾人)が公所と政府軍に反発した。 | |
1947 | 不満を抱く民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。蒋介石は事件を徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷いた。二・二八事件以降、国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている。 | |
1948 | 蒋介石、第1期総統に就任。 | |
1949 | 大陸で中華人民共和国成立。 | |
1952 | 日華平和条約調印。条約議定書には「中華民国は日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、日本国が提供すべき役務の利益(賠償)を自発的に放棄する」と記された。 | |
1971 | キッシンジャー訪中。中国、国連に復帰。台湾、国連を脱退。 | |
1972 | 蒋経国、行政院長(首相)に就任。 | |
1972 | 日中国交正常化、日華平和条約廃棄、日台国交断絶。 | |
1978 | 蒋経国、第6期総統に当選。 | |
1979 | 台米国交断絶、中米国交正常化。 | |
1979 | 美麗島事件(高雄事件)。世界人権デーに高雄市で行われた雑誌『美麗島』主催のデモが、警官と衝突し、主催者らが投獄されるなどの言論弾圧に遭った事件。今日の議会制民主主義や台湾本土化へと繋がった。 | |
1986 | 民主進歩党結成。 | |
1987 | 38年間続いた戒厳令解除。 | |
1988 | 蒋経国死去。李登輝が本省人として初めて総統に就任。 | |
1993 | 李登輝国民党政権の「党」「政」「軍」を全面掌握。 | |
中華民国民主化後 (1996~現在) |
1996 | 国民の直接選挙による総統選が実施され、李登輝が当選。国民党の一党独裁体制が消滅した。 |
2000 | 民進党の陳水扁が総統に選出され、台湾史上初の政権交代が実現した。国民党が初めて野党となる。 | |
2003 | WTO加盟 | |
2008 | 馬英九が総統に就任し、国民党が政権を奪還。 | |
2016 | 蔡英文が総統に就任し、民進党が政権を奪還。 |
台湾の旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図 |
青線はGPSによる軌跡) は移動方向 ①②などは宿泊地 |
1日目 (4月18日) |
成田→高雄→高雄のホテル(泊) |
今日は午後に成田を発ち、台湾南部の大都市「高雄」に行くだけである。高雄市は人口277万で、首都の台北よりも多い。台湾で2番目の地下鉄が運行され、新幹線も高雄と台北を結んでいる。 |
成田空港から高雄空港へ |
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成田発・高雄行のチャイナエアライン103便のゲート | 737-800機に搭乗 |
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成田から高雄への飛行時間は3時間だが、 時差が1時間あるので、実飛行時間は4時間 |
機内から夕日が望めた |
高雄の六合夜市 |
台湾に到着した最初の夜は、高雄の六合夜市に出かけた。 |
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地下鉄の 美麗島駅路線図 |
駅舎のデザインは斬新だ。 因みに美麗島は、1544年に来たポルトガル人が、台湾を「Ilha Formosa(麗しき島)」と賞賛したことに由来する |
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有名な六合国際観光夜市に出かける | 数百mに渡る食べ物店の中には、日本語の看板も見られる |
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海産物店が多い。特に「からすみ」は品質がよいらしい。 |
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イカの揚げ物 | 果物屋 |
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屋台では食事をする人も | 履物屋の小母さん |
2日目 (4月19日) |
高雄のホテル→泥火山→月世界→阿里山→嘉義のホテル(泊) |
今日は、高雄のホテルを出発して、烏山泥火山を観察した後、月世界泥岩を見学し、 昼食後阿里山に向かう。阿里山では紅檜の林をハイキングし、阿里山香林神木(胸高周囲12.3m、樹高45m、樹齢約2300年)にお目にかかる。最後は嘉義のホテルに向う。 |
烏山泥火山 |
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高雄のホテルの窓から眺めると、 一般道は空いているようだ |
市街に出ると高架道や高速道が縦横に走っている |
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烏山頂泥火山保護区の標識のところで、車を降り歩き始める |
タケはイネ科タケ亜科 この辺りの竹は「株立ち」である。 バンブーは熱帯地方に育ち、外見がタケに似ているものの、地下茎 が横に這わず、株立ちになるという。これがそうかもしれない。 |
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路傍の草花 |
道端の池で、ガスがぶくぶく出ているところがあった。まるで別府温泉の鬼石坊主地獄のようであるが暖かくはない。 火山ではなく天然ガスである。この先には最高3.5mの三角錐型泥火山があるというが、大したことはあるまいと、ここで引き返した。 |
月世界泥岩 |
高雄の郊外にある「月世界」は、自然の浸食でできた月面を思わせる荒涼とした場所である。台湾南西部に数十kmに渡って高さ50mほどの泥岩の山が続いている。雨水による浸食にかかわらず、山の高さを保っているのはなぜだろうか。 |
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月世界泥岩地質解説中心の駐車場で下車 | ブゲンビリアの咲く散策路を歩く |
月世界泥岩地質解説中心の掲示板の地図 |
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人工湖の向うに泥岩の山が見えてきた。 この辺は結構植生は回復している。 |
雨水に浸食されて山は低くなるはずだが、 隆起速度が速いので高さを保っている。 |
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「泥岩」というが、泥が乾燥して固まった程度で、まだ「岩」になりきっていない。隆起速度が速いので、 海底にたまった泥が水圧で圧縮されて堆積岩にならないうちに隆起して地上に現れたのであろう。 |
車窓から |
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バナナ畑 | サトウキビ畑だろうか |
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稲作水田 | 亜熱帯の台湾でも温室栽培をするのはなぜだろうか |
昼食 |
台湾客家料理の昼食を食べた。客家(ハッカ)料理は、辛みが強い。それは少量のおかずで飯を食えるからだともいう。でも旨かった。 |
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客家(ハッカ)は原則漢民族であり、そのルーツを辿ると古代中国の王族の末裔であることが多い。歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。主な居住地域は、中国広東省・福建省・江西省など山間部である。台湾では北中部を中心に居住し、世界で唯一の客家語専門テレビ局「客家テレビ」があるという。移民の通例として土地の所有が困難であったために流通や商業に従事することが多く、子弟の教育にも熱心なことで知られる。商業の他には教育の高さから教職に就くことが多い。反乱や革命に参加する者も近代以前から多い。そのため、太平天国の指導者である洪秀全や、中国国民党の孫文、中国共産党の鄧小平やシンガポールのリー・クアンユー(李光耀)などが輩出した。台湾総統の李登輝も出自は台湾に移住した客家である。 |
阿里山 |
「阿里山」というのは山の名前ではなく、台湾嘉義県にある尖崙山、祝山、対高岳山、大塔山、塔山など18の高山から構成されたエリアのことをいう。最高峰は大塔山で標高2663m。阿里山は、そのすべてが国家風景区(国定公園)に指定されている。 |
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阿里山中腹の石棹に、なぜかRinnaiの販売店が? ここは阿里山烏龍茶の名産地である。最近突然中国から訪れる観光客が少なくなったので閉店していた。 |
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セブンイレブンは台湾ではどの町にもある | 急勾配の山道をバスは進む |
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阿里山森林鉄道の阿里山駅 阿里山地区は一年を通じて霧がよく現れる。霧のお蔭で茶が育つ。 |
阿里山駅から祝山日の出駅まで森林鉄道が通じているという。 (片道約25分)、我々は鉄道に沿って歩く。 |
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鉄道線路の石垣に咲くラン | 「森之道」を歩く |
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ホテル阿里山賓館と庭に咲く桜 | オオシマザクラ? | ヒザクラ? |
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三代木は三世代の紅檜が折り重なっている不思議な木。 第一代は、樹齢一万年以上、第二代は、約3000年、 第三代は、樹齢90年で、いずれも生きているという。 |
三代木の前で集合写真 |
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義務教育6年制下においては国民学校としていたが、1968年の義務教育9年制の施行に伴い国民小学と改称された。 | 1899年に日本人が阿里山森林を発見して以来、この地域では大量に樹木が伐採された。樹霊塔は、阿里山で大量に伐採された木々の霊を祀るために、日本統治時代の1936年(昭和11年)に作られた。円形の石段は樹木の年輪(6段で3000年)を表しているという。 |
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阿里山香林神木は紅檜で、胸高周囲12.3m、樹高45m、樹齢約2300年である。 2006年に投票で第二代神木に選ばれ、2007年1月1日に今の名前が付けられたという。 |
河合博士の功績 を讃える碑 |
河合博士とは、「阿里山開発の父」といわれいた林学博士・河合鈰太郎(したろう)で、この顕彰碑は1933年に建立された。当時台湾総督府民政長官だった後藤新平の要請で台湾にやって来た彼の任務は阿里山の林業開発。豊富な森林資源の搬出の為に鉄道の建設を提案し、ルート設定から建設の指導に当った。 建設中は自然災害に何度も見舞れ困難が続いたが、1912年に嘉義から途中の二萬平まで、1914年に阿里山まで完成。そうして出来上がったのが現在の阿里山森林鉄道である。 |
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阿里山博物館 | 博物館には開発時代の資料や写真が展示されている |
博物館に展示されている木には、 古い時代から宋代(184年)、元代(104年)、明代(278年)、清代(268年)、合計835年間の年輪が刻まれている |
3日目 (4月20日) |
嘉義のホテル→921地震教育園区→石岡ダム→台北→龍山寺→台北のホテル(泊) |
今日は、嘉儀のホテルを出発して、921大地震の震源地である集集鎮に向かい、震災跡地に建てられた921地震教育園と地震で一部破壊された石岡ダムを訪ねる。最後は首都台北のホテルに向う。 |
集集鎮へ |
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ホテルの窓から見る朝日 台湾は中国大陸に近いためかPM2.5のスモッグが多い。 |
ホテルの窓から往来を見る。日本とは反対の右側通行である。 単車用の駐車スペースも定められ、交通秩序はよさそうである。 |
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中央山脈から西海岸に流れている河川を渡る。台湾の河川は 水量の割に川幅が広い。これは台風時に増水するからだという。 |
昨日買えなかった阿里山烏龍茶の店に立ち寄る |
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日本語で愛嬌をふりまく小母さんの宣伝で、いく袋かのお土産を買う |
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集集鎮の921地震教育園区 |
集集鎮は1999年9月21日の921大地震の震源地である。鎮とは台湾や中国の郷級行政区である。鎮とは都市よりも人口の少ない人口集中区域で、給水、電力供給、下水などの公共インフラや教育、飲食、娯楽、市場などがまとまって集中し、周辺の地域に経済作用を齎す地域をいい、住民の多くは農業以外に従事する。鎮の定義は中国と台湾で異なっている。英語ではtownあるいはsmall
cityと訳される。 921大地震はモーメントマグニチュード7.6(台湾中央気象局マグニチュード7.3)の地震で、台湾大地震、集集大地震などと呼ばれ、台湾では20世紀で一番大きな地震で、死者2,415人の被害があった。震災跡地に教育園区が設けられ、被害のあった石岡ダムには記念公園が作られている。 |
全体配置 |
921地震教育園区のホームページには下記のように述べられている 地震への防災や救助措置を住民の皆様に呼びかけるため、921大地震発生後、政府当局及び学者、専門家の方々は、霧峰郷光復中学校の基地に起きた断層のずれ、校舎の倒壊、河床の隆起など、記念館建設における複数の候補地の中で地震発生直後の様子の保存状態がもっともよいことから、ここを「地震記念博物館」の建設地に決定しました。「地震記念博物館」は、地震が実際発生した場所を保存し、地震の歴史事実を記録し、ならびに民衆や学校などへ生きた地震教育の教材を提供することを目的としています。2001年2月13日に、記念館は「921地震教育園」と名称を改め、その記念性や教育上の意義を顕著にしました。 |
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入口で、地質学がご専門の王先生にお会いし、案内して頂く | 教育園には若い生徒たちの見学が多い |
重建(再建)記録館 |
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入口に近いところに大きな地球儀があり、地震帯が赤く点灯している。 |
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断層面の剥ぎ取り模型が展示されている |
断層面の剥ぎ取り模型につけられた説明板 |
断層保存館 |
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光復中学校のトラックの中の2点の測量によれば、垂直方向に2.44m~2.87m、水平方向に3.36m~2.67m移動した。 |
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上下方向の変化を実感できように工夫された展示がある |
台湾島は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの衝突でできた。 現在もフィリピン海プレートは平均1年間に7~9cmの割合で北西方向に移動しているという。 |
300万年前から現在までの、2つのプレートの衝突の様子を説明している。押し合っているので、断層はすべて逆断層になっている。 |
2000万年前に火山弧として生まれた古台湾に、300万年前に2つのプレートが衝突し、現在の台湾島ができたことを示す年表 上の画像をクリックすると大きな画像が出ます。拡大してスクロールしてご覧ください。 |
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断層保存館に掲示された写真(1) 茶畑に生じた横ずれ断層 |
断層保存館に掲示された写真(2) 大甲渓に架かる破壊された埤豊橋とその上流にできた瀧。 この滝は、15年後には300mも上流に後退したという。 ずーっと下にある石岡ダム周辺の衛星写真でお確かめ下さい。 |
毀損教室展示区 |
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毀損教室の一部を補強して保存し、見学できるようにしている。 毀損教室のほかに映像館、地震工学教育館、防災教育館などがあるが見学しなかった。 |
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よく分らぬが、短柱現象とは次のことを言っているようだ。 教室の窓は採光と換気のために廊下に沿って上部に設けられるので、腰壁の分だけ柱が短くなっている。 このため柱の水平方向の変形に対する耐力が低下している。短柱現象を避けるには柱と腰壁の間に 可動のジョイントをつければよいといっている。 |
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マツのような木は、モクマオウか | 黄鐘花(別名金鐘花) | ? |
921地震教育園区の近くを流れる乾渓の川岸に現れた断層跡 写真の左部分にある斜めの線かもしれないが、よく分らない |
地震教育園および石岡ダムの周辺地図 |
ここで、地理的な関係を整理しておこう。 今まで訪問した場所は、台中市の南部にある 921地震教育園区 これから訪問する場所は、台中市の北部にある 石岡ダム 2つの場所は、直線距離で約27km離れているが、いずれも921地震の被害地である。 |
台中市周辺地図 (北に石岡ダム、南に921地震教育園区が含まれる) |
921地震教育園区の衛星写真 |
石岡ダム周辺の衛星写真 |
1999年9月の集集地震のときにできた埤豊橋の上流側の滝は、2016年の衛星写真では消滅している。驚くべきことに300mほど上流に後退した。 |
石岡ダム |
石岡ダムは921地震で右岸の一部が壊れたが、奇跡的に全体の破壊を免れた。 ダムサイトと上流右岸にある記念公園を見学した。 石岡ダムの諸元は次の通り: 完成年 1977年 ダムタイプ 重力式コンクリート 機能 灌漑・給水 堤高/堤頂長/堤体積 25m/357m/14万m3 満水位有効容量 113万m3 |
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ダムサイトに設けられた可愛いモニュメント、壩はダムという意味 | ダムの下流側、ダムの上は歩ける |
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ダムの上の通路から下流を覗くと、右岸に沿って魚道が見える |
ダムの向う岸(右岸)まで行くと、地震で破壊された様子が分る。 破壊されたのが右岸付近だけであったので、 奇跡的にダム全体の破壊を免れた。 |
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ダムの向う岸(左岸)に地震記念公園がある | 公園の上流側は川幅が広く、貯水池になっている。断層は川に沿って走った。 |
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地震の発生は、民国紀元88年(西暦1999年) 9月21日1時47分12秒 |
モニュメントの両側に地震の時刻、 場所、規模等が記されている |
震源地は、東経120.78度、北緯23.85度、 マグニチュード7.3、深さ8.0km |
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ダムの袂に、針葉樹が植えられていた。木の名は? |
大甲渓から石岡ダムを眺める |
石岡ダムから直線距離で約1km下流の大甲渓に架かる埤豊橋付近から、 石岡ダムをもう一度眺めた。これでやっと、石岡ダム、大甲渓、埤豊橋の 位置関係が把握できた。 |
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石岡ダムと埤豊橋がかかっている川は 大甲渓 |
埤豊橋 |
埤豊橋は地震の1年後に修復竣工した |
大甲渓から埤豊橋(左)と石岡ダム(右)を望む5枚パノラマ写真 |
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龍山寺 |
龍山寺は台湾各地に存在するが、台北市万華区にあるものが有名。この寺の本尊は観世音菩薩であるが、現在では道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽)、媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上に及ぶ。人々は様々な神が祀られた7つの香炉を順に廻りながら、それぞれの神に参拝していた。 |
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龍山寺の外門を入る | さらに中門を入る |
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中門を入ると庭があり、中央に香炉が置かれている。 この香炉は4人のオランダ人が支えているデザイン。 350年ほど前に台湾からオランダ人を追放した名残りか。 |
龍山寺のご本尊は 観世音菩薩だが・・・ |
三国志で知られる関羽が 祀られた関帝廟の人気が高い |
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龍山寺のお堂の屋根の装飾は素晴らしく、見飽きない |
台北を車窓から |
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高層ビルの名は台北101 | 日本企業の広告も目立つ |
台北101は高さ509.2mで、地上101階、地下5階からなり、名前はこれに由来する。 7年間の工期を経て、2004年に世界一の超高層建築物として竣工した。 設計は李祖原建築事務所、施工は熊谷組を中心としたJVにより行われた。 総工費は 約600億元(現在のレートで約2300億円) |
夕食 |
今回の旅行で初めての北京ダックが出た。 大満足! |
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4日目 (4月21日) |
台北のホテル→台北駅→花蓮駅→タロコ渓谷→花蓮の大理石工場→台北のホテル(泊) |
今日は、台北のホテルを出発して、台鉄の特急列車で台北駅から花蓮駅へ。花蓮からバスで台湾を代表する景勝地「太魯閣渓谷」を探勝する予定であったが、東西横貫公路が不通のために一部の探勝にとどまった。それでも台湾を巡る大地の営みに驚嘆した一日であった。 |
台中のホテル |
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3連泊した台北のホテル洛碁松江大飯店は 台北駅と台北空港に近い便利な場所だ |
客室は広くはないが清楚である |
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ホテルの外観 | ホテルの前にトヨタのLEXUSの販売店 | 近くにある日本統治時代のビール工場、今はレストラン |
台北駅から花蓮駅へ |
台湾国鉄(台鉄)の台北駅(台北車站)は、駅ビルにある。 在来線と新幹線のいずれも地下のプラットフォーム(月台)から発着する。 |
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東武鉄道、東武日光線、JR北海道は台鉄と提携しているらしく、共同のポスターを掲示していた |
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台北→花蓮の在来線自強号(特急)乗車券 | 台東行の自強号に花蓮まで乗車した |
自強号とは、台湾の台湾鉄路管理局が運行する列車種別の一つ。日本の鉄道では特急に相当する。自強とは、1971年に台湾の中華民国国民政府が国際連合を離脱した際のスローガンである、莊敬自強 處變不驚(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)に由来する。 |
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列車は台北市を抜けると、いくつかの川を渡り、太平洋岸に出る。 |
やがて進行方向の左手に火山島である亀山島が見える。太平洋上に浮かぶ姿が亀に似ていることより命名された。島の大きさは東西約3.1km、南北約1.7km、面積は2.841km2、最後に噴火したのは約7000年前。 |
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花蓮の手前40kmのところにある清水断崖 標高2407mの清水山から水平距離僅か4kmで海に切れ落ちる世界一の絶壁。 これはユーラシアプレートとフィリピン海プレートの衝突による世界最速の隆起(10mm/年)のためといわれている |
清水断崖 列車からは撮影できないので、NHKBS3 グレートネイチャー「美麗島台湾 世界最速の大隆起!」から引用した |
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清水断崖が過ぎた頃、右手に石灰岩の山が見えた。やがて予想どおりセメント工場が現れた。 |
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台湾在来線の自強号の車両は、日本の在来線の特急と非常に似ている。ただしトイレは洋式でない。 |
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花蓮駅に着き、出口のある1月台(1番ホーム)に移動する。台鉄の台東線は開通90周年だという。1926年開通ということになる。 |
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花蓮駅前 ヤシが実をつけており南国情緒が漂う |
太魯閣(タロコ)渓谷 |
太魯閣渓谷は台湾を代表する景勝地で、渓谷一帯の山岳地帯が国家公園に指定されている。険しい断崖は、かつての浅瀬のサンゴ礁が海底で石灰岩となり、さらにマグマの熱を受けて再結晶して大理石となり、それが隆起し地上に現れたものである。この渓谷は、かつて日本統治時代に原住民討伐のための計画に基づいて作った道路で、これをベースに、後に蒋介石が完成した東西横貫公路の出発点となっている。 |
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東西横貫公路入口の標識 | 太魯閣の入口付近の地図 ━ ━ ━ は、徒歩またはバスで通過した部分 |
東西横貫公路は、中横公路とも呼ばれる。台中市の東勢大橋を起点とし、花蓮県の太魯閣大橋に至る、全長約192.78kmの省道である。 この横貫公路は、もともと第5代台湾総督の佐久間左馬太が明治43年(1910年)、原住民討伐のための「理蕃5ヵ年計画」に基づいて作った道路である。この道路をベースに、後に蒋介石が当時溢れていた退役軍人の働き場所として、また中国とのイザ戦争といったときの物資補給路として1956-1960年の4年間、1日6000人を投入して作り直したものである。1960年5月9日に全線開通したが、その後もしばしば土砂崩れで不通になる。今回も先へ進めなかった。 |
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本流の立霞渓、こちらは不通のため立ち入れない | 支流の砂卡礑渓、こちらの左岸(写真の右側)のトレールを歩く |
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大理石でできた門柱から鉄製の階段を降り、赤い橋の下に着く |
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砂卡礑歩道(またの名を發電古道という)を遡行する | 小泉先生が、「大理石だよ」と指差す |
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石灰岩と砂岩の互層 | 石灰岩は変成を受けて大理石になっているもののある |
大理石は、岩石学上は結晶質石灰岩と呼ばれる。大理石という名称は、かつての大理国(現在の中国大理市を中心とする地域)で産出されたことに由来する。花崗岩を御影石と呼ぶのと同類である。石灰岩がマグマの熱を受けて接触変成作用で再結晶したもので、変成岩の一種である。主な構成鉱物は方解石である。 |
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広角と望遠で見る : 渓谷の岩壁からの落石を見ると、巨大な大理石だ |
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広角と望遠で見る : 渓谷の岩壁に浸食でできた大きな穴 |
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何の花? | シダの名は? | シダの名は? |
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長春祠は、東西横貫公路の工事で亡くなった212名の霊を弔うため1958年に建てられた。お参りしたいところだが、不通のため遠望した。 |
長春祠の遥か崖の上にもう1つお堂が見える。禅光寺だろう。 |
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長春祠へのトンネル歩道の入口 | 歩道の中に、工事で亡くなった212名の慰霊碑がある。本当は長春祠まで行きたかった。 |
大理石加工工場 |
東西横貫公路が不通のために太魯閣渓谷探勝の時間が余ったので、花蓮にある大理石加工工場を見学した。工場見学とはいえ、実態は宝石展示販売場である。 |
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工場の庭を飾る黒大理石の地球儀 |
豆狸(まめだぬき、マメダともいう)の像 豆狸は、西日本に伝承されている妖怪 |
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大理石を板状に切り出し、研磨する |
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工場付属の宝石展示販売場だが、内部は撮影禁止 |
吾発見於花蓮站日本的食品 |
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「関東煮」とは「おでん」のこと。台湾は西日本語圏か? | セブンイレブンの「おにぎり」 |
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「おはぎ」か | その名も「どら焼」 | 禄茶羊羹 |
5日目 (4月22日) |
台北のホテル→故宮博物院→陽明山→跳石海岸→野柳→台中のホテル(泊) |
今日は台北のホテルを出発して、まず「故宮博物院」を見学する。「台湾自然史の旅」だからといってもここを見ない手はない。それから台湾では数少ない火山のある「陽明山国家公園」を訪ね、最後に怪石奇岩の宝庫「野柳地質公園」を見学して台北に戻る。 |
故宮博物院 |
台北・故宮博物院は世界五大博物館の一つに数えられている。敷地は12000坪。およそ67万点が収められていて、青銅器や書画、陶磁器、玉器、七宝などの古文物、経典などの図書、及び文献などが台北・故宮博物院のコレクションの根幹となっている。 「故宮博物院」というと、北京にも「故宮博物院」がある。故宮博物院のコレクションはもともと、宋、元、明の歴代王朝が収集継承した文物に清王朝の収集品が加えられたものだが、清は1912年に滅び、代わって成立した中華民国がその宝物を受け継いだ。そして、1925年10月10日には故宮博物院が発足し、紫禁城の内廷が展示場所として公開された。 しかし、日本軍の侵攻が始まり、1933年以降、中華民国政府は故宮文物を逐次疎開させた。第二次世界大戦後の1947年に南京へ集められたのだが、今度は国民党と中国共産党の内戦が始まった。次第に劣勢になった国民党は、文物の台湾移送に踏み切り、精選された文物が1948年12月から翌年1月にかけて、3回に分けて軍艦や商船で台湾へ搬送された。これらは故宮博物院の全コレクションのおよそ四分の一にあたる。残された文物の多くは北京の故宮博物院に戻された。台湾に移された文物のため、1965年、現在地に台北・故宮博物院が建設された。 |
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故宮博物院の外観 このアングルで撮影する機会を逸したので、Websiteから借用 |
故宮博物院のホール 中華民国の国父として尊敬されている孫文の銅像。 額には孫文の自筆で「博愛」と書かれている。 館内は撮影禁止であるが、ここは撮影してもよい。 |
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翠玉白菜 翠玉を虫がとまった白菜の形に彫刻した高さ19cmの美術品。故宮博物院を代表する名品の一つとなっている。(生憎貸出中) |
肉形石 清朝時代に作られたとされる高さ5.7cm豚の角煮を模したとされる彫刻。翠玉白菜とともに代表的名品の一つ。玉髄の素材を赤褐色の染料で染めている。 |
玄宗皇帝玉冊 この玉冊は玄宗皇帝(685年-762年)の封禅の儀式に使われた物である。封禅とは古代皇帝固有の式典制度のことで、皇帝が泰山に祭壇を作り地の神様を祭るという意味である。祈祷文を楷書で玉の上に彫りこみ、その後金の漆が塗りこめられ、一枚一枚金の線でつづられている。 故宮博物院の所蔵名品といえば、翠玉白菜と肉形石が話題になるが、歴史的価値はこちらが別格である。 |
展示品は撮影禁止のため、購入した図録から複写した |
チョット長いですが、孫文なしでは中国近代史は語れませんので、しばらくお付き合い下さい |
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孫文(中国では孫中山の名称が一般的である)は、中国の政治家・革命家。 初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。辛亥革命を起こし、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。 1866年11月12日 、清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれる。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878年、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒する孫文を心配し、1883年中国に戻された。帰国後、イギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通ったときに、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。 1911年10月武昌における兵士たちの反乱が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。孫文が12月に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立するが、路線対立により、広州を追われた。孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。 1923年1月には孫文とソビエト連邦代表の共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言は、コミンテルン、孫文の中国国民党および毛沢東らの中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援のもと、2月、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、連ソ容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。 1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。この頃より孫文はガンに侵されており、1925年3月12日に死去した。孫文没後の国民党は混迷し、蒋介石が権力基盤を拡大する。1927年、蒋介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。 孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなったという。 Wikipediaほかより |
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孫文(1866年 - 1925年) | |||
蒋介石(1887年 - 1975年) | |||
毛沢東(1893年 - 1976年) |
鼎泰豊で小龍包の昼食 |
鼎泰豐は小籠包が看板メニューの点心料理店。1958年に台湾台北市で食用油を取り扱う油問屋として創業した鼎泰豐は、1972年に小籠包を始めとする点心料理の販売を始めた。1993年にはニューヨークタイムズ紙で「世界の人気レストラン10店」の1つにも選ばれ、一躍知名度が上がり、世界的なブランドとなった。日本にもいくつか支店があるが、やっぱり台北の本店で食べたい。 |
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鼎泰豊の前は、名物「小龍包」を食べる人でごった返す | 32人が3つのテーブルに分かれて、名物の小龍包を頂いた |
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A | A | 中国語・英語・韓国語で書かれた小龍包食用指引 |
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陽明山国家公園 |
陽明山地区は日本統治時代からすでに「大屯国立公園」予定地とされていた。当時の範囲は七星山、大屯山地区、観音山等の地が含まれていたが、この計画は第二次世界大戦の勃発で惜しくも実現されなかった。1985年に正式に陽明山国家公園計画の実施が発表された。陽明山国家公園は台北盆地の北縁に位置し、面積約11,338ha、標高は200mから1,120mの範囲となっている。 台湾の最高峰玉山をはじめ中央山脈はプレートの衝突で隆起した山で火山ではないが、陽明山国家公園にはいくつかの火山がある。 |
現地に建てられた詳細な地図 |
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七星主峰(1120m)の麓にある小油坑 | かつては硫黄が採掘された |
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何スミレだろうか | クモは、花の蜜に集まる虫を食べるのだろう |
金山跳石海岸 |
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この先を行くと、石門に台湾の原発がある | 金山跳石海岸の標識があり車を止めた。ここは台湾の北端で、背後の火山の噴出でできたらしい。 | 小泉先生によると、海岸の大きな石は津波石であろうとのこと。 |
台湾には3か所の原子力発電所があり、合計6基が稼働している。台湾の北端にあるのは第1原発(64万kW沸騰水型2基)と第2原発(99万kW沸騰水型2基)である。第2原発は台北市の北23Kmに位置しており大都市に近いことで有名である。第3原発(96万kW加圧水型2基)は台湾の南端にある。 |
歌手テレサ・テンの墓 |
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道中に、歌手テレサ・テンの墓があるとのことで立ち寄った。 |
テレサ・テンは、台湾出身の歌手。台湾のみならず日本、中国、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、北朝鮮等でも絶大な人気を誇り、アジアの歌姫と呼ばれた。彼女は、1953年中華民国(台湾)の雲林県で生まれた。両親は1949年に中国本土での内戦に敗れた蒋介石とともに移住してきた約50万の外省人たちの中の一組だった。父親は元国民党軍(国府軍)の職業軍人。 1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始し、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得してトップ・スターの仲間入りを果たした。1980年代初めには、中華人民共和国でもコピーされた彼女のカセットテープが出回るようになり、人々の心をつかんでいた。やがて彼女は、冗談交じりに「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった。しかしその影響力を嫌がった中国共産党政府は、1983年頃にテレサの歌を放送禁止にした。1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日し紅白に二年連続出場した。1989年5月には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。しかし彼女の願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。 1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。富と名声を得ながらも、晩年は孤独な独身生活を送っていた。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。 墓所は、ここ台北市の北東に位置する金宝山にあり、小さな公園のように整備されている。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず、エンバーミングを施し土葬された。台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの三人だけであるという。2009年中華人民共和国建国60周年を迎えるにあたり、国務院報道主催で「新中国で最も影響力のある文化人物」のネット選出を行った。192人の候補者から、彼女が第1位になった。 |
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この墓所は、台湾の富裕層のためのようで、立派な墓碑や廟を見ることができた |
野柳地質公園 |
野柳地質公園は台湾最北端近くの新北市万里区にあり、野柳風景特定区に指定されている。野柳岬の付け根に位置し、1000万年に及ぶ地殻運動、海蝕、風蝕の影響を受けて、キノコ岩、壺孔、海蝕洞など神業と思われる奇岩が並ぶところである。本来なら世界ジオパークに申請したいところだが国際的に孤立している台湾としては困難だとも聞く。 |
野柳地質公園の入口 |
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まず野柳地質公園のビデオを見る | ユーラシアプレートとフィリピン海プレートの衝突の説明 |
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怪石奇岩 |
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植物 |
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鳥類 |
怪石奇岩ができた理由を説明するパネルがあるが、よく分らない |
無数のキノコ岩のある海岸を、3枚連続パノラマで撮影してみた |
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アイスクリーム岩 | キャンドル岩 | 仙女のサンダル岩 |
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足元の岩は何だろう? | 直径10cmもあるウニの化石 |
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アダン(阿檀)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。亜熱帯から熱帯の海岸近くに生育する。 果実は直径 15-20cm ほどでパイナップルに似た外見であるが、食用にはならない。 葉や幹は利用価値が高く、葉はパナマ帽等の細工物としたり、細く裂いて糸としカゴを編む素材として利用される。 |
台北に戻る |
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高層ビルの立ち並ぶ台北市に戻る | 宮廷のような華やかなインテリアのレストラン金鳳廰で夕食 |
6日目 (4月23日) |
台北のホテル→淡水→国立台湾博物館→羽田 |
この日は、台北のホテルを出発し、台湾最大のマングローブ原生林がある「紅樹林自然保留区」を見学し、淡水河を船で往復し、日本統治時代の立派な建物の国立台湾博物館を見て、台北空港から羽田空港へと帰国の途に就く。 |
淡水河紅樹林自然保留区 |
台北市内を流れる「淡水河」の河口部には、台湾最大のマングローブ原生林が広がっている。その面積は76haに及び、「紅樹林自然保留区」となっている。 |
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専用バスで台鉄の紅樹林駅に行く | 駅の近くの紅樹林(マングローブ)生態教育館へ |
紅樹林生態教育館に掲示された世界のマングローブの分布。この図にはないが、沖縄県と鹿児島県にも自然分布している |
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紅樹林生態教育館の窓から見た淡水河の向うの観音山 | 橋を渡ると「紅樹林生態小径」が始まる |
淡水河紅樹林自然保留区の案内板 |
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淡水河のごく小さい支流の両岸に生えるマングローブ |
ここに生育しているのはメヒルギ 20cmほどの棒状とものは胎生種子と呼ばれる |
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胎生種子は成熟すると沼に落下し繁殖する |
胎生種子が落下し、成木にはガクが残る メヒルギのガクは褐色で、オヒルギのガクは赤い。 |
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ヤナギの仲間 |
ヤナギトラノオのように見えるが、 これはれっきとした木本。 |
アサガオのような花 |
白い花に止る蝶 |
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船で淡水河の対岸へ |
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専用バスに乗って、 台鉄の紅樹林駅の隣の「淡水駅」(淡水線の終点)に行く |
「淡水駅」は淡水河に面する町で、観光地になっている |
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海産物を食べさせる店 | 新鮮な貝類を売る店 | 台湾ではどこでも売っているイカの揚物 |
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淡水河の川岸にマングローブが育っている 川向うの山は観音山 |
ガクが見られないので判別できないが、 こちらはオヒルギかもしれない |
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淡水河の港から観光船に乗る | 船内の表示が漢字なので分り易い |
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対岸でUターンし、淡水の港に戻る | 淡水港から、狭い通りの「淡水老街」を通り抜ける |
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急な階段を上ると、「淡水紅樓中餐廳」に着く |
この建物は、スペインがオランダから奪ったが、アヘン戦争で イギリス商館になったという。今は改装されてレストランに。 |
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レストランの庭から淡水河と観音山の眺めがいい | レストランは、ちょっぴりエキゾチックである |
国立台湾博物館 |
国立台湾博物館という名前と日本統治時代の立派な建物に惹かれて見学したが、所蔵品はあまりなく、がっかり。少数民族の文化などが紹介されていた。 |
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国立台湾博物館の外観 |
博物館のドームと 中華民国(台湾)の国旗「青天白日満地紅旗」(裏返しになっている) |
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台湾の少数民族の服装 | ホールの柱とドームのパノラマ写真 | ドームを真下から見上げる |
台北空港から羽田空港へ |
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台北国際空港 | 搭乗するチャイナエアラインCI-222 Airbus A330-300機 |
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往路は成田から高雄だったが、帰路は台北から羽田へ | 時差を考慮すると、実飛行時間は約3時間、正に隣国であった。 |
日本の隣国の1つ中華民国(台湾)に初めて旅行した。今回の旅は「台湾自然史の旅」と銘打った5泊6日の旅で、名所旧跡の訪問よりも、台湾島がどのようにしてできたか、現在の台湾島の自然がどのような状態であるかを観察するのが目的の旅である。現地ガイドが『台湾は2泊3日、精々3泊4日で訪ねるお客さんが多い中で、皆さんは5泊6日もかけて変なところばかり見る』 といったことを思い出す。 台湾は、1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間日本の統治下にあった。その影響は現在も色濃く残っている。どちらかというと日本人には心地よい感触である。その原因は、日本の統治が未開の地「台湾」を近代化した明治大正の日本の政策によるところが大きい。しかし、太平洋戦争終結に伴う毛沢東らの中華人民共和国の成立、蒋介石らの中華民国政府の台湾への逃避、1971年の中華人民共和国の国連復帰と中華民国の国連脱退の中で、台湾は日本を含め世界から政治的に孤立したが、経済的には日本との関係を深めた歴史があったことも、台湾の良好な対日感情を醸成するのに役立っていることは間違いない。 今回の旅は、自然史の旅と銘打ったが、文化史的にも興味深いものであった。今回の旅を企画された地学勉強仲間の小池忠明さん、台湾の地学に明るい山田さん、いつもご指導いただく小泉先生、921地震教育園区と石岡ダムを案内して下さった王さんに感謝します。また現地ガイドの羅さんには大変お世話になりました。記して謝意を表します。 |
ホームページの中で検索したい |
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ホームページの中で道に迷ったら |
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