韓国南部の古代遺跡(1) 全羅南道・全羅北道南部(羅州、霊岩、扶安、全州、高敞、光州) |
朝鮮半島は我国にとって歴史的つながりの最も深い国の1つであることは言うまでもない。朝鮮半島各地にはいろいろな国の興亡の歴史があり国名も変遷してきたが、半島の南半分はとりわけ我国とのつながりが深かった。ここでは朝鮮半島を指すのに、時として韓国と呼ぶことを了解願いたい。 韓国と我国のつながりを、中学・高校で習った歴史から思い出すと、 @原始の時代に朝鮮半島から日本列島へ人類が移住 A古代の中国の文物は、主として韓国を通じて日本に伝来 日本からも前方後円墳・埴輪などの文化の移出、百済への支援 B秀吉の朝鮮侵略(慶長文禄の役/韓国では壬辰倭寇という) C鎖国していた江戸時代にも続いた朝鮮通信使 D近代における日本統治時代 というところであろうか。 近年における我国と韓国との関係を見ると、造船に始まり、自動車、エレクトロニクスなどの分野で、韓国の産業国際競争力の下に我国が苦戦を強いられている。 古代史に興味を持つ私は、かねてより韓国の古代遺跡を見学したいと思っていたが、幸運にもその機会が訪れた。古代史の専門家と歴史愛好家からなるグループに入れて頂いて、5人で7泊8日のカスタムメイドの旅に出かけたのである。 以下、次の2部に分けて掲載する。 @ 韓国南部の古代遺跡(1) 全羅南道・全羅北道南部 (羅州、霊岩、扶安、全州、高敞、光州) A 韓国南部の古代遺跡(2) 慶尚南道・慶尚北道南部 (高霊、金海、釜山) 順次ご覧下さい。 (2003年10月) |
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光州・月桂洞古墳 | ||
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韓国とその周辺 |
韓国(1)の訪問地(このページ) 韓国(2)の訪問地 |
羅 州 |
宿泊地の全羅南道光州広域市の南に隣接する羅州郡は、羅州市とそれを取り巻く郡部とからなる。郡の中央を流れ木浦市に注ぐ栄山江は韓国四大江の1つで、流域は穀倉地帯である。現在は梨の産地として知られている。 栄山江流域には独特の古墳文化すなわち、百済の文化と異なる「馬韓文化」が栄えたとされている。栄山江を下って木浦から黄海に出て、日本とつながっていたと考えられる。古くは1917年の谷井済一により、近年は国立光州博物館により発掘された。新村里6号墳は、かつては前方後円墳とも推測されたが、発掘の結果否定されたという。しかし9号墳から埴輪が出土しており日本との関係が考えられる。我々は、藩南面 徳山里古墳群と多侍面 伏岩里古墳を見学した。 |
藩南面の遺跡の現地事務所 |
1917年藩南面新村里9号墳から出土した5〜6 世紀の金銅冠(レプリカ、本物はソウルの博物館) |
徳山里古墳群 |
東新大学校文化博物館教授の李先生のご案内で、徳山里古墳群を見学。 |
伏岩里古墳 |
李先生が発掘されたという伏岩里古墳群 アパート型複合古墳。3〜7世紀の400余年間使用された。 |
アパート型複合古墳 羅州市庁文化公報担当室パンフレットより |
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霊 岩 |
全羅南道霊岩郡は栄山江の下流に位置し、4世紀に日本に漢字を伝えた王仁(ワニ)博士の誕生地として知られている。(.王仁博士の墓地は大阪府枚方市にあり、大阪府史跡第13号に指定されている) 我々はここで2箇所の前方後円墳を訪ねた。 |
内洞里古墳群 |
霊岩郡は102基に至る甕棺墓が集中的に分布している地域である。1つの墳墓は複数の甕棺墓と土壙墓からなり、副葬品として玉類、鉄器、土器が出土したという。その中心地の1つである始終面内洞里の双墓を見学した。この地は風水思想で「梅の花の落ちる所」といわれ縁起のよい地とされている。双墓は馬韓時代の支配階級の墓と考えられている。 |
内洞里双墳 左は1号墳、右は2号墳 |
1号墳は長さ56m、韓国では長鼓墳というが前方後円墳ではなさそう | 1号墳から眺める草墳谷古墳 |
チャラボン古墳 |
霊岩郡にあるチャラボンは全長30m程度の小型の前方後円墳である。「チャラボン」は発音を表すハングルのみで、漢字の「亀頭峯」は当て字である。ハングルのみで漢字がないというのは首都の「ソウル」と同じである。1992〜94年に発掘され、馬韓から百済時代(6世紀)の土器、甕、ガラス球、鉄器などが出土したが、私有地のため詳しいことは分らない。今後、市が土地を購入して調査するという。我々は郷土史家の案内で見学した。 |
郷土史家の先生の案内で見学 | 左が後円部、右が前方部というのだが、上空から見ないと分らない。 |
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和 順 |
全羅南道和順郡は羅州郡の東隣で、霊岩郡と一部接する位置にある。 我々は雲住寺と、和順支石墓群を訪ねた。 |
雲 住 寺 |
千仏千塔で知られる雲住寺の仏教遺跡は、和順郡道岩面にある。この地域は無等山と連なった海拔100余mの低山で、2つの尾根と溪谷に100基の石仏と30基の石塔が散らばっていて、まるで石塔と仏像の野外展示場を彷彿させる。千仏千塔を立てようとしたが曉鷄が鳴いたから工事を中断した'という説話が伝えられている。 |
古墳めぐりの毎日の中で、コスモスが咲き乱れる 古刹見学は気分転換になる。 |
:この石塔は方形石塔といわれ、韓国の典型的な石塔形式である。この形式の塔が全部で11基ある。 |
石室の中の2つの石仏は光背でつながっている珍しい形である。 | 韓国の鐘は低く吊る。青銅に金を混ぜるといい音色がするという。 | 山頂に寝姿の石仏がある。男女であるところが微笑ましい。 |
和順 支石墓 |
和順支石墓群は半径5kmの中に50群400余基が密集分布している。100トン以上のものが数十基存在する。和順には卓子式支石墓はないけれども、いくつかの支え石(支石)を地上で組み合わせた地上石槨形、支え石が見えない無支石形などの多様な形式の支石墓が分布しているという。 採石場の下で出土した土器には、前期青銅器時代の物と考えられ紀元前9〜10世紀まで遡れる遺物もあるということから、支石墓の古いものはその頃のものいえるかもしれない。 |
支石墓の分布を示すパネル | 山の上部は採石所 |
重さ280トンもある支石墓 | 支石墓をあしらったゲート越しの夕焼け |
扶 安 |
扶安郡は全羅北道の西海岸側に位置し、山と海に囲まれた美しいところである。特に辺山半島は1988年に国立公園に指定された景勝地である。われわれは亀岩里支石墓と竹幕洞祭祀遺跡を訪ねた。 |
亀岩里 支石墓 |
前日に和順支石墓群を訪ねた者には、ここは可愛い支石墓に見える。現在はこの付近は農地であるが、かつては海岸であった。使われている石材は近くでは産しないから、遠くから船で運ばれたと考えられる。 |
ここの支石墓は覆い石の形から亀甲ドルメンといわれる |
竹幕洞 祭祀遺跡 |
竹幕洞祭祀遺跡は韓国で最初に発掘された祭祀遺跡で、扶安の名勝地
辺山半島の格浦海岸にある。古代には、九州から壱岐、対馬を経て釜山に達し、さらに朝鮮半島を西海岸沿いに黄海を北上し、遼東半島を経由して中国へ行く航路があった。この付近は海流や島の関係で難所であった。現在も豊漁と航海の安全を祈る村祭りがここで行なわれるという。 この遺跡から祭祀に用いられた遺物が大量に出土した。神に奉納した石製模造品(ミニチュア)をはじめとして儀式用の各種土器・武器・馬具などとともに中国製の青磁も出土しており、三国時代の国際交流や古代宗教の様子を偲ばせる重要な遺跡といわれている。 |
この季節、道路の両側はコスモスの花が満開 | 原発核廃棄物処理場の建設に反対する横断幕 |
郷土史家の案内で竹幕洞祭祀遺跡へ | この狭い広場が祭祀場 建物は後世のもの |
祭祀場は絶壁の上、直下は黄海 百済へ向かう日本の舟もここを通ったことだろう |
海に向かって豚の頭が供えられていた | この絶壁を逆に海から眺め、その形から女性を祭ったという |
全 州 |
全羅北道の道庁所在地の全州市は、李氏朝鮮の太祖・李成桂が1393年に国名を朝鮮と改め、翌年都に定めたところである。肥沃な湖南平野の穀倉地帯にあり食文化が花開いた。韓国料理ビビンパプの発祥の地といわれている。 |
全州国立博物館 |
全州国立博物館は、全羅北道の歴史と文化を総合的に展示されており、馬韓や百済時代の出土品も多く展示されている。生憎館内は撮影禁止の上、図録が手に入らなかった。 |
全州国立博物館の正面 |
高 敞 |
高敞支石墓群 |
全羅北道高敞郡は全州市から南西に車で70km程のところで、世界文化遺産に登録された支石墓群があることでも有名である。 支石墓は、巨大な覆い石を支石で支える形の墓で、国際語であるドルメン(dolmen)はフランス・ブルターニュ地方の方言(ブルトン語)である。因みにハングルではコインドルといわれる。高敞郡は東北アジアでドルメンが最も多く密集する地域で、85箇所以上に2000基以上あると考えられている。 支石墓は、縄文時代から弥生時代にかけて朝鮮半島から日本にもたらされ、福岡県西端の前原市・志登支石墓群で見ることができる。日韓交流の歴史の一端として興味深い。 |
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ドルメン案内所に最も近い第3コース このようなコースが6コースもある |
このように支石が低いものは南方系といわれる | 少し高いものは中間系といわれる |
背の高いものは北方系 夕暮れの中で全員で記念写真 |
この北方系ドルメンは古い民家のすぐ裏にある |
採石所へ向かう頃はすっかり日が暮れた | どこでも採石所は山の上にある |
古代人はどのようにしてドルメンを作ったのかを示す想像図(高敞郡世界文化遺産案内資料より) |
世界的に青銅器時代に巨石文化があることは興味深い。このような昔に巨大な支石墓を建造するには、それなりの規模の集団があったと考える必要がある。狩猟生活では大きな集団は考え難いから、農耕生活であったと考える向きもあろう。また、食うや食わずの生活ではこのような大工事をする余裕がないから、かなりの余剰生産力があったと見ることも出来よう。 しかし、これより古い時代に、エジプトでははるかに大規模なピラミッドやオベリスクが作られており、人間の知恵には驚かされる。ところで、高敞に限らず多くの支石墓は山地と平地の境界付近にあり、採石所は山の上部にある。巨大な覆い石はここで岩盤から切り離されて、斜面を滑らせて墓地に運んだのであろう。墓地では上の図のような方法で組み立てたと想像される。土木工学的にはいえば、それほど大規模集団でなくても建造は可能であろうと私は推測する。むしろ長年の間このような墓を作り続けた彼等の精神世界に興味が湧く。 |
光 州 |
全羅南道の道庁所在地である光州広域市は、古くから湖南地方の中心地として栄えてきた。独特の光州の気質についてはコラムで触れよう。我々はここに4泊し、羅州、霊岩、和順、扶安、全州、高敞、光州市内の遺跡や博物館を訪ねた。 |
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新昌洞古墳 |
月桂洞古墳へ行く途中で、新昌洞古墳の所在地を見た。ここは2000年前の遺跡で、生活用品など10万点の出土があった。2010年までに発掘を終了し、ここに博物館を建てる予定という。 |
月桂洞古墳 |
光州広域市光山区にある月桂洞古墳は、5世紀後半から6世紀中葉に作られた前方後円墳である。墳丘をめぐる周溝、後円部と前方部の中間に位置するくびれ部が確認され、確実に前方後円墳とされている。土器、埴輪が出土している。 |
月桂洞1号墳 全長46.5mの前方後円墳 | 特別に開けるもらって、石室の中の石棺を見る。 |
明花洞古墳 |
光州広域市光山区にある明花洞古墳は、墳丘をめぐる周溝、後円部と前方部の中間に位置するくびれ部の墳丘裾に列状に並ぶ埴輪列が確認され、確実に前方後円墳とされている。 |
明花洞古墳は全長33mの前方後円墳といわれているが、竹薮のため確認できない。 | 古墳の頂きから、隣接する民家を眺める。足元には後世の石棺 |
光州民俗博物館 |
韓国では、数千年の間伝承されてきた民俗文化は、近年の急速な産業社会の発展とともに崩壊しつつあるという。ここは、民俗資料の収集・展示のため韓国最大の市立博物館として1987年にオープンした。館内は撮影禁止 |
博物館の表札 | ||
光州民俗博物館 | 博物館のエントランスホールにある韓国の祭りのレリーフ |
国立光州博物館 |
国立光州博物館は1978年に開館した。仏教美術室、絵画室、先史室、原三国・三国室、高麗陶磁器室などを備えている。館内は撮影禁止。 |
博物館は韓国の伝統様式の建物で、地上2階、地下4階 1000坪余の展示室と収蔵庫を備えている |
博物館の庭に移設された支石墓 下部が石室になっているのがよく見える |
以上で 韓国南部の古代遺跡(1) 全羅南道・全羅北道南部 (羅州、霊岩、扶安、全州、高敞、光州) を終ります。引き続き、 韓国南部の古代遺跡(2) 慶尚南道・慶尚北道南部 (高霊、金海、釜山) をご覧下さい。 |
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