韓国南部の古代遺跡(2) 慶尚南道・慶尚北道南部(高霊、金海、釜山) |
光州に4泊して全羅北道と全羅南道の古代遺跡を探訪した後、大邱と釜山に合計3泊して、慶尚北道と慶尚南道の古代遺跡を訪ねた。これから後半を紹介しよう。 伝説によると、慶尚南道の金海の亀旨峰に降臨した首露王始め6人の男の子達が加耶6国(駕洛国(金官国)、大加耶、星山加耶、阿羅加耶、小加耶、古寧加耶)を作ったという。その後加耶諸国は百済と新羅の進出に翻弄される。日本書紀によると541年と544年に「任那(加耶)復興会議」が百済、日本、加耶諸国が参加して行なわれた。結局、加耶諸国は西暦562年に新羅に滅ぼされるが、その間、日本に鉄文化を伝え、日本との往来も多く、また戦乱を逃れて日本に渡ったものも多かったと伝えられている。 加耶は「鉄の王国」といわれ、日本がここに鉄の買い付けに来たことは注目される。当時鉄は戦略物資で、現代の石油とみてよいだろう。また、日本では2例しか見られない馬冑(ばちゅう、戦闘用の馬の頭部を守る冑)がここでは多く見られる。これは北方騎馬民族の南下を示すものとして興味深い。 以下は、韓国の旅を、2つに分けた中の第2部である。 韓国南部の古代遺跡(1) 全羅南道・全羅北道南部 (羅州、霊岩、扶安、全州、高敞、光州) 韓国南部の古代遺跡(2) 慶尚南道・慶尚北道南部 (高霊、金海、釜山) (2003年10月) |
||
馬冑(ばちゅう) | ||
|
||||||||||||||||||||||
韓国とその周辺 |
韓国(1)の訪問地 韓国(2)の訪問地(このページ) |
高 霊 |
慶尚北道高霊郡は古の大加耶国の王都であった。42年に建国されたと伝えられる大加耶国は、慶尚南道金海市にあった金官国と並ぶ加耶諸国の雄であった。562年の滅亡とともに加耶は完全に百済・新羅に分割され消滅した。 大学院生のとき郡庁でアルバイトをし、その後郡庁の職員になったという崔さんの案内で古代文化の花が開いた古都高霊を訪ねた。 |
良田洞岩壁画 |
高さ3m、幅6mのこの岩壁画は青銅器時代のもので、山の傾斜面にあり、同心円と十字・仮面模様等が刻まれている。当時の農民が農耕儀式に使用したものと推定される。 |
岩壁画を説明する崔さん | 十字・仮面模様と同心円(太陽か) |
古衙洞壁画古墳 |
古衙洞壁画古墳は、6世紀末の大加耶時代に作られた加耶地域で唯一の壁画古墳である。玄室と羨道を具備した横穴式石室で、壁画は大部分脱落・退色しているが、赤、緑、褐色で描かれた蓮華紋が残っているという。 |
古代はここは川岸で、造船所があった。日本行の船も作られたのだろうか。 | 造船所址の碑から、急な石段を登って壁画古墳へ |
壁画古墳は保存のため入室できない | 古墳の構造と壁画を示すパネル |
池山洞古墳群 |
高霊郡の池山洞古墳群は、主山の東南の稜線に大加耶時代に造成された大小200基の古墳である。特に頂上付近は直径20mを越える古墳が群れをなしていて、実に壮観である。44号墳の出土遺物から、ここは大加耶国の支配者層の墓域とみられている。 |
頂上付近は直径20mを越える古墳が群れをなしている。 航空写真で撮りたいところであるが、実はこの写真は高霊郡の資料より複写したもの。 |
稜線の南傾斜面に位置する44号墳は、直径27m高さ6mで、内部には3基の大型石槨と32基の小型殉葬者の石槨が確認され、加耶古墳の内最高位の王陵と推定されている。 |
大加耶王陵展示館は月曜日は休館 残念ながら右の写真は高霊郡の資料より |
32号墳から出土した甲冑 |
32号墳から出土した加耶金冠 |
高天原故地 |
案内の崔さんがぜひ訪ねて下さいというので来たのが、「高天原故地」である。筑波大学名誉教授の言語学者のM先生が、高霊を訪ねたとき、ここが高天原であると直観したという。 先生の仮説を要約すると、紀元前頃から南下を始めた北方系民族一派が朝鮮半島の中央部を南下して根拠地として定めたのが高霊の地であって、そこから子孫を南方の各地に分封したのが諸加羅国である。大加耶国成立以前の紀元1、2世紀頃に、ここ高天原を離れた天孫族は海上を南下して九州に上陸した。それが日本の天孫降臨説話となった、というのである。考古学的な証拠がなく、高霊郡庁でも扱いに苦慮しているようだが、私立加耶大学の学長の熱意で、大学の敷地内に碑を建てたという。 |
碑の前で説明して下さる加耶大学の先生 韓国人から、イザナギノミコト、イザナミノミコト、アマテラスオホミカミ、スサノヲノミコト(ここ高天原を追放されて日本に来た)、などの名が発せられて驚いた。 |
主 山 城 |
主山城は、主山(311m)の山頂部を取り巻く内城とそこから伸びる外城とからなる。6世紀半ばに百済が加耶に進出した際に加耶王宮防備のために築造したと推定される。 |
秋雨の中を紅葉を愛でながら、主山を登る | 主山城は、今は一部の石垣が残るだけ |
估畢斎宗家 |
崔さんの案内で、書家の嶺南士林派宗匠の金宗直(1431〜1492年、号は估畢斎)の子孫が住む家を訪ねた。17代宗家 金さんは、いくつかの遺跡の案内でお目にかかった年配郷土史家の方々と同様、最初は気難しそうだが、やがて和んでくると役人や若者に対する苦言などを饒舌に語るのが共通していた。遺跡見学とは一味違う興味深いひとときであった。 |
金宗家の立派な門構え | 遺品・宗家文書(地方文化財150点)を収める収蔵庫 |
17代宗家 金さんの話を聞く | ゆっくりと滞在して、蝶舞峯に出る月を愛でたい雰囲気 |
|
金 海 |
慶尚南道金海市は釜山広域市の西に隣接する。西暦42年に首露王が駕洛国を建国し、6つの加耶文化を開花させた。韓国最大の川である洛東江に接する金海は、韓国最大の穀倉地として、秋の季節は周辺一帯が「金の海」のように見えたことに由来しているという。遺跡・史跡に恵まれ、古代史ファンには申し分ないところである。 |
鳳凰台遺跡 |
金海市の中心部に位置する鳳凰台遺跡は、隣接する金海貝塚と合せて「鳳凰洞遺跡」と呼ばれている。鳳凰台遺跡は、加耶時代の高床家屋、竪穴住居などが発掘再現され、佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような遺跡公園になっている。ここは規模も大きく、防衛施設も発掘されているので、金官加耶の支配階級の集団住居址の可能性が高いといわれている。 |
鳳凰台遺跡から眺める林虎山 | 物見櫓 | 高床家屋 | 竪穴住居は台風の被害で修理中 |
金海貝塚 |
上記の鳳凰台遺跡と隣接している金海貝塚は、石器時代から初期鉄器時代にかけての遺跡としては、韓国最大級の貝塚である。高さ18m、幅70m、長さ200mに及ぶ。日本統治時代以来度重なる発掘調査の結果、土器、骨角器、鉄器とともに古代中国の王莽時代(BC45〜AD23年)に使用された王莽銭、炭化米、鹿の骨なども出土した。 |
貝塚は小高い丘の上にある | 支石墓の大きな蓋石の表面に窪みがある | 貝殻は大きい |
大成洞古墳群・古墳博物館 |
大成洞古墳群で発掘された墓は184基あり、丘陵周辺の平地には1〜3世紀の木棺墓と木槨墓が多いが、丘陵地帯には4世紀の木槨墓が多く分布している。特に、木槨墓から豊かな鉄器文化と強力な騎馬軍団を持つ加耶文化が窺える多くの遺物が出土している。後漢時代の中国製の鏡、日本製の筒型銅器なども出土し、すでに日中韓の文化交流があったことが分る。 |
大成洞古墳群は金海市の真ん中にある | 大成洞古墳群の中に展示館がある | 館内の保存遺跡 |
古墳群に隣接して建てられた博物館は 冑をモチーフにしている |
古墳時代は日本は船で韓国に鉄材を買いに来た。 (左)製鉄をする加耶の人 (右)買い付ける倭人 |
国立金海博物館 |
国立金海博物館は、加耶文化圏の遺物を集めて時代別に展示し、加耶文化の優秀性と特徴を知ることができる考古学専門の博物館である。残念ながら、館内は撮影禁止であるが、立派な日本語の図録を購入することが出来た。 以下の写真はすべて図録から撮ったものである。。 |
「鉄の王国」であった加耶を象徴するように、鉄鉱石と炭をイメージした黒いレンガの博物館 |
隆起文土器(新石器時代) | 櫛文土器(新石器時代) | 鉄鏃(1世紀) | 鉄斧(1世紀) |
銅鏡(加耶時代、中国製?) | (左)巴形銅器、(右)筒形銅器 (4世紀、日本製?) |
礼安里古墳群 |
金海市の礼安里古墳群は、4〜7世紀の金官加耶および以降の金海地区庶民層の集団墓地である。釜山大学の発掘調査によると、総数183基の墳墓から1,400余点の遺物と210体の古代人の人骨が出土した。上下4重の墳墓間の重複関係は、大体において
木槨墓→石槨墓→石室墓 と変化しており、墓制および遺物の編年研究にとって基礎資料となった。 特に、大量に出土した良好な状態の古代人の人骨は、加耶人の形質人類学的な研究資料となった。それによれば古代加耶人の平均身長は男性が164.7cm、女性が150.8cmで、現代人に比べて顔面がかなり高く、鼻が狭くて、その根元が扁平だといえる。 (現地の日本語パネルより) |
発掘が終了した遺跡は、すっかり埋め戻されて草地となっている | 写真と詳しい説明が書かれたパネル |
亀 旨 峰 |
伝説によると、金海地方の肥沃な土地を狙って新羅と百済がしばしば侵攻した。これを脅威に感じた首長達が亀旨峰で祭儀を行なった時、空から紫色の紐に赤いふろしきで包んだ金の箱が舞い降りてきて、それを開いてみると太陽のように丸い黄金の卵が6つあり、翌日にはその卵が孵化してみな男の子になった。金の箱から生まれたので姓を「金」とし、一番先に生まれた童子を首露と名付けて王に迎えた。その他の男の子達もそれぞれに国を作り、6つの駕洛国、大加耶、星山加耶、阿羅加耶、小加耶、古寧加耶が誕生したという。 「駕洛国」の名称は史書により、加耶、伽羅、狗耶国、南伽羅、金官国などと呼ばれている。「駕洛国」は西暦42年に首露王が建国したといわれて、西暦562年に「大加耶」と共に新羅に滅ぼされた。その間、日本に鉄文化を伝え、日本との往来も多く、また戦乱を逃れて日本に渡ったものも多かったと伝えられている。 |
亀旨峰は、伝説の割にこじんまりとした小高い丘 | 近くに支石墓があり、考古学的に古い地であることが分る |
首露王陵 |
西暦42年に亀旨峰に降臨し、駕洛国を建国し、西暦199年に157歳で亡くなった首露王の墓と伝えられ考古学的には後世改築されたものと考えられるが、王陵の内部は殆ど分らない。 |
首露王陵の門には「駕洛樓」と書かれている | 王陵は、直径22m、高さ6mの円形封土墳 |
首露王妃陵 |
首露王妃は、インドアユタ国の王女で西暦48年に16歳の時、アユタ国王から駕洛国に行って王妃になるよう命じられ、船に乗ってこの地へ来たといわれている。 |
首露王妃陵は、直径6m、高さ5mの円形封土墳 |
|
釜 山 |
慶尚南道の道庁所在地である釜山広域市は、ソウルに次ぐ韓国第2の都市である。釜山から日本の対馬の北端には直線距離でわずか50kmであり、古代から、良くも悪くも日本との接点の役割を果たしてきた。 |
福泉洞古墳群 |
釜山広域市の中心地東莱区に位置する福泉洞古墳群は、長さ700m、幅100mほどの丘陵にあり、墓の数は37基に及ぶが、墳丘の存在は明らかではない。石室内から多数の土器のほかに、金銅冠、金製耳飾り、馬具、鉄ていが出土した。古墳の年代は土器などから5世紀と考えられる。出土品から見て新羅的色彩が濃いといわれている。出土品は隣接した福泉博物館で展示されている。 |
ドーム型の古墳展示室は福岡県の須玖・岡本遺跡など例が多く、 自然の採光で、観察しやすい。 ここのドームは規模が非常に大きい。 |
左方形は副室、右長方形は主室(ドーム内とは別の墳墓) | ||
ドーム内にある副室は木槨墓 何故か多数の土器が--- |
ドーム内にある主室は石槨墓 主葬者と副葬品として金銅冠、馬具、鉄ていが出土 |
ドームの南側 博物館が見える | ドームの北側 釜山のビル街の中でよく保存されている |
福泉博物館 |
福泉洞古墳群に隣接して建てられた福泉博物館は市立釜山博物館に所属する博物館で、福泉洞古墳群から出土した遺物を収蔵している。多数の土器、鉄器、馬具、金銅冠などの装飾品、などがよく整理して展示されている。 特に私が興味を持った点の1つは、鉄鉱石、鉱滓(製練かす)の展示があることである。2つ目は、日本では、埼玉県将軍山古墳と和歌山県大谷古墳の2例しか見られない馬冑(ばちゅう、戦闘用の馬の頭部を守る冑)が多く見られることである。 前者は、「鉄の王国」といわれた加耶に相応しい展示であり、後者は、北方騎馬民族の南下を示すものとして興味深い。 |
||||
|
福泉博物館 |
鉄鉱石と砂鉄(左) 鉱滓(製練かす)(右) | 鉄てい( Iron Plate / Iron Ingot ) | 馬冑(ばちゅう) |
木槨墓模型(4世紀) | 石槨墓模型(5世紀) |
東三洞貝塚・展示館 |
東三洞貝塚は、日本統治時代に初めて発掘調査されて以来、幾度かの調査が行なわれ、韓国最古の甕棺墓、稗、粟が発見され、新石器文化の重要な遺跡として評価されている。東三洞貝塚は、5個の文化層に区分され、放射性炭素年代測定の結果、7500年前から3500年前までの約4000年間に形成されたものと推定される。 貝塚に隣接して設けられた東三洞貝塚展示館(市立釜山博物館に所属)は、多数の土器、石器、骨角器、儀礼用具の中に縄文土器や九州産の黒曜石も展示され、新石器時代の日韓交流の様相を知ることができる。 |
東三洞貝塚と東三洞貝塚展示館 |
貝塚断面の展示 |
各種様式の土器 |
長野県尖石遺跡の 「縄文のビーナス」 のレプリカも展示 |
||||||
|
市立釜山博物館 |
1978年に開館した市立釜山博物館は、すでに見学した福泉博物館、東三洞貝塚展示館、今回見学対象でない臨時首都記念館(朝鮮戦争中釜山は臨時首都となった時期があった)を傘下に収めた総合博物館である。 先史、三韓、三国、統一新羅、高麗、朝鮮、の各時代、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時代、日帝強占期(日本統治期)、朝鮮戦争の時代まで、デリケートな国際関係に対しても史実に基づいて展示されており、好感が持てた。紹介したいのでノーフラッシュで撮影させてもらった。 |
市立釜山博物館 |
櫛文土器の変遷(8000年前から3000年前) |
福泉洞古墳群出土の鎧 | 加耶文化から新羅文化へ |
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時代 |
明、朝鮮、日本、三国の国力比較 人口、兵力、武器、ともに朝鮮は 明・日本に比べて劣っていた |
日本で発刊された 「絵本 朝鮮征伐記」 |
壬辰倭乱後に日朝は国交正常化し、朝鮮国王から江戸幕府に通信使が派遣された |
日帝強占期(日本統治時代) |
陸軍少年兵召募のポスター | 崔基福さんの卒業証書(1916年、大正5年) |
|
釜山に滞在中、晴れた日には対馬が見えるという太宗台へ2度行ったが、残念ながら秋霞のためお預けとなった。いつか釜山から対馬、壱岐を経て九州までの、古代人の交流海路を訪ねたいと思った。 |
今回の旅は8日間という限られた期間ではあったが、古代遺跡に絞ったので、中身の濃い旅となった。私にとって初めての韓国訪問で、白村江など古代史の舞台で見残したところもあるが、後日の楽しみとしたい。 企画された古代史専門家のKさんとSさんをはじめ、楽しい旅をご一緒させて頂いたIさんとDさん、有難うございました。それに現地の手配と案内をして下さった知日家のLさん、私達が「カリスマ添乗員」の異名を差し上げたWさん、訪問地でお世話になった大勢の韓国の方々にお礼申し上げます。 |
|
|
|
nsdssmhp | ホームページの中で検索したい |
|
ホームページの中で道に迷ったら |
|
nsdssmhp