| ポルトガル(2)---リスボン、エボラなどポルトガル南部を訪ねる | 
| ポルトガルの国名の起源でもある北部の都市ポルトを出発し、15の町を訪ねながら南下してきた旅は、いよいよ後半を迎えた。 11月はポルトガルでは雨季の始まりで、雨の中のポルトの町は風情があった。 南下するに従い澄み切った青空の穀倉地帯が現れる。 南部はイスラムの影響を強く残す一方、大航海時代の歴史を刻む町も見られる。 天正遣欧少年使節ゆかりの教会、ユーラシア大陸西端のロカ岬、首都リスボンなど見所は多い。 同じイベリア半島で、イスラムの征服から国土回復運動(レコンキスタ)を成功させ、大航海時代の覇を競ったスペイン・ポルトガル両国の現在の国力の差はどこから来たのだろう。 単に国土の広さ、人口の違いだけではないだろう。こんなことを考えながら旅は続く。 ポルトガルの南端ファロまで足を伸ばした後、再び北上して首都リスボンで旅の大団円を迎えた。 以下は、ポルトガルの旅を、2つに分けた中の第2部である。 ポルトガル(1) ポルト、ブラガ、アヴェイロ、コインブラ、ナザレ、 オビドスなどポルトガル中北部 ポルトガル(2) エヴォラ、ファーロ、シントラ、ロカ岬、リスボンなど ポルトガル中南部 1部に続いて2部をご覧下さい。 (2003年11月) |  | 
| 大航海時代を誇る 「発見のモニュメント」 | |
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| ルート図 赤はポルトガル(1)、青はポルトガル(2) | 
| カステロ・デ・ヴィデ | 
| カステロ・デ・ヴィデは人口4000人ほどの小さな町。かつてユダヤ人地区があったというが、今もユダヤ人は住んでいるのだろうか。 | 
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| カステロ・デ・ヴィデは丘の上のサンタ・マリア教会を中心とした小さな町 | 白壁のユダヤ人街 | 
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| ひっそりとした中世のユダヤ教会(シナゴグ)の内部には、祭壇らしいものも見られる。 | ||||
| エルヴァス | 
| エルヴァスはスペインとの国境からわずか15km。そのためイスラム教徒対キリスト教徒、ポルトガル対スペインなどさまざまな攻防戦が繰り広げられた所である。 | 
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| 城壁の隅に建てられた城砦に登るとスペイン国境が見渡された。 | ホテルから見える16世紀のアモレイラの水道橋 | |||
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| エ ヴ ォ ラ | 
| エヴォラは、ローマ時代からこの地方の商業の中心として栄え、ルネッサンス期には大学も設置され学問の府でもあった。日本から海を渡ってきた天正遣欧少年使節は、リスボン滞在の後、1584年9月にこの町を訪ね、大司教の歓待を受けた。ローマ時代からの歴史的建造物が城壁の中にあり、1986年にユネスコの世界遺産に登録された。 | 
| 大 聖 堂 | 
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| 12〜13世紀のロマネスクからゴシックの過渡期に建てられた大聖堂。 外から見ると要塞のように堅固であるが、内部のドームは美しい。 | ||||
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| 1584年にここを訪れた天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルは、パイプオルガンの腕前を披露したという。 | 
| サン・フランシスコ教会 | 
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| 16世紀に建てられた ゴシック様式の教会 | 教会の人骨堂は500体の人骨で、壁も柱も埋め尽くされている。修道士の瞑想の場として作られた。 不思議なことに異様な感じがしないのは、ナチの収容所のように悲劇の場ではないからかもしれない。 | |||
| アラブ風館 と ディアナ神殿 | 
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| マヌエル1世庭園にあるアラブ風の館とバスコ・ダ・ガマの像 | 2世紀末にローマ人によって建てられたコリント様式のディアナ神殿 | |||
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| セ ル パ | 
| エヴォラからポルトガルの南端への行程上、セルパのポサーダに1泊した。 | 
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| ポサーダから眺めるオリーブ畑の朝 | ポサーダは国営ホテル | 大航海時代の象徴 「天球儀」を配した玄関 | 
| シ ル バ ス | 
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| ポルトガルをバスで旅行していて工場を見かけることは少ない。丁度石灰岩を採取しているらしいところに出くわした。ここでは赤い土が石灰岩だという。本当かな? 石灰岩の上に生えている木はユーカリ。 | 偶然、街中で発掘しているところを見た。ローマ時代の遺跡とか。 | |||
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| 市立博物館だが、ほとんど見るべきものがない | イスラム時代の城砦と入口で記念写真を撮る子供たち | レストランでワインが美味かったので覗いてみたら、立派なワインセラーがあった | ||||
| ラ ー ゴ ス | 
| ポルトガル最南端のアルガルヴェ地方のかつては首都であったラーゴスは、紀元前300年頃から大西洋・地中海交易の恩恵にあずかって繁栄した。イスラム教の支配下になってもヨーロッパとアフリカの接点としの役割を果たした。 | 
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| ここでも、エンリケ航海王子の銅像。エンリケ航海王子の没後500年を記念して1960年に建てられた。 | ||||
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| 大航海時代には奴隷市場があった海岸も、 今では国際的なリゾート地になっている。 | 
| サン・ヴィセンテ岬 | 
| ユーラシア大陸の西端がロカ岬なら、南西端はサン・ヴィセンテ岬である。ここまで来ると、地の果てに来たという感慨が沸く。 | 
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| 大陸の南西端は風が強いのだろう。いくつかの風力発電所がある。 | 岬に近づくのを待ち切れなくて、バスのフロント・グラス越しに撮る。 | 
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| 75mの断崖絶壁と灯台 岬の名の由来は、スペインで殉教したリスボンの守護聖人サン・ヴィセンテの遺体を乗せた船が、この岬に流れ着いたという伝説から来ている。エーゲ海と異なり黒っぽい大西洋は見るからに恐ろしく、ここから南へ西へ航海していった船乗り達の勇気に驚きを禁じえない。 | ||
| アルブフェイラ | 
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| アルブフェイラは、アラブ語で「海上の城」という町の名の通り、イスラム時代に要塞が築かれたところ。 現在はバカンス客が訪れるリゾート地である。 | 
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| フリータイムに、添乗員お勧めのレストランに出かけた。平目のムニエルは最高だった。(食べ始めてから慌てて撮影) | ||||
| フ ァ ー ロ | 
| ポルトガルの南端に位置するファーロは、1249年にアフォンソ3世によって再征服され、ポルトガルにおけるイスラム勢力の終焉の地となった。 | 
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| 現代の建築であるがアラブ様式のものがあったので、玄関を覗いてみるとやはり立派なドームがあった。ポルトガルでは今もイスラム文化が生き残っている。 | ドアーに付けた「ファティマの手」はイスラムのお守り | |||
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| 教会の鐘楼のコウノトリの巣は、 ヨーロッパでは珍しくない | ファーロの町は美しいモザイク石で舗装されている | 11月というのにジャカランダの花(狂い咲き?) | 
| シ ン ト ラ | 
| リスボン近郊のシントラは、緑の木々に覆われたシントラ山脈の中にあり、王宮を中心として貴族の別荘が点在するところ。この美しい景観は、1995年世界遺産に登録された。 | 
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| ロ カ 岬 | 
| 人間には世界の果てを見たいという本能があるようである。若い頃に、北海道の宗谷岬、九州の佐多岬を訪ねて感動したことがあった。天文学者は150億光年の宇宙の果てを観測することに情熱を燃やす。今、ユーラシア大陸の西端、ロカ岬に立ち、大航海時代の英雄、コロンブスが、ヴァスコ・ダ・ガマが、マゼランが、未知の大西洋に乗り出して新大陸・新航路を発見したことに思いをめぐらせると、感慨はいやが上にも高まる。 | 
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| ユーラシア大陸の西の端ロカ岬へと向かう | 
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| 北緯38度47分、西経9度30分、標高140mの断崖の上に、十字架がある。下には、ポルトガルの詩人カモンエスの詩の一節が刻まれている。 「ここに地果て、海始まる」 | ||
| リ ス ボ ン | 
| 首都リスボンはポルトガル語ではLisboa(リシュボーア)と発音する。ユーラシア大陸最西端の首都である。歴史的には、ギリシア人、ローマ人、イスラム教徒の支配を受け、1294年に国土回復を完了し、リスボンはポルトガルの首都となった。15世紀からの大航海時代は巨額の富を一手に収め繁栄を極めたが、長く続かず、16世紀には隣国スペインに併合されてしまった。 17世紀には再独立を果たしたが、1755年のリスボン大地震により壊滅した。その後もナポレオンの侵入、軍事政権による圧制などを経て、現在は一応民主体制が確立されたという。リスボンの町にそのような運命の哀愁といったものを感じるのは私だけではないだろう。 | 
| ベレンの塔 | 
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| 1922年に初の南太平洋横断を果たした飛行機サンタ・クルス号のレプリカ(本物は海洋博物館) とその飛行経路(リスボン〜リオ・デ・ジャネイロ)を示す石碑 | ||
| 発見のモニュメント | 
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| 1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して作られた。高さ52m、帆船をモチーフにし、大会に乗り出す船の先頭に立つのがエンリケ王子、その後に天文学者、宣教師、船乗り、地理学者などが続く。 | ||
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| 発見のモニュメントの前の広場には、大理石のモザイクで世界地図と各地の発見年が記されている。 日本が発見されたのは、なぜか1541年となっている。ポルトガル船の種子島漂着は1543年のはず。 | ||||
| ジェロニモス修道院 | 
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| ジェロニモス修道院は、マヌエル1世が、エンリケ航海王子の偉業をたたえヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念して、16世紀初めに建てられた。代表的なマヌエル様式。 | 聖ジェロニモスがライオンの足に刺さったトゲを取ってやると、ライオンもなついたという。 | 
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| ポルトガル最大の詩人ルイス・デ・カモンエスの棺 | インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマの棺 | 
| アルファマ地区 | 
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| コメルシオ広場 | ドン・ジョゼ1世の騎馬像 | 
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| アルファマ地区は「リスボンの下町」と呼ばれる。「アル」で始まる単語には、アラビア語が起源のものが多いという。その名の通り、ここはイスラムの影響を色濃く残している。 | ||
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| サン・ペドロ・デ・アルカンターラ展望台 | 
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| サン・ペドロ・デ・アルカンターラ展望台から、色あせたオレンジ色の屋根の波の向うに強固なサン・ジョルジェ城が見渡される。 | リスボンは坂の多い町。ケーブルカーは、庶民とりわけ高齢者に役立つようだ。 | 
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| サン・ロケ教会 展望台のすぐ下にあるサン・ロケ教会は、1584年に喜望峰周りで6ヶ月かかってリスボンにたどり着いた天正遣欧少年使節が、1ヶ月ほど滞在したイエズス会の教会である。この教会は、イタリア人建築家によって建てられたイタリア・バロック様式で、奥の礼拝堂はリスボンでも有数の美しいチャペルといわれている。 | ||
| リベルダーデ通りから大聖堂へ | 
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| リベルダーデ通りのレスタウラドーレス広場に建つ高さ30mのオベリスク(1640年スペインから独立) | リスボンの中心地ロッシオ広場に建つ国立ドナ・マリア2世劇場 | 
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| コメルシオ広場に建つドン・ジョゼ1世の騎馬像 馬の頭の下に見えるのはサン・ジョルジェ城 | 1147年イスラム礼拝堂後にアフォンソ・エンリケスの命により建てられた大聖堂。イスラム教徒から奪回した直後だけに砦の役目もあったようで、この堅牢なつくりは1755年の大地震にも耐えた。 | 
| 海洋博物館 | 
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| 大航海時代のリーダーであったポルトガルの海洋博物館の見学は、私にとって、今度の旅行の楽しみの一つである。 | 海洋博物館の入口は、なんとジェロニモス修道院の西の端である。 | 
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| 博物館の玄関に、当時の世界地図を背にして座るのは、大航海時代の立役者エンリケ航海王子である。 | 背後の世界地図の日本周辺を拡大すると、すでにポルトガルの覇権が東アジアに及んでいるように描かれている。 | 
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| コロンブスの肖像画 彼はジェノバの生まれで、スペインのイザベル女王の援助で1492年西インド諸島に到達した。彼は一生ここがインドだと信じていた。 | ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰周りの インド航路発見に使用した船の模型 全長24m、120トン、50人乗り、1497年にリスボンで作られた。ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルの大航海時代最高の英雄である。 | 
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| 博物館にはたくさんの帆船が展示されている | この船は1780年女王マリア1世により作られた。1957年に英国女王エリザベス2世がリスボンを公式訪問したときに使用されたのが最後である。 | 
| ファドを聴く | 
| ポルトガルの民俗歌謡として知られるファドであるが、起源ははっきりしない。ファドという言葉は「運命」を意味するラテン語fatumに由来するという。実らぬ恋の哀しみ、人生の苦しみ、海に出たまま戻らぬ肉親への想いなど、運命に翻弄される人間の心を歌ったものが多いといい、その歌声はどこか日本の演歌に通じるものがある。 | 
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| ファドハウスは午後9時頃に始まる。最終公演が終るのは午前2時頃だという。薄暗いファドハウスの入口は、見るからに裏悲しい。 | 
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| 観光客だけでなく、現地の人も楽しんでいるようである。満席であった。 | 数人の歌手が順に歌い、一巡すると楽師も代わる。いくつかのハウスを掛け持ちで廻っているのだろう。女性歌手が多いが、男性も歌う。 | 
| この旅に先立って、ポルトガルにつける形容詞は哀愁のポルトガルだと直感した。旅の最終日にファドを聴き、その直感は当ったような気がした。 スペインと同じく大航海時代の覇者であったポルトガルが、いつまでも植民地支配の夢を追い続け、近代国家への転換が遅れた。工業化がすべてとはいわないが、農業も不振で食料の半分は輸入に頼るポルトガルは、平均寿命、識字率の点でもEUの中で最低級だという。私のような一旅人が言うのは、お節介なことかも知れないが、「国家の栄枯盛衰」 ということ考えさせられる旅でもあった。 大きな歴史的モニュメントや観光ポイントの少ないポルトガルであるが、隣国スペインよりも日本人には縁の深い国である。一般に治安はいいし、ぼくとつとして人懐っこさが感じられる人々である。博物館の図録の整備、英語による表示などソフト面の充実を図れば、観光産業は発展の余地があると思う。 またいつかのんびりと旅してみたい、そんな国であった。 | 
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