ローマ----古代から現代に生きる永遠の都 |
エジプト、ギリシアと続いた私達の「歴史を訪ねる旅」は、ついに待望のローマへやってきた。 伝説によると、ロムルスとレムスの双子の兄弟がテヴェレ川に流されたが、運良く川辺に漂着し、牝狼に育てられた。 ロムルスがローマ市を建設したのは紀元前753年といわれる。 前509年に共和制が始まり、前1世紀にはユリウス・カエサル(シーザー)が活躍し、エジプトのクレオパトラとのロマンスの花が咲いた。 前27年にアウグストゥスが帝政を開始した。 その後キリスト教迫害の時代を経て、313年にコンスタンティヌスがキリスト教を公認して、ローマとキリスト教の深い関係が始まる。 ローマは歴史的(時代的)に重層的で、古代の遺跡の上に中世の教会が、その隣に近代の歴史的記念物があるという風である。 ある時代の遺跡だけを見学するのは効率が悪い。そこで、市内に散在する広場を目印に、地図を片手に歩くことにした。 幸い、城壁で囲まれたローマの旧市街は約4km四方で、歩いて回るのに好都合である。 (2001年4月) |
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コンスタンティヌスの 凱旋門 |
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フォロ・ロマーノ |
フォロ・ロマーノのフォロは「フォーラム」の語源である。 古代ローマ時代には市民の集会や裁判、商業などが行われた公共広場であった。 ここに立つとキケロの演説が、カエサルの叫びが聞こえる。 |
カンピドリオの丘から眺めるフォロ・ロマーノ (パソコンによる合成パノラマ) 左がセヴェルスの凱旋門、その中を通るのが聖なる道、右の8本の柱がサトゥルノの神殿、3本の柱がカストルとポルックスの神殿。 元老院は凱旋門よりも左にあり写っていない。 |
聖なる道からセヴェルスの凱旋門を見る | 元老院(クーリア) 共和制時代の政治の最高決定機関 カエサルが「ブルータス、お前もか!」と叫んで殺されたのはこの建物の前。 建物自身は今世紀に遺跡から復元されたもの。 |
演壇(高さ3m、長さ12m) キケロなどの雄弁家が弁をふるったところ |
エミリアのバジリカ バジリカは商取引などが行われた公共建物 |
カエサルの墓(外観) | ||
カエサルの墓(内部) 意外に質素。 かつてはここにカエサル神殿があったという。 |
ロムルスの神殿 マクセンティウス帝の息子を祭ったとか、ジュピター神殿と同一だとか諸説がある。 |
ティトゥスの凱旋門 聖なる道の終点に建つこの凱旋門は、ティトゥスのエルサレムでの戦勝(70年)を記念して81年に建てられた。 ローマに残る最古の凱旋門 |
ヴァティカン市国周辺 |
ヴァティカン市国は、9億人の信者を有するカトリックの総本山サン・ピエトロ寺院と、歴代法王が集めた世界有数の美術品を納めたヴァティカン宮殿(美術館)とからなる。 時間的な制約でごく一部を見学した。 サンタンジェロ城は、歴代皇帝の墓、要塞、法王の住居、牢獄などさまざまに使われたところ。 ここから望むサン・ピエトロ寺院は絶景である。 |
サン・ピエトロ寺院 |
サン・ピエトロ寺院の内部 | ||
寺院のクーポラ | ||
サン・ピエトロ広場から見るサン・ピエトロ寺院 |
寺院内にあるミケランジェロのピエタ |
ヴァティカン宮殿(美術館) |
宮殿の中庭 | ||
ラオコーンーの群像 古代彫刻はミケランジェロらに大きな影響を与えた |
「ラファエッロの間」の第3室「署名の間」を飾る「アテネの学堂」 この壁画には上段中央にプラトンとアリストテレスが、下段右にプトレマイオス、ラファエッロ自身、そして多分ピタゴラスなどが描かれている。 私の好きな作品の1つである。 ノーフラッシュで撮影可能 |
ヴァティカン美術館のシスティーナ礼拝堂には、1994年に長期にわたる修復を終えルネサンス期の色彩が蘇った数多くのミケランジェロの作品がある。 上の「アダムの誕生」は天井のフレスコ画のごく一部。 右の「最後の審判」は正面のフレスコ画。 (いずれも撮影禁止のため絵葉書による) |
サンタンジェロ城 |
テヴェレ川にかかる サンタンジェロ橋 |
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サンタンジェロ橋から見たサンタンジェロ城 2世紀のはじめハドリアヌス帝が自分の廟として作らせたもの。 カラカラ帝までの皇帝はここに埋葬された。 その後要塞として使われた。 歌劇トスカの舞台になっている。 |
サンタンジェロ城からの眺め 写真右手前の城壁の上に、ヴァチカンと城を結ぶ隠れ道があることが分る。 |
ポポロ広場周辺 |
ローマの北の端にあるポポロ広場は観光客のほとんどいない静かなところであるが、ポポロ門の存在と合わせて歴史を感じさせられる。 |
ピンチョの丘から眺めるポポロ広場 ローマで2番目に広い。 中央のオベリスクは紀元前1200年頃にエジプトで作られたもの。 ピンチョの丘からの眺めは素晴らしく、サンピエトロ寺院を始めローマ市内が見渡せる。 |
ローマの最北の門「ポポロ門」 1300年以来北からのローマ巡礼者はここで身元を調べられ、税を納めて市内に入ることを許された。 |
スペイン広場周辺 |
映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場は、近くにスペイン大使館があるので、そう呼ばれるようになったという。 フランス人が金を出して、スペイン人が名をつけて、日本人がたむろする、など悪口をつく人もいるが、国際的な雰囲気で楽しいところである。 |
広場の近くにあるスペイン大使館 | |||||
果物の露天商もある | |||||
スペイン広場自体は広くないが、その上のスペイン階段はいつも賑わっている。 階段の上のモンティ教会はフランス王ルイ12世によって建設された。 138段の階段は自然なスロープで、ここに腰掛けていると映画の一場面に出ているような錯覚に陥る。 |
共和国広場周辺 |
共和国広場はローマの西の端。 イタリア国鉄のテルミニ駅があり、何となくあわただしい所。 こんなところにもディオクレティアヌス帝により、古代ローマ時代(3世紀)に作られた浴場跡がある。 |
広場前にあるディオクレティアヌスの浴場跡 | ||||
共和国広場は中心に美しい噴水がある。残念ながら車のロータリーとなっていて鑑賞どころではない。 | テルミニ駅からは国際列車が出ている |
トレヴィの泉周辺 |
帝政ローマ時代、街まではるばる引いてきた水道の末端に、工夫を凝らした泉を造る習わしがあったという。 トレヴィの泉の起源も紀元前19年アウグストゥス帝の婿養子が造らせた水道に遡る。 現在の泉は1730年のコンクールの優勝作品であるといわれている。 泉の近くには、クイナレー宮がある。 |
トレヴィの泉は建築と彫刻と水が一体となったバロックの傑作。 「後ろ向きにコインを投げると、もう一度ローマに戻れる」 というロマンティックな言い伝えがある。 | クイナーレ宮は、1870年までは歴代教皇の夏の滞在地、1947年からは共和国の大統領官邸として使われている。 |
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ナヴォーナ広場周辺 |
ナヴォーナ広場は古代ローマ時代の競技場の後に作られた南北に細長い広場。 車が入らないので、いつも静かでのんびりした雰囲気が漂っている。 大道芸人などがいて庶民的である。 ここの名物はそれぞれ趣の違う3つの噴水である。 広場から程近いところにあるパンテオンは、現存するローマ建築の最も完全な遺構であり、世界最大の石造り建築である。 |
一番北にある「ネプチューンの噴水」 | 中央にある「4大河川の噴水」(部分) | 一番南にある「ムーア人の噴水」 |
クーポラに開けられた直径9mの天窓 | ||
ミケランジェロが 「天使の設計」 と称賛したパンテオン Panは全て、theonは神の意味で、ローマの全ての神に捧げられるべく、紀元前27〜27年に建造されたもの。 |
中には幾つかの祭壇がある。 ラファエッロの墓もその1つ |
ヴェネツィア広場周辺 |
ローマの中心部にあるこの広場にも、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂、ヴェネツィア宮殿など歴史を物語る建物が多い。 |
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂 イタリア統一(1870)の立役者で初代国王となったエマヌエーレ2世を記念してして建てられた。 周りの遺跡や古い建物と調和しないので、タイプライタ、ウェディングケーキなどと評判が悪いという。 |
ヴェネツィア宮殿 ヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・バルボによって1464年に着工され、歴代教王の居所となった。 ファシスト政権時代には、ここに執務室を置いたムッソリーニが2階のバルコニーから演説した。 |
コロッセオ周辺 |
古代ローマでは為政者のやることは「民衆にパンと娯楽を与えること」と言われていたという。 これさえ与えれば、民衆は暴動を起こさない。 娯楽の中の最たるものが円形闘技場である。 浴場もその1つであろう。 この付近には、コンスタンティヌスの凱旋門、真実の口などがある。 |
コロッセオ |
コロッセオ 建設は72年に始められた。 長径188m、短径156m、周囲527m、高さ48m、収容人数5万人。 ここで剣闘士や猛獣の戦いが行われた。 キリスト教の公認後は下火になり、6世紀に廃止された。 その後は恰好の建築資材提供の場となり、表面を覆っていた大理石や上階部の石材が持ち去られた。 (パソコンによる合成パノラマ) |
コロッセオの内部 地下には猛獣の檻や出番を待つ剣闘士の控え室があった。 円形部分には板が敷かれたが、流れた血で滑るので砂を撒いた。 現在円形競技場をアリーナというのは、この砂(ラテン語でアリーナという)からきている。 |
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真実の口 サンタ・マリア・イン・コスメディアン教会の入口に据えられている。 「嘘を言った者がこの口に手を入れると手を食べられてしまう」 という言い伝えが中世からある。 |
コンスタンティヌスの凱旋門 高さ28mの威容を誇るローマ最大の凱旋門。 コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝に勝利したことを記念して351年に建立された。 表面を飾る浮彫り模様や彫像は過去の建造物から運んだもの。 このようなことはエジプトのピラミッドや王の墓にもよくあることで、彼らには文化財を残そうという気はなく、コストを下げるため再利用したのであろう。 |
映画「ローマの休日」でのオードリ・ヘップバーンの驚いた顔が思い出される。 |
カラカラ浴場 |
カラカラ浴場は、カラカラ帝が212年に建てた。 3つの温度の異なる浴槽、大ホール、アスレティック施設、更衣室などがあり、壮大な規模に驚く。 |
カラカラ浴場は庭園に囲まれていた | 浴場内には図書館などもあったという |
廃墟に咲くユダの木 | ||||
床に残るモザイク | 壁を飾っていたモザイク | キリストを裏切ったユダは反省して復活祭の頃になると赤い花を咲かせるという。 |
旧アッピア街道 |
ローマを起点としてとして南イタリアのブリンディジまで、全長約600kmの旧アッピア街道は紀元前312年に建設された。 今から2000年以上前に、この街道をローマの戦車が南へ進軍し、奴隷を連れて北へ戻ってくる様子を想像しながら、散策した。 |
ローマを囲む城壁を出ると旧アッピア街道が始まる。 |
ドミネ・クォ・ヴァディス教会 使徒ペテロが迫害の厳しいローマを去っていく途中この地に差し掛かると、彼の前にキリストが現れた。 「主よ、何処へ?」(Domine Quo Vadis?)と尋ねると、キリストは「ローマへ。もう一度十字架にかかるために」と答えた。 ペテロはすべてを悟ってローマへ引き返し、逆さ磔にかかったといわれている。 |
旧街道の散策 石畳の部分は少なくなったが、糸杉と唐傘松が影を落とし、小鳥のさえずりも聞こえる。 糸杉は根が真下に伸びるので、墓地に植えられることが多いという。 沿道にはカタコンベ(地下墓地)や競技場跡などが点在し、古代ローマに思いを馳せながら散策した。 |
チェチリア・メテッラの墓 直径20mの大きな円筒形の墓。上部には美しい浮き彫りが今も残る。 狭間が見えるのは、14世紀に要塞として使用するために付け加えられたもの。 カラカラ浴場から5kmほど歩いたこの地点で引き返すことにした。 |
唐傘松と石畳 私がイメージしていたアッピア街道は正にこのような光景。 しかし残念ながら歩いた範囲では出会わなかった。 絵葉書で代用することにした。 |
丸3日間の滞在では、永遠の都ローマのほんの一部しか訪ねることが出来なかった。 トレヴィの泉にコインを投げて、またの訪問を祈った。 |
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