南イタリア----北イタリアと違うもう1つのイタリア |
南イタリアといえば、イタリア半島の南半分とシチリア島を指す。 ここでは便宜上、別の旅行で行ったナポリ・ポンペイを含めて、イタリア半島の南半分をまとめて掲載しよう。 シチリアは別のページとする。 古代ローマ、ルネサンス、近代産業と文化的な色彩の強い北イタリアと比べて、南イタリアは 「太陽がいっぱい」 だが、トマトとスパゲッティを食べる貧しい国というイメージが浮かぶ。 しかし、ローマ時代の遺跡ポンペイ、高級リゾートのカプリとアマルフィ、ユネスコ文化遺産にもなっている洞窟住居とトンガリ帽子の家、バロックの町レッチェなど個性的な町が多い。 北イタリアと違うもう1つのイタリアを探しに出かけた。 (2001年4月〜5月) |
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アルベロベッロの トンガリ帽子の家 |
ナ ポ リ |
港町ナポリはローマ、ミラノに次ぐイタリア3番目の大都市。 ナポリ民謡やスパゲッティ・ナポリターナなどで日本人にはなじみ深い。 ナポリの歴史は支配者交代の歴史である。 763年にナポリ公国として独立後、ノルマン、フランス、スペイン、フランスと支配者が変わり、19世紀後半のイタリア統一を見る。 世渡り上手なナポリ人気質はこのような長い歴史から生まれたのかもしれない。 そういえば、ナポリ民謡はナポリから海外へ移住した人々の望郷の歌だという。 |
ローマから太陽道路といわれる高速道路を南下する。 途中旧アッピア街道と交差するところもある。 | ヌオーヴォ城 1284年にアンジュー家の城としてカルロ1世が建設した。 |
ヴェスヴィオ山が遠望されるナポリ湾のサンタ・ルチヤ港 「ナポリを見てから死ね」 というのは、このような景色を指すのだろうか。 (パソコンによる合成パノラマ) |
ポ ン ペ イ |
今から約1920年前の79年8月24日、ヴェスヴィオ火山の噴火によってローマの同盟市ポンペイの時は止まった。 人々から忘れられた1781年後の1860年の発掘によってポンペイは厚さ6mの火山灰の下での長い眠りから目覚めた。 ポンペイ遺跡の特徴は、2万人が生活していた都市が一瞬にして廃墟になったことである。 裁判所、神殿、競技場、共同浴場のような公共施設だけでなく、民家、商店、娼家、洗濯屋、人間や動物まで、当時の生活そのものが埋もれそして発掘されたのである。 ポンペイの遺跡を歩いていると、ひょっこりと昔の人に会えそうな錯覚すら感じられる。 |
このヴェスヴィオ山が一瞬にしてポンペイの町を廃墟にした。 |
バジリカ 裁判、政治、商業が行われた公共建物 |
横断歩道 石畳の車道の傍らに歩道と飛び石の横断歩道がある。 |
食べ物屋さんの店先 「寄っていらっしゃい!」 と今にも声が掛かりそうだ。 |
店の扉の敷居のレール |
道路上にある娼家への道標 | |||
娼家を見学するイタリアの高校生 | 部屋の壁にあるモザイク画 |
スタビアの浴場 | 浴場の屋外運動場 | 屋外大劇場 |
驚くべきローマ時代の技術 |
鉄筋コンクリートの使用 | ||||
中高の石舗装 | 水道に鉛管を使用 | 公共水道 |
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車窓からのんびりと農村風景を眺めるのは、旅の楽しみの1つである。 ところでイタリアでは「南北問題」ということを時々ガイドから聞く。 南イタリアの生産性の低さがイタリア全体の経済の足を引っ張るというわけだ。 南では農業が主な産業であるが、山間の地形ではアメリカのような大規模化は望むべくもなく、日本人としては同情する。 でも、よく見るといろいろな発見があり楽しい。 イタリアのコメは有名であるが、生産地はミラノなど北部にあるらしい。 南部は地中海性気候のため夏場は乾燥するので米作に適しないのかもしれない。 小麦はパスタに、ブドウはワインに、柑橘類はジュースに、オリーブはオリーブ油になって、それぞれ外貨を稼いでいる。 |
水田(ミラノ上空) | 小麦畑? | 牧草ロール |
牛の放牧 | 羊の放牧 | ブドウ畑 |
オリーブ畑 | 柑橘類畑 | 実るレモン |
カ プ リ 島 |
カプリ島の「青の洞窟」をぜひ見たい。 これが南イタリアを旅行する日本人の共通の願いであろう。 冬は海が荒れて船が出ないし、夏でも強風や満潮のときは高さ数10cmの洞窟の入口を通過できないという。 祈るような気持ちで出発した。 |
ソレント港からモーターボートで出発する | 「青の洞窟」の入口で、モータボートから小さな手漕ぎボートに乗り移る |
頭をぶっつけないように屈んで洞窟の入口を通過する。 船頭に促されて振り返ると、海面が神秘的に輝くのを見て、思わず声を発する。 洞窟の中にいるのはほんの1分間ほどで、次のボートと交代である。 入口に近いところは青緑色に、奥の方は青紫色になっているのに気が付いたのは写真を見てからである。 (妻のデジカメによる撮影) |
アマルフィ海岸 |
アマルフィはヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサと共に4大海運共和国として、10〜11世紀に栄えた。 しかしピサ人の侵略や土地の海中沈没などのため、繁栄は長くは続かなかった。 現在はイタリア屈指のリゾート地となっている。 |
絶壁のカーブをバスは通過する | ところどころで、バスは写真ストップしてくれる |
アマルフィのドゥオーモ | ドゥオーモの内部 |
夕日に輝くドゥオーモの破風のモザイク |
羅針盤を発明したジョイアの肖像 さすがは海運共和国である。 必要は発明の母なり! |
マ テ ー ラ |
1993年からユネスコ世界遺産に登録されているマテーラの洞窟住宅「サッシ」。 ここには7000年程前から人々が暮らし、次第に岩をくりぬき、現在の姿になった。 「サッシ」とは岩山を意味し、8〜9世紀頃カッパドキアの方から修道僧が移住し、130の洞窟教会が出来た。 近代化につれ貧しい南部の象徴とまで言われ、1952年から新市街への移住政策がとられているという。 |
斜面に造られた無数のサッシ 丘の上には教会がある。 |
赤いケシが侘しさを募らせる |
台所 | 馬も同居していたという | 湿気を防ぐため高めのベッド |
サッシの内部を見学。 それなりに綺麗にしてあったので、何故かホッとした。 |
サッシの近くにあるプルガトリオ教会 1725年に建てられた教会。 正面のファサードの骸骨が気になるが、「人間は、金持ちも貧乏人も死ねば同じ骸骨」ということだろうか。 |
アルベロベッロ |
高さ415mの丘の上にあるアルベロベッロの旧市街はほとんどすべての家が、トンガリ帽子の「トゥルッリ」。 真っ白な壁に灰色の円錐形の屋根のトゥルッリに囲まれると、おとぎの国に迷い込んだような気がする。 かつて家の税金が漆喰の量で決められたので、漆喰を減らす工法としてトゥルッリが考えられたというが、なぜ漆喰の量が減らせるのか私には分らない。 |
街通りはちょっとユーモラスで落ち着いた雰囲気を漂わせている。 屋根にはいろいろなマークが描かれている。 家紋のようなものらしい。 |
ユネスコ・クラブ・ガイドのラエラ陽子さんの案内で街を見学の後、陽子さんの自宅を拝見した。 トゥルッリをいくつか連ねて一軒の家にしたもので、結構広かった。 |
教会もトゥルッリ | 公認ソムリエのルイギさんのお店で黒いワインを試飲。 美味かった。 |
南イタリアの食事 |
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前 菜 |
生ハム、干しトマト、チーズなど | タコと野菜のサラダ |
1皿目の料理 |
トマト・スパゲッティ | 魚介のスパゲティ | ウニのペンネ |
蝶の形のパスタ | トマトソースのラザーニア | マメのスープ |
2皿目の料理 |
小牛のレモンソース | ブタと野菜 | タコのトマトソース煮 |
カジキマグロ | オムレツ |
レ ッ チ ェ |
イタリア半島の長靴の踵に位置する町レッチェは、さながらバロック建築の展示場である。 近くに産する石灰石は、水を含むとまるでスポンジのように柔らかくなり、自由に削れるという。 これがこの町をバロックの町にした理由の1つだろう。 |
町の中心サントロンツォ広場 この広場の地下にはローマ時代の円形闘技場があり、現在も発掘が進められている。 (パソコンによる合成パノラマ) |
広場に立つサン・トロンツォ像の下はローマの円柱の1つ |
サンタ・クローチェ聖堂 この教会は、1549年から1679年の間に何人かにより手直しが続けられたバロック様式の傑作。 「ルネッサンス様式を支える精神が揺らいだとき、身振りの大きなバロック建築へと変容した」といわれるように、私はバロックはあまり好きではない。 しかしこの教会は、装飾の極みと遊び心が見られ、楽しい。 (この教会の前には広場がなく、28mmレンズでも1枚に収まらないので、パソコンによる合成パノラマとした) |
庇を支える男女達の表情が面白い | 上の写真の円形窓の左下の葉の装飾に隠された人面 |
バロック様式に囲まれた広場に建つドゥオーモ | ドゥオーモのステンドグラス |
イタリア半島の長靴のつま先、ヴィラ・サン・ジョバンニ港からメッシーナ海峡をフェリーで渡り、シチリア島へ向かった。 |
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