出雲・吉備路遺跡巡り ---- 日本古代史のもう1つの舞台 |
出雲・吉備は、畿内、北部九州とともに日本古代史の舞台である。 特に出雲には、畿内と北部九州に匹敵する文化・経済力を持つ王権があったと考えられる。 近年夥しい数の銅鐸、銅矛、銅剣が出土した島根県の荒神谷遺跡・ 荒神谷遺跡はぜひ見学したい遺跡である。 奥深い谷になぜ多数の 銅鐸、銅矛、銅剣が埋納されていたのかは、全くの謎である。 横浜市歴史博物館ガイドボランティアのOB会、「横浜さいかちの会」の有志15人で、2泊3日の旅に出かけた。 いつもながら世話役の尾田さんに感謝! (2005年5月) |
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加茂岩倉遺跡から 出土した銅鐸は39個 |
1 日 目 |
荒神谷遺跡(島根県) |
荒神谷遺跡では、昭和58年(1983)、農道建設に先立つ遺跡調査で須恵器が出土したことからその後の2年間の発掘調査で、弥生時代の銅剣 358本、銅矛 16本、銅鐸 6個が一挙に出土した。 なぜこのような奥深い地に埋納されていたかについてはいろいろな説があるが、謎である。 |
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羽田空港から出雲空港へ直行 | 3日間お世話になるバスで荒神谷遺跡へ |
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斐伊川は古事記に出てくるスサノオ神の八岐大蛇 (やまたのおろち)退治神話の舞台となった肥河 (ひかわ)のことである。上流で砂鉄が採れる。 |
正面の仏経山は奈良時代には神名火山として信仰の対象になった山。荒神谷遺跡は仏経山北面の最も奥深い谷にある。手前の二千年ハスは大賀一郎博士から寄贈されたもの。 |
358本の銅剣、16本の銅矛、6個の銅鐸は ここで見つかったと、説明するボランティアさん |
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出土した358本の銅剣(レプリカ) | 出土した16本の銅矛と6個の銅鐸(いずれもレプリカ) |
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出雲の原郷館(展示室)で見る出土品 |
出雲大社(島根県) |
縁結びの神様として有名な出雲大社の主神は大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)である。天孫への国譲りの後、天照大神(アマテラスオオミカミ)が大国主のために宮殿を造らせ、子の天穂日命(アメノホヒノミコト)に祭祀させたのが起源と伝えられる。 |
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鳥居をくぐると拝殿である。 |
大国主大神が祭られている本殿は、高さ約24メ−トルの大規模な木造建築である。「大社造り」と呼ばれる神社建築様式の本殿は、国宝に指定されている。現在の本殿は、延享元年(1744年)に改築されたものである。 |
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社伝によれば、本殿は太古には97m、中古には48mあったとされている。 ところが平成12年(2000)に、その社伝を裏付けるような、巨大な柱根が 境内で発見され、大きな話題となった。それは直径1m以上もある杉巨木 3本を束ねて1本の柱としたもので、束ねた心柱の直径は約3.6mもあった。 |
出雲大社に代表される「大社造り」は、伊勢神宮の「神明造り」と対比される独特の形式で、日本最古の神社建築様式とされる。 本殿は、近づいて撮影できないので、以下資料により説明する。
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神楽殿は大国主大神を本殿とは別に祭るために造られたもので、現在のものは昭和56年に新築された。ここに掛かる注連縄(しめなわ)は長さ13m、重さ5トンの巨大なもである。 |
加茂岩倉遺跡(島根県) |
加茂岩倉遺跡は、先に訪ねた荒神谷遺跡から山を隔てて直線距離で僅か3.3kmの谷奥で、平成8年(1996)の農道工事中に39個の銅鐸が一度に見つかった。 約2000年前(弥生時代)に埋められたものと考えられる。 |
展示室には出土銅鐸のレプリカが展示されている。 |
加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸は、約40cm大のものが20個、約30cm大のものが19個、合計39個である。大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納める、いわゆる「入れ子」状態の銅鐸埋納が確認された初めての例になった。また、同じ鋳型で造られた同笵(どうはん)銅鐸が15組26個もあり、近畿地方を中心に他府県に分布する同笵銅鐸も14個確認されている。(展示室のパネルから) |
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シカとイノシシ?の紋様 | トンボの紋様 | 「入れ子」銅鐸 |
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遺跡発見の発端である農道工事によって出来たV字谷を跨ぐ橋状に造られた展示室から発掘場に向う | 発掘場は野外展示場になっていて、ボランティアさんが説明してくれる。 |
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「入れ子」銅鐸が出土した場所に置かれたレプリカと説明パネル |
妻木晩田遺跡(鳥取県) |
国指定史跡「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」は、鳥取県西部の大山町と淀江町に跨る152haに及ぶ、国内最大級の弥生時代(約2000年〜1700年前)の集落跡である。886棟の建物跡、29基の墳丘墓が発見され、当時のムラを彷彿させる。 |
妻木晩田遺跡は中国地方の最高峰大山の麓、日本海から直線距離で1.4kmの丘陵地(標高120m)にある。 |
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ここでもボランティアさんの案内で見学 | 復元された高床倉庫や竪穴住居 | 竪穴住居の内部 |
中国山地から山陰・北陸によく見られる、大小の四隅突出型を中心とする墳丘墓24基が見つかっている。これは樹脂で固められた再現モデル。 |
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日本海を見下ろしながら、弥生時代のムラを見学 |
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出土品や説明用模型が並ぶ展示室 大型の竪穴住居の1つから中国製の銅鏡片や、朝鮮半島製と見られる鉄器も出土している。 |
2 日 目 |
山陰から山陽へ |
宍道湖畔松江温泉 水天閣で旅の疲れを癒した我々は、出雲路から中国山地を横断して吉備路に向う。 |
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安来節で有名な安来市には、横山大観コレクションと日本庭園で知られる「足立美術館」(残念ながら時間がなく立ち寄れなかった)や富田城跡がある。 安木市立歴史資料館には富田城の発掘史料が展示されていた。 |
高速道路から眺める大山は、僅か20分余りの間に、次々と形が変化して面白い | |||||
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米子IC付近から(北西から)眺める | 溝口IC付近から(西から)眺める | 江府IC付近から(南から)眺める | |||
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吉備路風土記の丘(岡山県) |
出雲と同様に神話と伝説の国である吉備に人が住んだ証拠が見ら れるのは、約2万年前以降である。 5世紀に入ると造山古墳や 作山古墳のような畿内のものに匹敵する巨大前方後円墳が出現 する。 やがて6世紀末になると大和政権による支配が進み、地方 豪族も仏教に帰依するようになる。 そんな歴史が垣間見られた。 |
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備中国分寺跡の山門 | 国分寺跡の木陰でお弁当 |
天平13年(741)、全国に国分寺と国分尼寺を置くよう聖武天皇が命じ、 これを受けて備中国分寺と備中国分尼寺が建てられた。 東西約160m、南北約178mという広大な寺域が推定されている。 |
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岡山県立 吉備路郷土館 |
郷土館には、土器、特殊器台、特殊壷などが展示されている。これは吉備特有のもので儀式に使われた。 |
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こうもり塚古墳(6世紀後半) 全長100mの前方後円墳。 飛鳥の石舞台古墳にほぼ匹敵 する19.4mの横穴式石室で、室内には家型石棺が見られる。 |
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国指定史跡 作山古墳(5世紀中頃) 全長286mの前方後円墳で、全国9位、吉備では 造山古墳に次ぐ2位の巨大古墳である。 発掘調査 をしていないので、被葬者は分からない。 |
古墳の上を歩いただけでは前方後円墳であることが分からないので、これを確かめるため、数百m離れたところまで行って撮った写真。 |
吉備津神社(岡山県) |
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吉備津神社 | |||
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後楽園(岡山県) |
後楽園は兼六園や偕楽園と並ぶ、日本三名園の一つである。貞永3年(1686)、岡山藩主 池田綱政の時代に着工、14年の歳月をかけて元禄13年(1700)に完成した。 旭川をはさんで岡山城の対岸に位置し、一説によると有事の際の、城の備えとしたものともいわれている。 「後楽園」という名前で呼ばれるようになったのは明治以降で、それまでは「後園」とか「御後園」と呼んでいたという。 |
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後楽園の入口 | 折からアヤメの季節 |
大立石 巨大な花崗岩を90個に割り、元の形に組上げたもので、築庭にあたり池田綱政が運ばせた。 |
能舞台・栄唱の間 能舞台の周囲の座敷は、能の見所や接待の場とし使われた。池田綱政は、家臣や領民にも能を見せた。 |
園内から見える岡山城 |
五十三次腰掛茶屋から見る庭園 この茶屋は幕末から明治時代初期にできた建物で、東海道五十三次を描いた扁額が掲げられていたことから、この名が付いた。 |
この夜は、岡山市内の共済施設に宿泊 |
3 日 目 |
三ツ城古墳(広島県) |
東広島市西条に、広島県内最大の前方後円墳など3基の古墳群からなる「三ツ城古墳」がある。 沢山の葺石や埴輪とともに築造当時そのままの姿によみがえっている。 |
前方後円墳の前で記念写真 |
三ツ城古墳群の全景 古墳群は3基の古墳からなる。 左から1号古墳、2号古墳、3号古墳(2号古墳の陰になっている) 1号古墳は全長92mの前方後円墳(広島県内で最大)で、5世紀前半に築造されたと考えられる。 2号古墳は直径25mの円墳で、5世紀前半に1号古墳より先に造られたようである。 3号古墳は長径8m、短径4mの長円墳で、6世紀前半の造営。 |
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1号古墳の上から造出が見える。 造出は、前方後円墳の左右のくびれ部にある四角形の部分で、祭壇として使われたと考えられる。 | 1号古墳の上は70cm盛土して、墳丘を保護した上に葺石や埴輪を発掘調査に基づいて現物そっくりに復元されている。 |
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円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪 出土した埴輪の数は1800体に及ぶ |
復元展示された 1号古墳の後円部の埋葬施設 |
埋葬施設の 箱型石棺 |
1号古墳の上から2号古墳と3号古墳を眺める |
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隣接する東広島市立中央図書館の三ツ城ガイダンスコーナーには、出土品が展示されている |
松濤園(広島県) |
広島県呉市の南に安芸灘大橋で繋がった下蒲刈島は瀬戸内海 に浮かぶ安予諸島の1つである。 ここに文化・歴史・観光施設 「松濤園」がある。 風光を生かした楽しめる文化施設として一見 に値する。 |
松濤園には移設復元された4つの施設があり、現地の風土とともに歴史探訪を楽しめる (パンフレットを改変) |
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左は陶器館(旧木上邸)、 中央は色絵花卉文六角壷(柿右衛門)、 右は染付辰砂花蝶文皿(古伊万里) |
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あかり館(旧吉田邸)には、紀元前のテラコッタ・ランプから西洋や日本の古い灯火器まで展示されている |
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御馳走一番館(旧有川邸)は、朝鮮通信使資料館である |
朝鮮通信使船の復元模型(10分の1) 正使らが乗る大船で、全長34m |
蒲刈本陣と通信使行列の模型 (下の海岸の写真と比べて下さい) 江戸時代、朝鮮通信使の来日に際し、下蒲刈島が藩の接待所・玄関口として大歓迎をした記録が多く残されている。「安芸蒲刈御馳走一番」といわれたほどの歓待ぶりで、料理の復元模型があったが、そちらの写真は撮りそこなった。 |
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当時の面影が偲ばれる蒲刈島御番所前の海岸 |
蒲刈島御番所(復元) 蒲刈島(現在の下蒲刈島)は、江戸時代、瀬戸内海交通の要衝として本陣と番所が置かれていた |
松濤園を最後に、2泊3日の出雲・吉備路の旅を終え、 広島空港から帰京した |
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