我が町横浜の歴史散歩 ---- 横浜市鶴見区の貝塚と古墳 |
私は横浜市に住んで38年になるが、定年退職するまでは横浜市は「寝床」であった。 退職後、横浜市歴史博物館のガイドボランティアをやらせて頂いたお蔭で、横浜市内に縄文時代や弥生時代の遺跡が沢山あることを知った。 しかし、横浜市内でも工場や住宅地の多い鶴見区に古代遺跡があることは、正直言って知らなかった。 歴史博物館のガイドボランティアOBで作る歴史同好会「横浜さいかちの会」の行事として、「鶴見地区歴史発見ミニツアー」が開催されたので、16人の仲間と一緒に参加した。 事前に現地調査をし、当日案内して下さった河原さん、詳しくて有益な資料を準備して下さった久世さんに、お礼申し上げます。 (2006年3月) |
||
上台北遺跡出土の 弥生時代後期の人面土器 |
地図が表示されるまで、しばらくお待ち下さい |
GPSで測定した当日の我々の軌跡 GPS (Global Positioning System、全地球測位システム) は、人工衛星の電波を受信して、 自分の位置を高精度に自動測定するシステム 水山さんのGPSデータを使用しました |
鶴 見 区 役 所 |
10時に、横浜市鶴見区役所に集合 区役所のロービーには上台北遺跡出土の土器が展示されている |
A | A | |||
久世さんが用意して下さった資料を片手に カラス越しに展示品を眺める |
弥生後期の人面土器 頭飾りと首飾りがある |
粘土の紐を積んだ痕跡 (輪積み痕)の見える土器 |
兜 塚 古 墳 |
A | ||
古墳の脇にある遺蹟の碑 | ||
大田道灌兜塚伝承、冨士浅間信仰、長慶天皇御陵説などがあるが、実は、古墳時代後期のごく一般的な円墳。 高さ8m、直径31m | 古墳の山頂に冨士浅間神社 |
碑の横に建てられた解説板 |
梶山遺跡・梶山北遺跡 |
A | ||
兜塚古墳から尾根続きの台地の上にある梶山遺跡・梶山北遺跡から、弥生時代中期と後期の住居址が調査区だけで22軒も発見され、大集落があったと考えられる | しかし、現在は公園「かぶと塚広場」になっていて、往時を偲ぶものは何もない。 横浜市北部公園緑地事務所の案内板があるが、遺跡には触れていない。 「遺跡」は教育委員会の所管で、担当が違う! |
八千代田横穴墓群 |
昭和46年度の調査で5基の横穴墓が確認され、直刀、瑪瑙製勾玉などが出土した。 これらの横穴の中には中世の「やぐら」(墳墓)として利用されたものがあり、応永3年(1396)から文明16年(1484)の板碑が出土している。 現在は公園になっていて、横穴は見られないが、地形に僅かに往時を偲ぶことが出来る。 |
三 ッ 池 公 園 |
歴史探訪とは直接関係はないが、お花見と昼食のため三ツ池公園を訪ねた。 三ツ池公園は昭和32年に開園された面積29.7haの総合公園で、神奈川県横浜地区公園管理事務所が統括管理している。 開園後約50年を経過し、現在再整備として「参加型公園つくり」が進められている。 |
A | ||
満開の桜、向うは「染井吉野」、手前は「横浜緋桜」。公園のボランティアガイドさんによると、「横浜緋桜」は大正時代に横浜市港北区の人が開発したという。 | 桜の下で、吹奏楽を演奏する高校生 |
A | ||
池には緋鯉が一杯 | 渡り鳥の鴨が羽を休めている |
A | ||
公園ボランティアガイドさんが説明して下さった池畔にある歌碑の1つ |
この石碑は、天保14年(1842)につくられたもので、当時三ツ池の水が広い田んぼに引かれて涸れることなく、いつも農民に深い恩恵を与えたことを詠んだ和歌が万葉仮名で刻まれている |
ちまちだ | ひくとも | つき | きみがよの | めぐみもふかき | み いけのみず | ふじはら ますのぶ | |
千町田に | 引登茂 | 都喜じ | 君賀代乃 | 恵母富加幾 | 三ツ池農水 | 藤原 増貤 |
三ツ池・コリア庭園 |
三ツ池公園中に「コリア庭園」という一角がある。平成2年(1990)の神奈川県と韓国京畿道との友好提携を 記念して造られたもの。 設計施工に当たっては韓国京畿道の全面的な協力を受け、韓国庭苑家の監修の下、 造園専門家の参加もあったという。 建物の瓦や石灯籠、庭石なども韓国の資材の寄贈を受けた。 |
この壷はチャントッテと呼ばれ、韓国では台所に 近い後庭に造られ、醤油、味噌、漬物の置場とし て、家勢を表す重要な施設である。 |
コリア庭園に隣接する小高い丘の上でお弁当 公園ボランティアさんが桜の木の話をして下さった。 「横浜緋桜」の由来もこの方から伺った。 |
上台遺跡・上台北遺跡 |
上台北遺跡はJR鶴見駅北西2.6km、鶴見川の南岸の台地上にある。 昭和53年の発掘調査には、中学生など延べ1000人の市民が参加し、 縄文時代中期と弥生時代後期の竪穴住居跡6軒を発見した。これより前、 昭和33年には耕作中に人面土器が発見された。この土器は鶴見区役所のロビーに展示されている。(上述) 上台北遺跡の南南東500mほどの同一台地上に上台遺跡(下末吉遺跡) がある。今回はここを訪ねた。 |
A | ||
上台遺跡は末吉中学校の中にある。 |
末吉中学校の先生と生徒による昭和29年の発掘で 縄文中期と弥生後期の竪穴住居跡と土器などが発 見された。遺物は校内に保存されている。 |
A | ||
弥生式後期久ヶ原式 甕棺 | 校庭に復元された縄文中期の住居跡 |
小仙塚貝塚 |
A | ||
小仙塚貝塚は縄文後期の貝塚で、昭和41年の鶴見高校校舎改築工事の際に多くの土器が出土した。 | テニスコートの向うの崖に貝塚が露出しているが、 生憎試合中のため近づけない。 |
A | ||
代りに反対側の台地で貝殻を見つけた | 久世さんは縄文土器の破片を発見! |
寺 尾 城 址 |
寺尾城の城主は諏訪三河守で、城は永享年間(1430-1440)に造られ、永禄12年(1569)の武田信玄の小田原攻めの時に落城したとみられている。現在は住宅地になっていて城址の面影は全くないが、殿山、馬場、諏訪坂、などの地名に往時を偲ぶことが出来る。 |
住宅地の中にある「寺尾城址」の石碑の前で記念写真 |
A | ||
北側のバス道路の近くに立てられた城址の案内図 |
南側の殿山公園の近くには 縦空掘跡とおぼしき場所がある |
今回の探訪で感じたことは2つ。 1つは鶴見川周辺の台地は縄文時代から多くの人が住んでいた多分住みよい場所であったこと。 もう1つは、一度失われた遺跡は再び元に戻らないこと。 横浜市の中でも人口密度の高い鶴見区に遺跡が沢山あることは驚きであるが、これからは出来るだけ遺跡を保存する工夫が必要であることを痛感した。 |
|
|
|
ホームページの中で検索したい |
|
ホームページの中で道に迷ったら |
|