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足尾銅山----日本の鉱業の光と陰

足尾銅山は慶長15年(1610)に発見され、かつては日本一の銅産出量を誇った。 その歴史は、「鉱山近代化」の光と、「鉱毒問題」の陰に彩られている。 いうまでもなく古河市兵衛による足尾銅山の輝かしい歴史と、「公害の原点」ともいわれる田中正造の環境保護運動である。

我々は、「自然の仕組みを学ぶことから自然保護運動を始めよう」と考えてNPO活動をしている。 そのNPO「山の自然学クラブ」が、足尾銅山跡の植林状況を見学する会を専門家を招いて開催した。 小生は生憎参加できなかったので、後日妻と2人で出かけた。
 ただし、小生は植林に関しては素人のため、どちらかというと、「植林状況見学」よりも「足尾鉱山跡見学」になってしまったが、興味深い旅であった。        (2004年11月)
旧足尾精錬所



足尾銅山への道

足尾銅山付近の地図(MapFan Web による)

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東武伊勢崎線相老から「わたらせ渓谷鉄道」に乗車
終点の間藤(まとう)で下車。
間藤から町営バスで旧精錬所のある赤倉へ
旧精錬所まで鉄道線路は一部残っているが廃線



旧足尾精錬所関連の遺跡

足尾銅山は慶長15年(1610)に発見され、芝上野の徳川廟の築造や江戸城の増築の時に屋根瓦に使用された。元禄10年(1697)の我国の銅の生産高は世界一で、長崎貿易の輸出高の半分は銅であったという。

近世後期から不振をかこっていた足尾銅山が古河市兵衛(後述)の手に渡ったのは明治9年である。14年に新たに豊富な鉱脈が発見され、産銅量は急速に増加し、18年の産銅量は全国の39%を占めるに至った。23年には間藤に我国最古の鉱業用水力発電所が設置された。

鉱山経営が順調に発展するなかで、、公害の原点といわれる足尾鉱毒事件が発生した。坑木や燃料として周辺の山林を乱伐したことと、硫酸を含んだ煤煙とによって周辺の森林は大きな被害を受けた。丸裸になって保水力を失った山では洪水が頻繁に起こるようになった。洪水のたびに渡良瀬川では、鉱毒のため魚が死ん漁業ができなくなった。

鉱毒の影響が下流農民に現れ始めたのは、明治18年頃からであるが、明治29年の渡良瀬川の大洪水によって鉱毒問題は一挙に拡大していった。34年に田中正造(後述)の天皇直訴事件となる。 輝かしい歴史の足尾銅山は昭和48年に閉山となった。

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              (左) 古河橋 (脇の説明板には要旨下記のことが記されている)
明治23年12月に完成した日本でも初期の鉄道用鉄橋として記念すべきものである。当時、ここは足尾銅山の中心地として鉱業所、社宅などがあり交通量も多かったため、明治18年に木造の橋が架設されたが、明治20年4月の松木からの火災で焼失したのでその跡にドイツ人の設計によりこの古河橋(長さ50m、幅4.6m)が架設された。現在は歩道用として利用されている。
                   (右) 「足尾精錬株式会社 足尾精錬所」の表札
古河橋を渡ると右側に会社の正門がある。現在は操業していないが、歴史遺産として残しているのであろう。

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旧足尾精錬所の建物は、道路から遠望できる


           足尾町指定史跡 間藤水力発電所跡
明治10年から足尾銅山を経営した古河市兵衛は、今までの薪・木炭に代る動力源として、ドイツのジーメンス社の勧めにより、初めて水力発電所を明治23年12月に完成させた。 この水力発電は日本初期のもので、松木川上流(現在の足尾ダム下)から取水し、落差32mの水力によりトルビン横水車を回転させた。 400馬力(約300KW)の電力は、揚水機、巻揚機、坑内電車、電灯などに利用され、銅山近代化を進める力となった。
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名残をとどめる直径1mの鉄管(上の平地区)
 
 
付近には板状節理の溶岩が見られる。
このような火山帯だから高温熱水鉱床として、
銅鉱石を産出するのだろうか

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付近に設けられた説明板 は退色してほとんど判読できないので、撮影後に画像処理をして復原した

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             龍蔵寺
大宝元年(701)に役の行者が創立し、後に慈覚大師が再興したという。明治20年の大火で焼失し28年に再建した。境内には親分子分の坑夫の墓がある。
29年に「栃木群馬鉱毒事務所」が設けられ、鉱業停止を求める活動が展開された。
愛宕下 地蔵尊
このお地蔵さんは、足尾銅山の
栄枯盛衰を眺めてきたことだろう
 
 
 

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      足尾町の路上の説明板 (説明板の中には退色したものもあるが、これは鮮明である)
「愛宕下」は、江戸時代には「坂詰」と呼ばれ、農家が3戸あった。明治になって足尾銅山の社宅地として開発され、明治30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため東京から来た人達の飯場が立てられたが、工事が終了すると撤去された。40年代になると、精錬所の社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれた。昭和31年には181世帯819人の人口を数えたが、現在では、13世帯24人が住むのみであるという。

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「上の平」の旧足尾銅山社宅は幾棟かが保存されており、「つわものどもの夢の跡」を偲ぶことができる



緑回復への努力

伐採、有毒ガス、山火事のためにできた禿山に緑を取り戻す必要性が叫ばれ、昭和12年になってようやく砂防工事が着手された。昭和25年に念願の足尾砂防ダムの工事が始まり、昭和29年に完成した。昭和31年から本格的に多くの人手と長い年月をかけ、緑を蘇らせる治山工事が始まった。緑が蘇るとともにツキノエワグマ、ニホンカモシカなどの動物が戻ってきたが、木の皮を食べて枯らしてしまうニホンジカの食害も問題になってきたという。

栃木県の足尾治山事業のパネル 緑化工事が進んでいるのは山の一部に過ぎない

大畑沢の緑の砂防ゾーン
緑化されたところと荒廃地が歴然としている

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体験植樹の参加者名簿 斜面の土留の間に整然と植樹されている 鹿の食害防止ネット

展望台から渡良瀬渓谷を挟んで、壁画のある足尾砂防ダムが見える



銅親水公園

足尾砂防ダムの下にある銅(あかがね)親水公園には、足尾環境学習センターがあり、足尾銅山の歴史や砂防事業などについて学ぶことができる。

3つの川(左から仁田元沢、松木川、久蔵沢)の合流するところに足尾砂防ダムがある。

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手前から銅橋、銅親水公園、足尾砂防ダム
 
 
足尾砂防ダムには、わが国最大規模の陶器による壁画がある。足尾焼2,000枚を用いてニホンカモシカを描いている。(幅25m、高さ15m)

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足尾環境学習センター センターには、足尾銅山の歴史と環境問題の展示

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金色をした黄鉄鉱 FeS2
 
銅の鉱石 黄銅鉱 CuFeS2
 
足尾銅山で作られた寛永通宝は
「足子銭」と呼ばれた

学習センターに展示さた足尾銅山の技術史

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公害についてはこのパネルだけというのは寂しい。どんな公害が、どの程度生じ、どのように解決されたかを、展示してほしい。 一方、治山・治水・緑化については、模型を使って詳しく説明されている。
 


古河市兵衛と足尾銅山事業
( 足尾町公式ホームページより )
   天保3年(1832)京都岡崎の造り酒屋の二男として生まれた市兵衛は、生家の事業不振のため11歳のころからでっち奉公や行商に出されていました。18歳の秋、商人を志し伯父を頼って盛岡へ赴きました。
   27歳の時、京都井筒屋小野店の古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と改名しました。ここで商才を発揮し、生糸輸出に手腕を振った市兵衛はその功績が認められ、明治2年に井筒本家から分家が許されました。
   その後さらに生糸貿易で活躍し、岡田平蔵とともに鉱山経営に乗り出しましたが、明治7年突然の主家の破産により独立しました。その後の生糸取引の失敗で鉱山専業を決意しました。
   明治10年、志賀直道を説いて半額の出費を得た市兵衛は当時不振が続いていた足尾銅山を48,380円で買い取り、陸奥宗光の協力や渋沢栄一の資金援助を受けて開発にあたりました。
   明治14年の鷹の巣直利、16年の備前楯直下の大直利(引用者注いずれも高品位鉱脈)の発見は、足尾銅山発展の基礎を築きました。その後、新技術の導入、銅山の電気・近代化を図り、明治20年には日本の全銅産出量の40%を占めるまでになり、市兵衛は日本の銅山王の地位を得たのです。その反面、大規模な開発は足尾鉱毒事件を引き起こしてしまいました。
   明治36年、市兵衛は72年の生涯に幕を閉じました。



田中正造と足尾銅山鉱毒事件
( 足尾町公式ホームページより )
  正造は天保12年(1841)安蘇郡小中村(現在の佐野市)の名主の長男として生まれました。
   17歳で名主となり、領主六角家の悪政を強訴し続けた正造は、5年後に初志を貫くことができましたが、投獄追放されてしまいます。その後、留学を望み上京しましたが果せず、東北の江刺県へ赴いた正造は、この地で上司殺害の容疑で再び入獄。そこで政治学を学び、無罪となり帰郷した後、政治改良に専念することを決意します。
   県会議員を経て明治23年第一回衆議院議員選挙で当選し第二回帝国議会で足尾銅山から流出する鉱山被害について政府に初めての質問書を提出しています。以後10年間にわたり鉱毒除外のために奮闘しますが、明治33年の川俣事件をきっかけに、自ら議員を辞職します。
   明治34年には明治天皇への直訴を試みますが失敗します。この事件は世に大きな影響を与えましたが、政府による対策は谷中村に洪水予防の遊水池を設けるという見当違いのものでした。
   この対策に反対した正造は、買収予定の谷中村へ移住し、村民とともに反対運動を展開しました。しかし、こうした努力も報われず、明治40年には移転を拒む16戸が県に強制破壊されてしまいます。
   「何とて我らを」というキリストの言葉を日記に残して、大正2年旅先で倒れた正造は臨終の日詰めかけた人々に自然破壊を嘆いて檄を飛ばしたといいます。信念を貫き、農民とともに生きた波乱の人生でした。




足尾銅山観光

足尾銅山の遺跡、銅親水公園、緑化工事などを見学した帰路、わたらせ渓谷鉄道の通洞駅で途中下車して、足尾銅山観光を見学した。

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トロッコに乗って坑内に入る。 坑内では、人形を用いて、実物さながらに展示している。
坑道の長さは全長1,200km余りで、東京から長崎までの距離に匹敵する。見学はごく一部。

江戸時代の坑内作業
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手掘坑夫 車夫 負夫 水替人夫

大正・昭和時代の坑内作業 坑道内で見られる銅と硫酸銅
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進鑿夫 支柱夫 自然の沈澱銅 地下水が作った硫酸銅

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銅銭ができるまでを
展示する鋳銭座
出勤時の中門改め
 
完成した銅銭の検査場
 

「足尾銅山観光」を閉店時間で追い出され、外に出ると夕闇が迫っていた。
この山の地下に全長1,200kmの坑道が掘られているのは不思議な気が
した。今回は時間がなくて、日本のグランドキャニオン(いまだに禿山の松木川渓谷)に行けなかったのは残念であった。

どんな歴史にも光と影がある。イギリスに端を発した産業革命は、多くの富をもたらしたが、無産階級を生じた。ロシア革命は農民や労働者を経済的に救ったかも知れないが、自由と人権を奪った。

足尾銅山は鉱業の近代化と鉱毒事件という2面から功罪を論じなければならない。企業家が世界に伍していくために近代化を図るのは当然であり、田中正造のような住民運動家なくしては「正」と「反」のバランスが取れない。COを排出しない原子力はエネルギー源として重要であるが、強力な情報公開と住民監視がなければバランスを失う。

自然環境保護のNPOに所属する私にとって、考えさせられることの多い旅であった。



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