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埼玉・群馬県境の地学見学----埼玉県立自然の博物館、長瀞渓谷と宝登山、三波石峡と
     神流湖、西御荷鉾山、恐竜センターと恐竜の足跡、旧富岡製糸場、群馬県立自然史博物館


 海外はいうに及ばず、国内にも、動植物や地質など 「いわゆる自然学」として興味深く、ぜひ訪ねたいところは多い。その中には、美しい風景や優れた景観の地、珍しい地形・地質の地、希少価値のある植物や美しい植物の生育地、絶滅危惧種の動物の生息地、等がある。最近、地学に興味を持ってきたので、不思議な地形・地質を見るのが楽しみになってきた。

 地質学上重要な地層、岩体などの名称の由来となっている場所は、「模式地」と呼ばれる。関東から四国まで日本の背骨となっている中央構造線の南側を走っている地質の帯に、「三波川帯」や「四万十帯」がある。それぞれの「模式地」は、北関東を流れている「三波川」、日本一の清流四国の「四万十川」である。

 素人である私は、訪ねるべき見学地を絞り兼ねているが、しばらく「模式地」に集中してみようかなと思っている。早速、関東地方にある「模式地」の三波川と御荷鉾山を訪ねることにした。

 いつもは、地学の先生に引率して頂いたり、仲間と一緒に行くのだが、今回は自分の力を試すために、素人同士の妻と2人で出かけることにした。               (2011年5月)
 
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        長瀞渓谷の畳岩
三波川変成帯と呼ばれる変成岩が地表に露出しているところ。滑らかな床面に多くの節理が見られる。
              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
 下記にメールでお知らせ願います。
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「埼玉・群馬県境の地学見学」の全図   赤字は主な訪問地



1日目
(5月19日)
埼玉県立自然の博物館長瀞渓谷宝登山哲学の道養浩亭(泊)

埼玉県立自然の博物館発行の地図を参考に散策した


埼玉県立自然の博物館

長瀞渓谷の脇に建つ埼玉県立自然の博物館は、日本地質学発祥の地に相応しく、地学関係の展示に優れた博物館である。先ずこの博物館を見学してから、長瀞渓谷の現地観察に行くことにした。

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熊谷駅でJRから秩父鉄道に乗り換え、上長瀞に向かう 秩父鉄道はJRの古車を使っているのだろうか、似ている

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埼玉県立自然の博物館は上長瀞駅から500mほどの所にある 博物館の前に、「日本地質学発祥の地」の碑がある

碑の裏面には「由来の記」が書かれているが、鏡面のため画像処理に苦労した。
長瀞に分布する変成岩は三波川結晶片岩で、日本列島の根幹をなすものであること、
東京大学地質学科の初代教授のナウマン博士が明治11年にここを訪ねたこと、
などが記されている。

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博物館のホールの天井から、体長12mの巨大サメ カルカロドン メガロドンの復元モデルがぶら下がっている。
これは深谷市菅沼で発見されたサメの歯化石をもとに、近縁の現生ホロジロザメを参考に復元されたもの。

メガロドンは今から400万年前から2500万年前の世界各地の海に生息していた。気候の変化に伴い海水温が下降したとき、クジラの祖先たちは冷たい水に適応し、世界各地に分散して行ったが、メガロドンは冷水に適応できず、温帯にとどまらざるを得なくなり、エサ不足に陥って絶滅したという。しかし発見されたメガロドンの歯化石の中には僅か2万年前というものがあり、どこかに生きているのではないかと謎を呼んでいる。

長瀞の地質についてのパネル
長瀞は荒川の中流にあって、三波川結晶片岩類が広く露出する地域。結晶片岩がこれほどの規模で
露出している所は世界的にも珍しい。国内有数の景勝地であることから、大正13年(1924年)に
埼玉県では初めて国の名勝・天然記念物に指定された。

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                 結晶片岩
薄い岩の層が何枚も重なっているように見える構造は、岩石が地下20〜30kmの深さで高い圧力を受けて出来たもの。岩畳は結晶片岩の巨大な岩体である。
 
 
            結晶片岩中の白色脈
結晶片岩には、大小様々な白い脈が入り込んでいることがある。これらの脈は、結晶片岩が形成され地表に露出する過程で、岩石のひび割れや断層の隙間に地下水などの流体が入り込み、新たな鉱物が生じたことで形成される。脈を構成する鉱物には、石英、長石、方解石、緑泥岩、緑簾石などがある。

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                 紅簾石片岩
紅簾石と呼ばれる濃紅色の鉱物を含む、結晶片岩の一種。この赤色は含まれているマンガンによるもの。長瀞周辺でも紅簾石片岩の産出は少なく、これは小藤文次郎が世界で初めて紅簾石片岩を報告したものの1つとして有名である。
 
 
 
            虎岩の説明パネル
褐色と白色の互層がうねり、虎の毛皮模様に見えるから命名された。褐色の層はスティルプノメレンという鉱物でできており、白色の層は石英・曹長石・方解石などの鉱物でできている。スティルプノメレンは、肉眼的特徴が黒雲母と酷似するが、小島氏は1944年に、顕微鏡観察や化学分析から、この鉱物がスティルプノメレンであることをつきとめたという。

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                 蛇紋岩
蛇紋岩は、マントルを構成する岩石が水と反応することにより形成され、しばしば結晶片岩に伴って産出する。
 
                 蛇灰岩
細かくひび割れた蛇紋岩に、石灰分がしみ込んで白く固まると、白地に緑の斑点模様の美しい岩石になる。蛇紋岩の一種であるが、特に「蛇灰岩」と呼んで区別される。

砂岩・泥岩、石灰岩、緑色岩、チャート、メランジュが、付加体のどこで出来るかを示す図

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地下の深度(圧力)と温度により、形成される変成岩が異なることを説明する図

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         アケボノゾウの復元骨格モデル
アケボノゾウはゾウの仲間で、1700万年前に繁栄し、その後絶滅した。このモデルは、狭山市の入間川左岸で発見されたものを元に復元されたもの。
 
    パレオパラドキシア化石の出産状態と復元モデル
パレオパラドキシアは1500万年前の海辺の動物でその後絶滅した。これは秩父市大野原の荒川右岸の崖から発見されたもの。現在のカバあるいはセイウチに似た姿であったと思われる。

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高浜虚子の句碑
ここに我 句を留むべき 月の石
宮沢賢治の詩碑
つくづくと 「粋なもやうの博多帯」 荒川ぎしの 片岩のいろ



長瀞渓谷の舟下り

博物館を見学した後、下長瀞の乗船場から舟下りを開始した。

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人数分のライフジャケットは用意されているが、
着用することもなく船はスタート
ラフティングを楽しむ若者を横目に舟下り
 


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秩父鉄道の鉄橋を潜る。船頭は早瀬に来るとしゃがんでしまう。前がよく見えて結構だが・・・

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早瀬と灰色の結晶片岩 淵と緑の結晶片岩


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「秩父赤壁」に来ると、川下りの中間点にある下船場も近い。
三国志の「赤壁の戦い」の舞台にあやかって名付けられたのであろうが、夕日に映えると美しいという。

下船場はちょうど名勝岩畳に近いが、
岩畳は帰路に歩いて訪ねることにし、ここから宝登山に向かう。



宝 登 山

梅園、ロウバイ園や宝登山動物園などがある宝登山からの展望を楽しもうと思ったが、生憎の高曇りで眺望は利かなかった。

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長瀞町郷土資料館
遺跡出土品、民具、機織の3つのコーナーがある。
隣接する旧新井家住宅について説明してくれた。
長瀞町郷土資料館の遺跡出土品コーナー
川面(かわづら)遺跡は縄文中期の遺跡で、
加曾利E式の大量の土器が出土した。

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国指定の重要文化財である旧新井家住宅は付近から移築したもの。新井家は江戸時代に名主を務めたといわれているが、文書は残っていない。解体の際に三峰神社の延亨2年(1745年)のお札が出たので、建築されたのは260年前と思われる。 住宅の構造は、かつて秩父に多くみられた養蚕農家の姿をよく伝えているが、最大の特徴は、屋根が板葺きで、下地の竹の上に長方形の薄い栗板を重ね、その上に石を載せて押えていることである。栗板が使われたのは他の木に比べて雨に強いからだという。

竹林越しに見る旧新井家住宅

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坂を登ると宝登山ロープウェイの山麓駅に着く
 
標高497メートルの宝登山(ほどさん)山頂駅までの
全長832mを約5分間で結ぶ。

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ロープウェイ山頂駅から10分ほど登ると宝登山である 山頂近くに宝登山神社奥の院がある

宝登山神社伝によれば、第12代景行天皇の41年(111年)皇子日本武尊が勅命によって東国平定の時、遥拝しようと山頂に向っている折、巨犬が出てきて道案内をしてくれた。その途中、東北方より猛火の燃えて来るのに出遇い、尊の進退はどうすることもできない状態になってしまった。その折巨犬は猛然と火中に跳入り火を消し止め、尊は無事頂上へ登り遥拝することができた。尊は巨犬に大いに感謝したところ、忽然と姿を消した。このことから「火止山」の名が起きたという。また巨犬は大山祇神の神犬であった事を知り、また防火守護のため火産霊神を拝し、その後山麓に社殿を建て三神を鎮祭し、これが宝登山神社の起源であると伝えられる。



哲学の道(岸辺の観察路)

宝登山から下山して、再び長瀞の町を通り抜け、長瀞渓谷に戻り、左岸を遡って、上長瀞にある今夜の宿「養浩亭」に帰る。この左岸の道は何故か「哲学の道」といわれるが、岩伝いの冒険の道である。

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岩畳とは、言い当てている。節理のある結晶片岩の上を歩く。時々断層のような岩の割れ目を跳ばなければならない。 結晶片岩が、薄い泥岩の層が高い圧力と高温で変成してできたものであることが、何となく理解できる。

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岩の間には、このような池が出来ている。こんなところに出くわすと岩伝いに迂回しなければならない。 池にはオタマジャクシがいることから、一時的でなく恒常的な水が存在することが分る。

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途中で、地学の巡検をしている大学生の一群に出会った。「今日の巡検はこれで終了!」という先生の声が聞こえた。 積層している変成岩に、断層も見られる。
 

さらに川を遡ると、虎岩といわれる大きな岩に出くわした。

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同じような岩層の岩が、少し傾斜して並んでいる 結晶片岩中の白色脈は石英だろうか

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緑がかっているのは緑泥石片岩であろうか
 
 
これが、褐色と白色の互層がうねり、虎の毛皮模様に見える虎岩のスティルプノメレンだろうか? ちょっと違うような気もする

宿泊した養浩亭

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養浩亭の庭の藤が見頃だった モミジの種子の赤い羽がかわいい。



2日目
(5月20日)
 長瀞三波石峡神流湖西御荷鉾山
    恐竜センター恐竜の足跡
ヴィラせせらぎ(泊)

今日は、長瀞の宿まで迎えに来てもらって、最終目的地の「ヴィラせせらぎ」まで1日観光タクシーを利用する。コースは、このホームページの最初に示した地図の通りである。途中で、西御荷鉾山に登る。


三波石峡と神流湖(下久保ダム)

三波川に降りるのは失敗したが、有名な三波石峡を見学し、神流湖と
下久保ダムを見る。

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三波川帯の由来の地(模式地という)である三波川を渡る橋(左の地図の赤い点)から撮った写真が右のもの。
工事中で行けそうにないと思ったが、とんでもない誤解で、道路に沿って行けば河岸まで行けたはず。
今回の旅の最大の失策である。

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三波川は見損なったが、三波石峡に近づくと三波石をストックしている石屋さんを、幾つか見た

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三波石峡の行き詰まりの所に、鬼石町教育委員会と環境庁(今は環境省)・群馬県のそれぞれが作った標識がある

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三波石峡には道路からの入口が5箇所ある 神流川と三波石の織りなす名勝である

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神流川まで降りて、三波石と記念写真 三波石峡の行き詰まりは、下久保ダムである

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ダムサイトに通じる道に戻る ダム湖百選に選ばれた神流湖の碑を飾る三波石

神流湖から眺める下久保ダム
このダムは、洪水調整、灌漑、都市用水、発電を目的とする多目的ダム
最大発電出力は15.3万kW、ダムの形式は重力式コンクリートダム、
高さ129m、長さ310m、ダム工費200億円、昭和45年(1970年)完成

なお、この上流には、最大出力282万kWの世界最大の揚水式発電所である「神流川発電所」が建設中である



御荷鉾スーパー林道と御荷鉾山

神流湖畔から御荷鉾スーパー林道を通って西御荷鉾山登山口まで走る。登山口にタクシーを待機させて、山頂までピストン往復する。御荷鉾山は、地質学上の御荷鉾帯の由来の地(模式地という)である。どんな岩に会えるのやら・・・

神流湖畔から御荷鉾スーパー林道を通って西御荷鉾山登山口まで走り、
山頂をピストン往復し、道の駅「万葉の里」までを示す地図

タクシーの運転手が初めて走るというので心配したが、
スーパー林道への入口が見つかり、ホッとする

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スーパー林道はコンクリート舗装のいい道だ 壁面を覆うコンクリートが剥がれているところで、岩盤を観察

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三波石と同じような変成岩だ 緑色の変成岩もある 褐色で劈開(へきかい)され易い岩もある

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投げ石峠を過ぎたところに西御荷鉾山登山口がある 登山口の近くには、脆い泥岩のような岩がある

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登山口の駐車場に、環境省・群馬県の2つの表示板があった。 左は万葉集東歌、右は群馬の伝承である。

                万葉集 東歌

多胡の嶺に 寄せ綱延へて 寄すれども
           あに来やしづし その顔良きに

                
  (万葉集 東歌 14−3411)

多胡の山に引き綱を懸けて引き寄せても、憎いことに、
あの娘は近寄って来ない、その美しい顔を鼻にかけてるのかい。

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登山道は急登で、階段を設けたところもある。 途中で、緑色の泥岩のような岩を見つける

ツツジが咲いていて心地よい

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これは大発見! 登山道の真ん中で縄状溶岩を見つけた。
海中で噴火すると枕状溶岩ができることはよく知られている。
ここでは、粘性の小さな(つまり流動性の大きい)溶岩が
空気中で固まったのではないだろうか。

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30分余りの登りで二等三角点のある山頂に着いた 左の写真のの所に結晶片岩らしき岩が顔を出していた

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山頂の南面に不動明王の石像が祀られていた 山頂から北方面を望む

山頂から南方面を望む。左遠方の山は城嶺山(1038m)、中央遠方に武甲山(1304m)が見えるはずだが、定かでない。

かくて、御荷鉾山の現地観察は終った。いろいろな岩相にお目にかかったが、
一体、御荷鉾帯とはどんな地層なのか分らない。宿題が残った現地観察だった



十石峠街道を西へ

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県道71号で下山し国道462号(十石峠街道)を西に進むと、道の駅「万葉の里」がある。
さすが万葉集にゆかりの御荷鉾山だと感心したが、ここは「まんばのさと」と呼ぶ。
万場高校など「まんば」の地名が多い。万葉集とは関係がないらしいが、懸けたのかもしれない。

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車窓から大きな岩に気付き車を止めてもらった。丸岩という。近くに神流川鮎神社があり、魚魂碑が建てられていた。
丸岩には面白い伝説がある。昔この山里に大蛙と大蛇とナメクジが棲んでいた。三匹は神流川でばったり出くわした。さあ大変! 蛙は蛇が怖い、蛇はナメクジが怖い、ナメクジは蛙が嫌い。三匹が気が付いたときにはもう身動きならぬところまで来ていた。逃げ出せぬ三匹はじっとその場で居すくんで大岩になったという。 (現地の掲示板より)

神流川に沿ったこの辺りの山は、峨蛾がとした絶壁が目立つ。ヤマタノオロチが出てきそうである。(記紀の読み過ぎか?) と思っていたら、この近くの国道299号は「中山(やまなか)地溝帯」といって、恐竜などの化石が出るところであるという。もっともここで言う山中「地溝帯」は、正確には地溝帯ではないが、その話はこれから行く博物館で知った。



恐竜の足跡・瀬林の漣痕

国道462号(十石峠街道)を中里中学校の所で左折し、国道299号に入る。4〜5km進んだ左側に、「恐竜の足跡・瀬林の漣痕」がある。瀬林は付近の地名である。

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石壁の上に残された大小の穴は、3種類の恐竜の足跡であるという。
右下のさざ波のような跡は漣痕といわれるもので、いわば「波の化石」
 
群馬県指定天然記念物「瀬林の漣痕」と
中里村指定天然記念物「恐竜の足跡」の
2つは、実は1つの岩で見られるものである。

恐竜の足跡の解読 (恐竜センターの図録より)

中生代の神流町の模式図 (現地の説明板より)

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↑↓ 漣痕と足跡が残ったメカニズムの説明 (恐竜センターの図録より) ↑↓

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恐竜センター

恐竜の足跡から中里中学校へ戻り、国道299号を西に2kmほど進むと、恐竜センターがある。かつては中里の恐竜王国として知られていたが、平成15年に中里村と万場町が合併して「神流町」となり、今は神流町恐竜センターと呼ばれている。際物の「恐竜」を扱いながらも、真面目で楽しい展示が共感を呼ぶ。図録もなかなか立派である。

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(左)恐竜センター全景、 (右)恐竜センター入口 (恐竜センターのウエブサイトより)


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アパトサウルス上腕骨の本物 アパトサウルスの説明パネル


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「山中地溝帯」は、長野県、群馬県、埼玉県に跨る浸蝕地。本来は「地溝帯」は陥没地を指すが、
ここは当初地溝帯のように見えたため、そのような呼び名が付いたという。国道299号に沿う
幅2〜4km、全長約40km。日本の白亜紀の模式地の1つ。ジュラ紀から白亜紀の化石が多く出る。
                                           (恐竜センターの図録より)

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ライブシアター「よみがえる恐竜たち」をみる。モンゴルの恐竜たちをロボットが演じていた。

タルボサウルス・バタールの骨格 モンゴルで産出した白亜紀後期の肉食恐竜

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恐竜センターを後にして、上野村のヴィラせせらぎに到着。ここで1日運転してもらったタクシーのドライバーさんとお別れ。このヴィラは元国民宿舎の立派なホテル。 皇太子行啓記念碑がある。
 



3日目
(5月21日)
旧富岡製糸場群馬県立自然史博物館

今日は、ヴィラせせらぎを発って、バスとJRと上州電鉄を使って大きく迂回して富岡へ行った。そこから富岡製糸場と群馬県立自然史博物館を訪ねた。
実は、上野村から直接富岡へ行くバスが出ていることを、後に知った。時間とお金を無駄にしてしまった次第!

富岡周辺地図  訪問地:上州富岡駅、龍光寺、旧富岡製糸場、群馬県立自然史博物館

旧富岡製糸場

明治政府は殖産興業・富国強兵を掲げ、国造りに必要な外貨獲得のために、「生糸の輸出振興と品質向上」が重要になっていた。そこで、欧米の技術を導入した官営富岡製糸場を明治5年に操業させた。富岡製糸場には全国から多くの女工が集められ、器械製糸を学んで帰った。彼女たちは帰郷後、地元の工場で指導的立場で活躍し、日本の産業の近代化に貢献した。その後、富岡製糸場は国から民間に払い下げられ、順次、三井、原、片倉の財閥の経営になった。

富岡製糸場は、世界遺産登録を目指しており、現在暫定リストに記載されている。

龍光寺の製糸場女工等の墓

富岡製糸場見学に先立って、製糸場工女等の墓があるという龍光寺を訪ねた龍光寺は、上州富岡駅から製糸場へ歩いて行く途中にある。

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龍光寺の創建は長禄年間(1457〜1460)で、慶長17年〜元和3年(1612〜1617)に現在地に移転された 寺内には、富岡製糸工場で働いていた工女達の墓が30基存在し、
「富岡製糸場工女等の墓」として富岡市指定史跡になっている

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この墓標はA地区のもので、14名の工女の名が刻まれている。 明治26年に元富岡製糸所長正六位速水堅曹が建立


旧富岡製糸場

富岡市発行の富岡製糸場解説書より

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富岡製糸場の大門と表札
 
創業の翌年明治6年に当時の皇后と皇太后が行啓された記念碑
記念碑には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が詠まれた歌
 
 いと車 とくもめくりて大御代の 富をたくする道ひらけつつ
が刻まれている。この歌には、製糸場の発展が日本の繁栄に繋がることへの期待が窺える。碑は昭和18年の建立。

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大門から入ると正面に見える東繭倉庫             アーチにあるキーストーンは明治5年

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明治6年に建てられた検査人館
生糸や機械の検査を担当したフランス人男性の住居
 
明治6年に建てられた女工館
日本人の女工に技術を教えるために
雇われたフランス人女子教師の住居

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明治5年に建てられた操糸場の入口
 
建物の長さ140m、幅12m、高さ12m、
操業停止の昭和62年まで115年間使われた

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操糸工場の内部
木骨レンガ造、トラス構造のため内部に柱がない、
大きなガラス窓はフランス製
操業当初はフランス製の糸繰機300台が設置され、
世界最大規模の操糸工場であった
 

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ボランティアさんが、約1時間で一通り説明してくれる。 温度調節のための回転窓とモノレールに跨った自動搬送機

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明治6年に建てられたブリュナ館
製糸場首長のポール・ブリュナ一家とメイドは、
明治8年末の任期満了までここで、生活した。
                   片倉診療所
製糸場は、昭和14年に片倉工業鰍ノ移り、昭和62年に現役工場としての役目は終わった。「片倉診療所」の名前が当時の面影を残している。

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  昭和14年建造の鉄筋コンクリート製煙突
明治5年建造当時は高さ36mの鉄製の煙突であった。煙突は、繰糸機の動力源用の蒸気エンジンのボイラーに使われたもの。
          明治8年に完成した鉄水槽
横浜製作所から鉄板で運搬し、ここで組み立てられた。
貯水量376m、リベットで接合されている。
            富岡市発行の富岡製糸場解説書より
 鉄水槽の水位計
手前の建物の扉の
ガラス越しに見える。
 

1時間の見学を終えて帰路に着いた

創設期の富岡製糸場で働いていた工女は、旧藩士の子女といったエリートであり、設備や環境も整っていたという。これは、「女工哀史」の悲しいイメージから、かけ離れている。この違いは、明治 と 大正・昭和の違いであろうか、官営 と 民営の違いであろうか。 富岡製糸場が世界遺産に登録されるためには、このような「負の遺産」も明らかにする必要があるのではないだろうか。

富岡製糸場の社会的意義については、後日、「日本の絹産業」としてまとめる予定である。



群馬県立自然史博物館

せっかく群馬県に来たのだから、県立自然史博物館を訪ねた。
最近の博物館は個性があって面白い。

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群馬県立自然史博物館は、上州富岡駅からタクシーで15分ほどの「もみじ平総合運動公園」にある
大規模な博物館である。ここでは、私が興味を持った2、3のブースについて紹介する。


ラン藻細菌(シアノバクテリア)、ストロマトライト、縞状鉄鉱床を説明する重要な展示
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地球最古の化石として、
ラン藻細菌(シアノバクテリア)を紹介している
ラン藻細菌は水と二酸化炭素から光合成により糖を作り、酸素を
吐き出す。この生物のお蔭で、原始の地球に酸素が生まれた。

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ラン藻細菌の分泌物である炭酸カルシウムが、泥と一緒に堆積して、ストロマトライトができた。
これが最古の化石となった。
 
 
 
ストロマトライトのある海を模擬した模型
 
 
 
 
            縞状鉄鉱床
先カンブリア紀の無酸素状態の海水に大量に溶解していた鉄イオンが、生物の光合成が始まって以後、酸素よって酸化されて海中に沈殿したものと考えられている。世界の鉄鉱石埋蔵量の大半がこの縞状鉄鉱床である。


動く模型による大陸移動の説明 (残念ながら、プレートテクトニクスとしての説明が見当たらない)
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1つのパンゲア超大陸の時代 白亜紀末期(6500万年前) 現在


日本の中央構造線とは何かの説明 (残念ながら、中央構造線がどのようにして出来たのかの説明が見当たらない)

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植物化石の標本 恐竜の復元モデル

群馬県立自然史博物館は立派な博物館であるが、何か物足りなさを感じた。パネル展示が比較的多いこと、せっかくの説明が舌足らずであること、展示の間の関連付けが不足していること、等が原因ではないかと思った。最近、子供には楽しく、学生やアマチュアには勉強になるよう工夫された博物館が増えている。素人の私が言うのもおこがましいが、この博物館が一層充実した頃に、もう一度訪ねてみたいと思った。



埼玉県立自然の博物館を振り出しに、群馬県立自然史博物館まで、3日間にわたって沢山の自然と文化の歴史を見学した。見学場所は数え方によっては10箇所を越えたであろう。地学的に歴史に残る場所を見ることが、今回の見学の1つの目的であったが、浅学菲才の身ゆえ、いささか行き当りばったりの旅となった。しかし、この旅のお蔭で、これから学ばなければならないポイントも数多く見つかった。いつか再チャレンジしてみたい。



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