西田進のホームページ
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                    出雲国と石見国(1)
 
   美保神社、佐太神社、玉作湯神社、八雲山、須我神社、熊野大社、八重垣神社、神魂神社、
   八雲立つ風土記の丘、出雲国府跡、出雲国分寺跡、阿太加夜神社、揖夜神社、黄泉平良坂、出雲大社、
  
古代出雲歴史博物館、出雲阿国の道、稲佐の浜、日御崎神社斐伊神社、八岐大蛇公園、天が淵公園


 長い間訪ねたいと思いながら果たせなかった旅が、誰かが背中をちょっと押してくれたお蔭で実現することがある。出雲・石見はそんな旅であった。

 かねてより古事記、日本書紀、風土記の世界を訪ねたいと思っていたところ、今年は古事記編纂1300年に当るという。(因みに日本書紀編纂1292年、出雲国風土記編纂1279年に当る) この機会に長年の夢を果たそうということになった。 今年喜寿を迎えた私に、妻が、『 私は行けないけれど、喜寿のお祝いに行ってらっしゃい 』 と、こちらからも背中を押されてしまった。

 記・紀、風土記には沢山の説話(神話・伝説・民話など)が書かれているが、特に出雲国には、黄泉の国、スサノオ神話、国譲り神話、国引き神話など、子供のころから親しんだ神話が多い。絵本の世界でなく、実際に伝承の地を訪ねると、古代人の心が少しでも分るかもしれないという仄かな期待もある。

 今回の旅の前半は出雲国で、出雲大社をはじめ多くの神話の舞台を訪ねる。平成の大遷宮を来年に迎える出雲大社では、修造のほぼ完了した本殿を見ることが出来るだろう。旅の後半は石見国で、三瓶山(佐比賣山)登山、三瓶小豆原埋没林、世界文化遺産の石見銀山などを訪ねる。

 なお、神話に出てくる神様の名前は、古事記、日本書紀、出雲風土記で異なる場合が多いので、最初に現れるときに一応漢字で表記するが、以後は カタカナで表記した場合ががある。(カタカナではオとヲを区別しない) 甚だルーズであるが、ご勘弁願いたい。

 では、7泊8日の長い旅にご一緒にお出かけ下さい。  (2012年11月)
 
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      出雲大社
 「平成の大遷宮」に先立って
 「仮殿遷座祭」が行われた
         出雲大社ポスターより
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
 下記にメールでお知らせ願います。
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今回の旅の全GPS軌跡
主な訪問地   県名   ━━ GPS軌跡  



1日目
(10月25日)
米子空港美保関佐太神社出雲玉造資料館玉作湯神社玉造温泉(泊)

米子空港から美保関へ

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羽田空港から空路で米子空港に着く。 JR境線の米子空港駅 プラットフォームから大山が望まれた。 
米子空港は正式には航空自衛隊の美保飛行場で、愛称は「米子鬼太郎空港」。空港に愛称を付けるのが大流行だが、「高知龍馬空港」ぐらいに留めてほしい。 JR境線は、山陰本線に先立って明治35年(1902年)に開通した。平成5年(1993年)から「鬼太郎列車」を運行している。平成17年(2005年)からゲゲゲの鬼太郎に登場する妖怪を駅名の愛称に採用。

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車内は、天井といわず座席といわず、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクタが満載。
鳥取県境港市出身の水木しげるに因んでいる。
プラットフォームの駅名は愛称の方が大きい
(括弧内が正式駅名)

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黄金色に輝くセイタカアワダチソウ
見事に日本に住みついた外来種
鳥取県境港市と島根県松江市(美保関方面)との間に
架かる江島大橋
セイタカアワダチソウ(背高泡立草)は、アキノキリンソウ属。花粉症を起こすブタクサ(豚草)はブタクサ属で全く別物。セイダカアワダチソウにとってはとんだ濡れ衣である。 江島大橋の構造形式は、PC5径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋である。中央支間長は250mにおよび、桁橋としては日本最大の支間長を誇り、世界でも第3位である。

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美保之碕の遥拝所 美保関灯台、残念ながら休日で見学できなかった
美保之碕は、出雲国風土記の国引き伝説によると、北陸地方から引いてきたものといわれる。この付近は事代主神(大国主神の第一子、美保神社の祭神)の魚釣りの島と伝えられ、美保神社の境内となっている。「遥拝」とは、遠くへだたった所から拝むことである。今年77歳の私にとっては、郷里の神社にしつらえられた遥拝所から、宮城(皇居のこと)と伊勢神宮を遥拝させられた太平洋戦争中のことが想い出される。

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岬に打ち寄せる日本海の荒波 国引き神話で、綱を繋ぎ止めた杭が伯耆国の火神岳(大山)である



美保神社

美保神社は、事代主神系えびす社3千余社の総本社である(蛭子神系のえびす社の総本社は西宮神社)。えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の美保神社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる。

大国主神(オオクニヌシノカミ)は、『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。スサノオの後にスクナビコナと協力して、葦原中国の国作りを完成させる。
だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、「富足る天の御巣の如き(古事記)」大きな宮殿(杵築大社=出雲大社)を建てて欲しいと条件を出して、国を譲った。「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天と習合して民間信仰に浸透している。大国主神は、大穴牟遅神(オオナムヂ)、大穴持命(オオアナモチ)、大己貴命(オホナムチ)、杵築大神(キヅキノオオカミ)など、多くの別名を持つ。子の数180人。

事代主神(コトシロヌシ)は大国主神の息子の1人。国譲りを迫まられると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。釣り好きとされ、海と関係の深いエビスと同一視され、海の神、商業の神としても信仰されている。

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鳥居 神門

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拝殿。多くの参拝者は拝殿を見て帰るが本殿を見ると面白い 重要文化財の本殿は美保造。本殿の裏に回ってパノラマ撮影した。
美保神社の本殿は、美保造(比翼大社造)と呼ばれる独特の様式で、大社造の社殿2棟を横に並べたものである。大国主神の子の事代主神を祀る左殿(後から見て右)は千木が垂直に切られていて「男神」を表す。大国主神の后の三穂津姫命を祀る右殿(後から見て左)は千木が水平に切られていて「女神」を表す。



関の五本松から松江へ

 ハアー 関の五本松 ドッコイショ 一本切りゃ四本 あとは切られぬ 夫婦松
 ショコ アショコ アショコホイノー松 ホイ

と、島根民謡に歌われた「関の五本松」である。昔は、舟人たちが入港の目印としていた五本の松だが、大名行列の槍がつかえるという理由で一本が切られてしまった。舟人たちは、藩主へのやり場のない怒りと、松への愛惜をこめてだれからともなく歌いだしたという。
 
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関の五本松は海岸から標高差100m程の丘の上にあり、
今は関の五本松公園になっている。
 
初代関の五本松は、昭和8年(1933年)に天然記念物に指定されたが、相次ぐ台風で倒れ、残る1本もマツクイムシに侵されて平成9年に伐倒され、今は切株が保存されている。

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三代目関の五本松。二代目が平成2年台風により折れ、翌3年には残る2本もマツクイムシに侵されて伐倒。そこで二代目の種で自生した松を、平成3年に三代目五本松として襲名披露したが・・・ 五本松公園から望む大山
 
 

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美保関から松江市内経由で佐太神社に向かう、車窓から見る松江城



佐太神社

佐太神社は、出雲国風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社(さだおおかみのやしろ)、あるいは佐太御子社(さだみこのやしろ)と書かれ、古代には出雲国三大社の1つとして杵築大社(出雲大社)、熊野大社とともに「佐陀大社」と称えられたという。

祭紳はきわめて複雑で、過去には幾たびか紛争があった。現在では、正殿は佐太御子大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男之命、北殿は天照大神・瓊々杵尊、南殿は素盞嗚尊・秘説四座、ということになっている。

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鳥居 拝殿と本殿三社
本殿三社は、いずれも大社造りで正殿を軸として南北の両殿を配置し、しかもそれを対照的にした発想に注目される。特に向かって左の南殿は通常の大社造りの構造とは逆に作られており他に類例を見ないという。

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佐陀神能のユネスコ無形文化遺産決定を祝する横断幕
ユネスコ無形文化遺産には、佐陀神能の他に、能楽、歌舞伎、
京都祇園祭りの山鉾行事など21件(2011年現在)
佐陀神能の1つ「八重垣」をご覧になる方は
上の写真をクリックして、しばらくお待ちください。

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出雲玉造資料館

勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。
「形の由来」の説として、以下のものがある。
 ? 動物の牙で作った牙玉を基とする説
 ? 胎児の形を模したとする説
 ? 魂の姿を象ったとする説
 ? 巴形を模したとする説
 ? 月の形を模したとする説
 ? 形そのものに意味があったとする説
 ? 破損した耳飾を再利用したとする説
がある。(wikipedia)

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松江市立玉作資料館 碧玉(へきぎょく)と瑪瑙(めのう)の勾玉 勾玉を作る砥石には、結晶片岩が使われた

古墳時代前・中期の玉作り遺跡と花仙山

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花仙山原産の碧玉原石 花仙山は正面右の山



玉作湯神社

『出雲国風土記』に「玉作湯社」が記載されており、「玉作湯神社」に対応するものと考えられている。境内は国指定の玉作り遺跡である。

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鳥居 拝殿

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大社造の本殿
玉の神の櫛明玉命、温泉守護の少彦名命、国譲りの大国主命を祀る
境内にある「願い石」は、珍しい丸い自然石
願い事が叶うということで、若いカップルのお参りが絶えない。

高台にある玉作湯神社を降りて、玉湯川に沿って夕暮れの玉造温泉を散策する。
玉造温泉は、有馬温泉、榊原温泉(三重県津市)と共に、枕草子による日本三名泉といわれている。


出雲国風土記地図 (郡名、郷名、国府、郡家、駅名、主な山・川・道路等を示す)
荻原千鶴 「出雲国風土記 全訳注」 講談社学術文庫 の地図を着色した



2日目
(10月26日)
  玉造温泉八雲山須我神社熊野大社八重垣神社神魂神社八雲立つ風土記の丘
  出雲国府跡
出雲国分寺跡平濱八幡宮・武内神社阿太加夜神社揖夜神社
  黄泉平良坂今市大念寺古墳出雲市(泊)

八雲山

朝、玉造温泉を発って八雲山に向かう。八雲山は、出雲国風土記の意宇郡条に須我山と記されている。八雲山の山頂から島根半島を眺め、国引き神話の世界を想像してみたいので、登ることにした。

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杉林の登山道を登って行くと、やがて針葉樹・広葉樹の混合林になる

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八雲山の標高424mで、4等三角点がある。
山頂から宍道湖を挟んで島根半島が展望でき、国引き神話の世界を想像する積りだったが、424mでは高度が足りない。
そこで、GoogleEarthで、八雲山上空から眺めることにした。

GoogleEarthで八雲山上空47kmからみた3D地図

                      出雲国風土記に書かれた「国引き伝説」

出雲国風土記には、古事記や日本書紀にはない「国引き伝説」が書かれている。それによると、「八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)」が国をつくるのに、出雲国は小さすぎるので各地から引いてきて継ぎ合わせた、と記されている。継ぎ足されたところは島根半島の部分である。東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸から、西端の「支豆支の御埼(きづきのみさき)」は朝鮮半島の新羅から、その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引いてきたとされる。しかし「良波国」と「佐伎国」はどこに当るのか諸説があって定まらない。もっとも取ってしまった後は残っていないから現在の地図で探すのは論理的でない。 (^_^)

「支豆支の御埼」を引いたときに使われた綱が「薗の長浜」(園の長浜)、綱を結んだところが「佐比賣山」(三瓶山)である。「三穂の埼」を引いたときに使われた綱が「夜見嶋」(弓ヶ浜は古代には島であった)、綱を結んだところが火神岳(大山)である。

人工衛星もGoogleEarthもない古墳時代以前に生まれた神話に、このように壮大な発想があったことに驚くほかない。

八雲山の山頂から、登りと異なる登山道を降ると、沿道に50余りの文学碑があった
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地元の人達の短歌である

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半分は俳句である

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やがて須我神社奥の院である夫婦岩が鎮座する すぐ下に「みそぎ場」があり、不老長寿の神泉坂根水と書かれている

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最後に登山口に出た。
私は裏口から入って表口に出たようである。
八雲山の全景は撮りそこなったので、
法師崎さんのWebの写真を使わせて頂く



須我神社

八雲山の麓に須我神社がある。古事記によると、須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇を退治した後に、妻となった稲田比売命と共に住む所を探し、ここに来て「気分がすがすがしくなった」として、この地を「須賀」と命名し、宮殿を建て、歌を詠んだ。

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

八重に雲が立ちのぼる。その名も出雲の国に、雲は立ち、八重の玉垣をなして私の宮殿を取り囲む。私はいま妻を得て、この宮殿を建てるのだが、私と妻とを閉じ込めるように、雲は立ち、八重の玉垣をつくる。ああ雲は、八重の玉垣をつくっている。 (福永武彦訳)

ここは和歌発祥の地といわれる。

須佐之男命(スサノオノミコト)は、『古事記』では建速須佐之男命須佐乃袁尊など、『日本書紀』では素戔男尊素戔嗚尊など、『出雲国風土記』では神須佐能袁命須佐能乎命などと表記される。

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鳥居 日本初之宮 「八雲立つ・・・」の歌碑が建っている

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拝殿 本殿



熊野大社

熊野大社は、出雲大社と共に出雲国一宮である。紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。出雲国風土記には熊野大社と記される。

「熊野大社」の石碑と「一の鳥居


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意宇川に架かる橋と「二の鳥居」
意宇川は松江市八雲町熊野の山間部に源を発し、松江市意宇町から中海に注ぐ。途中、出雲国府跡や阿太加夜神社の近くを流れる。
八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)が国引きを終えた際に「国引きを意恵(「おえ」、終わるの意味)」と言ったことから、
意恵」のちに「意宇」と呼ぶようになったという。(出雲国風土記)

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拝殿と本殿 歴史は古いが戦国時代には兵火によって社殿はすべて失ってしまった。再建されたのは明治41年(1908年)以降という

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稲田神社(摂末社の1つ)
スサノオの妃クシイナダヒメを祀る
伊邪那美神社(摂末社の1つ)
イザナミノミコトを祀る
鑚火殿(スサノオノミコトに係る神事がある)
神器の火鑽臼(ひきりうす)と火鑽杵(ひきりきね)を保管する



八重垣神社

八重垣神社は素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ・・・」と詠んで稲田姫との住居を構えたという須賀の地(須我神社)に創建され、後に、ここに遷座したという。故事から縁結びの神社として信仰を集める。

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拝殿 本殿

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「八雲立つ・・・」の歌碑 中年のご夫婦の々九度の盃に出会い、心中で祝福した

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熊野大社の奥の「鏡の池」で「縁結び占いの池」といわれている。
稲田姫が八岐大蛇の難を避けていたときの「姿見の池」だという。
販売されている占い用紙に百円か十円硬貨を載せて浮かべ、
用紙が早く沈むと良縁が早いという。

熊野大社から神魂神社への途中、大庭町で「ヨズクハデ」を見た。
ヨズクハデといえば石見の西田集落(旅の7日目)が有名なのだが、
近年、松江市大庭町でも目にすることができるようになった。



神魂(かもす)神社

神魂神社は、現在はイザナミを主祭神とし、イザナギを配祀している。社伝によると天穂日命が天降って創建したと伝えられるが、延喜式神名帳や出雲国風土記には記載されておらず、実際の創建は平安時代中期以降と見られる。

神魂をなぜカモスと読むかについては諸説があるが、「神霊の鎮り坐す所」、それがカンマス→カモスになったといわれる。

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鳥居 拝殿

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本殿は現存する最古の大社造建造物で、昭和23年(1948年)に国宝指定。
昭和23年の修理の際に、柱から正平元年(1346年)の墨書が見つかったが、現在の社殿は天正11年(1583年)の再建と考えられている。
        本殿の裏から9本の柱をパノラマ撮影
正面2間×側面2間、切妻造妻入りの大社造りの特徴がよく分る。神魂神社は女神を祀っているので、女造になっている。



八雲立つ風土記の丘

「八雲立つ風土記の丘」は昭和47年にオープン、展示学習館は平成19年にリニューアルオープンした。八雲立つ風土記の丘一帯は、出雲国風土記の国引き神話を起源とする意宇郡の中心に当る地域である。この周辺には縄文・弥生時代の遺跡が分布し、国庁・国分寺といった奈良時代の政治の中心地で、出雲国造家にゆかりの社寺も多い。

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展示学習館とその屋上から北西の方向の展望  目の前の茶臼山(標高171m)は出雲国風土記に神名樋野(かんなびぬ)として登場する。

学習館の入口に掲げられた案内板

学習館に展示されていた「空中写真に遺跡を書き込んだ地図」

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出雲国庁跡で発見された古墳時代中期(5世紀頃)の
竪穴住居跡を基に、上屋を推定復元したもの
この家屋は、渋山池遺跡で発見された建物跡を基に、
奈良時代の住まい(掘立柱建物)の上屋を推定復元したもの

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岡田山2号墳
直径43m、高さ6.5mの円墳で、出雲地方では2番目に大きい円墳である。
未発掘であるが、1号墳と同様な貼石列と円筒埴輪の存在が認められる。
 
 
                岡田山1号墳
全長24m、後方部の幅14m、高さ4mの前方後円墳。副葬品として、中国製の内行花文鏡、大刀類、馬具類などが石室から発見された。円頭大刀をX線調査したところ「額田部臣」の銘文が発見され、出雲在住の豪族の可能性も考えられている。
平安中期までの直刀は大刀、それ以降の反り刀は太刀と書いて区別する(デジタル大辞泉)



出雲国府跡

国庁跡は、『出雲国風土記』に記述があり、意宇平野内に所在していたことは古くから知られていたが、具体的な場所が分からず、推定地がいくつか上がっていた。八雲立つ風土記の丘設置の計画が持ち上がり、昭和43年(1968年)から発掘調査が始まり、国庁跡が六所神社周辺であることが判明した。国庁は、一辺167メートルの区画を大溝で区切り、その南半分に南北96メートル、東西72メートルの政庁区画を取り、その中に正殿・脇殿などを配置し、北半分も溝によって仕切られ官衙建物が並んでいたと推定されている。

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現地に建てられた説明板

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国府総社(六所神社)  この神社は国府の総社と呼ばれ、国司が出雲国内の神々を合せ祀るなど、国内の神々を統括する機能を持っていた。

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政庁(後殿)  この建物は国庁の中心的な場所である政庁に建つ建物の1つで「後殿」と呼ばれ、重要な儀式などが行われた場所である。
 
雑舎  国庁の中には政庁や後方官衙などの儀式や政治を行うための中心的な建物ばかりではなく、倉庫や調理施設、工房などが付いていた。
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側溝  国庁の内部を区画して、雨水を大溝に流すためのもの。80cmの幅を持つ溝の底には砂利が敷かれている。
 
後方官衙  この4棟の建物は国庁の中心的な建物である政庁の後にあることから「後方官衙」と呼ばれる。政庁が主に儀式を行う建物であったのに対して、後方官衙では出雲国内の9つの郡の統括に関わることや当時の都である平城京や平安京との連絡や納税の事務など政務を行っていた。

コスモスや 出雲国府の 跡偲ぶ (駄作で失礼します)

       律令制における役所と役人(私の記憶のメモ。誤りがあれば教えて下さい。)

国府(こくふ、こう)
   国衙など重要な施設を集めた都市域
国衙(こくが)
   国司が地方政治を遂行する役所がおかれた区画
国庁(こくちょう、政庁ともいう)
   国衙の中の中枢部で、国司が儀式や政治を行う施設。国庁の周囲は土塀等によって区画されて
   いた。
国司(こくし、くにのつかさ)

   国の行政官として中央から派遣された官吏で、守(かみ)、介(すけ)等を指す。郡の官吏(郡司)は
   在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。

国造(くにのみやつこ、こくぞう、こくそう)
   古代における地方官である。軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、
   大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

県主(あがたのぬし)
   律令制が導入される以前のヤマト王権の職種の1つである。県主は、国造よりも古い「ヌシ」の称号
   をもち、3〜4世紀(古墳時代初期)に成立したと考えられている。ヤマト王権が直轄する地方行政区
   分の1つに県(あがた)があり、県は、国の下部に有った行政区分といわれている。



出雲国分寺跡

出雲国分寺は奈良時代の天平13年(741年)に聖武天皇の詔によって全国に造られた国分寺・国分尼寺の1つである。出雲国分寺跡は、全国的に見ても珍しく、伽藍の跡がほぼ完全な形で出土した遺跡である。建物の下の基壇がよく残っており、現在は柱が据えられていた礎石が復元されて並べてある。伽藍は南から南門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線になるよう配置された東大寺式伽藍配置である。

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現地の説明板 国分寺想定復元図 (小松輝之氏のホームページから引用)

南門跡

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金堂跡

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講堂跡

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僧坊跡

南門から真南にのびる路は「天平古道」とよばれる。(鉄塔・電線は画像処理で消去した)



平濱八幡宮・武内神社

平濱八幡宮の創建年代は不詳であるが、京都の石清水八幡宮の別宮として天永2年(1111年)太政官の命を受けた出雲国最古の八幡宮といわれている。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。

一方、武内神社の祭神は武内宿禰命。彼は、日本初の大臣として、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に仕えたので、長寿の神様として信仰が厚い。年齢については、280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

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境内にある掲示板 武内神社鳥居

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平濱八幡宮拝殿 (別に境内社武内神社があるが撮影を失念) 八幡宮鳥居(武内神社鳥居から入って、八幡宮鳥居から出てきた)



阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)

出雲国風土記で阿太加夜社と記されたこの神社の祭神は阿太加夜奴志多岐喜比賣命(アダカヤヌシタキギヒメノミコト)。創建は不詳であるが、天平5年(733年)の風土記に記載されている。またこの神社は、日本三大船神事の一つ「ホーランエンヤ」で有名で、これは、松江城の城山稲荷神社の御神霊を約10km離れているこの神社へ水路お迎えする祭りで、12年目ごとに行われる。

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随神門 拝殿



揖夜神社(いやじんじゃ)

揖夜神社は出雲町揖屋に鎮座する神社である。記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。 また隣接する安来市の比婆山には、古事記に記された伊邪那美神のご神陵があるという。

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鳥居 境内本殿

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拝殿から中門を見る 中門

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本殿は大社造であるが、
内部の造りは出雲大社とは逆向きであるという
本殿の右側にある三穂津姫神社  三穂津姫は美保神社に
祀られており、美保の地名は、三穗津姫命によるとする説もある。



黄泉比良坂(よもつひらさか)

古事記に記された「死者の国とこの世との境にある黄泉比良坂」を訪ねた。もう少し山奥の神秘的な場所を想像していたが、現在では人家からさほど離れていないところで、ちょっとがっかりした。しかし、死の世界が現世のすぐ近くにあるということは、現在生活においても何かを暗示するものだと思えば面白い。

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黄泉比良坂へのアプローチ 大きな岩があり、ここから向うが黄泉の国だという

          古事記 上巻 四章 黄泉国 (福永武彦訳より)

最愛の妻に先立たれたイザナギノ命は、ひとり悲嘆のうちに暮らしていたが、時が経つにつれても、その悲しみは少しも薄らぐことがなかった。妻のイザナミはこの世を旅立って、今は黄泉国にいるはずだった。イザナギノ命は、もう一度妻に会ってみたい気持ちをとどめることが出来ず、ついにそのあとを訪ねて、この世のものならぬ地下の世界へと降りて行った。

黄泉国は、(中略) 生きた者の来ることをかたく禁じて、その御殿は、冷たい石の扉がしっかりと現世との間を鎖していた。しかし夫のイザナギノ命が、はるばるとここまで訪ねて来たのを知って、妻なる女神は、扉のところまで迎え出た。そこでイザニギは、扉ごしに、次のような優しい言葉で呼びかけた。
「いとしい我が妻よ。私がお前と一緒に作った国は、ただ形を作ったばかりで、まだ本当に完成しているわけではない。私にはまだお前の助けが必要なのだ。どうか私と一緒に、もう一度戻ってきてはくれないだろうか。」

こう呼びかけるのを聞いて、イザナミノ命は次のように答えた。
「もっと早く来て下さらなかったことが、悔まりてなりません。 もう遅すぎるのでございます。私はこの黄泉国で不浄の火と水とで炊いた食物を口にしてしまいました。(中略) この国の神々に相談して、帰ってよいかどうかうかがってみましょう。ただお断りしておきますけれど、その間は私の姿を御覧になららいで下さいまし。(中略)

イザナギは、あまりにも待つ時間が長いので、ついに待ちかねて、禁を破って中にはいる気になった。(中略) 乏しい光に照らされて、やがてイザナミの姿がようやく眼に映ったが、なんという有様だろう、それはもはやかって知っていた妻の姿とは全く違っていた。身体中に小さな蛆(うじ)がたかってくねくねと動き、しかもその身体のいたるところから膿がどろどろと流れ出している。(中略)

イザナギノ命はこの有様を見て、恐怖に凍りついたようになり(中略)、一目散にそこを逃げ出した。イザナミノ命は夫が自分を捨てて逃げ帰って行くのを見ると、「あなたという方は、私の恥ずかしい有様を御覧になりましたね。」 こう口惜しげに叫び
さっそく黄泉国の醜い女神たちの群に命じてそのあとを追いかけさせた。(中略)

イザナギはようやくにして、死者の国とこの世との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)という坂の麓まで、辿り着くことが出来た。(中略) ここで言うところの黄泉比良坂は、今の出雲の国にある伊賦夜坂(いふやざか)であるとも言われている。


古事記によると、この後、五章で、イザナギノ命は「嫌な、醜い国に行ったので、穢れた身体の禊をしよう」といって筑紫の国で禊ぎ祓いの儀式を行った。その時、多くの神々が生まれた。最後に左眼を洗った時に生まれた神が天照大御神(アマテラスオホミカミ)、次に右の眼を洗った時に生まれた神が月読命(ツクヨミノミコト)、最後に鼻を洗った時に生まれた神が建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)と記されている。



JR出雲市駅周辺

今市大念寺古墳

今日一日の旅が順調に行き、予定よりも早く出雲市のビジネスホテルに到着できた。そこで、JR出雲市駅の近くにある、予定外の今市大念寺古墳を訪ねることにした。

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JR出雲市駅から見える丘が今市大念寺古墳
 
尼子氏の祖高久の子、持久が出雲守護代として近江から赴任した折に、亨徳元年(1452)に開いた大念寺の一角に古墳はある。

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古墳は横穴式石室 古墳時代後期(約1450年前)に造られた島根県内最大の前方後円墳(全長92m)



JR出雲市駅前

ちょっぴり時間に余裕があったので、夕暮れのJR出雲市駅前を散策した。

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JR出雲市駅 駅前の「くにびき中央通り」の八岐大蛇とスサノオの対決銅像

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神話博しまねの開催期間は2012年7月21日〜11月11日、出雲大社の平成の大遷宮は2013年5月10日

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ビジネスホテルで紹介してもらい「華満」で夕食。
地酒の「やまたのおろち」は鋭い切れ味の辛口、大吟醸の「玉鋼(たまはがね)」は素晴らしい芳醇な酒であった



古事記・日本書紀・出雲国風土記
A     古事記・日本書紀・出雲国風土記について、成立、内容、特色を簡単に記した。(お気付きの点は、お教え下さい)

                              古事記
1.成立
序によると、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したもので、和同5年(712年)に、太安万侶によって献上された。今年はそれから1300年に当る。

2.内容
「日本書紀」のように勅撰の正史ではないが、序に天武天皇が、編纂の趣旨を詔したとの記載があるため、勅撰とも考えられる。天皇と祭神を結びつけ、天皇の権力の正統性を証明しようとしたと見ることも出来る。
構成は、
  上巻(序・神話)
  中巻(初代神武天皇から15代応神天皇まで)
  下巻(16代仁徳天皇から33代推古天皇まで)

3.特色
物語が中心であるが、多くの歌謡(和歌の始まりとされる「八雲立つ・・・」など)が挿入されている。


                              日本書紀
1.成立
「古事記」と異なり、「日本書紀」にはその成立の経緯が書かれていないが、後に成立した「続日本紀」の養老4年(720年)条に、『以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて日本紀(日本書紀のこと)の編纂に当っていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰した』とある。

2.内容
  巻第一   神代上
  巻第二   神代下
  巻第三   初代神武天皇
  巻第四   2代綏靖天皇〜9代開化天皇
    以下、1巻に1人または複数の天皇が記載される
  巻第三十  41代持統天皇

3.特色
日本書紀の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上の位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。文体は漢文で書かれており、唐や新羅の人の目に触れることを意識して作られている。
記述上の特色の1つとして、本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。この点は当時の常識では世界にも類を見ない画期的な歴史書だといわれている。



                            出雲国風土記
1.成立
和銅6年(713年)元明天皇により編纂が命じられ、天平5年(733年)に完成し、聖武天皇に奏上された。
具体的には、和銅6年に太政官が発した風土記編纂の官命により、出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱した。天平5年になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡の人、神宅臣金太理の手によって出雲国風土記は編纂された。
なお、全国には風土記は写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。

2.内容
総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。
各郡の条では、郷・里の統計、郡名の由来、郡家からの路程、郷・里名の由来、寺院、神社、山・野、草木禽獣、川、池、湖岸、浜、・島・産物、などが整然と記されている。
すべての郷に地名起源の説話が掲載されている。有名な「国引き神話」は意宇郡の条の冒頭に記載されている。

3.特色

出雲風土記の編纂には20年を要している。しかし内容を見ると、情報の緻密さに驚く。例えば、郷里や駅家については名称や由来を示すだけでなく、郡家からの方位や距離も細かく記してある。隣接の郡境までの里程も詳しい。これを見ると、日本人は昔から几帳面な民族であったのかと思う。
一方、記紀神話で活躍するスサノオの伝承が、『出雲風土記』でほとんど記述されていない。この理由は、地元ではスサノオが新羅からの渡来神であるとの伝承が多くあったが、新羅は当時敵国であったので、中央政府に配慮して故意に記述しなかった可能性もあるという説もある。
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3日目
(10月27日)
   出雲市出雲大社(杵築大社)古代出雲歴史博物館神話博しまね特設会場
   →
出雲阿国の道
稲佐の浜日御崎神社・灯台日御崎(泊)

出雲大社 (杵築大社)

いよいよ出雲大社を拝観する。出雲大社を訪ねるのは今回で4回目であるが、今年は古事記編纂1300年ということ、60年に一度の大遷宮が来年には行われることで、ことのほか関心が高い。

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                一の鳥居(大鳥居)
神門通りの宇迦橋のたもとに建つ大鳥居は大正4年(1915年)、北九州市の篤志家により寄進されたもの。鉄筋コンクリート製で、高さは出雲大社本殿より少し低い23.5mメートルで額面は畳6畳敷きもある。
二の鳥居
 
 
 

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三の鳥居 四の鳥居(銅鳥居)で、やっと拝殿に近付ける

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拝殿
 
拝殿の横から、修造なった本殿を眺める
本殿は勿論大社造、高さ24m、国宝に指定されている
現在の本殿は延享元年(1744年)に作られ、高さは8丈(24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。

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神楽殿の注連縄(しめなわ)は長さ13m、重さ5ton
 
国旗掲揚塔は高さ47m(古代の本殿の高さと同じ)。国旗の大きさは畳75枚分だという。

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神こ殿の入口に展示され御柱の実物大模型
 
出雲大社では60年に一度の遷宮が行われる。(伊勢神宮の遷宮は20年ごと)
本殿修造が終る平成25年5月10日に本殿遷宮祭が斎行される。 出雲大社のポスターより



県立古代出雲歴史博物館

今までに3回出雲大社を訪ねているが、島根県立古代出雲歴史博物館を見学するのは、今回が初めてである。というのは、平成19年(2007年)に開館した新しい博物館だからである。新しい博物館でも、出雲大社、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、石見銀山遺跡などを県下に有する島根県立博物館である。見応え満点である。


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島根県立古代出雲歴史博物館 平安時代の出雲大社の本殿の高さは16丈、約48mで、これは10分の1の復元模型

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この宇豆柱(重要文化財)は2000年に出雲大社境内遺跡から出土したもの。今、国立東京博物館で展示中のため、当博物館では見られなかった。この杉柱は、直径1.3m、3本たばねて直径約3mの1本の柱とし、鎌倉時代の大社本殿を支えていた。
上記の写真はWebから引用
   巨大本殿を描いた図(金輪御造営差図)
出雲大社の宮司を務める千家国造家に伝わる絵図で、いにしえの本殿の平面設計図とされているもの。出土の巨大柱と規模・構造・配列に共通する。

出雲大社、大和の大仏殿、京の大極殿、の大きさ比較

天平5年(733年)に編纂された出雲国風土記の時代の出雲国の地勢と地名
この地図を見ると、いろいろなことが分る。出雲大社(「所造天下大神の社」と記されている)の近くに海岸が迫っていたこと、
現在の小さな神西湖は当時は海(神門水海)だったこと、斐伊川(「出雲大川」と記されている)は宍道湖でなく、神門水海に
注いでいたことなど・・・   出雲大社の巨大な本殿は、オオクニヌシノが出した国譲りの条件だったとわれているが、
湿地帯では高い柱が必要だったのかもしれない。八岐大蛇の伝説は斐伊川上流の氾濫を治めた治水伝説とも考えられる。

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荒神谷遺跡の銅剣
昭和59年(1984年)に358本の銅剣、翌年には16本の銅矛と
6個の銅鐸が埋められたままの状態で出土した。
 
加茂岩倉遺跡の銅鐸
平成8年(1996年)、谷あるいは斜面から39個の銅鐸が出土した。
銅鐸は大小2種類からなり、基本的に大きな銅鐸の中に
小さな銅鐸が入る「入れ子」の状態で埋められていた。

出雲で最も不思議な遺跡、荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡は、今回は訪ねなかった。
2005年5月に訪ねたときのホームページをご覧になる方は、下記をクリックしてしばらくお待ちください。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のホームページを見る

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古代出雲歴史博物館の隣で開催されている「神話博しまね」は
お祭りか物産展のようで魅力的ではなかった。
その中で神話映像館は面白かった。全部をお見せできないが、
予告編を見つけたので、上をクリックしてご覧下さい。



出雲阿国の道

出雲阿国(いずものおくに、元亀3年(1572年)生れ?)は安土桃山時代の女性芸能者。夫と共に歌舞伎の祖といわれる。一般に、阿国、於国、国など様々に表記される。出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のために諸国を巡回したところ評判になったといわれている。

慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興業を行った、男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めた。阿国の踊りを念仏踊りと記した史料もある。阿国一座が評判になると真似た芝居が盛んになり、遊女歌舞伎となった。儒学を重んじる徳川幕府により、女性による歌舞伎は禁止された。その後少年による歌舞伎が行われるようになるが、男色も盛んな時代であり、問題が後を絶えず、今のような野郎歌舞伎(役者が全員成年男子)にかわったという。  (Wikipedia等による)

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出雲大社から稲佐の浜への県道29号は、出雲阿国の道といわれる。
今回の旅は、古代史に限ることにしていたが、かねてより関心があったことと
ちょうど通り道であったので、出雲阿国の史跡を見ながら歩き通した。
         阿国寺「連歌庵」
晩年は大社に戻り、尼僧「智月」となり、読経と連歌に興じ静かに余生を過ごしたといわれる。

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生家中村家の墓の中に石柵で囲われた阿国の墓がある。

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奉納山に登る途中に出雲阿国の顕彰碑「於国塔」がある。阪東寿三郎、中村千扇など名が刻まれている。

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奉納山は標高75m、頂上に展望台がある

頂上展望台から、稲佐の浜から南に続く「園の長浜」、少し霞んでいるが三瓶山まで、
出雲国風土記に記された「国引き神話」の舞台が望まれる。



稲佐の浜

出雲阿国の道を通りぬけて海岸に出ると、「稲佐の浜」である。古事記では「伊那佐の小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記されている。ここから南に続く海岸は「園の長浜」と呼ばれ、「国引き神話」では島根半島と佐比売山(三瓶山)をつなぐ綱とされている。

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            稲佐の浜の真中にある弁天島
出雲大社の神事、神幸祭(8月14日)と神迎祭(旧暦10月10日)は
ここで行われる。
弁天島
かつては弁財天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命を祀る
 



日御碕神社と灯台

日御碕神社は珍しく2つの本社からなる。下の本社(日沈の宮)は天歴2年(948年)、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(前536年)にいずれも勅令により祀られ、総称して日御碕大神宮とされる。「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」との勅令を受けた神社であることにによるという。

日御碕の先端にある日御碕灯台は、灯塔の高さ日本一で、かつて55年前の学生時代に眺めた「日の入り」は見事であったが、今回は小雨に見舞われ残念だった。

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楼門 下の本社(日沈の宮)は天照大御神を祀る 上の本社(神の宮)は神素戔嗚尊を祀る

上の本社から、下の本社の拝殿と本殿を見下ろす。本殿は日光東照宮と同じ権現造で豪華絢爛である。

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イカ干し
 
日御碕は新生代新第三紀の成相寺層(1650万年前〜1450万年前)の頁岩(堆積岩)と、それを貫いている流紋岩からできている。ここは傾いた頁岩。

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正式名称は出雲日御碕燈台  日本一の灯塔の高さ(地上高43.65m)を誇る石造灯台  灯火標高は63.30m(平均海面・灯火)

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流紋岩が作る柱状節理  流紋岩は一種の火山岩で、深成岩である花崗岩と同様SiO2が70%以上含まれている。



4日目前半
(10月28日)
日御碕斐伊神社八本杉八岐大蛇公園印瀬の壺神天が淵公園石見国へ

斐伊神社

日御碕の民宿に泊り美味い魚料理を食った翌日、JR宍道駅から木次線でJR木次駅に行き、今日の古代史の旅は始まった。先ずは斐伊神社へ。

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JR木次駅
ここからは高価な(?)タクシーの旅が始まる
八岐大蛇は、斐伊川の治水の物語だといわれるのも肯ける。
今回はここを通らなかったので2005年に撮った写真を使用。

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斐伊神社の鳥居、拝殿、本殿(本殿の右は境内神社の日宮八幡宮)  祭神は、スサノコノミコト、稲田比売命、伊都之尾羽張命。
斐伊神社の古史伝によると、創立は甚だ古く、埼玉県の氷川神社は孝昭天皇5年(前470年)に斐伊神社から分祀されたものとしている。
出雲国風土記に樋社と称する神社が2社あり、延喜式の時代までに1社に併合されたものが現在の斐伊神社と考えられている。



八本杉

スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した後、その8つの頭を埋め、その上に八本の杉を植えたと伝えられる。この杉は、長い年月の間、斐伊川の氾濫によって幾度も流失したが、その度に捕植され、現在の杉は明治6年(1873年)に植えられたものといわれている。なお、ここは斐伊神社から、100mほど離れた「飛び地境内」で、2社が併合されるまで、どちらかの社がここにあったと考えられている。

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自然石に刻まれた碑 確かに8本の杉が植えられている



八岐大蛇公園

古事記によると、高天原から追い出されたスサノオノミコトは、出雲の国の肥河(斐伊川)の上流にある鳥髪という土地に降った。河の流れを眺めていると、たまたま箸の流れてくるのが目にとまった。そこでこの河の上流には住む人がいるだろうと考え、人家を探して、川上に遡って行った。 そこで、老人アシナヅチとその妻テナヅチが娘のクシナダヒメを挟んで泣いているのに出会った。・・・ 八岐大蛇退治の発端である。

この箸の流れてくるのを見つけたのが、この場所ということで、公園になっている。

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狭い公園に八岐大蛇と素盞嗚命の対決場面の石像がある



印瀬の壺神

スサノオノミコトが退治した八岐大蛇が飲んだ酒の8つの壺の1つが「印瀬の壺神」として祀られている。

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八口神社の境内に壺がある。
手に触れることを恐れ多くの石で壷をおおい玉垣で囲み、注連縄をめぐらし昔のままの姿で安置している。(現地の壺神由緒より)



天が淵公園

斐伊川の上流、木次町と吉田町の境にある「天が淵」は、八岐大蛇が住んでいたところといわれている



須佐神社

出雲国風土記に「スサノオノミコトが自分の御魂を鎮められた」とあるので、終焉の地といわれている。 祭神はスサノオノミコト、イナダヒメノミコト、アシナヅチノミコト、テナヅチノミコトとされている。

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須佐川に架かる宮橋を渡って須佐神社へ  須佐川の河床には、海底の火山から噴き出した流紋岩が露出している。

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鳥居と随神門 左から??殿、拝殿、本殿(大社造)



古事記・日本書紀・出雲国風土記に因んだ神社などは、出雲国には数限りなくあるが、今回訪ねるのはこのくらいにして、お隣の石見国へ移動することにする。



出雲国と石見国(1)は、出雲大社と記紀・風土記の世界でした。ご覧になっていかがでしたか。
出雲国と石見国(2)は、三瓶山・石見銀山の世界です。
 引き続き、
下の [次へ] をクリックして、 出雲国と石見国(2)をご覧下さい。



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