日本の近代化遺産(3) ---- 石炭産業 石炭の発見と利用の歴史、石炭の地質学、若松港、旧筑豊炭田、 旧三池炭鉱、旧端島炭鉱(軍艦島)、石炭産業の将来 |
最近チョットした『近代化産業遺産』ブームになっているらしい。ところで、『近代化産業遺産』とは、幕末から第二次世界大戦期までの間に建設され、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木などに係る建造物を指している。 私のホームページに、『日本の近代化遺産』を掲載し始めて、今回の石炭産業は、絹産業、製鉄業に続く3番目である。いささか堅苦しいテーマだが、ご覧頂ければ幸いである。 石炭が我国の近代化に果たした役割は計り知れない。明治時代になって、炭鉱での人荷用の昇降機や排水のためのポンプの動力として蒸気機関が使われたのが、日本において、人・馬・水力・風力以外の動力が利用された最初であろう。やがて導入された蒸気機関車や製鉄のための高炉には、燃料として石炭が必要になった。 富国強兵を目指す明治政府が産業の基礎としたのが、外貨を稼ぐために『絹産業』、軍艦を造るための『製鉄業』、エネルギーを供給するための『石炭業』であった。図らずも、これは私のホームページの『日本の近代化遺産』シリーズの最初の3つのテーマである。 日本の炭鉱遺産は、北海道、常磐、山口、九州の各地にあるが、出炭量が一番多く、廃鉱後も遺産として整備されている九州を訪ねることにしよう。 (2013年10月) 掲載済みの2件については下記をクリックしてご覧下さい。 日本の近代化遺産(1) ---- 絹産業 日本の近代化遺産(2) ---- 製鉄業 |
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目 次 | 訪 問 地 | |
1.はじめに 2.石炭の発見と利用の歴史 3.石炭の地質学 4.石炭産業遺産を訪ねる 4.1 若松港 4.2 旧筑豊炭田 4.2.1 直方市石炭記念館 4.2.2 田川市石炭・歴史博物館 4.3 旧三池炭鉱 4.3.1 大牟田市石炭産業科学館 4.3.2 旧三池炭鉱万田坑 4.3.3 三池炭鉱関連遺産 4.4 旧端島炭鉱(軍艦島) 5.むすび |
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1 | は じ め に |
石炭といえば・・・ |
昭和10年(1935年)生まれの私にとって、石炭は懐かしい思い出でもある。 時代の流れを感じるいくつかの写真をご覧下さい。 下記の4枚の写真はいずれもWebsiteより |
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三池炭鉱に入坑の昭和天皇 戦後復興のための全国巡幸の一環として、1949年(昭和24年)昭和天皇が、キャップランプと白い坑内衣を着けて三池炭鉱三川坑に入坑された。石炭増産は、当時の日本にとって重要課題であった。 |
C62形蒸気機関車 戦後の貨物と乗客の輸送の要は蒸気機関車であった。当時外貨を持たない我国にとって、国産の石炭は貴重なエネルギー源であった。 |
川崎市扇島のJFE高炉 鉄鋼は、我国の戦後復興のための重要資材であるとともに、貴重な輸出品目であった。製鉄には大量の石炭を必要とする。かつては国産炭が使用されたが、現在は輸入炭が使用されている。 |
我国最大の石炭火力発電所 徳島県にあるJ-POWER(電源開発)の橘湾火力発電所は、最大出力210万kW(105万kW×2基)の大規模石炭火力発電所。石炭は安価な電力を供給できるが、CO2排出が多いのが欠点。 |
石炭を巡る統計 |
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1900年~2009年の我国の一次エネルギー(石油換算) 1960年頃までは、石炭、水力、薪炭が主であったが、それ以降石油が急増した。その中にあって、石炭は漸増している。これはクリーンな石炭火力発電の技術が出来たので、高価な石油を使わなく済むため石炭の需要が増加した。 |
2009年の日本の石炭消費の用途別構成 1位の「電気業」は左に説明した火力発電用、2位の「鉄鋼」は石炭から作ったコークスが製鉄に使用されるため。製鉄の際には高温にするためのエネルギー源と、鉄鉱石を還元するための還元剤との両方の役割としてコークスが必要である。 |
我国の石炭は99%が輸入に頼っている。それは価格と品質の両面で輸入に敵わないからである。 輸入元は大半がオーストラリア。海岸に近い露天掘りの採炭場から鉄道と専用船で輸出する。 |
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世界の石炭生産量の50%以上を中国とアメリカで占める。 |
日本は最大の輸入国。中国は最大の生産国だが輸入が急増している。その理由は、需要が急増していること、内陸の採炭場から沿海工業地帯への輸送のインフラが出来ていないことである。 |
2 | 石炭の発見と利用の歴史 |
国内外における石炭の発見と利用の歴史を、年表にしてみた。 石炭エネルギーセンターJCOALのHP他を参考にした |
世 界 | A | 日 本 | ||
前1000年頃 | 中国で陶磁器製造の際の燃料に使用された。 | |||
前315年 | ギリシアの哲学者テオフラストスが「岩石には燃焼して鍛冶屋に使用されるものがある」と記している。 | 前189年 | 神功皇后が戦いの帰り道、九州で「燃える石」を焚いて御衣を乾かした。(口碑伝承) | |
668年 | 越後の国から天智天皇へ、「燃える水と燃える石」が献上された。(日本書紀) | |||
1709年 | イギリスのダービーが、大規模なコークス炉をつくり、石炭が製鉄の燃料として、使われた。 | 1469年 | 足利時代に九州筑後の三池・稲荷山で農民が「燃える石」を発見した。(大牟田市熊野神社伝) | |
1711年 | イギリスのトーマス・ニューコメンが、蒸気機関を作り、鉱山の水くみ用のポンプとして、広く使われた。 | 1600~1700年頃 | 九州の黒田藩で、窯業や製塩業に石炭を利用し始めた。「石炭仕組」として、藩が独占し、瀬戸内海の製塩業者に、石炭を卸した。 | |
1769年 | イギリスのジェームス・ワットが、蒸気機関を改良し、産業分野での利用が広まった。 | |||
1787年 | アメリカのジョン・フィッチが蒸気船を作った。蒸気船は、1807年にロバート・フルトンによって広められた。 | |||
1804年 | イギリスのリチャード・トレビスが、蒸気機関車を作った。 | |||
1813年 | イギリスのロンドンにガス会社ができ、20キロメートルに及ぶガス管が設置された。 | |||
1835年 | イギリスのリバプール・マンチェスター間に、世界初の蒸気機関による鉄道が開通した。 | 1855年 | 石炭を燃料にした、初めての蒸気船「雲行丸」が作られた。水戸藩では、燃料に石炭を使った反射炉が作られた。 | |
1884年 | イギリスのチャールズ・パーソンズが、蒸気タービンを発明した。 | 1856年 | 北海道の釧路に最初の炭鉱ができ、炭鉱の開発が盛んになった。 | |
1871年 | 石炭ガスの製造が始った。1872年に横浜市でガス灯が点灯された。 | |||
1890年 | 初めての石炭火力発電所が東京にでき、都内5か所に電灯局が置かれた。 | |||
1893年 | イギリス人の指導で、日本初の蒸気機関車が完成した。 | |||
1980年~ | 大規模な石炭火力発電所の建設が始まった。 |
3 | 石炭の地質学 |
地質年代の名称には、カンブリア紀(英国の地名に由来)、デポン紀(英国のデポンシャー州に由来)、石炭紀(ヨーロッパではこの時代の地層中に多くの石炭を含むことに由来)など、英国に由来するものが多い。これは英国が地質学の発祥の国だからである。
では、なぜ英国で地質学が生まれたのだろうか。それは英国が産業革命発祥の地だからである。 |
A | 石炭の成因 石炭は、植物の遺骸が堆積したものが地中に埋没し、地圧や地熱の影響を受けて長い年月をかけて変化して出来たものである。植物が、現在我々が見る石炭になるまでには次のような過程を経ている。 ①泥炭化作用 堆積した植物は、砂や泥などの堆積物に覆われ空気を遮断されると、微生物の分解作用により腐植物に変化し、泥炭になる。 ②石炭化作用 泥炭がさらに深く埋没すると、地圧や地熱の影響により脱水、脱炭酸、脱メタン作用が進み、石炭へと変化し、色も褐色から黒色へと変わる。 一方、石油は、プランクトンの遺骸などの泥質物質から出来た油母頁岩が変成して生成した。生成した石油が貯留層(隙間の多い岩石)に集積・貯留した個所を油田と呼ぶ。天然ガスの多くは石油と共に生成したと考えられている。 石炭エネルギーセンターJCOALのHPを参考にした |
石炭生成の時代 | ||
地球上に植物が繁茂し始めた約3.5億年前(古生代石炭紀)以降、各時代に世界各地で石炭が形成された。 特に、ヨーロッパ、アメリカ、中国などでは約3億年前に、多くの石炭が形成されたため、この時代は石炭紀と 名付けられている。 一方、石油や天然ガスは、約2.9億年前(中生代ジュラ紀~白亜紀)の油田の埋蔵量が最も多くなっている。 石炭エネルギーセンターJCOALのHPを参考にした |
日本の主な炭田 |
炭鉱(たんこう、coal mine)とは、石炭を掘り出すための鉱山のこと。 同じ読みの炭砿、炭坑の表記も使用される。 炭田(たんでん、 coal field)とは、一般に採掘可能な炭層を含む夾炭層が連続性をもって分布し、地理的に広い面積を占める地域をいう。 本ホームページでは、表記の統一は行わず、慣用に従った。 |
4 | 石炭産業遺産を訪ねる |
日本の炭鉱遺産は、北海道、常磐、山口、九州の各地にあるが、出炭量が一番多く、廃鉱後も遺産として整備されている九州を訪ねることにする。炭鉱は廃鉱になると立ち入りが禁止される。金属鉱山と異なり観光鉱山として保存・整備されている所はない。三井三池炭鉱の万田坑は、施設の外観見学ができる貴重なところである。現場が見れない代わりに、石炭博物館は全国に沢山あり、それぞれ趣向を凝らしている。炭鉱と合わせて港湾施設も遺産価値が高い。 |
4.1 | 若 松 港 |
若松港は、日本初の近代製鉄所である新日鐵住金八幡製鐵所の操業により、工業港として発達した北九州の洞海湾にある。若松港は筑豊炭田の石炭積出港として整備され、1913年(大正2年)には全国の石炭産出量2130万トンのうち筑豊炭田は1150万トンで、その80%が若松港から積み出されており、日本一の石炭積出港であった。 しかし、エネルギー革命により、筑豊炭田の閉山が相次ぎ、1982年(昭和57年)若松港の鉄道貨物取扱いは廃止され、貯炭場はなくなった。なお、同地区に立地する新日鐵住金八幡製鐵所等の大規模な工場はそれぞれの敷地内に専用埠頭を備えている。 |
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若松駅は石炭輸送のために明治24年建設された | ||
旧古河鉱業若松ビルに展示された「川ひらた」の模型 | ||
直方-若松間にJRの前身の筑豊興鉄道が敷かれる前は、遠賀川に「川ひらた」と呼ばれる船を浮かべて石炭を運んだ。戻りは川を遡るので、帆を張った。 | 港には「ごんぞう」と呼ばれる石炭荷役労働者が働いていた。今は、石に刻まれた記念碑が建っている |
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弁財天上陸場(左)と「ごんぞう小屋」(左) 海は洞海湾若松港 | 旧古河鉱業若松ビルは、文化庁の登録有形文化財である |
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明治23年創立の若築建設(株)は若松港築港工事を専門にやる会社で、「わかちく史料館」に、若松の歴史、洞海湾の歴史、若築建設(株)の歴史の史料が展示されている。 | 若松と戸畑を結ぶ若戸大橋は、昭和37年に開通した全長2,068mの吊橋。橋の下にある建物は、明治26年から昭和13年まで使用された出入船舶見張り所跡。 | 若戸大橋の下に、工事の慰霊碑があった。世紀の橋に賭けた十人の犠牲者の御霊が眠っている。 |
4.2 | 旧筑豊炭田 |
筑豊炭田(ちくほうたんでん)とは、福岡県の中央部から北部にかけて広がる炭田である。炭田の存在する区域が律令国の筑前国と豊前国に跨がっているため、「筑豊」という名称が付いている。八幡製鐵所を背景に抱えていたため、戦前日本では最大規模の炭田であった。 |
4.2.1 | 直方市石炭記念館 |
筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの約100年間に、約8億トンの石炭を産出し、日本の産業発展、近代化に貢献してきた。昭和46年に「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、直方市石炭記念館が誕生した。 |
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JR筑豊本線直方駅 1891年(明治24年)筑豊興業鉄道が開設した。往時は筑豊炭田の各地からやってくる石炭車を編成変えして若松へ送り出す駅として栄えた。 |
石炭記念館への途中にある跨線橋 直方駅の操車場のターンテーブルを再利用したものという |
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直方市石炭記念館本館 | 直方市石炭記念館別館 | 日本最大級の石炭塊 200×110×75cm 重さ2トン |
堀三太郎(1866-1958) 22歳で小炭坑を持ち、製塩、セメント、銀行、電力などに事業家として係わった。「子孫に美田を残さず」ということで、自邸を維持費付きで直方市に寄贈し、現在「直方歳時館」となった。 |
伊藤伝右衛門(1861-1947) 、明治・大正・昭和の実業家。父が病没すると炭鉱の経営を引き継ぎ、伊藤鉱業 を設立。2番目の妻・燁子(女流歌人 柳原白蓮)との離婚劇でその名を知られる。 |
麻生太吉(1857-1933) 炭鉱業からスタートし、鉄道事業やセメント事業なども手掛けた。政治家として貴族院議員等を歴任。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父。 |
貝島太助(1845-1916) 貧農の家に生まれ、両親を助けるために、幼少時から坑夫となった。貝島財閥の創始者であり、「筑豊の炭坑王」の異名を取った。貝島私学と呼ばれた私立大之浦小学校、私立岩屋小学校なども設立した。 |
安川敬一郎(1849-1934) 地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。兄の死後、炭坑経営に着手。安川電機、九州製鋼(のち八幡製鐵所が買収)、黒崎窯業を設立する。 |
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救護訓練坑道 九州炭坑救護隊連盟 直方救護練習所として、 大正11年に作られた。全長117m、傾斜20度の坑道 |
救命器具の展示 |
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C11-131号蒸気機関車 昭和13年製、昭和16年まで日豊本線等で旅客列車を引張っていた。その後筑豊地区で石炭輸送に活躍。昭和45年に廃車処分になるまでの33年間の走行距離130万km、地球を32周したことになる。 |
セム1号石炭車 明治37年製、製作時は9トン積であったが、昭和15年には15トン積に改造された。昭和37年廃車処分になるまでの58年間に運んだ石炭は15万トンになる。 |
4.2.2 | 田川市石炭・歴史博物館 |
この博物館は福岡県田川市にあり、筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地に1983年オープンした。かつて日本のエネルギーを支えた筑豊炭田の石炭産業に関する資料を展示した石炭鉱業史の専門館である。炭坑労働者だった山本作兵衛作の絵画697点が収蔵されており、2011年ユネスコから日本で初めて世界記憶遺産に登録された。 |
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田川市石炭歴史博物館の外観 | 旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓 |
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鉱員社宅の復元モデル | 復元住宅と蒸気機関車 |
石炭歴史博物館に展示された 全国・九州・筑豊・北海道・常磐・山口の出炭量の推移 これによると、九州の出炭量が大きく、全国出炭量の半分以上を占めていたことが分る。 九州の中でも筑豊が大きかったが、戦後北海道に首位を明け渡して行った様がよく分る。 |
田川市石炭歴史博物館は、福岡県田川市が所有する多数の絵画等を順次展示している。 2011年(平成23年)、福岡県田川市と福岡県立大学が共同で申請した山本作兵衛氏の炭坑の記録画および記録文書が、日本で初めて世界記憶遺産に登録された。記憶遺産に登録されたのは、福岡県田川市が所有する絵画585点、日記6点、雑記帳や原稿など36点と山本家が所有し福岡県立大学が保管する絵画4点、日記59点、原稿など7点の合計697点である。 山本氏の記録画等が登録されたことについて、ユネスコのホームページでは、 |
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としている。 山本作兵衛し 炭坑の記録画 http://www.y-sakubei.com/ より |
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ヤマの燈火具・ガンヅメ・カキ板・ワラジ・エプ 山本佐兵衛が自発的に描いた墨画 |
灯りの変遷と手掘り採炭道具 田川市立図書館の永末氏の依頼で、昭和39年から描き始めた水彩画 |
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座り掘り 「あなた掘る人、わたしゃ運ぶ人」というのは昔の炭鉱では多かった |
朝の坑夫 仲睦まじい夫婦の姿が多いのも、山本作兵衛コレクションの特徴 |
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舟頭と陸蒸気 「川ひらた」の舟頭が鉄道を恨めしく眺めているのがよく描かれている |
ヤマの米騒動(鎮圧に出た軍隊) ユネスコもいうように、公的記録には見られない迫力がある |
著作権上の問題がありますので、上記の画像の解像度は低くしてあります。 詳しくは、田川市石炭歴史博物館を訪ねるか、博物館の図録「山本作兵衛の世界」を ご覧下さい。 |
4.3 | 旧三池炭鉱 |
三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)及び熊本県荒尾市に坑口を持っていた炭鉱である。江戸時代から採掘が行われてきたが、1889年(明治21年)、三井財閥に払下げられた。日本の近代化を支えてきた存在であったが、1997年に閉山した。炭鉱関連の遺産が多数残っており、近代化遺産(産業遺産)の面からも注目されている。 |
大牟田市の観光MAP ●主な近代化遺産 |
4.3.1 | 大牟田市石炭産業科学館 |
大牟田市石炭産業科学館には、石炭の誕生、炭鉱技術のあゆみ、大牟田の炭鉱史、石炭エネルギーの利用、ダイナミックトンネル(迫力ある坑内探検)、暮らしを支える石炭などの展示室がある。九州に数多い石炭関係の博物館の中でも学習に適している。 |
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大牟田市石炭産業科学館は、日本の近代化をエネルギーの面から支えてきた 大牟田の石炭をテーマに、人、エネルギー、そして地球環境を考える科学館である。 |
團琢磨の胸像 1858年 - 1932年(安政5年-昭和7年) |
團琢磨は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。学位は工学博士。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部理事長(初代)などを歴任した。三井三池炭鉱の経営を行い、戦前の三井財閥の総帥であった。 明治4年岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学し、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国する。明治17年工部省鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。採炭技術の習得のために渡欧し、明治21年に三池鉱山が政府から三井に売却された後、そのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任する。三大工事といわれる三池港の築港、鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、また渡欧時に大型ポンプ技術を習得し、水没した勝立坑の排水問題を解決した。しかし、昭和金融恐慌の時、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになり、昭和7年三井本館入口で、血盟団員に狙撃され、暗殺された。 |
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三池港は、海面水位が一定に保たれる開閉式の閘門 の内側のドックと、入港待ちをする内港からなる。 |
ブルトーザのない時代に、堤防作りや埋め立て工事は人海戦術で行われ、 1908年(明治41年)に三池港閘門は完成した。 |
三池港は、日本でも有数の干満の差の激しい海として有名な有明海の北東に位置し、その干満の差は実に6mにも達する。良港をもたなかった三池炭鉱で採掘された石炭は、三池港ができるまでは、小さな帆船に積まれ、島原半島南部で、大きな船に積みかえられて消費地へ搬出されていた。この手間と経費を解消し、また、石炭がなくなった後の時代にも大牟田が発展を維持できるよう、巨額の費用と労働力を投入して築かれたのが、三池港である。團琢磨の発案で築港された三池港は、日本では珍しいパナマ運河と同様の閘門式のドックを持っている。 團琢磨は、三池港築港に際し以下のように述べている: 『石炭山の永久などという事はありはせぬ。無くなると今この人たちが市となっているのがまた野になってしまう。これはどうも何か(住民の)救済の法を考えて置かぬと実に始末につかぬことになるというところから、自分は一層この築港について集中した。築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を起こすことができる。石炭が無くなっても他処の石炭を持ってきて事業をしてもよろしい。(港があれば)その土地が一の都会になるから、都市として“メンテーン”(維持)するについて築港をしておけば、何年もつかしれぬけれども、いくらか百年の基礎になる。』 http://www.miike-coalmines.jp/port.html より |
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博物館の中にある秒速10mで降下するエレベーターに乗って、 有明海の地下400mの坑内へ。1人で乗って大丈夫かなと一瞬心配。 |
扉が開くと、そこには採炭作業現場が広がっている。 坑内作業の迫力をエキサイティングに体験できる。 |
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ドラムカッターは切羽で活躍する採炭の主役。実機と人形が迫力満点。 | ドラムカッターの説明パネル |
4.3.2 | 旧三池炭鉱万田坑 |
数多くの坑道を有する三池炭鉱の中でも、旧三池炭鉱万田坑には、ミニ博物館である「万田石炭館」があり、炭坑施設の外観の見学が出来る。 |
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万田炭坑館は、万田坑の見学のゲートとなっている |
万田炭坑館に展示されている「三池炭鉱摸式断面図」 垂直坑で降りた後、鉱脈に沿った斜坑になっていて、最深部は地表から700m以上ある。 採掘場の大部分は有明海の海底である。 |
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万田坑第二竪坑櫓と巻揚機室 |
万田坑第二竪坑の入口 |
万田坑第二竪坑の昇降機 籠が当るところに緩衝用の木材が貼ってある |
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安全灯室および浴室 | 安全灯(キャップライト) ライトの色は役職で異なる |
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最盛期には5本あった煙突の基礎の1つが残っている |
第一竪坑口 閉坑後1954年に、櫓だけが北海道の三井芦別炭鉱へ移設された |
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第二竪坑巻揚機室の北側に、今も山の神の石祠(せきし)が残る。
坑夫たちは、入坑前にはここで必ず安全を祈願をしたという。
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鉱員住宅の跡方はなく、敷地のブロック塀だけが残っている。 |
4.3.3 | 三池炭鉱関連遺産 |
大牟田市内には、多くの石炭関係産業遺産があり、平成21年「九州・山口の近代化産業遺産群」の1つとして、ユネスコ世界遺産暫定一覧表に入った。その中のいくつかを見て回った。 |
GoogleMapで見る現在の三池港 たまたま閘門の内外に舟の姿が見られない |
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(左)建設中の閘門、(中央)完成時の閘門、(右)現在の閘門 Website おおむた石炭WORLD より |
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明治の面影が残る「旧長崎税関三池支署」 |
三池炭鉱専用鉄道の変電所として活躍した「旧三川電鉄変電所」 現在は(株)サンデン本社 |
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旧三井港倶楽部は、三井港を訪れる上級船員用の宿泊施設として、1908年(明治41年)に建てられた。1986年(昭和61年)に改修されたが、当時の形態をよく伝えており、大牟田を代表するすぐれた建築物である。 | 旧三井港倶楽部の内部 結婚式やレストランとして利用される |
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宮浦坑跡地の一部が宮浦石炭記念公園として整備されている |
公園に展示されている「坑内車両」 炭鉱内と地上との人、物資の移動に使われていた。巻上げ機とワイヤーで車両は斜坑の線路の上を移動した。 |
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公園内に残る宮浦第一竪坑の巻上げ機 動力は蒸気であったが、この煙突は蒸気を得るためボイラー室で石炭を燃やすためのもの。 1888年(明治21年)建造、 高さ31.2m、 使用レンガ数138,000枚 |
旧三池集治監外壁 三井炭鉱は、1883年(明治6年)~1888年(明治21年)は官営であった。その初期から採炭作業に囚人が使われていた。三池炭鉱が三井に払い下げられた後も、囚人労働は継続した。この囚人たちを収監したところが三池集治監である。 |
三池集治監は、1906年(明治39年)に三池監獄、1908年(明治41年)に三池刑務所と改称された。三池集治監の収容定員は2000名であった。 |
三井三池争議 と 三井三池三川炭鉱爆発事故 |
三池炭鉱でどうしても触れておかなければならないものに、「争議」と「爆発事故」がある。 三井三池争議 大規模なものは、1953年(昭和28年) と 1959年(昭和34年)~1960年(昭和35年)に発生したものの2回があるが、一般的に後者のみを三池争議と呼ぶことが多い。もともと三池炭鉱労組は労使協調派の力が強く、労働争議などには消極的な組合であった。しかし、1947年(昭和22年)頃から、大牟田市出身で三池炭鉱ともゆかりの深い九州大学教授の向坂逸郎が頻繁にこの地を訪れるようになり、向坂教室と呼ばれる労働者向けの学校を開いて『資本論』などを講義するようになってから、労組の性格は一変する。向坂は三池炭鉱を来るべき社会主義革命の拠点と考えており、『資本論』の教育を通じて戦闘的な活動家の育成を図っていたからである。 1953年(昭和28年)、次第にエネルギー源は石炭から石油へと変化し、石炭需要が落ち込みを見せ始めていたことから、三井鉱山は経営合理化のために希望退職を募った。しかし、希望退職者が会社があらかじめ割り当てた数に達しなかったため、3464人に退職を勧告し、それに従わない2700人を指名解雇した。このような会社の措置に炭鉱労働者と事務職員がともに反対し、ストライキに突入した。ストライキは113日間に及び、ついに会社側は指名解雇を撤回、労働者側の勝利に終わった。 1953年のストライキ以降、経営合理化が進まない三井鉱山の経営はますます悪化していった。このため、三井鉱山は三池炭鉱からの活動家の一掃を決意し、1959年(昭和34年)8月29日に4580人の人員削減案を発表。続いて12月2日・3日には1492人に退職を勧告し、これに応じない1278人に対し12月11日に指名解雇を通告した。流血の惨事を恐れた日本炭鉱労働組合(炭労:全国の石炭産業の労働組合)と三池鉱山は中央労働委員会に事態の解決を一任した。8月10日、中央労働委員会は斡旋案を発表したが、その内容は会社は指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという組合側に圧倒的に不利なものであった。しかし、もはや戦う限界に達していた炭労も総評も斡旋案受諾を決め、向坂も斡旋案を受諾するよう三池労組幹部を説得し、11月11日に三池労組は無期限ストライキを解除して、三井三池争議は組合側の敗北に終わった。 三井三池三川炭鉱爆発事故 1963年(昭和38年)11月9日に、福岡県大牟田市三川町の三井三池炭鉱三川坑で発生した炭塵による粉塵爆発事故である。死者458名、一酸化炭素中毒患者839名を出したこの事故は、戦後最大の産業事故と言われている。炭鉱には炭塵爆発事故の可能性が常にあるにもかかわらず、当時は三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない、実際に何十年も起きていない、などといった、ある種の「安全神話」のようなものがあり、加えて三池争議の結果、三井鉱山がコストを最優先し、かつては三池炭鉱労働組合が強く主張していた保安を二の次にしていたという側面があったといわれている。 Wikipediaなどによる |
4.4 | 旧端島炭鉱(軍艦島) |
端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島である。軍艦島の通称で知られている。 端島は長崎港から南西の海上約17.5kmの位置にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5km離れている。端島は本来は、現在の3分の1ほどの面積しかない小さな瀬であった.。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって拡張したものが、現在の端島である。その大きさは南北に約480m、東西に約160mで、島全体が護岸堤防で覆われている。 炭鉱としては江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。36mの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である。1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあっ端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長した。端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭。人口が最大であった1960年(昭和35年)には5,267人となり、人口密度は83,600人/km²と世界一を誇り、東京特別区の9倍以上に達した。1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行により衰退。1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。 2009年に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載された。 Wikipediaより |
軍艦島クルーズ |
閉山後の軍艦島は立入禁止になっていたが、不法上陸者が少なくなかった。長崎市では「長崎市端島見学施設条例」を制定し、島の南部の整備された見学通路に限り2009年(平成21年)から観光客が上陸・見学できるようにした。今回は、やまさ海運(株)の軍艦島クルーズに参加して見学した。 |
軍艦島クルーズのGPS軌跡 長崎港ターミナルを出発、長崎湾を南下、軍艦島に上陸、再乗船後軍艦島を一周、長崎港ターミナルに戻る |
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軍艦島クルーズ乗船券発売所 | 長崎港ターミナル |
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マルベージャ号 97トン 旅客定員225名 |
神埼鼻と女神鼻(右手)に架かる女神大橋 |
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三菱重工業長崎造船所の100万トンドック | 香焼と伊王島(右手)に架かる伊王島大橋 |
軍艦島(正式には端島)に近付く |
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船員が岸壁に飛び移って、係留する |
手前の赤レンガ造が鉱山の中枢「総合事務所」、炭鉱マンのための共同浴場がある。 遠方の岩山の上にあるのが貯水槽と灯台 |
貯水槽 島民の生活に何よりも欠かせないのが水。貯水槽は島一番の高台に残されている。 水はかつては給水船に頼っていたが、1957年長崎半島からの海底水道管が敷設された。 灯台 軍艦島は24時間操業だったので島から灯りが消えることはなく灯台は必要なかったが、 閉山の翌年昭和50年に初代灯台が建てられる。そして平成10年に現在の2代目へ。 |
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右が30号アパート(大正15年に建てられた日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパート) 左が31号アパート(地下に一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店があった) |
崩壊した30号アパートの一部 |
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主力坑だった第二竪坑への桟橋 | 左奥は鉱員社宅(屋上に幼稚園)、右は貯炭場のベルトコンベア |
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山の上にある端島神社は、祠のみ残っている 右手前は7階建の端島小中学校 |
再乗船して軍艦島を一周する。北側から島を眺める軍艦島。 |
資料に見る軍艦島 長崎文献社「軍艦島は生きている」より |
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1910年(明治43年)頃の軍艦島 建物が非常に少ない | 軍艦島の拡張の歴史 |
軍艦島(端島炭鉱)の出炭量と人口の推移 太平洋戦争後は出炭量は少ないのに人口は多いのは、ベビーブームのためか |
端島炭鉱の断面図 主力坑だった第二竪坑は垂直坑で600m降下し、さらに斜坑で500m降下する |
閉山時の軍艦島の建物配置図と現在の見学広場 |
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長崎県下一の電化製品普及率を誇った端島の家庭(昭和30年代) | 学校校庭で盆踊り(撮影年不詳) |
5 | む す び |
石炭産業について素人の私が、限られた見聞をもとに結論を記すことは、おこがましいとの謗りを免れない。しかし日本の石炭産業の発展を願って、敢えて「むすび」を述べさせて頂く。 |
石炭産業の将来 |
明治以来我国の産業に貢献してきた石炭産業であるが、エネルギー源の石炭から石油へのシフト、良質炭鉱の枯渇、人件費の高騰などにより、我国では衰退を余儀なくされてしまった。しかし現在でも火力発電用や製鉄用に大量の石炭が輸入されている。石炭産業を、『石炭を採掘する産業』ではなく、『石炭を利用する産業』と捉え、石炭産業を活性化する方法を模索したい。なお、我国に於ける石炭の用途は、発電用が46%、鉄鋼用が34%、その他が20%であるので、用途別に考えてみたい。 (1)石炭火力発電の効率化 石炭は、石油・天然ガスよりも埋蔵量が多く、価格も安いが、環境面で問題が多いといわれてきた。石炭火力発電には、CO2(二酸化炭素)、SOX(硫黄酸化物)、NOX(窒素酸化物)が多いといった環境面の問題があった。硫黄酸化物と窒素酸化物については、排出前に回収処理することが出来るようになったが、二酸化炭素についてはその技術がなく、同じ発電量に対して石油・天然ガス火力発電に比べて、石炭火力は二酸化炭素の排出量が多いのが現状である。 しかし、『石炭ガス化』によって、二酸化炭素の問題も軽減されつつある。1つは石炭ガス化複合発電 IGCC(Integrated coal Gasification Combined Cycle)である。石炭から得られた燃料ガスを燃焼させてガスタービンを回して発電する、ガスタービンが排出する高温の排気を利用して蒸気を作り、その蒸気で蒸気タービンを回して発電する方式である。我国は、この方式の実証プラントの運転に成功しており、IGCC先進国である。なぜ、IGCCで二酸化炭素の排出量が軽減するかというと、発電効率が高くなる分だけ石炭の使用量が減少するからである。 さらに進化した石炭ガス化燃料電池複合発電 IGFC(Integrated coal Gasification Fuel cell Combined Cycle)も研究されている。この方式では燃料電池、ガスタービン、蒸気タービンの3か所で発電するので、発電効率はIGCCよりさらに高くなるので、その分二酸化炭素の排出が少なくなる。 (2)二酸化炭素の貯留 上に述べたように、発電効率の向上は二酸化炭素の排出軽減に役立つが、所詮燃やしただけの二酸化炭素は発生する。そこで、発電所で発生した二酸化炭素を地中に埋めてしまおうという研究がされている。二酸化炭素の回収・貯蔵 CCS(Carbon Dioxide Capture & Storage)と呼ばれる技術である。火力発電所等の大規模発生源から分離・回収したCO2を地中の帯水層に貯留することで、大気中へのCO2排出を削減する技術である。上部に水やガスを透さない不透水層が存在する帯水層を選んでCO2を圧入すれば、長期間にわたって安全に貯留できる。気候変動に関する政府間パネル(IPCC、Intergovernmental Panel on Climate Change)によると、世界全体での貯留可能量は少なくとも2兆トン(世界の総排出量の約100年分に相当)であると試算されている。しかし、日本のように地盤が悪く、地震の多いところでは十分な安全性の検証が必要であろう。 (3)鉄鋼分野 鉄鋼分野の中では高炉用コークスが大半を占める。経済性を高めるためには、コークスの製造に向かない品質の安価な石炭を活用する技術が必要となるであろう。将来は、CO2の排出を減らすためコークスの代わりに水素H2による鉄鉱石の還元が行われるようになるかもしれない。その時でも、エネルギー源はおそらく石炭であるから、石炭から水素を造る技術とCO2の貯留が重要となる。 (4)化学・材料分野 今は石油化学全盛の時代であるが、かつて石炭化学の時代があった。石油枯渇の時代が近づけば、再び石炭化学が見直され、第二次世界大戦中に試みられた石炭液化(石炭から石油を作る)が事業化されるかもしれない。自動車は電気でも動かせるが、航空機には液体燃料が必須であるからだ。 以上思いつくままに述べた。これらのうちいくつかは既に技術的な可能性が確かめられ、実証プラントでの試験が行われている。環境に優しく(Environment)、経済的で(Economy)、エネルギー安全保障(Energy Security)に役立つ『広義の石炭産業』が栄えることを願う次第である。 |
本ホームページの作成に当り、各地の教育委員会、博物館、企業等のお世話になりました。記して謝意を表します。 |
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