川上音二郎・川上貞奴・福沢桃介の大ロマン物語 ---- 茅ヶ崎・名古屋・犬山・南木曽を訪ねる |
|
A | A | A | ||||
川上音二郎 |
川上貞奴 |
福澤桃介 |
|||||
|
川上音二郎・川上貞奴・福澤桃介の関連年表 |
西暦 | 元 号 | 川上音二郎 関連事項 | 川上貞奴 関連事項 | 福澤桃介 関連事項 |
1864 | 文久4年 | 川上音二郎は、筑前国博多の豪商川上専蔵の子として生まれる | ||
1868 | 慶應4年 | 旧名岩崎桃介は、名主の末端の分家で、提灯屋を営む家に6人兄弟の次男として生まれた | ||
1871 | 明治4年 | 旧姓小山貞は、東京日本橋の両替商・越後屋の12番目の子として誕生。 | ||
1878 | 明治11年 | 論語・孟子を学び、旧制福岡中学校の前身に学ぶが、家出して東京へ。増上寺の小僧をしていたとき、福澤諭吉と出会い、慶應義塾の学童となる。 | 生家の没落により7歳のとき芸妓置屋「浜田屋」の女将の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。のちに伊藤博文や西園寺公望などから贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となる。 | |
1883 | 明治16年 | 立憲帝政党員となる | 慶應義塾に入学 | |
1885 | 明治18年 | 講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した明治20年には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌った。 | ||
1886 | 明治19年 | 福澤諭吉の次女「房」との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤桃介となる | ||
1887 | 明治20年 | アメリカに留学、語学研修の後、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道の事務見習いとなる。 | ||
1889 | 明治22年 | アメリカ留学から帰国し、福澤房と結婚。北海道炭礦鉄道に勤めるが、結核を患い辞職。 | ||
1889 ~1895 |
明治22年~28年 | 『オッペケペー節』は、日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる | ||
1894 | 明治27年 | 郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。 伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたという。 日清戦争が始まると、いち早く戦争劇「壮絶快絶日清戦争」を仕立てた。 |
川上貞は川上音二郎と結婚し、川上貞奴となる | この頃株式投資を始めた。日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期だった。 |
1895 | 明治28年 | 歌舞伎座で「威海衛陥落」を上演、歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のこと。 | ||
1896 | 明治29年 | 東京市神田に川上座を開場 | ||
1898 | 明治31年 | 第5回・第6回衆議院総選挙に出馬し、落選し、資金繰りの為に川上座を手放し、9月に貞奴とともに築地から4m足らずの手漕ぎボートで船出した。 | 音二郎と一緒に手漕ぎボートで船出し、神戸へ | |
1899 | 明治32年 | 5ヵ月かけて1月に辿り着いた神戸で興行師と出会い、19名の座員でアメリカに渡ることが決定。 | ||
1899 ~1901 |
明治32年~34年 | 第一次渡航は、アメリカ(シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク)で公演の後、ロンドンを経て1900年万博開催中のパリで公演した。全行程は20ヶ月に及んだ。 | 川上一座のアメリカ興行中に女形が死亡したため、貞奴が急遽代役を務め、日本初の女優になった。万博会場では、ロダン、ドビュッシー、ジイド、ピカソが彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。 | |
1901 ~1902 |
明治34年~35年 | 第二次渡航は、ロンドン、パリ、ベルリン、チューリヒ、ミュンヘン、ウィーン、サンクトペテルブルク、モスクワ、ブダペスト、ローマ、バルセロナ、マドリッド、などヨーロッパ各地で公演し、全行程は15ヶ月に及んだ。 | 女優貞奴も同行 | |
1906 | 明治39年 | 日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられた。 | ||
1908 | 明治41年 | 興行師として成功し、現在の大阪市北浜に洋風の劇場・帝国座を開場 | 後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立 | |
1910 | 明治43年 | 桃介、名古屋電燈(株)の取締役となる。木曽川水力の開発調査に着手 | ||
1911 | 明治44年 | 急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去。享年48。 | ||
1912 | 明治45年 | 千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補し当選 | ||
1917 | 大正6年 | 遺志を継ぎ公演活動を続けたが、ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、音二郎の死後、7回忌を経て『日本の近代女優第一号』として舞台から退いた。 | ||
1918 | 大正7年 | 名古屋大曽根に、輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立。名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をした。 | ||
1920 | 大正9年 | 名古屋市東二葉町に貞奴邸を新築し、二葉御殿といわれ、政財界人や文化人のサロンとなった。桃介と同居。 | 木曽電気興業、日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力(株)の前身)、福沢桃介社長に就任 | |
1922 | 大正11年 | 大同電力、読書第1発電所の資材運搬用として、木曽川に橋長248.8mの吊橋・桃介橋を完成 | ||
1923 | 大正12年 | 読書第1発電所竣工 | ||
1924 | 大正13年 | 川上児童劇団を結成 | 大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所竣工 | |
1926 | 大正15年 | 大同電力、木曽川水系7カ所に水力発電所16.78万kWを開発 | ||
1928 | 昭和3年 | 桃介、電力事業界から引退 | ||
1933 | 昭和8年 | 岐阜県各務原市鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立。門前に別荘「萬松園」を建築。東京と鵜沼を行き来して生活を送る。 | ||
1937 | 昭和12年 | 桃介、渋谷本邸にて永眠、享年70 | ||
1946 | 昭和21年 | 熱海の別荘で死去、貞照寺に埋葬された。享年75 | ||
2005 | 平成17年 | 「二葉御殿」の復元・移築完了し、「文化のみち二葉館」として開館(名古屋市東区橦木町) |
川上音二郎・川上貞奴・福澤桃介に関する参考資料 |
多くの参考資料があるが、このホームページに関連して興味深いものを3つ挙げる。 1.茅ヶ崎市美術館 「川上音二郎・貞奴展」 茅ヶ崎美術館が音二郎歿後100年・貞奴生誕140年記念として、2011年9月10日~11月27日に 開催した企画展の図録である。本ホームページ中では単に「図録より引用」と記させて頂いた。 2.神津カンナ 「山師と女優の電力革命 - 水燃えて火」 中央公論新社、2017年3月10日 流石は作家、私のホームページでは描けなかった桃介と貞奴のロマンを見事に描いている。 たまたま、2017年5月の取材旅行中に、貞照寺の住職さんと読書発電所の職員さんに本を目の前 にして、ぜひお読みなさいと勧められた。 3.井上理恵 「川上音二郎と貞奴」全2巻 社会評論社、2015年2月17日 著者は桐朋学園芸術短期大学特任教授で、近現代演劇・戯曲の研究者。演劇史の研究者として 小説とは異なる学問の世界を垣間見ることができる。 |
第一幕 | 茅ヶ崎地区 ━ 川上音二郎・貞奴の別荘跡 と 茅ヶ崎市美術館 |
第一幕の舞台「茅ヶ崎地区」は、川上音二郎と貞奴が別荘「萬松園」を建てたところで、後にその隣接地に茅ヶ崎市美術館か建設された場所である。茅ヶ崎市美術館では、2011年9月10日~11月27日に、川上音二郎・貞奴展が開催された。 |
東海道本線茅ヶ崎駅から高砂緑地の入口まで約500m、 さらに緑地の日本庭園の中を100mほど歩くと、茅ヶ崎市美術館がある。 |
茅ヶ崎市高砂緑地に音二郎別荘跡を訪ねる |
A | ||
東海道本線茅ヶ崎駅南口 | 高砂(たかすな)緑地の入口 |
A | A | |||
高砂緑地から松籟庵への入口 |
大正時代に財界で活躍した原安三郎の別邸「松籟荘」は、茅ヶ崎市により茶室として整備されて松籟庵となった。 | 高砂緑地の中の日本庭園は、「松籟荘」時代に 造られた回遊式の日本庭園で、点在する石灯篭は政財界の人々から贈られたもの。 |
A | ||
高砂緑地一帯は川上音二郎・貞奴夫妻が明治35年頃に住まいを構え、「萬松園」と名付けられた。今は井戸枠だけが名残りを留めている。 | 緑地の北面に、昭和6年(1931)に建てられた松籟荘の玄関前庭と塀が残されている。タイルや敷石、噴水などが、当時の南欧風の近代別荘建築を今に伝える。右奥に、茅ヶ崎市美術館の一部が見える。 |
茅ヶ崎市美術館 ━ 川上音二郎・貞奴展 |
川上音二郎・貞奴展が、ゆかりの地の茅ヶ崎市美術館で、2011年9月10日~11月27日に開催された。 以下、時代を追って、音二郎・貞奴の活躍の軌跡を訪ねる。 |
A | ||
茅ヶ崎市美術館の外観 | 川上音二郎・貞奴展の会場入口 |
書生芝居時代の音二郎と芸者時代の貞奴 |
A | ||
関西を中心に政治演説をしていた自称「自由童子」川上音二郎は、官憲の取り締まりを逃れる手立てとして寄席芸人浮世亭〇〇(まるまる)と名乗り「オッペケペー節」を唄った。オッペケペーとは意味のない囃子言葉。 図録より引用 | 1997年東芝EMIから発売された「甦るオッペケペー」★より (音声のみで映像は動きません) 上の画像をクリックしてしばらくお待ちください。YouTubeでご覧下さい |
★1900年に川上音二郎一座が欧米興行を行った際にイギリスのグラモフォン・レコード社(EMIの前身)が「オッペケペー節」を 録音したもので、これは日本人初のレコードへの吹き込みであったとされている。そして、1997年に『甦るオッペケペー節』と して東芝EMIから発売された。 |
A | ||
明治24年(1891)、浅草凌雲閣で東京の美人芸者100人を選ぶ催があり、この時20歳の貞奴(小山貞)は芳町浜田屋抱えの芸者「奴」の名で選ばれた。 図録より引用 |
明治27年(1894)結婚当日の川上音二郎・貞奴。 伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた外交官の金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたという。 図録より引用 |
川上一座と日清戦争劇 |
明治27年(1894)に日清戦争が始まった。維新以来国内に山積する諸問題に揺れていた日本は国外の敵に目を移すことで、民衆の間に国家意識が芽生えてきた。書生演劇のジャンルを築き始めた音二郎は、いち早く日清戦争を演目に取り入れ、喝采を浴びた。 しかし川上一座の戦争演劇も長続きせず、借金の末劇場川上座も人手に渡り、音二郎は挫折を経験する。この挫折が、音二郎と貞奴の次なる国際舞台への飛躍に繋がっていく。頑張れ、音二郎・貞奴! |
A | ||
川上演劇日清戦争 三代歌川国貞の錦絵 明治27年(1894) 音二郎が演じる戦場に赴く新聞記者が清軍の捕虜となり、 敵将李鴻章と対決する場面 図録より引用 |
日清戦争劇の成功を受け、音二郎は新演劇運動を 推進するため東京神田に川上演技場を新築したが、 多額の借金のため人手に渡った。 図録より引用 |
川上座の建築で経済的な破綻をきたし、さらに衆議院選挙に落選した音二郎は貞奴を伴い、 1898年9月、築地から4m足らずの手漕ぎボートで船出する。太平洋沿岸の各港に停泊しながら 翌年1月に辿り着いた神戸で、興行師と出会い、19名の座員でアメリカに渡ることが決まった。 図録より引用 |
海外における川上夫妻の活躍 |
借金で劇場を売り払った音二郎は海外巡演に活路を求める。明治32年(1899)4月~明治34年(1901)1月アメリカ・ヨーロッパの巡演、明治34年(1901)4月~明治35年(1902)7月 ヨーロッパ巡演を敢行。 |
第一次渡航 明治32年(1899)4月~明治34年(1901)1月 欧米巡演の経路 サンフランシスコを皮切りに、幾度もの辛酸をなめた末、シカゴでの大成功からボストン、ワシントン、 ニューヨークと大都市の公演ではどこでも盛況だった。アメリカ興行中に女形が死亡したため、 貞奴が急遽代役を務め、「日本初の女優」になったといわれている。 帰路にロンドン、パリを訪れた。パリでは万国博覧会が開催中で、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で 公演した。当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。 図録より引用 |
第二次渡航 明治34年(1901)4月~明治35年(1902年)7月 ヨーロッパ巡演の経路のうち 明治35年(1902)4月~明治35年(1902)7月の部分を示す。この部分だけでも、ブダベスト、ローマ、 ミラノ、バルセロナ、マドリッド、リスボン、リヨン、パリ、ブリュッセル、ロンドンなどが含まれている。 図録より引用 |
A | ||
サダヤッコ ミュラーのポスター 明治33年(1900) 図録より引用 | ドレフュス=ゴンザレスによる肖像画 川上貞奴 図録より引用 |
A | ||
ロイ・フラー劇場(武士と芸者)の舞台写真 図録より引用 | パリ・アテネ劇場の舞台写真 明治34年(1901) 図録より引用 |
帰国後の川上夫妻の活躍 |
延べ3年に及ぶ欧米行脚の旅装を解いたのが、茅ヶ崎の新居「萬松園」であった。この地には先輩の九代目市川団十郎がいたことが、直接の理由だといわれている。音二郎は、シェークスピア原作の「オセロ」、「ヴェニスの商人」、「ハムレット」を立て続けに上演した。上演の際に、演劇改良(上演時間の短縮、上演中の飲食禁止、観劇料金を安く設定など)を掲げたが、旧システムで権益を持つ人々から強い抵抗を受けた。このとき音二郎に協力したのが、二代目市川左団次であったという。 |
A | ||
伊藤博文が川上夫妻に贈った茅ヶ崎の川上邸萬松園のための扁額 伊藤博文は一貫して文化の欧化政策に努め、演劇改良運動にも尽力した。欧州興行中も夫妻は幾度か伊藤と行動を共にした。帰国後は伊藤の本宅が大磯滄浪閣にあったことから相互に行き 来したと思われる。 図録より引用 |
伊藤博文絵葉書 明治42年(1909) 図録より引用 |
A | ||
伊藤博文国葬の日 明治43年(1909)の撮影と思われる。前列左から二人目が音二郎、貞奴は写っていない。 図録より引用 | 茅ヶ崎・萬松園での集合写真 前列右より三人目が貞奴、その隣が音二郎 図録より引用 |
A | ||
女優養成所の所長とその生徒 明治41年(1908)、帝国劇場の設立にあたった渋沢栄一、福澤桃介らの支援を受けて女優養成所が設立された。発案者の一人である川上貞奴が初代所長を務めた。 図録より引用 |
大坂北浜新築帝国座 明治40年(1907)から建築にとりかかり、明治43年(1910)開場した。辰野金吾設計の関西初の洋風劇場で、収容人数1200名 図録より引用 |
明治44年(1911)10月、川上音二郎は帝国座でイプセンの「人民の敵」の上演を予定し自ら主人公を 演じようとしたが、病に倒れ、11月4日から昏睡状態になった。11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台の上で息を引き取った。享年48。 貞奴は音二郎の遺志を継ぎ公演活動を続けたが、ほどなく大々的な引退興行を行い、音二郎の7回忌を経て舞台から退いた。名古屋大曽根に、輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立するなど新事業に意欲をみせ、電力王と呼ばれた福澤桃介の木曽川開発の大事業に協力献身する。 舞台は第二幕へ! |
第二幕 | 名古屋地区 ━ 文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)と貞奴ゆかりの地 |
川上音二郎の7回忌を勤めた貞奴は、木曽川開発の大事業に情熱を燃やす福澤桃介のよき協力者となる。桃介との馴れ初めは明治18年(1885)ごろにさかのぼる。馬術を していた貞が野犬に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。その後桃介は福澤諭吉の次女と結婚。貞奴と桃介は長い離別を挟む。 しかし、女優を引退した後の貞奴は、再び悲恋の相手だった桃介と結ばれる。事業面でも実生活でも貞奴は桃介を支えた。桃介が手掛けた大井ダム工事の際も貞奴は赤い バイクを乗り回し、現場を訪れ、社員がしり込みする中を、1人桃介について谷底まで向かったという。 第二幕は、二人が居を構えた名古屋が舞台である。 |
文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸) |
貞奴は大正9年(1920)に名古屋市東二葉町に貞奴邸を新築した。2000坪の敷地に建てられた和洋折衷の建物は、二葉御殿といわれ、政財界人や文化人のサロンとなった。当時、名古屋電燈(株)の取締に就任していた福澤桃介は、木曽川での水力発電を進めるために名古屋に拠点を構え、事業パートナーとして貞奴を呼びつけたともいわれている。設計は、当時新進気鋭の住宅専門会社「あめりか屋」に依頼し、建物内部に驚くべき電気設備が施される一歩、貞奴好みもいたるところに取り入れられた。 |
A | ||
文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸) 平成17年に現在の橦木町に移築復元工事が完了し、文化のみち二葉館として蘇った。 |
旧川上貞奴邸は 国の登録有形文化財に指定されている |
A | ||
1階大広間は映像資料展示室になっている | 1階大広間から見えるらせん階段 |
A | A | |||
1階大広間を飾るステンドグラス |
A | ||
1階展示室4(和室) 文机、火鉢、座布団など、貞奴が使った愛用品 |
1階展示室2(和室) 貞奴の親しい友人が通された部屋 |
A | A | |||
ミュラーのポスター(レプリカ) |
川上貞奴が園長をしていた川上児童楽劇園の卒業証書 |
1階の片隅に見つけた当時の配電盤。各室に照明があり、各室に呼び鈴があったという。 |
A | ||
らせん階段を上ると、2階は郷土ゆかりの文学資料の展示室 | 文学資料には、坪内逍遥、城山三郎などの名が見える |
貞奴ゆかりの地 |
旧川上貞奴邸のほかにも、この付近には貞奴・桃介ゆかりの跡地があるというので、 現地で探してみた。 |
A | ||
当初の二葉御殿があった所には、 現在シティハウス白壁が建っている |
桃介が作った萩野変電所の跡地は、現在中部電力(株) 名古屋資材センター萩野分室として面影を留めている |
A | ||
貞奴が作った川上絹布工場の跡地は、現地駐在所、タクシー運転手、文化のみち二葉館の職員の皆さんを お煩わせした結果、現在の上飯田幼稚園(左)と愛知調理専門学校(右)の辺りだということになった。 |
文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)の華麗さに驚き、ここで繰り広げられたであろう政財界人や発電所建設の外人技術者への接待に活躍する貞奴の姿を想像した。晩年の貞奴は、木曽川河畔の犬山(正確には各務原市)に自分の菩提寺「貞照寺」と別荘「萬松園」を建て、静かに暮らしたという。 舞台は第三幕へ! |
第三幕 | 犬山地区 ━ 成田山貞照寺(貞奴の菩提寺)と萬松園(貞奴別荘) |
貞奴は、桃介が命を懸けて開発している木曽川のほとりの岐阜県各務原市鵜沼(愛知県犬山市の近傍)に、私財を投じて貞照寺を建立し、自分の菩提寺とした。また貞照寺から近いところに、別荘「萬松園」を建てた。 第三幕は犬山地区が舞台である。 |
貞奴の菩提寺「貞照寺」と別荘「萬松園」の所在地は各務原市(かかみがはらし)であるが、 馴染みの地名として木曽川対岸に犬山市があるので、第三幕を「犬山地区」と称することにする |
成田山貞照寺(貞奴の菩提寺) |
1933(昭和8年)貞奴は、木曽川のほとりの岐阜県各務原市鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立し、自分の菩提寺とした。また貞照寺から木曽川に向かって300mほどのところに、貞奴は別荘「萬松園」を建てた。音二郎との新婚時代に茅ヶ崎に建てた「萬松園」と同名である。 |
A | ||
名鉄名古屋駅から名鉄犬山線に乗り、新鵜沼駅で下車 偶然中部国際空港centrair行きの特急ミュースカイに出会う |
名鉄新鵜沼駅から長い空中歩道を歩いてJR鵜沼駅側の 出口へ移動し、そこからタクシーで貞照寺に向かう |
A | A | |||
南面から入る貞照寺の仁王門 |
貞照寺は、昭和8年(1933)の建立当時は金剛山桃光院貞照寺と呼ばれた が、昭和35年(1960)荒廃していた貞照寺は成田山名古屋別院の管理下に おかれ、成田山貞照寺に改称された。 |
A | ||
本堂は仁王門から一段と高いところに建つ。 | 貞照寺上棟式紀念写真 昭和8年(1933) 図録より引用 |
A | A | |||
本堂には本尊不動明王が祀られている。 貞奴は若い頃から不動明王を信仰していた。 「芸事成就」にご利益があり、芸能人の絵馬が多い。 |
本堂裏には貞奴の墓・霊廟がある 昭和21年(1946)に亡くなった貞奴はここに眠る |
霊廟前に建つ観音像 |
A | ||
貞照寺本堂の外壁面に8枚の浮彫の霊験絵図(金子光清作)がある 生涯にわたり不動明王に対する信仰を持ち続けた貞奴は 自らの人生の中から選んだ8つの出来事を刻んでいる。 |
左上は第1シーンで、養母が病に伏したとき貞奴が 極寒の深夜に水垢離をする図で、病の養母の上に 霊光がさしている。右上は水垢離の部分拡大 |
A | ||
それぞれの浮彫には、説明する銅板が付いている 上は第1シーンのもの |
浮彫には、それぞれ岡田如竹の原画がある。昭和7年(1932) 以下、7つのシーンは浮彫でなく原画で示す。 図録より引用 |
A | ||
(第2シーン) 成田遠来の途、貞女を乗せし奔馬、野犬の群れに 襲われて絶壁に追い詰められし時、不動明王を念ずれば不思議や アワヤと云う瞬間後退して難を免がる。 図録より引用 |
(第3シーン) 貞女19歳の時箱根山中の宵闇悪漢に囲まれ 落花狼藉と思われし時、不動明王の威徳忽然一名の普化僧を 現わし怪漢を追い給う。 図録より引用 |
A | ||
(第4シーン) 貞女廿一歳、上野池の端、武徳会騎馬乗幌引きに 出場、柳に懸りて落馬し馬の下敷きとなる。されど佛光無量、 遂に微傷さえ負わず。 図録より引用 |
(第5シーン) 貞女の夫、音二郎。鹿を中原に争って落つ。 憤然凄愴たる相模灘に二間餘の小舟にて冒航す。仏威廣大 辛じて下田に漂着す。 図録より引用 |
A | ||
(第6シーン) 貞女夫妻志州鳥羽沖舟行中海驢嶋付近にて 海驢の群れに襲わる。専念不動明王を念祈して防げば 怪獣仏威に打たれて去る。 図録より引用 |
(第7シーン) 貞女卅一歳の春。一座欧州へ興行談纏まり、 其旅費を受取り奔走準備中、神戸にて俥内に遺失したれども 日頃の祈念に恙なく手中に戻りたり。 図録より引用 |
A | ||
(第8シーン) 大正十三年頃、木曽川を横断してダムを築き 水力電気を起こさんとする福澤桃介の為め一身犠牲の念願を 籠め、空前の難工事を完成せしむ。 図録より引用 |
貞照寺境内に建つ貞奴縁起館には、女優貞奴の残した衣装や 台本など様々な物が展示されているというが、時間の都合で 見れなかった。 |
萬松園(貞奴別荘) |
貞照寺から木曽川に向かって300mほどのところに、貞奴は別荘「萬松園」を建てた。 音二郎との新婚時代に茅ヶ崎に建てた「萬松園」と同名である。二人の男を愛した 貞奴に相応しい名前である。 |
A | A | |||
現在は愛知県の会社経営者が所有し、民間企業に貸して結婚式場と なっている。『萬松園』は長期間にわたり誤って、『晩松園』とされていた。 |
平成18年〈2006〉に国の登録有形文化財に登録されたが、岐阜県各務原市文化財に指定されたため抹消された |
A | ||
名古屋の二葉御殿のように事業の接客・商談をするための公的な別荘と異なり、 貞奴と桃介のためだけに設計され、貞奴の桃介に対する愛情を素直に投影したものといわれている。 |
柿其渓谷探勝・木曽川読書ダム・中央アルプス遠望 |
貞照寺と萬松園を訪ねた後、名鉄犬山線で名古屋に戻り、中央本線(西線)で南木曽に向かった。 |
A | ||
JR中央本線(西線)は名古屋から木曽川に沿って登る | 車窓から中央アルプスの山が見える。南駒ヶ岳であろうか。 |
A | ||
木曽路はトンネルが多い | 中津川で乗り継ぎ、名古屋から2時間足らずで南木曽に着く |
A | ||
駅からタクシーを呼び、 15分ほどで柿其(かきそれ)温泉の一軒宿「いちかわ」に着く |
宿の庭から温泉の湯殿を見上げる |
A | A | |||
新緑を眺めながら檜風呂に浸かる |
柿其温泉は珍しいラドン温泉である。ラドン濃度8.4×10-10キュリー/Kgと 記されているが、放射強度何シーベルト/時間に相当するのか私には分らない |
A | A | |||
入浴後は地元料理に舌鼓を討つ。鮎の塩焼き、鹿肉の刺身 |
「南木曽の地酒 どぶろく風味の杣酒」という 掛け軸に惹かれてドブロクを頂く |
A | ||
次々に運ばれる山菜の天麩羅は タラノメ、ヤマウド、コシアブラ、コンフリー・・・ |
最後に、清酒を頂いて梅入りの飯を食う 満足の夕食でした。 |
素朴ながら心のこもった食事とお酒を頂き、名古屋~犬山~南木曽を巡る長かった一日を思い出しながら眠りにつく。明日はいよいよ、最終の第四幕へ! |
第四幕 | 南木曽地区 ━ 読書発電所と福澤桃介記念館 |
第四幕は、いよいよ桃介が心血を注いだ木曽川開発の金字塔、読書発電所のある南木曽地区である。 |
桃介が作った読書発電所の取水池である読書ダムから発電所までの地中導水路が分る国土地理院の地図 |
柿其渓谷探勝・木曽川読書ダム・中央アルプス遠望 |
A | A | |||
柿其温泉から 渓谷の入口にある標識 |
柿其川を恋路の吊橋で渡る。結構揺れる。 |
揺れる吊橋の中ほどから上流を眺める。木曽川本流と同じように川原は花崗岩の岩塊だ |
A | A | |||
柿其川の左岸を進む。 | 花崗岩に清流が映える | 崖路だが手すりがあって安全 |
遂に「牛ヶ滝」に到着。落差は25mといわれている。エメラルドグリーンの滝壺が美しい。 |
A | A | 展望台のある恋路峠 の北東側は大桑村 ↓ |
||
峠の南西側は南木曽村 ↓ |
||||
背中合わせに 設置された町村表示 |
||||
峠の道祖神 | 牛ヶ滝から往路と異なる道を通って恋路峠の展望台へ |
恋路峠の展望台からの眺め 足下に読書ダムで堰止められた木曽川、見上げれば中央アルプスの山並み(最高峰は木曽駒ヶ岳2,956m)が望まれる |
柿其水路橋 |
柿其水路橋は読書ダムから読書発電所までの導水路として、福澤桃介が大正11年(1922)に建設したもの。現存する戦前の水路橋としては最大級の規模。国の重要文化財に指定されている。 |
A | ||
全長142mコンクリート製の柿其水路橋は、 福澤桃介が読書発電所建設の際に造った |
読書ダムから読書発電所までの導水路は山中のトンネルであるが、 途中で柿其川の支流岩倉川を渡るところは地上に出て柿其水路橋になっている |
A | A | |||
付近は檜・杉の産地で、木材屋が目立つ |
水路橋の近くにある八剱(やつるぎ)神社の大杉は目通り11.8m、樹高38m、樹齢530年という |
桃介橋 |
桃介橋は、全長247m、幅2.7m。日本最大級の木製吊橋である。これが誕生したのは大正11年(1922)。木曽川開発に心血を注いだ福澤桃介が、読書発電所の建設資材 運搬用に架設したもの。桃介橋が架かるこの辺りは、川幅が最も広く激流の場所でも知られていた。この最も困難な場所に吊橋を架けることにより自らを鼓舞しながらも、日本の電力事業の発展に寄与すべく、あえてこの場所を選んだといわれている。 |
A | ||
国指定の重要文化財 |
桃介橋は木曽川の最も川幅の広いところにかけられている。 3基の主塔を有する日本最大級の木製吊橋である。 |
A |
A | A | |||
この吊橋で発電所建設用資材を 運んだ証拠として、軽便鉄道の 線路の一部が今も残されている |
読書発電所に水を取られて、水量の乏しい木曽川。 関西電力では木曽川に最小限の維持流量を流すため 読書きダムの直下に平成23年に最大出力480kW の小規模発電所を設けた |
主塔の高さは石積み部分13.0m、 コンクリート部分13.3m。3基ある主塔の 中央から左岸に降りることができる |
山の歴史館 |
山の歴史館は、旧御料局名古屋支庁妻籠出張所。明治33年に旧妻籠宿本陣跡地に建てられ、大桑・読書・吾妻・田立・湯舟沢と木曽南部全域を管轄していた。平成2年に「山の歴史館」として、現在の地に復元された。内部には、木曽山の概略、江戸時代の林政、明治時代の御料林事件の史料などが展示されている。 |
A | A | |||
玄関側から見た「山の歴史館」 ここには受付があり、隣の福澤桃介記念館もこちらから入る |
玄関にはコンポジット式柱頭のある柱が見られた |
庭に置かれた森林鉄道用の機関車 南木曽には総延長70kmもの森林鉄道が、木材だけでなく地域の足として活躍したが、昭和40年に廃止され、トラックとバスに変わった。 |
コンポジット式柱頭は、古代ローマ建築の様式の1つ。イオニア式の渦巻き模様とコリント式のアカンサスの葉模様を混合したもの。 |
A | ||
旧御料局妻籠出張所の配置は現在も残されている | メイン展示室には木曽の山林の道具が展示されている |
A | ||
島崎広助は父島崎重寛(正樹)の遺志を継いで、木曽の山林問題の解決に奔走した。 | 島崎家系図 島崎藤村の小説「夜明け前」の主人公青山半蔵は島崎重寛(正樹)がモデル。島崎藤村は正樹の末子で広助の弟。 |
A |
|
A | ||||
旧御料局妻籠出張所には留置所や調所があった。 困窮した村民による盗木や御料林事件があり、 このような施設が必要だったのだろう。 |
木曽の山林は、江戸時代は尾張藩有林として「ひのき一本首一つ」の厳罰に処された。明治政府は明治22年(1889)に全域を御料林(皇室財産)に編入した。終戦後昭和22年(1947)に御料林はすべて国有林となった。 |
桃介記念館 |
「一河川一会社主義」を掲げて木曽川の電源開発に乗り出した福澤桃介は、木曽に於ける基地として風光明媚なこの地に大正8年(1919)に別荘「大洞山荘」を建て、ここから発電所建設現場に足を運んだ。 その桃介を助け、よきパートナーであったのが、わが国女優第1号といわれる川上 この建物は、昭和35年の火災で2階部分を焼失したが、平成9年度に当初の2階建の姿に復元された。大正時代の貴重な西洋風別荘建築としても知られているこの記念館に一歩足を踏み入れると、桃介と貞奴が過ごした大正ロマネスク時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。2人の写真や遺品、資料も展示されている。 |
A | ||
福澤桃介記念館は隣接した「山の歴史館」から渡り廊下で入館する。 庭に置かれているのは、平成9年まで読書発電所で使用されていた フランシス水車のランナ。1台で出力は約 14,000kW。 |
別荘前にて自転車に乗る桃介 |
A | ||
別荘の池の前にて桃介と外国人技師たち(左から3人目が桃介) | 福澤桃介 |
A | ||
1階のあまり広くない書斎だが、ここで木曽川開発の構想を練ったり、外国人技師との交渉のことを考えたのかもしれない。 | 成田山貞照寺の本尊聖不動明王と作者小川半次郎 小川半次郎は桃介と貞奴の依頼を受け、命がけで制作に励んだ |
A | ||
建設中の桃介橋の橋脚(大正11年) | 桃介橋の渡り初め(大正11年9月) 左端桃介、1人おいて貞奴 |
A | ||
工事中の柿其水路橋(大正11年) | 完成した柿其水路橋 |
A | ||
完成直後の読書発電所(大正12年) | 読書発電所落成記念碑の前にて、左から4人目が貞奴、その右が桃介 |
名古屋電燈の取締役となった桃介は、大同電力の社長に就き、木曽川の一大水力事業構想を実現していった。また発電事業と共に電気鉄道や電気製鋼などの電気活用事業も手掛けた。さらに木曽川から当時電気が不足していた関西地方へ電気を送ることを計画し、全長239kmの長距離送電線も完成させた。 |
展示されていた「木曽川と大同電力鳥瞰図」に、桃介ゆかりの発電所を加筆してみた。 上の画像をクリックして拡大し、スクロールしてご覧ください |
読書発電所 |
読書発電所(よみかきはつでんしょ)は、長野県木曽郡南木曽町読書(よみかき)にある関西電力の水力発電所である。長野県木曽郡大桑村、木曽川本流に建設された読書ダムより取水し、現在の最大出力は11万7,100kW。1923年(大正12年)に大同電力(福澤桃介社長)によって建設され、完成当時の出力は4万700キロワットであった。発電所施設(発電所本館・柿其水路橋・桃介橋)は関西電力の現役稼働中の発電所において唯一、国の重要文化財に指定されている。 |
A | ||
南木曽から国道19号を南下して右に分岐し、 木曽川に架かる三根橋を渡ると読書発電所だ |
発電所の建物は、桃介が作った当時のものである。大正12年 (1922)に完成したこの発電所は読書第1発電所と呼ばれる。 後ほど訪ねる読書第2発電所は隣接しているが、 地下式発電所であるので、写真には写っていない。 |
A | ||
建屋の半円形の窓のガラスは淡緑色、昔のガラスは不純物のため緑色だった | ||
建屋内には3基の発電機が設置されていた。2号機の銘鈑を右に示す。 | 下から順に古い銘鈑を読んでみる |
(下) 米国ウエスティングハウス社が最初に製造したときの銘鈑と思われる。 出力17000KVA、電圧6600Vとある。 〈中)三菱電機が昭和52年(1977)に改造したときの銘鈑 電圧6600V、電流1485Aとあるので、出力は√3×6600×1485=1697KVA と計算されるから、ウエスティングハウス社の当初のものと変わらない。 (上)三菱電機が平成2年(1990)に改造したときの銘鈑 このときは機械的な部分を交換したもので、性能は変らない。 |
A | ||
1~3号機用の水圧鉄管 |
大正12年(1923)の水圧鉄管は鉄板を丸めてリベット留めしたもの 現在も使われているが水漏れがあるという |
A | ||
水圧鉄管の途中まで登り発電所建屋を見下ろす | 案内して下さった関西電力木曽電力所の三浦さん |
A | ||
1~3号機のある読書第1発電所を出て、4号機のある読書第2発電所へ向かう。この通路は4号機の電力の送出路である。何だか暖かい。ここを流れている3相交流は発電機の出力電圧が6600Vと低電圧のため電流が大きくなりジュール熱で発熱しているようだ。このままでは遠距離に送電できない。 | 送電線による損失を減らすため、発電所屋外にある昇圧変圧器で発電機の6600Vから15.4万Vに昇圧して電流を減らして大阪方面に送電している。大同電力(株)は我国で初めて15.4万V長距離送電を行った特筆すべき歴史を有する。 |
読書発電所の見学を終えて、国道19号を歩いて吾妻洞門まで行き、読書発電所の全景の写真を撮る。 ここから見えるのは読書第1発電所とその導水管の地上部分だけ。読書ダム、柿其水路橋、地下導水管は山の向こう側にある。 読書第2発電所は、第1発電所の左側にあるが、全地下式のため全く見えない。 |
A | ||
読書第1発電所(1~3号機) |
読書第2発電所(4号機)は、地下式のため外からは何も見えない。 桃介が作った読書第1発電所は残し、隣に地下式の読書第2発電所が 昭和35年(1960)に建設された。現在地下発電所といえばその代表格が 「黒部第四発電所」。読書第2発電所の完成は、それよりも3年早い。 なお、放水口に設けられた下部サージタンクは、 水車の負荷変動やバルブの開閉の際の水圧の急峻な変化 (サージ)が放水口に生じるを抑えるためのものだという。 |
A | ||
吾妻洞門からJR南木曽駅まで少々遠いが国道19号を歩いた。 途中で、「三留野宿(みどのじゅく)」の標識があった。三留野宿は、 野尻宿と妻籠宿の中間にあり、中山道41番目の宿場である。 「読書(よみかき)」という地名は、与川村(よがわむら)、三留野村 (みどのむら)、柿其村(かきぞれむら)の頭文字をとったという。 明治初期の気風が現れていて素晴らしい。 |
この辺りは19号で名古屋から100kmに当たる |
A | ||
JR南木曽駅から中央本線で名古屋駅へ、そこから新幹線で新横浜の自宅に帰った。明治・大正の歴史に触れる楽しい旅だった。 |
(付) 木曽川における筏流しと森林鉄道 |
木曽川における筏流し 古来木曽川では伐採した木材を河口の貯木場まで運ぶのに筏流しが行われた。この筏流しに従事する人は、木曽節で、 「中乗りさん」と呼ばれ有名である。実は上流から下流まで激流の度合いと川幅を考慮して、筏には次の4つの形態がある ことはあまり知られていない。 (1) 伐採地から錦織(岐阜県加茂郡八百津町) 30~50cm×3.6m1本ずつ流す「管流し」、「一本流し」 (2) 錦織から犬山・鵜沼(愛知県犬山市・岐阜県各務原市) 30~50cm×3.6m×20本で2人乗り筏を組んで流す (3) 犬山・鵜沼から円城寺(岐阜県羽島郡笠松町) 2人乗り筏を2連繋いで1人で操る (4) 桑名の貯木場(三重県桑名市) 50連ほど繋いで8人で操る |
木曽川本流での筏流し |
木曽川の上流では、昔から「管流し」、「一本流し」と呼ばれる一本ずつ流す方法で木材を運び、 錦織(岐阜県加茂郡八百津町)で筏に組んで流したという。 下記の画像は「ビフォーアフターと筏(http://ameblo.jp/koosinzuka/entry-10688451238.html)から引用 |
A | A | |||
先ず材木は丸太では流さない。 角材にして軽くし、作業性をよくする |
これは作業用の筏である。 2人乗りで近距離の移動に使う |
作業用の筏は滝の上や下で待ち構えて 材木を流す足場として利用する |
川上音二郎・川上貞奴・福沢桃介の生き方に共鳴するところがあり、造りはじめたホームページであったが、3人にゆかりの地を訪ねているうちに、だんだん詳しいものになってしまった。最初は3人の心の中にも少し入りたいと思っていたが、最近出版された神津カンナの「山師と女優の電力革命 - 水燃えて火」中央公論新社を読むと、流石作家の筆力は素晴らしい。とても自分の及ぶところでないと悟り、いつものホームページと同様、理系センスで統一せざるを得なかった。 本ホームページを作成するに当たり、茅ヶ崎市美術館「川上音二郎・貞奴展」の図録をはじめ多くの文献を引用させて頂いたことに、お礼申し上げます。また読書発電所を案内して下さった関西電力木曽電力所の三浦紀秋氏はじめ、現地でお世話になった皆様に感謝します。 皆さんはいかがでしたか。ご感想をお送り頂ければ幸いです。 |
|
|
|
ホームページの中で検索したい |
|
ホームページの中で道に迷ったら |
|