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九州太宰府----「大君の遠の朝廷」を訪ねる
  
 九州太宰府といえば受験の神様太宰府天満宮を想い起こす人が多いだろう。歴史好きの人なら、大宰府政庁と、唐・新羅の日本侵攻に備えて築いた水城や大野城のことを、文学好きの方なら、大伴旅人や山上憶良といった万葉歌人を連想されるかも知れない。柿本人麻呂が 「大君の遠(とお)の朝廷(みかど)」 と詠ったように、大宰府は飛鳥・奈良と対比されるもう1つの都でもあった。

 北九州は、BC4世紀に稲作が伝わった板付遺跡、AD57年に後漢の光武帝から倭の奴国王に与えられた金印が発見された志賀島など、古代史の宝庫である。

 今年の秋のカナダのハイキング・ツアーでご一緒した太宰府市の
Eさん夫妻のお招きで、妻と一緒に太宰府を訪ねることになった。Eさん夫妻は歴史に明るい方で、詳しく案内して下さるとともに多くの資料を下さった。その上、プロ級の腕前の写真を沢山頂戴した。今回のホームページ作成に役立ったことをお礼申し上げたい。 (2002年11月)
受験の神様太宰府天満宮
  
北九州防備としての大宰府
663年朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗を喫した。唐・新羅連合軍の日本進攻を恐れた大和政権にとって北九州の防衛強化が急務となった。

博多湾からの侵攻を防ぐため水を貯えた大堤である水城(みずき)を築いた。博多湾から有明海まで見通すことができる絶好の地に大野城を築いた。さらに有明海からの侵攻に備えて、基肄(きい)城と小水城を設けた。

地図で50mの等高線を描くと左のようになり、水城の重要性は一目瞭然である。なお、御笠川は博多湾に、宝満川は有明海に注ぎ、分水嶺はJR二日市とJR天拝山の間付近を通り、その標高は海抜約40mである。日本海(博多湾)と太平洋(有明海)の間の日本一標高の低い分水嶺ではないだろうか。
  
太宰府歴史散歩マップ
  
このホームページには、太宰府大宰府が出てくる。太宰府は行政的な地名並びに天満宮として、大宰府は史跡名として使用した。
  

  
水 城 跡
  
平野の北西の出入口を塞ぐように木立に覆われた丘が続く。これが664年に唐と新羅の攻撃に備えて築かれた防衛施設「水城(みずき)」である。この土塁は全長1.2km、基底部の幅80m、高さ14mに及ぶ。現在は埋まっているが、外側(海側)に幅60mの堀を設け水を貯えていた遺構が最近発見され、水城の名の由来が実証されたという。
  
石碑(Eさん撮影) 航空写真(パンフレットより) 土塁に沿って散歩(Eさん撮影)
  

  
筑前国分尼寺跡
  
741年に聖武天皇は全国に国分寺・国分尼寺を建て、仏に守られた国を造ろうとした。筑前国分尼寺は筑前国分寺の西300mあたりといわれているが、畑の中に礎石が1個残るのみである。
  

  
陣 ノ 屋 古 墳
  
    古墳時代後期(6世紀後半から7世紀)の横穴石室
当時かなり普及していた墓の形式である。前室の奥にある奥室(玄室ともいう)は幅2m、奥行き2.3m。耳輪、鉄鏃、須恵器などが出土した。
  

  
筑前国分寺跡
  
筑前国分寺跡には、塔跡と講堂跡に見事な礎石が残っていて、往時が偲ばれる。
  

  
国 分 瓦 窯 跡
  
大宰府政庁の建物は8世紀はじめ頃に瓦葺に建て替えられたため、付近に幾つかの瓦窯が作られた。
これは、現在の新池の辺に残された地下式登窯である。
  

  
坂 本 八 幡 宮
  
一般に、山の登り口を「坂本」という。比叡山の坂本は有名である。ここは四王寺山への登り口で、坂本八幡宮は大宰師大伴旅人の屋敷跡といわれている。 神殿内には、古びた絵馬が飾られていた。
 
 
  

  
大宰府政庁跡
  
 筑紫大宰の名は、推古17年(609)に百済の僧など85人が来泊し、朝廷から使者が派遣されたことが「日本書紀」に記されているのが最初であるという。その後、663年に朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、日本・百済軍が唐・新羅軍に大敗し、唐・新羅軍の日本侵攻に対する防備が筑紫大宰の重要な任務となった。671年には大宰府の名が史料に初見するという。太宰府が廃絶する時期は、文献上の検討から、12世紀の後半と考えられている。

 大宰府は、古代九州を統括する内政機能に加え、外交・軍事の機能を持つ特異な役所であった。万葉歌人の柿本人麻呂が大宰府のことを 「大君の遠(とお)の朝廷(みかど)」と詠んだのは当を得ている。

 大宰府政庁跡は、中央政府の右大臣から左遷されて来た菅原道真の詠った詩の一句
「都府楼はわずかに瓦の色を看、観音寺はただ鐘の声を聴く」

から、
都府楼跡ともいわれる。
  
  政庁跡の航空写真(パンフレットより)
政庁の規模は東西110m、南北211m。この南(写真で手前)には、道幅36mの朱雀大路が走り、東西24坊(2.6km)、南北22条(2.4km)の条坊があったとも考えられ、遺構は発掘されつつある。
          復原模型(パンフレットより)
大宰府政庁は大きく2回建て替えられた。第T期は掘立柱建物で、第U期以降は瓦葺礎石建物である。この模型は、最後の第V期(平安時代半ば)に再建されたもの。
この建物群の西(写真の左)の台地に蔵司の建物跡があり、西海道諸国からの調庸(主として綿と絹)を収納していた。 
  
政庁の中枢である正殿跡  背後の山は四王寺山(標高410m)で、そこに大野城が築かれた。
  
大宰府政庁を示す石碑(Eさん撮影)
 
西脇殿の礎石
遺跡をこのように整備し過ぎるのは如何なものかと思う。
  

  
大宰府展示館
  
政庁に隣接する展示館には、貴重な遺物のほか、遺構の保存、模型の展示などがあり、ゆっくり見学したいところであるが、生憎時間の余裕がなかった。
  
遺構を展示館の中で見ることができる。
 
          博多人形による「梅花の宴」の再現
天平2年(730年)に大宰師大伴旅人の邸で、梅花を題とする歌宴が催された。大伴旅人、山上憶良、小野老等の姿が見られる。
  
           高級官人の食事
枝豆・栗・里芋の盛り合せ、アワビ、鮎の醤煮、鹿肉のなます、漬物、酢、塩、白米、清酒、干しイワシの汁
         下級官人の食事
ヒジキの醤煮、キノコと青菜の汁、玄米、塩、糟湯酒
  
                   大宰府と万葉集

729年から20年間続いた天平時代は律令国家の繁栄の下で、唐文化の影響を強く受けた貴族的な文化が花開いた。727年から732年にかけて、大伴旅人は大宰帥(大宰府の長官)、山上憶良は筑前守としてともに大宰府に住んでいた。

この二人を中心とする大宰府の歌人グループは後に「筑紫歌壇」と呼ばれ、多くの歌が万葉集に残されている。しかし所詮彼らは中央官人であり、はるばる赴任した任地で感傷にひたっていたのである。彼らが任を終えて帰京すると、筑紫歌壇は姿を消し、筑紫には根付かなかった。


万葉集には、大宰府に関係するものとして、「防人の歌」も多く収められている。しかし、そのほとんどすべては彼らが東国を出立するときに詠んだもので、この地で詠んだものはほとんど見られない。しかし名もない「防人の歌」には心打たれるものがある。


                大伴旅人の歌

世の中は 空しきものと知る時し いよよますます 悲しかりけり
大宰府に赴任してまもなく最愛の妻を失った彼の悲しみは酒を飲むことで紛らわせたのであろう。

験(しるし)なき、物を思はずは、一杯(ひとつき)の濁れる酒を、飲むべくあるらし
これに始まる「酒を讃(ほ)むる歌」13首がある。私の好きな歌である。ここまで来れば
2、3首紹介せざるを得ない。

あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似る

この代(よ)にし 楽しくあらば 来(こ)む世(よ)には 虫にも鳥にも吾はなりなむ



                山上憶良の歌

天(あま)ざかる鄙(ひな)に 五年(いつとし)住ひつつ 都の風習(てぶり)忘らえにけり
大宰府はまさに「天ざかる鄙」であった。彼の諦めに似た嘆きが聞こえてくる。

憶良等(ら)は 今は罷(まか)らむ 子(こ)哭(な)くらむ その彼(か)の母も
吾(わ)を待つらむぞ
昔も今も官人は宴会好きである。大宰府における宴会を辞す歌である。

銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに 勝(まさ)れる宝 子に如(し)かめやも
これは有名な「子等を思う歌」。憶良には「貧窮問答歌」など人間味溢れる歌が多い。
  

  
学 校 院 跡
  
奈良時代、中央には大学、諸国には国学が置かれた。九州には国学の代りに大宰府に学校院が置かれた。ここでは明経・医・算の三学科があり、学生は所定年内に必要な科目を修得した後、試験に合格すれば役人として採用された。付近には遺構は見られず、学校院の説明パネルだけが立っている。
 

  
戒 壇 院
  
日本三戒壇院の1つで、奈良時代に観世音寺に置かれた。戒壇とは、僧尼として守るべき戒律を授ける所で、ここで戒を受けなければ正式の僧尼と認められなかった。
  
戒壇院の正面から
  
西戒壇の銘の入った瓦 鑑真和上が中国から持ち帰ったと伝えられる菩提樹
  

  
観 世 音 寺
  
御母斉明天皇の追悼のため天智天皇が建立を発願し、80年余の歳月をかけて天平18年(746)に完成した。当時は、南大門、中門、五重塔、金堂、講堂、鐘楼、経堂など、七堂伽藍を備え、九州の寺院の中心的存在だった。現在は、江戸時代にに再建された講堂と金堂のニ堂を残すのみ。往時を偲ぶものとして、日本最古の梵鐘がある。
  
江戸時代に再建された講堂
  
この梵鐘は創建当時のもので、文武2年(698)の銘をもつ京都妙心寺のものと兄弟鐘といわれている。日本最古の梵鐘で国宝。菅原道真が「観音寺はただ鐘の声をのみ聴く」と詠じたのは、この鐘であるという。(梵鐘の写真はパンフレットより)
  
宝蔵には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像が展示されており、一見に値する。仏像を見て心が和むのは、私が歳を取った証拠か?
 
          南大門跡
案内してもらわないと知らずに通り過ぎそうな礎石。一個の石に往時を想像するのも遺跡めぐりの楽しみである。
  

  
太宰府天満宮
  
菅原道真(845−903)は平安前期の学者・政治家で、宇多天皇・醍醐天皇の信任厚く、文章博士、蔵人頭などを歴任し、右大臣までなったが、901年に藤原時平の讒訴(ざんそ)により大宰権師(ごんのそつ)に左遷され、翌々年に配所の大宰府で亡くなった。死後は、学問の神様、天神様として、全国各地に祭られ、広く民衆に信仰されている。

大宰師(そち)が大宰府の長官であるのに対して、大宰権師はどんな役職だったのだろうか。親王が大宰師に任命されると実際には現地に赴任しない遥任官(ようにんかん)となることが多い。とすると、大宰権師は現地の最高責任者ということになるが、実態は高位高官の左遷後のポストであったらしい。道真に限らず権力争いに破れた高官が大宰権師として左遷された例が多い。
  
土産物屋が並ぶ参道
名物の 「梅ケ枝餅」 は美味かった
天神様には太鼓橋が似合う
 
  
本殿の向かって右にある有名な「飛梅」。道真を慕って一夜にして京から飛んできたという伝説がある。
本殿は受験合格祈願の参詣者で賑わう
  
 大樟(楠)天然記念物(縦合成パノラマ)
高さ39m、根回り20m、目通12m、樹齢は1000年とも1500年ともいわれている。
境内では丁度菊花展が開かれていた
 
 
蛇足ながら、日本の「楠」は中国では「樟」という。中国での「楠」は日本のユズリハまたはタブノキに近いが、同一の種は日本には存在しない。最近 「山の自然学講座」で知った。
  

  
光 明 禅 寺
  
天神様と禅宗の教えが結びついた伝承により、鎌倉時代(1273年)に創建された寺。
  

大 野 城 跡
  
水城が造られた翌年の665年に大宰府の北の守りとして、南の基肄(きい)城とともに築かれた。百済から渡来した技術者の指導で造られ、その形は約8kmにわたる土塁や石垣で山頂部を囲み、その中に建物を置いた。現在、倉庫跡と思われる礎石が約70棟分、山中に点在している。四王寺山には、後に四天王が祀られ、山の名となった。
  
大野城跡にある分りやすい地図  地図をクリックすると大きくなります
  
城跡から南を見た合成パノラマ写真  山並みの低いところが分水嶺
これより手前の川は北上して博多湾に注ぐ。これより向うの川は南下して有明海に注ぐ。
  
                         大宰府口城門と石垣
大野城には4か所の城門が知られている。南側(大宰府側)には3か所あり、この門の規模が一番大きいので、正門と考えられる。最初は掘立柱形式の建物が建てられ、次に礎石形式に建て替えられた。
  
狭い尾根上の建物の礎石は、梁行3間、桁行4間と規格が揃っている。建物は倉庫。炭化した米が出る所は「焼き米原」ともよばれている。 増長天礎石は、梁行3間は同じだが、桁行は5間で少し広い。大きな礎石が規則正しく並んでいるのを見ると、建設当時の緊張感が伝わってくる。 
  
増長天礎石の近くにある鏡ケ池。籠城の時の飲料水にする積りだったのだろうか。 毘沙門天は四天王の1つ?
  
  

  
岩 屋 城 跡
  
時代は一気に飛んで戦国時代となる。岩屋城は16世紀半ばに宝満城の支城として、豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた。その後、高橋紹運は23才で城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を763名で迎え撃ち、激戦十日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。時に紹運39才であった。 
  
石碑以外になにもない城跡は、かえって戦いの壮烈さを偲ばせる
  
高橋紹運の墓 墓の辺の紅葉が妖しく燃えていた
  

  
太宰府は見所が多く、1日ではとても見切れない。またの機会にじっくり見学できることを願って、次の訪問地 「吉野ヶ里」 に向かった。
一日ご案内下さった
Eさんご夫妻、有難うございました。
 

 
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