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尖石遺跡---八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘にかけた宮坂英弌氏の情熱
  
 八ヶ岳山麓に縄文遺跡があることは聞いていたが、訪ねる機会がなかった。 以前に弥生時代の登呂遺跡を見学した横浜市歴史博物館の遺跡公園ガイドボランティア仲間で、「次は縄文遺跡を見学しよう」 ということになり、秋の紅葉のベストシーズンに尖石(とがりいし)遺跡へ出掛けることにした。

 八ヶ岳の西側、標高1000m余の緩斜面には、多くの縄文遺跡が発見されている。 中でも 「尖石遺跡」 は学術的価値が高いとして国の特別史跡に指定されている。 この遺跡は、昭和初期から宮坂英弌氏が発掘調査を進め、日本で初めて縄文時代の集落研究が行われた遺跡であるといわれている。

 平成12年7月に完成した 「新尖石縄文考古館」 を中心に、北に与助尾根遺跡、南に尖石遺跡があるが、ここでは合わせて尖石遺跡と呼ぶこともある。 なお、右の写真は、考古館所蔵の 「土偶」 で、「縄文のビーナス」 の愛称で親しまれる我国最古の国宝である。
                                         
(2001年11月)
縄文のビーナス
  
八ヶ岳西山麓広域マップ
尖石縄文考古館パンフレットを一部修正の上引用しました
  

  
ア プ ロ ー チ
 
東京・横浜方面から尖石遺跡に行くには、車の場合は中央自動車道の諏訪インターから30分。 バスの場合はJR茅野駅から20分尖石縄文考古館前下車。
  
八ヶ岳連峰を眺めながら中央自動車道を走る 八ヶ岳の西側に来ると、蓼科山が間近に見える
 

 
尖 石 縄 文 考 古 館
  
 宮坂氏は、尖石遺跡から出土した土器を展示するため、昭和26年に自宅の一部を改造して、「尖石館」 を作った。 これが、豊平村(当時)を経て茅野市の 「尖石考古館」 となり、現在の 「茅野市尖石縄文考古館」 に発展した。
 
茅野市尖石縄文考古館の玄関前には宮坂英弌氏の胸像がある
  
 故宮坂英弌氏は明治20年に現在の茅野市に生まれ、旧制諏訪中学を卒業、上京して苦学と転職の後、大正11年に郷里の泉野小学校の代用教員となった。 昭和4年に伏見宮殿下が考古学の調査に来られた際に、宮坂氏も調査の手伝いをした。 42歳の時のことである。 宮坂氏はこの調査で、地中から出土した縄文時代の土器に驚き、土の中に文化が眠っていることに感動し、考古学に興味を持ったという。

 以来、宮坂氏は学校勤務の余暇のすべてをかけて、家族とわずかな協力者で尖石遺跡と
与助尾根遺跡の発掘を続けた。 昭和22年には自らも小学校の教員をしながら発掘と研究を支えてきた夫人を、その2年後には考古学で内地留学し後継者として期待されていた長男を、何れも病で失うという不幸に遭遇した。

 宮坂氏は42歳で発掘の世界に入った人ながら、常に成果を学会に発表し学者の評価を受けてきた真摯な姿勢を、私は特に尊敬したい。 後年は左の写真のように子供達への啓蒙にも務め、昭和50年に89歳の生涯を閉じた。 一人の人間が縄文時代の集落の研究にかけたロマンと情熱は、時代を超えて私達に大きな感動を与える。

     (参考文献)  宮坂英弌著 「尖石」、学生社 1998年 
  
            国宝 「土偶」 (愛称 「縄文のビーナス」 )
近くの棚畑遺跡から出土した縄文時代中期(4000〜5000年前)の土偶で、我国最古の国宝である。 一般に土偶は女性像が多く、安産や子孫の繁栄を祈る祭りや儀式に使われたと思われる。 全長27cm、重量2.1kgの土偶の頭部は平らで文様があり、帽子を被っている姿とも、髪型であるとも言われる。 使用された粘土に雲母が含まれていたため、金色に輝いて見える。
  
最近、中ッ原遺跡から出土した 「仮面土偶」 は、愛称を募集した結果 「仮面の女神」 に決定したという。 縄文後期の 「仮面土偶」 が発見されたときの状態を再現した模型の前で説明して下さる鵜飼館長。
 
展示された縄文土器(深鉢)の数々
 
顔面把手土器の一部 蛇体把手付深鉢 吊り手土器  祭のために火を燃やしたのだろう。 内面にススが付いている。
 
石器の数々 朽ちずに発掘された木器(弥生時代) 石斧(復元品)
 
       黒曜石の原石と破砕したもの
八ヶ岳山麓には冷山など黒曜石の産出地がある。旧石器時代から縄文時代にかけて、長野県産の黒曜石が、遠く青森県まで運ばれていたことが分っている。 
         黒曜石製の石鏃(やじり)
この時代の石鏃は鳥獣を獲るのに使われた。 後の時代には、戦のための武器となる。
 
模型などを使って、縄文時代の生活が展示されている。(四季で風景が変わる) 土器製のイヤリング
 

 
与 助 尾 根 遺 跡
 尖石縄文考古館に隣接して北側に、縄文時代の与助尾根遺跡がある。 大部分の発掘が終了し、28個の竪穴住居址が発見された。 6軒の住居が復元されている。 
 
与助尾根遺跡は公園風に整備され、復元竪穴住居があり、内部も見学できる。
 
復元住居の内部
広角レンズによる上下合成パノラマ写真
     復元住居の床にある石囲い炉址
木製の腰掛けは想像による。 弥生時代の炉の多くは1個の枕石があるだけなのに、古い縄文時代の方が立派な石囲い炉であるのはなぜだろう。
  
尖 石 遺 跡
 
 尖石縄文考古館の南側に道路を挟んで縄文時代の尖石遺跡がある。 現在までの試掘調査で180余の竪穴住居が確認され、数多くの土器、石器等が出土している。現在も発掘が続けられている。
 
与助尾根遺跡から尖石遺跡へ移動する 発掘中の尖石遺跡
 
発掘中の石囲い炉について、考古館の竹村氏から説明を受ける 発掘が終って現場に展示された竪穴住居址と石囲い炉址
  

  
 弥生遺跡に続いて縄文遺跡を見学する機会に恵まれた。 「持つべきものはよき友」である。 同じ竪穴住居でも、弥生と縄文では少し違うようであるが、私はまだよく理解できない。 何よりも今回の見学で、縄文遺跡の発掘にかけた宮坂英弌氏の情熱を垣間見て、感動を覚えた。 満ち足りた秋の一日であった。

 最後に、お世話になった尖石縄文考古館長の鵜飼さん、同館学芸員主任の小林さんにお礼申し上げたい。
              尖石遺跡の南斜面にある 「尖石」 での記念写真
「尖石」 は高さ1.1mの三角錐型の石で、肩に樋状の溝があり磨かれているので、古代に石器を研いだ砥石だろうとも、はるか東方に仰ぐ赤岳を祭ったご神体だろうとも言われている。 尖石遺跡の名はこれに由来する。
 
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