英国(2)----イングランドの旅 |
第1部のスコットランドの旅はいかがでしたか。 ここからは第2部のイングランドの旅をお楽しみ下さい。 今回の訪問地は、国名として、英国、イギリス、UK(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国 )があるが、ここでは「英国」で統一した。 また、今回は、スコットランドとイングランドのみで、ウェールズと北アイルランドは含まれていないことをお断りする。 さて、スコットランドとイングランドを旅行してみて、これほど風土・文化の異なる地方が一国を作っていることは驚いた。 そこで、不勉強だった私は、帰国後いろいろ調べてみた。 英国に英国民族という民族は存在しない。 主な民族は、イングランドを中心に居住するゲルマン民族系のアングロサクソン人、ケルト系のスコットランド人、アイルランド人、ウェールズ人であるが、インド系、アフリカ系、アラブ系、中国系もいる多民族国家である。 事実上の公用語は英語であるが、ウェールズ語、スコットランド語、アイルランド語も話されており、それぞれの構成国では公用語になっている。 歴史的には、1066年にウィリアム征服王がイングランドを制圧し、その後イングランドがウェールズ、スコットランドを圧倒していった。 ウェールズは1536年にイングランドと正式に併合された。 スコットランドは1707年の連合法によりイングランドと合併し、「グレート・ブリテン連合王国」となった。 さらに、1801年のアイルランド合併法により、グレート・ブリテン連合王国はアイルランド王国を併合し、「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。 1922年に北アイルランドを除く州がアイルランド自由国として独立し、1927年に英国は現在の「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」となった。 1996年に北アイルランドに、1999年にはスコットランドとウェールズに議会が設置され、自治が始まった。 現在、スコットランドの一部には独立運動が、北アイルランドには紛争が問題になっている。 経済的には、第2次世界大戦直後、労働党のアトリー首相が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに福祉国家を目指したことが我々世代には懐かしい。 その後経済が停滞し、「英国病」といわれた。 1980年代に保守党のサッチャー首相が急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を行い、大量の失業者を出したが、金融産業などが成長した。 1990年代以降の労働党のブレア首相、ブラウン首相は、決め手を欠いているように思われる。 EUには加盟するが、通貨統合には参加せず、独自の道を歩む英国は、日本から見て必ずしもお手本とは思われないが、「ジョンブル魂」ともいわれる不屈の精神を感じさせる旅であった。 以下は 英国(1)スコットランドの旅 英国(2)イングランドの旅 に分けたうちの第2部である。 (2008年6月) |
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大英博物館正面 | |||||||||||||||||||||||
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英国(2)(イングランドの旅)のルート ユーラシア旅行社のカタログに加筆 |
6日目後半 | ハドリアヌスの城壁→湖水地方 |
ハドリアヌスの城壁 |
スコットランドとイングランドの境界から20kmほど南下したところにハドリアヌスの城壁がある。 ハドリアヌスの城壁は、ローマ帝国が400年にわたり英国を支配していた時代の重要な遺跡で、英国に現存するローマ遺跡の中で最大のもので、世界遺産にも登録されている。 この城壁は皇帝ハドリアヌスが建設を命じたもので、北からのケルト人の侵入を防ぐために122年〜126年に建設された。 東西全長118km続く。 しかしローマ帝国の国力の衰退にともない、5世紀ころには打ち捨てられ、積み重ねられた石は地元の人々の農地や住宅を囲うため持ち去られたという。 領土拡張を続けていたローマ帝国が、拡張政策を続けることを断念した政策転換点としても象徴的な建造物の1つである。 この城壁は文化的境界ではなくあくまで軍事上の防衛線として建設されたが、この防衛線が、ローマ帝国の支配が及ばなくなった4世紀後半以後も17世紀までスコットランドに対する防御壁として使用されていた。 このためイングランドとスコットランドとの境界として半ば固定化し、現在のイングランドとスコットランドの境界線にも大きな影響を与えているという。 |
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「ローマ時代の要塞」という標識がある | ハドリアヌスの城壁の上を歩いてくる青年がいる! |
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日本人の見学者も多いとみえて、日本語の案内板もある |
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牛 | 馬 | 羊 |
湖水地方(1) グラスミア |
湖水地方では、3箇所を訪ねた。 今日はグラスミアの1日目である。 グラスミアのホテルに着いて夕食後、8時半頃からグラスミア湖を巡る散歩に出かけた。 夏時間であることと北緯54度と北にあることのため、まだ明るい。 |
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石造りの古い家と大きな木は、ここが古くから変わらぬ地であることを窺わせる |
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家の前で羊が草を食む絵のような景色 | 夕陽に映えるグラスミア湖は、氷河湖であろう。 |
カモが羽を休めていた |
9時半頃にワーズワース・ホテルに戻ってきた。 素晴らしい散歩だった。 |
7日目 | 湖水地方(滞在) |
湖水地方(2) グラスミア(続き) |
湖水地方の2日目は、まずクラスミアの続きから |
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ホテルの朝食、左の黒く見えるのがハギス (半分に切ってしまってから撮影)、右はイチジク |
石橋を渡って教会へ行く |
ハギスは、代表的なスコットランド料理だがスコットランドで撮り損なったので、イングランドで撮った。 羊の胃袋に羊肉、臓物、野菜などを加えて煮込んだもので、美味くはないが、子供に栄養のあるのもを食べさせようという貧しい家庭の母親の愛情が感じられるような料理である。 |
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オズワルド教会 | 質素な教会内部 |
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オズワルド教会にある詩人のワーズワースと妻メアリーの墓 |
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サラ・ネルソンおばさんが考案した生姜(ジンジャー)クッキーの店、1854年創業 |
ワーズワースのダブ・コテージと博物館 ロマン派の詩人ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)は、英国の代表的なロマン派の詩人であり、湖水地方をこよなく愛した。 ダブ・コッテージは彼が購入し、妹のドロシーと共同生活を始め、やがてメアリーと結婚、3人の子宝に恵まれた。 彼の書斎は2階にあり、そこからグラスミア湖を望みながら詩を執筆したという。 |
湖水地方(3) ホークス・ヘッド |
橋の上に建つ一軒家ブリッジ・ハウス 税金対策だというが、現在はナショナル・トラストに管理されている歴史的建造物 |
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ワーズワーが通った小学校 | ベアトリクス・ポター・ギャラリー 残念ながら撮影禁止 |
ヒル・トップの風景 「ピーター・ラビット」の作者ベアトリクス・ポターは、晩年この地に住んだ。 |
ベアトリクス・ポター(1866-1943) ロンドン出身の絵本作家。 幼少時代はナースと家庭教師によって育てられた。 他の子供たちとあまり関わることなく、イモリ・蛙・ウサギなどを飼い始め、小動物や植物に興味を抱くようになる。 何時間も飽くことなく観察し、外出や遠出の際にペットもよく一緒に連れて行っていた。 ピーターラビットのモデルになったウサギも、この頃飼っていたという。 晩年はイギリスの湖水地方で牧羊場を購入し、経営した。 彼女はその景観を愛し、安定した著作権使用料と両親の遺産で地元の土地を買い上げた。 彼女はナショナル・トラスト運動の創始者の一人の友人であり、自身の財産で多くの小屋、農場、土地を買い、その美しさが失われないようにした。 |
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ベアトリクス・ポターの家とミュージアム・ショップ |
今にもピーター・ラビットが跳び出しそうな庭 |
湖水地方(4) ウィンダシア湖クルーズ |
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湖畔のムラサキブナ(ヨーロッパには多いブナ) | 湖畔のホテルまで散歩 |
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ウィンダシア湖をクルーズする | 着いた湖岸に、カエデのような見慣れぬ植栽された樹があった |
8日目 | 湖水地方→ハワース→ヨーク |
ハワース (ブロンテの「嵐が丘」) |
エミリー・ブロンテ(1818-1848)が書いた小説「嵐が丘」の舞台となったムーア(荒野)、ブロンテの家、彼女の父が勤めていた教会を訪ねた。 |
「嵐が丘」の舞台となったムーア(荒野)は羊の放牧場になっていた |
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ブロンテ姉妹が住んでいた家は博物館になっている | ブロンテの父が牧師をしていたセント・マイケル教会 |
教会の内部 |
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Howorth Old Inn で昼食 | ステーキ&キドニーパイ |
ヨーク |
中石器時代の紀元前8000年から7000年には、今ヨークがある場所に人が定住していた痕跡があるという。 都市として創設されたのは紀元71年、古代ローマ帝国が軍事要塞を建設した時であった。
ハドリアヌス、コンスタンティウス1世らローマ皇帝は全員、彼らの遠征の最中、ヨークで宮廷をかまえた。 コンスタンティウス1世は滞在時にヨークで亡くなり、彼の子コンスタンティヌス1世は要塞内の軍隊を前に即位を宣言した。 866年にはバイキングが急襲し、ヨークを獲得した。 1069年、ヨークはウィリアム征服王によって敵とみなされ破壊された。 その後、大聖堂建設が始まり、ヨークは再び繁栄し始め、特に羊毛と良港で商業中心地となった。 |
ヨーク・ミンスター(大聖堂) |
ヨーク・ミンスターは、13世紀の初めから約250年の歳月をかけ、1472年に完成した英国最大のゴシック建築である。 ヨーク大主教は、英国国教会ではカンタベリー大主教に次ぐ席である。 |
ヨーク・ミンスターの西面 |
ヨーク・ミンスターの南面 ともかく大きい、これは5枚のパノラマ合成写真 |
内部の石材は白大理石か石灰岩か、明るく美しいく、重圧感はない。 |
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聖人像もその上のパイプオルガンも輝いて見える |
大工が署名代わりに 彫ったネズミ像 |
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バラ窓とステンドグラスが素晴らしい |
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コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス帝は、カレドニア(現スコットランド)の遠征の中に病を発し、306年にエボラクム(現ヨーク)で亡くなった。そこで息子のコンスタンティヌスが皇帝であることを宣言したのがこの付近であるという。 | ||
大聖堂の南に見つけた コンスタンティヌス1世(大帝)の像 なぜ大帝の像が、 この場所にあるのだろうか? |
皇帝コンスタンティヌス1世(272-337、在位306-337)は、帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称されることが多い。また、ミラノ勅令を発してキリスト教を公認して、その後の発展の政治的社会的基盤を作ったことから、さまざまな教会で聖人とされている。 |
ヨーク市内散策 |
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クリフォード・タワー ここは、1068年にウィリアム王が城を築いた場所である。現在のタワーは、1244年から1270年にかけてヘンリー3世が築いたもので、以来17世紀末までは要塞として機能してきた。 |
ヨーク・キャッスル・ミュージアム 17世紀末までは城の要塞としての役目を果たし、その後18世紀に入って、ここに裁判所と刑務所が建てられた。 この刑務所の建物跡を利用して1938年に開設されたのが、ここカッスル博物館である。 |
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ヨーク商工会議所のパレード たまたま出会ったパレードに、 市民力の強いヨーク市の歴史を感じた。 |
ヨークで一番短い通り 英国ではすべての通りに名前が付けられているが、 この通りは長さ35mで、ヨークで一番短いという。 |
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2、3階が張り出した木組みの家が並ぶヨークの通り 突き当りにヨーク大聖堂 |
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↑旧市街を取り巻く城壁の上を歩くと大聖堂が見える ローマ時代に造られた城壁は大聖堂を中心に周囲2kmの正方形、現在残っているものは中世のもので周囲4.5km |
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城壁の北門(ミルクゲート・バー) 今でも、英国女王はヨーク駅から歩いてミルクゲート・バーをノックして、 市長に挨拶してからヨーク市内に入るのが伝統であるという。 |
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レストランThe Windmillで昼食 |
ロースト・ビーフとヨークシャ・プディング ロースト・ビーフは英国料理の名物のようにいわれているが、肉が硬い上に焼きすぎており、たいして美味でなかった。 |
9日目 | ヨーク→チェスター→ストラトフォード・アポン・エイボン |
チェスター |
チェスターの歴史は79年頃、当時ブリテン島を支配していたローマ人がウェールズとの戦争に備えて基地を建設し、定住したことに始まる。 以降、町を流れるディー川の水運を利用した通商都市として繁栄した。 しかし、ディー川の土砂が堆積して水深が浅くなったため港として使えなくなり、産業革命から取り残されたので、古い街並みが残っている。 17世紀のピューリタン革命のとき国王軍と議会軍の壮絶な戦いがあった場所でもある。 |
チェスター市内散策 |
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サービスエリアでトイレ休憩 |
サンドイッチと巻き寿司が、 並んで売られていた |
城壁に設けられた東門の南にある ニュー・ゲートから旧市街に入る |
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赤砂岩であろうか、派手な 元自動車工場、今は図書館 |
Andrew Collingeは1494年に アルコール販売のライセンスを得た店 地下にローマ遺跡があるという |
赤レンガの建物は、The Pied Bullというパブ この地下にもローマ遺跡があるという |
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城壁の上を歩く |
右の写真の遠方の白い建物は航空機産業のエアバス社、手前のレンガ造は元大学、今は小学校だという |
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チャールス1世のタワー タワーの説明板には1645年9月24日チャールズ1世国王はこのタワーに立ち、 ロートン・ムーアで国王軍が議会軍に敗れるのを見守ったと書かれている。(ピューリタン革命) |
チェスター大聖堂 最初の教会は10世紀に建てられた。その後1092年にベネディクト派の修道院となったが、1541年にヘンリー8世によって修道院が廃止され、大聖堂に生まれ変わった。 |
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東門にある1899年にビクトリア女王即位60周年を祝して建てられた時計台 |
ウェルズ教会 この教会ではウエルズ語で書かれ、話されるのでガイドも理解できないという |
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ザ・ローズ・アーケード ローズと呼ばれる商店街は2階が繋がっていてアーケードになっている。雨の日に傘がいらず便利そう。 |
半地下のティールームに入りスコーンで昼食 この地下にはローマ遺跡があるという。 |
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スーパーマーケットで物価調査? 牛ステーキ2LB(908g)で7ポンド(約1400円) |
リンゴ1.52kgで、69ペンス(約140円) オレンジ5個で、1.2ポンド(約240円) |
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英国では食料品には消費税がかからないが、それにしても日本よりも安い。半値だ! ( 実質的な物価を調べるには給与ベースを調べないと分からないが--- ) |
ローマ遺跡と聖ヨハネ教会 |
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ニューゲートの外にあるローマ時代の円形闘技場(発掘中) 長径95m・短径87m(英国最大)、8000人収容。 エンターテイメントは城壁の外に作ったそうだ。 |
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チェスターで最古の教会「聖ヨハネ教会」 11〜15世紀のノルマン・ゴシック様式、ローマ遺跡の隣にある。 |
ステンドグラス |
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内部は落ち着いた雰囲気 | 柱に描かれたフレスコ画は珍しい |
ストラトフォード・アポン・エイボン(1) |
シェークスピアが生れ、眠っているストラトフォード・アポン・エイボン(エイボン川のほとりのストラトフォード)に到着し、その名もシェイクスピア・ホテルに泊まる。 |
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ストラトフォード・アポン・エイボンには木組みの家が多い | 宿泊したシェイクスピア・ホテル(築500年という) |
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ホテルの入口 | ホテルの部屋から見た屋根々々 |
10日目 | ストラトフォード・アポン・エイボン→オックスフォード→バース |
ストラトフォード・アポン・エイボン(2) |
ストラトフォード・アポン・エイボンの2日目は、シェイクスピアゆかりのホーリー・トリニティー教会、シェイクスピアの生家、妻アン・ハザウェイの実家を訪ねる。 |
朝のゴミ収集車 |
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朝、ゴミ収集車が現れた。車のついた大きなポリ容器でゴミを集めて、リフトでトラックに積んでいく。効率はよさそうだ。 |
ホーリー・トリニティ教会 |
ストラトフォード・アポン・エイボンの街を流れるエイボン川を見おろすように、美しいホーリー・トリニティー教会が建っている。 シェイクスピアはこの教会で洗礼を受け、ロンドンに移る青年期まで礼拝に通い、そして死後ここに埋葬された。 |
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教会全景 | 教会内部 |
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ステンドグラス | シェイクスピアの墓 |
「アン・ハザウェイの家」と「シークスピアの生家」 |
ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)は、英国の劇作家・詩人。 父ジョン・シェイクスピアは、成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。1582年、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハザウェイと結婚した。 このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、今でいえば「できちゃった婚」だった。 シェイクスピアは、1585年前後にロンドンに出たといわれ、1592年には新進の劇作家として活躍。 1612年ごろに引退するまでの約20年間に四大悲劇『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『夏の夜の夢』、『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。 |
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シェイクスピアの生家のある通り 道幅は、昔からこんなに広かったのかな? |
町の郊外にある妻アン・ハザウェイの実家 シェイクスピアは8歳年上の女性と結婚した |
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シェイクスピアの生家 | 格好いい案内の人がカメラに収まってくれた |
ビルズリー・マナーハウス |
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16世紀に建てられた貴族の館(マナー・ハウス)で昼食 | 11エーカー(4.4ha)の広大な敷地には羊も住んでいる |
食後は庭園を散歩 |
オックスフォード |
オックスフォード市は人口約13万人、英語圏でもっとも古い大学であるオックスフォード大学の拠点である。 Oxfordの古英語oxanfordaは、雄牛(oxen)が渡ることができる浅瀬(ford)の意で、最初の文書記録は912年であるという。 オックスフォード大学の最古のカレッジは、ユニバーシティ・カレッジ、ベイリョール・カレッジ(1263年)、日本の皇太子が留学されたマートン・カレッジ(1263年)である。 |
あちこちにカレッジがあるオックスフォードの町並み |
クライストチャーチ |
1546年創立。 オックスフォード大学の最大のカレッジの1つで、伝統のある 貴族的なカレッジとして知られている。 13人の英国首相を出している。 |
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天井に飾られた紋章は何を意味するのだろうか | ||||
クライストチャーチ大聖堂 | グレート・ホールへの入口 |
グレート・ホール (学生はここで朝・昼・夕の食事をする) |
トム・タワー 昔学生の門限が午後9時だったことにより、ここの鐘は現在も午後9時過ぎに鳴らされる |
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オックスフォード大学散策 |
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皇太子が学んだマートン・カレッジ | 聖メアリー教会 |
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聖メアリー教会の内部 |
結婚式を挙げたカップル スコットランド男性の正装であるタータンを身に付けている |
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ラドクリフ・カメラは1749年に建てられた図書館 | スタンフォードの郊外で見た風力発電所 |
11日目 | バース→コッツウォルズ→バース |
コッツウォルズ |
コッツウォルズ (Cotswolds) は、イングランド中央部に広がる標高300m以上に達する丘陵地帯で、特別自然美観地域 (Area of Outstanding Natural Beauty) に指定されている。 コッツウォルズは「羊小屋のある丘」の意で、この地方は古くから英国で最高品質の羊毛産地であった。 今ではイングランドで屈指の美しさを誇るカントリー・サイドとなっている。 いくつかの村があるが、我々はそのうちの3箇所を訪ねた。 |
カッスル・クーム |
カッスル・クームは「英国で、最も古い街並みが保存されている町」といわれている。 |
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町の中心地マーケットクロス | 観光客の目を和ませてくれる |
13〜14世紀の町並みが残るメイン・ストリートの長さは僅か数100m |
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聖アンドリュー教会 | 茅葺きの家も残る |
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通りに面した崖に、板状の石灰岩が見つかった。 カースル・クームの家の屋根や壁は、この石材で出来ているようだ。 |
バイブリー |
バイブリーは、芸術家のウィリアム・モリスが「イングランドで最も美しい村」と評したという。 水と緑の調和の美しい、心休まる風景は、説明を要しないであろう。 私は3箇所の中では、ここが一番気に入った。 |
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鱒の養魚所があり、鮮魚を売っていた |
バートン・オンザ・ウォーター |
バートン・オンザ・ウォーターは、ウィンド・ラッシュ川が街の真ん中を運河のように流れているので、コッツウォルズのリトル・ベニスといわれる。 楽しい眺めであるが、3箇所の中ではちょっと俗化している感じがした。 |
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コッツウォルズ自動車博物館を見学 |
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オースティン1929年 | BMW1938年 | ジャガー1956年 |
バース |
ローマ時代に温泉の町として栄えたバース(Bath)は、風呂の語源となったともいう。 ローマ撤退後は一時廃れ、ローマ様式の浴場も破壊されたが、675年には修道院が建設された。 エリザベス1世の時代に温泉地として復活、とくに18世紀のジョージ王朝と呼ばれる時代になって、ロンドンの貴族や富裕な階層の保養地として大規模に再開発され、近隣の土地から産出した石灰岩による多くの美しい建物群が建造された。 1942年4月、ドイツ空軍の爆撃によりいくつもの由緒ある建物が破壊されたが、その後すべて再建された。 18世紀のジョージ王朝様式の建造物が数多く残っており、ユネスコの世界遺産にも登録されている。 |
バース・アビー(バース大聖堂) |
バース・アビー(バース大聖堂)は、史上初の統一イングランド王となったエドガー王が、993年に戴冠式を行った由緒ある教会である。 現在の教会は1499年に建てられたもの。 |
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内部は、壁の80%が窓であるといわれ、明るく美しい | ステンドグラスも明るい |
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バース大聖堂前は多くの人で賑わっている |
ローマン・バス |
紀元前1世紀にローマ人によって建てられた大浴場。 中世には大浴場は埋もれてしまったが、19世紀に発見されて大浴場ごと博物館の中に収めて保存されている。 |
大浴場ごと博物館の中に収めた保存方法は珍しく、優れた方法だ。 |
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ローマ皇帝ネロの時代(54-68AD)のコインが発見されたことは ローマ人は侵入後わずか20年で浴場を建設したことが窺われる。 |
温泉の源泉は今も湧いている。 |
浴室に残されたモザイクの床 |
ザ・サーカス |
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3つの通りが突き当たっている円形広場の周囲を囲む3棟のテラス・ハウス。 各テラス・ハウスは、緑地の周囲を巡るロータリーに沿って湾曲した作りである。 地上3階建で地下室も設けられた建物は、外壁が古代ギリシア風の柱で飾られている。 1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式だという。 |
12日目 | バース→ストーンヘンジ→ウインザー城→ロンドン |
ストーンヘンジ |
ストーンヘンジは、ロンドンの西方200kmにある環状列石遺跡である。考古学者は紀元前2500年から2000年に造られたと考えている。 遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族の礼拝堂など、さまざまな説があるが結論に達していない。
ここから火葬死体が発見されているのでブリテン島で最初の火葬墓地とも考えられている。 ここで使用されてる巨石の最大のものは6トンもあり、遠く250km離れたところから運ばれた。 石の運搬、加工等、建造に要した労働力は90万人月(2500人年)と推定される。 遺跡は1986年に世界遺産に登録された。 |
巨石が直径100mの範囲にほぼ円形に配置されている。周囲から遠巻きにして見学する。 |
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中心には、高さ7mほどの巨大な門の形の5組の組石(トリリトン)がある |
周辺には、高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている |
入口近くにある高さ6mの玄武岩の石ヒールストーン サークルの中心から見ると、北東に当たるヒールストーンの位置から夏至の太陽が昇るという。 昔の人が夏至の太陽が昇る方向を正確に把握していたことに驚く。 |
ウインザー城 |
ウィンザー城は、ロンドンから鉄道で40分ほどのところにある英国王室所有の居城。 エリザベス2世が週末に過ごす場所でもある。 ウィンザー城は、最初はウィリアム1世(在位:1066 - 1087)によって建てられた木造の城であった。 当時の城の詳細はわかっていないが、純粋に軍事的なものでありロンドン防衛の一部を担っていた。
ヘンリー2世(在位:1154 - 1189)は木製の防壁を石造りにし、また初めて石造りのキープ(城の心臓部となる、中央の塔)を建設した。 ヘンリー3世(在位:1216 - 1272)によって建設された西部の防壁はその一部が現在も残っており、現存するこの城の最古のものである。 1350年より、城はエドワード3世によって一部を残して取り壊され、新しいものに再建された。 その後もその時々の王などによって、建物が追加、改修された。 |
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ウインザー・セントラル駅から見るウインザー城 | 2階建の観光バスも来ている |
1511年にヘンリー8世によって建てられたヘンリー8世門、ここが見学者入口 |
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ラウンド・タワー ウイリアム1世(在位:1066 - 1087)により 木造の城が、この場所に建てられたのが最初 |
巨大な大砲、いつの時代のものだろうか。 |
床面積4万5千m2、現存する城で人が住むものとして最大といわれるだけあって、中庭も広い |
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ここのの衛兵も交代するが、待てません | 中庭にある騎馬像は誰? |
ロンドンに到着 |
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ロンドンに入ると、博物館のような古い火力発電所が現れた |
ホテルでは、USA、EU、UKの規格の異なる電気コンセントが並んでいた。 日本はUSAの変形。 さすが国際都市である。 |
13日目 | ロンドン滞在 |
ロンドン市内散策 |
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ウェストミンスター寺院 (左は北面を朝方撮影、右は西面を夕方撮影) 英・国教会の教会。 戴冠式などの王室行事が執り行われる。 例外的にダイアナ妃の国葬に準じた国民葬はここで行われた。 残念ながら時間の都合で外観のみ見学 |
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ウェストミンスター寺院に隣接するウェストミンスター宮殿 (英国国会議事堂)と付属するビッグ・ベン(時計台高さ96.3m) |
国会議事堂前にある チャールス1世の像 |
国会議事堂前に立つ クロムウェルの像 |
チャールス1世(在位:1625 - 1649) 父ジェームズ1世の死去に伴い王位を継承。 父同様王権神授説を信奉し、議会と対立した。 1628年、議会に「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。 翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。 ついに議会派と王党派の内戦が勃発した(清教徒革命、ピューリタン革命)。 内戦は当初、王党派が優位であったが、クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍で王党派が各地で打ち破られた。 1646年5月、チャールズはスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。 1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。 1月30日、公開処刑され、チャールズは斬首された。 |
オリバー・クロムウェル(1599 - 1658) 大伯父にヘンリー8世の元で「行政革命」を実施した政治家トマス・クロムウェルを持つ名家であった。 ケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民院議員となる。 清教徒革命では議会派に属し、鉄騎隊を指揮して国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。 内乱の終結後、妥協を求める長老派を追放し、独立派議員による議会を主導、1648年に再び決起したチャールズ1世を処刑し、1649年5月に共和国 (コモンウェルス)を成立させた。 カトリックのアイルランドやスコットランドは反議会派の拠点であった。 クロムウェルは総司令官に任ぜられて侵攻を始め、各地で住民の虐殺を行う。 1658年にマラリアで死亡した。 その後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ、生存していた妻子は斬首刑に処された。 ちなみにクロムウェルの死後、数百年経った今も、彼は類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、彼の歴史的評価は分かれている。 |
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テムズ河畔に立つBAロンドン・アイ 2000年にできた高さ135mの大観覧車 |
テムズ河畔に立つ古代エジプトのオベリスク これは紀元前15世紀に造られたもので、アレキサンドリア から1本はロンドンへ、もう一本はニューヨークに運ばれた。 ルクソール神殿からパリのコンコルド広場に移されたオベリスクが燦然と輝くのに比べて、ロンドンのものはすっかりくすんでいる。 (エジプトから海外に搬出されたオベリスクは3本) |
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ウイリアム王以来900年の歴史を有するロンドン塔。 城というよりももっぱら牢獄、拷問、処刑の場として 歴史を歩んできた。 時間がなくて車窓からの見学 |
タワー・ブリッジ ビクトリア調の優雅な橋は、1894年に完成した。当時は1日に50回くらい橋は上がったというが、今では1日に2、3回。 |
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セント・ポール大聖堂は見る方向で非常に変わる 1666年の火災で焼失後、1675年から35に年かけて復元された。高さ111m、ドームの直径34mのルネッサンス様式の傑作。 |
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英国最高裁判所 |
トラファルガー広場のネルソン提督記念柱 |
ピカデリー・サーカス 有名店や劇場を始めとするエンターテインメント施設が密集している。 このため、 観光客や買い物客が集まり、広場近辺は常に混雑している。 広場の中心にある 「エロスの像」で有名な噴水は、「キリスト教的慈愛を表す天使」ともいわれている。 |
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ロンドンには特異な建物が多い。 太陽光を取り入れた省エネビルだという。 中央はロンドン市庁舎 |
バッキンガム宮殿と衛兵交代 |
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バッキンガム宮殿は、バッキンガム公爵が建てたものを英国王室が購入し、改造して公式宮殿としたもの。 衛兵の交代を見る人たちで混雑。 我々は、ガイドの案内で少し離れたセント・ジェームス宮殿で待機した。 お蔭で目の前で衛兵の行進を見ることができた。 | 下はビクトリア女王像、上は天使像 |
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バッキンガム宮殿から セント・ジェームス宮殿へやってくる |
衛兵の行進のビデオをご覧になる方は、 上の写真をクリックして下さい。 |
大英博物館 |
ロンドンで見たいものの第1が、大英博物館だが、グループツアーのため時間がない。 そこでロゼッタ・ストーン、エジプト、ギリシア、アッシリアに限定して、駆け足で見学した。 |
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大英博物館の外観 | 大英博物館に入館したところ |
上の写真をクリックすると、ロゼッタ・ストーンの拡大写真をご覧になれます |
ロゼッタ・ストーンは、1799年7月15日、ナポレオンがエジプト遠征を行った際、エジプトのロゼッタで発見された。 縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。 暗色の花崗閃緑岩からできている。 岩に刻まれた文字は、上からエジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、そしてギリシャ文字である。 ギリシャ語の部分は読むことができた。 残りの言語の部分もギリシャ語と同じことが書いてあると推測された。 これが、1822年、シャンポリオンによって解読され、一般のヒエログリフが解読されるきっかけとなった。 (Wikipediaの記載を改変) ロゼッタ・ストーンは、1802年以降、大英博物館で展示されている。 大きなガラス・ケースに入れられており、照明の関係で、上の写真のように映り込みが強く、鮮明な写真を撮影し難い。 |
フランス皇帝ナポレオンが発見したロゼッタ・ストーンが、なぜ大英博物館にあるのか ナポレオンのエジプト遠征には、35,000人の軍隊に、21人の数学者、3人の天文学者、17人の民間技師、13人の博物学者と鉱山技師、4人の建築家、8人の画家、10人の文学者、22人のラテン語・アラビア語・ギリシャ語の活字を携えた印刷工といった華やかな面々が同行させた。 200隻の船は、待ち構えるイギリス海軍の間をかいくぐってエジプトのアレクサンドリアに着いた。 だが、フランス艦隊はネルソン艦隊の急襲を受けてほとんど全滅してしまい、フランス軍はエジプトに閉じ込められることになってしまう。 1801年、フランス軍は英国とオスマン帝国の連合軍に敗れ、アレキサンダー条約によりロゼッタ・ストーンは英国に接収された。 1802年以降、ロゼッタ・ストーンは大英博物館で展示されている。 |
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エジプト 男子立像、BC2200 | エジプト アメノフィス3世像 |
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アッシリア 人面有翼の巨大ライオン像、865-860BC | アッシリ アライオン像、865-860BC |
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アテネの黒像様式の壺 | アテネの赤像様式の壺 |
パルテノン神殿の破風彫刻 |
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ギリシア・パルテノン神殿のファサードを飾っていた大理石のレリーフは 「エルギンマーブル」と呼ばれ、最近、ギリシャ政府から返還要求が出ているという |
トルコ南西部リキアの神殿、380BC |
14日目 | ロンドン→成田へ |
科学博物館 |
今回の英国旅行の目的の1つ、産業革命の歴史を訪ねることは、グループ旅行ではなかなか難しい。 科学博物館の見学はロンドン出発の当日の午前中にやっと果たせた。 |
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朝早く出掛けたので、隣の自然史博物館前で時間調整。 ここは次回にぜひ見学したい博物館だ。 | お目当ての科学博物館は、開館と同時に入館 |
天井には航空機や宇宙ロケット、床には産業革命を支えた科学技術の成果が一杯 |
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ニューコメンの蒸気機関 | ワットの蒸気機関 | ワットの遠心調速器 |
ニューコメンの蒸気機関 炭坑に溜る水をくみ出すポンプを今まで馬の力で動かしていたのを蒸気の力で動かすようにしたのは、ニューコメンだった。 彼は1712年に右の図のような蒸気機関を発明した。 先ず蒸気をシリンダーに入れた後、そこに冷水を吹きかけると蒸気は水になり体積が減少し真空ができるので、大気圧でシリンダーが引き下げられる。 その力を使って排水用のポンプを動かすのである。 この原理から、蒸気機関よりも大気圧機関と呼ばれた。 この機関は、シリンダーを温めたり冷やしたりするので、熱効率が約1%と非常に悪かった。 |
A | ニューコメンの蒸気機関 富塚清著 「動力の歴史」 三樹書房より引用 |
ワットの蒸気機関 ジェームス・ワットは、1769年に新方式の蒸気機関を発明した。 ニューコメンの蒸気機関のシリンダーを温めたり冷やしたりする欠点を除き、シリンダーは常に温かく保ち、シリンダーとは別に復水器を設けここで蒸気を冷やすことにした。 この結果、機関の効率が高くなり、燃料の石炭が少なく済むようになった。 ワットは、この他に蒸気機関の動力をポンプのような往復運動としてだけでなく、シャフトの回転運動として取り出せるようにした。 その結果、紡績機などにも使える汎用蒸気機関の開発者としてのワットの名が不動のものとなった。 ワットはそのほか、蒸気機関の回転速度を一定に保つ遠心調速器も発明した。 ワットは単なる発明家ではなく、工学の基礎固めの仕事もした。 動力の測定方法の確立、動力の単位としての「馬力」の制定などである。 今日電力(エネルギー)の単位としてワット(W)が使用されるのは、この功績を記念するものである。 |
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スチーブンソンの蒸気機関車 ロケット号 | ロールス・ロイスの舶用エンジン | ベッセーマ転炉 |
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コッククロフト・ワォルトン加速器 私は加速器の研究をしたことがある |
電子レンジやレーダーに使われるマグネトロン(左は電磁石、右は真空管) 私は真空管の研究をしていた時期があるので、懐かしい |
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ドイツのV2号ロケット 第2次世界大戦中にロンドンは V2号のミサイル攻撃を受けた |
英国の1発限りの宇宙ロケット ブラックアロー号 私が宇宙開発に従事していた時、英国はこのロケットで、唯一の人工衛星をオーストラリアから東京の上空を通過する飛行経路で打ち上げた。 |
15日目 | →成田着 |
14日目の午後、ロンドン・ヒースロー空港を発ち、翌15日目の朝、成田空港に到着した。 お世話になったユーラシア旅行社の添乗員佐々木智子さんにお礼申し上げます。 |
英国(2)イングランドの旅は、いかがでしたか。 英国(1)は、スコットランドの旅です。 まだご覧になっていないお方は、この 英国の旅(1)をクリックしてご覧下さい。 |
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