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フランス(2)---- トゥール、モン・サン・ミッシェル、サンマロ、オンフルール、
             
ルーアン
ジベルニー、ベルサイユ、パリの旅


 フランス(2)は、旅の後半である。

 世界の四大文明の発祥の地は、ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河の各流域である。 フランスを旅行していると川の名前がよく出てくる。 古代だけでなく現代でも、川は文明を育むところといえるであろう。

 フランス(1)は、フランスの四大河川のうち、ローヌ川、ガロンヌ河、ロワール河の流域に相当する地方の旅であった。 これからのフランス(2)は、四大河川の残った1つセーヌ川の流域の旅である。

 フランス旅行にはいろいろな楽しみがある。 フランス料理、ワイン、コニャック、シャンパンは、フランスの風土そのものである。 南仏には画家の愛した町がいくつもあり、美術館も多い。 キリスト教の聖堂は建築史的に見て興味深い。 バロック様式を拒否したフランスの建築は、ルネッサンス様式の安定した古典様式が多い。 この傾向は、フランス革命以降も新古典主義へと受け継がれているようである。

 パリとその周辺には私のようなお上りさんにとって、見所が多い。 ベルサイユ宮殿は一体どれほどのものか、興味が湧く。 世界有数の美術館がいくつもあるのも嬉しい。 今回は時間の制約で、オランジュリー美術館とオルセー美術館を見学することになっているが、何とか時間を見つけてルーブル美術館も覗きたい。

 フランス革命ゆかりのバスティーユにも立ち寄ってみたい。当時のものは何も残っていないとのことだが---

 というわけで、後半のフランス(2)への期待が高まる。


フランスの旅(1)
  ニース、モナコ、マルセイユ、アルルアビニョン、ポンデュガ
  ール、ボルドー、ロワール古城巡りなどの旅

フランスの旅(2)
  モン・サン・ミッシェル、ベルサイユ、パリなどの旅


である。 合せてご覧下さい。      (2008年9月〜10月)
モン・サン・ミッシェル修道院
国  名 フランス共和国
首  都 パリ
政  治 共和制
843年フランク王国が分裂し成立
1945年国連加盟
面  積 54万7030km(海外領土を除く)
日本の1.5倍
人  口 6087万人(海外領土を除く) 日本の1/2、フランス人93%、バスク人、ブルトン人、プロバンス人コルシカ人
言  語 フランス語(公用語)、バスク語、ブルトン語
宗  教 カトリック90%、プロテスタント2%、
ユダヤ教1%、イスラム教1%
産  業 可耕地が広く気象条件にも恵まれているため、西欧最大の農業国である。農業人口は4%にも満たないが、ほとんどの食糧が自給可能で、穀物、乳製品、ワインなどを欧州諸国へ輸出している。

地下資源では鉄鉱石と石炭が豊富。エネルギーは原子力発電の占める比率が極端に高く、70%を超えている。

工業は繊維・ファッションから自動車・航空宇宙まで幅広く高度に発達し、品質やデザインは世界中で高い評価を得ている。

鉄道・電話・郵便は国営で、放送も一部国営である。若年層の失業と移民労働者の処遇が政治問題化しやすい。
1人当
GNI
3万6550米ドル/年 日本の95%
(2006年)
        旅行の経路
ユーラシア旅行社のカタログに加筆



10日目 トゥールモン・サン・ミッシェル修道院サンマロ

モン・サン・ミッシェル修道院

モン・サン・ミッシェルは708年にサン・トベール司教の夢想を元に創られたと伝えられ、その当時からキリスト教巡礼地の1つに数えられた。 11世紀に入ると、地下納骨所の上を被うように岩山の頂点にロマネスク様式の大聖堂が造られ、北壁に張り付くように最初の修道院が建てられた。 その後幾度か改増築され、13世紀にはゴシックの部分も完成した。

14世紀、百年戦争の間には、要塞化工事が行われ、実際に30年にわたる攻防戦に耐えた。 フランス革命から第2帝政時代までは牢獄に変身し、1874年以降は、歴史記念局の管理下で一般公開されている。

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トウモロコシ畑からモン・サン・ミッシェルを望む
 
プレサレの羊
海水を吸った草で育った羊肉は美味である

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名物「プーラールおばさんのオムレツ」 これも名物「プレサレの羊」

かつてはモン・サン・ミッシェルは岩山の島であったが、今は地続き。 島に戻そうという計画もあるそうだ。

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第1の門をくぐる 第2の門(はね橋)をくぐる

100年戦争(1337-1453 正確には116年間)
のとき英国軍が残した大砲

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「プーラールおばさんの
オムレツ」の看板
100年戦争のときフランスを救った
ジャンヌダルクの像

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最上階にある修道院 修道院の黄金の天使ミカエル像

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干潟を歩く人達
干潮になると島の周りは干潟が現れる 干潟で遊ぶ鳥

礼拝堂

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列柱廊
 
大部屋の天井が船底型になっているところがある。バイキングの造船技術を利用したものという。

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内陣を支える地下の太い柱(周囲5m) 牢獄時代に物を運び上げた大車輪



サン・マロ

サン・マロは城壁に囲まれた町。 強固な城壁都市は、海賊たちの根拠地で、多くの海の男たちを育てた。 新大陸のセント・ローレンス川の河口を見つけ、カナダと名付けたのはジャック・カルチェである。

サン・マロを囲む城壁

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サン・バンサン大聖堂 フランスの作家シャトー・ブリアンの生家は、現在2つ星ホテル

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城壁から望む英仏海峡 英国を指さす私掠船の船長シュルクック像

私掠船(しりゃくせん、コルセール))とは、戦争状態にある一国の政府からその敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可を得た個人の船をいう。 この慣習は16世紀の英国にはじまり、18世紀の英仏戦争中には非常に多数の私掠船が活動した。 私掠船を運用するメリットは、海軍の常備兵力を減らせることにあるという。




11日目 サンマロオンフルールルーアン

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南仏のブドーに対して、北仏はリンゴ
 の木が多く栽培されている

 
リンゴから作られた蒸留酒カルバドス

 
     車窓から見るノルマンディー橋
オンフルールとルアーブルを結ぶヨーロッパ最長の斜張橋。 世界最長の斜張橋は日本の本四連絡橋の一つ多々羅大橋

カルバドス 南仏ではブドー発酵をさせてワインを、さらにワインを蒸留してブランデーを造る。北仏はリンゴを発酵させてリンゴ酒を、さらにリンゴ酒を発酵させてカルバドスを造る。 上の写真は、お土産用のミニチュア・ボトル。



オンフルール

オンフルールは、大西洋に注ぐセーヌ川の河口にある古い漁港。19世紀の画家や文学者にも愛された町である。

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フランスの作曲家エリック・サティの生家

絵になる旧港の佇まい、と思ったら---

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やはり、絵描きさんがいました 路地から木組の教会が見える



サントカトリーヌ教会

サントカトリーヌ教会は、1466年、百年戦争の後、
船大工が建設した珍しい木造教会。鐘楼は別になっている。

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主祭壇とステンドグラス
 
19世紀のオルガンの下に、
16世紀のオルガンの外装の神話の彫刻が--

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前菜は海の幸盛合せ 主菜はスズキのマスカット・バターソース



ルーアン

中世からの古い都市であり、大司教座が置かれた。 ルーアン大聖堂はゴシック建築の代表として知られる。 クロード・モネの中期の連作『ルーアン大聖堂』はこの聖堂を主題としたものである。 百年戦争で捕虜となったジャンヌ・ダルクは、1431年にこの町で火刑に処された。


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市庁舎 市庁舎の隣にあるサントゥアン教会

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15世紀の木組の家が立ち並ぶ



大聖堂

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ゴシック建築の代表といわれる大聖堂
モネは、光の移り変わりによって建物の相貌が変わる様
に魅せられて連作を描いた。 オルセー美術館の頁参照
北入口扉の上の「黙示録のヨハネと洗礼者ヨハネ」の彫刻
「サロメの踊り」や「皿の上のヨハネの首」が彫られている
 

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大聖堂内部
 
キリスト教徒の隠れシンボル「魚」
(イクトゥス)が描かれたステンドグラス



市内散策

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ローマ時代からの繁華街「大時計通り」 16世紀の大時計(短針のみで長針がない)

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1630年築の木組の家 今も現役のお店



聖ジャンヌ・ダルク教会

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1979年に建てられた聖ジャンヌ・ダルク教会
1431年5月30日ジャンヌ・ダルクは19歳の若さで
火刑に処せられた。 十字架が建つ。
教会内部は、船・炎のイメージである。
 
 

16世紀サンバンサン教会にあったステンドグラスが嵌められている



ルーアン美術館

カラバッジオ、ベラスケス、ドラクロワなどの絵があるが撮影禁止



12日目 ルーアンジベルニーベルサイユパリ

ジベルニー(モネの家)

「光の画家」と呼ばれた印象派の画家クロード・モネが43歳から
86歳で亡くなるまで住んでいた家と庭を見学した。

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船を浮べて池の掃除をする男 モネには欠かせないスイレン

映画を撮影していた

モネの家 (3枚パノラマ撮影)
1階にはアトリエ兼サロン、食道、台所。 2階にはモネの寝室、2人目の妻アリスの寝室などがある。
この家には231点の日本の浮世絵のコレクションが飾られており、思いがけず堪能できたが、撮影禁止



ベルサイユ宮殿

1624年ルイ13世が狩猟の館を建てたのが始まりで、太陽王ルイ14世が当時最高の技術を駆使し大増築し、49年間を費やし1710年に完成した。 続くルイ15世、ルイ16世と3人の王が住んだ宮殿。 バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。

儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、は1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。 鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。

ルイ16世の王妃マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したといわれている。 「朕は国家なり」といったルイ14世に始まる絶対王政は1789年のフランス革命で崩壊する運命であった。

宮殿前の広場 はるか彼方に正門が見える (3枚パノラマ撮影)

黄金色に輝く鉄格子の正門



王室礼拝堂

ルイ16世とマリー・アントワネットが結婚式を挙げた



ヘラクレスの間

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ベロネーゼ作・新約聖書の「シモン家でのキリストの食事」の中のマグダラのマリアがキリストの足を洗う話



豊穣の間

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ビーナスの間

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ウアス作「神々と強大国を従わせるビーナス」 ルイ14世の像



ディアナの間


イフィゲネイアの生贄

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黄金輝く扉 中央はルイ14世の胸像



マルスの間

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ルイ15世 マリー・レザンスカの肖像



メルクリウスの間

天井に描かれたシャンペーニュの「2羽のニワトリに引かれた戦車に乗るメルクリウス」



アポロンの間

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リゴール作「ルイ14世の肖像画」

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ルイ16世 アポロンの間の天井



戦争の間

オランダ戦争でのルイ14世の勝利をテーマにし、
馬上のルイ14世の浅浮彫りで飾られている



鏡の回廊

鏡の回廊は、ルイ14世の戦勝と政治的偉業を称えるものとなっている。 1678年に着工し1686年に完成した。

鏡の回廊の窓から庭園の眺め



王妃の間

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マリー・アントワネット



大会食の間

マリー・アントワネットと3人の子供たち



歴史の回廊 (戴冠の間)

ダビッド作「ナポレオン1世の戴冠」



庭園

ル・ノートルの作であるこの庭園の特徴は、壮大さと優美さであろう。
手前から、ラトナの泉水、花壇、緑の絨毯、1610mの大運河。 実に見事である。



パ リ

僅か1日半のパリ滞在中に何を見るか。 ガイドの案内メニュー以外にも時間の許す限り挑戦してみよう。

オランジュリー美術館

新しくなったというモネの「スイレンの部屋」、ルノワール、セザンヌなど、印象派の絵画が展示されている。 作品の数が少ないので、ゆっくりと鑑賞できた。

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バスを停車させて一瞬垣間見たエッフェル塔 オランジュリー美術館

2つのモネの「スイレンの部屋」から (その1)

2つのモネの「スイレンの部屋」から (その2)

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モネの「アルジャントゥイユ」 ルノワールの「手紙を持つ女」

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ルノワールの「水浴の乙女」 ルノワールの「ピアノに寄る二人の少女」

セザンヌ

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ルソー ローランサン

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マティスの「赤いキュロットのオダリスク」 ドランの「アルルカンとピエロ」

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ユトリロ
 
モディリアーニの
「新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像」

オランジュリー美術館を出たところがコンコルド広場である
折からの夕陽で、エジプトのルクソール神殿から運んできたオベリスクが輝いていた。
ここはルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。
革命期には、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた場所でもある。

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宿泊したホテル 夕食の前菜「エスカルゴ」



セーヌ川ナイトクルーズ

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夕食後、夜のセーヌ川クルーズに出かける。 メトロ(地下鉄)は2日間通用のチケットを購入。
性悪説に基ずくパリのメトロの自動改札は、非常に頑丈で、絶対に無札通過は出来ない。

バトー・ムッシュの遊覧船は、エッフェル塔の近くから出発し、シテ島を巡って戻ってくる

シテ島にあるノートルダム大聖堂

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セーヌの岸辺で語らういろいろなカップル

上限の月が傾く頃に戻ってきた。
2008年はフランスはEU議長国であるので、
エッフェル塔には12個の星が輝いていた。

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船着場の近くに、炎のモニュメントがあり、1997年の自動車事故で亡くなった故ダイアナ妃への献花があった



13日目 パリ滞在

1日半の短いパリ滞在の2日目の目玉は、オルセー美術館の見学である。思いがけずオルセーの前に短時間ではあるがルーブル美術館に行くことになった。 美術館巡りの後、凱旋門とフランス革命発祥の地(?)バスティーユを訪ねることにした。

ルーブル美術館

ルーヴル美術館は、セーヌ川の右岸に位置し、ルーブル宮殿の大部分を占めている。 建物は、1190年にフィリップ2世(フィリップ・オーギュスト)が パリ防衛のための城砦を築いたのに始まる。 ルネサンス様式の宮殿に改築された16世紀のフランソワ1世の時代から ナポレオン3世の時代まで実に3世紀以上を費やして完成した壮大な建物である。 1789年のフランス革命後、ルーヴルを美術館とすることが決まり、 1793年「諸芸術の中央美術館」として正式に開館した。

1985年から1989年にかけて、ミッテラン政権下で大改築が行われた。 主に地下部分に増築を行い、ガラスのピラミッドを中庭におき、その直下に美術館部を設け、近代的な美術館に生まれ変わった。

収蔵品は、古代エジプト美術、ヘレニズム彫刻やギリシア盛期のローマン・コピーを含む古代ローマ彫刻、古代オリエント美術、中世・ルネサンス・バロック・ロココなど各時代のヨーロッパ諸国の絵画などの充実した収蔵品で知られる。

今回の見学時間はわずか1時間、目的の数枚の絵画を目指してまっしぐら!

朝のルーブル美術館のガラスのピラミッド

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カルーセル凱旋門を抜ける 遠くにコンコルド広場

先ずは、ミロのビーナス

ドラクロアの「自由の女神」

レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」

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ベラスケスの「マリアナ王妃」 ラファエロの「聖母子」

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グレコの「キリスト磔刑」 模写する人

ルイ・ダビッドの「ナポレオン1世の戴冠式」 これが1作目で、ベルサイユ宮殿にあるのが2作目とか



オルセー美術館

使われなくなった駅舎(といっても、立派な石造りの芸術的な建造物)が、1986年オルセー美術館に生まれ変わった。 展示する美術品は、ジュ・ド・ポーム美術館とルーブル美術館から受け入れられた。 この結果、ルーブル美術館(古代から1858年)、オルセー美術館(1858年〜1915年)、ポンピドー・センター(1915年〜)という住み分けが出来た。 では、数多くの印象派の絵画を中心に案内しよう。

オルセー美術館は、オランジュリー美術館とルーブル美術館のほぼ中間に位置する。 ただしセーヌ川をはさんで対岸(左岸)にある。。

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駅舎の名残を残すオルセー美術館中央通路
 
開業当時のオルセー駅 下記のWebsiteより
http://www.ezoushi.com/orsay/tokyo01_01.html

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カバネルの「ビーナスの誕生」 モネの「ひなげし」

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アングルの「泉」 マネの「エミール・ゾラの肖像」 マネの「笛を吹く少年」

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ハジールの「家族の集まり」 カイユボットの「床にカンナを掛ける人々」

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ドガの「バレーの舞台稽古」 ドガの「アイロンをかける洗濯女」

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ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 ルノワールの「マルゴの肖像」

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モネの「右向きの日傘の女」 モネの「左向きの日傘の女」

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モネの「ルーアン大聖堂の連作」の中の4作

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ゴッホの「医師ポール・ガシェ」 ゴッホの「自画像」

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ゴッホの「アルルのゴッホの寝室」 ゴッホの「オーベルの教会」

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セザンヌ セザンヌの「サン・ビクトワール山」

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ルソーの[戦争」 ゴーギャンの「タヒチの女たち」

ロートレックの「ストッキングをはく女」

ミレーの「落ち穂拾い」

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ミレーの「羊飼いの少女」 ミレーの「晩鐘」



モンマルトル

モンマルトルは標高130mの丘である。 モンマルトルと画家は切り離せない。 多くの画家がここで生活し、ここで学んだ。 葡萄収穫祭で賑わうサクレ・クール寺院界隈ではあるが、どこか物悲しい。

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「メトロ」はパリ地下鉄の呼称で、Metropolitainに由来する。 庇つきの
アールヌーボ入口は3駅に残るのみ。
モンマルトルにあるアトリエの洗濯船
ゴッホ、ピカソ、モジリアーニ、なども住んでいた共同アトリエ
 

ルノワールが描いたダンスホール「ムーラン・ギャレット」

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サクレ・クール寺院は、普仏戦争やフランス革命で沈んだ市民を鼓舞するために作られた  聖ルイ(ルイ9世)
 
三位一体の
手をしたキリスト
ジャンヌダルク
 

聖ルイ(1214年 - 1270年) フランス国王、死後、列聖されSaint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。アメリカの都市セントルイスの由来

サクレクール寺院と手前のサンピエール教会 今日は葡萄収穫祭で賑わう

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パントマイムの大道芸人 人形遣いと見入る子供



モンマルトルの葡萄収穫祭

モンマルトルの小さなブドウ畑の横で葡萄収穫祭の行列を待つ人たち
右手の蔦の絡まる壁の中に墓地があり、画家ユトリロは眠る

葡萄収穫祭の行列
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上の画像をクリックすると、
葡萄収穫祭の行列のビデオをご覧になれます



凱旋門

正しくはエトワール凱旋門。 シャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門である。 パリの象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことが多い。 この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=etoile」のように見えるので、この広場は「エトワール広場」と呼ばれていた。 現在この広場は「シャルル・ド・ゴール広場」と名称が変更されている。

エトワール凱旋門は、1806年、ナポレオン1世の命によって建設が始まった。 ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。 ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、1840年にパリのアンヴァリッド(廃兵院)に改葬されるときに、亡骸が凱旋門をくぐったという。 古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。 エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦で戦死した無名兵士の墓が納められている。


夕陽に染まる凱旋門

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折りしも、退役海軍の人たちのセレモニーが行なわれていた。
シャンゼリゼ通りは交通遮断。 軍事大国のフランスのことだから、強い影響力を持っているのだろう。

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凱旋門の上からモンマルトル方面を見る シャンゼリゼ通り方面

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エッフェル塔方面 エッフェル塔方面を拡大する



バスティーユ

1789年7月14日にパリ市の民衆が同市にあるバスティーユ牢獄を襲撃した。これが、フランス革命の始まりとされる。 バスティーユ牢獄(またはバスティーユ要塞)は、フランス革命以前、政治犯を収容していたといわれる。
フランス革命の歴史を訪ねて、ぜひバスティーユ牢獄跡を見たいと思って出かけた。

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メトロのプラットフォーム
のバスティーユ駅の標識
 
バスティーユ広場の中央に建つ革命の記念柱
この記念柱自体は1789年の革命でなく、1830年の7月革命
(シャルル10世の反動政治に対する市民蜂起)を記念して建造されたもの

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バスティーユ新オペラ座
広場に対して、筋向いにバスティーユ牢獄があったという
タクシー運転手とお巡りさんの話を総合すると、
どうやらこの建物のあたりに牢獄はあったようだ。

今回の旅行では事前の調査を怠ったため、バスティーユ要塞の遺構を見ることが出来なかった。 Wikipediaによると下記のように記されている。

現在はメトロ・バスティーユ駅の5番線Bobigny行きホームに、この要塞の壁の遺構の一部を見ることが出来る。またバスティーユ広場より少し離れたセーヌ川沿いのスクウェア・アンリ=ガリSquare Henri Galliという小さな公園に、丸型の基盤の遺構の一部が移され保存されている。



14〜15日目 パリ成田

14日目は朝からパリのドゴール空港に赴き、オーストリア航空に搭乗し、ウィーン経由で翌朝成田に着いた。


思えば、古代ローマ遺跡、中世の祈りの世界、絶対王制時代の煌く宮殿、フランス革命と近代化の跡などを15日間で駆け足で通り抜けたことになる。 フランスは古いものを残しながらも果敢に新しいものに挑戦する国であること、中国と同様に中華思想の国であるといわれながらも、外国人を歓迎し外国人に魅力を感じさせる国であることを痛感した旅であった。
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今回の旅行のユーラシア旅行社添乗員の竹下裕子さんには大変お世話になりました。 竹下さんの豊富な知識とお気配りに心から謝辞を申し上げます。



フランスの旅(2)は、いかがでしたか。
フランスの旅(1)は、ニース、モナコ、カンヌ、マルセイユ、エクサンプロバンス、アルルアビニョン、
           ポンデュガール、ニーム、トゥールーズ、ボルドー、ロワール古城巡りなどの旅です。
     まだご覧になられていないなら、
この フランスの旅(1)をクリックしてご覧下さい。



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