ドイツ(2)---- ドイツ東部の旅 アウグスブルク、ネルトリンゲン、デュンケンスビュール、ローテンブルク、 ニュルンベルク、バンベルク、ドレスデン、マイセン、ポツダム、ベルリン |
ドイツの旅(1)「ドイツ西部・南部の旅」はいかがでしたか。 ここからは、ドイツの旅(2)「ドイツ東部の旅」をお楽しみ下さい。 ドイツの旅(1)では、ケルン、ボン、アーヘン、ライン川クルーズ、ハイデルベルク、シュパイヤー、黒い森、ボーデン湖、ノイシュヴァンシュタイン城、ヴィース、ミュンヘンを巡った。最後のミュンヘンのオクトーバーフェスト(ビール祭り)の余韻が冷めないが、何といっても前半の圧巻はノイシュヴァンシュタイン城であった。ルートヴィヒ2世という異常な王様なくしては、稀有な名城「ノイシュヴァンシュタイン城」は生まれなかったと思うと、人間のなせる技の不思議さに考えさせられる。 さて、後半のドイツの旅(2)では、多くの古城を眺める楽しさのほかに、特徴ある都市を訪ねることになる。宗教改革の地「アウグスブルク」、1500万年前に隕石が落ちてできたクレーターの中にある「ネルトリンゲン」、第2次世界大戦のナチスを裁く裁判の地「ニュルンベルク」、第2次世界大戦の空襲で一夜で廃墟となった「ドレスデン」、高級磁器の「マイセン」、「日本の終戦が話し合われたポツダム会議の町「ポツダム」、そして戦前パリをも凌ぐ華やかさを享受し、戦後社会主義圏の辛酸をなめた「ベルリン」を訪ねる。 その間、ドレスデンとベルリンの絵画館では、泰西名画の数々に接する予定である。ベルリンのペルガモン博物館で、トルコから持ち帰られた「ゼウスの大祭壇」に会えるのは、今回の旅の最大の楽しみである。 どうぞ皆さんもお楽しみください。 ドイツの旅(1)は、ドイツ西部・南部の旅 ドイツの旅(2)は、ドイツ東部の旅 である。 合せてご覧下さい。 (2009年10月)
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ベルリンのペルガモン博物館の ゼウスの大祭壇 |
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ドイツ旅行の全ルート |
赤字は宿泊地(丸数字は宿泊順)、 青字は主な訪問地 ドイツ(2) ドイツ西部の旅は、アウグスブルク〜ベルリンです |
9日目 (9月30日) |
ミュンヘン→アウグスブルク→ネルトリンゲン→デュンケルスビュール→ローテンブルク(泊) |
ドイツの旅も後半になった。今日はロマンティック街道を北上し、中世の町々アウグスブルク、ネルトリンゲン、デュンケルスビュールを経て、ローテンブルクに至る。 |
アウグスブルク |
アウグスブルクの町名は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代、紀元前15年にローマ人によって町が建設されたことに由来する。中世には交易で栄え、15〜16世紀にはフッガー家のような豪商が権力を持った。彼らは芸術を保護し、アウグスブルクにルネッサンスの花を咲かせた。この都市は、宗教改革のマルティン・ルターが教皇の使節の審問をうけたところであり、ルドルフ・ディーゼルがディーゼルエンジンを発明したところでもある。 |
市庁舎 |
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市庁舎前広場にあるアウグストゥス噴水 | アウグストゥスの像 |
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市庁舎はドイツ・ルネッサンスを代表する建築 | 市庁舎に輝く双頭の鷲(東ローマ帝国自由都市象徴)と松傘(アウグスブルク市の紋章) |
1620年に建立されたが第2次大戦で破壊され、10億円かけて1985年に復原された黄金の間 (広さ34×17m、高さ14m、使用された金は2.6kg) |
天井 |
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アウグスブルク市は 世界の7都市と姉妹都市 |
尼崎市(兵庫県)と長浜市(滋賀県)が 姉妹都市で、展示コーナーがある |
ディーゼルエンジンの発明者ディーゼルが、この町で世界最初のディーゼルエンジンの稼働に成功した。ドイツの航空機メーカーメッサーシュミット社の工場がある。 |
*尼崎市とアウクスブルク市が姉妹都市提携を結んだのは1959(昭和34)年。これは日本と ドイツの間で最初に結ばれた姉妹都市提携。尼崎市内のヤンマーディーゼル(株)の工場で 超小型のディーゼルエンジンが開発され、1955年にドイツ発明協会からディーゼル金賞牌が 授与されたことで、その後ヤンマーディーゼル(株)がディーゼルエンジン発祥の地アウクスブ ルク市にルードルフ・ディーゼル記念園を寄贈して尼崎市とアウクスブルク市の関係が深また ことによる。 *長浜市には、ヤンマーディーゼル(株)の工場があり、初代社長山岡孫吉の出身地に近い。 |
マクシミリアン通り |
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立派な建物が並ぶ石畳のマクシミリアン通り | シェッツラー宮殿前にあるヘラクレスの噴水 |
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ヤコブ・フッガーの像 |
フッガーの屋敷 |
宗教改革者マルティン・ルターが、1518年に、ここで、宗教論争を展開した |
アウグスブルグ、フッガー家、ルターの宗教改革 ハンス・フッガーが農村から織工としてアウクスブルクに出て、ヴェネツィアから原料を輸入する商売を始めた。息子ヤコブが、香辛料などの貿易を行い、その息子ヤコブ2世(1459-1525年)が1485年銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得し、皇帝権力と結びついた。1517年の免罪符の販売は、ブランデンブルク公がフッガー家への借金を返還するためでもあった。1511年にヤコプは神聖ローマ帝国の貴族に列せられている。 アウクスブルクのフッガーライは同家が慈善事業として寄付した集合住宅である。 ルターは免罪符の販売をとりあげ、質問状(95か条の論題)を公開した(1518年)。人々は共感したが、ローマ教皇庁は激怒した。ルターはアウグスブルクで教皇の使節の審問をうけた(1518年10月)。その場所となったのが、フッガーの屋敷である。 ルターはさらに帝国議会によばれて、皇帝の前で異端審問をうけるが、自説をまげなかった。追放刑となったルターは、ドイツ諸侯にかくまわれて新約聖書のドイツ語訳に没頭。翻訳された聖書は「天使が運んだ」といわれるほどのスピードで、人々に広まった。ここにキリスト教は旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分裂。時代ははげしく宗教改革へと動いていった。 その後1555年に、神聖ローマ帝国の帝国議会において、ドイツにおけるルター派容認の決議があった(アウクスブルクの和議)。しかし個人の信仰の自由は認められず、信仰の選択は都市や領主が決定するものとした。このことは将来に禍根を残し、三十年戦争の契機ともなった。 (Wikipedia等による) |
アウグスブルク大聖堂 |
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建物の西側(右)は10〜11世紀のロマネスク様式、 東側(左)は14世紀にゴシック様式で増築された |
内装は17世紀にバロック様式となったが、 1828年〜1837年に新ロマネスク様式になった |
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ロマネスク様式の地下聖堂 世界最古のステンドグラスなどが見られる |
アラバスタ(雪花石膏)の明り取り窓 | 原型を留める最古のステンドグラスといわれる | マリアの誕生 |
フッゲライ (最古の社会福祉住宅) |
フッゲライは、豪商フッガー家により1521年に建設された世界最初の社会福祉住宅。 現在も公共住宅として使われ、一部が博物館として公開されている。1年間の家賃は今でも昔と変わらず1ライン・グルデン(現在の0.88ユ−ロ、日本円にして約120円)のままで(管理費・光熱費等除く)、寄進者とフッガー一族のために1日3回のお祈りを捧げることも家賃の一部として義務付けられている。 収入審査の他に次の条件がある。 @アウクスブルク市民 Aカトリック教徒 B前科の無い人 C本人の責任ではなく生活に困っている人 D負債を抱えていないこと この施設は、豪商フッガー家が贖罪として建設したと見ることもできるが、実際の住宅は、現代にも通じるプライバシを尊重したもので、西洋の考え方の表れにに感心する。 |
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7つの門の1つ、この門は閉じている。 チケットを発売している入口は回り込んだところにある |
ヤコプ・フッガーは、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世(上の肖像画)にも多大な融資を行った | モーツァルトの曾祖父フランツ・モーツァルトは1681年〜1694年に住んでいて、ここで亡くなった |
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塀で囲まれた集合住宅には、140戸が入居している | ちょうどツタが紅葉して美しい |
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各戸には独立した入口がある。 1521年当時から、プライバシーが配慮されていることに驚く。 |
部屋から覗き窓があって、遠隔操作で扉を開けられる | 建築当時の古い1戸が、見学用モデルルームになっている |
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現代風に改築した1戸もモデルルームになっている |
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敷地内にある中庭 プライバシーを重んじた集合住宅だけに中庭はコミュニケーションの場になると考えられる |
ネルトリンゲン |
ロマンティック街道沿いには、城壁に囲まれた中世の面影を残す町が多いが、中でもネルトリンゲンはほぼ完全な形で中世そのままに残る街。面白いことにこの町は、1500万年前に直径1.2kmの隕石が落ちてできた直径20km余りのクレーター(リース盆地)の中にある。 |
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1427年から1505年に建造されたゴシック様式の聖ゲオルグ教会と 高さ90mの鐘楼ダニエルの塔(ここからリース盆地の全景が望める) |
聖ゲオルグ教会の内部 |
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古い階段の一部を残す市庁舎 | 木組みの家 |
ダニエルの塔から眺めたネルトリンゲンの町 400mほど先に城壁が、10kmほど先にクレーターの壁らしいものが見える |
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地図(円形の城壁に囲まれた旧市街) |
Google Earthで10km上空から見た俯瞰図 「城壁(直径約800m)」と「地形から私が想定して描いたクレーター(直径は約20km)」 |
デュンケルスビュール |
手工業や交易で繁栄した帝国自由都市デュンケルスビュールは15世紀に完成した城壁に囲まれた町。30年戦争から第2次世界大戦まで幾多の戦争をくぐり抜け、中世都市の美しさを残している。 |
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ペスト塔*(車窓から) | 聖ゲオルク教会は、1448年〜1499年に建てられたホール型教会で、窓が大きく明るい |
*ペスト塔は、17世紀にヨーロッパ全土で猛威を振るったペストの終息を願い、ペストの惨禍から 解放された喜びをこめ、神に感謝して奉納されたもの。ヨーロッパ各地で見ることができる。 |
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中世の佇まい、木組みの家と馬車 | 壁に描かれた「敵の将軍の前で慈悲を乞う子供たち」の絵 |
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左の美しく保存された1440年代の建物ペーター ドレクセルの家は、今ホテルのドイチェ・ハウス |
ドイチェ・ハウスでお茶にした。 座席の真上に、「敵の将軍の前で慈悲を乞う子供たち」の絵 |
ローテンブルク |
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ローテンブルクで宿泊した城壁内のホテル | ホテルの窓から見上げる城壁 |
10日目 (10月1日) |
ローテンブルク→ニュルンベルク(泊) |
今日は移動は少なく、中世の町ローテンブルクと、これも中世の町で第2次世界大戦にゆかりのニュルンベルクをゆっくりと見学する。 |
ローテンブルク |
町の起源は9世紀頃で、最初の城壁は12世紀にできた。自由都市として栄えたのは17世紀までで、その後はローテンブルクの発展は停滞し、町はその重要性を失っていった。このため、町は17世紀のままの状態で保存された。第2次世界大戦の時、アメリカ空軍機の誤爆で、町の一部は破壊されたが、戦後、町は忠実に再建された。 |
朝の散歩 |
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ホテルの前の城壁 | ブルク門から城壁の外に出る |
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タウバーリビエラと呼ばれる城外の散歩道 | 朝日に輝くブドウ畑 道端に、巡礼路であることを示すホタテ貝のしるべ |
*巡礼路 1311年にドイツ騎士団が聖ヤコブ教会の建設をはじめ、1485年に完成した。 聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる 聖血が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級 の巡礼地であった。 |
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城壁の上は通路になっている (左は城内) |
シュピタール門から再び城内に入る |
狭間から 見える城外 |
聖ヤコブ教会 |
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13世紀に建てられた聖ヤコブ教会 |
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リーメンシュナイダーが1499年〜1505年に制作した「聖血祭壇」 下部には、最後の晩餐が彫られている。 上部には、キリストの聖遺物の十字架の中に、キリストの血の入った水晶が納められている。 |
マルクト広場 |
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市庁舎前のマルクト広場 |
市議宴会館 |
市議宴会館の仕掛け時計マイスタートルンクに 毎正時にティリー将軍とヌッシュ市長が現れる* |
*マイスタートルンクの伝説 30年戦争の1631年に、ローテンブルクを占領した皇帝軍の 将軍が、市参事会員たちの首をはねることになった。たまたま将軍が市のワインを勧められ たときに、将軍は、「この大ジョッキを一気に飲み干す者あらば斬首はやめよう」 といった。 市長がこれを受けて、一気に飲み干して、この窮地を救ったという。 |
中世犯罪博物館 |
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12〜19世紀の立法と司法(拷問と処刑)を展示したドイツ唯一の博物館 | 針の椅子(魔女裁判の頃の拷問道具) |
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辱め用のマスク (おしゃべりの過ぎる女用) |
古文書、拷問道具、貞操帯など多数展示 |
マスクを付けられた晒し者 |
人形博物館 |
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18〜20世紀初め人形が展示されている | ローテンブルクの町並みと当時の衣装 | なぜか、日本の雛人形が |
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中世のロマンを運ぶ観光馬車 |
ローテンブルク名物のシュネーバル(スノーボールの意) サクサクとした歯触りの球形ドーナツ |
ニュルンベルク |
ニュルンベルクは、ドイツ連邦共和国バイエルン州の郡独立市。バイエルン州第2の都市である。中世からの伝統ある都市であり、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。第2次世界大戦で破壊されたが復原し、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。 |
旧市庁舎 |
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旧市庁舎と展示されているレプリカの皇帝の王冠 (本物はウィーンから戻らず)) |
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粒塩がまぶしてあるプレーツェル | 名物ニュルンベルガー・ソーセージ | ドイツのデザートは結構美味しい |
カイザーブルク |
カイザーブルクは、ニュルンベルクの北の端にある高台に建つ城。坂を登るといろいろな建物があるが、掲げている旗には、ニュルンベルク市旗、バイエルン州旗、ドイツ連邦共和国旗がある。ドイツ民族は旗が好きなんだろうか。 |
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ニュルンベルク市旗が建つ | バイエルン州旗が建つ |
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ドイツ連邦共和国旗が建つ | 高台にあるカイザーブルクの頂きにあるジンヴェル塔 |
市街散策 |
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画家デューラーの家、ドイツルネサンスの巨匠デューラーが後半生を過ごした町でもある。 |
町で見かけた日時計は2時40分を指している。今、3時40分なのに? そうだ夏時間だ。正確! |
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1338年築のドイツ最古の木組みの家 | ザワークラウトに使われるキャベツ(尖った方) |
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左は死刑執行人の塔、右は穀物倉庫 | 死刑執行人の家・中ノ島・死刑執行人の橋. |
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死刑執行人の塔 | 死刑執行人の家 |
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聖ロレンツ教会 |
聖ロレンツ教会前の美徳の泉 下から真実、愛情、希望、勇気、節度、忍耐、そして、一番上は正義 |
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美しの泉 金色の環があり3回環を回すと .願いごとが叶うというので、賑わっている |
面白い造形 |
分度器(原始的な六分儀)を覗く人 |
第2次世界大戦のこと |
ナチス・ドイツ時代、ナチス党大会がニュルンベルクで行われた。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法が定められ、ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス・ドイツを象徴する都市となった。 第2次世界大戦後、1945年から戦勝国はナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する裁判、いわゆる「ニュルンベルク裁判」を実施した。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つであった。 この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者のドイツを裁く」という異例な形式の裁判で、違法な裁判との批判が当時から現在まで根強くある。例えば、ニュルンベルク裁判における全ての裁判官がアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ていた。(東京裁判では、裁判官は、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、イギリス領インド帝国、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フィリピン、の11ヶ国が参加した) |
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第二次世界大戦で破壊されたニュルンベルク市 (Wikipediaより) | ニュルンベルグ裁判の被告席 (Wikipediaより) |
11日目 (10月2日) |
ニュルンベルク→バンベルク→ドレスデン(泊) |
今日はニュルンベルクを発って、古都バンベルクを訪ね、チェコ国境に近い「芸術と文化の都」ドレスデンに到着する。 |
ドイツの電力事情(車窓から) |
バスで移動していると風力発電所をよく見かける。しかしドイツでの発電の主力は依然として火力。さらに約30%は原子力に頼っている。ドイツ議会の上院は、2002年2月1日、当時の.シュレーダー首相の与党が推進する原子力発電所の段階的廃止法案を承認した。 しかし、今年の9月の総選挙でメルケル首相率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と自由民主党(FDP)が連立合意し、コール政権以来11年ぶりの右派政権が誕生し、メルケル首相は2期目に入り、原発政策の見直しが進むとみられる。新政権は、ドイツ社会民主党(SPD)と90年連合・緑の党政権時代に打ち出した「脱原発」を修正して、太陽光エネルギーや風力など再生可能エネルギーへの転換を進める間、原発の操業を延長させる見込みだという。 |
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青空に風車は自然エネルギーの象徴 | 鳥の衝突を防ぐ工夫をしたプロペラ型 | 珍しいジャイロミル型風車* |
*ジャイロミル型風車 プロペラ型風車が水平軸型であるのに対して、 ジャイロミル型風車は垂直軸型。常に最適な角度で風を受けることができ、 効率が高いという。ただし写真のものは小型で実用的ではなさそうだ。 |
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原発か火力発電所。立地上、日本のように必ずしも海岸に原発や火力発電所を作れないドイツでは、冷却塔を設けなければならないから効率が悪い。ルール地方の低品位の石炭も使わなければならない。 | 日本では見られなくなった黒煙を吐く工場の煙突 |
バンベルク |
人口20万人のバンベルクは、大学都市であり、大司教の都市であり、ビールの都であり、行政都市である。見応えのある旧市街は、ドイツで最もすばらしく無傷に保存された歴史的な市街地であり、全旧市街がユネスコの世界遺産に登録されている。 |
市街散策 |
レグニッツ川の中州に建つ旧市庁舎 左は俗界、右は宗教界という。 |
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橋からの眺めは「ドイツの小ヴェネチア」に相応しい | 橋に建つ王妃クニグンデの像 |
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昔ながらの港湾のクレーンと牛の屠殺場 |
大聖堂 |
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1237年に完成した4本の尖塔を持つ大聖堂 |
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「バンベルクの騎士」は 中世騎士の理想像とか |
リーメンシュナイダー作の ハインリッヒ2世と妃の墓 |
新宮殿 |
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新宮殿のバラ園から聖ミヒャエル教会 | バラ園から望む旧市街 |
ドレスデン |
かつて「百塔の都」」といわれたドレスデンは、中世にはエルベ川の水路を利用した商業都市として発展し、16世紀以降はザクセン王国の首都として繁栄した。バロック様式の壮麗な宮殿や教会、貴族の館が建ち並んだ町は第2次世界大戦の空襲で一夜で廃墟となった。 しかし、音楽の殿堂センパーオペラは1985年に再建、瓦礫の山のままだったフラウエン教会も東西統一後、再建作業が始まり、2005年に完成。「芸術と文化の都」はよみがえった。 |
サービスエリアのトイレ |
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高速道路のサービスエリアのトイレにはゲートがあって、0.5EU(約70円)支払うと領収書が出る。 この領収書は、サービスエリアのショップで0.5EUの金券として通用する。 |
市街散策 |
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2009年 6月 25日、ドレスデンとエルベ川一帯の景観が、世界遺産*のリストから外されることが決定した。 | 昼食は白身魚のフライ |
*世界遺産 2004年に世界遺産に登録されたドレスデン。しかし、その後、市が渋滞緩和 のために橋の建設を進めたため、「景観を損なう」 として、ユネスコ側は 「危機遺産」 の リストにあげていた。そして、今回、残念ながらリストから除外、ということになってしまった。 問題の橋はここからは見えないところという。ドレスデンは世界遺産でなくても観光客は来る! |
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エルベ川の辺に建つドレスデン芸術大学 | 観光馬車 |
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君主の行列はマイセン磁器のタイルに描かれた、長さ101mの壮大な壁画。 1123年〜1904年のザクセン君主の騎馬像や芸術家ら総勢93名が 描かれている。タイルは2万5000枚、戦災を奇跡的に免れた。 |
アウグスト2世(強王、1670年〜 1733年)と アウグスト3世(1696年〜1763年)の像も |
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左カトリック旧宮廷教会、右ドレスデン城(王は毎日教会と館に通った?) | ドレスデン城の隣にある美女の館 |
カトリック旧宮廷教会 |
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屋根の上に聖人像が立つカトリック旧宮廷教会 | カソリック教会には懺悔室 |
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珍しい五廊式の立派な身廊 |
フラウエン教会 |
ドレスデンのフラウエン教会(聖母教会)はドレスデンにあるルター派の教会である。 フラウエン教会は第2次世界大戦の際のドレスデン爆撃に耐えた。しかし建物の殆どが焼失し、爆撃の翌日には崩れ落ちた。この教会はかつての敵との和解のランドマーク的シンボルとして再建された。世界最大のジグソーパズルといわれた再建は、起工から13年後の2004年に外観の復元は完了し、内装の復原は翌2005年に完了した。 独自のバロック建築の教会は1726年から1743年の間に建設された。教会の最も特色ある外観は高さ96mという型破りなドームで、ミケランジェロのサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する工学上の成果であるといわれる。フラウエン教会の12,000トンの砂岩のドームは、内部の支えを伴わずにきわめて安定している。 |
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1957年のフラウエン教会の廃墟 (当地の絵葉書より) |
復原されたフラウエン教会 復原にはできるだけ元の石が使われた |
フラウエン教会の前の マルティンルターの像 |
オペラハウスのような教会内部。これがプロテスタントのルター派の教会とは。 |
ツヴィンガー宮殿 アルテ・マイスター絵画館 |
ツヴィンガー宮殿は、アウグスト2世(強王)が1709〜32年に建てたドレスデンを代表するバロック建築である。19世紀に入って北部分(現アルテ・マイスター絵画館などの入っているところ)がイタリア・ルネッサンス様式で増築された。 宮殿の一角を占めるアルテ・マイスター絵画館にはラファエロ(システィーナの聖母)、レンブラント、ルーベンス、フェルメール(手紙を読む少女)などヨーロッパを代表する画家たちの膨大な数の作品が公開されている。この美術館はヨーロッパでも重要なコレクションを有する施設のひとつといわれている。 |
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ツヴィンガー宮殿の入口 アルテ・マイスター絵画館は入って右側 | ツヴィンガー宮殿中庭の王冠の門 |
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ラファエロ・システィーナの聖母 | ジョルジョーネ・まどろみのビーナス |
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ルーベンス・酔っ払いのヘラクレス | エル・グレコ |
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レンブラント・赤い花を持つサスキア | レンブラント・鷲に捕らわれのガニュメデス |
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フェルメール・手紙を読む少女 | フェルメール・やり手婆 |
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ワーグナーのタンホイザーが初演されたゼンパー歌劇場(復原) | ドレスデンの中心地を離れると薄汚い店もある |
12日目 (10月3日) |
ドレスデン→マイセン→ポツダム→ベルリン(泊) |
今日は、「ドレスデン」を発って、高級磁器で有名な「マイセン」、第2次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われた「ポツダム」を訪ね、「ベルリン」入りする日である。 |
マイセン |
ドレスデンの郊外の古都マイセンは、ヨーロッパを代表する高級磁器で有名で、佐賀県の有田町とは姉妹都市。マイセン磁器工場を見学した。 |
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この蒸気機関車は観光用でなく実用のようだ | エルベ川畔の古都マイセンは、第2次世界大戦の被害が少なかった 右遠方はアルブレヒト城 |
マイセン磁器工場 |
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マイセン磁器工場の入口 | マイセン磁器工場のホール |
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成形 (蹴りロクロを使用) | 部品を組み合わせる (工芸品に多い工程) |
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下絵付け (単色で行う) | 本絵付け (金絵具の場合の色の変化:上から焼成前・焼成後・研磨後) |
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マイセン食器のセット | マイセン製の中国風壺 | マイセン製の和風食器 | トレードマーク* |
*マイセン磁器のトレードマークは、2本の交差する剣 |
ポツダム |
ポツダムは、エルベ川の支流ハーフェル川に面した古都。ブランデンブルク州の州都である。人口は約13万人。因みにブランデンブルク州は首都ベルリン(特別市で州に相当する)を取り囲んでいる。日本人には「ポツダム宣言」を受諾して、太平洋戦争が終わったことで、記憶に刻まれている。 |
昼食のレストランを出ると、ポツダムの静かな町並み |
サンスーシ宮殿 |
サンスーシとは、フランス語でSans Souci、「憂いなし」を意味し、日本や中国では漢訳して無憂宮とも表記される。プロイセン王のフリードリッヒ大王(在位1740〜1786年)が、夏の離宮として、1745〜1747年に建てたロココ様式の華麗な宮殿。見学したのは広い宮殿のごく一部である。 |
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階段の両側には、ブドウが実っている |
フランス庭園からロココ様式の宮殿を見る |
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新客間を見学 ここは元果樹園で、大きな窓はその名残 |
ベルサイユ宮殿のような雰囲気 (撮影禁止のためパンフレットより) |
オランダから取り寄せた風車 |
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旧東ドイツのポツダムではところどころに高級住宅があると現地ガイドの説明 社会主義時代の党幹部の館であろうか(車窓より) |
ツェツィーリエンホーフ宮殿 |
宮殿というよりも、英国風の館といった感じのこの宮殿は、ホーエンツォレルン家の最後の皇太子ヴィルヘルムが家族とともに住んでいた。宮殿には皇太子妃ツェツィーリアの名がつけられている。 わざわざここを訪れるのは、1945年7月17日〜8月2日にここでポツダム会談が開かれたからである。この時期ドイツはすでに降伏し、日本は8月15日の降伏直前であった。米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第2次世界大戦の戦後処理とソ連の対日参戦を含めた日本の終戦について話し合われた。 |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿の入口 | 中庭 現在は一部はホテルになっている |
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ポツダム会談の5か月前のヤルタ会談の記念写真(Wikipediaより) 左から英チャーチル首相、米ルーズベルト大統領、ソ連スターリン書記長 |
ポツダム会談が終了した時の記念写真*(Wikipediaより) 左から英アトリー首相、米トルーマン大統領、ソ連スターリン書記長 |
*英チャーチル首相は選挙に敗れアトリー首相と交代、米ルーズベルト大統領は 死亡してトルーマン副大統領が大統領に昇格、ソ連スターリン書記長のみが ヤルタ会談から継続 して出席。スターリンがこの会議のリーダーシップを取った のは当然と言える。 |
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ポツダム会談で三巨頭が顔を合わせた会場 | トルーマンの事務室 |
ポツダム会談にゆかりの部屋 (写真撮影禁止のため、写真集より) |
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チャーチルのちにアトリーの事務室 | スターリンの事務室 |
シュプレー川を渡るとベルリンに入る |
13日目 (10月4日) |
ベルリン(滞在) |
やっと、今回のドイツ旅行の最後の訪問地ベルリンに着いた。滞在は僅か1日。短い自由時間もフルに使って、「何でも見てやろう」。ベルリンの壁、ペルガモン博物館、文化フォーラムの絵画館は必見。 |
市内見学 |
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1865〜1873年に建造された戦勝記念塔シーゲスゾイレ 1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、 1870〜1871年の対仏戦争に勝利したときの記念である |
ウンター・デン・リンデン「菩提樹の下(の通り)」 通りの中央に散策路があり、散策者は 菩提樹の並木道を満喫することができる。 |
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ブランデンブルク門 1788〜1791年にプロイセン王国の凱旋門として建てられた。門の上の勝利の女神と4頭立ての馬車は、 1806年プロイセンを破ったナポレオンがパリへ持っていったが、1814年にプロイセン軍がパリを占領すると、 像は再度ベルリンに持ち帰られた。東西分裂時代は門のすぐそばに壁が築かれて門は通行できなかった。 1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになった。 上の写真は、ちょうどベルリンの壁崩壊20周年を祝うため、パリから巨大なマリオネット(糸繰り人形)が来たので、作業する関係者 |
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ベルリン市庁舎、通称「赤の市庁舎」 1861年〜1869年に立てられた赤煉瓦造り、塔の高さは74m |
ユダヤ人集会所 |
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ベルリンの壁博物館(MUSEUM HAUS AM CHECKPOINT CHARLIE) この博物館は1962年に、ライナー・ヒンデブラント氏により創立された。彼は2004年の死に至るまで館長を務めた。1961年8月13日のベルリン封鎖当時の市内の様子や、東側から逃れてきたときのいろいろなルートや手段がパネルや写真で紹介されている。実際に逃亡時に使用された車や気球なども展示されている。 1984年には、「ガンジーからワレサまで━人権のための非暴力闘争」という展示コーナーが拡大された。 館内は撮影禁止 |
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かつての国境検問所 チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)*は、今では観光名所になっている |
*チェックポイント・チャーリー (Checkpoint Charlie) は、ベルリン市が東西に分断されていた時代に、同市内の 東西境界線上に置かれていた国境検問所。他にチェックポイント・アルファ (Checkpoint Alpha)、チェックポイント ・ ブラヴォー(Checkpoint Bravo)等があり、日本語でいうならば単に「検問所C」のような意味合いである。 |
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壁の一部は現在も保存され、壁美術館と呼ばれている。各国の画家が描いているようである。壁は鉄筋入りのブロックで、厚みは案外薄い。 |
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平成2年に描かれた日本人の作品のように見えるが、実はそうではないという |
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ドイツ人の作品 |
キスする2人の独裁者* ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー書記長 |
*アーティストのドミートリー・ヴルベルが撮影したホーネッカーとブレジネフがキスを して いる写真は、ベルリンの壁に描かれ、最も人気のある観光スポットになっている。 |
壁を望む不条理 (朝日新聞ベルリン駐在員の記事) |
ベルリンの壁が消えてから、2009年11月9日でちょうど20年。今、旧東ドイツの市民の間に 「格差と差別に嫌気」が、旧西ドイツの市民の間に「続く負担に不満」が生じているという。 クリックすると、朝日新聞(09年11月4日)のベルリン駐在金井和之記者の記事をご覧になれます [クリック] |
ペルガモン博物館 |
ペルガモン博物館は、今回のドイツ旅行で楽しみにしていた見学の1つ。「ゼウスの大祭壇」はじめ、トルコ、ローマ、バビロニア、アッシリアなどからドイツが持ち帰った遺跡・遺物の数々を見ることができるからである。 |
ペルガモン博物館の玄関は外装の工事中 |
入口を入って正面にあるペルガモンの「ゼウスの大祭壇」(紀元前164〜156年) トルコのベ ル ガ マ(ペルガモン)を訪ねた時、現地には基壇しかなく、 トルコ人のガイドが悔しそうに「現物はベルリンで見てくれ!」といった。 やっと、今ここで見ることができた。 クリックすると、西田のホームページの「トルコのベルガマ」をご覧になれます [クリック] |
ペルガモン博物館の建築は、1910年に始まり、第1次世界大戦を挟んで1930年にようやく完成した。第2次世界大戦の空襲でペルガモン博物館をはじめとする博物館群は甚大な被害を受けた上、ベルリン動物園近くのツォー高射砲塔に疎開していた「ゼウスの大祭壇」は赤軍が戦利品としてレーニングラードに運び去った。美術品が東ドイツに返還され、博物館が再開したのはようやく1959年のことだという。 |
ゼウスの大祭壇の壁を飾る数々の浮き彫り |
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トルコのベ ル ガ マの模型 | ゼウスの大祭壇の模型 |
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大祭壇の床を飾るモザイク画 |
ミレトスの市場門 皇帝ハドリアヌスの時代(紀元120年頃)のもので古代ロ−マの南市場の入り口にあった。高さ28.92m の2階建て大理石造り |
バビロニアのイシュタール門 バビロニアは、イラクのバグダードの南方約90km。 イシュタール門は、紀元前575年、ネブカドネザル2世により建設された。 |
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バビロニアの「行列通り」を飾る、青い釉薬瓦で描かれた獅子の浅浮き彫り |
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? | アッシリアの人頭有翼牡牛像 |
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ハットゥシャの王の門の絵 | ヤズルカヤ遺跡の絵 |
トルコのヒッタイト帝国のボアズキョイ遺跡が展示されている クリックすると、西田のホームページのトルコの現地をご覧になれます [クリック] |
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ヤズルカヤの神々の像 |
文化フォーラム絵画館 |
文化フォーラムは複数の美術館からなる複合文化施設。その中核をなす絵画館には13〜18世紀のヨーロッパ絵画の傑作が並ぶ。ラファエロ、ポッティチェリ、フェルメール、レンブラントなど見応えがある。 |
文化フォーラムの中にある絵画館 |
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ボッティチェリ・ヴィーナス | ボッティチェリ・子供と歌う天使たちと一緒のマリア |
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ラファエロ・子供とマリア | ジォット |
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フェルメール・真珠の首飾り(「真珠の耳飾りの少女」とは別作) | フェルメール・ぶどう酒のグラス |
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ベラスケス・女の肖像 | クリストゥス・若い女性の肖像 |
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ゲインズボロ・マーシャムの子供達 | グース・東方三博士の礼拝 |
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ホントホルスト | レンブラント・長老たちに脅かされるスザンナ |
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フーケ・エティエンヌ騎士と聖ステファヌス | フーケ・母 |
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ドイツ最大の老舗デパートKaDeWe(カー・デー・ヴェー)で 食料を買って帰り、ホテルの自室でワイン・パーティー |
帰路、ホテル近くのモニュメントに見た落書「FREE IRAN」 イスラム系外国人の多いドイツは、今後いろいろ苦労が多いだろう |
14日目 (10月5日) |
ベルリン→ウィーン→(機中泊) |
ベルリン空港から発つ |
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早朝西の空に沈む満月、2週間前に出発した時は新月だった | 空港へ向う車窓から望む朝日 |
ベルリン空港から、オーストリア航空OS272便 (FOKKER100機)でウィーン空港へ |
ドイツ上空から |
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ドイツは、川と森の国だった | 写真に写っている範囲で84基の風力発電所 |
ウィーンでオーストリア航空OS51便 (ボーイング777機)に乗り換えて、成田へ |
15日目 (10月6日) |
(機中泊)→成田 |
定刻より早目に成田に着き、ドイツの旅は無事終わった。 |
10年前の1999年10月、エジプト、ギリシアから始めた小生の世界旅行は、ようやくドイツに辿り着いた。ドイツには、ライン川クルーズやロマンティック街道のような中世の名残りを残す都市や古城が面白かった。しかし私が一番印象付けられたのは、ドレスデン、ポツダム、ベルリンの現代史の遺跡(?)であった。 ヨーロッパの歴史は正に戦争の歴史であった。しかし今や、欧州連合EUは東欧を含めて27か国が加盟しており、ヨーロッパのみならず世界の歴史を変えつつある。残り短い我が人生であるが、せいぜい長生きして、世の行く末を見届けたい、そんな気持ちにさせられた今回のドイツ旅行であった。 |
ドイツの旅(2)「ドイツ東部の旅」は、いかがでしたか。 ドイツの旅(1)は、「ドイツ西部・南部の旅」です。 まだご覧になっていないお方は、ここをクリックしてご覧下さい。 |
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