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ドイツ(1)---- ドイツ西部・南部の旅
            ケルン、ボン、アーヘン、ライン川クルーズ、ハイデルベルク、シュパイヤー、
            黒い森、ボーデン湖、ノイシュヴァンシュタイン城、ヴィース、ミュンヘン


 ドイツという国は、日本人にはヨーロッパ諸国の中で特別の国のような気がする。ドイツ人も日本のことをそのように感じているかどうか分らないが・・・  明治維新に日本は欧米の制度を学んだ。多くのお雇い外国人が来日した。手元にある資料によると、明治元年から明治22年の間に来日したお雇い欧米人は2046人で、ドイツ人は、イギリス人、アメリカ人、フランス人に次いで多い。特に、医学、理学、法学、産業、陸軍の分野が多い。日本の文明開化に貢献したというべきである。ドイツを日本人にとってファミリアにしたのは、何といっても第2次世界大戦の同盟国であったことであろう。

 私事で恐縮だが、小生が初めて海外旅行をしたのが1968年で、360円/$ の時代。ドイツで国際学会があり、ちょっとした技術発表をした。そのときの座長がドイツ人で、外国語に不慣れな私を助けてくれた。学会の後、そのドイツ人の勤めているミュンヘンのジーメンスという会社の研究所を訪ねた。私がドイツ人に好感を持った個人的なキッカケである。

 今回の旅行先にドイツを選んだ理由は、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、イギリスと、歴史の順に訪ねて、西欧で残るのはドイツだけになったからである。(ドイツは西欧でなく中欧と呼ぶことも多い) しかし私がドイツ旅行に期待するところは甚だ大きい。一般にドイツ旅行といえば、「
ノイシュバンシュタイン城」に代表されるロマンティック街道やライン川クルーズの古城巡りであろう。それも結構だが、私は、「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」というものを見てみたいし、環境立国といわれるドイツがどんなものかこの目で見たいと思った。

私が一番期待するところは、ドレスデン、ポツダム、ベルリンといった第2次世界大戦の深い傷を受けた都市がどのようになっているかを見ることである。その中ではベルリンのペルガモン博物館の「ゼウスの大祭壇」にぜひ会いたい。現地トルコでは基壇しか残っていなかったこの偉大な「大祭壇」は、1864年にドイツに持ち去られ、第2次世界大戦中は空襲を避けて疎開され、敗戦時に赤軍により戦利品としてレニングラードに運び去られた。東ドイツに返還され、博物館が再開したのはようやく1959年のことだという。

このようなドイツ旅行に対する欲張りな期待が、私のようなお上りさんのパック旅行で望めるのか、いささか心配であるが、ままよと、ユーラシア旅行社の15日間の旅に妻と一緒に出かけた。

ドイツの旅(1)は、ドイツ
西部・南部の旅
ドイツの旅(2)は、ドイツ東部の旅
である。 合せてご覧下さい。          (2009年10月)

           お願いとお断り
このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、下記にメールでお知らせ願います。
       メール

現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。原則的には「ヴィ」を用いましたが、慣用的には「ビ
も用いました。
ノイシュバンシュタイン城
国  名 ドイツ連邦共和国
首  都 ベルリン
政  治 連邦共和制
1871年ドイツ帝国成立
1973年国連加盟、1990年東西ドイツ統合
面  積 37万7000km2 日本の94%
人  口 8240万人 日本の65%
ゲルマン系ドイツ人94%、トルコ人2%
言  語 ドイツ語(公用語)
宗  教 プロテスタント38%、カトリック34%、
イスラム教2%
産  業 農業は、小麦、ジャガイモ、テンサイを輪作し家畜を飼育する混合農業で、ワイン用のブドウ栽培も盛ん。機械化と合理的経営により生産効率は高いが、食料の3分の1を輸入している。

地下資源では石炭が豊富で鉄鉱石も産出する。石油はごくわずかで輸入に依存していたため原子力発電の比率が高まっていたが、90年代以降は脱原発が模索されている。

工業は1840年代の産業革命以来一貫して世界の最先端を歩み続けている。鉄鋼、機械、化学、自動車、電子をはじめあらゆる分野が発達している。またマイスター制度とよばれる伝統的な職人制度も健在で、伝統工芸品だけでなく先端産業でも技術力の維持に貢献している。近年は環境保護意識が高まり、循環型経済への移行では世界でも最先端をいく。

ヨーロッパ最大の経済大国である。東西ドイツ統合にともなう景気後退は短期間で克服されたが、東西の所得格差は未だに大きい。
1人当
GNI
3万6620米ドル/年 日本の95%
(2006年)
ドイツ旅行の全ルート
赤字は宿泊地(丸数字は宿泊順)、  青字は主な訪問地

ドイツ(1) ドイツ西・南部の旅は、ケルン〜ミュンヘンです。



1日目
(9月22日)
成田ウィーン経由ケルン(泊)

成田をオーストリア航空OS52便(ボーイング777機)で出発。 オーストリアのウイーンでオーストリア航空OS195便(FOKKER100機)に乗り換えて、ドイツのケルンに着く。

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20時頃、夕映えのケルン空港に着く
明日は巡礼者の祭りのために入れないかもしれないので、夜8時
を過ぎていたが、ホテルに入る前に急いでケルン大聖堂に入る
イルミネーションされたケルン大聖堂
 

シュテファン・ロホナー作の大聖堂の絵

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東方三博士の聖遺物が納められた世界最大の黄金細工の棺



2日目
(9月23日)
ケルンボンアーヘンケルン(泊)

今回の旅行は、ライン川クルーズとボーデン湖を除き、ドイツ国内の陸路ははすべてバスによる。今日はケルンを出発して、ボン、アーヘンを訪ね、ケルンに帰ってくる。

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宿泊したバルセロ コロン・ホテル ホテルの前の市街電車(Sバーン) ドイツには市街電車は多い



ボ ン

ボン市は、前1世紀になるとローマ帝国の駐屯地となった。13世紀よりケルン大司教の居住地となった。18世紀末、ナポレオンによって占領されたが、19世紀初頭のウィーン体制の発足とともにプロイセンの支配下におかれた。典型的な文教都市であったが、第2次世界大戦中は1944年2月〜1945年2月までの間に72回も空襲を受け、伝統あるボン大学も全焼するなど被害を受けた。大戦後は西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の暫定首都となった(憲法上はベルリン)。

人口約30万のボン市が、なぜ西ドイツの首都になったか。当時、戦前の首都ベルリンは東ドイツに包囲されていた。アデナウアー首相がボン大学出身で、「ボンでもいいのじゃないの」といったので決まったとか。

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マルクト広場
アウグスティヌスの孫が建てたオベリスク、向いは旧市庁舎
ベートーベンの家が開く10時まで、マルクト広場の朝市を回る
 

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野菜、果物、パン、蜂蜜などを売っている ”Hokkaido”という銘柄のカボチャを売っているのに驚く



ベートーベンの家

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ベートーベンはこの家で1770年12月17日に生まれ、22歳でウィーンに活動の場を移すまで住んでいた
内部は公開されているが、撮影禁止

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ベートーベンが使用した楽器、直筆の楽譜、補聴器などが展示されている(絵葉書より) 肖像画(絵葉書より)

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右側が住んでいたところ、左奥はミュージアム・ショップ 中庭にあるベートーベンの銅像は、苦悩の面持ち

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通りには、ボンにゆかりの偉人達の絵タイル
 
ロバート・シューマンは最後の2年間をここのサナトリウムで過ごした。
近くにある旧墓地に、妻クララと一緒に眠るという

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中央郵便局前のミュンスター広場に建つベートーベンの銅像


ミュンスター寺院

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ミュンスター寺院はローマ帝国時代の墓地内に建てられたゴシック様式 ファザードのモザイク画が輝く

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内部は一般的な三廊式で、清楚な感じ ロマネスク様式の廻廊と中庭



ボン大学

ボン大学は、1818年に当時のプロイセン王国が設立した。ドイツでは比較的歴史の浅い大学であるが、正式名が "Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universitat" といわれるように、当時のプロイセン王国がこの大学の充実に努めた。カール・マルクス、ハインリッヒ・ハイネ、フリードリッヒ・ニーチェ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、新渡戸稲造らが学んだ。ノーベル賞受賞者は、化学、物理学、経済学が各1名。

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ボン大学の入口 教会に入るような感じ 学内の西洋菩提樹の並木道を歩く

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西洋菩提樹の並木道を抜けたところから振り返ると美しい校舎が見える 中央3階にあるのはマリア像か



ドイツ連邦議会選挙

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キリスト教民主党(CDU)のポスター 社会民主党(SPD)のポスター 自由民主党(FDP)のポスター

ドイツ旅行中にドイツ連邦議会選挙があった(2009年9月27日)。たまたま選挙活動を垣間見た。旅行者の目には、党首や議員候補者のポスターが街頭に貼られているだけで、街頭演説や宣伝車は全く見られなかった。

選挙結果は第1党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)、第2党は社会民主党(SPD)、第3党は自由民主党(FDP)であった。CDU・CSUのメルケル女史は、SPDとの連立を解消し、FDPと連立して、首相を続投することになった。因みにメルケル女史は旧東ドイツ出身である。



車窓から見るドイツの農業

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ドイツ名物ザワークラウトの材料になるキャベツ
 
テンサイ(甜菜、アカザ科フダンソウ属)は、サトウダイコンとも呼ばれるが大根ではない。寒冷地で育つ砂糖の原料

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マスタードの原料となるセイヨウカラシナ(西洋芥子菜、アブラナ科) トウモロコシは家畜の飼料(ドイツでは食用にする習慣がないそうだ)



アーヘン

アーヘン大聖堂

アーヘン大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである。786年にカール大帝がアーヘンの宮殿教会の建設を始めた。814年にカール大帝が死ぬと彼は大聖堂に埋葬され、彼の骨はいまも特別の神殿に保存されている。 大聖堂は、1000年以上の時を経て、現在の装いを調えた。

アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会である。それは後世の増築部分と比較すると驚くほど小さいが、建設当時は、それはアルプス以北では最大のドーム建築であった。 古典主義様式、ビザンティン様式そしてゲルマン様式-フランク王国様式の要素を備えた心を奪う建築は、きわめて重要な記念碑的建造物の真髄であるという。アーヘン大聖堂は、936年から1531年にかけての約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われた場所でもある。 (Wikipediaより要約)


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市庁舎 ドイツでは市庁舎の地下にレストランがあり、
ラーツケラーと呼ばれ、比較的安価で安心して食事が
できる。旅行中何回か利用した。
大聖堂(このシーンの写真を撮り損じ、Websiteから引用)
814年にカール大帝が死んだ後、礼拝堂として建て
させたもの。ドイツの世界文化遺産登録第1号

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道端に置かれたアーヘン大聖堂の青銅模型。 大聖堂宝物館にはカール大帝ゆかりの宝物がぎっしり 

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1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が作らせたパリアンの大理石製の彫刻を施した石棺 カール大帝の胸像

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ビザンチン様式の内部 天井のモザイク

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ステンドグラスとマリア像 聖壇にある黄金の棺

祭壇に掲げられた聖画  欠けている右の3分の1は修理中
この絵の中に病気の人が描かれているというが、その目的は何だろうか。病気の人を憐れむのか、忌み嫌うのか? 下に拡大してみた

当時ダウン症の人は、
猿回しなどの仕事に着いていたという
マスクをしている梅毒の人だという
 
梅毒はコロンブスの率いた探検隊員がアメリカから持ち帰ったという
  この定説に従えば、この絵は16世紀初頭以降に描かれたことになる



ケルンに戻る

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ライン川には、ケルン市だけでも沢山の橋が架かっている ライン川河畔にある荷揚げのための施設

再びケルン大聖堂

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昨夜見たケルン大聖堂に昼間に再度訪れた ステンドクラス

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533段の階段を登り、正面右側の塔(157m)の展望台からケルン市を眺めた。       正面左の塔の先端部 ↑ 

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大聖堂前広場にある塔の先端部の原寸大模型 (日本語の説明があり、驚いた)



3日目
(9月24日)
ボンコブレンツライン川クルーズリューデスハイムハイデルベルク(泊)

ライン川クルーズ

ドイツの父なる川といわれるライン川は、スイスの山中に発し、フランスとドイツの国境を流れ、オランダのロッテルダムで北海に注ぐ全長1320kmの国際河川である。点在する古城とブドウ畑が作りだす風景から、ハイネの詩「ローレライの歌」が生まれた。マインからコブレンツへのライン下りが有名であるが、我々は日程の都合でコブレンツからリューデスハイムへの上りを楽しんだ。


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コブレンツから乗船、生憎の曇天の中を9:00に出港 コブレンツの町

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途中15の町に寄港する 3番目の寄港地はRhens

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13世紀前半に起源をさかのぼるマルクスブルク城 木組みの家が美しい 579は上流のどこかの町からの距離km

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ライン川の左岸と右岸の両方に列車が走る 岸には、城やホテルだけでなく、工場もある。ライン川は生活ラインだ

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ブドウ畑は、水平方向ではなく、
最大傾斜に沿って畝を作るものと分った
川鵜の大群
汚染が話題になる国際河川だが、魚が生息しているようだ

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川岸で船を眺める老夫婦たち 岸辺を眺める観光船の乗客

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幾度も運搬船とすれ違う ライン川クルーズの船ともすれ違う

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船中で楽しい昼食  ポーク、肉団子、ソーセージ、マッシュポテト、ザワークラウトは、結構おいしかった (途中で気がついて撮影!)

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ローレライの対岸にある St.Goar から大勢乗船してきた
 
ブルクカッツ(ねこ城)は、14世紀に
領主カッツエンエーレンボーゲン伯爵によって建てられた

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右岸(我々は上りなので左に見える)にローレライの伝説
で有名な130mの岸壁が聳える
なぜか岸辺の鉄道線路の川側に長い髪の乙女の銅像がある。
 

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古城の名前は○○○ 古城の名前は○○○

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ボートを漕ぐ人たちに出会った 14:30頃になって太陽が顔を出した。

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古城の名前は○○○ 中州に建てられた Bingen の「ネズミの塔」は、中世の税関

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1877年のドイツ統一を記念して建てた女神ゲルマニアの銅像のある「ニューダーヴァルト記念碑」は、25mの石の台座の上の10mの像 下りなら3時間55分のところ、上りなので6時間15分
かかる船旅で、リューデスハイムに到着

リューデスハイム

ライン川上りの終点の1つといわれるリューデスハイムで下船し、「つぐみ横丁」を散策し、バスでハイデルベルクに向かう。


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船を下りて、リューデスハイムの「つぐみ横丁」で土産物を買う バスの車窓から、ブドウ畑を眺めながら、ハイデルベルクへ



4日目
(9月25日)
ハイデルベルク(滞在)

ハイデルベルクは、ライン川の支流、ネッカー川に沿う町で、古城とドイツ最古の大学で有名、なんともノスタルジックな町である。

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ホテルの周りで朝の散歩をしているとビスマルク広場に出た
 
多くのドイツの都市と同様、
ハイデルベルクにも路面電車が走っている
オットー・ビスマルク(1815〜1898)は、普仏戦争に勝利し、ドイツを統一し、ドイツ第二帝国(第一帝国=神聖ローマ帝国、第三帝国=ナチス時代)の宰相となった。今日の社会保険・厚生年金などの社会保障制度は彼が確立した。すなわち、当時社会主義労働運動を鎮圧する一方、労働者の為の制度を実施した。(いわゆる「飴と鞭」の政策) ドイツの街では、ビスマルクの銅像や彼の名前の付いた記念碑を多く見かける。



ハイデルベルク城

ハイデルベルク城は、13世紀からプファルツ伯の居城として拡張が続けられ、ゴシック、ルネッサンス、バロック等さまざまな様式がみられる。しかし三十年戦争などで破壊され、半ば廃墟の姿になっている。それがまた魅力的である。

ハイデルベルク城からネッカー川、旧市街、ハイデルベルク大学などを眺める。ハイデルベルク大学は、
1386年選帝侯ループレヒト1世によって創立されたドイツで最古の大学で、7人のノーベル賞受賞者を出している。

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城の庭園
 

エリザベートの門 1615年にフリードリッヒ5世が
妃のために一夜にして建てた門

ハイデルベルク城の入口
 

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ここは、1779年にゲーテが写生をしたところという

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フリードリッヒ館・祖先の館 オットー・ハインリッヒ館 ギリシヤ神話の神々の彫像がある

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ローマ人の遺跡とニワトコの木 遺跡の井戸

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城の地下にある世界最大級のワイン大樽 1升ビン13万本分という ワイン大樽の傍にいる酒番人の道化師ペルケオの像
 



市街の散策

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ネッカー川にある堰 堰の手前(写真で右)に船が通るための閘門(こうもん)がある。この堰を利用して小型の水力発電が行われており、環境賞を2度も受賞したが、保守が大変で実益にならないという。                 閘門に向かう遊覧船
木が茂っているところは、小説アルト・ハイデルベルクに出てくる王子様が住んでいた家という
 

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ネッカー川にかかるカール・テオドール橋 橋に建つカールテオドールの像.
プファルツ選帝侯時代のカール・テオドールは、文化や学芸の振興に熱心であった。バイエルン継承戦争後、宮廷はミュンヘンに移ったものの、バイエルンの統治には不熱心だった。1799年にミュンヘンで卒中のため死去した際、ミュンヘン市民は数日間それを祝ったという。

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400年前の「騎士の館」は、
今はホテル・レストランになっている
市庁舎前のマルクト広場にあるヘラクレス像
 

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ロバート・シューマンが若いときに住んでいた下宿が残されている



学生牢

1712〜1914年まで使用された学生牢が公開されている。かつては大学は治外法権であったため、学生が町で騒ぎを起こしても警察は介入できなかった。そこで大学当局がこのような牢を作った。投獄中の学生はここから授業に出席したという。

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学生牢の入口
 
部屋の落書には、 "Einer fuer Alle,Alle fuer Einen"
(一人は皆のために、皆は一人のために)と書かれている

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落書と、ベッドや机に100年前の雰囲気が伝わってくる



哲学の道

ハイデルベルク城や大学と、ネッカー川を挟んで対岸に、「哲学の道」がある。ゲーテをはじめ多くの詩人や哲学者が思索にふけりながら散策した道である。京都の琵琶湖疏水沿いの道にも「哲学の道」がある。西田幾多郎が散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われるが、ハイデルベルクの方が本家らしい。

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標識に従って急坂を登って行く

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ネッカー川、カール・テオドール橋、ハイデルベルク城などを俯瞰できる絶好の地である

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栗の木越しに見るハイデルベルク城(生憎城の左端は補修中である)



5日目
(9月26日)
ハイデルベルクシュパイヤートリベルクシェーナハヘキサンロッホティティ湖(滞在)

今日は、ハイデルベルクを出発して、シュパイヤー大聖堂を見学し、「黒い森」の山岳道路に入り、トリベルク、シェーナハ、ヘキサンロッホを経て、ティティ湖に至る。

シュパイヤー

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ハイデルベルクからシュパイヤーへの途中、ジンスハイムの交通技術博物館を車窓から見た。コンコルド、軍用機、機関車などあらゆる乗り物の現物が展示されている。
 
シュパイヤー大聖堂は、当時の皇帝コンラート2世が自身の永眠の場所として建設を命じ、1030年から80年がかりで完成した。4本の塔の高さは東側が71m、西側が66mで、世界最大のロマネスク様式である。

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西側の正面 内部

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地下聖堂への入口 ドイツで最も美しい地下聖堂といわれる

地下聖堂には、4人の神聖ローマ皇帝と4人のドイツ王が眠っている
ドイツ王とは、皇帝に選出されたが、まだ神聖ローマ皇帝として戴冠していない者の称号。



黒い森の山岳道路

かねてから、ドイツの黒い森(シュヴァルツヴァルト)を見たいと思っていた。黒い森は、西はフランス、南はスイスに国境を接する南ドイツにある広大な森(南北160km、東西20〜60km)。植林されたドイツトウヒ(マツ科トウヒ属)やモミ(マツ科モミ属)が遠くからは黒く見えるので名付けられた。最高峰はフェルトベルク山(1493m)だから、山というよりも丘陵森林地帯である。

我々は、原子力研究所があるカールスルーエから山岳道路に入り、保養地として有名なバーデン・バーデンの脇を通り、フロイデンシュタットで山岳道路を抜けた。

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黒い森に入る途中の林 枝打ちがよく行われているのに感心した。
黒い森ではほとんど枝打ちが見られず、樹種が異なるのかもしれない。
黒い森の麓には民家があり、生活圏の一部のように感じられた。
針葉樹林だが日本の里山のような距離感であって、奥山ではない。 

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ところどころに製材所も見られる。現地ガイドに聞くと、ドイツでも林業
の後継者が少なくなり、休暇村などの観光業に転職しているという。
牛の放牧もされている
 

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ムンメル湖で写真ストップ プロテスタントの教会があった 



トリベルク

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トリベルクは、250年の歴史を持つ「カッコウ時計の故郷」。
お土産に手作りのカッコウ時計を買った。店先の仕掛け時計が可愛い。 
写真をクリックすると動画が見られます
 



シェーナハ

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ここには世界最大のカッコウ時計がある。1980年製、製作に2〜3年かかった。高さ3.5m、錘は70kg



ヘキサンロッホ

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珍しい「2連水車」だというが、要するに1本の導水管から2つの別々の水車を回しているだけ。
粉ひきと木工のような異なる作業が同時にできるということだろう。初代は1825年製、現在のものは4代目。



ヒンターツァルテン

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夕暮れのフェルトベルク山(左の塔がある山)は、
黒い森の最高峰1493m 
ここの村では、傾斜地に民家があるので、1階は家畜小屋、
2階は道路に面していて出入り口


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現地ガイドさんが突然案内してくれた伝統的農家。今は5つ星ホテルになっている。

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景色のいい保養地をのんびりと犬と散歩、黒い森には23,000kmのハイキング・サイクリンクコースがあるという。

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ヒンターツァルテンスキー場 ここで行われたワールドカップで
葛西、岡部が優勝したことがあると、現地ガイドが言っていた。
突然、列車の駅が現れた。黒い森では列車は
主にトンネルの中を走っているので、ほとんど見かけない。



6日目
(9月27日)
ティティ湖黒い森を出るボーデン湖・マイナウ島フュッセン(滞在)

今日は、ティティ湖を出発して、「黒い森」を出て、ボーデン湖に浮かぶ花の島「マイナウ島」を訪ね、ノイシュヴァンシュタイン城が望めるフュッセンまで行く。

ティティ湖から黒い森を出る

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朝靄のティティ湖 朝靄のレストランの標識

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湖畔のホテルから丘まで朝の散歩 この辺りがドナウ川の始まりだという(車窓から)

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黒い森が終わる付近で、ドイツでは珍しい活火山
 
飛行船! ボーデン湖畔の町フリードリヒスハーフェンは
ツェッぺリン飛行船発祥の地。現在も工場がある。



太陽光発電パネルを付けた家

黒い森を抜けて、明るい南ドイツを車で走ると、屋根に太陽光発電設備が付いた民家や倉庫を多く見かける。2時間ほど走る間に十数軒もあった。設置の仕方が個性的なので、車窓から写真を撮った。

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最大面積利用型 邪魔物回避型 デザインこだわり型

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隣がやるからやる型 電動工具屋さん頑張る型 運送屋さん頑張る型

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木材屋さん頑張る型 空地活用型 太陽電池節約型


A 太陽光発電は、かつては日本が最強であったが、2004年にドイツに抜かれた。ドイツは、地球温暖化防止対策として石油に代わるエネルギーである太陽光発電の普及のために、家庭等に設置した太陽光発電電力の全量を電力会社が通常の電気代の3倍の価格で買い上げる法律を施行したからである。

日本は、太陽光発電電力を家庭で消費したときの余剰分だけを電気代と同額で買い上げる制度のままであった。しかも今までの発電設備設置に対する補助金制度を、普及期が終わったということで中止した。そのため、ドイツ、スペイン、米国等に追い抜かれてしまったのである。

そこで、我国は、2009年〜2010年には、太陽光発電電力の全量を電力会社が電気代の2倍で買い上げる法律を施行し、補助金制度も復活させて、1位を奪還しようとしている。



花の島−マイナウ島

ドイツ、スイス、オーストリアの国境にあるボーデン湖は琵琶湖の70%の広さ、ライン川が膨らんだような形である。この湖に、ドイツにありながら熱帯植物の島として知られるマイナウ島がある。中世からドイツ騎士団の所有であったが、19世紀半ばにバーデン公フリードリヒ1世(1826−1907年)が購入し、熱帯植物の島とした。

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駐車場からスウェーデン橋を渡ってマイナウ島に入る 島の中央に、フリ−ドリヒ1世の胸像がある

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熱帯植物の代表ブーゲンビリア 糸杉のある地中海式テラスに陣取る学生たち

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9月〜10月はちょうどダリア園が見時、このような多種類のダリアを見たのは初めてである。

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旬が過ぎたバラ園に咲く遅咲きのバラ
 
元ドイツ騎士団が建設したバロックの城と聖マリア教会は
今はホテルになっている

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マイナウ島からをフェリーで対岸のメーアスブルクへ 湖上から眺めるメーアスブルク



フュッセンのホテルへ

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メーアスブルクからフュッセンへ向かう道中のブドウ畑(車窓から) リンゴ畑(車窓から)

      バーバリアアルプスの麓にルートヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城(左上)と
                             彼の父マクシミリアン2世が建てたホエンシュバンガウ城(右下)

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ノイシュヴァンシュタイン城(望遠) ホエンシュバンガウ城(望遠)

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今夜のホテルは正確にはフュッセンではないが、
古城を望む絶好の立地
ホテルの主人は陽気な男
 



7日目
(9月28日)
ノイシュヴァンシュタイン城ヴィースミュンヘン(泊)

今日は、ドイツ観光の人気No.1のノイシュヴァンシュタイン城を訪ね、ヴィース教会を経て、ミュンヘンに着き、まずは大ビヤホール「ホーフブロイハウス」に行く。

ノイシュヴァンシュタイン城

日本人のドイツ旅行で人気トップのノイシュヴァンシュタイン城。Neu(ノイ)」は『新しい』、「Schwan(シュヴァン)」は『白鳥』、「Stein(シュタイン)」は『石』の意味。つまり、「新白鳥城」である。

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馬車でノイシュヴァンシュタイン城へ向う人達
 
ペラート峡谷にかかるマリエン橋から望むノイシュヴァンシュタイン城
残念ながら、ここからは全面に工事中の幕を被って見える

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入場券の指定時刻が9時45分
であったので自動改札口で待つ
入場料は団体割引で8EU(約1100円) 9時45分の入場で、既に421人目らしい
 

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城門 城門をくぐると上部中庭が見える 上部中庭から見る天守閣

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城内は撮影禁止だが、唯一の例外は窓からの景色
ババリアアルプスとアルプ湖が望まれる
ルートヴィヒ2世は、ここから父が建てたホエンシュヴァンガウ城
(画面右端)を見降ろすつもりだったのだろうか。
父マクシミリアン2世が建てたホエンシュヴァンガウ城
 
 
 

ホエンシュヴァンガウ城からノイシュヴァンシュタイン城を見上げる
ノイシュヴァンシュタイン城はどこから見ても美しい

ノイシュヴァンシュタイン城撮影の絶好ポイントは、ババリアアルプスとアルプ湖を
背景に入れる場所だが、ツアーでは行けない。こればかりは購入した写真集によった。



ルートヴィッヒ2世とノイシュヴァンシュタイン城

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ルートヴィヒ2世は、若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれてきた。
(Websiteから)
 
ルートヴィヒ2世は精神に異常をきたし、
シュタルンベルク湖で水死体で発見された。
上の絵は、ミュンヘン郊外のニンフェンブルク城で
見ることができる。

ルートヴィヒ2世(1845 - 1886年)は、父マクシミリアン2世とプロイセン王女のマリーとの間にニンフェンブルク城で生まれた。ルートヴィヒが生まれて3年後、祖父であるルートヴィヒ1世が退位して父が国王として即位し、祖父と同じ名を持つルートヴィヒは王太子となった。父が執務で忙しかったため、彼はその暇な時間をゲルマン神話と騎士伝説などの物語を読む時間にあて、それが彼に大きな影響を与えることになる。

1864年、父マクシミリアン2世が逝去。ルートヴィヒは王として戴冠することになる。彼は早速幼少の頃から憧れであった作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招いた。当時、放蕩がたたって経済的に苦しかったワーグナーにとって願っても無い話であったが、多くの家臣は噂の悪いワーグナーの召喚を快く思わなかった。彼はワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだが、片意地な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に口を出すことを許さなかったという。

1867年、従姉妹に当たるゾフィーとの婚約が発表された。この発表はバイエルンを沸かせ、記念硬貨まで作られ、婚礼用の豪華絢爛たる黄金の馬車までも準備されたが、結婚の日取りは王の希望で先へ先へと延ばされ、半年後に王の側から一方的に婚約が解消される。ルートヴィヒ2世は同性愛者であったといわれる。

ヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。ノイシュヴァンシュタイン城は1869年に建設が開始され、1886年には、なんとか居住できる程度にはできあがった。これ以後、ルートヴィヒ2世はこの城に住むようになるが、その期間はわずかに100日余りで、王はベルク城に軟禁されてしまう。

建設費用は王室費から支出され、バイエルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ねた。バイエルン政府はこれに危機感を募らせ、ルートヴィヒ2世を形ばかりの精神病鑑定にかけ、統治不能としてベルク城に軟禁した。その翌日、王は主治医とシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の死を遂げる。そしてルートヴィヒ2世が亡くなった1886年6月13日の時点でノイシュヴァンシュタイン城の工事は未完成部分を多く残したまま中止され、その直後から城と内部は一般公開された。

ノイシュヴァンシュタイン城の建築には約620万マルクかかったことが記録されているが、物価などを考慮して算出すると現在の250億円ほどに当たるとか。下世話な話だが、今日の入場料が8EU(約1100円)で、年間見学者数は100万人を超すというから、年間入場料収入は11億円以上、建設費(維持費を除く)は23年で元が取れる計算になる。

ノイシュヴァンシュタイン城着工の1869年を世界史の中で見ると、
  1776年  アメリカ独立宣言
  1789年  フランス革命
  1868年  日本明治維新
  1871年  ドイツ帝国成立
となり、王様の趣味で「お伽の城」を作ることが如何に時代錯誤であるかは、明らかである。しかし、山と湖に囲まれた優れた立地条件、見る方向によりいろいろ変わる素晴らしい城の佇まいを持つノイシュヴァンシュタイン城は、異常な王様ルートヴィヒ2世なくしては生まれなかったであろう。
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ルートヴィヒ2世の胸像(1988製)
リヒャルト・ワーグナー
クリスティアン・ヤンクによる城のデザイン(1869年)
建築中のノイシュヴァンシュタイン城(1880年)

ヴィース教会

ノイシュヴァンシュタイン城から北東20kmほどのところにあるヴィース教会は、
ヨーロッパで最も美しいロココ様式の教会といわれている。
のどかな草原の真っただ中に建っている。

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内部はロココの優美さに圧倒される
1738年、近郊の修道院で放置されていた「鞭打たれる姿のキリスト像」が涙を流したという奇跡が起きた。
この像のために建てられたヴィース教会には祭壇に奇跡のキリスト像が安置されている。」



ミュンヘン ホーフブロイハウス

いよいよドイツ南部バイエルン州の州都ミュンヘンに着いた。まずは大ビヤホール「ホーフブロイハウス」に行く。ここは、モーツァルトやレーニンといった歴史的人物も訪れている。1920年にヒトラーがナチス党の結成集会を開いたところでもある。

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夕暮れのホーフブロイハウス 入口の飾り

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中庭の賑わい
 
ホールでは楽団演奏が始まった
写真をクリックすると動画をご覧になれます

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演奏を聴きながら、ソーセージを肴にビールを飲んだ。デザートの菓子もうまかった。



8日目
(9月29日)
ミュンヘン(滞在)

今日は、ミュンヘン滞在日。近郊のニンフェンブルク城を見学し、ドイツ博物館等のミュンヘン市内観光をし、夕方からオクトバー・フェストに出かける。

ニンフェンブルク城

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ヴィッテルスバッハ家の夏の離宮として
17世紀から19世紀半ばまで造営された。
入城する前に集合写真
 

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ロココ様式の大広間。ルートヴィヒ2世誕生の間もある。

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ルートヴィッヒ1世とその妃の肖像と寝室か

ニンフェンブルク城の美人画ギャラリー

ルートヴィヒ1世がヨーゼフ・シュティーラーに描かせた36点の美人画が展示されている。王女から女優、庶民の娘など階層に関係なく、ルートヴィヒ1世の美の理想の女性35人が選ばれている。1人だけ描き直しをさせたため2枚描かれた女性がいる。35人の中にはルートヴィヒ1世を退位に追い込む原因となったといわれるスキャンダルを引き起こした踊り子ローラ・モンテスの肖像もある。(上から3番目、右から3番目) この写真を撮って整理するのは大変だった。何と自分はもの好きなことよ!

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フランス式庭園



ミュンヘン市内観光

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ベンツのショールーム

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BMWの本社・博物館・ヴェルト BMWの工場

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バイエルン解放戦争勝利の戦勝門 ナポレオン戦争の戦勝記念のオベリスク  ミュンヘン会談が行われた建物 

*ミュンヘン会談
ヴェルサイユ条約で不当に奪われた領土と権益の回復を図るナチス党率いるドイツは各国への侵攻作戦の策定を開始した。特にチェコスロバキア西部のズデーテン地方はドイツにとっても重要な目標であった。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民はチェコスロバキア政府に迫害されているとしており、解放を唱えていた。

ミュンヘン会談は、1938年に、チェコスロバキアのズデーテン地方帰属問題を解決するためにミュンヘンにおいて開催された国際会議。イギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席した。ズデーテンのドイツ帰属を主張したヒトラーに対して、イギリスおよびフランス政府は、これ以上の領土要求を行わないとの約束をヒトラーと交わす代償としてヒトラーの要求を全面的に認めることになった。これは、後年になり第二次世界大戦勃発前のナチスドイツへの譲歩とされ、強く批判されることが多い。

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ミュンヘン新市庁舎
 
新市庁舎の36体の人形の仕掛け時計
写真をクリックすると動画をご覧になれます

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ヴィッテルスバッハ王家の宮殿レジデンツ(外観改装中) レジデンツの宝物館を見学



ドイツ博物館

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ミュンヘン旧市街を囲む城壁の西の門
1337年に作られた「イーザル門」
イーザル門を出たイザール川の中州に
ドイツ博物館はある

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博物館の庭にある水車の本物 左フランシス水車、右ペルトン水車 これはプロペラ水車(カプラン水車)

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小型帆船
 
20世紀初頭、フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が
開発した硬式飛行船の模型

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Airbus A300B の胴体断面とエンジン
 
国際宇宙ステーション(ISS)の科学実験施設の1つである
ESA(欧州宇宙機関)が開発したコロンバス
*コロンバス
ESA(欧州宇宙機関)が開発したコロンバスは、国際宇宙ステーション(ISS)の科学実験施設の1つで、アメリカ合衆国フロリダ州ケネディ宇宙センターへ輸送され、2008年2月7日にスペースシャトル・アトランティスで打ち上げられた。コロンバスは10年間運用できるよう設計されている。管制を行うコロンバス管制センターは、ドイツのミュンヘンに近いドイツ航空宇宙センター・ドイツ宇宙運用センターである。

なお、日本の国際宇宙ステーションの科学実験施設の1つである「
きぼう」は、ケネディ宇宙センターから2008年3月11日にスペースシャトル・エンデバーで打ち上げられた。「きぼう」は有人施設として世界最大の大きさ、設計寿命は10年。管制は、筑波宇宙センターにある宇宙ステーション総合推進センターで行われている。

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第2次大戦中ドイツから発射されてロンドンを攻撃した
ロケットミサイルV2号のパネル展示
なぜか日本の凧が---
 
ドイツご自慢のカメラ
Nikon、Canon など日本のカメラも

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身体のX線断層写真を撮影するCTスキャン CTスキャンに使用するX線センサーの実物が展示されていた

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アルタミラ洞窟壁画のレプリカ  野牛の絵が描かれている ドイツで発掘された土器
*アルタミラ洞窟壁画
スペイン北部にある、先史ヨーロッパ時代の区分で主にマドレーヌ期(約18,000年 - 10,000年前)と呼ばれる旧石器時代末期にクロマニョン人によって描かれた野牛などの動物を中心とする壁画である。人類最初の芸術作品ともいわれている。



オクトーバー・フェスト

ミュンヘンといえばオクトバー・フェストだが、その起源は案外新しい。バイエルン王国の王太子ルートヴィヒとテレーゼ・フォン・ザクセンの結婚式が、1810年10月に城壁の前の緑地で行われた際に、大規模な競馬が催された。これを第1回とする。その後、コレラの流行や幾度かの戦争で開催が流れている。開催期間は10月の第1日曜日を最終日とする16日間と決まっている。今年は9月19日- 10月4日。

毎年オクトバーフェストには650万人以上が訪問し、世界で最も大きな祭りとなった。2006年のビール消費量は620万リットル、丸焼きにされた牛は102頭。ソーセージは219,443本。照り焼きにされたチキンは459,279羽だった。

オクトバーフェストでは会場にはおよそ 100,000席が用意され、12,000人が雇用された。そのうち1,600人がウェイトレスおよびウェイターである。
およそ1,000トンのごみが出るが、ごみの山は翌朝の夜明け前に撤去されるという。

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オクトーバーフェストの会場は、
教会隣接の42万m(東京ドーム9個分)
大型観覧車
 

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絶叫マシンが数知れず 絶叫マシンを見上げる観客

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ドイツの若者は絶叫マシンが好きなようだ 上の写真をクリックすると、動画をご覧になれます

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老若男女を問わず、民族衣装で

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いい歳をしたオジサンも楽しそう お嬢さん、ちょっと失礼します! Ich liebe Dich (I love you)

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フェスト会場のビアホールで楽しい一時、私は2リットル飲んだ 帰る頃には上限の月が西の空に傾いていた



10年前の1999年10月、エジプト、ギリシアから始まった小生の世界旅行は、ようやくドイツに辿り着いた。ドイツには、中世の名残りを残す都市や古城が多い一方、近代の科学技術の成果の展示も少なくない。感慨深いドイツ旅行の印象は、 ドイツの旅(2)の最後で述べることにしよう。



ドイツの旅(1)ドイツ西部・南部の旅」は、いかがでしたか。
ドイツの旅(2)は、ドイツ東部の旅」です。
    引き続き、
下の [次へ] をクリックして、ドイツの旅(2)をご覧下さい。


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