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バルト三国とロシア(1)----バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)の旅
   リトアニア(ヴィリニュス、聖ペテロとパウロ教会、大聖堂、ゲディミナス城、カウナス、杉原記念館、十字架の丘)
   ラトヴィア(リーガ大聖堂、リーガ城、ユーゲントシュテール建築群、聖ペテロ教会、中央市場
   エストニア(カドリオルク公園、トームペア城、アレクサンドル・ネフスキー聖堂、大聖堂、聖ニコラス教会、ナルヴァ城)

 「あなたは外国のどこに行きたいですか」といわれると、私は返答に困る。元来私は自然が好きだから、美しい自然、驚異の自然が見られるところが、第1である。歴史と文化を訪ねるのも好きだから、遺跡や古都もいい。一言に歴史といっても近世・近代の場合は自分の体験と直接または間接に繋がっていることに感激するので面白い。今回訪ねた「バルト三国とロシアの旅」は、正にそのような意味で、「感動する歴史と文化の旅」であった。

 第二次大戦中に、カウナス領事館に赴任していた杉原がナチス・ドイツの迫害を逃れて来た難民達に外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、大勢の難民を救ったという話は、何かで読んだことがあったが、それが今度訪ねるバルト三国の1つリトアニアであることは、実はよく覚えていなかった。ソ連から独立するために、数百kmにわたる「人間の鎖」で意志表示したことも、かつてニュースで聞いたことがあったが、それがバルト三国であったことは認識していなかった。

 ロシアは近隣諸国に脅威を与える大国に違いないが、言うまでもなく芸術大国でもある。とりわけ、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館やピョートル大帝の夏の宮殿はロシア旅行では欠かせない。好むと好まざるとにかかわらず、モスクワは、ロシア正教と社会主義のメッカとして私の関心度抜群である。

 ということで、今回も手軽な15日間のツアーに妻と参加した。

バルト三国とロシア(1)は、リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト
   三国の旅
バルト三国とロシア(2)は、サンクトペテルブルク、黄金の環、モスクワ
   のロシアの旅

である。 合せてご覧下さい。
                                  (2013年8月)

              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
 下記にメールでお知らせ願います。
       メール
 現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。原則的には「ヴィ」を用いましたが、
 慣用的には「ビ
も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
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 リトアニアの桜公園にある杉原千畝モニュメント
第二次世界大戦中にリトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原はナチス・ドイツの迫害を逃れて来た難民達(多くはユダヤ系)に外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、およそ6000人にのぼる難民を救った。


バルト三国とロシアの旅行
首都   主要都市


国  名 リトアニア ラトヴィア エストニア
国 旗
首  都 ヴィリニュス リガ タリン
政  治 共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1991年国連加盟
共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1991年国連加盟
共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1991年国連加盟
面  積 6万5200km(日本の17%) 3万4600km(日本の9%) 4万5200km(日本の12%)
人  口 354万人(日本の2.7%)
リトアニア人81%、ロシア人8%、ポーランド人7%、
ベラルーシ人2%
220万人(日本の1.7%)
ラトヴィア人54%、ロシア人33%、ベラルーシ人4%、
ウクライナ人3%、ポーランド人2%
128万人(日本の1.0%)
フィン系エストニア人65%、ロシア人28%、
ウクライナ人3%
言  語 リトアニア語(公用語)、ロシア語 ラトヴィア語(公用語)、ロシア語 エストニア語(公用語)、ロシア語
宗  教 カトリック、ルター派(プロテスタントの一派)、
ロシア正教、プロテスタント、バプティスト(プロテスタントの一派)、イスラム教、ユダヤ教
ルター派(プロテスタントの一派)、カトリック、
ロシア正教
福音ルター派(プロテスタントの一派)、ロシア正教、エストニア正教、バプティスト(プロテスタントの一派)、メソジスト
産  業 肥沃な土壌と気候に恵まれ農牧業も発達し、ライ麦、エンバク、テンサイ、ジャガイモなどが栽培されている。酪農が盛んである。地下資源では泥炭と石膏、それに少量の石油を産する。しかしエネルギーの多くをロシアに依存していたため、独立後の値上げで大きな痛手を受けた。ソ連時代には先端工業地域とされ、機械、造船、金属、家電、食品産業が発達していたが、独立後は西側諸国との競争にさらされ、新しい技術と投資が必要とされている。2004年EUに加盟した。 農業は畜産が主体で、穀物、ジャガイモ、テンサイなども栽培される。林業と漁業もおこなわれる。地下資源では泥炭と石灰石を産するが、石油と天然ガスをロシアに依存していたため、独立後国際価格での取引を要求するロシアとの間で対立が生じた。ソ連時代には先端工業地域とされ、重化学、造船、車輛、電機、電子産業が発達した。だが原材料の調達先と製品の市場はソ連邦であったため、独立後は経済体制の転換とともに、EU諸国からの投資と販売ルートの開拓が進められている。2004年EUに加盟した。 農業は酪農と園芸が中心で、木材と木材製品も重要な輸出品である。ほかにバルト海での漁業も盛んで、魚類加工業が発達している。地下資源として、オイルシェールや泥炭が産出され、エネルギー需要の半分程度を自給する。残りをロシアに依存していたが、独立により国際価格を要求され打撃を受けた。北海からパイプラインで天然ガスを輸入する計画がある。ソ連時代は重工業地区とされたため、電機、電子、機械、石油化学などが発達しているが、西欧諸国との競争にさらされている。2004年EUに加盟した。
1人当
GNI
1万1410米ドル/年 日本の30%(2009年) 1万2390米ドル/年 日本の33%(2009年) 1万4060米ドル/年 日本の37%(2009年)

バルト三国とロシア(1) は、バルト三国です

バルト三国の宿泊地・主な訪問地のGPS地図
GPSによる軌跡(日毎に色を変えてある)  ①②などは宿泊地  は移動順  ・・・は国境


1日目
(6月11日)
 成田空港モスクワ空港リトアニア・ヴィリニュス空港ヴィリニュスのホテル(泊)

成田空港

成田からモスクワへの飛行時間は約10時間だが時差が5時間あるので、時計の歩みはたった5時間であるが、実は長い一日である。

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成田空港発12:00のアエロフロート・ロシア航空のA330-300機で、
モスクワに向かう
機内の航路表示
 

モスクワ空港経由でヴィリニュス空港へ

モスクワ空港で、トランジットの荷物検査を受けて、乗継便でリトアニアのヴィリニュス空港へ。モスクワでの接続時間約4時間半。リトアニア時間22:30にヴィリニュス空港に着き、メディアン・ヴィリニュス・ホテルへ。バルト三国とモスクワとの時差は1時間。

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        モスクワ空港上空
モスクワ・シェレメチェヴォ空港は、郊外にあり森と畑と住宅が混在 
モスクワ空港で夜食の機内食を積み込む
 
  
モスクワ発21:45のアエロフロート・ロシア航空A320機で、リトアニアのヴィリニュス空港へ
 



2日目
(6月12日)
 ヴィリニュスのホテルヴィリニュストゥラカイヴィリニュスのホテル(泊)

いよいよバルト三国の旅が始まった。今日は最初の国リトアニアの首都ヴィリニュスとヴィリニュスに移る前にリトアニアの首都であったトゥラカイを訪ねる。

ホテル風景

リトアニアの首都ヴィリニュスのホテル「メディアン・ヴィリニュス」は、郊外の自然に恵まれたホテル

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ホテル付属のゴルフコースがある

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コウホネ ムラサキツユクサの仲間 ワスレナグサ

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薄いピンクのバラ キンロバイ ベニスモモ


杉原モニュメント

ヴィリニュスで最初に訪ねたのが、杉原千畝桜公園の杉原モニュメント。ネリス川沿いの公園に早稲田大学より寄贈された「杉原モニュメント」と日本から贈られた桜がある。

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杉原千畝については、翌日訪ねた杉原記念館の欄で詳述する



聖ペテロとパウロ教会

1668年から7年間かけて造られたヴィリニュスを代表するバロック様式の教会

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   2000以上の漆喰彫刻がある
中央に吊られたのはノアの箱舟を象徴したシャンデリア
主祭壇にある
「ペテロとパウロが出会う」という絵
 
アフリカ生まれの聖アウグスティヌス
 
 



夜明の門

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かつて9つあった城門は、今はこの「夜明の門」だけになった
 
「夜明の門」を入って振り返ると、2階の礼拝所が見える。
左側の階段から登ることができる。

礼拝所にある聖母のイコンは、奇跡を起こす力があると信じられている。熱心な信者が祈りを捧げていた。邪魔にならないように撮影する。



大聖堂

元々この場所には雷神を祀る神殿があったが、13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためキリスト教を受けいてたミンダウガス王によって最初の教会が建てられた。その後、王は暗殺され、この場所は自然崇拝の聖地に戻された。1387年にヨガイラ公によってキリスト教化され、教会が建て直された。現在のネオクラシック様式の建築は18世紀の大改築によるものである。

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ネオクラシック様式の大聖堂と高さ53mの鐘楼

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地面に設けられた人間の鎖の始点の記念プレート
 
旧ソ連からの独立運動の一環として行われた人間の鎖は、200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600km以上の人間の鎖を形成した。当時の新聞写真?

人間の鎖は、1989年8月23日に、旧ソ連の統治下にあったバルト三国で、独立運動の一環として行われたデモ活動。バルトの道ともいう。約200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600km以上の人間の鎖を形成した。このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。
旧ソ連ではゴルバチョフ政権のもとでペレストロイカが進められ、街頭デモが急増し、市民の支持も集めていた。これまでも三国のそれぞれの首都で、少数の人が抗議行動を行ったが、直ちに警察により解散させられた。「人間の鎖」は地元の共産党当局によって認可され、鎖が切れないよう、周到に計画された。例えば、各都市や町には担当の場所が割り当てられ、他の交通手段を持たない参加者には無料バスを提供するよう指示された。参加者は、現地時間午後7時から15分間手をつないだ。この集会を調整するため、特別のラジオ放送も行われたという。                        
Wikipediaを改変



ゲディミナス城

昔ゲディミナス大公が狩りに出かけここに野営したとき、夢の中で啓示を受けてこの丘に城を築いたというヴィリニュス創設の伝説がある。城の大部分は19世紀初めにロシアによって破壊されたが、現在再建中。

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比高約50mの丘の上に、リトアニア国旗が掲げられたゲディミナス塔がある

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丘の上からの展望は素晴らしい。 (左)新市街、(右)旧市街



聖アンナ教会と大統領官邸

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16世紀後半に建てられたレンガ造りのゴシック様式の聖アンナ教会 リトアニア大統領官邸



ヴィリニュス大学

1579年に開校した名門校。帝政ロシア時代は抵抗運動の本拠地となったため、88年間閉鎖させれたこともあった。今は2万人が学ぶ総合大学。現地ガイドのアンドリウスさんは、この大学で日本語を学んだという。

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大学の紋章
ヴィリニュス大学校舎の一部 ここでは1575年創立となっている



昼食にキビナイ

首都ヴィリニュスから西へ30kmほどいったトラカイの町の名物料理のキビナイを、昼食に食べる。

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キビナイを食べさせるレストラン
 
キビナイは餃子のような形のパイ。 香ばしい皮の中にはミンチにした肉が入っている。スープと一緒に頂く。



トゥラカイ城

トゥラカイは、ヴィリニュスに移る前にリトアニアの首都であった。トゥラカイ城は、14世紀後半にチュートン騎士団の侵略を防ぐために建設されたが、その後廃墟になっていた。1987年に15世紀当時の姿に復元された。

湖の中の島にあるトゥラカイ城は、自然環境にもマッチしていて美しい

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中庭を取り巻くレンガ造りの建物を見て回る 内部は博物館になっている



植生・農業・環境

旅行中はバスの窓から外を眺める時間が多い。自然の景観、農耕の様子、自然エネルギーへの取り組みなど、いろいろなことが分る。バルト三国はロシア西部と共に「ケッペンの気候区分」の中の亜寒帯湿潤気候の1つDfbに属している。

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アカマツ シラカバ オウシュウトウヒ

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ジャガイモ畑 農耕機械はほとんど見かけなかった ライムギ

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自然の起伏を利用した太陽電池パネル
 
北緯56度と緯度が高いので、太陽パネルは高傾斜角に設置されている。緯度に等しい傾斜角にするのが効率的だとされている。

世界の気候区分
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ケッペンの気候区分(Köppen-Geiger Klassifikation)とはドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペン(Wladimir Peter Köppen)が、植生分布に注目して1923年に考案した気候区分である。全世界のうちのヨーロッパの部分を左に示す。

気温と降水量の2変数から単純な計算で気候区分を次の5つの気候帯に分けている。
 熱帯(A)乾燥帯(B)温帯(C)亜寒帯(D)寒帯(E)

さらに気候帯はそれぞれ、いくつかの気候区に分類される。
例えば亜寒帯(D)はさらに5つの気候区に分けられる
 亜寒帯湿潤気候亜寒帯冬季少雨気候高地地中海性
 気候
湿潤大陸性気候亜寒帯気候

例えばこのうち亜寒帯湿潤気候はさらに4つに分けられる。その中の1つが、左の凡例において Dfbで示されたもので、定義は次のようになっている。
 最暖月が10℃以上22℃未満かつ月平均気温10℃以上の
 日が4か月以上


Dfbに属する地域には、今回旅行したバルト三国、ロシアのサンクトペテルブルグ、モスクワなどが含まれる。日本では、ほぼ北海道全土が含まれる。

車窓から眺める植生が、北海道に似ているのも道理である。

                        Wikipediaを参考に作成した

 



3日目
(6月13日)
 ヴィリニュスのホテルカウナスシャウレイリトアニア・ラトヴィア国境リ-ガのホテル(泊)

カウナス

リトアニア第2の都市カナウスは15世紀にハンザ同盟の代表部が設けられた古い町である。第1次大戦から第2次大戦にかけて22年間、ポーランドに占領されたヴィリニュスに代わってリトアニアの首都となった。、

杉原記念館

昨日リトアニア着いて最初に訪ねたのが、首都ヴィリニュスにある杉原千畝モニュメントであった。今日訪ねているのがカウナスの元リトアニア領事館で、今は杉原記念館となっているところである。

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かつて、杉原千畝が約6,000名に対してビザを発給し続けたリトアニア領事館は、今は杉原記念館となっている。 領事館の門と階段の間にビザの発給を待つ人達が並んでいるのが領事室から見えたという。

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杉原領事代理の写真
(元領事室に展示)
杉原領事代理が発給したビザのコピー
(元領事室に展示)

杉原千畝の物語
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝明治33年(1900年)-昭和61年(1986年))は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民(多くはユダヤ系)の窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。

避難民にとって、ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになり、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されていなかった。難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。

リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストックに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した外務省は、一度杉原領事が発行したビザを無効にするよう厳命した。しかし人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、敦賀港や舞鶴港へ続々上陸。その内のユダヤ系難民たちは、関西ユダヤ教団及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」があった神戸などに辿り着く。

難民たちが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年(昭和19年)に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼり、またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカ合衆国への渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。

第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)、興安丸で博多湾に到着した。

1969年(昭和44年)、イスラエルの宗教大臣となっていたバルハフティクと杉原はエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。2000年(平成12年)、外務大臣河野洋平の顕彰演説によって、日本政府による公式の名誉回復がなされた。それは、千畝の没後14年目のことであった。
                                                           
Wikipedia等を参考にした



ヴィエニーベス広場

ヴィエニーベス広場には、沢山の記念碑がある。参道にはリトアニアの重要人物 10人の胸像が並ぶ。

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中央は、リトアニアの独立のために犠牲になった英雄たちの記念碑
最初の独立時に建てられ、ソ連の占領により撤去された後、1989年に再建された。
記念碑の両側の奥には、民族色の強い十字架が建てられているのが興味深い。



カウナス城と聖ゲオルギ教会

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                    カウナス城
13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために造られた。騎士団との戦いに勝利した後、城としての重要性を失い、賓客の接待などに使われた。
               聖ゲオルギ教会
16世紀ゴシック様式の教会で、ソ連時代には倉庫に転用され、破壊を免れた。



旧市庁舎とベリクーナスの家

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美しいバロック様式の旧市庁舎。1542年に最初の基石が置かれ、18世紀半ばに現在の姿になった。政治犯の牢獄、皇帝の別邸としても使われたが、現在は結婚登記所になっている。                    ベリクーナスの家
15世紀に建てられたゴシック様式の傑作。言い伝えによると、この場所には雷神ベルクーナスを祀る神殿があったという。
 



聖ペテロとパウロ大聖堂

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赤レンガの美しい15世紀の大聖堂 内部は、壁いっぱいに描かれたフレスコ画と彫刻で飾られている

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キリストと同じ状態では恐れ多いと、ペテロは自ら逆さに磔刑にされたという 斬首されるパウロのフレスコ画?
 


シャウレイの十字架の丘

十字架の丘の最初の十字架は、1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑にされた人々のために建てられたらしい。ソ連時代にはこの丘は禁城とされ、KGBと軍はブルトーザーを使って何回も十字架をなぎ倒した。しかしその都度、十字架を立て直したという。1993年には、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世も訪問した。

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道路の下のトンネルを抜けて500mほど進むと、丘の上に大小無数の十字架が立ち並ぶ。

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近年、十字架建立がますます盛んとなり、遠くアメリカやオーストラリアなどからも、
移民の人々が、かの地から運んできた十字架を残していくという



国境を越えて、リトアニアからラトヴィアへ

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リトアニアとラトヴィアの国境をなんなく通過
 
 
待っている間にリトアニアのガソリン価格を見る。オクタン価95がリッター4.57リタス(約170円)で、価格的には日本と大差ない。
公務員の給与が2,000リタス(76,000円)、65歳の年金が1,000リタス(38,000円)のリトアニア人にとっては、ガソリンは非常に高価といえる。



4日目
(6月14日)
 リ-ガのホテルリーガ大聖堂リーガ城ユーゲントシュティール建築群市庁舎前広場
                    →聖ペテロ教会中央市場
フォークロアショーリ-ガのホテル(泊)

ホテル周辺

早朝ホテルの周辺を散歩した。交通の便のいいところにあるが、廃家も見られ、経済的な厳しさも窺えた。

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リーガで宿泊したマリティム・パーク・ホテル トラムは6路線あり、1回乗車が0.50ラッツ(約90円)

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ホテルの周りには古い洒落た建物もあるが、落書きのある廃家もある



リーガ大聖堂

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1211年に建設がはじめられたリーガ大聖堂は、
現存するバルト三国最古の建築の1つ
リーガ大聖堂前の広場に嵌められた世界遺産のプレート
 



三人兄弟

         リーガに中世からある住居で、兄弟のように3棟並んでいることから三人兄弟と呼ばれる建物
それぞれ別の時代に建てられたもので、建築様式の古い順に右から「長兄」、「次兄」、「弟」と並んでいる。「長兄」は リーガに現存する最も古い民家(15世紀)。黄色い建物の「次兄」の時代は、窓税がなくなったため「兄」に比べて窓の大きい見栄えのする造りである(17世紀)。その後「弟」の時代になると、今度は「間口税」が課せられたため、間口の狭い窮屈な造りになっている。



リーガ城

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1297年から1330年にかけてリヴォニア騎士団とリーガ市民の間に衝突があり、負けた市民側が最初の城を造らせられた。その後、ポーランド、スウェーデン、帝政ロシアと、それぞれの支配者が住む所となった。 漆喰の剥がれたところを見ると、内部はレンガ造りであることが分る
 
 
今は歴史博物館になっている
 
 
 



ユーゲントシュティール建築群

リーガのアルベルタ通りを中心にユーゲントシュティール建築群を見ることが出来る。ユーゲントシュティール(Jugendstil)とは、19世紀から20世紀にかけて流行した新建築様式運動で、フランスのアール・ヌーボ(Art Nouveau)のドイツ語。建ち並ぶ奇抜な建物は、リーガの建築責任者だったミハエル・エイゼンシュテインの設計によるという。

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ロシアの大使館 最上部を飾るデフォルメされた人面が目立つ建物.

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曲線的な窓と人面が面白い

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最も完成度が高い-最上部は建物を守護する2匹のライオンと3つのメドゥーサの頭で飾られている

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珍しい青レンガが使われている

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赤タイル付きの柵のようなファサードが印象的 動物・植物・喜怒哀楽を表す人面など、無数の彫刻が見られる

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ユーゲントシュテール博物館 ペークシューンス家が実際に住んでいた部屋を再現

アルベルータ通りにある優美な螺旋階段



市庁舎前広場

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再建された市庁舎
 
 
 
広場の中央に建つ再建されたリーガの守護聖人・聖ローランドの像
 
リーガ創設800年を記念して2000年に再建されたブラクヘッド・ギルドの会館 時計の下に4つのハンザ都市、リーガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメンの紋章が浮き彫りにされ、ギリシア神話の神々が置かれている。 



聖ペテロ教会

聖ペテロ教会は13世紀に最初の教会が建てられ、18世紀にはほぼ現在の姿になった。塔は第2次世界大戦後に改修されたもの。この塔はこれまでに何度も火災に遭って倒れ、建て直された。その都度塔のてっぺんで建築責任者がワインを飲み干し、グラスを下に投げ落とす習慣が続けられてきた。グラスが粉々に割れれば塔は安泰であるという。

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123mの塔のある聖ペテロ教会 教会の内部 教会内に展示された第2次世界大戦のときの戦火

エレベータで登った72mの塔の展望台からのパノラマ写真



猫の家とスウェーデン門

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                     猫の家と屋根を飾る猫
かつてこの家に裕福なラトヴィア商人が住んでいて、ギルドに入りたいと思った。しかし、十分な資格を持っていたにもかかわらず、ラトヴィア人ということでドイツ人が支配的なギルドへの加入を拒否された。怒った彼はギルドの会館に尻を向けた猫を屋根に付けた。今はギルド会館はコンサートホールに変わり、猫は音楽に誘われて向きを変えたという。
 道の突き当たりにあるのがスウェーデン門
リーガに残る唯一の城門。1人の娘がスウェーデン兵と恋に落ち、城門に埋め込められたという悲しい伝説があるという。
 



中央市場

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ツェッペリン飛行船の格納庫を転用したという中央市場の建物 雑貨屋

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魚屋 肉屋

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屋外テントの八百屋 無農薬野菜を売るで店に集まる人々



夕食後のフォークロアショー

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夕食のレストランで、フォークロア(伝承芸能)ショーを見る 音楽に合わせて地元の人が踊る。実は私も一緒に踊らされた。

上の画像をクリックすると動画をご覧になれます



5日目
(6月15日)
 リーガのホテルラトヴィア・エストニア国境カドリオルク公園エストニアのホテル(泊)

ラトヴィアからエストニアへ

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簡単な手続きで済む国境 エストニアの国旗



歌の原

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           5年に1度のエストニア最大の祭り、”歌と踊りの祭典”が行われる「歌の原」
1988年9月11日、エストニア各地から30万(民族人口の約3分の1)以上の人々がここに集い、独立への思いを歌にした。「歌いながらの革命」といわれたバルト三国の独立運動が大きな一歩を進めた瞬間だったという。今日は特別の催が行われていて、入場できなかった。



カドリオルク公園

大北方戦争(1700-1721年)で、バルト地域を手に入れたロシアのピョートル大帝が妃エテカリーナのために離宮と公園を造らせたのがここ。離宮の建設が開始されたのが1718年で、イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿である。

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現在は美術館となっている離宮 離宮の庭園

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ガドリオルク公園 若いカップルの結婚式が行われていた

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公園の芝生で憩う家族 これは北海道を代表するライラックの花に似ているが葉が違うようだ



スーパーマーケット

ホテルの近くのスーパーマーケットを覗いてみた

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果物・野菜は国産の他、イタリアなどからの輸入品も多いようだ

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日本食ブームと見えて、どこでも寿司を売っていた レストランのメニューでもポークが一般的である



エストニアのホテル

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ラディソン・ブルー・ホテル 日本人ツアー客の泊まるホテルは、清潔ないいホテルだ。ここで夕日を観察した。



日の入りの観察

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バルト三国に来て、日の入りの遅いのに驚いた。夏至に近い時期だとはいうものの、午後10時を過ぎても太陽が出ているし、11時頃まで明るい。エストニアのタリンのホテルの緯度は、北緯59度26分だから、オスロー、ヘルシンキ、サンクトペテルブルグ、アンカレッジなどとほぼ同緯度だ。

タリンのホテルから夕陽がよく見えたので、1枚撮ったのが左の一番上の写真である。もうすぐ沈むだろうと思っていたが、なかなか沈まない。観察すると、太陽は下方に沈まず、右(北)の方に移動している。これではなかなか沈まないわけだ。

ついに太陽を追いかけて写真を撮る羽目になった。こういうことなら、最初から三脚を据え、ズームを使わず、一定の焦点距離で同一視野で撮影すればよかった。結果として、いろいろな視野で撮ってしまった写真を、シルエットで写り込まれたビルや聖オレフ教会を基準にして画像サイズを調整し、まとめたのが、左の一連の写真である。



6日目
(6月16日)
 タリンのホテルトームペア城アレクサンドル・ネフスキー聖堂大聖堂と展望台
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「猫の井戸」から旧市庁舎聖ニコラス教会エストニア・タリン(泊)

今日は一日エストニアのタリンの町を観光する

トームペア城

トームペア城は、かつてエストニア人の砦があった場所に、13世紀前半に建てられた騎士団の城である。支配者が替わるたびに補強改築された。当時の権力者エカテリーナⅡ世が知事官邸として使うための改築を命じたので、城というよりも宮殿に近いものになった。現在は国会議事堂になっている。

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正面から見ると城というよりも宮殿に近い エストニア国旗を掲げた塔に城の面影が残る



アレクサンドル・ネフスキー聖堂

1901年に支配者の帝政ロシアによって建てられたロシア正教の教会。エストニアの議事堂のすぐ前に建つのも国民にとって気持ちのいいものではないかもしれない。

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プロテスタントの多いエストニアで威圧するように建つロシア正教の教会 5つの葱坊主が見える場所はここしかないという

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ファザードの上部の破風 ファザードの下部の破風



大聖堂と展望台

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大聖堂(トームキリク) 大聖堂に近いこの展望台から旧市街の向うにバルト海が見える。塔は聖オレフ教会

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展望台から眺める
エストニアの首相官邸
首相官邸の裏に掲げられた記念碑「シベリア抑留者の名簿」
現地ガイドが案内してくれたところにエストニア人の気持ちを察することができる。



「猫の井戸」から旧市庁舎

旧市街にある「猫の井戸」という公共の井戸
中世には井戸に悪霊がいると信じられ、その霊が出てこないよう生贄として猫を投げ入れる習慣があったという。

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タリンの町の中心にある旧市庁舎 北ヨーロッパに残る唯一のゴシック様式の市庁舎は1404年の改築 65mの塔のてっぺんにあるトーマスおじさん 市庁舎を守る2匹のドラゴン
 
聖画が外壁を飾るが、教会ではなく市庁舎

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  市議会薬局の看板に使われている蛇は、医学のシンボル
ギリシア神話の名医アスクレピオスが持っていた蛇の巻きついた杖に由来する。世界保健機関のマークにも使われている。
                  市議会薬局
現役の薬局ではヨーロッパでもっとも古いもののひとつ。1422年の記録がある。



聖ニコラス教会

聖ニコラス教会は船乗りの守護聖人ニコラスに捧げられ、13世紀前半にドイツ商人の居住区の中心に建てられた教会。1944年のソ連の空襲で破壊され、内装は残っていないが、美術品は避難されたらしい。

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旧市街にあって樹木に囲まれた聖ニコラス教会 主祭壇が見える教会内部

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15世紀のリューベックのヘルメン・ローデによる主祭壇 15世紀にベルトン・ナトケによって描かれた「死のダンス」



昼食はセリャンカ

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PEPPERSACKという地下レストランで、ウクライナ料理セリャンカ(香辛料を多用した味の濃いスープ)の昼食

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パン セリャンカ(スープ)、ミートローフ、デザートとコーヒー ハニービール

昼食の後、観光機関車「トーマス君」に乗って雨の中を市街巡り



7日目
(6月17日)
 タリンのホテルナルヴァ城エストニア・ロシア国境ロシアのサンクトペテルブルグ(泊)

エストニアの郊外の車窓から

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エストニアの火力発電所 風力発電所

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菜の花畑(西洋アブラナからのキャノーラ油を採るのだろう) 牛の放牧にもお目にかかった



ナルヴァ城

エストニアのロシア国境に接するところにナルヴァという町がある。国内きっての工業地帯で、埋蔵量の豊富なオイルシェールが経済を支えてるが、そのために移住してきたロシア語系の労働者が90%を占め、国を不安にする要因になっているという。

ナルヴァは13世紀にデンマーク人によって建設され、タリンを凌ぐ貿易港となった。しかし第二次世界大戦時のソ連の爆撃で焦土となった。城内は歴史資料館になっている。

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国境のナルヴァ川に接してナルヴァ城がある ナルヴァ城から、対岸のロシアのイワンゴロド城が展望できる

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ナルヴァ城の中庭で民芸品を売っていた フイゴを吹く鍛冶屋さん ガラス・セラミック屋さん



国境を越えてロシアに入る

バルト三国の最後の訪問国エストニアから陸路でロシアに入り、最初の都市がサンクトペテルブルグである。これほど征服者と被征服者、強者と弱者のコントラストの厳しい国境は他にないだろう。ともあれ明日は、待望のエルミタージュ美術館を訪ねる予定である。(バルト三国とロシア(2)

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パスポートを見せるだけでエストニア側の国境を通過
 
 
ロシア側国境も意外にスムーズで2時間ほどで通過
国境での写真撮影は控える、上は通関後のショップか
 
ロシアのガソリンはオクタン価95で32.49ルーブル(約100円)

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国境から2時間ほどでサンクトペテルブルグに入る。久しぶりの渋滞 路面電車も走っている

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露土戦争におけるトルコに対する戦勝を記念するための凱旋門 凱旋門のすぐ近くのホテル・ホリデイイン! ここに3泊した。
露土戦争(1877年-1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ。
一方、ナポレオン戦争勝利を記念した凱旋門は、宮殿広場のエルミタージュ美術館の向かいにある。



バルト三国とロシア(1)は、バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)の旅でした。いかがでしたか。
バルト三国とロシア(2)は、ロシアのサンクトペテルブルグ、黄金の環、モスクワを訪ねます。

引き続き、
下の [次へ] をクリックして、バルト三国とロシア(2)をご覧下さい。


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