バルト三国とロシア(2)----ロシア(サンクトペテルブルク、黄金の環、モスクワ)の旅 サンクトペテルブルク(ニコライ聖堂、血の教会、エルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿、夏の宮殿) 黄金の環(スズダリ、ボゴリューボヴォ、ウラジーミル、ロストフ・ヴェリーキー) モスクワ(赤の広場、クレムリン、ノヴォデヴィチ修道院、トレチャコフ美術館、主の昇天教会) |
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エルミタージュ美術館 1764年にエカテリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。エルミタージュ美術館の起源はエカテリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般に公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。かつてのロマノフ王朝の首都サンクトペテルブルグの最大の見どころとなっている。 |
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バルト三国とロシアの旅行 | ロシアの概要 | |||||||||||||||||||||||||
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●首都、 ●主要都市 |
ロシア史・略年表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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バルト三国とロシア(2) は、ロシア編です |
ロシア(サンクトペテルブルク)の宿泊地・主な訪問地のGPS地図 |
色線はGPSによる軌跡(日毎に色を変えてある) ⑩⑪などは宿泊地 ↑は移動順 |
8日目 (6月18日) |
サンクトペテルブルクのホテル→エルミタージュ美術館→血の上の救世主教会→イサク聖堂 →青銅の騎士像→ニコライ聖堂→マリインスキーⅡ劇場でバレー鑑賞→サンクトペテルブルク(泊) |
かつての帝政ロシアの首都、サンクトペテルブルクは、ヨーロッパで最も美しい町の1つに数えられている。この場所がほんの300年前まで、何もない一面の沼沢地であったとは信じられない。サンクトペテルブルクの創建は1703年、ピョートル大帝がロシア近代化の要としてバルト海に開かれた港と要塞を築いたことに始まる。沼沢地での建設は困難を極めた。このために使役された捕虜のスウェーデン兵や農奴の4万人以上が病気や飢えのために命を落としたという。それでも建設は進み、自分たちの守護聖人に因んで、新しい町をドイツ風にサンクトペテルブルク(聖ペテロの町)と名付けた。 ロマノフ王朝の栄華と終焉、革命の理想と挫折、ナチス・ドイツによる包囲線の悲劇、その短い歴史の中でもサンクトペテルブルクは多くのことを経験してきた。サンクトペテルブルク、ペトログラード、レニングラード、そして再びサンクトペテルブルクと移り変わった町の名にもそれが表れている。現在のサンクトペテルブルクは、開放的でヨーロッパ的、そして芸術の町である。保守的でロシア的、政治経済の町モスクワとは対照的である。 「地球の歩き方」より引用 |
エルミタージュ美術館 |
ロシア語の正式名称はГосударственный Эрмитаж(国立エルミタージュ)。「エルミタージュ」とはフランス語でHermitage、「隠れ家」という意味である。世界屈指の大美術館で、コレクション数は270万点。1つの作品を1分間で見ても、全ての作品を見るには昼夜休みなしで5年余り掛るという。 1764年にエカテリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。エルミタージュ美術館の起源はエテカリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室(文字通りHermitage)であり、一般に公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。1918年には冬宮に存在したすべての研究、管理組織を建物ともどもエルミタージュ美術館として統合することが決定され、この統合作業は第二次大戦後に完了したという。 |
宮殿広場 (左)エルミタージュ美術館 (中央)アレクサンドルの円柱 (右)凱旋アーチと旧参謀本部 |
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外装改修中のエルミタージュ美術館の一部 建物は巨大であるが、これは正面中央付近 |
アレクサンドルの円柱 ナポレオン戦争の勝利者 アレクサンドルⅠ世の像 |
凱旋アーチと旧参謀本部 凱旋アーチはナポレオン戦争勝利を記念したもの |
いよいよエルミタージュ美術館に入る。館内はノーフラッシュなら撮影が可能。ただし、ダ・ヴィンチなどの超貴重作品はガラスケース入りだし、ガラスのない一般作品も絵具油が反射するので、撮影に苦労した。昼食をはさんで僅か5時間の鑑賞では、文字通り駆け足だったが、期待の名画に巡り会えて幸せだった。 |
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古代ギリシア・ローマ文化の部屋 |
大理石のジュピター像 |
コリヴァンの飾り鉢(1850年制作) 重さ19トン、160頭の荷馬車でシベリアから運ばれた |
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レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖母ブノワ」1478年 | レオナルド・ダ・ヴィンチ「リッタの聖母」1490-1491年 |
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ティツィアーノ「ダナエ」1546-1553年 | ティツィアーノ「懺悔するマグダラのマリア」1560年代 |
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ラファエロの廊下・フレスコ画の複製 | ラファエロの廊下・天井 |
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ラファエロの廊下・天井画の拡大. | ラファエロの廊下・天井画の拡大. |
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ラファエロ「コネスタビレの聖母」1504年 | ラファエロ「聖家族」1506年 | ミケランジェロ「うずくまる少年」1475-1564年 |
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小イタリア天窓の間 |
孔雀石の花瓶 |
カナレット「ヴェネチアにおけるフランス大使のレセプション」1740年代 |
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スペイン天窓の間・中央にあるのは床置燭台1805年 | ゴア「女優アントニアの肖像 | ヴェラスケス「朝食」1617年頃 |
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エル・グレコ「使徒ペテロとパウロ」1587-1592年 | ルーベンス「地の神と水の神の同盟」1612-1615年 | ルーベンス「ペルセウスとアンドロメダ」1620年代初頭 |
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ルノアール「女優ジャンヌ・サマリーの肖像」1878年 | ルノワール「扇子を持つ女」1881年 |
ルノワール「黒い服を着た女」1876年 |
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セザンヌ「煙草を吸う男」1889年 | セザンヌ「カーテンのある静物」1890年 |
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セザンヌ「トロネの道とサント・ヴィクトワール山」1896−98年頃 | セザンヌ「静物」1879-1882年 |
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ルソー「ルクセンブルグ公園ショパンの銅像」 | ゴッホ「アルルの円形闘技場」 |
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ゴッホ「アルルの女」 | ゴッホ「あばら屋根」1890年 |
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ゴーギャン「奇跡の泉(夢想)」1894年 | ゴーギャン「果物を持つ女」1893年 |
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ゴーギャン「タヒチの牧歌」1892年 | ゴーギャン「?」1893年 |
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マチス「?」1906年 | マチス「皿と果物」1901年 |
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マチス「ダンス」1910年 | マチス「音楽」1910年 |
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マチス「赤い部屋」1908年 | マチス「?」1909年 |
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レンブラント「放蕩息子の帰還」1660年代 | レンブラント「紅い服を着た老人」 | レンブラント「聖家族」1659年 |
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レンブラント「フローラ」1634年 | レンブラント「ダナエ」1636年 |
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モロノソフ「エリザベータ女帝」 |
時計「孔雀座」イギリス18世紀後半 上の画像をクリックして動画をご覧下さい |
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正面階段 | 将軍の廊下 | 将軍の廊下の寄木の床 |
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大玉座の間(ゲオルギーの間) | 大玉座 |
美術館を出ると、宮殿広場の観光馬車が待っていて、しばし夢の世界から覚めなかった |
血の上の救世主教会 |
血の上の救世主教会は、1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された地に建っている。典型的な専制君主だった父ニコライ1世の跡を継ぎ、クリミヤ戦争敗北後の困難な舵取りを任されたアレクサンドル2世は、ロシアの後進性を克服するべく様々な改革に着手する。特に1861年の農奴解放令はよく知られているが、皇帝が望むような成果は上げられないまま、1881年3月に革命を目標とする急進派組織によって暗殺された。 新たに即位した息子のアレクサンドル3世は、父の死を惜しみ、殺された場所の上に教会を建てさせた。起工から25年を要した高さ85m、最新の技術を駆使した純ロシア風の教会は1907年に完成した。ソ連時代は粗末に扱われ、一時期は倉庫として使われたが、長い修復期間を経て現在は美しい姿が蘇っている。 |
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外装のモザイクには、宗教画の他にロシアの144の町が描かれているという | 内部の豪華なモザイクの美しさは世界一といわれる |
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キリストの誕生 | キューポラのモザイク画 (左)13歳のキリスト (右)復活するキリストか |
イサク聖堂 |
イサク聖堂は帝政ロシアのシンボルとして、1858年に建設された世界でも最も大きい教会建築の1つである。イサク聖堂の名前は1710年に初代の木造教会がピョートル大帝により建てられたが、大帝の誕生日である5月30日が聖イサクの日であったことに由来する。その後、1717年に2代目が、1790年に3代目が建てられ、現在の建物は4代目である。 現在の聖堂の建設は1819年に始まり、完成までに実に40年の歳月が費やされた。完成までに3人の皇帝が関わったことになる。サンクトペテルブルクの軟弱な地盤にこれだけ巨大な建造物を建てることは並大抵の苦労ではない。元々あった3代目の教会の下にあった杭に加えてさらに1万本以上の杭を打ち込み、その上に花崗岩や石灰岩を敷きつめている。この土台作りに5年が費やされた。 聖堂は、従来のロシア・ビザンチン建築様式を基本に新古典主義様式によるファザードで建設されている。内部は一見するとカトリック教会のような印象を受けるが、もちろんロシア正教である。 |
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外観修復中のイサク聖堂 高さ102m、ドームの直径26m、四方に全部で48本の円柱が建つ。 |
内部はモザイク壁画が飾られ、装飾には大理石や孔雀石がふんだんに使われ、豪華そのもの |
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聖堂内に展示された模型 | 48本の円柱を建てる際に使用した装置の模型 |
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主祭壇を飾るステンドグラス「キリストの復活」 | 中央ドームを見上げると、中心に平和のシンボルの白鳩が飾られている |
青銅の騎士像とニコライ聖堂 |
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デカブリスト広場に建つ青銅の騎士像 1782年にエカテリーナ2世からピョートル大帝に贈られたもの |
1762年に建てられたニコライ青銅 日露戦争中の海戦での犠牲者の冥福を祈る場所ともなっている |
マリインスキーⅡ劇場でバレー鑑賞 |
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マリインスキー劇場は1783年に創設されたロシアを代表するオペラ・バレー劇場 右奥に少し見えるのがマリインスキー劇場の新劇場「マリインスキーⅡ」 |
今年5月2日に竣工したばかりのマリインスキーⅡ (運河を挟んで右手)でバレーを鑑賞した |
マリインスキーⅡの内部 |
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バレー「白雪姫」のカーテンコールの一場面 |
9日目 (6月19日) |
サンクトペテルブルクのホテル→エカテリーナ宮殿→夏の宮殿→水中翼船クルーズ →旧貴族の館で夕食→サンクトペテルブルク(泊) |
エカテリーナ宮殿 |
サンクトペテルブルクから南に25km、「皇帝の村」を意味するツアールスコエ・セローは皇族の夏の住まいとして使用されてきた。ここの目玉は、エテカリーナ宮殿である。最初の宮殿は1724年、ピョートル大帝の妃エカテリーナ1世のために建設された。その後改築されて現在の形となった。この宮殿は、1791年に大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁した所として、日本人に知られている。宮殿の庭園は、自然を生かした親しみやすいエカテリーナ公園となっている。 |
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宮殿の囲い外に詩人プーシキンの像があった | エカテリーナ宮殿の中央部分 ここでも建物外観の改修中であった |
宮殿を改築した建築家ラストレッリの像が宮殿入口にあった |
大広間 (1798年6月に大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、帰国の許可を得たのがこの広間である) |
大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年(1828年))は、江戸時代後期の伊勢国の港を拠点とした回船の船頭。天明2年(1782年)、江戸へ向かう回船が嵐のため7か月余り漂流の後、日付変更線を超えてアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。先住民や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。 その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年イルクーツクに至る。道中、カムチャツカでジャン・レセップス (フランス人探検家。スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、女帝エカチェリーナ2世に拝謁して帰国を願い出、漂流から約10年後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。 Wikipediaなどによる |
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エカテリーナ宮殿内の階段の燭台を飾る伊万里焼 | 小食堂の間・勲章の飾りのあるテーブル. |
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大食堂の間・オランダタイルの暖炉 | 緑色の食堂 |
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エカテリーナの部屋か | 天井絵のある部屋 |
最近修復された琥珀の間は撮影禁止のため、Websiteから引用 |
琥珀の間の歴史は、18世紀初頭のプロイセンで作られた数枚の琥珀細工のパネルから始まる。1716年にプロイセンを訪ねたピョートル大帝はこのパネルを譲られた。しかしロシアではパネルの組み立て方が分らず放置されていた。これに初めて手を付けたのが女帝エリザベータであった。1755年に現在のエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」に移された。 しかしエカテリーナ宮殿の間取りは大きいため、改築が必要だった。これに取り組んだのが美術愛好家として知られるエカテリーナ2世である。彼女の指揮のもとで、1770年に現在の姿で「琥珀の間」は完成した。しかし、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍に占領され、1944年に彼らが撤退するときにそっくり分解して持ち出され、行方不明になった。ロシアでは1980年代から亡くなった「琥珀の間」の再現に取り組み、2003年のサンクトペテルブルク建都300周年に優雅な姿を再現させた。 Wikipediaなどによる |
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エカテリーナ宮殿の庭園(エカテリーナ公園) | 公園にあるグロット(隠れ家) |
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大池に映えるトルコ風浴場 | 水差しを持つ少女の像 | エカテリーナ公園は自然が生かされており、心が和む |
夏の宮殿 |
サンクトペテルブルクの南西30kmにあるペテルゴーフは、大国となったロシアに相応しい宮殿をというピョートル大帝の野心から生まれた「夏の宮殿」である。フランス式の「上の庭園」、噴水群が見事な「下の公園」、その間に建つ大宮殿からなる。見学した「下の公園」は、大宮殿前のテラスを利用した階段に光り輝く金箔の銅像が立ち並び、64の噴水が運河へと流れ落ちる全長1kmに及ぶ公園である。 |
大宮殿の前から眺める「下の公園」 はるか彼方にバルト海(フィンランド湾)が見える |
「下の公園」の噴水「大滝」の向うに見えるのが大宮殿 この噴水は全くポンプを使わず、高いところから水を引いているという。 |
運河から「大滝」と大宮殿を振り返る |
運河の先はバルト海(フィンランド湾) |
水中翼船クルーズ |
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「夏の宮殿」からフィンランド湾に突き出している 船着き場から水中翼船に乗船する |
フィンランド湾には結構大きな客船が航行している。 北欧とロシアを結ぶのだろう。 |
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1時間ほどのクルージングでサンクトペテルブルクに着く。 見慣れたエルミタージュ美術館の裏側(海側)に着く |
エルミタージュ美術館の裏側に上陸する |
旧貴族の館で夕食 |
ニコライ宮殿はニコライ1世が三男のために建てた宮殿で、1861年に完成した。ソ連時代には中央図書館、労働組合などが入居していた。今はコンサートホール、貴族の館ディナーなどに使われている。 |
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ニコライ宮殿は、建築当時の最先端を行っていた見事な建築様式 | 表階段Парадная лестницаは見事 |
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ピアノの演奏を聴きながら、ディナーを頂く |
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裏にニコライ宮殿の由来が書かれた特別メニュー |
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シャンパン | 赤ワイン | レッドキャビアとクレープ | ビーフストロガノフ | デザートとコーヒー |
10日目 (6月20日) |
サンクトペテルブルグのホテル→サンクトペテルブルグ空港→モスクワ空港 →トロイツェ・セルギエフ修道院→スーズダリ(泊) |
10日目~13日目は、黄金の環(Золото́е кольцо́ )と呼ばれるモスクワ北東近郊にある都市群を訪ねる。これらの都市は、ロシア正教会における精神文化、芸術、建築などにおける源流が形成された地域として重要視されている。15世紀末にイワン雷帝が各地を征服し中央集権体制を構築するまで、それぞれロシア諸公国の首都として栄華を誇った都市である。都市自体が野外建築博物館ともいえる。12世紀から18世紀におけるロシアの都市に特徴的なクレムリン(城塞)、修道院、大聖堂、教会を擁する。葱坊主のロシア正教の教会を仏教建築に置き換えれば、丁度奈良や京都のような落ち着いた佇まいの都市である。 |
ロシア(黄金の環、モスクワ)の宿泊地・主な訪問地のGPS地図 |
色線はGPSによる軌跡(日毎に色を変えてある) ⑩⑪などは宿泊地 ↑は移動順 |
モスクワから黄金の環へ |
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モスクワを出ると、道路は悪く渋滞している | 路肩は舗装されておらず、トラックが横転している |
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トロイツェ・セルギエフ修道院のクレムリン(城塞)の中にあるレストランで昼食 | 何故かこんなところにレーニンの肖像 |
トロイツェ・セルギエフ修道院 |
トロイツェ・セルギエフ修道院(または至聖三者聖セルギイ大修道院)は、1345年ロストフ出身の修道士である聖セルギイによって創設された。聖セルギイがマコヴェッツ丘に至聖三者(三位一体)を記念して建立した木造教会が起源とされる。1355年セルギイは修道院の施設として食堂、台所、製パン所などを増築させた。修道院に施設の建築を義務づけた特許状は、以後、セルギイの多くの弟子たちの規範となり、これらの弟子たちはこの特許状に従って400以上の修道院を建設した。 1608年から1610年にかけてポーランド・リトアニア共和国によって行われた16ヶ月に及ぶトローイッツェ・セールギエフ大修道院の包囲戦にも耐え抜いた。こうしてトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ロシアにとって愛国心や不撓不屈の精神力の代名詞とも言うべき存在になっていった。歴代皇帝は、戦いの前後に修道院に赴き、聖セルギイのイコンを手に戦場へと馳せるようになった。 発展を続けた大修道院であったが、ロシア革命が起こり宗教弾圧政策をとる中、大修道院も壊滅的打撃を受けた。修道院は1920年から1945年までの間、閉鎖され、多くの文化財が散逸した。ソ連崩壊後、大修道院は本格的に復興。1993年には建造物群が世界遺産に登録されている。 Wikipediaより |
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グスナヤ門をくぐると別世界である | 門の上に描かれた聖画 |
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聖人たちは創造主と和解できるので、 野生の動物たちを恐れず、動物たちも危害を加えない |
セルギイは弟子のダニイルのために玄関を建てた |
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トロイツキー聖堂(至聖三者聖堂) トロイツキーとはプロテスタントでいう三位一体のことである |
トロイツキー聖堂の内部 典型的なロシア正教の聖堂 |
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トロイツェ・セルギエフ修道院は、来年聖セルギイの生誕700年を迎えるので、大修復の真っ最中である | 修道院で頂いたパンフレットには、修道院のウスペンスキー大聖堂、天蓋付きの水汲み場、泉の上の小聖堂の写真が掲載されていた |
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今回特別にスモレンスカヤ教会の内部を見せて頂いた |
聖セルギイを記念して建てられたトラペザ聖堂 木陰で工事の人が休んでいた |
スーズダリへ |
中世の雰囲気を残したロシアの田舎町を見たかったら、スーズダリに勝る場所はない。スーズダリが最初に歴史に登場するのは1024年、農民の蜂起があった。その後、ロストフ・スーズダリ公国の首都となり、12世紀には一時的にウラジミール・スーズダリ公国の首都にもなった。15世紀にモスクワ公国の一部となってから宗教の一大中心地となり、17世紀から18世紀にかけて多くの教会が建設された。今に残る町並みは、この頃からほとんど変化していないという。 「地球の歩き方」より |
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驟雨の後、虹が出た | スーズダリのホテルに着いたときは青空が出て来た |
沢山の教会が散在するスーズダリの街中を散歩する |
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まるで京都の寺のように軒が重なるほど、近接して教会がある。しかも個性的であり、旅の疲れが癒される。 |
11日目 (6月21日) |
スーズダリのホテル→木造建築博物館→クレムリン→ウラジミール →ポクロヴァ・ナ・ネルリ教会→スーズダリ(泊) |
スーズダリ |
古都スーズダリには見どころが多い。 |
木造建築博物館 |
スーズダリのクレムリンのカーメン川に架かる小橋を渡ったところに木造建築博物館がある。スーズダリ近隣から移築された木造教会、木造風車などが展示されている。木造2階建の民家には農民の生活が分るように展示されていた。 |
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木造の教会 | 木造の風車 |
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ホィール付きの井戸(19世紀) ホィールの中の人が歩くことでホィールが回転し、水を汲み上げる |
ナナカマドの木とナナカマド酒 近くの萬屋のようなミニスーパーで購入した。甘味と渋みがあって、なかなかなもの |
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木造の農民の家で民族楽器を聴かせてくれた |
木造建築博物館の塀越しに教会が見えた (左)ラジジェストヴェンスキー聖堂 (右)主教館の鐘楼 |
クレムリン |
スーズダリのクレムリン(城塞)の中を訪ねる |
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現代生活に不便な城壁は、道路を通すために断ち切られている |
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消防署の火の見櫓も、スーズダリではカッコいい! | ラジジェストヴェンスキー聖堂 |
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スパソ・エフフィーミエフ修道院 |
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ちょうど11時に、1人で10個余りの鐘を鳴らしてベルコンサート | 遅れて来たウラジミール州知事(女性)のためにもう一度鐘を演奏 |
ロシア家庭料理の昼食 |
ユーリヤさんという「画家の家」で、ロシアの家庭料理を頂いた。正直、ロシアで食べた料理の中で、一番美味かった。 |
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スーズダリではキウリが名物、うまい! | ピロシキ | スリャンカ | ロールキャベツ |
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沢山の絵に囲まれながら昼食 | サモワールの湯で紅茶のお代り | 庭のリンゴの実は、まだ硬かった |
サモワール(самовар)は、ロシアやその他のスラブ諸国、イラン、トルコなどで湯を沸かすために伝統的に使用されてきた金属製の容器。沸かした湯は通常紅茶をいれるのに利用される。ロシア文学によると、農家のお婆さんはサモワールなしでは暮らせないようだ。 |
ウラジーミル |
モスクワの北東約170kmのところにあるウラジーミルは、「黄金の環」を代表する歴史の町である。ウラジーミルの歴史は、1108年キエフ・ルーシ王朝のウラジーミル・モノマフ公が要塞を築いたことに始まる。彼の孫の時代にはウラジーミル・スーズダリ公国の首都となった。キエフの勢いが衰えると、1169年以降ルーシ王朝の首都となった。この頃がウラジーミルの最盛期で、今に残る石灰岩の建築群が盛んに建設された。 しかし、1238年にモンゴル軍によって町は破壊され、それ以降はロシアの支配権はモスクワへ移っていった。 |
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黄金の門 キエフの黄金の門を模して12世紀に造られた城門。門の両側にある土塁は、かつて町を取り囲んでいた城壁の名残。 |
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ウスペンスキー大聖堂 城門も聖堂も白い石灰岩でできている | ドミトリエフスキー聖堂 |
ポクロヴァ・ナ・ネルリ教会 (白鳥教会) |
人里離れた河岸の草原の中にあるこの教会は、その優雅さから、「白鳥」「白衣の花嫁」に例えられる。この教会は1165年、バガリュープスキー公によって、戦争勝利と命を落とした息子を記念して建てられた。春先はネルリ川の洪水によって湖上に浮かぶ教会になるという。 |
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シベリア鉄道を越える階段とエレベータがある | モスクワ方面 | ウラジオストク方面 |
跨線橋の上から見えるのは、バガリュープスキー公の宮殿と修道院 |
シバリア鉄道の線路を越えて、草原の中を1㎞ほど歩く。目指すはポクロヴァ・ナ・ネルリ教会 |
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黒衣の聖職者が草刈りをしていた | ネルリ川に映えるポクロヴァ・ナ・ネルリ教会 |
現地ガイドによると、この草原には200種類の植物が生育しているという。その中の10種の花をお見せしよう。 |
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セイヨウヤマゼリ | セイヨウノコギリソウ | 和名なし | シロツメクサ | アカツメクサ |
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ナデシコの仲間 | ウマノアシガタ | ? | グンナイフウロ | クサフジ |
12日目 (6月22日) |
スーズダリのホテル→ロストフ・ヴェリーキー→モスクワ(泊) |
ロストフ・ヴェリーキーへの道で |
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車窓から・・・ダーチャ(別荘)だろうか、農家だろうか | 栽培しているのは、ネギとジャガイモ |
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トイレ休憩のレストラン・・・ロシアでは寿司の広告をよく見かける | 車窓から見えるスズーダリの教会群に別れを惜しむ |
ロストフ・ヴェリーキー |
モスクワから190km離れた、「偉大なロストフ」という意味のロストフ・ヴェリーキーには、黄金の環の中で最も見事なクレムリンが残っている。ロストフ・ヴェリーキーはロシアでも最も古い町の1つで、863年の記録に登場するという。12世紀のユーリー・ドルゴルーキー公の時代にロストフ・スーズダリ公国の首都となり栄えた。その後、モンゴル軍の侵入などで荒廃したが、17世紀には府主教イオンが今残るクレムリンを建設し、宗教の中心地として復興した。 |
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ロストフ・ヴェリーキーのクレムリンの入口 | ウスペンスキー(聖母被昇天)聖堂 |
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ウスペンスキー聖堂に入る | ウスペンスキー聖堂の内部 |
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ウスペンスキー聖堂の隣にある鐘楼 | ヴァスクレセーニエ教会は、城壁の上にある |
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ヴァスクレセーニエ教会の内部 | 上の画像をクリックして、暗闇の中の聖歌をお聴きください |
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城壁の上の回廊を歩くと、クレムリンの中の聖堂や教会がよく見える |
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王のプライベートな教会も見学、フレスコ画が素晴らしかった |
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最後に、城壁から階段を降りて、下界の人となった |
ロストフ・ヴェリーキーからモスクワへ |
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車窓から見える数多くの聖堂・教会 (右端はモスクワ市内のもので、電飾が写って邪魔になっている) |
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路線バスの停留所 | モスクワ市に入ると火力発電所が目立つ |
モスクワでは火力発電所を分散配置して、廃熱の蒸気を配管で配り住宅の暖房をしているという。暖房費は70m2で900ルーブル(約2,700円)と安い。もっとも公務員の月収が10,000ルーブル(約30,000円)であることを考えると、必ずしも安いとはいえない。 |
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車窓から見えたドストエフスキーの銅像 | 銅像は国立図書館の隣にあった |
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ロビー | ミニキッチン |
ベッドルーム |
13日目 (6月23日) |
モスクワのホテル→トレチャコフ美術館→ノヴォデヴィチ修道院→ノヴォデヴィチ修道院の墓地 →コローメンスコエ→モスクワ(泊) |
トレチャコフ美術館 |
トレチャコフ美術館はロシアの古美術および18世紀以降の会がを専門に収集した美術館。創設者は、モスクワの豪商だったパーヴェル・トレチャコフ。最初から公共美術館の設立を企図していたトレチャコフは、1893年にコレクションをモスクワ市に寄贈した上、入場無料で開館し、自ら館長に就任した。トレチャコフの死後も収集は続けられ、革命後は国立美術館となり、10万点を越えるコレクションとなっている。 |
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トレチャコフ美術館(本館) | 美術館の創設者トレチャコフの銅像 |
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ボロヴィコフスキー 「ロプヒナの肖像」1797年 |
ヴィクトル・ヴァスネツォフ 「灰色狼に乗ったイワン王子」1889年 |
ヴァスネツォフ 「豪傑たち」1898年 |
スリコフ「モロゾヴァ婦人」1887年 |
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レービン 「クールスク県の十字架行進」1881-1883年 |
レーピン 「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン」1885年 |
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レービン 「トルストイの肖像」1887年 |
レーピン 「作曲家ムソルグスキーの肖像」1881年 |
クラムスコイ 「忘れ得ぬ人々」1883年 |
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クラムスコイ「荒野のキリスト」1872年 | クラムスコイ「荒野のキリスト・部分」1872年. |
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ペーロフ 「トロイカ・親方の弟子が水を運ぶ」1866年 |
ペーロフ 「作家ドストエフスキーの肖像」1872年 |
.プーキレフ 「不釣り合いな結婚」1862年 |
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イコンを展示する部屋 |
ルブリョフによるイコン『至聖三者』 当初はセルギエフ修道院のトロイツキー聖堂(至聖三者聖堂)にあった |
木版・テンペラ「大パナギアの聖母」13世紀初頭 |
ノヴォデヴィチ修道院 |
1524年に建てられたノヴォデヴィチ修道院と、その近くに展示されているソ連版スペースシャトルのお話 |
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湖越しに見るノヴォデヴィチ修道院 チャイコフスキーが、この湖の周囲を散策しながら、バレー曲「白鳥の湖」の構想を練ったという逸話が残っている。 |
ゴーリキ公園にソ連版スペースシャトルが・・・ 思いがけず、モスクワ川の向こうのゴーリキ公園に展示されているのがバスから見えた。 |
ソ連版スペースシャトルは、ソ連が開発したブラン(オービタ、往還機)で、1988年に無人で打ち上げられ地球を2周して帰還した。1991年のソ連崩壊と共に、初飛行1回限りで計画は消滅した。一方アメリカのスペースシャトルは1981年から2011年にかけて135回打ち上げたが、現在は終了している。 ブラン・オービタは、スペースシャトルといくつかの点で異なっている。①ボービタ自体はエンジンを持たず大型ロケット・エネルギアにより軌道まで運んでもらう、②そのためオービタは軽量になり積載量を多くできるほか、スペースシャトルよりも安全に大気圏再突入が出来る、といわれている。ゴーリキ公園に展示されているのは6機の試験機のうち、各種の振動試験などに供されたものである。 |
ノヴォデヴィチ墓地 |
ノヴォデヴィチ修道院には無数の墓地があるが、「ノヴォデヴィチ墓地」は、修道院の外にあり、有名人が眠っている。 |
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エリツィン元大統領の墓 ロシアの国旗を象ったもので、新生ロシア連邦の生みの親に相応しい。 Ельцин と刻まれている。 |
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ゴルバチョフの墓は夫人のみ? 冷戦を終結させ、ノーベル平和賞を受賞し、西側では絶大な人気であるが、ロシア国内ではソ連を崩壊させたと評価は厳しい。 |
フルシチョフとニーナ夫人の墓 フルシチョフはソ連共産党第一書記兼首相になると、スターリン批判によってその恐怖政治を世界に暴露した。アメリカと友好的な関係を築くことで、冷戦下の世界に一時的な「雪どけ」をもたらした。失脚後は年金生活に入り、回想録を書いた。 |
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ツボレフの墓 ロシアの飛行機設計者で航空機メーカー「ツポレフ社」の創業者である。 |
航空機の実験で亡くなった飛行チーム6人の墓 |
ブレジネフの母の墓(天国ではショールいらないよ) ブレジネフは、フルシチョフ失脚後の最高指導者、権力維持を図りながら心臓発作で亡くなった。後任はゴルバチョフ |
コローメンスコエ |
モスクワの南、モスクワ川沿いに345へクタールにわたって広がる自然保護公園。 14~17世紀の教会や木造建築が建ち、川に向かって緩やかな斜面になっている。コローメンスコエの名前が歴史に登場するのは14世紀初め。16世紀からは歴代の皇帝、イワン雷帝、ピョートル大帝などが、別荘を建てて住んだところである。 |
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入口のスパスキエ門 |
前門(宮殿門) |
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(左)1532年築のヴォズネセーニエ教会(主の昇天教会) (右)鐘楼 | モスクワ川に向かって傾斜する芝生には家族連れの姿も |
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ナラの森(oak-tree grove) oakは落葉性のナラ(楢)と常緑性のカシ(樫)の総称であるが、ここでは落葉性のナラ。 表示板によると、「モスクワで最も古いナラの森で、400年~600年経っている。cedar、モミ、クルミなどが植えられている」 |
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ピョートル1世の家 北ロシアのセントマーク島で彼が住んでいた家 | 若きピョートル1世(身長2.13m) | 物作り名人の彼が作った錨だろうか。 |
コローメンスコエから帰りのバスの車窓 |
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モスクワ大学本部 科学者ミハイル・ロモノーソフの建言によって、1755年に創設された。2003年現在、モスクワ大学は21の学部で構成される。3万1,000名以上の学部学生と約7,000名の大学院生が教育を受けている。学部と研究機関は4,000名の教授、講師陣を擁している。1953年に完成された現在の超高層の建物(高さ236m)は、いわゆる「スターリン様式」の代表作である。ほとんどの学部はモスクワ南東の雀が丘にある。 |
人類初の宇宙飛行士ガガーリンのモニュメント 1961年、ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させた。帰還後に語ったとされる「地球は青かった」が有名である。足元に見える球体は、地球に還ってくるのに使ったカプセルのモニュメント。ガガーリン広場に建つ像は総ステンレス製 |
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元KGB本部の建物 ソ連国家保安委員会、略称:КГБ(日本語略称KGB)、 1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソ連の情報機関・秘密警察。東西冷戦時代にはアメリカ・中央情報局(CIA)と争う組織といわれていたが、ソ連崩壊と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行した。 |
「赤の広場」の隣にあるマネージ広場 右は中央展示ホール。ナポレオン戦争の勝利を記念して建設されたもので、かつてはマネージ(調馬場)として使われていた。今日ここから赤の広場に入る予定だったが、卒業式の催が行われており、入場は明日に変更。 |
カール・マルクス像 著書「共産党宣言」の言葉「万国の労働者よ団結せよ」がドイツ語でなくロシア語で”Пролетарии всех стран, соединяйтесь!”と刻まれている。残念ながら見学時間がなかったので、http://www.4travel.jpより引用 |
カール・マルクス(1818年 - 1883年)は、プロイセン王国(現ドイツ)出身の哲学者、思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。彼の思想はマルクス主義(科学的社会主義)と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に大きな影響を与えた。 フリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。資本主義社会の研究をライフワークとし、それは主著『資本論』で結実した。 1847年1月には国際秘密結社「共産主義者同盟」を結成する。同組織の綱領として1848年に『共産党宣言』を著した。1866年には『資本論』第1巻を著し、唯物史観と剰余価値理論をまとめた。死後、エンゲルスがマルクスの遺稿を編纂して『資本論』第2巻と第3巻を出版した。 マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソ連が誕生した。そして1991年に社会主義国の盟主ソ連が崩壊した。 Wikipediaなどを参考にした |
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車窓から見るロシア最高会議ビル 現在ロシア連邦政府庁舎で、ソ連時代には、ロシア共和国人民代議員大会と最高会議が入っていたため、ロシア最高会議ビルとして知られた。ホワイトハウスとも呼ばれる。 |
戦車の上のエリツィン 1991年、国家非常事態委員会に対抗したエリツィンらが立て籠もり、ゴルバチョフの救出を要求し、自ら戦車の上で演説し、市民に対して国家非常事態委員会に反対し、ゼネストを呼掛けた。 Wikipediaより |
14日目 (6月24日) |
モスクワのホテル→赤の広場→クレムリン→グム百貨店→モスクワ空港→機中泊 |
赤の広場 |
クレムリンの正面、ワシリー寺院やグム百貨店に囲まれた広場は、ソ連時代には5月1日のメーデーと11月7日の革命記念日に必ずパレードが行われた場所で「赤の広場」と呼ばれている。しかし「赤の広場」は社会主義と関係がなく、「美しい広場」という意味だという。この広場はロマノフ王朝の時代から「赤の広場」と呼ばれていた。 |
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マネージ広場から見た国立歴史博物館 博物館の左にあるヴァスクレセンスキー門から赤の広場に入る |
国立歴史博物館前のジューコフ元帥の銅像 第二次世界大戦期にソ連で最も活躍した軍人の1人 |
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赤の広場に入ってヴァスクレセンスキー門を振り返る 赤の広場からマネージ広場への出口には、かつてこの門があった。ソ連時代には赤の広場での軍事パレードの邪魔という理由で撤去されていたが、ソ連崩壊後、復活した。 |
ヴァスクレセンスキー門の前にあるモスクワの道路の基点 |
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上の画像をクリックして、パノラマ写真をご覧下さい。 さらに、画像上の をクリックすると拡大されますので、スクロールしてご覧下さい。ブラウザのでお戻り下さい。 |
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レーニン廟 1924年にレーニンが死去した際、全国から弔問に訪れる市民に応えるため、木造の遺体安置所が短期間(約3日間)で建設された。1930年により恒常的な施設として、現在の石造の廟が建設された。 |
スターリンの墓 1953年にスターリンが死去すると、その遺体もレーニン廟に安置されたが、1961年の「第二次スターリン批判」にともなって撤去され、レーニン廟の外の左奥に埋葬された。 |
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ポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院) 赤の広場で、ヴァスクレセンスキー門の反対側に建つ。対モンゴルの戦勝を記念して、イワン雷帝によって1560年に建てられた。合わせて9つのドームが付いている。 |
ミーニンとポジャルスキーの像 ワシリー寺院の前に建つこの像は、1612年にモスクワをポーランド軍から解放したミーニンとポジャルスキーである。1812年に造られた青銅像である。 |
クレムリン |
クレムリンとは城塞を意味するロシア語で、ロシアの多くの都市にある。その中でも最大かつ有名なのが、モスクワのクレムリンである。1156年にユーリー・ドルゴルスキー公によって木造の城塞が建設され、16世紀には現在の姿に発展した。ロシア正教の総本山として多くの聖堂が建てられる一方、ロシアの政治、軍事の中心として繁栄した。首都としての地位はピョートル大帝によるサンクトペテルブルク遷都によって失われたが、革命後はソ連政府が置かれ、首都に帰り咲いた。ソ連崩壊後もクレムリンにはロシア連邦大統領府が置かれ、現在はプーチン大統領が君臨している。 |
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クレムリンのダイヤモンド庫を見学するための行列 | ボロビツカヤ塔から入門し、写真の右にあるダイヤモンド庫に入る |
ダイヤモンド庫に展示されたダイヤモンドの1つ 王笏(杖みたい)の先端についているのが、オルロフがエカテリーナ2世に贈った「オルロフ」の名で知られるダイヤモンドである。 ダイヤモンド庫は撮影禁止 上の写真はWebsiteから |
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一旦クレムリンを出て、トロイツカヤ塔から再度入場する | 兵器庫(見学する武器庫とは別のもの) |
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ロシア大統領官邸 ソ連時代にはレーニンも執務していた |
ロシア大統領府 帝政ロシア時代は元老院 ソ連時代にはレーニンも執務していた |
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大砲の皇帝 1586年に鋳造されたブロンズ製の大砲、口径89cm、重さ40トン、当時世界最大の口径。今まで発砲されたことがない。大砲の前の弾丸は飾りで重さ1トン |
イワン大帝の鐘楼 イタリアの建築家が1505~1508年に本体を建て、1532~1543年に鐘楼(高さ81m)を加えて完成した。イワン雷帝の頃、モスクワではこれよりも高い建物はご法度。 |
(左)ブラゴヴェシチェンスキー聖堂 (中央)グラノヴィータヤ宮殿 (右)ウスペンスキー大聖堂 |
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アルハンゲルスキー聖堂 | クレムリンの中から南側のモスクワ川側を望む. |
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武器庫という名の歴史博物館である 武器庫は撮影禁止のため、左右の写真はWebsiteによる |
インペリアル・イースター・エッグのいくつかが展示されていた |
インペリアル・イースター・エッグ(英語:Imperial Easter Egg)は、ファベルジェ家により作られた宝石の装飾が施されたイースター・エッグのうち、ロマノフ朝のロシア皇帝アレクサンドル3世、ニコライ2世のために作られた大きなエッグのこと。アレクサンドル3世、ニコライ2世が、皇后や母后であるマリアとアレクサンドラのために、金細工師のピーター・カール・ファベルジェに依頼して作らせた。それらは美しく精緻な美術工芸品である。1885年から1917年の間に58個作られたとされているが数については異説もある。現在、その所在が確認されているのは44個である。オークションに出品すると10億円の値打ちが出るものもある。モスクワ・クレムリン宮殿の武器庫では、その一部を見ることができる。 |
グム百貨店 |
赤の広場のレーニン廟の真向かいに建つグム百貨店。1921年にレーニンの命により開設された国立の百貨店である。 |
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赤の広場側から見る | 内部には吹き抜けのアーケードがある |
アーケードの交差するところには、噴水があり、人だかりが絶えない。 |
モスクワ空港 |
モスクワの赤の広場とクレムリンの見学を最後に、モスクワ・シェレメチェヴ空港に向かい、成田への帰国の途に着いた。 |
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モスクワ・シェレメチェヴ空港をアエロフロート航空のSU260便 A330-300機で、現地時間の20:00に出発 |
15日目 (6月25日) |
機中泊→成田空港 |
機中泊の後、翌日の10:30に成田空港に到着し、15日間のバルト三国とロシアの旅は終了した。 |
大国に翻弄された小国の悲劇に負けない強かさを持つバルト三国、帝政ロシアから社会主義のソ連へ、そして再び東方正教を容認するロシア連邦へと目まぐるしく変貌したロシア、この2つの組み合わせは、なかなか興味深い旅であった。 特に芸術の都サンクトペテルブルクと政治・歴史の都モスクワは、「感性と知性に訴える旅」であった。 最後に、旅行のお世話をして下さったユーラシア旅行社の篠原猛さんには心より感謝申し上げます。 |
バルト三国とロシア(2)は、ロシアのサンクトペテルブルグ、黄金の環、モスクワの旅でした。いかがでしたか。 バルト三国とロシア(1)は、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)の旅です。まだご覧になっていなければ、 ここをクリックして、バルト三国とロシア(1)をご覧下さい。 |
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