オーストリア(1)----アイゼンシュタット、グラーツ、ハイリゲンブルート、インスブルックの旅 アイゼンシュタット(ハイドン縁の地)、ゼメリング鉄道、グラーツ、クラーゲンフルト、ハイリゲンブルート(オーストリア 最高峰を眺める)、パステルツェ氷河、ツェル・アム・ゼー、マイアーホーヘン、SL列車でアッシャウへ、インスブルック |
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ハイリゲンブルート村の景観 オーストリア最高峰グロースグロックナー(3798m)を背に建つヴィンツェンツ教会 |
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オ-ストリアの旅 | オーストリアの概要 | |||||||||||||||||||||||||
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●首都 |
オーストリアの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図 |
赤線はGPSによる軌跡 は移動順 青字は宿泊なしの訪問地 ・・・は国境 ①②などは宿泊地 成田~⑤はオーストリア(1)、 ⑤~成田はオーストリア(2) |
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BC 800頃 | ハルシュタット文明(~BC 400頃) | ||
以下AD | |||
100頃 | ローマの軍営地ヴィンドボナ建設(ウィーンの起源) | ||
774 | ザルツブルク大聖堂創設 | ||
1077 | ホーエンザルツブルク城塞建設開始 | ||
1282 | ハプスブルク王朝の始まり(同家によるオーストリア支配始まる) | ||
1359 | ゴシック様式のウィーンのシュテファン寺院建設開始 | ||
1365 | ウィーン大学創設 | ||
1438 | アルブレヒト5世(バイエルン公)、皇帝に即位しアルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)となる。ハプスブルク皇帝時代の始まり | ||
1493 | マクシミリアン1世神聖ローマ皇帝に即位 | ||
1529 | トルコ軍、第1回ウィーン包囲 | ||
1556 | フェルディナント1世、カール5世より神聖ローマ皇帝位を継承 | ||
1645 | 三十年戦争(1618~1648)のスウェーデン軍、ウィーンに迫る | ||
1679 | ウィーンでペスト大流行 | ||
1683 | トルコ軍、第2回ウィーン包囲 | ||
1740 | マリア・テレジア、ハプスブルク家を相続、女帝となる。(~1780)オーストリア継承戦争(~1748) | ||
1756 | モーツァルト、ザルツブルクに生まれる(~1791) | ||
1770 | マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネット、フランスのルイ16世と結婚 | ||
1782 | ベートーベン、ウィーンに移住 | ||
1789 | フランス革命勃発。マリー・アントワネット処刑(1793) | ||
1805 | ナポレオン軍、ウィーン攻略 | ||
1806 | フランツ2世、神聖ローマ皇帝の称号を放棄、神聖ローマ帝国消滅 | ||
1814 | ウィーン会議開催。フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的としたが、 各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された。 |
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1842 | ウィーン・フィルハーモニー創設、第1回演奏会開催 | ||
1866 | 普墺戦争でオーストリアはプロイセンに完敗 | ||
1867 | オーストリア・ハンガリー二重帝国成立。 | ||
1914 | 皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻サラエボで暗殺、第1次世界大戦勃発(~1918) | ||
1918 | ハプスブルク家最後の皇帝カール1世、国外退去。ハプスブルク帝国の解体、オーストリア共和国成立 | ||
1938 | ナチス・ドイツのオーストリア併合 | ||
1939 | 第2次世界大戦勃発(~1945) | ||
1945 | 大戦終了、4ヵ国(英、米、仏、ソ)による共同占領(~1955) | ||
1955 | 永世中立国として主権回復、国連に加盟 | ||
1995 | EU加盟 | ||
2009 | 日本・オーストリア修好140周年 |
1日目 (10月1日) |
成田空港→ウィーン空港→アイゼンシュタット→ホテル(泊) |
成田空港 |
成田からウィーンへの飛行時間は約12時間だが時差が7時間あるので、時計の歩みはたった5時間であるが、実は長い一日である。 |
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成田空港11:15発のオーストリア航空OS52便のボーイング777機でウィーンに向かう 飛行時間11時間45分、時差7時間で、ウィーン到着16:00 |
機内の航路表示 |
ウィーン空港からアイゼンシュタットへ |
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ウィーン空港からアイゼンシュタットへ向かう高速道路から見える風力発電所 オーストリアには原子力発電所はない。電力に占める再生エネルギーの割合は、EUで一番高い。 |
アイゼンシュタットの ホテル・ブルゲンラント |
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黄昏の中央通り(Hauptstraße)を散歩する | 14世紀に黒死病が流行したときのペスト塔か |
2日目 (10月2日) |
アイゼンシュタットのホテル→ハイドン横丁→エスターハーズィー城 →ベルク教会→ゼメリング鉄道→グラーツ→ホテル(泊) |
アイゼンシュタット |
今回の旅行の最初の訪問地は人口1万3000人ほどのアイゼンシュタット。この町は、ハイドン一色である。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは, 1732年にオーストリアの ニーダーエスターライヒ州ローラウで生まれ、1809年にウィーンで亡くなった。古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟のミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。 |
ハイドン横町 |
アイゼンシュタットの中央通りの裏にあるハイドン横丁(Joseph Haydn-Gasse)に掲げられた地図 |
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ハイドンの家は、ハイドンが1766年から78年の22年間、エスターハーズィー侯に仕えたときのハイドンの住居 室内には彼の自筆の楽譜や楽器などが展示されてるが、撮影禁止。 |
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ハイドン横丁から中央通りに通じるハンガリ風の中庭 アイゼンシュタットは、かつてハンガリー領であった |
中央通りに建つ市庁舎 |
エスターハーズィー城 |
エスターハーズィー城は、1672年に建てられたバロック様式のエスターハーズィー侯の城 |
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エスターハーズィー城の外観 | 中庭から内壁を見る |
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城内に飾られたハイドンの像 | 2階のハイドンザールと呼ばれる大広間、ハイドンはここで自作を演奏した |
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大広間の天井画 |
ハイドンのパトロンだったエスターハーズィー侯 の息子の肖像画と収集した銀製品の一部 |
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鼻の病気持ちだったハイドンも世話になったという病院 |
オーストリア・ユダヤ博物館の表札 1670年に皇帝レオポルド1世によってウィーンを追われたユダヤ人はここに移住した。博物館にはシナゴーグ(ユダヤ教会)もあるという。 |
ベルク教会(ハイドン教会) |
ベルク教会はエスターハージー家の菩提寺で、ハイドンの墓所として知られ、ハイドン教会の名もある。 |
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ベルク教会 |
立派な大理石のハイドンの棺 1809年にハイドンは77歳で亡くなった。1820年に遺体をベルク教会に移すことになり、棺を開くと遺体には頭部がなかった。頭蓋骨はいろいろな人の手を渡り、1954年にやっと胴体と一緒になったという。 |
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入口から入ったところの礼拝堂はマリア像が中央の天蓋の中にあり、キリスト像は天蓋の外にあるという珍しい構図である |
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マリアの礼拝堂から本堂への経路は、磔刑にされるキリストが歩んだゴルゴタの丘への「悲しみの道」を擬してあり、興味深い。 | 本堂の礼拝堂には、ハイドンに捧げられたパイプオルガンがあった |
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本堂の屋上からはオーストリアとハンガリーに跨る世界遺産「ノイジートラー湖」が望めるというが、生憎見えなかった。 |
バスの窓から |
アイゼンシュタットからグラーツへのバスの車窓から、オーストリアの農村風景が楽しめた。 |
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ブドウ畑 | ヒマワリ畑 | トウモロコシ畑 |
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ポプラだろうか | アカマツだろうか | 気持ばかりの太陽電池を付けた家 |
ゼメリング鉄道 |
ウィーンの南西85kmにあるゼメリング峠を通る、世界初の山岳鉄道。鉄道全体が世界遺産に登録されている。ヨーロッパで最初に国際標準軌を採用した鉄道であり、鉄道自体も今なお稼働している。走行距離は全長41.825km、高低差は460mになる。建設期間は1848年から1854年までの6年間である。 ゼメリング鉄道の設計者カール・リッター・フォン・ゲーガ (Carl Ritter von Ghega) は機関車の構造に最新の技術を用いることで、急勾配やカーブを克服した。軌道上には、14のトンネル、16の高架橋、100を超える石橋に11の鉄橋がある。また、土木工事(トンネル掘削・橋梁架構など)に際しては、自然との調和が重要な課題とされており、このことが世界遺産認定に際して大きく評価された。 ゼメリング鉄道を含む路線は、首都・ウィーンと、オーストリア南部の都市(グラーツ、クラーゲンフルト)・国外の都市(イタリアのヴェネツィア、スロベニアの首都・リュブリャナ、クロアチアの首都・ザグレブ)とを結ぶ、オーストリア連邦鉄道 (ÖBB) の重要幹線の一つである。これらの都市を結ぶ特急列車が1時間間隔で通過するほか、イタリアの首都・ローマとを結ぶ夜行列車や、多数の貨物列車も通過する。 Wikipediaより |
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乗車したペイヤーバッハ駅 | 12:44の発車まで、構内を見物 | 標高海抜494.403m |
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鉄道ダイヤから | 鉄道地図 乗車するのはごく一部 |
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駅前に展示された蒸気機関車 | 構内に展示されたかつての風景写真 |
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オーストリア連邦鉄道ÖBBの列車がホームに入る | ドアーはボタンを押して開ける方式 |
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車内は明るい雰囲気 | 車窓に広がる田園風景 |
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少しずつ高度を上げて行く | いくつもの高架橋やトンネルを通るが、車窓から撮るのは困難 |
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乗車時間30分ほどでゼメリング駅に着き下車 |
ゼメリング鉄道の設計者カール・リッター・フォン・ゲーガの記念碑 | 世界遺産「ゼメリング鉄道」の碑 |
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ゼメリング駅から再びバスに乗り、グラーツへ 途中、石灰岩の山があり、セメント工場のようなものが見える |
グラーツのホテル コートヤード・マリオット |
グラーツ |
グラーツは、ウィーンの南西150kmに位置するオーストリアの人口第2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。人口は約25万人。街の中心部がグラーツ歴史地区として世界遺産に登録された。古代ローマ帝国の時代に設けられた砦がグラーツの起源であり、町の語源はスラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきているという。中世後期よりハプスブルク家の支配下におかれ、フェルディナント2世など何人かの歴代皇帝がこの地で生まれた。1586年、グラーツ大学が創設され、同大学で天文学者のヨハネス・ケプラーなど様々な学者が教壇に立った。 |
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グラーツの路面電車は色とりどり |
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武器博物館の入口 |
博物館内部は撮影禁止なので、Websiteの写真を引用した 15世紀のグラーツは、イスラム教のトルコ軍に対するキリスト教国の東の砦として重要な位置にあった。1642~1644年に建設された世界最大の武器博物館に多くの武器が保存されている。 |
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ホテル・コートヤード・マリオットでの夕食 左からサラダ、白身魚のグリル、チョコレートケーキ |
3日目 (10月3日) |
グラーツのホテル→王宮跡→大聖堂周辺→シュロスベルク →グロッケンシュピール広場→クラーゲンフルト→ハイリッケンブルート→ホテル(泊) |
グラーツ |
昨日に続いて、グラーツの旧市街を散策した |
王宮跡 |
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10月3日というのに今日は寒い。 車内で6℃ |
皇帝フェルディナント2世の霊廟マウソレイムの丸屋根の修理。昔はどうやったのだろうか。 | 王宮跡の2重らせん階段のある建物 |
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階段の入口で、あなた左へ、私は右へ |
らせん階段の中心から上を見ると・・・ 実は指定されたところにカメラを置くとこんな写真が撮れる! |
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グラーツの王宮の2重らせん階段を上から見ると 2本のらせん階段が2列に並んでいることが分る |
2つの2重らせん階段を比較する |
以前に訪ねたフランスのローヌ地方のシャンポール城 にある2重らせん階段(ダ・ヴィンチが設計したという) |
2重らせんに興味のある方は、ここをクリックしてご覧下さい |
大聖堂周辺 |
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大聖堂(ドーム) 1438-1462年建立の後期ゴシック様式の教会 |
大聖堂の内部 内部外部とも白を基調としている |
皇帝フェルディナント2世の 廟霊(マウソレウム) |
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1586年創立のグラーツ大学の中庭 | 中庭の水溜りと雪だるま 現地ガイドによるとオーストリアでは全てが芸術だとか |
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1569年創業の老舗のパン屋ホフバカレイ 店の入口の上部に飾られた「双頭の鷲」は神聖ローマ帝国とハプスブルク家の紋章 |
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旧市街で見かけたトルコ兵の人形 武器庫やトルコ兵の人形を見ると、1529年と1683年のトルコ軍によるウィーン包囲の恐怖が国民の頭に刻まれていることが分る。トルコのEU加盟にオーストリアが反対しているのも理解できる。 |
シュロスベルク(城山)への道 |
シュロスベルク |
小高い丘に築かれたシュロスベルク(城山)は、ナポレオン戦争後に取り払われ、現在は時計台が残る公園になっている。 |
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「長針」が時を、「短針」が分を示す珍しい時計 |
丘の上からは旧市街が一望の下である。 左端に顔を出しているのがクンストハウス。グラーツが2003年に欧州文化首都になったことを記念して建設された芸術文化施設。特異な外観はグラーツの落ち着いた街並みの中でひと際目立つ。 |
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シュロスベルクからの下りは石灰岩の岩山に設けられた260段の階段を降りた |
近くにあった建物はフランツ・フェルディナンド皇太子(サラエボ事件で暗殺された)が生まれたところ。サラエボ事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。 |
グロッケンシュピール広場 |
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ギリシア神話を題材にしたフレスコ画で飾られたゲマールテス・ハウス |
金箔彩色の風俗画 モザイクの宗教画の技法を使ったのではないだろうか |
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11時に何かが起るというので待つ。8分遅れで現れたのは男女2人の人形 |
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昼食はゲーサー・ブロイで、左からクリアースープ、ハムとチーズ入りシュニッツェル(カツレツ)、アップル・シュトゥルーデル |
クラーゲンフルト |
クラーゲンフルトはケルンテン州の州都で、人口9万3000人。今回の旅の中では最南に位置する。スロヴェニアの国境から40㎞しか離れていない。 |
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市庁舎前のノイアー広場にある町の象徴「竜の噴水」 | 市庁舎と向き合う「マリア・テレジアの像」 |
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インフォーメーションもある市庁舎 | 広場から少し離れたところにある16世紀後半に作られた州庁舎 |
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州庁舎にある「紋章の大広間」 | だまし絵の天井フレスコ画 |
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紋章の間にはオーストリア各地や外国の紋章が飾られている。紋章の数は尋ね忘れた。 |
ハイリゲンブルート |
クラーゲンフルトからハイリゲンブルートへは約2時間の道のり。その間、田園風景から山岳風景に変わって行く。 |
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車窓を楽しませてくれる田園風景 | だんだん谷間に入って行く |
一番奥まった所にハイリゲンブルートという名の村がある。運転手がベストポジションに車を止めてくれた。 ヴィンツェンツ教会の背後の右手に見えるのが、オーストリア最高峰のグロースグロックナー(3797m)) |
ハイリゲンブルート(Heiligenblut、聖なる血)の村には、、聖血伝説が残っている。ビザンチン帝国のデンマーク人騎士が「聖なるキリストの血」を持って故郷に帰る途中、このグロースグロックナーの麓で雪崩に遭い亡くなった。村人は非常に悲しみ、彼と聖なる血を収めた教会堂をこの地に建てたという。 |
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ハイリゲンブルートで泊ったペンション・ブウェルレ |
ペンションの部屋から 夕餉の煙とソーラーパネル越しに、グロースグロックナーを望めた |
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夕食は、左から、スープとサラダ、オーストリア風グヤーシュ(ビーフとパプリカの煮込み)とライス、 デザートバイキング(選択したのはチョコレートケーキ) |
4日目 (10月4日) |
ホテル→ハイリゲンブルート村→カイザー・フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台とパステルツェ氷河 →ツェル・アム・ゼー→ツェル・アム・ゼーのホテル(泊) |
ハイリゲンブルート村と山岳道路 |
ハイリゲンブルート村散策 |
朝からハイリゲンブルート村を散策した後、車でパステルツェ氷河の展望台へ行く |
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ペンションの部屋 | 部屋から見れるナナカマド |
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小川に架かる木橋を渡って朝の散歩 | ロープトウのあるスキー場 |
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ここはマツ科の植物が多いが、私には属名・種名は分らない | マツカサ(球果)の噴水 |
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左から、ヴィンツェンツ教会の外観、墓標の1つ、屋外のキリストとマリア像、屋外の聖クリストファーのフレスコ画 |
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伝説の聖血は、祭壇左奥の白い聖櫃の中に秘蔵されているという | 講壇と聖人像 |
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グロースグロックナー山岳道路から谷間を埋める雲海を見る | パステルツェ氷河の展望台に着く |
カイザー・フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台とパステルツェ氷河 |
カイザー・フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台からカイザー・フランツ・ヨゼフハウスまでハイキング |
カイザー・フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台から眺めるパステルツェ氷河 生憎の天気でオーストリア最高峰のグロースグロックナーはガスの中 |
展望台に掲げられた鳥瞰図 |
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子ウサギほどの大きさのマーモット | 巣作りための草集めだろうか | カラスほどの大きさの鳥もいる | オレンジ色の地衣類 |
地衣類は、ダイダイゴケ科 ダイダイゴケ属 コナキクバダイダイ (Caloplaca decipiens)ではないかと思うが、定かではない |
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展望台の一角に岩上の船がある。芸術家ヨハン・ヴィァリンガーの作品だという。日本語の解説パネルもある。 |
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リンドウの仲間 | トリカブトの仲間 | アザミの仲間 |
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ワタスゲのようだが・・・ | カイザー・フランツ・ヨゼフハウスで昼食 |
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セモリナ入りクリアスープ | ケーゼシュペッツレ(ねじれたパスタ)と七面鳥煮込み・サラダ | アプリコットケーキ |
ツェル・アム・ゼーへ |
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カイザー・フランツ・ヨゼフハウスをバスで出発 | 雨の中のスキーリフト | トンネル |
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山岳道路の最高地点フッシャーテール(2428m) | フッシャーテール展望台 | 外気温は4.6℃ |
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ツェル・アム・ゼーのホテル・ツムヒルシェンに着く | ホテルの部屋から見える裏山のスキーゲレンデ |
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高級ホテルのあるツェル湖の湖畔を散策 | トチノキかセイヨウトチノキ(マロニエ)か? |
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湖畔の教会 | お城のような市庁舎 |
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ホテルの夕食 左から、たっぷりサラダ、白身魚のフライ、チョコレートアイス |
5日目 (10月4日) |
ホテル→クリムルの滝→マイアーホーヘンの収穫祭→SL列車でアッシャウへ →インスブルック→インスブルックのホテル(泊) |
クリムルの滝 |
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針葉樹の森を歩く | 滝の最下部の下まで行ける | 滝は全高380m、下から見えるのは140mほど |
マイアーホーヘンの収穫祭 |
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レストラン・クラマーヴィルトで昼食 | 町は収穫祭で賑わっている |
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飾った牛の行列 | アコーディオンのおじさんも |
SL列車でアッシャウへ |
マイヤーホーフェン駅からアッシャウ駅までレトロなSLに乗る |
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線路の幅はJRよりも狭いようだ |
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無蓋車はそのまま展望車 |
上の画像をクリックし、サイズを最大化して展望車からの風景をご覧下さい。 大きな風音が入り、ユレユレのが画面で済みません。 |
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次第にチロル的な風景になる | トウモロコシ畑 |
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教会 | 食堂車 |
インスブルック |
インスブルックには特別の想い出がある。民間企業の研究所に就職してちょうど10年目の1968年の秋、当時の西ドイツで開催された国際学会で技術発表をした後、ヨーロッパの幾つかの研究所を見学訪問した。山好きの私は、2週間の短い旅行中に週末をミュンヘンで迎えた後、ガルミッシュ・パルテンキルヘン、ドイツ最高峰のツークシュピッツェを経てインスブルックを訪ねるようにアレンジしておいた。初めての海外旅行しかも一人旅、学会での発表などに疲れた私にとって、インスブルックは心休まる町であった。 |
インスブルック到着 |
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イン川を渡るとインスブルックは近い。 Innsbruckとは「イン川に架かる橋」という意味である。 |
インスブルックでは、1964年と1976年の2回の冬季オリンピックを開催された。このシャンツェは2002年に斬新な姿に生まれ変わった。 |
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ウィーンと違って、鄙びた観光馬車 | 路面電車は、おしゃれなエンジ色 |
凱旋門 |
チロル州の州都インスブルックのマリア・テレジア通りにある凱旋門。1765年にマリア・テレジアの息子レオポルト2世の結婚を祝して創建された。しかし建設中にマリア・テレジアの夫、フランツ1世が急逝。夫の死を嘆き、南面に結婚を祝う「幸福の象徴」、北側に夫の死を悼む「悲しみの象徴」を刻んだといわれている。 |
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凱旋門の表側 (南面、旧市街へ入る側)は、結婚を祝う「幸福の象徴」を刻んだといわれている |
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凱旋門の裏側 (北面、旧市街から出る側)は、夫の死を悼む「悲しみの象徴」を刻んだといわれている |
聖アンナ記念柱 チロルを占領していたバイエルン軍が1703年7月26日の「聖アンナの日」に兵を引き上げたことを記念して建てられたもの |
宮廷教会 |
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この白亜の建物が宮廷、1460年にチロルのジークムント大公によって建てられた城を、マクシミリアン1世が拡張し、1754~1773年にマリア・テレジアによって華麗なロココ様式に改築されたという。 | 我々は、チロル民俗博物館の入り口から宮廷教会に入る |
宮廷教会には空の巨大な柩が安置されている。その訳は、皇帝マクシミリアン1世はここを自分の霊廟と定めたが、その意に反して遺体はヴィーナー・ノイシュタットに埋葬されたため。 |
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柩を中心に、中央に主祭壇、左右にハプスブルク家とその姻戚関係にある人物の像が並んでいる |
大聖堂 |
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大聖堂は聖ヤコブ教会とも呼ばれ、チロルを代表するバロック建築 | 第2次世界大戦で破壊されたときの写真 |
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内陣と主祭壇 |
主祭壇の中央にある ルーカス・クラーナハ作の「救いの聖母」 |
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パイプオルガン |
天井の華麗なフレスコ画は、バロックの巨匠アザム兄弟の作品 ドームのように見えるが、実は平面に描かれた「だまし絵」だという |
インスブルック市街散策 |
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マリア・テレジア通り(左)から繋がっているヘルツォーク・フリードリヒ通り(右)を突きあたると黄金の小屋根がある |
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インスブルックの象徴「黄金の小屋根」は、皇帝マクシミリアンが広場で行われる行事を見物するため、1494~1496年に造らせたもの | 屋根は、金箔を施した2657枚の銅板瓦で覆われている |
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レースのように華麗な装飾のあるヘルプリングハウス | 高さ51mの市の塔 |
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1390年創業のホテル・レストラン 名簿には、1494年マクシミリアン1世、1773年モーツァルト、1786年ゲーテなどの名もある(サインではない) |
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動物をかたどったマークのホテルの看板 (この中で最も古いものは1590年創業) |
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宿泊したヒルトンホテルでの夕食 左からトマトスープ、ポークステーキ、フルーツサラダとライムシャーベット |
オーストリア(1)は、アイゼンシュタット、グラーツ、ハイリゲンブルート、インスブルックの旅でした。 如何でしたか。 オーストリア(2)は、ハルシュタット、シャーフベルク山、ザルツブルク、メルク、ウィーンなどの旅です。 引き続き、下の [次へ] をクリックして、オーストリア(2)をご覧下さい。 |
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