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オーストリア(2)----アルプバッハ、ハルシュタット、ザルツブルク、湖水地方、ウィーンの旅
   ハルシュタット(湖クルーズ、塩坑)、シャークベルク山頂、モントゼー、ザルツブルク、メルク修道院、ドナウ川クルーズ
   ウィーン(シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿、シュテファン寺院、美術史博物館、楽友協会・コンサート

 オーストリアの旅第1部はいかがでしたか。 ここからは第2部をお楽しみ下さい。

 オーストリアといえば、皆さんはどんなことを想起されますか。音楽好きな人ならモーツァルトの生まれたザルツッブルク、音楽の都ウィーンが先ず第一であろう。山やスキーが好きな人ならば、牧歌的なチロルの風景、スキー技術でフランスと二分したオーストリア・スキー術もある。歴史好きの人ならば、650年間続いたハプスブルク家の歴史、オーストリア=ハンガリー帝国による第一次世界大戦、ナチス・ドイツに併合された第二次世界大戦の敗戦とその後の永世中立国宣言など・・・

 オーストリアの旅は、正に自然と人間、歴史と文化の旅であった。

オーストリア(1)は、ハイドンの町アイゼンシュタット、オーストリア最高峰の見える村ハイリゲンブルート、チロルの町インスブルックなどの旅
オーストリア(2)は、モーツァルトの生まれ故郷ザルツブルク、塩坑と湖水のハルシュタット、音楽の都ウィーンなどの旅

続けて第2部をご覧下さい。                (2013年10月)
              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
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 ◎を@に変更して送信願います。 アドレスの自動収集を防止しております。
 現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。「vi」には「ヴィ」を用いましたが、
 慣用的には「ビ
も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
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ウィーンの楽友協会黄金のホールで開催される
モーツァルト・コンサート
 
 
 
 

オ-ストリアの旅 オーストリアの概要
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国  名 オーストリア共和国
国 旗
首  都 ウィーン
政  体 連邦共和制
独  立 1918年 オーストリア・ハンガリー帝国解消
国連加盟 1955年
面  積 8万3870km(北海道の1.1倍)
人  口 822万人
ドイツ系99%、スロベニア人、マジャール人
クロアチア人
言  語 ドイツ語(公用語)
宗  教 カトリック78%、プロテスタント5%、イスラム教他
産  業 ドナウ川流域では、テンサイ、小麦、トウモロコシなどが大規模に栽培され、山岳部では牧畜がおこなわれる。食糧はほぼ自給し、酪農製品は輸出もされる。国土の約47%が森林で木材が主要輸出品の一つとなっている。

地下資源では、鉄鉱石、石炭、亜鉛、石油を産する。1978年に原子力発電所の是非について国民投票を行った結果、完成した原子炉の稼働を中止した。 電力に占める再生エネルギーの割合は、世界のトップランナーと見られるスウェーデンやデンマークを抑えてEUで一番の比率となる。このうち、水力が50-55%、風力5%、バイオマス5%である。残り35-40%は、天然ガスを中心とする化石燃料による火力発電である。

工業は伝統的手工業から重工業、電子産業まで幅広く発展している。基幹産業は国営であったが、一部を除いて民営化が進められている。

音楽の都ウィーンやアルプスの保養地チロル地方など観光業も盛ん。
1人当
GNI
4万6450米ドル/年 (日本の1.22倍
首都
オーストリアの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図
赤線はGPSによる軌跡  は移動順   青字は宿泊なしの訪問地  ・・・は国境
 
①②などは宿泊地  成田~⑤はオーストリア(1)、 ⑤~成田はオーストリア(2)



6日目
(10月6日)
 インスブルックのホテルハルアルプバッハラッテンベルクハルシュタットのホテル(泊)

オーストリアの旅の後半は、インスブルックを出発してハルに向かうことからスタート

ハル

ハルはインスブルックの東10kmにある人口1万2000人の町。ドルの語源となった「ターラー銀貨」を16世紀から製造していたチロルの町である。

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丘の上のオーベラー・シュタットプラッツ広場に、教区教会、市庁舎、ペスト塔(?)がある

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13世紀末創建のハルの教区教会 教会内部

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丘の下にあるVolksshule(小学校だろうか?) コイン博物館を探して歩く

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コイン博物館は、ハーゼク城の中にあった。残念ながら内部は撮影禁止



アルプバッハ

アルプバッハは「アルプスの小川」という意味で、その名の通りイン川の支流に沿った村で、標高1000m、人口2500人。オーストリアで一番美しい村ヨーロッパで一番美しい花の村に選ばれたこともある。毎年のように国際会議が開催される場所として知られている。

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「オーストリアで一番美しい村」、「ヨーロッパで一番美しい花の村」の記念碑と、村に入って最初に見える景観

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道で出会う女性の笑顔が印象的だった。 今日は収穫祭だという

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おじさんたちもお祭りの服装

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明るい雰囲気の村の教会

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結構旅行者も多いようだ このカエデは日本から贈られたのだろうか

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民家の間から眺める牧歌的な風景

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民家の庭にリンゴの木があったので、望遠レンズで1枚撮らせてもらった



ラッテンベルク

ラッテンベルクは人口わずか400人の町、かつては銀の産出と交易で栄えた。しかし17世紀には銀鉱は枯渇し、町は眠ったように発展から取り残された。

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中世の街並みが残るイン川沿いの町 ガラス工房の店先

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現在はガラス工芸の町で、お土産店にはカラフルなガラス製品が並ぶ

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町はずれにある高台に登ると、ビーナー塔(かつての見張り塔)があり、市街が一望できる

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丘に咲いていた花々
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ラッテンベルクからハルシュタットへ

高速道路でラッテンベルクからハルシュタットへ行く途中、約120kmの間はドイツ国内であった

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高速道路の制限速度が時速100kmではなく、120kmになった
 
高速道路のサービスエリアのトイレは有料で、投入金額に相当する商品券(サービスエリアでのみ通用)が出る 遠くに見えた鉄道は、オーストリア連邦鉄道ÖBBか、ドイツ鉄道DB か、私にはこの写真から判別できない
 



ハルシュタット

ハルシュタットは人口860人の小さな町だが、ハルシュタット湖に姿を映す絵のように美しい町。先史時代の紀元前1000~500年頃に「ハルシュタット時代」がある。ハルシュタットの裏山に眠る岩塩を求めて移住してきたケルト民族によって残された文化であるという。

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ホテルから眺めるハルシュタット湖 白鳥の湖に出てくるような対岸の館

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ホテルの前の教会 (左)ホテルの本館(泊まったのは少し離れたアネックス)  (右奥)丘の上の教会

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結構広いロビー
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泊まったのは崖の上のアネックス 寝室 化粧室



7日目
(10月7日)
 ハルシュタットのホテルハルシュタットの町ハルシュタット湖クルーズ塩坑見学
                         
バート・イシュル
ハルシュタットのホテル
(泊)

ハルシュタット2日目は、ハルシュタットの町の散策、ハルシュタット湖ミニクルーズ、塩坑見学、温泉保養地バート・イシュルなど、盛り沢山だ。

ハルシュタットの朝の散策

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湖面からの日の出を見ようと早朝に高台に出かけたが、生憎霧の湖

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散歩中に見たキャットウォーク 珍しい木製スレート瓦

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村の広場 丘の上の教会

ホテルの朝食

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丘の上の教会に出かける 教会の墓地 教会の納骨堂

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樫の葉は名声 月桂樹は勝利
納骨堂の内部 薔薇は愛情 蔦の葉は生命
ここは12世紀に建てられたハルシュタットの納骨堂である。現在1200個の頭蓋骨が納められ、そのうち610個は彩色され、没年月日が記されている。墓地の敷地が狭く拡張も不可能なことから、常に墓地のスペースが不足したため、埋葬の10年~20年後に墓を開いて頭蓋骨を取り出し、きれいに洗ってしばらく太陽にさらした後、花の絵を描き始めた。このハルシュタットの納骨堂は世界に類を見ないものである。                                    納骨堂のパンフレットより


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教会の内部

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キリスト像 マリア像

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壁に張り付いた木
 
オーストリアの「てるてる坊主」
お蔭でいい天気になった!
ハルシュタット湖のミニクルーズに出発
 



ハルシュタット湖のミニクルーズ

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いよいよ出航 ホテルや住民は船庫を持っている

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湖面は鏡のように静かである 最初の寄港地

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午後に乗る予定の塩坑へ行くケーブルカー 2番目の寄港地

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シンデレラ城のように湖面に映える城か館か U字谷が見られるので、この湖は氷河湖に違いない

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船はUターンして、元の出発した桟橋に戻る

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昼食は、左から、玉子の前菜、サラダ、マスのムニエル、バニラプリン



ハルシュタットの塩坑

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ハルシュタット湖の周りは褶曲した石灰岩のようである。 塩坑に行くケーブルカーに乗る

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ケーブルカーからハルシュタットの町が見える ケーブルカーを降りて、林の中を歩く

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塩坑の入口にある事務所 事務所に置かれた1mの岩塩の結晶

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見学前に大中小いづれかの「つなぎ」を着せられる。
坑内での防寒と汚れ防止である。
渡り廊下で坑口へ
 

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坑口から入って、水平坑を歩く

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水平坑の終点から「滑り台」で下る
 
「滑り台」の終点にカメラがある。
このオジサンは時速34.2キロ,最高だ!

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岩塩の結晶で作られた行燈 ハルシュタットの岩塩はピンク色だ

坑内で見た、ハルシュタット塩坑がどのようにして出来たかのビデオから(怪しげな翻訳!)
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①何億年か昔は今よりも暑く乾燥していた ②気候は湿潤になってきた ③真水はほとんど入ってこなくなった

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④気候は熱帯の暑さのままだった ⑤塩分は成長して石灰岩の塊と一緒になった ⑥岩塩の堆積物も石灰岩と共に地殻変動を受けた

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⑦その頃アルプスが形成された ⑧粘土の保護層に覆われた ⑨やがて岩塩は地表面に現れた

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1700年代に上壁が落ちて、古代の「塩漬の男」が現れた(模型展示) 帰りは坑内トロッコで

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帰路に立ち寄った世界遺産の景観展望台

この眺めが世界遺産!



バート・イシュル

バート・イシュルは、フランツ・ヨーゼフ1世皇帝(1830~1916)が好んだ温泉保養地。皇帝ばかりでなく、ヨハネス・ブラームス、ヨハン・シュトラウス、アントン・ブルックーなど多くの作曲家たちにも愛されたところ。

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イシュル川が合流したすぐ下流のトラウン川に架かる橋
バート・イシュルの町には温泉情緒が漂う
フランツ・ヨーゼフ1世皇帝
の肖像と碑

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トリンクハレ(Trinkhalle、飲泉館) オーストリアでは郵便局は黄色と決まっている



ハルシュタットに戻って夕食

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サラダ(木の実入り)
 
デキャンタで出されたワイン
 
ビーフグヤーシュ
(ハンガリー風シチュー)
ヨーグルトとフルーツ
 


8日目
(10月8日)
 ハルシュタットのホテルシャーフベルク山頂ザンクト・ギルゲン
                   モントゼー
ザルツブルク
のホテル
(泊)

ハルシュタット(続)

ハルシュタット3日目は、シャーフベルク鉄道のSLでシャーフベルク山の山頂に登り、モーツアルト縁の町ザンクト・ギルゲン映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台の
1つにもなったモントゼーを経て、ザルツブルクに入るという楽しい一日である。



シャーフベルク鉄道でシャーフベルク山頂へ

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シャーフベルク鉄道の機関車は、登るときは後押し、降りるときは前で牽引するのだが、
車体が水平でなく斜めになっている。傾斜地に入ると機関車のボイラーが水平になるためだろう。

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アプト式という1種のラック式鉄道
ラックレールおよびピニオンギアを設置することにより、急斜面を滑らずに登ることができる。
シャーフベルク鉄道の場合は2枚のラックレールおよびピニオンギアを180°位相をずらして設置して、
最大勾配255‰(255パーミル、1000m当り255mの勾配)を登っている。この急勾配は世界的にも珍しい。
アプト式(Abt system)とはラック式鉄道の方式の一つである。カール・ローマン・アプトが1882年に特許を取得した方式で、「アプト式」の名称は開発者の名前に因む。日本の営業用路線ではこの方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶことがある。ラック式鉄道にはアプト式の他にマーシュ、リッゲンバッハ、シュトループ、ロヒャー、フォンロールの各方式がある。種々あるラック式鉄道のうち「アプト式」とは、2枚または3枚のラックレール(Rack-rail)およびピニオンギア(Pinion-gear)を位相をずらして設置する方式を指す。複数の歯の位相をずらす事により駆動力の円滑化および歯の長寿命化を図るとともに、常にピニオンのいずれかの歯がラックレールと深く噛み合っていることにより安全性の向上が図られている。
なお、日本の鉄道では、旧国鉄信越本線横川駅~軽井沢駅間(最大勾配 66.7‰、1893年~1963年)、大井川鐵道井川線アプトいちしろ駅~長島ダム駅間(最大勾配 90‰、1990年~)で、使用されている。       Wikipedia

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蒸気機関車は石炭で走ることを再認識! 最初は牧草地を走る

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やがて眼下にヴォルフガング湖が見える シャーフベルク鉄道の線路を歩くハイカー

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森林限界を超えると、ザルツカンマーグートの山々が望まれる 石灰岩の上に育つハイマツ

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蛇行する急こう配の線路 石灰岩の山に設けられたトンネル

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約30分で標高1732mのハーフベルク山頂駅に着く

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徒歩10分ほどで山頂小屋に着く

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雲海に映るブロッケンの妖怪 山頂から見える2000~3000m級の山々

山々は、まるで雲海に浮かぶ島々である

切り立つ岩壁

画像をクリックすると拡大されます。左右にスクロールして、大パノラマをご覧下さい。[戻る]で、このホームページにお戻り下さい。

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山頂の一角に花が捧げられていた 危険で近付けない山頂に十字架があった、断崖の下はモント湖

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花期の終った10月には、多くの花はドライフラワーになっていた

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シャーフベルク鉄道でシャーフベルク山を下山した後、オペレッタ「白馬亭」で知られるヴォルフガング湖畔 のレストランで昼食 サラダ(撮影し忘れ)と
ポークグリルのマッシュルームソース
 
コッテージチーズのクレープ
オーストリアはデザートが美味いが、
これは格別だった



ザンクト・ギルゲン

ヴォルフガング湖の畔にあるザンクト・ギルゲンは、モーツァルトに所縁の人口3,700の小さな町である。

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モーツァルトの母アンナの生家は昼休みで閉館、13:50だというのに 幼いモーツァルトの像のあるザンクト・ギルゲン市庁舎



モントゼー

モントゼーは、文字通りモント湖(三日月湖)の畔にある人口3,300の町。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公マリアとトラップ大佐の結婚式が行われるシーンは、この町の教区教会で撮影された。

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モントゼーの湖畔を散策 教区教会の前のマルクト広場

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モントゼー教区教会
 
教会の身廊から主祭壇を見る
 
主祭壇  映画でなぜかここにオーストリアの国旗が貼り付けられている

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パイプオルガン
 
トラップ大佐とマリアがモントゼー教区教会で結婚式を挙げる映画「サウンド・オブ・ミュージック」の一場面
上の画像をクリックし、サイズを最大化して動画をご覧下さい。動画は著作権を考慮して、画質は低く、時間は短くしてあります。約3時間の映画は、正規のDVDまたはBDでご覧下さい。



ザルツブルク

いよいよザルツブルク入り。「塩の町」という意味の名を持つこの町は、ザルツブルク州の州都で人口14万8000人。岩塩坑から産出される塩の取引で繁栄した。700年頃、聖ルペルトがザンクト・ペーター教会を設立し、798年には大司教区に昇格した。
ザルツブルクは、モーツァルトが生まれた音楽の都としても知られ、夏には「ザルツブルク音楽祭」が開催される。郊外には映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなった美しい山や湖が広がる。

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ザルツブルクに到着して夕食を頂いたシュティーグル・ケラーは、ホーエンザルツブルク城塞の岩山をくり抜いて作られたレストラン

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ビール(レンズが曇っていてすみません) ターフェルシュピッツ(茹でたビーフと洋ワサビ) ロールケーキ・アップルソース

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夕食後の散歩、ホーエンザルツブルク城塞 夜の大聖堂



9日目
(10月9日)
 ザルツブルクのホテルザルツブルクの新市街散策市街散策
      
ホーエンザルツブルク城塞ザルツブルクのホテル(泊)

新市街散策

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ミラベル宮殿とミラベル庭園
大司教ヴォルフ・ディートリッヒが愛人サロメ・アルトのために1606年に建設、1818年の火災後、クラシック様式で再建されたもの  

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ミラベル庭園の中の緑のトンネル
 
マリアと子供達が、ミラベル庭園でドレミの歌を歌う
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の一場面
上の画像をクリックし、サイズを最大化して動画をご覧下さい。動画は著作権を考慮して、画質は低く、時間は短くしてあります。約3時間の映画は、正規のDVDまたはBDでご覧下さい。

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「ドップラー効果」の発見者ヨハン・クリスチアン・ドップラーJohann Christian Doppler, 1803~1853年)の生家
ドプラーは、オーストリアの物理学者、数学者、天文学者。プラハのプラハ工科大学(現チェコ工科大学)で教授の頃に
「ドップラー効果」を発見した。後にウィーン大学物理学研究所の所長に就任、教え子の一人に遺伝の法則で知られるメンデルがいる。

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クラシック音楽界の帝王として君臨した指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年~ 1989年)の生家

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ザルツブルクの町の新市街と旧市街(川向う)を分けるザルツァッハ川
 
ザルツァッハ川に架かるマカルト橋
錠前をかけ鍵を川に捨てると永遠の愛が成就するという

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       ザルツァッハ川に架かるモーツァルト小橋
映画では反対側(新市街側)から撮影しているので、背景に旧市街のホーエンザルツブルク城塞や大聖堂が写っている
マリアがカーテンで子供たちの服を作ってあげて、モーツァルト小橋へ出かける映画「サウンド・オブ・ミュージック」の一場面
 
上の画像をクリックし、サイズを最大化して動画をご覧下さい。動画は著作権を考慮して、画質は低く、時間は短くしてあります。約3時間の映画は、正規のDVDまたはBDでご覧下さい。



旧市街散策

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モーツァルトの生家のあるゲトライデ通り(Getreidegrsse、忙しいの意 建物の中にある通りと通りの間の抜け道(Durchgang)

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モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756~1791年)の家
モーツァルトはこの建物の4階で生まれた。ここにはモーツァルトが使用した楽器、
自筆の楽譜、一家の肖像画などが展示されているが撮影は禁止。上の写真は図録より

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ザルツブルク音楽祭の主会場となる祝祭劇場 修道院のようなザルツブルク大学の中庭

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ザンクト・ペーター修道院
696年に創設されたドイツ語圏で現存する最古の修道院
レストラン「シュティフツケラー」
803年創業、修道院付属のヨーロッパ最古のレストラン(残念ながら入らなかった)

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ノンベルク修道院付属のカタコンベ(地下墓地)
映画「サウンド・オブ・ミュージック」ではここを想定しているが、
実際はセットで撮影されたという
トラップ大佐一家がドイツ第三帝国海軍からの出頭命令を拒否して、カタコンベに隠れ、ナチス突撃隊の追跡を逃れ、中立国であるスイスへ一家で亡命する、映画「サウンド・オブ・ミュージック」のラーストシーン
上の画像をクリックし、サイズを最大化して動画をご覧下さい。動画は著作権を考慮して、画質は低く、時間は短くしてあります。約3時間の映画は、正規のDVDまたはBDでご覧下さい。

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横から見た大聖堂、金の球は最近出来たモニュメントらしい 正面から見た大聖堂

A              ザルツブルクの大聖堂
774年に創建。12世紀に後期ロマネスク様式で改築後、17世紀にバロック様式で建てなおされた。身廊は長さ101mに及び、主祭壇上の巨大なドームから降り注ぐ光が印象的である。
モーツァルトはここで洗礼を受け、オルガン奏者も務めた。ザルツブルク生まれの指揮者カラヤンの葬儀もここで執り行われた。
身廊から主祭壇を見る パイプオルガン

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モーツァルトもここで洗礼を受けたといわれる洗礼盤

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客待ちの観光馬車
 
大主教の宮殿レジデンツの内壁
ホーエンザルツブルク城塞は戦時の城で、平時はここで執務した

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レジデンツ広場の噴水 背後は新レジデンツ モーツァルト広場のモーツァルト像

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モーツァルトの家の見えるレストラン マッシュルーム・クリームスープ ロールキャベツとポテト ザルツブルガーノッケールン



ホーエンザルツブルク城塞

神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇の闘争の中、教皇側についたザルツブルクの大司教ゲープハルトが1077年に築き始めたのがホーエンザルツブルク城塞。以降絶えず増改築が行われ、現在の形になったのは17世紀半ばという。

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城塞にはケーブルカー(歩けば40分) 城塞は文字通り「立て籠もる城」である

城塞の城壁の隙間から望むザルツブルクの旧市街とザルツァッハ川

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ホーエンザルツブルク城塞の裏門から出る 帰りはケーブルカーでなく、大聖堂の見える坂道を歩いて下った

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振り返ると、ホーエンザルツブルク城塞が毅然と建っていた 映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中でマリアが勤めていた修道院



10日目
(10月10日)
 ザルツブルクのホテルメルク修道院ドナウ川クルーズウィーンのホテル(泊)

メルク修道院

メルク修道院は、オーストリアにあるベネディクト会派の修道院で、世界的に有名な修道場である。ニーダーエスターライヒ州メルクの街の上部のドナウ川を見下ろす岩山に建ち、ヴァッハウ渓谷に隣接している。
修道院の設立は1089年、オーストリア辺境伯レオポルト2世により、ベネディクト会修道士に城の
1つが寄進されたことによる。修道士の学校であるメルク修道士校が12世紀に設立されると、その図書館はまもなく、幅広い写本収集で知られるようになった。15世紀には、修道院は、オーストリアとドイツ南部の修道士の生活を建て直す「メルク再生活動」の中心となった。今日に残る見事な
バロック建築の修道院は、1702年から1736年にかけて、ヤコブ・ブランタウアーの設計により建設された。
その名声と研究成果のおかげでメルク修道院は、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が1780年から1790年にかけて、オーストリアの修道院をたくさん接収したり解散させた時期をかろうじて凌ぐことができた。 修道院はその後も、ナポレオン戦争、次いで1938年の国家社会主義ドイツ労働者党による
オーストリア併合期には学校と修道院の大部分を国家に接収されるなど、さまざまな脅威をくぐり抜けた。 第二次世界大戦後、学校は修道院に戻され、現在は男女併せて約900人の生徒を擁している。   Wikipediaによる

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駐車場から階段を下りてメルク修道院に入る 振り返ると、駐車場からの階段が見える

宮殿のような東ファサードにはメルク修道院の宝物、「メルクの十字架」の複製が掲げられている
アーチ型の入口の上部両側に修道院の守護聖人である二大使徒ペテロとパウロの像が建っている

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修道院の中庭
質素で思索にふける修道院のイメージとはかけ離れたこの豪華華麗さは何だろうか。
中庭の噴水
 

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いろいろな聖画が収蔵・展示されている ロマネスクの十字架(12世紀末)

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大理石の間 修道院教会

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図書館の外観
 
 
 
図書室の内部 (ここは撮影禁止のためWikipediaを引用)
天井のフレスコ画は1731~1732年のトローガーの作品
ここには約10万冊、9世紀~15世紀の1200の写本、
17~18世紀の600の写本、750の古版本が収納されている

図書室前のベランダから、これから行くドナウ川の遊覧船が見えた

修道院内のレストランで昼食

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修道院の中のレストランで昼食  左から、シュー入りのクリアースープ、ウィーンナー・シュニッツエル、アプリコット・ケーキ



ドナウ川クルーズ

メルク修道院のあるメルクの町の船着き場からヴァッハウ渓谷巡りのドナウ川クルーズが始まる。「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」はユネスコの世界遺産に登録されている。

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メルク修道院のある岩山のすぐ下からドナウ川クルーズの船は出る ドナウ川から見上げるメルク修道院

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メルクを出港して間もなく見えた水道橋
 
 
               シェーンビュヘル城
川岸ぎりぎりに建つ城は9世紀初めの建造。持ち主は1819年にパッサウ司教からベロリンゲン伯爵に移って今日に至っている。

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アックシュタイン城
(望遠で撮った写真)
シュピッツ付近で見かけた古城
 
アックシュタイン城
盗賊騎士が捕虜を谷へ突き落したという伝説がある

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空にワイヤと滑車が見えてびっくり。 渡し船が流されないようワイヤで引張っている。 のんびりと景色を眺める船旅の一時

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ドナウ川の流域にはブドウ畑が多いという
 
 
手前の尖塔は、オーストリアで一番美しいバロック教会といわれる。
山頂の廃墟は、イギリスのリチャード獅子心王が幽閉されたデュルンシュタインの山城

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クレムスに到着。我々はここで下船。 ブラントナー号で1時間50分の船旅、有難う!



ウィーン到着

旅行開始10日目にして、オーストリアの首都ウィーンに到着。今日はウィーン市の中心にあるステファン寺院の建つ場所を覚え、明日からの市内観光に備える。

         ウィーン市中心部地図 地球の歩き方より
シュテファン寺院を中心にぐるりと取り囲む道路はリンクと呼ばれる。一周約4㎞で山手線よりも短い。 泊まったホテルはラディソン・ブルー・パレ

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夕暮れのウィーン市内、リンクの中心にあるシュテファン寺院 パリと同様、ウィーンの街角にも花屋さんが似合う

グリンツィングのバッハヘングルで夕食

ウィーンは大都市でありながら、市内にまでブドウ畑が広がっていて、美味しいワインを生産している。新酒ホイリゲは毎年11月11日の聖マルティンの日に解禁される。今日は1月10日で、チョット早い。

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リンクの外に出て30分ほど走り、バッハヘングルに到着、この店はブドウ畑を所有している地酒屋

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バイオリンとアコーディオンの生演奏で、賑わう酒場

来店した有名人の写真を掲げていた
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クリントン ブッシュとプーチン ゴルバチョフ メルケル ベネディクト16世

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ダライラマ14世 サマランチ アラン・ドロン ソフィア・ローレン



11日目
(10月11日)
 ウィーンのホテルシェーンブルン宮殿リンク内バスの車窓観光シュテファン寺院王宮周辺散策
      
ベルヴェデーレ宮殿美術史博物館楽友協会モーツァルト・コンサート
ウィーンのホテル
(泊)

実質的には今日から始まるウィーン観光。シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿、シュテファン寺院、美術史博物館、夜の楽友協会モーツァルト・コンサートなど楽しみである。

シェーンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿はウィーンの南西部、リンクから4㎞程離れたところにある。17世紀初頭に皇帝マティアスが狩猟用の館の近くの森で、美味しい水が湧きだす「美しい泉、シェーナー・ブルンネン、Schöner Brunnen)を発見したことから、シェーンブルンという名が付いた。

その後、皇帝レオポルト1世がベルサイユ宮殿を凌ぐ大規模な宮殿造りを命じたが、財政難で規模が縮小された。その後、1743年に女帝マリア・テレジアが大改造を命じ、現在の形になった。女帝の末娘マリー・アントワネットは13歳でフランスに嫁ぐまでこの宮殿で育だった。6歳のモーツァルトが女帝の前で演奏を披露したのもこの宮殿である。

ナポレオンがウィーンを占領した際に、この宮殿は宿舎となり、失脚後、映画「会議は踊る」で有名なウィーン会議の舞台となった。ハプスブルク家最後の皇帝カール1世は、ここで1918年に退位文書に署名し、翌日宮殿はオーストリア共和国のものとなった。

オベリスクの先頭は
なぜか双頭の鷲でない
ハプスブルク家の
神聖ローマ帝国の紋章
宮殿の外から正門前
  
宮殿の正門
  

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                  宮殿正面
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宮殿の模型
これは本館部分のみ、中庭はこの模型のさらに向うにある
 

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宮殿裏側(中庭側)のテラス
 
 
テラスから眺める中庭  ネプチューンの噴水とグロリエッテ
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女帝マリア・テレジアとフランツ1世 フランツ・ヨーゼフとエリザベートの寝室
宮殿室内は撮影禁止のため図録による



シェーンブルン宮殿のベルグルの部屋

1769~1777年にマリア・テレジアが、シェーンブルン宮殿の1階に「ベルグルの部屋」と呼ばれる一連の部屋を内装させた。 これはボヘミア出身の画家ヨハン・ヴェンツェル・ベルグルに由来するもので、画家はこの部屋をエキゾチックな風景画で飾った。本来撮影禁止だが、たまたま建築関係者の団体が撮影していたので、我々もOKしてもらった。

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南国の庭園にいるような不思議な雰囲気に包まれる

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リンク内側をバスの車窓から

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曲線的な窓と飾りが面白いユーゲントシュティール(フランス語ではアール・ヌーボ)的な建築が見られた。

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ウィーンの芸術家グループ「分離派」が自ら築いた
ユーゲントシュティールの至宝といわれる分離派会館
ヒトラーが入学試験に落ちた「ウィーン美術アカデミー」
 

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ルネッサンス様式の国立オペラ座 白い尖塔が美しいヴォティーフ教会

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ギリシア神殿風の国会議事堂 ネオゴシック様式の市庁舎

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1771年にマリア・テレジアが創設したウィーン証券取引所 街路樹のある環状道路はリンクと呼ばれる



シュテファン寺院

昨夜外観だけを眺めたシュテファン寺院の内部を見学した。ウィーンの正に中心にそびえる大寺院で、12世紀半ばからロマネスク様式の教会として建てたれ、14~16世紀に現在のような後期ゴシック様式に改築された。

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正面入口
残念ながらここからは高さ137mの南塔は見えない
全長107mの身廊の奥にある主祭壇
 

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ノイシュタットの祭壇に向かう キリストとマリアの生涯を描いた中世彫刻ノイシュタットの祭壇

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正面入口の上にあるパイプオルガン
 
 
 
 シュテファン寺院から300mのペスト記念塔
1670年代、ヨーロッパ中をペストが襲い、ウィーンでの死者は10万人。終焉を記念して皇帝レオポルト1世が建てたもの。



王宮周辺散策

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「デメルを訪れずしてウィーンを語るなかれ」とまでいわれている洋菓子舗のデメルは、
フランス革命を遡ること3年、1786年に始まった。デメルに限らず、オーストリアの菓子は美味い。

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王宮 1913年に完成した新王宮

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フランツ2世像が建つ王宮前広場
 
アスペルンの戦いでナポレオンを破ったカール大公の騎馬像 マリア・テレジア広場の
マリア・テレジア像



ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿はウィーンの南部、リンクから1㎞程離れたところにある。ここはトルコ軍からウィーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公の夏の離宮。ベルヴェデーレ宮殿上宮は、19~20世紀のオーストリア絵画を展示した美術館になっており、グスタフ・クリムト(1862-1918年)のコレクションは世界最大という。

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ベルヴェデーレ宮殿正面 ベルヴェデーレ宮殿庭園の一部

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クリムト 「接吻」 1908年 クリムト 「ユディト」 1901
宮殿室内は撮影禁止のため図録による



美術史博物館

「ウィーンで美術館を1つだけ見るとしたら迷わず美術史博物館へ」といわれるほどの名画揃いである。ひと通り鑑賞したが、選りすぐりの7点を紹介する。

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美術史博物館
 
2階への踊り場の中央を飾るアントニオ・カノーヴァ(1757- 1822年)
の彫刻 「テセウスとケンタウロスの戦い」

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ブリューゲル 「バベルの塔」 1563年 ブリューゲル 「農民の婚礼」 1568-69年..

ブリューゲル 「雪中の狩人」 1565年.

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ブリューゲル 「子供の遊び」 1560年
 
テニエルス 「ブリュッセルにおけるレオポルド・ヴィルヘルム大公のギャラリー」 1651年頃.

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フェルメール 「絵画芸術」 1666-67年 ラファエロ 「草原の聖母」 1505-06年

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美術史博物館に近いブルク公園のモーツァルト像 ブルク公園脇のゲーテ像

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美術館の帰りに、Nordseeの魚サンドイッチとワインを買ってホテルで夕食にした。
来店しているお客さんの話では、このチェーン店は地元の人達にも人気があるようだ。



楽友協会でのモーツァルト・コンサート

NHKのニューイヤーコンサートで馴染みの楽友協会で開催されるモーツァルト・コンサートを鑑賞した。

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コンサート前の楽友協会 黄金のホール(Goldener Saal)

演奏が終わってカーテンのないカーテンコール

アンコールに、ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」と
ヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」が演奏された。
モーツァルトにシュトラウスを加えた、楽しいコンサートの一夜だった。



12日目
(10月12日)
 ウィーンのホテルウィーン市立公園散策ウィーンの市場見学ウィーン空港機中

ウィーン市立公園 朝の散策

ウィーンを出発する日の朝、ウィーン市立公園を散歩した。宿泊したホテルは、何とリンク(環状道路)の中にあり、リンクを横断すればすぐウィーン市立公園である。

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ヨハン・シュトラウス2世の像 19世紀の画家ハンス・マカルトの像 ブルックナーの像

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メリーウィドーを作曲したレハール J.B.Schindlerって、どんな人? 公園の中を流れるウィーン川



ウィーンの市場の見学

ホテルから空港への出発は10:30だから、まだ時間がある。ウィーンのNaschmark(「つまみ食い市場」の意)まで歩いて往復する。

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昨夜モーツァルト・コンサートを聴いた楽友会館 楽友会館の前のカールス広場に建つシュバルツェンベルグ元帥の像
碑文は、「1813年及び1814年の戦争での連合軍の勝利に満ちた司令官 公爵カール・ツー・シュヴァルツェンベルク元帥に 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 1867年」

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奇妙な飾りのある建物は、ウィーン工科大学の図書館 朝の9時前から買い物客が来る

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店の親父は、商品の陳列に余念がない 野菜の種類は豊富、葱、牛蒡、蕪まである

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整然と並べるのが、ウィーン気質だろうか

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パン屋の若夫婦 ビネガ専門店  こんなに種類があるとは驚いた!

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ここにもあったチェーン店のNordsee 魚屋

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とり肉屋 肉屋

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中国系の店もある
 
ホテルへの帰路の住宅街で見たRANGE ROVER
ナンバーが10004、EU・オーストリア・ウィーンのマークがカッコいい



ウィーン空港から帰路に着く

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ウィーン空港13:30発のオーストリア航空OS51便のボーイング777機で成田への帰国の途に着く

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離陸して間もなく、乗っている飛行機の影が霧に映るブロッケン現象
 
ウィーン郊外に多数設置された風力発電所
オーストリアは電力に占める再生エネルギーの割合は、EUで一番

帰路の航路表示



13日目
(10月13日)
機中泊成田空港

機上で迎えた日の出   ジェット気流に乗って予定より30分ほど早く7:10に成田空港到着



西欧諸国の中でまだ訪ねたことのかったオーストリア、音楽の都ウィーン、チロルの町インスブルック、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなったザルツブルクなどを訪ねる、自然と文化に溢れた13日間の旅であった。

最後に、旅行のお世話をして下さったユーラシア旅行社の長澤富美雄さんには心より感謝申し上げます。

オーストリア(1)は、ハイドンの町アイゼンシュタット、オーストリア最高峰の見える村ハイリゲンブルート、
              チロルの町インスブルックなどの旅
オーストリア(2)は、モーツァルトの生まれ故郷ザルツブルク、塩坑と湖のハルシュタット、メルク修道院、
              音楽の都ウィーンなどの旅
です。(1)をまだご覧になっていなければ、上記をクリックしてご覧下さい。


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