中央アジア(1)----キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン(前半)の旅 キルギス(アク・ベシ遺跡、プラナの塔、イシク・クル湖、ビシケク)、カザフスタン(アルマティ、タラス川古戦場)、 ウズベキスタン前半(タシケント、ヒヴァ)、トルクメニスタンへ |
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キルギスのイシク・クル湖 琵琶湖の9倍も広い不凍湖で、「中央アジアの真珠」とも呼ばれる。イシク・クル湖の向う岸は、4000m級の山々が連なるアラ・トゥ山脈で、天山山脈の支脈である。 |
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中央アジアとその周辺国 |
赤字は中央アジアの国々(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタン) ◍ 首都 タジキスタンは訪問できず 日本との時差 : カザフスタン、キルギスは日本より3時間遅れ、ウズベキスタン、トルクメニスタンは日本より4時間遅れ |
中央アジア5か国の概要 |
国 名 | ウズベキスタン共和国 | カザフスタン共和国 | キルギス共和国 | トルクメニスタン | タジキスタン共和国 (今回訪問できず) |
国 旗 | |||||
首 都 | タシケント | アスタナ | ビシュケク | アシハバード | ドゥシャンベ |
政 治 | 共和制 1991年ソ連邦崩壊により独立 1992年国連加盟 |
共和制 1991年ソ連邦崩壊により独立 1992年国連加盟 |
共和制 1991年ソ連邦崩壊により独立 1992年国連加盟 |
共和制 1991年ソ連邦崩壊により独立 1992年国連加盟 |
共和制 1991年ソ連邦崩壊により独立 1992年国連加盟 |
面 積 |
44万7400km2 |
271万7300km2 日本の7.2倍 |
19万8500km2 日本の53%、本州の88% |
48万8100km2 |
14万3100km2 日本の38%、北海道の1.8倍 |
人 口 |
2813万人(日本の22%) |
1552万人(日本の12.3%) カザフ人45%、ロシア人35%、 ウクライナ人5%、ドイツ人3% |
559万人(日本の4.4%) キルギス人52%,ロシア人 22%,ウズベク人13% |
500万人(日本の4.0%) トルクメン人73%、ロシア人10%、 ウズベク人9%、カザフ人2% |
763万人 (日本の6.0%) タジク人62%、ウズベク人 24%、ロシア人8% |
言 語 |
ウズベク語(公用語)、ロシア語 |
カザフ語、ロシア語 (ともに公用語) |
キルギス語、ロシア語 (ともに公用語) |
トルクメン語(公用語)、ロシア語 | タジク語(公用語)、ウズベク語、 ロシア語 |
宗 教 | イスラム教(大半はスンニ派)88% 東方正教会9% |
イスラム教47%、ロシア正教 44%、プロテスタント2% |
イスラム教75%、ロシア正教 20% |
イスラム教89%、 東方正教会9% |
イスラム教スンニ派80%、 イスラム教シーア派5% |
産 業 | 旧ソ連時代にアム・ダリヤ川とシル・ダリヤ川を利用した灌漑設備が作られ、綿花生産に特化したモノカルチャー経済が形成された。世界有数の綿花輸出国である。小麦や米も栽培するが、食糧の半分程度を輸入に依存する。また過度の取水によりアラル海が大幅に縮小し、農薬などによる汚染も深刻である。西部のステップ地帯では羊が放牧されている。石油、石炭、天然ガス、金の産出もある。工業は国内向けの軽工業程度。 |
旧ソ連では、ウクライナに次ぐ第3位の穀物生産国。綿花、小麦、テンサイ、ジャガイモなどが栽培されている。ソ連時代に機械化され、生産量は飛躍的に増加した。ステップ地帯では羊の放牧がさかん。地下資源が豊富で総生産の4割を占める。石炭、石油、各種鉱物を多量に埋蔵し、重化学工業がおこなわれてきた。石油に関しては外国からの投資を受け入れ、パイプラインが敷設されることになった。 |
経済の主体は牧畜で、羊、ヤク、馬を放牧している。盆地地帯では農業もおこなわれ、小麦や綿花を栽培しているが、穀物の自給率は低い。ソ連時代の無理な増産政策のため、農牧に適さなくなった土地が多い。地下資源は、石炭、金、タングステンなどを産出する。石油と天然ガスも埋蔵するが、開発は進んでいない。工業は、食品や織物などの軽工業が主である。 |
農牧業は潅漑した耕地での綿花栽培と羊の飼育が中心である。産業の中心は鉱業で、天然ガス、石油、マグネシウム、硫黄などを産出する。特に天然ガスが経済を支えており、パイプライン敷設が進められている。工業は繊維、絨毯などの軽工業と、肥料などの化学工業がおこなわれている。 |
農業に適した土地はわずかで、潅漑によって開拓された農地では綿花、そうでない土地では、小麦や果樹が栽培されている。牧畜が盛んで、羊、牛、豚が飼育されている。鉱物資源は多様で、石炭、鉛、亜鉛などを産する。工業では伝統産業である絨毯製造と、ワインなど食品加工がおこなわれている。水力発電によりアルミ精錬がおこなわれていたが、内戦で操業を停止している。 |
1人当 GNP* |
1,868米ドル/年 |
12,843米ドル/年 日本の33.4% |
1,280米ドル/年 日本の3.3% |
7,112米ドル/年 日本の18.5% |
1,045米ドル/年 日本の2.7% |
*2013年1人当の名目GNP 米ドル換算の1人当のGNP(国民総生産)、GDP(国内総生産)、GNI(国民総所得)などの経済活動指標は、必ずしも国民の平均的な豊かさを 示す ものではない。この原因には、 為替レート、税務署が把握できない経済(アングラ経済)の存在、富の平等性、環境問題、社会保障などいろいろな要因があろう。 経済学・社会学が専門でない私にとって 十分には理解できないが、 今回の旅で考えさせられた課題の1つとなった。 |
中央アジアの略歴史年表 |
西暦 | 中央アジアの歴史 | 中央アジアの遺跡・建築 訪問先を中心に |
BC1000頃 | 遊牧民の活動が盛んになる | |
545 | アケメネス朝ペルシャの侵入 | メルヴのエルク・カラ遺跡 |
327 | アレクサンドロス大王の侵入 | |
250頃 | バクトリア王朝始まる | アシガバットのニサ遺跡 |
247 | パルティアのアルサケス朝始まる | メルヴのグヤウル・カラ遺跡 |
139 | 前漢の武帝の命令で、張騫が大宛(フェルガナ)へ出発 | |
AD 230 | ササーン朝ペルシャ、パクトリアに侵入 オアシス都市が繁栄 |
ブハラのアルク城 |
629 | 玄奘三蔵、唐を出発して西域・インドへの旅へ出発 途中、イシク・クル湖、砕葉城に立ち寄る |
ビシュケクのアク・ベシム遺跡(砕葉城跡) |
651 | ササーン朝ペルシャ滅亡 | サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群 |
751 | タラズ川の戦いで唐軍の高仙芝がアラブ軍に敗れる | タラズ川の古戦場 |
874 | 中央アジア初のイスラム王朝、サーマーン朝が成立 | |
999 | 中央アジア初のトルコ系王朝、サーマーン朝を倒しカラ・ハーン朝が成立 | |
1188 | モンゴルでチンギス・ハーンが即位 | ブハラのカラーン・モスクとミナレット |
1212 | アフガニスタンから起こったホラズム・シャー朝が、カラ・ハーン朝を倒す | |
1219 | チンギス・ハーンの征西始まる | |
1220 | チンギス・ハーンがブハラ、サマルカンドを攻略 | |
1221 | ホラズム・シャー朝滅亡 | |
1225 | チンギス・ハーン西域を征服してモンゴルに帰る | |
1227 | チンギス・ハーンが西夏遠征中に死亡、その後モンゴル帝国の分裂始まる | |
1370 | ティムールが中央アジアをほゞ平定、ティムール帝国が成立 | クフナ・ウルゲンチのクトゥルグ・ティムールのミナレット サマルカンドのグリ・アミール廟 |
1409 | ティムール朝最盛期 | サマルカンドのビビハニム・モスク、ウルグベク・メドレセ |
1429 | ウルグベク天文台が建設された | サマルカンドのウルグベク天文台跡 |
1500 | シャイパニ朝がティムール朝を倒す | |
1865 | ロシア帝国、タシケントを攻略 | ブハラのバラハウズ・モスク |
1868 | サマルカンド、プハラがロシア帝国に併合される | |
1917 | ロシア2月革命により社会主義政権誕生 | |
1922 | ソビエト連邦結成、中央アジア5か国は自治共和国として参加 | |
1927 | 中央アジア5か国はアラビア文字を廃止し、キリル文字を導入 | |
1991 | ソビエト連邦崩壊に伴い、中央アジア5か国は独立 |
中央アジアの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図 |
赤線はGPSによる軌跡 は移動方向 ・・・は国境 ①②などは宿泊地 成田~⑧は中央アジア(1) ⑨~成田は中央アジア(2) |
1日目 (5月21日) |
成田空港→機中(泊) |
成田空港 |
成田からウズベキスタンのタシケントへ向かう。日本との時差は、ウズベキスタンとトルクメニスタンが日本より4時間遅れ、キルギスとカザフスタンは日本より3時間遅れである。 |
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成田空港21:20発のウズベキスタン航空HY528便のボーイング757機でタシケントに向かう 飛行時間9時間30分、時差4時間で、タシケント到着翌日の02:50 |
2日目 (5月22日) |
ウズベキスタンのタシケント空港(乗継)→キルギスのビシケク空港→プラナ →アク・ベシム→イシク・クル湖畔のサナトリウム(泊) |
キルギスに着く |
ウズベキスタンのタシュケント空港に2:50に到着して、乗継のウズベキスタン航空HY779便の エアバスA320機で05:30に出発し、キルギスのビシケク空港に07:45に到着した。 |
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キルギスのビシケク空港で入国手続をし、待機していたバスに乗る |
ビシケクの市外に出ると雪を抱いたキルギス・アラトーの山が見える。その手前は、中国がキルギ国内の幹線道路を建設し、物流の拠点にしたコンテナ・バザールだとか。 |
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道路にほぼ並行して流れるチュウ川。川の向うはカザフスタンだ |
国境に張られた鉄条網。キルギスとカザフスタンの間には現在国境紛争はないが、麻薬密輸入の問題があるそうだ。 |
アク・ベシム遺跡 |
ビシュケクからイシク・クル湖への途中にあるアク・ベシム遺跡は、仏教寺院跡である。ここは6-7世紀のソグド人の首都スイアブ城(漢字で砕葉・素葉・破葉)があったところである。長い間スイアブ城の位置は確定していなかったが、1998年からの調査でここであると断定された。多くの仏教関係の出土品はモスクワにあるという。 |
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遺跡の入り口には簡単なゲートがあるが、どこからでも入れる | 寺院の外塀の跡だろうか |
日干し煉瓦の遺跡であるため、崩壊がひどく、想像を逞しくしなければ往時の面影は浮かばない。 |
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遺跡にはケシのほか、色とりどりの野草の花が咲いている |
玄奘三蔵とアク・ベシム遺跡 |
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玄奘三蔵の俗名は陳緯。13歳くらいに得度して玄奘を名乗り、兄とともに長安に出る。その後、成都・荊州などもまわって各地で仏教を学ぶが諸師の教える所がまちまちで互いに矛盾を含んでおり、どれが正しいのか悩む。やがてそれを確かめるにはインドに行って原典を取ってくるしかないと決意する。彼はその旨を太宗皇帝に三度も願い出るが、当時は国外への旅行を禁じていたため却下される。とうとう貞観7年(633)、彼は国禁を犯して無断で玉門関を越え、国外に出る。 数々の困難、そして高昌国の国王の歓迎と援助などがあった。最終目的地ナーランダに到着した。ここにはナーランダ僧院(大学)があり、5年の間、仏教、科学、薬学、医学を学んだ。最後の2年は教授として教鞭についた。帰国の途では天山山脈の南側を通るルートを選び、国境まで到着した。そこで、禁を犯して国を出たことをお詫びし、自分が多数の経典を持ち帰ったことを報告する手紙を太宗皇帝に出し、返事を待つ。許可がおり、貞観19年(645)1月に長安に帰着した。持参品は膨大な経典、仏像など(馬22頭で運んで来たらしい)である。帰国後、国家事業として翻訳に取りかかる。旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめた。 「大唐西域記」には、スイアブ城は素葉城、イシク・クル湖は大清池と記されている。 |
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宗教法人大信寺のホームページから引用 |
ブラナの塔とバラサグン遺跡 |
ビシュケクからイシク・クル湖への途中、荒野の中にブラナの塔とバラサグン遺跡がある。ここは1000年ほど前の古都の跡だというから、この塔は見張り台だったのかもしれない。 |
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遺跡の入り口には一応門がある | 川の流れが自然に蛇行していて面白い |
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ブラナの塔はこちらから見ると少し傾いている 現在の塔の高さは24mだが、45mあった塔の上部は 15、16世紀の地震で崩壊したという |
塔の外壁は煉瓦の模様が面白い 真っ暗の中を、らせん階段で登る |
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塔の上からの展望は素晴らしい 彼方からやってくるラクダの隊商が見えるような気がする |
キルギス・アラトーの山々が展望できる |
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ブラナの塔のすぐ隣にあるバラサグン遺跡は もともとあった遺跡に、キルギス各地から石人を集めた野外博物館 |
乗馬で現れたのは、巡視の人だろうか、散策の人だろうか |
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石人はみんな馬乳酒のカップを持っている 彫られているアラビア文字の内容から、ここは10世紀から13世紀のカラ・ハン朝の首都の一つバラサグンと推定さたという |
騎馬ショー |
十騎余りの騎手が1つの山羊を奪い合う騎馬ショーを見た |
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騎手は二手に分かれ、首のない山羊を奪い合い、それぞれの陣営にあるゴールに投げ込んだ方が勝ち |
伝統料理の昼食後、イシク・クル湖へ |
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キルギス伝統料理の昼食 | ナン、揚げパン、酸味の利いた麦ジュース | 肉と麺を混ぜたベシュバルマック 野菜サラダとヨーグルト |
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チュイ川を遡る。 この川はイシク・クル湖から流れ出しているように見えるが、実は湖の手前数kmで屈曲し、水源は南のキルギス・アラトーである。 イシク・クル湖から流れ出す川はないという。 |
道路は中国の政府援助で建設されている 労働者も中国人(多分ウイグル人だろう) |
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チュイ川の両岸は堆積岩だが、奇妙な色合いである |
イシク・クル湖のサナトリウムへ |
キルギスの首都ビシュケクからの鉄道(シベリア鉄道にも通じているという)の終点バルクチを経て、イシク・クル湖の北岸を東に走り、湖のほぼ中央の町チョルポン・アタにあるサナトリウム(リゾートセンター)に着く。 |
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サナトリウムの入口 | サナトリウムには、100を超すコテージや保養施設がある |
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ちょうどチューリップの花の盛りで癒される | 私は右手前のコテージに2連泊した |
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コテージはミニキッチン付で、広く、清潔で、心地よかった |
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サナトリウムの白樺林を10分程かけて通り抜けると湖畔に出る | イシク・クル湖の南岸のテルスケイ・アラトー(天山山脈の支脈) の4000m級の山々が遠望される |
イシク・クル湖について イシク・クル湖はキルギス北部に横たわる東西180km、南北30~70km、最大深度668m、琵琶湖の約9倍の面積を有する湖。 ソ連時代には外国人は立ち入り禁止で、天山山脈の山ひだ深く隠されている幻の湖で、「中央アジアの真珠」ともいわれている。 湖の南岸の山々はテルスケイ・アラトーで、天山山脈の最高峰ポベダ峰(7439m)やハンテングリ峰(6995m、最近の地図には 7010mと記されているが、地元ではこれは氷河を含めた高さだといっている)などの7000m級の山々に続いている。湖水の 塩分濃度は0.6%程度(海水の平均塩分濃度は3%)である。湖水をなめてみると僅かに塩味がする。イシク・クル湖はバイカル湖 などと同様古代湖の1つであるが、成因は明らかではない。 イシク・クル湖の三不思議 1.世界でも有数の高山湖で、海抜約1600mにあるが、不思議なことに不凍湖である。湖底に温泉があるからだといわれている。 イシク・クルとはキルギス 語で「熱い湖」の意味である。 2.湖には周りの山々から118の川が流れ込んでいるが、流れ出る川は1つもない。 3.湖の透明度はバイカル湖に次ぎ20m。湖上から水中を覗けば古城や集落の跡が見えるという。なぜ湖底に沈んでしまったのか。 6世紀に玄奘三蔵が インドへの途中に通った道は湖底にあるといわれるので、湖面水位は当時は現在はよりも低かったことに なる。探検家ブルジェワルスキーの墓地は 湖のほとりに作られたが、今は湖面から10m以上の丘の上にある。したがって 120年前の水位は現在よりも高かったことになる。 |
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GooglEarthより作成 |
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レストラン・ロッジ | キルギス産(?)のビール |
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ポタージュスープ | ポテト、オムレツ、コリアンダ(香草)のサラダ | 包んで揚げた魚とデザートケーキ |
中央アジアの自然条件 |
ここで、中央アジアの自然条件について考察しておこう。自然条件は車窓から眺める風景を理解するのに役立つだけでなく、植生や農業・牧畜などの産業とも深く関係するからである。 |
中央アジアの地形 |
広域の地形を調べるのにもっとも簡単な方法はGoogleEarthの衛星画像を見ることであろう。下の画像は、2013年4月10日に撮影されたGoogleEarth画像に、さらに私が中央アジアの範囲の主な河川・内海・湖沼・山脈・砂漠などの名称を記入したものである。 |
アジア大陸の気候区分 |
ドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペン(Wladimir Peter Köppen)は、植生分布に注目して、1923年に「ケッペンの気候区分(Köppen-Geiger
Klassifikation)」を考案した。気温と降水量の2変数から単純な計算で気候区分を決定できることに特徴がある。現在でも気候・産業・文化・農業を論ずる上で欠かすことができない。その一方で、 ◍ 植生にのみ注目しているため、人間生活などの感覚になじまない部分がある ◍ アジアやアフリカの気候に関しては的確に分類されているとはいえない といった問題点も指摘されている。 下の画像はWikipediaに掲載されている全世界気候区分図から、中央アジアを含むアジア大陸部分を切り出したものである。これから中央アジアの気候区分は寒冷なカザフスタン北部を除くと、主として、BWk(砂漠気候))、BSk(ステップ気候))、Dsa(高地地中海性気候)、Dfa(亜寒帯湿潤気候)などからなることがわかる。同じ「砂漠気候」といっても、中央アジアはBWk(年平均気温が18℃未満)で、エジプトやアラビア半島のBWh(年平均気温が18℃以上)のように人間を寄せ付けない灼熱の砂漠ではない。 |
上記の記号の組み合わせにより、次のように区分される。 詳しくは、Wikipediaケッペンの気候区分を参照されたい。 |
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3日目 (5月23日) |
イシク・クル湖畔のサナトリウム→カラコル→サナトリウム(泊) |
イシク・クル湖ミニクルーズの後、湖の北岸をバスを走らせて、東岸にあるカラコルに行く。カラコルは標高1720mに位置している高原都市。イシク・クル州の州都でもある。2009年の人口は67,100人というが、現在は20万ともいう。1941年から1991年までは、この地域で活躍し死去したロシアの探検家ニコライ・プルジェバリスキーに因んで、プルジェバリスクと呼ばれた。 |
イシク・クル湖ミニクルーズ |
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小さな船で、1時間のイシク・クル湖クルーズに | 船は我々14人で貸切、生憎の曇天であるが、雲の晴れ間に4000m級の山が見えた |
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クルーズを終えて、再びバスで湖の北岸を東に向かう | 桑の葉を摘んだロバの荷車に出逢う |
バスを停車させて天山山脈の支脈の山々を眺める |
プルジェヴァルスキー墓地と博物館 |
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ロシアの探検家プルジェヴァルスキーの記念碑と墓地と博物館 がある公園はトウヒの森に包まれている |
記念碑は自然石を組み合わせた高さ8.2m、重さ365トンの立派なもの。ブロンズの鷲のウイングスパンは2.5m、口には食物の象徴のオリーブをくわえている。正面にはロシア正教の十字架と本人のレリーフが嵌められている。 |
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記念碑のすぐ裏に墓碑がある。 | 記念碑からイシク・クル湖がよく見える。墓は彼の遺志により湖のほとりに 作られたが、今は湖面から10m以上の丘の上にある。したがって120年間に 水位が下がったことが暗示される。 |
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プルジェヴァルスキーは身長199cm、休重140kgの偉丈夫で、4回のチベット・インド・中央アジア探検をしたが、5回目の探検の時にチフスにかかり49歳で亡くなった。博物館には彼の探検の足跡を示す壁いっぱいの地図、当時の探検隊が撮影したモノクロ写真、測量器具、発見者プルジェヴァルスキーの名を付された野生の山羊や馬の剥製などが展示されている。 |
プルジェヴァルスキーの記念碑・墓地・博物館を見学した後、食べた昼食 | ||||||
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シイタケ・キャベツ・キチン入りサラダ | 麺入り中華ドゥンガン・スープ | タイ風の肉とごはん | アイスクリーム |
ロシア正教教会 |
ロシア人はキルギスの人口の約20%しかいないが、立派なロシア正教の教会が建てられている。この教会は1870年代に焼き煉瓦で作られたが、1880年の地震で壊れ、木造で再建されたという。 |
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ロシア正教の聖三位一体教会。木造なので外観からも落ち着いた雰囲気が窺える。 |
ドゥンガン・モスク |
ドゥンガン人は19世紀に中国西部で迫害され、当時ロシア帝国領であった中央アジアに逃げ込んだ人々の子孫である。カラコルの人口は約20万、そのうち40%がドゥンガン人で、この小さなモスクでは同時に礼拝できない。そこで、大きなモスクを建てる計画があるという。 |
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小さなモスクだが、ドゥンガン人のイスラム信者がお参りしていた | アラビア文字がデザインされたイスラム・モスクだが、桃の木彫りはいかにも中国的である | イスラム教徒の1日5回のお祈りの時間を示す |
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カラコルのプルジェヴァルスキー博物館、ロシア正教教会、ドゥンガン・モスクを見学したのち、イシク・クル湖の北岸の道を西に引き返す |
岩絵野外博物館 |
カラコルからサナトリウムへの帰路に岩絵野外博物館を見学した。博物館といっても建物も柵もなく、絵が描かれた岩が転がっているだけである。岩絵の多くは4000年前からのものと推測されている。 |
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岩絵野外博物館はイシク・クル湖の見える山の斜面にある | 山ヤギの絵が多い |
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雪豹か | これも山ヤギ |
4日目 (5月24日) |
イシク・クル湖畔→ビシュケク市内観光→ホテル(泊) |
イシク・クル湖から首都ビシュケクへ戻る |
2泊3日のイシク・クル湖の旅が終わり、往路と同じ湖の北岸沿いの道路を通ってキルギスの首都ビシュケクへ戻る。 |
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イシク・クル湖北岸の道路沿いにある土産物店 | ここでお土産に買った蜂蜜の味は最高だった | 魚の干物 |
沿道から見たイシク・クル湖の南岸のテルスケイ・アラトー(天山山脈の支脈)の4000m級の山々 |
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3年前に作られたエコポスト 環境保護のため、乗用車100ソム(約200円)、バス1000ソムを集金したが、汚職のために今は中止とか |
チュイ川沿いに、首都ビシュケクとイシク・クル湖畔のバルクチを 結んでいる鉄道線路、今は乗客はなく貨物のみ1日2便 ソ連時代にはモスクワに武器を運んでいたという |
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ビシュケクのレストランarzuで昼食 | パン、揚げパン、フルーツ |
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トマト、ピーマン、玉ねぎのサラダ | 骨付き羊とニンジンのスープ、細ネギ入り | 牛肉のプロフ(ピラフ) |
プロフ(ピラフ)に見るアレクサンドロス大王以来の2300年の食の歴史 |
今回の中央アジア旅行中に各地で最も頻繁に食べた米料理。ピラフの語源となったピラヴは、トルコでは一般的な料理で、トルコからフランスに入ってフランス料理のピラフとなった。ピラフはトルコから中央アジアにも伝わり、現地に居住するウイグル人やキルギス人の間でポロの名で親しまれている。主に、羊肉、羊の脂、ニンジン、タマネギを具として用い、干しぶどうやヨーグルトをトッピングにする。ポロは中国語のチャーハン(炒飯)に似ているが関連性はないという。 ピラウが記述される最古の文書の一つはアレクサンドロス大王の歴史で、バクトリアの歓待で記述される(バクトリアは東イラン地域であり、アレクサンドロスの妻ロクサネの出生地で、地理的に現在のウズベキスタンに位置する)。プラーウはしばしば、ペルシャ人発祥の最古の米料理であるとされる。アレクサンドロスによるソグディアナの都市マラカンダ(現サマルカンド)占領においてこの料理が供されたことが知られている。アレクサンドロス軍がこの料理をマケドニア王国に持ち帰り、東ヨーロッパに広まった。ソビエト連邦時代に、この料理が広まりロシア、ウクライナ、グルジアといった様々な場所で人気となった。 Wikipedia他による |
アラ・トー広場と国立歴史博物館 |
ビシュケクの町はソ連時代の都市計画で作られた典型的な町。市内のほぼ中央を東西に走るチュイ大通りにアラトー広場があり、大統領府、国立歴史博物館はこの広場に面している。 |
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キルギス共和国の大統領府 | 英雄マナス王の像とキルギスの国旗 | 4時間ごとの国旗を守るの衛兵の交代 |
英雄マナス王 マナス(Manas) は、キルギスに伝わる叙事詩であり、またその主人公たる勇士の名でもある。口承された数十万行に及ぶ叙事詩で、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』、古代インドの『マハーバーラタ』などよりもはるかに長い。『ギネス世界記録』では世界で最も長い詩と認定され、その長さは50万行を超えると紹介されている。 マナスから始まり、その子セメテイ、孫セイテクと続く、計8代の事跡をうたう。契丹人とカルムイク人との戦いが叙事詩の主要なテーマになっている。口伝としてのマナスの生まれた時代は、7世紀~10世紀とも15世紀~18世紀とも諸説がある。15世紀の初期にマナスについて触れた文献があるが、1885年までは書物になることはなかった。マナスはマナスチ ( Manaschi) と呼ばれる語り手によって語られる。 Wikipediaによる |
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今では珍しいレーニンの像 かつて国立歴史博物館の正面にあったが、2003年に裏側に回された |
キルギス国立歴史博物館(これは裏側である) |
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歴史博物館ができたときはロシア正教の国、現在はイスラム教の国 人類の誕生の場面の展示にも苦労が偲ばれる |
2階は歴史場面、ロシア革命時代のレリーフが多い |
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3階はキルギスの遊牧民の暮らし ユルタの外観と内部 |
博物館の売店で売っていたキルギスの立体地図 国名、首都名、湖名、概略の国境を私が書き加えた。キルギスの国土の40%以上が標高3000m以上の山地である。 |
町で見かけた若い女性 |
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タンデムの自転車に乗る若者 | ローラースケート靴の女の子 | にこやかに手を振ってくれるお嬢さんたち |
バザール |
バザールを覘くと、品数が多いのに驚く。撮影禁止のバザールが多い中で、 このバザールは撮影OK。 |
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八百屋さん | 自家製のナンだろうか |
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コメにこんなに種類があることを初めて知った | 豆のいろいろ |
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ドライフルーツの種類が多いのも中央アジアの特徴 | 肉屋さん、もちろん羊肉 |
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この小母さんが売っているのはさしずめ脱法ドラッグか | ブラジャー専門店 |
ホテル |
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ビシュケクのアク・ケメ・ホテルに着く。バスタブもあるし、いいホテルだ。 |
夕食 |
ホテルのレストランで夕食 |
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トリ肉入りの野菜サラダとキノコスープ |
牛肉・ポテト・ブロッコリーのメダリオン |
ワインはスペイン産でした デザートにはパンケーキ |
5日目 (5月25日) |
キルギスからカザフスタンへの国境越え→カザフスタン→アルマティ市内観光→ホテル(泊) |
キルギスからカザフスタンへ |
陸路でキルギスのビシュケクからカザフスタンのアルマティへ行く途中、国境を通過する。陸路での国境通過は大変だと聞いていたが、やはり順調に行っても1時間50分かかった。 |
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ホテルの窓から見える山々 | 8:50にキルギス側国境入口に着いた。ここからは撮影禁止。 |
10:40にカザフスタン側国境を出た。国境通過に要した時間は1時間50分(人間はスムーズだったが、車の通過に時間がかかった)。国境を越えてほっとしたガソリンスタンドから見えた草原と山が美しかった。カザフスタンのこの付近には山はないから、これは南側のキルギスの山だ。 |
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悠々と道路を横断する放牧された馬 | 携帯電話基地局とそれらを結ぶマイクロ回線 |
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中古車市場はほとんどが日本車だという | ロシア正教の教会 |
アルマティで昼食 |
国境通過に予想外の時間がかかったので、アルマティで遅めの昼食 |
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昼食を食べたレストラン |
レストランの入口にあった障害者用のコールボタン ボタンを押すと店員がサポートしてくれるようだ |
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客室からキッチンが見える | 中央アジア料理にも慣れ、食欲が進む |
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ナンと野菜サラダ | 野菜たっぷりのスープ | コルダック(ウイグル風の肉ジャガ) |
28人のパンフィロフ戦士公園 |
大祖国戦争(第二次世界大戦での対ドイツ戦)のとき、カザフス社会主義共和国から出征しモスクワを防御し、戦死したパンフィロフ将軍率いる28人の戦士を記念して造られた「28人のパンフィロフ戦士公園を見学した。 |
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公園の入口、古い野戦砲なども展示されている | 28人の戦士をかたどった力強いモニュメント |
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第一次世界大戦戦勝記念 | 第二次世界大戦戦勝記念 |
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カップルの誕生を祝う若い人たち |
28人のパンフィロフ戦士公園に隣接するゼンコフ正教教会 1904年に建てられた木造建築、1911年の大地震で倒れなかった |
カザフスタン国立中央博物館 |
カザフスタンの首都アルマティにあるカザフスタン国立中央博物館を訪ねた。館内は撮影禁止で、有名な「黄金人間」(レプリカ)のみ5ドルで撮影できるというが、バカバカしいので撮影しなかった。建物は立派だが見るべきものがなかったような気がする。 |
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カザフスタン国立中央博物館 | 博物館でもっとも有名な「黄金人間」 アルマティ近郊で古代スキタイ戦士の墓から発掘された紀元前5世紀のもの(これはレプリカで、本物は金庫に保存されているという) 写真はWebsiteから引用 |
アルマティのホテル |
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アルマティのオトラル・ホテル |
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ホテルの窓から天山山脈支脈の山とゼンコフ正教教会が見える | ホテルの近くに見つけたケンタッキーFC |
6日目 (5月26日) |
アルマティ→タラズ→ホテル(泊) |
バスの車窓から |
アルマティからタラズまで約7時間のバスの旅。車窓を眺めるのも楽しい。 |
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羊の群れ | 高台にはイスラムの墓地が多い |
野生の赤いケシの花が咲き乱れるところで車を停めてもらった |
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ケシの花は今が盛り | 養蜂のトレーラー |
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綿花の世話をする農家の人たち |
珍しいビニール温室栽培 気温を高めるよりも水分の蒸散を防ぐのが目的ではないかと推測 |
コルダイの町で昼食 |
長いドライブの中間点でちょうど昼食 |
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昼食のためレストランに入る。このあたりの路上で気温40度。 しかし湿度が低いのでそれほど不快感はない。 |
レストランの庭では、少しでも気温を下げようとミストを散布している |
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パンと揚げパン | サラダにトッピングされた コリアンダの香にも慣れた |
スープうどん | 肉・魚・野菜グリルを トッピングしたうどん |
タラスの古戦場 |
「タラス河畔の戦い」は751年5月から9月にかけて、中央アジアのタラス地方で唐軍とアラブ軍の間で中央アジアの覇権を巡って行われた天下分け目の戦闘である。 750年、西域に駐屯していた唐の将軍高仙芝が西のソグディアナに圧力をかけた。そのため、シャーシュ(石国、現在のタシュケント)の王子は、イスラム勢力に支援を要請。これに応じてアッバース朝のホラーサーン総督は、部下のズィヤードを派遣。一方、漢人・土着からなる3万(あるいは10万人)の唐軍は、高仙芝に率いられタラス城に入った。 751年7月、ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、タラス河畔で衝突した。戦いの最中、唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったため、唐軍は壊滅し数千人を残すのみとなった。高仙芝自身は撤退には成功したものの、多くの兵士が捕虜となった。唐側の被害は甚大で、アッバース朝軍は「唐軍5万人を殺し、2万人を捕らえた」といわれている。 この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。唐の勢力はタリム盆地に限定されることとなり、まもなく起こった安史の乱の影響もあって唐の中央アジア支配は後退していった。中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。 Wikipediaによる |
戦闘はこのタラス河を挟んで行われた。遺跡はほとんど残っておらず、地元でも知らない人が多いという。 |
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丘の上にイスラムの霊廟があり、イスラム教に貢献した人の棺が安置されている |
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モスリムは霊廟で結婚式を行うことが多いという。我々旅行者もどうぞ写真に入って下さいと言われ、参加した。 |
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タラスの古戦場からタラスの町に戻り、ホテルで夕食をした。田舎町の質素なホテルだったが、楽しい一日だった。 |
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サラダ |
厚揚げのように見えるが 思い出せない |
ヌードルスープ |
サーモンのフライ |
7日目 (5月27日) |
タラズ→カザフスタンからウズベキスタンへの国境越え→タシケント→ホテル(泊) |
アイシャ・ビビ廟 |
カザフスタンのタラズの市内から12km西のアイシャ・ビビ村にアイシャ・ビビ廟と呼ばれる12世紀の霊廟がある。この廟にはアイシャ・ビビの悲話伝説が伝えられている。 カラハーン朝の君主はサマルカンドで商人の娘アイシャと恋に落ち、結婚を誓い合った。君主はアイシャを連れ、タラスへ出発しようとするが、アイシャの父はこれに反対し、君主はひとりでタラズへ戻った。しかし、娘に同情した母親は、乳母のババジ・カトゥンを付けてアイシャをタラスへと旅立たせた。アイシャは、君主に会う前にタラス川で身を清め、花嫁衣装を付けた。そして、草の上に置いたベールを手に取った。ところが、ベールにひそんでいた毒蛇に咬まれてしまった。そのことを知った君主が駆けつけ、瀕死のアイシャを抱き上げ、司祭に結婚式を挙げてもらい、彼女以外の妻を持たないこと、立派な廟を建てることを誓った。まもなく、アイシャはビビ(妃)となって息絶えた。 このような事情でアイシャ・ビビ廟の隣にで乳母のババジ・カトゥン廟も建てられているのである。 地球の歩き方他による |
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ポプラの幹が白く塗ってあるのは虫除けのための石膏だというが、 夜の走行の際に道幅の目安になる効果も大きいという |
ところどころに見られる門は、ソ連時代の検問所の名残りだという |
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左側がアイシャ・ビビ廟。右側が乳母のババジ・カトゥン廟。円錐形の屋根の尖端についている捩れ模様はゾロアスタ教の名残りといわれている。 | アイシャ・ビビ廟の見事な煉瓦積み模様 |
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アイシャ・ビビ廟の内部には棺が置かれている |
乳母のババジ・カトゥン廟はちょっと小振りであるが、 角錐形の屋根が珍しい |
バスの車窓から |
アイシャ・ビビからウズベキスタンへの国境まで昼食をはさんで6時間のバスの旅である。 |
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カザフスタンの南側(キルギス側)に見える天山山脈支脈の山々 | 農業機械はあまり見かけない |
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青空トイレをした麦畑、実りはよくないようだ | この辺りは乾燥した土漠だ |
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いい色の野草が咲いていた |
タンポポのような綿毛の直径は10㎝位あったが、 撮影するときに比較するものを入れ忘れて残念 |
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沿道には工場はほとんど見かけない | 珍しい形のモスク、この地方では一番大きいという |
昼食 |
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シムケントの町のチャイハナで昼食 チャイハナとは「茶店」のことで、 インドから中央アジアを経て、トルコにいたる一帯で、
使われる言葉 長距離トラックの運転手が仮眠をとることもできる。私には、ラクダの隊商が宿泊したシルクロード時代のキャラバンサライを連想させる。 |
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草原の国の憧れ「大洋に浮かぶ帆船」の絵があったのだが、撮影し忘れた | 包子というか蒸し餃子というか、なかなか旨かった |
カザフスタンからウズベキスタンへ |
最近は空港で入出国管理を受ける場合が多いが、今回は何度か陸路で国境を越える場合があった。経験した国境検問所の配置を図にしてみた。 |
カザフスタン側のゲートから出国側検問所まで荷物を手運びさせられ、ウズベキスタン側検問所のゲートを出るまで2時間を要した。 |
A | 国境検問所配置の概念図 |
◍ 国境検問所では出入国管理(パスポート・コントロールとイミグレー ション・コントロール)が行われる ◍ 検問所によっては、人間と手荷物だけ通過させ、スーツケースは 別途車と一緒に検査するところもある ◍ 緩衝地帯の幅は、場所により1~2kmもあり、スーツケースを押し ながら徒歩または指定の有料タクシーを使用させられる |
ウズベキスタンのホテル |
カザフスタンから2時間かかって国境を越えてウズベキスタンに入国し、首都のタシケントのホテルに到着した。 |
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ソ連時代に建設された立派なタシケントのホテル・ウズベキスタン | ホテル14階客室からの眺め |
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ホテルの客室 |
8日目前半 (5月28日) |
タシケント→ウルゲンチ→ヒヴァ観光→ホテル(泊) |
タシケントからウルゲンチ経由でヒヴァへ |
首都タシケントを早朝発って、飛行機とバスで歴史都市ヒヴァに向かう。 |
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タシケントを早朝発って、タシケント空港から国内線の 双発プロペラ機IL-114-100機でウルゲンチ空港に着く |
バスでアムダリヤ運河(アムダリヤ川の支流らしい)を渡る タシケントからウルゲンチへの間にアムダリヤ川上空を飛んだようだ |
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かつてキャラバンの道だった。道路の両側はニレノキが多い。 ニレノキは水が少なくても育ち、木彫の材料になるという。 |
珍しく水田がある。 ウズベキスタンの米の生産高は世界75位で多くはない。 |
因みに中央アジアの他の国の米の生産高順位は、カザフスタン(50位)、トルクメニスタン(69位)、タジキスタン(81位)、キルギス(96位)、なお日本は10位である。 |
ヒヴァのホテルに着く |
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泊まったヒヴァのホテル「マリカ・ヘイヴァク」は、内城にある 内城というのは、二重の城壁の最内部のこと |
ホテルの中庭、泊まった部屋は2階の左側 ヒヴァで1番高いイスラーム・オジャ・ミナレットの上部が見える |
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部屋の内部、質素だが木彫のロッカーがある |
ヒヴァの町は二重の城壁で囲まれている。外側にあるのは、1842年にカラクム砂漠との境に築かれたディシャン・カラという全長6kmの城壁である。内側にあるのは中世ヒヴァの町を取り巻いている古い城壁で、東西約340m、南北約520mの長方形。この内部を内城(イチャン・カラ)という。泊まったホテルは、この内城にある。ヒヴァの内城(イチャン・カラ)は1990年にユネスコの文化遺産に登録された。 |
内城のメインストリートを歩く |
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カメラを向けると修学旅行の子供達が集まってきた | 家族連れの観光客も多い |
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内城のメインストリートは土産物屋が並ぶ |
青の彩釉タイルが美しい未完成のカルタ・ミナル。1852年着工。 直径14mだから、高さは70~80mあってもおかしくないが、26m。 |
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上の写真をクリックすると、内城の大きな地図をご覧になれます | 上の写真をクリックすると、シルクロードの地図をご覧になれます |
ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセは1852年に完成した中央アジアで最も大規模な神学校。現在はホテルになっている。 像の人物ムハンマド・アル・ホレズミ(783-850)は、ホレズム帝国の科学者で幾何学の祖といわれる数学者 (パノラマ撮影のため歪んでしまった) |
キョフナ・アルク(古い宮殿) |
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キョフナ・アルクの城壁の入口 | クリニシュ・ホナ(謁見所) |
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クリニシュ・ホナの美しいタイル | クリニシュ・ホナの天井絵 |
最上階に登ると、キョフナ・アルクが城塞の中の城塞であることがわかる |
ジュマ・モスク(柱の博物館) |
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ミナレットは高さ42m | モスクの中心にある霊廟 | インドから贈られた柱 |
多柱式建築で、中央アジアでもっとも有名なモスクの1つ。10世紀に建てられ修復工事を重ね、今の形になったのは18世紀頃。 広さ55×46m、高さ5mで、柱の数は213本。説教台からは、礼拝している人々を見渡せる。 |
民家で昼食 |
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ニンジンと餃子のスープ | 牛肉のプロフ | フルーツ |
タシュ・ハウリ宮殿と裁判所 |
タシュ・ハウリ宮殿は、1830年から1838年にアラクリ・ハンによって建てられた宮殿。ヒヴァの中でも豪華なタイルや装飾インテリアで飾られているが、ハンは中庭に建てられたユルタにいるのを好んだという。 |
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タシュ・ハウリ宮殿の中のハーレム 4人の正妻の部屋(左の写真の左側に並ぶ)とハーンの部屋(右の写真) |
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裁判所と壁のタイル、アーモンドのデザインが美しい |
内城の風景 |
内城は東西約340m、南北約520mの長方形の内部。一人歩きには安全な範囲で、隈なく歩けた。 |
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ヒヴァで1番高いイスラーム・オジャ・ミナレット(高さ45m) | 迷路のような道を歩いていると、美しい石畳に出た |
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夕立のメインストリート | 夕立の後の風景 |
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カラフルなお土産を売る店 | 毛皮の帽子は熱を通さず涼しいそうだ |
夕食 |
ホテルのレストランで夕食 |
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スープ | ヒヴァ名物のシビットオシ ディール(セリ科の一年草)の葉をすり込んだ緑の麺 |
ケーキ |
9日目前半 (5月29日) |
ヒヴァ→ウズベキスタンからトルクメニスタンへの国境越え →クフナ・ウルゲンチ (中央アジア(1)はここまで) |
ヒヴァの朝 |
朝ちょっぴり早く起きて出発の時間まで内城の観光場所と地元の生活圏を散歩した。 地元の人たちは結構早起きである。 |
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朝日を受けてミナレットのタイルが美しい |
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朝から屯する老人たち | 家の前を掃除するご主人 |
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「何を採っているのですか」と尋ねた | 桑の実だった | 「どうぞ」といって1粒頂いた |
ウズベキスタンからトルクメニスタンへ |
ウズベキスタンのヒヴァを朝出発して、陸路で国境を越えて、トルクメニスタンのクフナウルゲンチへ向かう。 |
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家の前に植えたジャガイモ | 桑の葉をロバで運ぶ少年、ウズベキスタンの生糸生産高は世界5位 |
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ウズベキスタン側の国境検問所の入口 |
出入国手続きは順調で50分で済んだ。トルクメニスタン側の国境検問所の出口を振り返ると、ベルディムハメドフ大統領が微笑んでいた。この写真にはトルクメニスタン滞在中ずーっとお目にかかることになる。 |
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ここはトルクメニスタン、アムダリヤ川の支流らしい運河を渡る この辺はカラクム砂漠で、綿花栽培のための灌漑用運河が多い |
ロバ車で綿花を運ぶ人 世界の綿花輸出量は、ウズベキスタン5位、トルクメニスタン6位 |
トルクメニスタンに入国したところで、中央アジア(1)は終了します |
中央アジア(1)は、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン(前半)の旅でした。如何でしたか。 中央アジア(2)は、トルクメニスタン、ウズベキスタン(後半)の旅です。 引き続き、下の [次へ] をクリックして、中央アジア(2)をご覧ください。 |
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