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 中央アジア(2)----トルクメニスタン、ウズベキスタン(後半)の旅
   
トルクメニスタン(クフナ・ウルゲンチ、アシガバット、ニサ遺跡、メルブ遺跡、マーリ)、
   ウズベキスタン後半(ブハラ、シャフリサブス、サマルカンド、タシケント)


 中央アジアの旅 第1部はいかがでしたか。 ここからは第2部をお楽しみ下さい。

 第1部のキルギスでは、イシク・クル湖と天山の山々の展望、首都ビシュケクなど、カザフスタンでは、首都アルマトイ、唐とアラブの古戦場タラスなど、ウズベキスタン(前半)では、古都ヒヴァを訪問した。

 第2部では、トルクメニスタン、ウズベキスタン(後半)を訪ねる。中央アジアはアレクサンドロス大帝の東征、モンゴル帝国のチンギス・ハーンの西征など東西の勢力の侵入が絶えなかった。その中にあってシルクロードとしての文化と生活が営々と続けられてきた。そのような点が中央アジアの魅力であろうか。近代に入るとロシア帝国の南下政策で、中央アジアは帝政ロシアの支配下に入る。今も中央アジアの人々は「帝政ロシアが中央アジアを近代化してくれた」という認識が強いように感じられる。

下ってソ連邦の時代になると、中央アジアはソ連邦の植民地政策の下で国ごとに定められた綿花などのモノカルチャー経済を強いられ、1991年の独立後の経済再建に苦労している。また、アムダリヤ・シルダリヤ両河川からの無理な灌漑によりアラル海の縮小と環境破壊が進んでいる。幸いカスピ海・アラル海周辺の石油・天然ガス資源の発見が国の経済を支えているが、産油国と非産油国の格差を生じているし、産油国につきものの独裁政権の危惧がある。一人当りのGNPは、裕福なカザフスタンを除いて日本の数%に過ぎないが、旅行者の目には数字ほどの差は感じられない。むしろ中央アジアの国民生活にはある種の幸福度が感じられるのは何故であろうか。これはイスラム教徒であることと関係があるかもしれない。多くのイスラム・モスクを訪問し、イスラム美にも接して、ふと考えた。

 中央アジアの旅は、正に自然と人間、歴史と文化の旅であった。

中央アジア(1)
は、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン(前半)の旅でした。
中央アジア(2)は、トルクメニスタン、ウズベキスタン(後半)の旅です。
     トルクメニスタンでは、クフナ・ウルゲンチ、アシガバット、ニサ遺跡、メルブ遺跡など、
     ウズベキスタン後半では、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンド、タシケントなど

を訪ねます。続けて第2部をご覧下さい。                      (2014年8月)

              お願い
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 現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。「vi」には「ヴィ」を用いましたが、
 慣用的には「ビ
も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
A
       ウズベキスタンのサマルカンド
サマルカンドは「青の都」とも呼ばれるシルクロードの重要な中継地。その中心にある レギスタン広場には、3つのメドレセ(イスラム神学校)が並ぶ。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


中央アジアとその周辺国
赤字は中央アジアの国々(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタン)  ◍ 首都   タジキスタンは訪問できず

日本との時差 : カザフスタン、キルギスは日本より3時間遅れ、ウズベキスタン、トルクメニスタンは日本より4時間遅れ


国 名

ウズベキスタン共和国

カザフスタン共和国

キルギス共和国

トルクメニスタン

 タジキスタン共和国
(今回訪問できず)

国 旗

 

首 都

タシケント

アスタナ

ビシュケク

 アシハバード

ドゥシャンベ

政 治

共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1992年国連加盟

共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1992年国連加盟

共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1992年国連加盟

共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1992年国連加盟

共和制
1991年ソビエト連邦より独立
1992年国連加盟

面 積

44万7400km
日本の1.2倍

271万7300km
日本の7.2倍

19万8500km
日本の53%、本州の88%

48万8100km2
日本の1.3倍

14万3100km
日本の38%、北海道の1.8倍

人 口

2813万人(日本の22%)
ウズベク人75%、ロシア人8%、
タジク人5%、カザフ人4%、
タタール人2%

1552万人(日本の12.3%)
カザフ人45%、ロシア人35%、ウクライナ人5%、ドイツ人3%

559万人(日本の4.4%)
キルギス人52%,ロシア人
22%,ウズベク人13%

500万人(日本の4.0%)
トルクメン人73%、ロシア人
10%、ウズベク人9%、カザフ人
2% 

763万人 (日本の6.0%)
タジク人62%、ウズベク人
24%、ロシア人8

言 語

ウズベク語(公用語)、ロシア語

カザフ語、ロシア語
(ともに公用語)

キルギス語、ロシア語
(ともに公用語)

ルクメン語(公用語)、ロシア語

タジク語(公用語)、ウズベク語、
ロシア語

宗 教

イスラム教(大半はスンニ派)88
東方正教会9

イスラム教47%、ロシア正教
44%、プロテスタント2%

イスラム教75%、ロシア正教
20%

イスラム教89%、東方正教会9%

イスラム教スンニ派80%、
イスラム教シーア派5%

産 業

旧ソ連時代にアム・ダリヤ川とシル・ダリヤ川を利用した灌漑設備が作られ、綿花生産に特化したモノカルチャー経済が形成された。世界有数の綿花輸出国である。小麦や米も栽培するが、食糧の半分程度を輸入に依存する。また過度の取水によりアラル海が大幅に縮小し、農薬などによる汚染も深刻である。西部のステップ地帯では羊が放牧されている。石油、石炭、天然ガス、金の産出もある。工業は国内向けの軽工業程度。

旧ソ連では、ウクライナに次ぐ第3位の穀物生産国。綿花、小麦、テンサイ、ジャガイモなどが栽培されている。ソ連時代に機械化され、生産量は飛躍的に増加した。ステップ地帯では羊の放牧がさかん。地下資源が豊富で総生産の4割を占める。石炭、石油、各種鉱物を多量に埋蔵し、重化学工業がおこなわれてきた。石油に関しては外国からの投資を受け入れ、パイプラインが敷設されることになった。

経済の主体は牧畜で、羊、ヤク、馬を放牧している。盆地地帯では農業もおこなわれ、小麦や綿花を栽培しているが、穀物の自給率は低い。ソ連時代の無理な増産政策のため、農牧に適さなくなった土地が多い。地下資源は、石炭、金、タングステンなどを産出する。石油と天然ガスも埋蔵するが、開発は進んでいない。工業は、食品や織物などの軽工業が主である。

農牧業は潅漑した耕地での綿花栽培と羊の飼育が中心である。産業の中心は鉱業で、天然ガス、石油、マグネシウム、硫黄などを産出する。特に天然ガスが経済を支えており、パイプライン敷設が進められている。工業は繊維、絨毯などの軽工業と、肥料などの化学工業がおこなわれている。

農業に適した土地はわずかで、潅漑によって開拓された農地では綿花、そうでない土地では、小麦や果樹が栽培されている。牧畜が盛んで、羊、牛、豚が飼育されている。鉱物資源は多様で、石炭、鉛、亜鉛などを産する。工業では伝統産業である絨毯製造と、ワインなど食品加工がおこなわれている。水力発電によりアルミ精錬がおこなわれていたが、内戦で操業を停止している。

1人当
GNI

1,868米ドル/年
日本の4.9%

12,843米ドル/年
日本の33.4%

1,280米ドル/年
日本の3.3%

7,112米ドル/年
日本の18.5%

1,045米ドル/年
日本の2.7%

*2013年1人当の名目GNP
   米ドル換算の1人当のGNP(国民総生産)、GDP(国内総生産)、GNI(国民総所得)などの経済活動指標は、必ずしも国民の平均的な豊かさを 示す ものではない。この原因には、
   為替レート、税務署が把握できない経済(アングラ経済)の存在、富の平等性、環境問題、社会保障などいろいろな要因があろう。 経済学・社会学が専門でない私にとって
   十分には理解できないが、 今回の旅で考えさせられた課題の1つとなった。
 

中央アジアの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図
赤線はGPSによる軌跡    は移動方向     ・・・は国境
 
①②などは宿泊地   成田~⑧は中央アジア(1)   ⑨~成田は中央アジアア(2)
このページは
中央アジア(2)です



1日目~9日目前半は、中央アジア(1)をご覧ください

9日目後半
(5月29日)
 クフナ・ウルゲンチタシャウズ(国内空路)首都アッシハバードへホテル(泊)

民家で昼食

9日目の後半は、トルクメニスタンのクフナ・ウルゲンチに着いて、民家で昼食を頂いた。

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「いらっしゃいませ」(勿論トルクメニスタン語)と小母さんが迎えてくれた ご馳走を制作中の台所を通って客間へ


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絨毯に座ってナンをつまんで待つこと、しばし サラダと麺スープ プロフ(ピラフ)



クフナ・ウルゲンチ

トルクメニスタンの都市クフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチとも訳される)は、グルガンジの名で知られた古代ホレズムの都。一方、ウズベキスタンの都市ウルゲンチは新ウルゲンチと呼ばれる。

かつて、クフナ・ウルゲンチは、アムダリヤ川沿岸にあり、シルクロードにおける最大の都市であった。クフナ・ウルゲンチの始まりは、はっきりしないが、ハカーマニシュ朝にまで遡る。12世紀から13世紀初頭にかけてがクフナ・ウルゲンチの黄金時代であった。中央アジアで、クフナ・ウルゲンチをしのぐ人口を誇った都市はブハラを除いて他になかった。しかし、1221年、チンギス・ハンが中央アジアへの進出を開始して、人類史に類を見ない大虐殺を展開した。クフナ・ウルゲンチは、チンギスによる虐殺の後に復興を見せることとなるが、1370年代には、アムダリヤ川の流れが北に変わったことにより、自然による都市の破壊が始まった。1370年代には、クフナ・ウルゲンチは放棄され、首都はここから南東150kmのヒヴァに移された。北には新ウルゲンチと呼ばれる都市が新たに建設されることとなった。

クフナ・ウルゲンチでの最初の考古学の調査が実施されたのは1929年のことであった。現在のクフナ・ウルゲンチの遺構は、多くが全壊あるいは半壊に近い状況にあり、一部は1990年代に修復された。2005年に、UNESCOの世界遺産に登録された。                     
Wikipediaほかによる

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トラベク・ハニム廟
外観は地味で、ドームも壊れているが、中に入ると、ほの暗いなかに見えてくるドームの全面がモザイクタイルである。
昼夜24時間を表す12個の天窓、1年を表す365個の星などイスラム天文学が生かされている。写真を撮るには照明がほしい。

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14世紀に建設されたクトルグ・ティムール・ミナレットは
高さ67mで、中央アジアで最も高い
ミナレットの近くにある小さなドームの中に、冷たい水の出る井戸があった。
ここは砂漠の中だから、カレーズのように地下水道でつながっているのかもしれない。



トルクメニスタンの首都アシガバットへ

トルクメニスタン、ウズベキスタンを旅行中は、何回かアムダリヤ川を渡る
アムダリヤ川については下のコラムをご覧下さい

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夕食のレストランの隣の部屋で家族のパーティが行われていた。
お断りしてカメラを向けると、ポーズをしてくれた。中央アジアではどこでもこんな雰囲気である。




中央アジアの地形 (中央アジア(1)でお見せした地図を再掲する)

広域の地形を調べるのにもっとも簡単な方法はGoogleEarthの衛星画像を見ることであろう。下の画像は、2013年4月10日に撮影されたGoogleEarth画像に、さらに私が中央アジアの範囲の主な河川・内海・湖沼・山脈・砂漠などの名称を記入したものである。

 

アムダリヤ川
パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈から発し、ほゞウズベキスタンとトルクメニスタンの国境に沿って北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。全長1415km。

アムダリヤ川を通じて流れてくる大量の川砂はカラクム砂漠やキジルクム砂漠、河口デルタを形成した。アラル海南岸の肥沃なデルタ地帯では4~5千年前から人が住み始め、農業が行われたことが様々な遺跡の調査で判明している。アムダリヤ川の支流の1つであるコクチャ川には、有史以前からラピスラズリで知られていたバダフシャーンがあった。またアムダリヤ川の上流域はトハーリスターン地方、中流域はザラフシャン川水系のブハラ、河口部には古都キャトなどのホラズム地方が隣接していた。またかつてのケリフ・ウズボイや現代のカラクム運河などを通じてメルブ遺跡にも分流しており、流域では様々な文明が生まれ滅んでいった。数千年の間にアムダリヤ川の流路は何度も変わり、川の流れが著しく変わるたびに人々は城を造り替えたため、その下流には多くの都城跡が残されている。例えば10~13世紀までホラズム王国の首都として栄えたクフナ・ウルゲンチは14世紀までホラズム地方の中心として栄えたが、17世紀にアムダリヤ川の流路が変わると南東150kmのヒヴァに繁栄の中心が遷り、ヒヴァ・ハン国などが出来た。アムダリヤ川は中央アジアの大平原を2つに分け、北方からやってくる遊牧民とイラン人などの地元住民を分ける国境としての役割も果たした。19世紀のアムダリヤ川はグレート・ゲームを演じるロシア帝国と大英帝国がせめぎ合う境界となり、20世紀には共産圏とそれ以外がせめぎ合う境界となった。 Wikipedia他より

シルダリヤ川
上流部はキルギスタン領内のイシク・クル湖に近い天山山脈を水源とし、上流部のフェルガナ盆地地方ではホジェンド川とも呼ばれている。フェルガナ中部でウズベキスタン領を流れる。全長2210km。

中上流域には古代にソグド地方を形成したタシュケント(古名チャーチュ)など有力な都市が多く存在した。1939年から1940年にかけて、ナルイン川とカラダリヤ川から取水した、シル川の南をほぼ平行に流れる大フェルガナ運河(全長286m)が建設された。1948年にフェルガナ盆地西部にフェルハド水力発電所が完成した。1960年代以降、旧ソ連の「自然改造計画」によりアムダリヤ川と共に灌漑が行なわれ、周辺地域では綿花の増産に成功した。しかし、過度の開発によって両河川からの流入量が激減したアラル海は急速に縮小し、周辺地域の環境悪化を招いている。  
Wikipedia他より



10日目
(5月30日)
 終日アシガバット滞在 ホテル(泊)

アシガバットのホテル

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トルクメニスタン入国1日目のアシガバットのアカルティン・ホテル ホテルの客室には、ベルディムハメドフ大統領の記事を満載した雑誌が置かれている

初代ニヤゾフ大統領(1940年 - 2006年)
ソビエト連邦崩壊後、1992年、トルクメニスタン大統領に選出された。1993年、議会によりテュルクメンバシュ(国父)の称号を授与された。独立後は個人崇拝色を強め、権威主義的な超独裁体制を敷き、人民会議により1999年12月には終身大統領と宣言された。トルクメニスタンの独立・近代化を行ったが、極端な個人崇拝に基づいた独裁的な政治によって、世界で最も権威主義的で抑圧する独裁者として国外で非難された。通称「中央アジアの金正日」。

2代ベルディムハメドフ大統領
(1957年 - )
ニヤゾフ死去後は大統領代行を経て第2代大統領となった。ベルディムハメドフは大統領就任後は、高齢者向けの年金の復活や閉鎖されていたアシガバート以外の病院再開、そしてオペラやサーカス、映画の解禁、公共料金の無料化、インターネットの利用の解禁など脱ニヤゾフ化政策を進めている。ベルディムハメドフが脱ニヤゾフ化を進める背景としてニヤゾフによる頻繁な粛清で国家機構の人材不足が深刻になっていることが指摘されている。また、豊富な天然ガスをテコにした資源外交を活発化させている現政権としてはニヤゾフ政権の異常な体制を廃止することで北朝鮮とは違うということを国際社会にアピールする狙いもあると見られている。しかし、秘密警察による監視は続いており、ニヤゾフの肖像画がベルディムハメドフのものに取り替えられるなど、新たな個人崇拝の傾向が出てきている。こうした動きに対し、国内の諸部族のバランスを取るため体制の安定が必要だという見方がある。                         
以上、Wikipediaより



ニサ遺跡

ニサ遺跡は、トルクメニスタン南西部に残るパルティア王国時代の都市遺跡である。王の建造物群のあった旧ニサと民衆の居住地区であった新ニサとから構成され、互いに 1.5 km ほど離れている。両方とも2007年にユネスコの世界遺産に登録された。我々は旧ニサの方を見学した。

旧ニサ遺跡の全景 中央のくぼみは貯水池の跡

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現地ガイドさんの話によると、ここはBC3世紀にはドーム付きのゾロアスタ教神殿があったところ。 火を使った跡がある。

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ここにミトリダデス王(BC170年~BC138年)の宮殿があったという。日干し煉瓦でできたバルコニー(左)と王の間(右)。
王の間の柱だけは焼き煉瓦でできている。ここから「ニサのヴィーナス」(後に国立博物館で見る)が発掘された。

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イタリアとロシアが今も発掘中 瓦礫の中から、文様つき煉瓦や焼いた土器の破片を見つけた

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アシガバットの南には、東西 350kmに渡り、コペット・ダグ山脈(最高峰1300m)がイランとの国境になっている。 先程の貯水池の水はこの山の麓から導かれたそうだ。 世界で2番目に高いミナレットのキプチャク・モスク
10kmも離れたアシガバット市街地に建つが、望遠レンズで撮れた



アシガバット市内風景

トルクメニスタンの首都アシガバットは、カラクム砂漠とコペット・ダグ山脈に挟まれた中央アジアでは最南端の首都である。1948年の地震の後に建設されたので、古い遺跡や旧市街は残っていない。トルクメニスタンは石油と天然ガス資源に恵まれており、町は中東のドーハかアブダビみたいだとか。

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市内の大通りは飾り街路灯のある片側4車線。
しかし車はほとんど走っていない。
道路の両側には美しい(?)建物が並ぶ
 
奇をてらったモニュメント
 

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永世中立の塔
 
塔の尖端の
初代の故ニヤゾフ大統領像
永世中立の塔の上からの展望
砂漠に作られた町なので、国は国民に植林を奨励している



トルクメニスタン国立博物館

展示は各分野に及び、ニサやメルヴからの出土品、象牙の儀礼杯リュトンなど見ごたえがある。

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正面全景 吹き抜けの玄関ホールには大理石の柱が

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古代ギリシャのヘルメットを被った兵士 ニサのヴィーナス 彩色壁画

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象牙の儀礼杯リュトン 頭部の欠けた仏像 経文が見つかった壺   Websiteより

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展示品に見入るトルクメニスタンの女性 巨大な絨毯とベルディムハメドフ現大統領の写真


アハルテケの厩舎

市の郊外にあるアハルテケの厩舎を訪ねた。アハルテケはトルクメニスタン原産の馬の品種である。スピードと持久力で知られる「黄金の馬」は、過酷な気候に適応し、現存する最古の馬種の一つと考えられている。「アハルテケ」は汗血馬のモデルとされる幻の名馬で、現在のサラブレッドのほとんどはアハルテケの子孫であるといわれている。

汗血馬といえば、前漢の武帝時代(在位期間:BC141年~BC87年)に、西域への大旅行をした張騫の報告により、「大宛(現在のウズベキスタンのフェルガナ地方)にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので遠征軍を送り、これを得たこと」が記されている。「一日に千里(約500km)を走る」と言われた名馬中の名馬である。もちろんこれは誇張であろうが、現存するアハルテケという品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っている。「血のような汗を流して走る」ことから汗血馬と呼ばれるようになったのだが、実際アハルテケの皮膚は薄く、全身の血管が透けて見えることから、血のような汗を流して走ると言われたと考えられる。

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生まれて間もない仔馬 母馬から離れない クローバーを食わせるとおとなしい。肌をなでると薄いことがわかる

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調教の様子を見せてくれる 衣装を着けた客を乗せて、調教場を一周してくれる

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バスから見えたブドウ畑
 
トルクメニスタン産の
ブランディ(左)とワイン(右)


キプチャク・モスクとニヤゾフ廟

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故ニヤゾフ大統領の故郷、アシガバット西の郊外のキプチャク村に、中央アジア最大の2万人を収容できるトルクメンバシィ・ルーフ・モスクがある。10kmも離れたニヤ遺跡から見えたのはこのモスク。 トルクメンバシィ・ルーフ・モスクの隣にある
故大統領のニヤゾフ廟
 
トルクメンバシィとは「トルクメン人の父」という意味で、つまり故ニヤゾフ大統領をさす。このモスクは2002年から2004年にかけて故ニヤゾフ大統領の命で造られたモスクで、大きくて贅を尽くしたもの。扉の木材はモロッコ、大理石はイタリア、シャンデリアはフランス、ステンドグラスはトルコ製、モスクの建築費は1億6500万ドルというから、日本の物価からすれば非常に安い。内部は撮影禁止だが、詳しい写真がネット上に出ている。



ロシアン・バザール

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トルクメニスタンは砂漠の国と聞いていたが、果物も豊富だ ナンのほかに、揚げパン、サンドイッチ、ケーキパンも売られている

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カスピ海のキャビアが安いので、お土産に買った
 
道路がどこもきれいだと思ったら、国がジプシーを雇って掃除をさせているという。ジプシー定住化政策の1つだろうか。



11日目
(5月31日)
 アシガバットマーリメルヴマーリホテル(泊)

メルヴへ

トルクメニスタンの首都アシガバットからメルヴ観光の拠点マーリへ空路で移動した

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トルクメニスタン航空で、アシガバットからマーリへ マーリ空港上空

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マーリ空港からメルヴへの途中で見た天然ガスパイプ 放牧の牛たち



メルヴ遺跡

マーリはトルクメニスタン第二の工業都市。そこから30kmほど東に世界遺産にも登録されているメルヴの遺跡がある。メルヴは、かつてシルクロードきっての規模を誇ったオアシス都市で、ペルシャと中央アジアを結ぶ重要な中継点として発展した。特に首都となったセルジューク朝時代の繁栄はめざましく、イスラーム世界屈指の都市に発展した。しかし1221年のモンゴルの来襲で町はことごとく破壊され、メルヴは一瞬にして歴史の舞台から消え去った。2007年にユネスコの世界遺産に登録された。

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大キズ・カラは7世紀のササン朝時代に築かれ12世紀の
セルジューク朝まで使われた女性用の居城・要塞
小キズ・カラは、男性用の居城・要塞だという
 

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小キズ・カラから眺めた大キズ・カラ 家族連れの姿もよく見かける 野鳥の姿も

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アサブ族の墓
アサブ族は、ムハンマドと共に生きた7世紀の人達。これらの廟は15世紀に建てられたが、19世紀に崩壊しその後修復された。

グヤウル・カラは、アレキサンダー大王の時代の総督によって紀元前3世紀頃に建てられたもの。
イスラム教が広まる前はこの辺まで仏教が伝わっており、仏塔も見つかっているという。

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エルク・カラはメルヴ最古の場所で、
アケメネス朝ペルシャ(紀元前6から4世紀)のもの
 
エルク・カラの城壁の一番高いところに登ると、360度の展望が効く。
ここには世界最西端の仏教遺跡があり、ソロアスタ教、キリスト教、
イスラム教、仏教が共存した場所といわれる。

ハマダーン・モスクの全景  セルジュク朝時代の12世紀に建てられ、1998年に改修された。
ハマダーンはコーランを1万回読んだとか、偉人を育てた人として、尊敬されているという。

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スルタン・サンジャル廟  トルコ系の王朝セルジューク朝もメルヴを都とした。
最後の王、スルタン・サンジャールがここに眠るという。修復の援助をしたというトルコ共和国の記念碑があった。 


マーリの町

メルヴからバスでマーリに戻り、宿泊

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マーリの街の競馬場
 
 
直径3m程の大きなアンテナが並ぶアパート。共同受信という考えがないのだろうか。日本の放送衛星を設計するときは、小さなアンテナで受信できることを条件としたことを思い出す。

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トルコ料理のレストランで昼食  名物のケバブも

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着飾ったトルクメニスタン美人が街にあふれている。今日5月最終日曜日は「トルクメン絨毯の日」
なお、8月第2日曜日は「メロンの日」、ニヤゾフ元大統領がメロン好きだから定められたという

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マーリの中央市場に行くが、さして珍しいものは見当たらず、iPhoneの売場を覗く

トルクメニスタンの民族音楽と舞踊を見ながら夕食
上の画像をクリックして動画を表示し、最大化してご覧下さい。

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マーリのモスク 宿泊したホテル



12日目
(6月1日)
 マーリトルクメニスタンからウズベキスタンへの国境越えブハラホテル(泊)

マーリからカラクム砂漠を横断して国境へ

カラクム砂漠の面積は35万 km²で、トルクメニスタンの約70%を占める。 西はカスピ海、北はアラル海、北東にはアムダリヤ川とキジルクム砂漠がある。 牧畜地帯だが、アムダリヤ川からのカラクム運河によって灌漑農業も発達している。

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カラクム運河とアラル海の縮小については後述 カラクム砂漠の緑化対策

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トゲが鋭いラクダソウ、ラクダはこのトゲをものともせずに食べるという 砂漠のトカゲ

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バスの中で添乗員から回覧してもらった綿花の実物

綿花の栽培とアラル海の縮小
 

カラクーム運河は、トルクメニスタンにある世界最大の灌漑および水道用の運河である。1954年に建設が開始され、1959年に運用開始、1986年に現在運用されている部分が完成した。この運河は 1,375 km 以上に渡り航行可能であり、年間 130億トン(アムダリヤ川の水量の25%)の水をアムダリヤ川から取水して、トルクメニスタンのカラクム砂漠を横断している。アシガバットの主要な給水源となっている。

ソ連は、この運河によって棉花のモノカルチャー大農場の建設を推進し、「砂漠を緑豊かな農地に変えた『社会主義の勝利』である」として喧伝した。しかし、運河は原始的な工法(手掘りで、河床の防水対策がなされていない)で構築されており、流れ込んだ水の半分が灌漑目的地に至る前に失われる構造となっていたことから、地下水位の上昇により大規模な塩害を引き起こした。スターリンの死後、運河の建設計画はほとんど破棄状態になり、またいったん開発された農地も、この塩害により現在では広範囲にわたって放棄されてしまっている。さらに、アラル海の縮小という地球規模の環境破壊の主要因ともなってしまっている。                この項、Wikipediaによる

 
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トルクメニスタンからウズベキスタンへ

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マーリからのバスはアムダリヤ川の手前の検問所で停車、
添乗員がパスポートを持って行って出国手続き
国境のアムダリヤ川に架かるパントン橋(浮橋だった)を徒歩で渡る
残念ながら、橋上からと検問所での撮影は一切禁止

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夕食のレストランの壁の絵が面白い

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宿泊したブハラのマリカ・ホテル



13日目
(6月2日)
 ブハラ滞在 ホテル(泊)

ブハラは中央アジアのみならず、イスラーム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇った町である。ブハラの黄金期は9世紀のサーマーン朝時代に始まる。イスラーム王朝の庇護の下に、優秀な宗教者や科学者、神学生、そして商人なども各地からブハラに集まった。しかしそうした繁栄も、1220年のチンギス・ハーンの来襲で灰燼に帰してしまう。

16世紀のシャイバニ朝の時代になって、ブハラは再び蘇る。多くのモスクやメドレセが建造され、宗教的充実に多くの富が注ぎ込まれた。シルクロードの面影を色濃く残すブハラの町並みは、この頃に完成し、今日までほとんど変化していないという。ブハラの歴史地区は1993年にユネスコの世界遺産に登録された。

イスマイール・サーマーニ廟

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イスマイール・サーマーニ廟は9世紀末にブハラを占領して都としたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニが父親のために建てた霊廟
中央アジアに現存する最古のイスラーム建築として、世界中の考古学者や建築家に注目されているという。

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霊廟の近くの土産物屋で金工細工の実演をしていた。中央アジアらしい職人芸である。



ボロハウズ・モスク

1712年にアルク城とレギスタン広場の隣に建てられたハン専用のユニークなモスク。
祝いの日には、ハンはアルク城を出て、絨毯の上を歩いてここまで来たという。

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彫刻された20本のクルミの柱に支えられた独特の建築美である。池に映る姿から「40本の柱のモスク」とも呼ばれる

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色タイルが一部剥がれた入口 修復が終わった祭壇(聖龕せいがん、ミフラーブ)



アルク城

アルク城のあたりが古代ブハラ発祥の地で、2000年以上前に遡るという。7世紀には女王フッタ・ハウントがこの城でアラブ軍と戦い、モンゴル来襲の際には立てこもった多くの町民がチンギス・ハーンの軍隊に虐殺され、城も破壊されたが、後に建て直された。今残っている城は18世紀のもので、1920年にソ連軍に攻略されて滅亡するまで、歴代ハーンの居城だった。。

アルク城城門と城壁

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馬で入場したであろう天井の高い入口の通路 通路脇に設けられた監獄には、人形が・・・

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王の即位ホール
 
大理石のトラの像
20世紀になってロシア人が作ったという
大理石のトラの像  イスラームにおいては偶像崇拝の禁止が徹底されており、それゆえ、ムスリムが礼拝をおこなうモスクには、宗教シンボルや聖像など偶像になりうる可能性が存在するあらゆるものがない。例外的にメドレセ(修道院)には、鳳凰やライオンを描いたものがある。

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ハーンの玉座 最後のアミール王 アーリム・ハーン のカラー写真 (1911年プロクジン・ゴルスキー撮影)


写真家プロクジン・ゴルスキーについて
 
                     私は、1911年にこのような素晴らしいカラー写真が撮影されていたことに驚いた

セルゲイ・ミハイロヴィチ・プロクジン・ゴルスキー(1863年 - 1944年)はロシアの写真家。赤・緑・青のフィルターを通して3枚の白黒乾板を素早く連続撮影することによりカラー写真を撮る方法(三色合成)を開発した。ニコライ2世の援助によりロシア各地を撮影して数千枚のカラー写真を残した。これらの写真はロシア革命により失われたものが多い帝政ロシア末期の貴重な記録として現在も評価が高い。これらの写真を基にした印刷物も残した。ロシア革命後にパリへ逃れ、同地で没した。彼が撮影した膨大な写真乾板は戦火を避けてパリの地下室に秘匿され、第二次世界大戦後にアメリカ議会図書館に買い取られた。現在では、デジタル合成により復元されたカラー画像がインターネットにより広く知られるようになった。       Wikipediaより

 

 ゴルスキーの写真技術について私が補足説明すると・・・

現代のデジタルカラー合成の技術により、ゴルスキーが撮影した乾板から、彼が想像もできなかった見事なカラー写真が再現された。
なお、現在のような現像によってフィルムに再現するカラー写真は、1935年にアメリカのイーストマン・コダック社が映画用として「コダクローム」を
発売したのが最初である。翌年1936年には写真用としても発売され、同じ年にはドイツのアグフア社からも「アグフアカラーノイ」が発売された。
これは ゴルスキーがアーリム・ハーン のカラー写真を撮影してから25年後である。

 
 




スィトライ・マヒ・ホサ宮殿

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿は、「月と星の宮殿」という名を持つ夏の宮殿である。ブハラ・ハン国最後のハン、アリム・ハンの命令でロシアの建築家に作らせ、1911年に完成した。

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宮殿の入口
 
宮殿の中庭  左と中央は西洋風、右はイスラム風
中央の建物に、「白の間」と呼ばれるハンの謁見の間がある

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「白の間」の内部
このシャンデリアのために、中央アジア最初の発電機が据え付けられたという
イスラム風の部屋も
 

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なぜか、こんなところに「ダビデの星」?
ユダヤ教・ユダヤ民族の象徴、イスラエルの国旗にも入っているマークだ
初夜に用いるカーペット
 



ポイ・カリャン・コンプレックス

ポイ・カリャン・コンプレックスは、下の配置図に示す複合宗教施設である。


ミル・アラブ・メドレセ

このメドレセ(神学校)は、1536年にウバイドゥッラー・ハンが3000人のペルシャ人奴隷を売った資金により建てられた。ソ連時代に中央アジアで開校が許されていた数少ない神学校である。

青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期ティムール様式の典型的な例といわれる



カラーン・モスク と カラーン・ミナレット

カラーン・モスク は1514年に建て替えられたもの。1ヘクタールで、1万人の信者が礼拝できる。ソ連時には倉庫になっていたが、独立後再びモスクとして再開された。モスクの外に カラーン・ミナレットがある。

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モスクの入口 入口を入ると中庭、中央に八角形のあずまやミンバルがある。

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キリスト教の修道院のような白い柱の回廊 メッカの方向に祭壇(ミフラーブ)、その右に説教壇

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入口の方向を振り返ると、
ミル・アラブ廟の2つのドームとカラーン・ミナレットが見える
ミル・アラブ廟のドーム
 
カラーン・ミナレットは1127年に建てられたもので、高さ46m



タキ・バザール

タキとは大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザールのことである。16世紀当初のタキは専門店的要素が強く、珍しくて高価な宝石類の売買などをしていたというが、現在は気さくな土産物店である。

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メディール・ディヴァンベギ・メドレセの入口
2羽の鳳凰が白い鹿を掴んで中央の太陽に
向かって飛んでいる珍しいデザイン
結婚式のカップルに出会った
 
  

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 ハンドクラフト・ワークショップの看板
 
「地球の歩き方」に出ている頁を示すハサミ屋さん 水鳥のデザインのハサミは、確かによく切れる

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細密画を売る店 細密画は、中国風でもあり、トルコ風でもあり、独特の味わいがある

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 シルクロードのイメージの絨毯
 
バザールには絨毯屋が多い

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女性客目当ての装飾品の店も多い 演奏して聴かせてくれる楽器屋さん

タキ・バザールは、夜更けまで営業している



ディナー・ショー

ウズベキスタンをはじめとする中央アジアの民族楽器は、現代の楽器の原型となるものが多く残っている。また、日本の伝統楽器「琵琶」も、中央アジアのこれらの楽器が伝わって生まれたといわれている。中央アジアの人々は、元は遊牧民が多くを占めている。住居を移動させる遊牧民にとって、軽くて移動に便利なものが好まれていたので、民族楽器も軽くて持ち運びやすいものが多い。

ウズベキスタンの民族舞踏は、何度も高速で回転する胡旋舞である。胡旋舞は女性の踊りで、誘惑の踊りであると共に自然や刺繍の様子などを表した踊りでもある。それぞれの動きには意味があり、肩を上下に動かしたり、首や手の動き、体の反りなどで表現する。また、顔の表情も踊りを表現する一部なので、華麗な踊りと合わせて表情も必見である。                   ウズベキスタン政府観光局HPより

下の画像をクリックして動画を表示し、最大化してご覧下さい。
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4人の踊り子が優雅に踊ります ヴォーカルも入ります ファッション・ショーです



14日目
(6月3日)
 ブハラシャフリサブスサマルカンドホテル(泊)

キジルクム砂漠を走る

ブハラからキジルクム砂漠を通過して、サマルカンドに向かう。

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この辺りは石膏の産地だという。車窓から白い岩石が見えた。 アムダリア川の支流を渡る

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麦畑の手前にあるのはタマリスク(ギョリュウ、檉柳または御柳)。乾燥と塩分に強く、
砂漠など乾燥地でも根を長く伸ばして水分を強く吸収する。楊貴妃に愛された木だという。
ラクダソウ(駱駝草)の花が咲いていた

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建築中の農家の家
中央アジアではこのような入母屋造りがよく見られる
遠くに天然ガスの採掘塔、近くに放牧の牛、パイプライン、手前に
壊れた灌漑水路が見える。産業構造の変化を推察させる風景だ。
入母屋造り この形式の屋根は西洋では少なく、木造建築が発展している一部の村でしか見られないが、日本、中国、韓国、台湾のほか、ベトナム、タイ、インド、インドネシア等、東洋の寺院ではよく見られる。(Wikipedia)
私見であるが、入母屋造りは天井裏の換気をよくするために東南アジアで発達した形式ではないかと思う。乾燥地の中央アジアで見かけるのは不思議である。

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天然ガス関係の施設のようだ



民家で昼食

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立派な門のある民家で昼食を頂く 門の外に大きなサクランボの木があり、1個摘んでみたが美味かった

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ラグメンスープ 鶏肉じゃが と サラダ(こちらは撮影忘れ) ケーキパン



シャフリサーブス

ウズベキスタンのシャフリサーブスは、サマルカンドの南約80kmに位置する人口約53,000人の町である。かつては、中央アジアにおける主要都市だった歴史を誇り、14世紀に西トルキスタン(現在の中央アジア)と東トルキスタン(現在の中国の新疆ウイグル自治区)を席巻したティムールが誕生した場所として知られる。シャフリサーブス歴史地区は2000年にユネスコの世界遺産に登録された。

アク・サライ宮殿跡

白い宮殿を意味するアク・サライ宮殿 は、ウズベキスタンのシャフリサーブスにある、ティムール朝時代にティムールが夏季に居住していた宮殿である。ティムールがサマルカンドを首都とした後も、ティムールはむしろサマルカンド以外の都市に建設された宮殿に滞在することを好んだ。アクサライ宮殿の建設は1380年に始まり、24年かけて建設されたが、この時点でティムールは死の直前であった。

約300年前に破壊されたアクサライ宮殿の門は当時中央アジア最大であった。残存しているアクサライ宮殿の建築物は2つの塔のみとなっている。宮殿の敷地面積は大きく、各々の中庭の大きさは縦が120-125m、横が240-250mとなっている。残存している建築物の大きさから、建設当時の宮殿の高さは約70mと推定されている。

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残存する2つの塔は高さ38m、壊れる前は50m以上あったという 名残の青タイルが痛々しい

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宮殿があったところに、現在は巨大なティムールの像が建っている

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保存室に保存されている発掘された床のタイルに巨大神殿の名残を留める
 
宮殿の跡地は、歴史的建造物だけ残してソ連時代の
古いホテルなどは撤去し、大きな公園に整備している



ドルッティロヴァット建築群

ドルッティロヴァットとは『瞑想の家』と言う意味である。コク・グンバス・モスクは1436年にウルグ・ベクによって建てられた。ウルグ・ベクは、ティムール朝の第4代君主。ティムールの四男シャー・ルフの長男で、ウルグベク天文台(明日サマルカンドで訪ねる)を建設した学者。

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コク・グンバス・モスクとその内部(祭壇(ミフラーブ)と説教壇がある) 壁の絵はタイルではなくフレスコのようである。



ドルッサオダット建築群

ドルッティロヴァット建築群に隣接してドルッサオダット建築群がある。因みにドルッサオダットとは『大いなる力の座』という意味である。

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これはドルッティロヴァット建築群
ここから工事中の所を通ってドルッサオダット建築群に行く
ドルッサオダット建築群の中のジャハンギール廟
ティムールが、22歳で戦死した長男のために立てた巨大な廟

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『ティムールの廟』 といわれる霊廟
ティムールが葬られるはずだった石棺がある。ティムールが自分のために用意したが、彼はサマルカンドに葬られた。



シャフリサブスからサマルカンドへ

綿花と小麦と葡萄の畑を過ぎると車窓にパミール高原の山々が見えてくる。
ここはサマルカンド盆地で標高が750mあるので、涼しいという。

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2連泊したサマルカンドのアジア・ホテル。部屋はだだっ広いばかりのホテルだが、レギスタン広場に近くロケーション抜群。



15日目
(6月4日)
 サマルカンド滞在 ホテル(泊)

サマルカンド

『青の都』、『イスラム世界の宝石』、『東方の真珠』など、多くの異名を持つサマルカンド。ウズベキスタンの中にあって首都はタシケントに譲っているが、サマルカンドは常にシルクロードの中心都市であった。その存在が初めて世界に知らされたのはBC4世紀、アレクサンドロス大王の遠征軍が到達したときのこと。大王をして「話に聞いていた通りに美しい、いやそれ以上に美しい」と言わしめたほどである。

その繁栄の担い手はソグド人。商才と工芸技術に長けたソグド人は、さまざまな王朝の支配を受けながらも、数世紀にわたって営々とサマルカンドを築き上げてきた。しかし、1220年のモンゴル軍の攻撃で、町の人口の4分の3以上が殺されるという壊滅的な被害を受け、無人の荒地と化した。

そのサマルカンドを蘇らせたのがティムールである。「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」といわれるように、サマルカンドをイスラム世界に名だたる都市に復活した。今回の旅ではここに2連泊して、イスラム世界を堪能した。サマルカンドの文化交差路は2001年にユネスコの文化遺産に登録された。


サマルカンドはローマと長安を結ぶシルクロードの重要な中継点
最近の研究によると、シルクロードには、3つの路があるとされている。

ステップ路(草原のシルクロード)
北方ユーラシアのステップ帯を北緯50度付近で横断するもので、遊牧民によって利用された。

オアシス路(砂漠のシルクロード)
中央アジアのオアシス群を北緯40度付近で横断するもので、史上もっとも多く利用された。普通シルクロードといえばこれをさす。「砂漠のシルクロード」は、さらに天山北路、天山南路(西域北道)、天山南路(西域南道)、の3つに分けられる。

南海路(海のシルクロード)
紅海またはペルシア湾からインド洋、東南アジアを経て華南に達するもので、特に近世以降ヨーロッパ人が活躍した。

これらのシルクロードの中にあって、ウズベキスタンのサマルカンドは「砂漠のシルクロードの重要な中継点であった。

小生のホームページ中国シルクロードの旅(1)のものを再掲した。
上記をクリックしてご覧下さい。
地図は、長澤和俊編 「シルクロードを知る事典」 東京堂出版 2003 を改変した    


ウルグベク天文台跡

ウルグベク天文台 はサマルカンドにある天文台である。ウルグベク天文台はティムール朝の君主であり、天文学者でもあったウルグ・ベクにより1420年代に建設され、中世イスラム世界において有数の天文台とされている。ウルグ・ベクの死後1449年に大部分が破壊され、約450年後の1908年に地下部分が発見された。

発見された太陽の南中を決定するための観測施設は、幅2mの溝が子午線に沿って丘の地下に掘られており、溝は地中でアーチ状になっていた。半径40mの当時としては世界最大の象限儀 (四分儀) であった。子午面上の太陽の高さと天頂と赤緯からの距離を用いて毎日の正午の正確な時刻を計算することができた。

彼らは恒星年 (一年の長さに相当) を365日6時間10分8秒と計算した。これは約600年後の現代の計算によって得られる数値である365日6時間10分9.6秒と約2秒しか違わないという精確さであった。                                       Wikipediaによる

ウルグ・ベクの像の前は観光客が絶えない

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ウルグベク天文台の外観 ウルグベク天文台の地下部分 太陽を観測している図

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ウルグベク天文台博物館 ウルグ・ベクの肖像画 往時のウルグベク天文台の模型



アフラシャブの丘とアフラシャブ博物館

サマルカンドのアフラシャブの丘は、かつてサマルカンドの街があったところ。丘の麓にあるアフラシャブ博物館にはシルクロードの歴史が詰まっている。

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現在のアフラシャブの丘は単なる土の塊となっているが、モンゴルによって徹底的に破壊される以前、
何世紀もの間、サマルカンドの街はこの丘の上に営々と築かれてきた。発掘調査の結果、文化の痕跡が
11層もの厚さで積み重なっているのが確認されているという。

アフラシャブ博物館の正面外観
アフラシャブの丘の麓に博物館はあり、発掘された品々が展示されている。

この博物館の最大の見ものは、7世紀の領主の宮殿から発見された玉座の間を飾るフレスコ画の壁画である。
かって、6~8世紀頃、この辺りはソグド人がシルクロード交易で繁盛していた。この壁画は当時の街の様子を
描いたもののようで、東西の文化が行きかう様子がよく分かるものである。

上の壁画はソグド人の婚礼の行進のようである。別の壁画には朝鮮人や中国人が供物を持って運ぶ図もあり、国際色豊かである。

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ゾロアスタ教の骨壷
かつて仏教やキリスト教の建物もあった
アレクサンドロス大王時代の硬貨
 




アレクサンドロス大王と中央アジア
アレクサンドロス3世(BC356年 - BC323年、在位BC336年 - BC323年)、通称アレクサンドロス大王)は、アルゲアデス朝のマケドニア王である。アレクサンドロス3世はマケドニア王ピリッポス2世と王女オリュンピアスの間に生まれた。BC342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招いた。アリストテレスはBC340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。こうして、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。

小アジアの征服
BC336年に父が暗殺されると、20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスはBC334年、父の遺志を継いでマケドニア軍を率いてペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍はラニコス川の戦いで小アジア連合軍と対峙した。この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将を投げ槍でしとめた。

エジプトの征服
エジプトは11年前のBC343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。BC332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、アメン神殿にその像を祭られた。その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。

ペルシア王国の滅亡
BC331年、アレクサンドロス軍は、チグリス川上流のガウガメラでダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れたが、ダレイオスを追って進軍を続け、ペルシャ王国を滅ぼした。

ソグディアナ方面の占領
中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは、再び反乱を起こしたスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。マケドニア軍はBC329年からBC327年までソグディアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。

インド遠征とスーサ帰還
ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を目指した。BC326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにし、紀元前324年にスーサ(現在のイランの西南部)に帰還した。

バビロン帰還と大王急逝
帰還したアレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣した。バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、BC323年6月10日に32歳で死去した。
 
 
アレクサンドロス大王東征の全図

アレクサンドロス大王以降

アレクサンドロス大王の死の後、20年間に、将軍たちのあいだで大きな抗争が起こり、帝国は何度か分裂した。アレクサンドロス大王は全エネルギーを軍事遠征にそそぎ、外交官や政治家というよりも、征服に熱中する有能な軍人であったようにみえる。従って、自らつくりあげた国家の将来に思いを馳せる余裕もなく、大王の死後20年たらずで大帝国は瓦解してしまった。

しかし、アレクサンドロス大王の東征と大帝国の建設を機として、東西に活発な文物交流の場が拓かれ、豊かな世界文化の時代-ヘレニズム時代-が始まった。
                  Wikipediaほかを参考にした
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アレクサンドロス大王の後継者たちの国家(BC303年)
 



シャーヒズィンダ廟群

アフラシャブの丘の南麓にあるサマルカンド有数の聖地。ティムールゆかりの人々の霊廟がほぼ一直線に建ち並ぶ 『死者の通り』 は、巡礼に訪れる人々が絶えない場所である。その装飾の多様さ、美しさで、中央アジアでも指折りの名所といわれる。

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この階段を数えながら上り、その数が上りと下りで同じだったら、天国に行けるという 家族連にカメラを向けると整列してくれる
 
お年寄りも頑張っている
 
若い子達は楽しそうだ
 

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アミールソダ廟とその内部 クサム・イブン・アッバース廟

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クサム・イブン・アッバース廟の内部はイスラム美の極致である

聖なる丘といわれる最上部に、個人の墓を造る人が多いという



グル・エミール廟

グル・エミール廟は1405年に亡くなったティムール朝の建国者ティムールの霊廟である。彼は中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。

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グル・エミール廟とその内部 チムールとその一族が眠る霊廟である

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家族でお参りする人たちに出会ったら、写真を撮らせてくれた 『お前も一緒に撮ろう』 といって、誘われて撮ってもらった1枚



民家で昼食

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民家の庭で昼食 停電に備えて、ガスコンロの脇に繋いだガス発電機が準備してあった

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ヒヨコマメのスープ ナスとサラダとナン プロフ ケーキ    綿花のデザインの急須、緑茶だった



レギスタン広場

サマルカンドのホテルがレギスタン広場に近かったので、 レギスタン広場は朝・昼・夜の3回訪れた。レギスタンとは 『砂地』の意味で、英語のレジスタンスとは関係がない。チンギス・ハーンの来襲以後、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地となった。ソ連時代以降修復がなされ、見ごたえのある名所となっている。

レギスタン広場全景
(左)ウルグベク・メドレセ、(中央)ティラカリ・メドレセ、(右)シェルドル・メドレセ、 メドレセとはイスラーム世界の高等教育機関、イスラム神学校と訳される

メドレセ(マドラサはイスラーム世界における学院。元々は単純にアラビア語で「学ぶ場所、学校」を意味するだけだったが、11世紀に制度的に確立し、イスラーム世界の高等教育機関として広く普及した。モスクと併設される場合も多く、一般に寄進財産で運営される。近代の世俗教育の普及によって、宗教教育の専門機関となった。

一般的に、政府が市民にひろく教育の機会を提供できない場合には、私立の宗教組織が代わりにこの需要と供給の不均衡を埋める傾向にあると言われている。その結果、当該地域の教育システムは、教育機会を提供する宗教組織の宗教観に基づいたものとなりやすい。この点からいうと、メドレセは、カトリックの教区学校と同様の、ムスリムのためのイスラーム学校、ということになる。これらの教育組織はいずれも、基礎教育を提供すると同時に、自分たちの宗教の基礎を生徒に教えることを目的としている。

通常カリキュラムでは、アラビア語、タフシール(クルアーンの解釈)、シャリーア(イスラーム法)、ハディース(ムハンマドの言行録)、マンティク(論理学)、とイスラーム史が教えられる。 また、必要に応じて、メドレセによってはアラビア文学、英語、他の外国語、科学や世界史などの講義も行っている。               Wikipediaより

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1660年に完成したティラカリ・メドレセとその内部。 メドレせとはいえ実質はモスクで、祭壇(ミフラーブ)と説教壇を備えた「黄金のモスク」である。

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1420年に完成したウルグベク・メドレセ
レギスタン広場の3つのメドレせの中では最も古い
 
 
1636年に完成したシェルドル・メドレセ
入口のアーチには、小鹿を追うライオンと人面をした日輪が描かれている。一般にイスラムでは
偶像崇拝を否定し、人物や動物をモチーフにすることはタブーとされるが、このようなデザインは
支配者が自分の権力を誇示しようとしたものだろうか。



ビビハニム・モスク

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ビビハニムはティムールの妃の名前。1404年チムールが死ぬ1年前に完成したこのモスクは、かつてイスラム世界で最大の規模を誇るものだったが、大きすぎる故に崩壊しウズベク政府が修復中。 ビビハニム・モスクの庭にある巨大な大理石のラウヒ(書見台)は、ウルグベクが寄進したもの。この上にコーランをおいて読み上げたという。
 

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ミナレット ドーム モスクの外壁の一部


バザール

ビビハニム・モスクの前にあるバザールは食料品が多く、ドライフルーツなどをお土産に買った。

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ドライフルーツ ナッツ

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留守番する坊や 漬物を売る人たち。朝鮮系の人はアジア大陸各所に定住している

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ナンを売る店で、お母さんが支払をしている間に坊やと・・・ カメラを向けるとすぐ集まる子供たち



夕食


キャラバン・サライの雰囲気のレストランで夕食
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 ロールキャベツ、ポテト、ニンジン、
挽肉をブドウの葉で包んで煮込んだものなど
玉ネギのかき揚げ
  
 
春巻きとサラダ 地ビール

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夜のレギスタン広場、残念ながら今夜はイルミネーションはなかった。 2体のライオン像の前は、家族連れで賑わっていた



16日目
(6月5日)
 サマルカンドタシケント市内観光帰国の途へ(機中泊)

今日は中央アジア滞在最後の日である。サマルカンドからバスでタシケントへ行き、タシケント市内観光の後タシケント空港から成田行きの便に乗る。

朝のレギスタン広場

ホテルを暗いうちに一人で出て、レギスタン広場で日の出を迎える。朝日に輝くイスラムタイルの美しさを存分に味わうことができた。

レギスタン広場で日の出を迎え、メドレセに当たる陽が刻々と変わるのを眺める

ウルグベク・メドレセ

シェルドル・メドレセの裏側は東向きで、この時刻はタイルが輝く

レギスタン広場の東側にあるチョルスー
チョルスーは15世紀にサマルカンドの屋内中央市場として建設された。1404年にティムール朝使節団としてサマルカンドを訪れた
スペインの外交官クラビホもチョルスーに立ち寄り、道中の見聞を記した自身の著書「ティムール帝国紀行」の中で触れている。
現在では市場として使用されることはなくなって、主に文化的・教育的な目的で使用されている。2005年にはウズベキスタン
美術アカデミーに売却され、ウズベキスタンの芸術家の作品を展示したアート展などが開催されている。  Wikipediaによる



サマルカンドからタシケントへ

サマルカンドからタシュケントへは350km、バスで5時間の旅。途中、中央アジアの2大河川の1つであるシルダリヤ川を渡った。

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車窓から見た水田。水田はウズベキスタン南部には多いが、この辺では珍しい。今回のウズベキスタンの旅で水田を見たのは二度目。 車窓から見る穀物倉庫
 

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オランダりんごの果樹園 アムダリヤ川と共に中央アジアの2大河川といわれるシルダリヤ川を渡る

シルダリヤ川は、天山山脈に源を発し、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンを通過して、北アラル海に注ぐ川である。延長は2,212 km。最上流部のナルイン川はキルギス内のイシク・クル湖に近い天山山脈を水源とし、上流部のフェルガナ盆地地方ではホジェンド川とも呼ばれている。フェルガナ中部でウズベキスタン領であるアンディジャンの下流ナマンガンでカラダリヤ川と合流する。

1939年から1940年にかけて、ナルイン川とカラダリヤ川から取水した、シル川の南をほぼ平行に流れる大フェルガナ運河が建設された。1948年にフェルガナ盆地西部にフェルハド水力発電所が完成した。1960年代以降、旧ソ連の「自然改造計画」によりアムダリヤ川と共に灌漑が行なわれ、周辺地域では綿花の増産に成功した。しかし、過度の開発によって両河川からの流入量が激減したアラル海は急速に縮小し、周辺地域の環境悪化を招いている。        Wikipediaより



タシケント

ウズベキスタンの首都タシケントは、人口230万以上の大都市。地下鉄が走り、広い道路の両側に高いビルが連なり、シルクロードの印象からかけ離れた近代都市である。オアシス都市としての歴史は長く、2000年前には「チャチ」という名で記録に現れる。11世紀頃から「タシケント」という名で呼ばれるようになり、シルクロードの中継点として栄えた。モンゴル軍に破壊された後、ティムール帝国の時代になって町は復興した。

しかし、1865年に始まった帝政ロシアによる支配が、街の様相を一変させた。ロシア人の入植が続き、町は整然と区画された町並みに変わった。その後1966年に街の真下から襲った大地震で、町は一挙に消え去ったが、ソ連各地から3万人の「革命的労働者」が投入され、わずか数年で近代都市に生まれ変わったという。

ウズベキスタンの日本人墓地

太平洋戦争末期にソヴィエト連邦の赤軍が中国東北地方(満洲)、内モンゴル自治区等へ侵攻し、武装解除した日本兵が強制的にソビエト連邦各地へ戦争捕虜として連行され、長期的に労働力として強制的に隔離され、多くの命が失われた。これを俗にシベリア抑留というが、シベリアに限らず抑留者の移送先はソヴィエト連邦全域に及んだ。

ウズベキスタンには、13ヶ所に日本人墓地がある。タシケント市の南東地区に位置する市営ヤッカサライ墓地内の日本人墓地にお参りした。

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日本人墓地は、公営墓地の奥の方にある
 
墓地の全景
 
ウズベキスタン人の墓守に
一言お礼を申し上げた

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1990年に制作された「永遠の平和と友好、不戦の誓いの碑」 埋葬者79名の氏名と出身地

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79名の墓石 この墓地以外のウズベキスタン日本人墓地に埋葬されている方々の合同墓標

                            シベリア抑留

太平洋戦争終戦の1週間前の1945年8月8日、ソ連邦軍が中国東北地方(満洲)、内モンゴル自治区等へ日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を反故にして侵攻、日本のポツダム宣言受諾後、武装解除した日本兵約57.5万人が強制的にソ連邦各地(シベリアや中央アジア等)へ戦争捕虜として連行され、長期的に労働力として強制的に移送隔離された。これを俗にシベリア抑留というが、シベリアに限らず抑留者の移送先はソ連邦全域まで及んだ。

抑留者はラーゲリ(強制労働収容所)に収容され、劣悪な環境下に満足な食事や休養も与えられず、建設労働者、工場労働者、炭鉱等で過酷な労働を強いられたことにより、1945年から1956年(日ソ共同宣言)までの間に約5.5万人の命が失われた。このソ連邦の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反していた。また、レーニンの共産主義思想にも背いたものであった。ソ連邦崩壊後、継承国家であるロシア連邦のエリツィン大統領は1993年に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明している。

ウズベキスタンの首都タシュケントに日本人抑留者の墓地があり、この墓地がタシケント日本人墓地と呼ばれている。場所は市の南東地区のヤッカサライ)通りに位置する公営墓地の一角にある。太平洋戦争終戦直後、ソ連邦内のシベリアや中央アジア地域、遠くはコーカサス地方、ウクライナ等へ連行され、強制的に労働を強いられた。中央アジア地域のウズベキスタンにも約2万3千名の日本軍捕虜が移送され、ウズベキスタン各地で建設事業に従事する長期的な抑留生活を送り、日ソ間の国交が回復(日ソ共同宣言)され、帰国する1956年までの間に884名が亡くなった。
                                           Wikipediaより




タシュケント市内風景

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片側4車線の道路の両側にビルが建ち並ぶ

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地下鉄のM のマークが見える
 
帝政ロシア支配の時代には、アンホール運河の東はロシア人の町、西はウズベク地域と分割統治された。

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昼食を食べたレストランでは若者が戸外で羊肉を焼いていた



ウズベキスタン歴史博物館

ウズベキスタンの歴史がざっと学べる博物館である。最大の見ものは、
1~3世紀のガンダーラ仏である。

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タシケントにあるウズベキスタン歴史博物館

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旧石器時代の石器(BC10万年) 土器 石製の2匹の蛇の魔除け(BC2000年)

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青銅器(BC6~4世紀)
 
ギリシアパクトリア王国の硬貨
(BC3~2世紀)
仏像の破片(1~3世紀)
 
太陽神の像(1~2世紀)
 

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ガンダーラ仏 「修道僧と仏陀の像」(1~3世紀) ガンダーラ仏がファヨーズ・テペ遺跡から発掘されたときの写真

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7世紀の領主の宮殿から発見された玉座の間を飾るフレスコ画の壁画
アフラシャブ博物館で見たのが本物で、ここにあるのはレプリカだと思うが・・・
今上天皇(昭仁天皇)と
握手するカリモフ大統領

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これも博物館の展示! ウズベキスタンにおける自動車生産の伸び
 
ウズベキスタンで現地生産している
”CHEVROLET"、"MAN"、"ISUZU"



ティムール広場

この場所には、1913年にトルキスタン総督府の初代総督カウフマンのモニュメントが設置されていた。その後、1930年の春短期間ながらレーニンの胸像が、1940年代後半にはスターリンの像が、1968年にはマルクスの像が設置された。ウズベキスタン独立3周年が終わった1994年に広場は「アミール・ティムール広場」と改名され、現在の馬に乗ったティムールの銅像が設置された。

銅像の歴史は、そのままこの国の政治体制の歴史を表していて、興味深い。

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タシケントの街の中心地「ティムール広場」に建つティムールの像
ティムール(1336年 - 1405年)はティムール朝の建国者
             ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
第二次世界大戦後抑留された日本兵抑留者が建てた劇場。強制労働にも関わらず、見事な建物を造り上げた日本人の誉れといわれている。
ティムールは、ロシア革命期にはトルキスタンのナショナリズムを象徴する英雄に祭り上げられた。しかし、スターリン時代にティムールの理想化は禁止された。ウズベキスタン共和国が独立した後、ティムールは民族と国家を象徴する英雄として復権を果たす。1993年に首都タシュケントのマルクス像に代えてティムール像が設置された。

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国際会議場と屋根の上のコウノトリの像
ヨーロッパでは「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」という言い伝えがあるが、中央アジアでは?



ウズベキスタンのタシケント空港へ

タシケントで夕食の後、タシケント空港から帰国の途についた。

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タシケント空港 ウズベキスタン航空HY527便 ボーイング767機でタシケント空港を発つ



17日目
(6月6日)
 (機中泊成田空港

予定よりも早く8:25に成田空港に到着し、中央アジア4か国の旅は終了した



今までなぜか疎遠であった中央アジアの国々に、とても親近感を抱くようになったことが、今回の旅の最大の成果である。古くからシルクロードの中継点として栄えた町、アレクサンドロス大王によって地中海世界に紹介された東の国々、チンギス・ハーンによって破壊された町、ティムールによって再建された町、イスラムの知恵が詰まった天文台や神学校、人々の祈りの場であるモスクの数々、が旅の思い出として脳裏に焼きつけられている。それにも増して、モスリムの人達の旅行者に対する微笑みが忘れられない。

最後に、テンチクさん始め現地ガイドの皆さん、ユーラシア旅行社添乗員の川端瞳さん、13人の旅仲間の皆さんに、心より感謝申し上げます。



中央アジア(2)は、トルクメニスタン、ウズベキスタン(後半)の旅でした。如何でしたか。
中央アジア(1)は、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン(前半)の旅です。
         まだご覧になっておられなければ、上をクリックして中央アジア(1)をご覧下さい。 



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