イラン(1) --- テヘラン、ケルマーンシャー、タブリーズ、カスピ海、アフヴァーズなど テヘラン、ケルマーンシャー、ハマダーン、サンジャーン、タブリーズ、カスピ海、アフヴァーズ、シーラーズ |
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タブリーズのバザール 世界にバザールは数あるが、バサールそのものがユネスコの世界遺産になっているのはタブリーズのバザールだけであろう。「タブリーズの歴史的商業施設」として、2010年に登録された。バザールには学校、マスジェド(礼拝堂)、キャラバンサライ(隊商宿)などがあり、独特な生活空間を造り出している。上の写真はかつてキャラバンサライだった場所で、今は絨毯市場になっている。 |
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イラン・イスラム共和国とその周辺国 |
◍ 首都 日本との時差 : 日本より4.5時間遅れ |
イラン・イスラム共和国の概要 |
国 名 | イラン・イスラム共和国 |
国 旗 | |
首 都 | テヘラン |
政 治 | イスラム共和制 1979年イスラム革命によりイスラム共和国成立 1945年国連加盟 |
面 積 |
164万8000km2 |
人 口 |
7789万人(日本の62%) |
言 語 |
ペルシア語(公用語) |
宗 教 | イスラム教シーア派89%、イスラム教スンニ派10%、 ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教 |
産 業 | 国土の10%が可耕地で就業者の25%が農業に従事し牧畜も盛ん。穀物、野菜、果物、綿花が栽培され、果物とその加工品が輸出される。中央高原では羊の遊牧がおこなわれ、この羊毛を使ったペルシア絨毯は貴重な輸出品である。カスピ海では高級珍味のキャビアが採れるが乱獲で激減した。 石油資源は豊富で精製も行われ、その収入が国の主要財源であるが、革命や戦争、経済制裁などにより影響を受けやすい。繊維、食品、建設、化学工業も盛ん。 |
1人当 GDP |
5183米ドル/年(2014年) |
イランの略歴史年表 |
「世界の歩き方」より |
イランの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図 |
赤線はGPSによる軌跡(破線部分はデータ取得できず) は移動方向 はイランの国境 ①②などは宿泊地 成田~⑨はイラン(1) ⑩~成田はイラン(2) |
1日目 (4月13日) |
成田空港→機中(泊) |
成田空港を発つ |
成田空港を22:20発のカタール航空QR807便(B777-200LR機)で出発 |
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機内の表示は、アラビア文字(多分ペルシア語)と英語 | 最近の表示はCGの技術を使い、まるでコクピットにいるようだ |
2日目 (4月14日) |
機中(泊)→ドーハ空港→テヘラン空港→宝石博物館→ホテル(泊) |
今日は、機中泊の後、早朝のドーハ空港に着き、乗継してテヘラン空港へ。 テヘランで時間が取れたので、急遽有名な宝石博物館を見学する。 |
ドーハ空港へ |
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カタール国ドーハ空港に近付く |
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ドーハ空港上空から見る不夜城 | 産油国カタールのドーハ空港は広くて近代的 |
ドーハ空港で乗り継ぎテヘラン空港へ |
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カタール航空のQR488便(A320-200機)で、ドーハからイランの首都テヘランに向かう |
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ドーハ上空から見える人工島 | イランのザグロス山脈の上空を南北に横断する |
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テヘラン上空で機上から見えるイランの最高峰ダマーヴァンド山(5601m) | 迎えの専用バスに乗って旅の第一歩を踏み出す |
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圧縮天然ガス(CNG)を用いるバスも走っている | 文部省の建物を車窓から眺める(イランでは官庁施設は撮影禁止) |
圧縮天然ガス(CNG)は、高い圧力で圧縮された天然ガスのこと。環境に優しい自動車の燃料として注目を浴びるようになった。一方、液化天然ガス(LNG)は、気体である天然ガスを-162℃以下に冷却して液体にしたもの。液化することにより輸送・貯蔵に便利となるが、車の燃料に使用すると車体重量が大きくなるのが欠点。 |
国立宝石博物館 |
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宝石博物館は、イラン中央銀行の地下金庫にある。1979年のイスラム革命前にパフラヴィー朝王家が所有していたものを一般に公開。警備が厳重で、バッグ類、カメラは一切持ち込めない。 |
ダルヤーイェ・ヌール(「光の海」の意)* |
A | * 宝石博物館は撮影禁止のため、購入した写真集から引用した | |
パーレヴィー王冠* レザー・パーレビ国王が戴冠式で使用した王冠で、ダイヤモンド3,380個(1,144カラット)、エメラルド5個(199カラット)が用いられ、
総重量2.08kg |
ファラー王冠* ファラー・パーレヴィ王妃が国王の戴冠式の時に使用した王冠で、ダイアモンド1,469個、エメラルド36個が用いられ、総重量1.48kg |
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テヘランのラーレ国際ホテル |
宝石博物館見学の後、ラーレ国際ホテルに泊まった。 |
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ラーレ国際ホテルは、テヘランの中心部にある高級ホテル パノラマ撮影がうまく繋がらず不自然な写真になった |
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ジャガイモ・スープ | サラダ | パンとナン 食卓にパンが出たのはここだけ |
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羊肉とレモン入りのシチューと長粒米のご飯 | デザートはでっかいプリン |
3日目 (4月15日) |
テヘランのホテル→空路→ケルマーンシャー→ターゲ・ボスターン→ビーソトゥーン(世界遺産) →カンガヴァールのアナヒタ神殿跡→ハマダーンのホテル(泊) |
今日はテヘランから飛行機でケルマーンシャーに飛び、AD3世紀のサーサーン朝ペルシア、AD6世紀のアケメネス朝ペルシア、BC1世紀のパルティア時代の各遺跡を訪ねる。到着地はハマダーン。 |
テヘランから飛行機でケルマーンシャーへ |
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ホテルのレストランにダマーヴァンド山のレリーフ イランのダマーヴァンド山は、日本の富士山のような存在 |
朝のラーレ国際ホテル |
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テヘランのメフラーバード空港へ この空港は国内用だが、一部近隣の国外の発着も |
テヘラン発09:50のイラン・アーセマーン航空EP620便 ガルフストリーム エアロスペース機(型名不明)でケルマーンシャーへ |
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雪山や浸食地形の山々を眺めながらケルマーンシャーへ |
ターゲ・ボスターン |
ケルマーンシャーの町から6kmほどのところに、サーサーン朝時代のレリーフが残るターゲ・ボスターン遺跡がある。 |
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添乗員の浅野さんと現地ガイドのマンスリさんが、地図を広げて説明 |
左側から2つは、岩をくりぬきその中に彫刻が施されている。右側のものは岩に直接彫刻されている。サーサーン朝はゾロアスター教を国教としており、人気のアナーヒーター女神は本来は川や水を司る水神であるが、健康、子宝、安産、豊穣などを司る。ゾロアスター教を祀るところには必ず清水がある。金魚は神聖のシンボル。 |
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左端の洞窟の左内壁には色彩が残っている |
左端の洞窟にはサーサーン朝後期(6世紀後半~7世紀初頭)のホスロウ2世の「帝王の叙任式図」(上)と「馬上のホスロウ2世」(下)がある。叙任式では中央のホスロウ2世が、左右にいるアナーヒター神とアフラ・マズダ神から王権の象徴である光輪を受ける場面が描かれている | 左端の洞窟の外壁には羽根を広げた天使のレリーフが目にとまる |
天使のレリーフ は、ギリシア神話に登場する勝利の女神ニケのモデルになったとか、 シルクロードを通って日本に伝わり正倉院の「飛天」のルーツになったという説がある。 |
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中央の洞窟にはシャープール2世と孫たちを描いたレリーフがある。(4世紀後半) | 右端の岩に直接彫刻されたレリーフは、対ローマ戦の戦勝祝いを兼ねたアルデシール2世の叙任式を描いたもの(4世紀後半) |
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遺跡の周辺に咲いている野草の花々が、旅の疲れを癒してくれる |
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地下室に清流を作った瀟洒なレストランで昼食 | バイキングのサラダ |
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サラダ | 乾燥レモンの入ったビーフシチュー | ノンアルコールビール |
このノンアルコールビールは原料に大麦を使用しているので、アルコール分はなくても多少ビールの食感がある。原料が大麦でなくレモン、ザクロなどの果実のものは、甘くてビールの代りにはならない。イランは戒律の厳しいイスラム国で、外国人といえども、アルコール類の販売、持ち込みは禁じられている。 |
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ビーソトゥーン(世界遺産) |
ケルマーンシャーから東に30kmのビーソトゥーンには、先史時代から13~14世紀に至る、メディア王国、アケメネス朝ペルシア、ササン朝ペルシア、イル・ハン国の遺跡が残されている。特に重要とされるのは、紀元前521年にダレイオス1世がアケメネス朝ペルシアの王となったことを記念する碑文とレリーフである。 |
現在修復作業中で見ることができないダレイオス1世(大王)の戦勝記念碑の写真が展示されている。よくでき写真で、さながら実物を見る気分である。 左側の一番大きな人がダレイオス1世で、向かい合って並んでいる人たちは反乱者。不当に王位を奪ったメディア王国の神官ガウマタを踏みつける。 |
碑文は楔形文字で古代ペルシャ語、エラム語、アッカド語の3言語で書かれている。1835年にローリンソンがこの遺跡を発見し、楔形文字の解読に成功したことから、ビーソトゥーンは、ヒエログリフ解読にロゼッタ・ストーンが果たした役割と同様の役割を担ったということができる。2006年にユネスコの世界遺産に登録された。 |
険しい山の中腹にいくつかのレリーフが彫られている。この岩崖の下には、ダレイオス1世が築いたペルシアと ギリシアを結ぶ幹線道路「王の道」が通っている。ダレイオス1世としてはここに戦勝記念碑を設けたかったのであろう。 それにしても下からは遠すぎてよく見えない所にどうして、という疑問が涌く。 |
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「王の道」沿いには、BC163年に造られた「ヘラクレスの像」が残っている。
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上から眺めると円形の貯水池が作られている。近くに泉があるのであろう。 |
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車窓から古い石橋が見えた | ちょうどアーモンドの花が満開だった |
カンガヴァールのアナーヒーター神殿跡 |
ここは紀元前3世紀ごろアルケサス朝パルテイア王国時代に築かれた水と美の女神アナーヒーターの神殿遺跡で4.6haの敷地に210mx200mの三層の階段状の神殿があった。 |
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草原の中の台地にアナーヒーター神殿跡はある | 錆びた標識版 |
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古いイスラム教徒の墓地があるが、墓地は神聖でるので、撤去できないという。 | 石段を含めた壁の高さは8.5m |
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高さ5mほどの石の列柱 | 巨石がごろごろ転がる廃墟である |
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石は砂岩で、近くの山から切り出されたという。 |
ハマダーンのホテル・ババタヘール |
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1800mの高地にあるハマダーン州の 州都ハマダーンのホテルに着く |
夕食は、サラダバイキング、鱒のケバブ、ナンとデザート 鱒のケバブは、魚好きの日本人にはなかなか美味かった |
4日目 (4月16日) |
ハマダーンのホテル→金曜日のモスク→石のライオン像→ソルターニーイェ(世界遺産) →ザンジャーンのホテル(泊) |
今日は、ハマダーンの町の「金曜日のモスク」、「石のライオン像」を見た後、バスを走らせ「ソルターニーイェ」(世界遺産)を見学し、ザンジャーンのホテルに辿り着く陸路の旅である。 |
ジャーメ・モスク(金曜日のモスク) |
街で一番大きなモスクをジャーメ・モスク、日本語では「金曜日のモスク」というらしい。イスラムの国では金曜日は休日で皆がお参りするからだろう。 |
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ハマダーンの町の中心エマーム・ホメイニー広場の周りはロータリーになっている |
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ジャーメ・モスクの入口のミナレット | 入口を入ると中庭があり、お祈りをするモスクがある |
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常連の信者はここで自分のモフルを 取って床に置き、額をつけてお祈りする |
メッカの方向を示すミフラーブ(聖龕、せいがん) とその脇に置かれたミンバル(説教壇) |
天窓のある部屋もある |
モフルは、小さな素焼きの陶器で、シーア派ムスリムのみ使い、スンニ派は使わないという。 | A | すべてのモスクに不可欠な要素は、メッカの方向を示す象徴的なミフラーブであり、 多数の信徒を収容する広い空間である。必要に応じて設置されるものとしては、 ミンバルなどがある。モスク外部には信徒に祈禱の時刻を告げるためのミナレット が必要である。ミフラーブ、ミンバル、ミナレット、は3Mというそうだ。 |
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第2代アリー・ハーメネイー |
ジャーメ・モスクの中にある立派な建物、マドラサ(イスラム神学校)だろうか。 左右に2人の最高指導者の肖像があった。 |
初代ルーホッラー・ホメイニー |
サンゲ・シール(石のライオン像) |
BC4世紀頃に、街の門を守るためアレクサンドロス大王の命により彫られたという石のライオン像。現在はサンゲ・シール広場の中央にあるが、長い年月で摩耗し、まるでトドのようだ。 |
バスの車窓から |
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麦畑だろうか、灌漑施設が整っている | なぜか羊は草の少ないところに放牧されている |
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土塀は日干レンガでも、住宅は一応焼成レンガ | 鉄フレーム入り焼成レンガが住宅の標準らしい | 穴明き焼成レンガは運搬コストを安くするためか |
レストランで昼食 |
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昼食に食べたシシケバブは牛肉で ガイドのマンスリーさんによると世界一美味しいそうだ |
ザクロのジュース ザグロビールというが 甘くて戴けません |
メロンを半分に切ってデザート マンスリーさんが道中で仕入れて レストランに持ち込む |
シシケバブは、トルコの代表的な焼肉料理。シシは「金串」、ケバブは「焼肉」という意味。トルコに限らずイスラムの国では基本的には羊肉であるが、牛肉、鶏肉、魚もケバブという。トマト、ピーマン、タマネギなどの野菜を刺して焼くこともある。また、下味をつけずそのまま焼くこともあれば、ニンニク、スパイスなどで下味をつけてから焼くこともある。さらに、よくたたいた肉に野菜や香辛料を混ぜて固めたものを串に刺して焼くこともある。私は香辛料入りの羊肉が好きだ。 |
ソルターニーイェ(世界遺産) |
ゴンバデ・スルターニーイェは、ハマダーンからザンジャーンへの途中にある、イルハン朝第8代君主オルジェイトゥの命によって建設された都市遺跡である。ソルターニーヤとはアラビア語で「スルターンに関わるもの」を意味し、スルターンの御座所、すなわち首都の意味になる。ソルターニーイェの遺跡群の中核は、1302年から1312年にかけて建設されたオルジェイトゥ廟である。ソルターニーイェの影響を受けた建築物としては、インドのタージ・マハルがある。2005年、ユネスコの世界遺産に登録された。 イラン人(ペルシア人)にとっては異邦人のモンゴル人のイルハン朝が造った遺跡を、自国の世界遺産に登録したことになる。大陸民族の懐の深いことに驚く。 |
オルジェイトゥ廟は、現存するイラン・中央アジアでも最大規模のドーム建築で、 直径38m、全高50メートルの二重構造の八角形のドームを備えている |
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外観はかなり傷んでおり、修復中 | 内部には40年前にイタリアの修復チームが作った足場が残っている |
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左の模様の下地の上に、右の模様のモザイク・タイルが貼られている |
アラバスタ(雪花石膏) 細かなうろこ状の結晶が集まった天然大理石の一種。淡い透過性がある |
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天井のタイル | 最上階からの眺め 「透かし木彫り」ならぬ「透かしタイル」 |
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狭い急ならせん階段を気を付けて昇降する | 墓廟の外には、見張り台もあった |
ザンジャンのグランドホテル |
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ザンジャンの高級ホテル、ザンジャーン・グランドに泊まる |
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スープ | サラダ | 野菜シチュー | ライスとデザート |
5日目 (4月17日) |
ザンジャーンのホテル→タフテ・ソレイマーン(世界遺産)→タブリーズのホテル(泊) |
今日は、ザンジャーンのホテルを出発して、途中タフテ・ソレイマーン(世界遺産)を見学し、夕刻タブリーズのホテルに到着するという長~い車の旅である。 |
ザンジャーンからタフテ・ソレイマーンへ |
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標高1600mのザンジャーンの町から山を登り2000mを越えると浸食地形が現れる。そこからいったん下り、川を渡る。 | 再び登り、標高1600mのところに鉱山跡がある。昔は銅と錫を採掘していたが、今は採石所になっているという。 |
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採石の現場はもっと高いところにあり、ロープウェイが登っている | 標高2580mの最高地点には残雪があり、雪山が望まれる |
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標高2200mのところにタフテ・ソレイマーン遺跡がある | こんなところにユニセフの募金箱 |
タフテ・ソレイマーン(世界遺産) |
タフテ・ソレイマーンはゾロアスター教及びサーサーン朝の聖地。2003年にユネスコの世界遺産に登録された。名称はペルシア語で「ソロモンの玉座」を意味する。主にサーサーン朝時代に建造された宗教施設群がある。サーサーン朝はゾロアスター教を国教と定めていた。サーサーン朝の国家的最重要拝火壇のひとつ「アードゥル・グシュナスプ聖火」が、この遺跡であった可能性が高いと考えられている。考古学調査では、タフテ・ソレイマーン遺跡にはサーサーン朝の王が刻まれている硬貨やビザンツ帝国皇帝のテオドシウス2世の硬貨も見つかっている。伝説によると、サーサーン朝の歴代の君主たちは王位を受ける前にタフテ・ソレイマーンを訪問し、火をささげたという。 |
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家族連れの見学者が多い。皆にこやかだ。 道沿いにきれいな水が流れている。 |
イランに住むクルド人の父娘。足首の絞ったモンペが特徴だ。 | きれいな水の源は、山頂にある湖だ |
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直径約100m、水深約100mの火口湖。 その向こうに遺構、さらに向うに溶岩ドームを伴った火山が見える |
イランの若者が湖の縁に上り一緒に写真を撮ろうという。もう一人の男が撮ってくれた。 |
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ここには大きなアーチがあったという | ユネスコの世界遺産だというが、説明板はほとんどない |
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ここで、香としてバルサムを焼き、ゾロアスター教の聖火を保った。近くにバルサムの樹の畑があったという。 |
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湖畔に小さな博物館(展示室)がある | 展示室で見つけた航空写真? 以下は展示室で見たもの |
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昔の鉢 | ||
昔のタイル | ゾロアスター教の祭典の様子の写真 |
昼食のレストラン探し |
予定したレストランが休業で、ガイドのマンスリさんがタクシーで探し回って見つけたレストランに入る。 |
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ここのナンは薄くて、バスタブの滑り止めマットのような穴が開いている。 | ビールならぬレモンジュース |
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イラン名物のミンチケバブ | レストランの親父さんと女将さんと息子さんも出てきて一緒に写真 |
タブリーズのホテル・インターナショナルへ |
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タブリーズへの途中、車窓から見えた火力発電所 日本の火力発電所はすべて海岸にあり海水で冷やしているが、イランの内陸では大きな冷却塔を建てて冷やしている。原発ではない。 |
車窓から見えた大理石採石所 大理石が出るということは、太古の昔ここは暖かい南海の浅瀬で、サンゴ礁があったという証拠。南から北へ大陸移動するとともに隆起したと考えられる。 |
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黄昏のタブリーズに着いた | 夕食には、イラン名物の巨大な肉だんご(キュフテ)が出た |
6日目 (4月18日) |
タブリーズのホテル→アルゲ・タブリーズ→マスジェデ・キャブート(ブルーモスク) →バザール(世界遺産)→サル・エインのホテル(泊) |
今日は、出発前にタブリーズの町を1人で散歩、それからアルゲ・タブリーズ、マスジェデ・キャブート(ブルーモスク)、バザール(ユネスコ世界遺産)を見学し、温泉地サル・エインに到着するという長いバスの1日である。 |
タブリー市街の朝の散歩 |
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信号が赤でも道路を横断するのがこちらの流儀? |
近くの丘の上に風力発電所が見えた。 産油国でもお付き合いの再生可能エネルギーというところか。 |
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イランの都市部では、大きな横断歩道には 上り下りのエスカレータがついている。 |
添乗員の話では、この川に水が流れているのを 何年かぶりに見たという。近年渇水らしい。 |
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街角で見かけた聖職者 写真を撮れという |
大きなナンを仕入れて帰るホテルのコックさん | これから通勤時間になるタブリーズの朝 |
アルゲ・タブリーズ |
アルゲ・タブリーズは14世紀初頭、イル・ハーン朝の時代に建てられた城塞である。高さは40~50mもある。当時はこの上から犯罪者を突き落としたといわれが、その中の女性の1人はチャドルがパラシュートのように開き、命拾いをしたという話が残っている。。 |
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城塞は地震による破壊が著しいが威圧感を以て迫ってくる | 壁の外壁の一部には青いタイルが残っている |
マスジェデ・キャブート(ブルーモスク) |
15世紀の中ごろに建てられたマスジェデ・キャブートは青いタイルの美しさからブルーモスクの名で知られる。たび重なる地震による損傷が大きく、現在も修復が続いている。 |
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ステンドグラスの美しい入口を入る | 長い回廊が外部の世界からモスクへと導く |
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煉瓦がむき出しになった外壁には、ブル-タイルの断辺が残り、ブルーモスクと呼ばれた往時を偲ばれる。 |
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モスクの入口 | モスクの内部 | ブルータイルが美しい |
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倉庫に眠っているモザイクタイル 残念ながら、タイルの金属光沢は写真では表現できない |
再び長い回廊を通って外界へ戻る |
バザール(ユネスコ世界遺産) |
イスラム世界にはバザールはごまんとあるが、バザール自体がユネスコの世界遺産になっているのは、ここタブリーズのバザールだけであろう。タブリーズの歴史的商業施設は、中東最古のバザールで、2010年に世界遺産に登録された。考古の時代より交易の交差路としての役割を果たしてきたタブリーズは、19世紀以降イランの対ロシア・ヨーロッパ貿易の中継都市としての発展を遂げた。そのために西欧の新しい政治思想をいち早く吸収することが出来、1906年~1911年のイラン立憲革命の際にも、第一議会に全国的に先駆けて、立憲派のタブリーズ・アンジョマン(集会)が結成された場所であった。 |
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バザールの入口の1つ | バザールは観光客のものではない、現地の人達の日常の商店だ |
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米にもいろいろな種類がある、カスピ海沿岸の長粒米が最高という | 豆と一言でいっても、こんなに種類がある |
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様々な香料。シナモンは棒状のまま売っている(左下隅) | ドライフルーツ | 蜜蜂の巣 |
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布地を買うイスラムのご婦人 |
彼女たちは黒いチャドルの下にこのような艶やかな衣をまとうのか | 宝石や貴金属のネックレス |
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バザールの中心通りから枝分かれした一画にある、かつてのキャラバンサライ(隊商宿)。今は絨毯取引所になっている。 |
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コーランの書見台を売る店 | バザールに隣接したモスク、モスクとバザールと公衆浴場はセットだ |
行き当りバッタリの昼食レストラン |
昼食のレストランは行き当たりばったり、それも楽しい。 |
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1700mの高地から車の右側前方に、サハンド山(3700m)が見えた | 羊の放牧 |
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畑仕事をする人達、農耕機械はない | やっと見つけたレストラン |
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マンスリさんがシチューをかき混ぜてくれる | シチューとヨーグルトとナン |
ナンにシチューを載せて食べる |
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野菜は生で食べるのがイラン風? | 果物は輸入品? |
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レストランのガラス越しに山を眺める | レストランのオーナーと息子と一緒に写真に |
温泉地サル・エインに到着 |
雪山を眺めながらの長いバス旅行の末、温泉地サル・エインに到着。 |
サル・エインに近付くとようやく雲が晴れて、車の左側奥にサバラーン山(4811m)が見えた。 |
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サル・エインのラーレ・国際ホテルに到着 テヘランのホテルと同じ系列の高級ホテルだ |
サル・エインはイラン有数の温泉地だが、 日本の温泉地のような情緒はない |
早速、温泉に行く。プールのような大きな湯舟がいくつもあり、水着を着けて入る。もちろん撮影禁止。 |
7日目 (4月19日) |
サル・エインのホテル→アルダビール→シェイフ・サフィーオッディーン廟 →カスピ海のアンザリー潟→テヘランのホテル(泊) |
今日は、アルダビールにあるシェイフ・サフィーオッディーン廟を訪ね、峠を越えてカスピ海沿岸まで走り、アンザリー潟でボート遊覧の後、空路で5日ぶりにテヘランに戻る一日である。 |
シェイフ・サフィーオッディーン廟 |
イスラム教シーア派サファヴィー教団の祖、シェイフ・サフィーオッディーンの霊廟である。シェイフ・サフィーオッディーンのほか何人かのゆかりの人々の棺が安置されている。イスラムタイルが美しく思わず沢山の写真を撮ってしまった。 |
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シェイフ・サフィーオッディーンの肖像 | 廟の入口 |
中庭は神学校のような雰囲気 |
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美しいイスラムタイルがあったので、思わずシャッターを切る |
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廟とはいいながら、ミナレットもあってモスクのように立派だ |
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いくつもある建物に見入る |
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棺のある部屋に通じるホール | シェイフ・サフィーオッディーンの棺 | シェイフ・サフィーオッディーンゆかりの人々の棺 |
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中学生の修学旅行らしい一行が先生の話を静かに聴いていた | 先生に勧められて写真に加わる。イランは実に親日的だ |
なぜイランは親日的なのか --- テレビドラマ「おしん」の放映 |
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イランが親日的である理由として、よく言われることは、①日本が日露戦争に勝ったこと、②日本は技術先進国であること、などである。しかし実際に訪れて驚いたことに、日本人を見つけると、「おしんを見たか?」、「おしんをどう思うか?」と尋ねられる。テレビドラマ「おしん」の放映の影響は絶大である。日本では「おしん」は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送され、平均視聴率は52.6%、最高視聴率62.9%だった。 その後、スリランカ、インドネシア、フィリピン、台湾、香港、ベトナム、アフガニスタン、シンガポール、エジプト、イランなど世界68ヶ国や地域で放送された。イランでは1986年、1990年代、2013年の3回も放映されたという。 このため老人から子供まで、日本人に会うと「おしん!、おしん!」といって笑顔を見せてくれるのである。この1件を見ても国際文化交流の重要さに驚く。 |
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DVDのケースより |
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アッバース1世が中国の皇帝から贈られた陶器のコレクション | 2重ドームの構造が分る写真 |
廟の庭から見事なイスラムタイルが見えた |
廟を出ると、次に見学する小学生の列があった |
カスピ海へ向かって走る ━ レストランを探して |
アルダビールは標高1300mほどの高原にあるが、そこから峠を越えてカスピ海沿岸(湖面水位約-20m)まで走る. |
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標高1500mほどの峠を越えると別荘地があるが、実は国境に近い | ここはイランとアゼルバイジャンとの国境、鉄条網と標識がある |
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カスピ海沿岸に近い平地まで降りると沢山の水田が見られる。イランの米の生産高は年290万トンで世界第23位、 その8割がカスピ海沿岸で採れる。因みに日本は第10位で、1076万トン |
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日本では旅行中のトイレはガソリンスタンドかコンビニに決まっているが、イランではどちらも少なく、モスクのトイレを借りることが多い。 |
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トイレは一般に清潔であるが、いわゆるトルコ式であるので、高齢者や足の悪い人には厳しい。 ハンドシャワーを使って流す。感心したことは必ず手洗いが完備していることである。 |
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カスピ海沿岸は低地であるので、高床式の集合住宅もある |
ガイドのマンスリさんとドライバーのアウディさんが、昼食用のスイカを購入 |
先遣のマンスリさんが「このレストランはOKだよう」と手をあげると下車する |
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ビーフシチュー | 生野菜 | グリルされた魚(多分カスピ海産) |
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マンスリさんが買い出ししたスイカ | レストランのマダムとツーショット | 近所の若者が現れて盛り上がった |
カスピ海のアンザリー潟 |
カスピ海沿いに東に走るとラシュトの町の手前にバンダレ・アンザリー(アンザリー港)がある。この付近には、多くの野鳥が生息するアンザリー潟があり、イランでは人気の高いリゾート地として知られている。ここから100kmほど東のカスピ海沿岸にあるラムーサルは、1971年に「ラムサール条約」が制定された地として有名である。条約の正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」で、この条約に指定された湿地数は2015年現在2,208か所に及ぶ。日本では釧路湿原を最初として、指定地は合計50か所である。 なお、ラムサールは、中国広東省の陽江、インドのケララ、ブラジルのガラパリと共に、大地から受ける年間の自然放射線量が異常に高い地域として有名である。因みにラムサールの自然放射線量は、日本の平均の約23倍高いという。 |
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カスピ海の湖岸に打ち寄せる波 平均塩分濃度は1.2%で、海水のほぼ3分の1、 舐めてみると、僅かに塩辛い |
カスピ海で釣りをする人々 |
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沿岸に停泊する小型艦船 | ライフジャケットを着けてボートに乗る |
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4隻のボートに分乗し潟を探勝する | 1隻に客は4人ずつ |
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鳥の名はよく知らないが、ウミウ、カモメなど4、5種が見られた | 葦のほか背の高い樹木も生えている |
アンザリーからテヘランへ |
アンザリーから車でラシュト空港に行き、空路で5日ぶりにテヘランに戻った。 |
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ラシュト空港 | イラン・アーセマーン航空EP845便(双発ターボプロップ機のATR72と思われる)で、テヘランへ |
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機上からカスピ海と水田が見えた | テヘラン上空では夜景が美しかった |
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8日目 (4月20日) |
テヘランのホテル→デズフール→チョガー・ザンビール(世界遺産)→シューシュ遺跡 →シューシュタルの水利施設(世界遺産)→アフヴァーズのホテル(泊) |
今日は、テヘランから空路でデズフールへ飛び、チョガー・ザンビール(世界遺産)、シューシュ遺跡、シューシュタルの水利施設(世界遺産)を訪ね、アフヴァーズに到着する。 |
テヘランからデズフールへ |
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テヘラン空港発05:15のイラン・アーセマーン航空EP864便 (Hokker100機)で発ち、デズフールへ |
ザーグロス山脈上空から見事な扇状地が見えた |
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1時間遅れて07:30にデズフール空港に着く |
チョガー・ザンビール(世界遺産) |
1935年に油田調査中に偶然発見されたエラム建築の代表作であるジッグラト(階段状ピラミッド)である。BC13世紀にエラム王国の王ウンタッシュガルがシューシュを行政の中心に、ここを宗教的中心に定め、ジッグラトを建設した。BC640年頃シューシュがアッシリアにより陥落すると同時に、ジッグラトも破壊された。1973年にユネスコ世界遺産に登録された。 |
1辺105mの正方形のジッグラト(階段状ピラミッド)は3段目まではっきりと残っている。 建物の周りに7重の壁があり、士農工商に分かれて住んでいたという。 |
現在残るのは建設当時の約3分の1ほどの高さまでだが、当時は50mもあったという高さを想像すると圧倒される。 頂上にはエラム人の最高神を祀る寺院があった。中央の円形の台は日時計か生贄を供えるところかわからないという。 |
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楔形文字の書かれた煉瓦もある |
階段のように見えるのは雨水を流すための水路 |
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階段の上は立ち入り禁止 | 正方形の角から眺めると整然とした形状に驚く |
シューシュ遺跡 |
この遺跡は、1852年にイギリス人考古学者によって発掘が始められ、その後フランス考古学調査隊に引き継がれた。この街は3700年前のエラム王国のときに造られたが、アッシリアに破壊され、紀元前521年ダレイオス1世により 冬の都として再興されただが、180年後にはマケドニアのアレクサンドロス大王により再び破壊された。 |
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だだ広い感じで、復元があまり進んでいないようだ。風化を防ぐため上から土を掛けてある。 |
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布地の覆いの下に、太い円柱や牛の像が置かれている。 |
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大きな城のような建物は、19世紀後半にフランス考古学調査隊が建設したもの。 発掘された煉瓦を用いて建てられた。煉瓦には楔形文字が刻まれたものもある。 |
昼食とドライブ |
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運河の近くのレストランで昼食、オクラ入りのシチュー。底に紅茶が仕込まれた紙コップ、湯を注ぐだけでいい。 |
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まだ青々とした大麦 | 収穫期を迎えた大麦 |
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イランのような中緯度の地でもサトウキビができるという | よく育ったキャベツ |
シューシュタルの水利施設(世界遺産) |
サーサーン朝時代(226年~651年)には、シューシュタルはカルン川 に浮かぶ中州となり、サーサーン朝における夏の首都に選ばれた。カルン川は、シューシュタルを囲む堀の役割を果たし、東・西・南の三方にシューシュタルの町へ渡ることが可能な橋がかけられた。シューシュタルのそばを流れる幾筋の河川がシューシュタル周辺の農業の発展に貢献した。そこでは、サトウキビや主要農産物が生産された。サーサーン朝のシャープール1世は、ローマ帝国皇帝ウァレリアヌスを打ち破った際に、ローマ人捕虜を用いて、カエサルの橋と呼ばれる 550m の長さに及ぶ巨大な橋梁・ダムを建設させた。シューシュタルの周辺に張り巡らされた水利網はシューシュタルの町に水を供給し、戦時には、シューシュタルの城門は閉じられた。 19世紀以降、シューシュタルは衰退の一途をたどった。1973年パフラヴィー朝は荒廃していたシューシュタルの再建に乗り出した。しかしパフラヴィー朝は1979年にイラン革命で滅びた。 |
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車窓から偶然撮れたサーサーン朝時代の橋の遺跡 | 世界遺産シューシュタルの水利施設への入口 |
水利施設の全景。左手には川から導かれた水が、何か所も滝のように流れ込んでいる。 |
右手からも滝のように流れ込んでいる。 |
上の写真の一番奥の高いところまで登り、振り返って撮影した。 |
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水車で石臼を回していた。 |
パフラヴィー国王時代(~1979年)は、ここで製氷をしていた。 水車でアンモニアを圧縮する冷凍機を動かしていた。 |
パフラヴィー時代には水力発電もしていた。 |
ホテルで夕食 |
シューシュタルからアフヴァーズまで進み、パルス・ホテルに泊まった。 |
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今日は、同行の一人が誕生日で、お祝いのケーキがプレゼントされた | レモンジュースのような ノンアルコール・ビール |
メインはでっかいチキンストロガノフ |
9日目 (4月21日) |
アフヴァーズのホテル→油田地帯を走る→ビシャブール遺跡→シーラーズのホテル(泊) |
今日は、アフワーズからザーグロス山脈に沿って油田地帯を走り、ビシャブール遺跡を訪ね、デルハヤ峠を越えてシラーズに達する長い走行の1日である。 |
油田地帯を走る |
ザーグロス山脈は、イラン西部からペルシャ湾のホルムズ海峡まで全長1,500kmに及ぶ。この山脈は、アラビアプレートがユーラシアプレートに衝突して形成された。山脈を構成する堆積岩のうち、軟らかい岩石は浸食され、硬い石灰岩や苦灰岩が残ったため峰が線状に何重にも連なったと考えられる。このような地質構造は石油の生成と集積を引き起こしたため、この地域はペルシャ湾産油地帯で重要な地位を占めている。山脈内には岩塩ドームと岩塩氷河がよく見られるという。 |
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午前中の約4時間車で走っている間、ず~と油田地帯である。ペルシア湾とザーグロス山脈に挟まれたところである。 |
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この付近は堆積岩の褶曲地形がみられる。このような地形に石油が溜まるのであろう。 |
石油はどのようにしてできたのか | A | 有機成因論(生物由来説) 現在の学説の主流である。百万年以上の長期間にわたって厚い土砂の堆積層に埋没した生物遺骸は、高温と高圧によってケロジェン という物質に変わり、次いで液体やガスの炭化水素へと変化する。これらは岩盤内の隙間を移動し、貯留層と呼ばれる砂岩や石灰岩など多孔質岩石に捕捉されて、油田を形成する。この由来から、石炭とともに化石燃料とも呼ばれる。 無機成因論 石油「無機」由来説は、1870年代、元素の周期律表で知られるロシアの化学者メンデレーエフが唱えたのが始まりで、旧東側諸国では従来から定説とされていた学説である。この無機由来説に基づけば、超深度さえ掘削できれば、日本はもちろん世界中どこでも石油を採掘できる可能性があることになる。 石油はどこにあるのか イランはロシア、サウジ、アメリカに次ぐ世界4位の産油国。 2~3億年前地球上に唯一の大陸パンゲアがあった。その大陸の内側にテチス海があった。このテチス海で石油の源となった太古の動植物が死に、長い年月の間に石油に変わった。その間に大陸移動が起こり現在の地球儀にみられる5大大陸ができた。このテチス海で死んだ石油の源の動植物がちょうど大陸移動で偶然に中東や北海油田やアメリカ南部に集中したためであるという。 石油が溜まる場所(左の図④) 地層が横からの力で圧縮されると褶曲して背斜(高いところ)と向斜(低いところ)ができる。背斜地形で上下に水を透さない不透水層があるとその間に比重の大きい順に下から水、石油、ガスが溜まる可能性がある。 Wikipedia他を参考にした |
広島大学環境自然科学講座のホームページより |
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ビシャブール遺跡 |
ビシャブールはイラン南部、シーラーズの西方約 120kmにある古代都市遺跡。ササン朝のシャプール1世 (在位 241~272) によって建設された。この都市は山を背にし、川を臨む美しい街づくりを目指し、碁盤の目に街路を走らせたギリシャ的な方形プランであったという。 |
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石壁と巨石が残る遺跡。正面奥は博物館。 |
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柱頭にはアカンサス(和名:ハアザミ )の葉のレリーフがあり、 明らかにギリシャ建築の影響が見られる。 |
浴室跡 |
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ゾロアスタ教のアナーヒーター神殿。かつてはレバノン杉の屋根が葺かれていたであろう。 |
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立派な石壁で囲まれた通路は、実は水路である。 上流側には木製の板を使って水量を制御出来るようになっている。ゾロアスタ教では水は祭祀に欠かせない。 |
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遺跡に咲く野の花々 |
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遺跡内にある博物館の展示品もギリシャ風である |
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デルハヤ峠を越えてシーラーズへ |
ビシャブールからシーラーズへは3時間余りの峠越え。車窓からの眺めが結構面白い。 |
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標高1120mの国道から見上げる巨大な切通し | 山の上に登って、振り返って見下ろす切通し |
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前を走っているトラックは遊牧民だという。遊牧民は中々のお金持ちで、トラックに家財道具と動物を積んで季節移動をする。ロバと鶏が見える。 | こちらから写真を撮っていたら、向うからも撮られてしまった。 |
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GPSを見ていると、デルハヤ峠の標高は2090mだった | 峠を越えたところで、警察のスピードメーターが待っている |
シーラーズで夕食 |
シーラーズのホテルに着き、街歩きをしながらレストランへ |
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いつもながらイランの女性用の衣類の艶やかなのに驚く | デザイナー高田賢三氏のKENZOブランドは、世界中で見られる |
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男性衣類も中々ファッショナブルである |
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今日は旅の半ばなので中華料理を、というツアー会社の配慮だろうが、イラン人調理師の中華料理では味は全くいけません。 |
シーラーズに到着したところで、イラン(1)は終了します |
イラン(1)は、テヘラン、ケルマーンシャー、ハマダーン、タブリーズ、カスピ海、アフヴァーズなどを回り、 世界遺産も6箇所訪ねました。如何でしたか。 イラン(2)は、シーラーズ、ペルセポリス、ヤズド、エスファハーン、マシュハドなどを回ります。 世界遺産も5箇所訪ねます。 引き続き、下の [次へ] をクリックして、イラン(2)をご覧ください。 |
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