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 イラン(2)----シーラーズ、ペルセポリス、ヤズド、エスファハーン、マシュハドなど
   
シーラーズ、ペルセポリス、パサルガダエ、ヤズド、エスファハーン、エマーム広場、マシュハド、テヘラン


  イランの旅 第1部はいかがでし たか。 ここからは第2部をお楽しみください。第2部ではイランの歴史的核心部ともいえるペルセポリス、エスファハーン、マシュハドなどを訪ねます。

 ペルセポリスは、BC520年アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が建設に着手し、その子クセルクセス1世によって完成された総面積12万5000mの都。宗教的な首都として即位式などの重要な儀式はすべてここで行われたが、BC331年にアレクサンドロス大王によって陥落した。古代の栄華が偲ばれる。

 エスファハーンは、16世紀末にサファヴィー朝ペルシアの首都として発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分」と賞賛されたという。エスファハーンには見どころが多いが、最大のものはエマーム広場であろう。510m×163mの長方形の広場を囲む回廊にいくつかのイスラム寺院、宮殿、バザールなどが接続している。

 今回の旅行で最後に訪ねるのがトルクメニスタン国境に近いイラン最東端の町マシュハドである。ここにはシーア派8代目のエマーム・レザーの聖墓を中心とした、宗教施設の複合体がある。シーア派の最重要聖地であるから、カメラは持ち込めないが、イラン人の宗教心のよりどころをしっかりと目に焼き付けておきたい。

 このホームページをアップしようとしている今日(2015年7月15日)の新聞は、「イラン核協議 最終合意、制裁解除へ」という見出しで、米英独仏中ロ6カ国とイランが、核問題で合意に達したことを報じている。「イランとの核協議」は、「米軍のイラクからの撤退」、「キューバとの国交正常化」とともに、ノーベル平和賞受賞者としてのオバマの功績とみて評価したい。しかしこの緊張緩和はイランを敵視するイスラエルやサウジアラビアとの間の新しい緊張をもたらす。中東からは目が離せない。

イラン(1)は、テヘラン、ケルマーンシャー、タブリーズ、カスピ海、アフヴァーズなど
          北部・西部
イラン(2)は、シーラーズ、ペルセポリス、ヤズド、エスファハーン、マシュハドなど
          南部・東部
です。合わせてご覧ください。                            (2015年7月)
              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
 下記にメールでお知らせ願います。
       メール
 現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。「vi」には「ヴィ」を用いましたが、
 慣用的には「ビ
も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
A
     ペルセポリスのクセルクセス門の一部
ペルセポリス遺跡は、ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡とともに「中東の3P」と呼ばれる。1979年ユネスコの世界遺産に登録された。
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手したのはBC520年であった。その後BC331年にアレクサンダー大王によって陥落し、アケメネス朝は滅びた。その間ペルセポリスは儀式用の首都(行政上の首都はシューシュ)であったといわれる。
 
 
 
 
 
 
 
 

イラン・イスラム共和国とその周辺国
 ◍ 首都   日本との時差 : 日本より4.5時間遅れ


イラン・イスラム共和国の概要
国 名 イラン・イスラム共和国
国 旗
首 都 テヘラン
政 治 イスラム共和制
1979年イスラム革命によりイスラム共和国成立
1945年国連加盟
面 積

164万8000km
(日本の4.4倍)

人 口

7789万人(日本の62%)
イラン人70%、トルコ人25%、クルド人3%

言 語

ペルシア語(公用語)
クルド語、アゼルバイジャン語

宗 教 イスラム教シーア派89%、イスラム教スンニ派10%、
ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教
産 業 国土の10%が可耕地で就業者の25%が農業に従事し牧畜も盛ん。穀物、野菜、果物、綿花が栽培され、果物とその加工品が輸出される。中央高原では羊の遊牧がおこなわれ、この羊毛を使ったペルシア絨毯は貴重な輸出品である。カスピ海では高級珍味のキャビアが採れるが乱獲で激減した。

石油資源は豊富で精製も行われ、その収入が国の主要財源であるが、革命や戦争、経済制裁などにより影響を受けやすい。繊維、食品、建設、化学工業も盛ん。
1人当
GDP

5183米ドル/年(2014年)
(日本の14%)


イランの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図
赤線はGPSによる軌跡(破線部分はデータ取得できず)    は移動方向     はイランの国境
 
①②などは宿泊地   成田~⑨はイラン(1)   ⑩~成田はイラン(2)



 イラン(1)は、成田を出国して、テヘラン、ハマダーン、サンジャーン、タブリーズ、
         サルエイン、テヘラン、アフヴァーズ、シーラーズまでの旅であった。
 イラン(2)は、シーラーズの後半から成田帰国までの旅である。


10日目
(4月22日)
  シーラーズのホテルマスジェデ・ナスィーロル・モスクハーフェズ廟エラム庭園 (世界遺産)
               →ナグシェ・ロスタム遺跡ナグシェ・ラジャブ遺跡
ペルセポリス(世界遺産)
               →
アリー・エブネ・ハムゼ聖廟シーラーズのバザールシーラーズのホテル(泊)

今日は、シーラーズとその近郊の旅である。幻想的な美しさのローズモスク、世界遺産のエラム庭園、ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡とともに「中東の3P」と呼ばれる世界遺産のペルセポリス遺跡など、今回の旅のハイライトの1日である。

マスジェデ・ナスィーロル・モスク (ローズモスク)

マスジェデ・ナスィーロル・モスクは、シーラーズの町中にある比較的小さなモスクである。もともとは邸宅、ハンマーム(伝統的な公衆浴場)、貯水池などをあわせ持つ複合建築であったが、道路拡張などでほとんどが失われてしまったという。ここの見どころは西の礼拝堂。中庭に面する壁にはめ込まれたステンドグラスが朝の陽光で照らされてこの世のものとも思われない世界になる。ローズモスクという異名を持つのも肯かれる

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街に面したローズモスクの外観 ブルーでなくピンクだ 中庭から見る南側のエイヴァーン
エイヴァーンとは、イスラーム建築によくみられる、一方が開き、三方が壁で囲まれて、天井がアーチ状となっている空間のこと。

西側の礼拝堂 一面に絨毯が敷き詰められている。朝早い時間にだけ見ることができる絶景


柱、壁、絨毯に映る影が計算されている

北側のエイヴァーン には、ピンクのムカルナス(鍾乳石飾り)が美しい

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ヨーロッパの城が描かれたタイルは珍しい イラン・カリグラフィーを中心に置いたバラのタイル



ハーフェズ廟

イランで最も偉大で、敬愛されている抒情詩人がハーフェズだという。彼は生まれ育ったシーラーズをこよなく愛し、1325年の生誕から1389年に没するまで、生涯のほとんどをこの地で過ごした。

ハーフェズ廟をお参りする人々

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天井の飾り
八角形の建物の中にハーフェズの棺がある 柱頭に描かれた植物画

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若いお嬢さんが多い

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修学旅行のような生徒さん

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行儀のよい男の子たちだが、どこか悪戯っぽい



エラム庭園 (世界遺産)

ペルシヤ式庭園は、西はスペイン・アンダルシアから、東はインドまで影響を与えた庭園の様式である。アルハンブラ宮殿の庭園は、ペルシャ式庭園の哲学とムーア人様式が融合したものであり、タージ・マハルは、ムガル帝国時代に建設された最大規模のペルシャ式庭園である。2011年、イラン国内の9つの庭園がユネスコの世界遺産に一括して、ペルシヤ式庭園として登録された。ここエラム庭園はその代表格である。

エラムとはペルシヤ語で「楽園」を意味する。数あるシラーズの庭園の中でも華やかだ。

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動物や人物が描かれている円形の破風の絵が面白い。イスラム教ではモスクでは偶像を禁じるが、それ以外では融通無碍である。

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イラン式庭園は、いわゆる四分割の庭園で、宮殿の前に水路や噴水が配置される。

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ここでも子供たちや家族連れが多く、みんな笑顔で撮影に応じてくれた

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柑橘類 ザクロ ビワ バラ



ナグシェ・ロスタム遺跡

シーラーズ近郊にあるナグシェ・ロスタムは、アケメネス朝(BC550年-BC330年)の王墓が並ぶ岩山である。クセルクセス1世、ダレイオス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の墓とされているが、ダレイオス1世以外の墓の位置は諸説ある。ここでは「地球の歩き方」の記載に従った。
これらの墓の下部には、サーサーン朝(226年-651年)のレリーフが見られる。その中には、馬にまたがるサーサーン朝の王シャープル1世が、捕虜となった東ローマ帝国皇帝ヴァレリアヌスの右手をつかむ姿が高さ7mの大きさで描かれた「騎馬戦勝図」がある。

ダレイオス2世の墓 アルタクセルクセス1世の墓 騎馬戦勝図 ダレイオス1世の墓 リングを授ける図 クセルクセス1世の墓 AAAAAAA

6つのレリーフを細かく見てみよう
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ダレイオス1世の墓の全景 上部にある「王座を担ぐ臣民の図」 下部にある「戦いの場面」

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アルタクセルクセス1世の墓の全景 上部にある「王座を担ぐ臣民の図」
 
下部にある「戦いの場面」
 

左から2番目と3番目の間にある
有名な騎馬戦勝図
捕虜となったローマ皇帝ヴァレリアヌスの
手首をつかむ馬上のシャープール1世

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ダレイオス1世の墓の全景 上部の「王座を担ぐ臣民の図」 下部の「戦いの場面」

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ダレイオス1世の墓とクセルクセス1世の墓の間
 
ナルセ1世が、ゾロアスター教のアフラ・マズダー神から
王のシンボルを授けられる図

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クセルクセス1世の墓の全景
 
 
上部の「王座を担ぐ臣民の図」
 
 
ダレイオス2世の墓の向かい建つ石造りの建物はゾロアスター教の神殿であるが、詳しいことは分らない。



ナグシェ・ラジャブ遺跡

ナグシェ・ラジャブはナグシェ・ロスタムの近くにあるサーサーン朝時代(226年-651年)のレリーフのある遺跡である。

木陰のブュッフェで昼食の後、ナグシェ・ラジャブ遺跡へ向かった

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シャプール1世と臣下
シャプール1世はローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした王
ゾロアスタ教のアフラ・マズダー神(右)から
王の環を受け取るアルデシール1世(左)



ペルセポリス(世界遺産)

ペルセポリス遺跡はイラン最大の見どころの1つである。遺跡ファンの間では、ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡とともに「中東の3P」と呼ばれる。私にとって最初の3Pである。1979年にユネスコの世界遺産に登録された。

ペルセポリスとは、「ペルシヤ人の都」というギリシア語が語源である。ペルセポリスはBC520年、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が建設に着手し、その子クセルクセス1世によって完成された総面積12万5000mの都。当時の行政上の首都はシューシュだったが、ペルセポリスは宗教的な都としてラフマト山のふもとに築かれ、即位式などの重要な儀式はすべてここで行われたという。宮殿の建設に必要な石材はラフマト山から切り出された。

往時は、西はエジプト、東はインドまで勢力をふるった王朝であったが、BC331年にアレクサンドロス大王によって陥落した。周辺には、ナグシェ・ロスタム、ナグシェ・ラジャブなどのアケメネス朝からサーサーン朝時代の遺跡があり、古代の栄華を偲ばせる。

ペルセポリスへの入口は、正面左手の大階段である。
大階段の後方にクセルクセス門が、右手には謁見の間、ダレイオス1世の宮殿、クセルクセス1世の宮殿などがある。背後の山はラフマト山(慈悲の山)

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大階段を上り切ると、ペルセポリスの正門クセルクセス門が現れる。背後の儀仗兵の通路に続く。

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儀仗兵の通路の左側に双頭鷲像がある 双頭鷲像はイラン航空のマークに使われている

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儀仗兵の通路を通り抜けると「未完成の門」がある
 
 
「未完成の門」で右折すると、「百柱の間(玉座の間)」に出る。 ここはペルセポリス最大の広間で、柱は崩壊しているが、多くのレリーフが残っている。

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         「百柱の間」の北側の門
柱の上部の玉座に座っている王を家臣が支えている構図だ。
                「百柱の間」の北側の門の下部
大勢のペルシアの兵士のレリーフ。土中に埋もれていたので風化を免れたが、観光客が手で触れるので黒光りしてきたのだろう、板ガラスで保護している。

アバダナ(謁見の間)の東階段
階段の右側のレリーフは、属国が貢物を持ってくる様子を描いたもの。糸杉で区切られた区画は1つの国を表すようだ。
(下の写真はそのうちの一部を示す)

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イオニア(左端は糸杉) バクトリア リディア ガンダーラ

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牡牛(牡牛座は春の星座)に噛みつく獅子(獅子座は夏の星座)を描いたレリーフ 手で擦られて黒光りするレリーフ

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アバダナ(謁見の間)からダレイオス1世の宮殿を遠望する ダレイオス1世の宮殿の階段のレリーフ

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楔形文字で3カ国語で書かれた碑文だろう ゾロアスタ教の最高神から王権を授けられる ゾロアスタ教の最高神マズダーのシンボル


ペルセポリスの東側のラフマト山(慈悲の山)の斜面に造られた2つの王墓

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左側の王墓はアケメネス朝アルタクセルクセス3世
(BC430年-BC359年)の墓
右側の王墓はアケメネス朝最後のダレイオス3世
(BC380年? -BC330年))の墓だという説がある

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ペルセポリス博物館
クセルクセス一世のハーレムがあった場所に
宮殿の部屋が復元されている
ペルセポリスの出土品の一部が展示されている
 
 

ペルセポリス博物館に展示されていたペルセポリス全景のパノラマ写真



アリー・エブネ・ハムゼ聖廟

ここは、マシュハドのイマーム・レザー廟(14日目に行く予定)に祀られているイマーム・レザーの弟の甥のアリー・エブネ・ハムゼの棺がある廟である。シーア派の聖地の一つとなっている。

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ハムゼ廟の佇まい。内部は見事な鏡モザイク張りである。
 
鏡モザイクは見た目には美しいのだが、写真では煌めきが表現されない。動画ならよかったかもしれない。



シーラーズのバザール

見慣れた風景だが、シーラーズのバザールにちょいと寄る。

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女性の人形を売る店 どこの生地屋さんも、女性でごった返す

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金物屋さん バザールの隣のモスク



11日目
(4月23日)
  シーラーズのホテルパサルガダエ(世界遺産)ヤズドの沈黙の塔
            アーテシュキャデ(ゾロアスタ-教寺院)ヤズドのホテル(泊)

今日は、シーラーズを出発して、アケメネス朝ペルシャ帝国の最初の首都があったパサルガダエ(世界遺産)、ゾロアスター教の鳥葬の跡(沈黙の塔)、ゾロアスター教寺院を訪ねる旅である。

シーラーズからパサルガダエへ

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シーラーズのホマ・ホテルを出発し、パサルガダエへ向かう
 
途中またも大理石の採石所を通る。大理石は太古の昔にサンゴ礁が海底に沈み再び隆起したもの。石油の埋蔵と無関係ではない。



パサルガダエ(世界遺産)

パサルガダエはペルセポリスの北東87kmに位置する、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の最初の首都であり、BC546年に、キュロス2世の手によって建設が開始された。パサルガダエ考古遺跡は、1.6kmの広さであり、キュロス2世の墓と伝えられる建造物、丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞と2つの王室の庭園から構成され、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。パサルガダエに残る庭園は、イランで最初の四分法に基づいて建設されたペルシア式庭園である。庭園部分は、パサルガダエ考古遺跡とは別に、2011年ユネスコの世界遺産に登録された。

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      ゼンダーネ・ソレイマン(ソロモンの牢獄)
ゾロアスター教寺院か宝物庫との説もあるが、一番有力なのは、キュロスの息子カンビュセス2世(アケメネス朝2代目の王)の墓だという。
ここは宮殿跡で、水道施設(水路)や庭園跡が残っているが、広い範囲に散在していて、見学し難い。
 
 

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                宮殿跡の数か所で見ることができる碑文
エラム語・バビロニア語・古ペルシャ語が刻まれている。「我はアカイメネス族のキュロスである」と書かれているそうだ。
      足元部分しか残っていないレリーフ
魚のような人物は、バビロニアの神のオアンネスで、水から上がって来て人々に知識をもたらす魚だという。

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キュロス2世の墓
地元では「ソロモンの母の墓」と呼んでいる。
遺跡には野草の花が似合う
 
ソロモンとは、イスラエル王国の最盛期を統治したソロモン(BC965年-BC926年)である。時代的にも地理的にも何ら繋がりのないソロモンの名が、キュロスの墓に冠せられているのは不思議である。アッラー以外の神を極端に拒絶するイスラム教徒がこれを壊さなかったのには、それなりの理由があったと思われる。
                     http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/iran-kyuros.html
より



パサルガダエからヤズドへの途中で昼食

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このように野菜サラダ、ドレッシング、スプーン・フォークをセットにして出すレストランが、イランの田舎には多い。衛生的ではあるが、いささか味気ない。 大麦のスープ
 

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脂肪分の多いヨーグルト
チキンシチュー、長粒米のご飯(載っている赤いものはグミの実)、ヨーグルト、メロン



ヤズドの沈黙の塔

ヤズドの町に近付くと砂漠の中に小さな火山らしい山が見られる。その中のいくつかは、「沈黙の塔」と呼ばれるゾロアスター教の鳥葬(風葬)の場所である。その1つを訪ねた。

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離れたところから「地下の水路」(カナート)で導かれた末端にある地下貯水池
小孔が開いた塔はバードギール(風採り塔)で、溜まった水を冷やしている
冷えた水は地下に入って汲み出す
 

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上のカナートから2つの山が眺められる。いずれも「沈黙の塔」と呼ばれるゾロアスター教の鳥葬(風葬)の場所だ。 右の方に登る。GPS測定によると、麓からの標高差は約40m
 

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山頂には円筒形の壁があり、その中に遺体を置く鳥葬場がある。ここに遺体を置くと猛禽(肉食鳥類)が飛んできて、鳥葬となる。
ところが、鳥が町に飛来して伝染病が広がることがあり、200年前に鳥葬は禁止となった。



アーテシュキャデ(ゾロアスタ-教寺院)

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寺院の外観。 上部にあるゾロアスター教のシンボル「翼のある日輪」は、善の神アフラ・マズダーの像である

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寺院内には1500年間燃やし続けた聖火がある
手前のガラスに写り込むので、撮影し辛い。
寺院は簡単な博物館になっており、開祖ゾロアスターの肖像画、
ゾロアスター教の祭りの写真などが展示されている



キャラバンサライ・ホテル

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ホテルのフロントとレストラン
各部屋は、ロッジ風に分かれていている
桑の実
 
ザクロの花
 
バラの花
 

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添乗員の浅野さんが作って下さった
ユーラシア旅行社の名物「冷しソーメン」
ミンチ・ケバブ
 
スイカとケーキ
 



12日目
(4月24日)
  ヤズドのホテルマスジェデ・ジャーメアミール・チャグマーグ広場
     →
キャラバンサライとカナートチェヘル・リトゥーン庭園美術館(四十の柱の宮殿、世界遺産)
     
スィー・オ・セ橋
エスファハーンのホテル(泊)

今日は、ヤズドにあるマスジェデ・ジャーメとアミール・チャグマーグ広場を見た後、エスファハーンへ移動の途中で、キャラバンサライとカナートを見学する。エスファハーンに着いたら、チェヘル・リトゥーン庭園美術館(四十の柱の宮殿、世界遺産)を訪ね、ザーヤンデ川に架かるスィー・オ・セ橋を散歩するという1日である。

マスジェデ・ジャーメ(金曜のモスク)

マスジェデ・ジャーメはサーサーン朝時代のゾロアスター教神殿の跡地に14~15世紀に建てられたヤズドのシンボル的寺院である。「金曜のモスク」ともいう

イランで最も高いミナレットが聳える

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外壁の青いタイルは、一部が剥がれているが、反射の光沢が計算されている

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内部も、見とれるほど美しい

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柱やステンドグラスの美しさは、イスラム独特である



アミール・チャグマーグ広場

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これはモスクではなくミナーレの付いた壁で、バザールの入口である
 
           広場の噴水
ここはイスラム教シーア派12エマームの3代目エマーム「ホセイン」ゆかりの地という
バードギール(風採り塔)
 
 



キャラバンサライとカナート

ヤズドからエスファハーンへの途中で、キャラバンサライとカナートを見た

廃墟となったキャラバンサライ(隊商宿)
キャラバンサライは、砂漠を旅する隊商のための取引や宿泊施設を指す。一般的には中庭がある二階建ての建築物で、
1階は取引所、倉庫、厩、管理人や使用人の住居に当てられ、2階は客人である隊商の商人たちの宿泊施設となっていた。
単にホテルの役割だけでなく、盗賊から旅人の安全を守るために頑丈な門や壁で囲われていた。

A カナートは、乾燥地帯で広くおこなわれている取水方法である。カナート(ギリシャ・イラン・アラビア)、カレーズ(アフガニスタン・パキスタン)、フォガラ(アルジェリア・ナイジェリア)、フォラジ(オマーン)、レッタラ(モロッコ・チュニジア)など、地域によって呼び名は変わるが、基本的にシステムはどこも同じ。カナート発祥の地とされるイランでは、紀元前8世紀には既にカナートが造られていたといわれている。
カナートの末端にある水汲み場 サントリー水大事典より 



チェヘル・リトゥーン庭園美術館(四十の柱の宮殿、世界遺産)

1647年にアッバース2世によって建てられた宮殿。建築当時、柱はすべて鏡で覆われていたという。迎賓館として客人をもてなすために使われた。2011年に「ペルシア式庭園」としてイラン国内の9つの庭園とともにユネスコの世界遺産に登録された。


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実際の柱は20本だが、水に映る柱の像を入れて40柱とのことだが、水に映える像の方は写真に撮れなかった。

博物館(宮殿)の内外に描かれた絵画から

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高松塚古墳や正倉院の鳥毛立女図屏風に描かれた婦人像を連想させるが、
こちらの方がず~と妖艶である。
鮮やかな金泊が印象的である
 

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玉座の間を飾るサファヴィー朝の6枚の歴史画の1つ
アッバース2世(在位1642年 - 1666年)が、アシュタルハーン朝の
ナーデル・モハマド・ハーンをもてなす宴の絵
宮殿の外壁を飾るオランダの画家アンジュとロカールによる肖像画
 
 

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チャイハネで一休み、「チャイハネ」とはペルシア語で「茶店」のこと 中国茶ではなく紅茶の味がした 鼈甲飴と砂糖



スィー・オ・セ橋

エスファハーンの街の中心地を流れるザーヤンデ川には11本の橋が架かっている。スィー・オ・セ橋は長さ300m、幅14m、アッバース1世の計画的な街造りの際にエスファハーンを南北に貫く橋として1602年に完成した。スィー・オ・セとは33を意味し、橋のアーチが33あることから名づけられた。

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今日は金曜日のためか、大勢の市民がザーヤンデ川に出ている。

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若い家族連れに、写真を撮ってくれと頼まれた アルコール抜きの語らいである 旅行者の一団の記念写真に失礼させてもらった

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スィー・オ・セ橋の33のアーチが確認できた(翌朝撮影)
 
アッバース2世が建てたチュービー橋(長さ147m、幅4m)は、
スィー・オ・セ橋から2本下流にかかっている



エスファハーンのホテル・サファビー

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通りからホテル・サファビーに入る 夕食のメインは鱒のグリル サラダとスープ



13日目
(4月25日)
  エスファハーンのホテルヴァーンク・アルメニア教会エマーム広場(世界遺産)
    マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーマスジェデ・エマーム
アーリー・ガープー宮殿
    
エマーム広場のバザール(職人街)夜のエマーム広場エスファハーンのホテル(泊)

今日は、エスファハーンにあるヴァーンク・アルメニア教会を訪ねた後、エマーム広場で終日過ごす。エスファハーンは、16世紀末にサファヴィー朝の首都として発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分」と賞賛され、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残しているという。

ヴァーンク・アルメニア教会

トルコによるアルメニア人虐殺は知っていたが、イランの中央部にアルメニア教会があることは知らなかった。旅することで、いろいろな歴史を知ることができるとつくづく思った。

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ヴァーンク・アルメニア教会の正面
モスクのようなドームがあるが、十字架が掲げられている
入口を入って振り返って天井を見る
 

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金色を多用した荘厳な雰囲気である 最後の審判のなど旧約聖書場面が多い

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教会と隣接する博物館 古い聖書や印刷機が展示されている

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アルメニア教会で1769年に使用された
ミトラ (司教冠)
 
アララト山の絵(左:小アララト山3896m、右:大アララト山5137m)
旧約聖書に出てくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山である。古くから
アルメニア人の多く居住してきた地域の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。

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博物館の隣に小さなモニュメントと献花があった。
 
1915年のトルコによるアルメニア人虐殺100年記念のポスタ
と子供たちの絵80枚が展示されていた


アルメニア教会とアルメニア人虐殺
アルメニア共和国

アルメニア共和国(通称アルメニア)は、南コーカサスに位置する共和国で、トルコ、グルジア、アゼルバイジャン、イラン、アゼルバイジャン飛び地(ナヒチェヴァン自治共和国)に接する。1991年にソビエト連邦から独立した。人口約300万人。

先史時代から文明があり、文明の早い時期から車輪が使われたといわれる。紀元前1世紀に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の属州となったこともある。
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アルメニア共和国の地図
アルメニア教会
アルメニア使徒教会ともいう。世界各地のアルメニア人コミュニティで信仰されているキリスト教・非カルケドン派の教会。

アルメニアにおけるキリスト教の歴史は古く、301年にアルメニア王国が世界に先駆けてキリスト教を公認し、国教と定めた。313年のミラノ勅令よりも古い。アルメニアはトルコとイランという2大イスラム国の狭間に位置し、16世紀以降はロシアの影響もあり、「アルメニア人虐殺」の悲劇が生じた。
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キリスト教の系譜
アルメニア人虐殺
アルメニア人虐殺は、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。

ヨーロッパ諸国では、特に第一次世界大戦中に起きたものをオスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺と見る意見が大勢である。それによれば、この一連の事件はアルメニア人ジェノサイド(1944年に創られた造語で、人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為をさす)と呼ばれ、21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な後継国家であるトルコ共和国を非難している。トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。

4月24日は、ジェノサイド追悼記念日とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている。


迫害の背景には、アルメニア人とトルコ人ムスリムの間の反発がある。オスマン帝国におけるアルメニア人共同体のうち、イスタンブ-ルなど都市部の共同体は、貿易や金融業で成功して富裕な商人層を形成しており、また建築家や造幣官などとして宮廷、中央官庁に仕える者も多く、中央政府と共存共栄する共同体であった。
A しかし、19世紀に入るとアルメニア人の中からカトリックへの改宗などを通じて西欧諸国の庇護を受け、特権を享受する者が現れ、ムスリム住民との間に軋轢が生じ始めた。

オスマン帝国が第一次世界大戦で同盟国側につくことを決すると、連合国側で参戦したロシア帝国が東部アナトリアに侵攻した。1915年4月から5月頃、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯の町のデリゾール収容所へと強制移住させる死の行進政策が開始された。同年4月24日は、イスタンブールでアルメニア系の著名人たちが逮捕・追放され、後に殺害された者も少なくなかった。アルメニアでは、この事件が一連の虐殺の契機とみなされており、この日がジェノサイド追悼記念日とされている由縁である。

                      以上、Wikipediaなどを参考にした



エマーム広場周辺

エマーム広場はエスファハーンで一番の名所である。510m×163mの長方形の広場を囲むようにエスファハーンのハイライトが東西南北に並んでおり、回廊の部分には絨毯屋や工芸品屋などのお土産屋が軒を連ねている。建造に着手したのは1598年。その後完成には何十年もかかったという。「エスファハーンは世界の半分」という言葉はこの広場のためにある、といわれる。もちろん世界遺産である。

GoogleMapより

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー

アッバース1世の命により建設されたマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーは、1601年の着工から完成まで17年かかった。特筆すべきは美しいモザイク模様である。ドームの内外とも、絵柄が描かれたタイルではなく、小さな彩色タイルをモザイク状に並べているという。17年かかったのも肯ける。

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噴水の手前から眺める 近付いて眺める。はためくのはイラン・イスラム共和国の国旗

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マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーの入口 廊下 廊下の壁と天井

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4角形の礼拝堂の上部を8角形にし、さらに16角形にして円形のドームにつないでいる
 
カリグラフィー(アラビア書道)
の入ったモザイク



エマーム広場の近くのレストランで昼食

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エマーム広場の近くにある洒落たレストラン

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スープ チキン入りのおこげ プリンとアイスクリーム



マスジェデ・エマーム

マスジェデ・エマームは、イランのイスラーム芸術と寺院建築を極めた、サファヴィー朝時代を代表する建築。アッヴァース1世の命を受けて1612年に着工。完成したのはアッヴァース1世の死後の1638年。実に26年もの歳月を要した。

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何台もの観光馬車がエマーム広場を巡っている
 
マスジェデ・エマームに入ると
まず模型にお目にかかる
約45度屈折した廊下。これは礼拝堂をメッカの方向にするためで、思い切ったデザインに驚く。

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生憎、昨日のお祈りのための足場が残っている。そういえば昨日は金曜日だった。 見事な柱のモザイク

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煌めく星空を眺めているような錯覚に陥る

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見学が終って、入口を振り返る。
見事な鍾乳石飾りである。
 
 
入口の飾りが左右で異なる。人間の技では「完全」ではいけないという。日光東照宮の陽明門の柱のうち1本が上下逆さまになっているのと同じ! エマーム広場複合体の世界遺産の標識
 
 
 



アーリー・ガープー宮殿

アーリー・ガープー宮殿の1~2階はアッバース1世の時代に、バルコニーと3~7階はアッバース2世の時代に造られた。バルコニーからの展望が素晴らしい。

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池から望むアーリー・ガープー宮殿。三階以上にあるバルコニーは改修工事中 階段のタイル

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1階の吹き抜けの内部は小豆色で、漆喰に描かれた絵画が美しい

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最上階は音楽堂で、装飾的な穴は、演奏の際に余分な音を効果的に吸収する効果があるという。

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バルコニーに出ると改修工事の現場だった。
 
柱を縦割して、中に鉄骨を入れてから接合するという作業をやっていた。 (上)接合された改修済みの柱、(下)作業の説明写真

バルコニーから見えるエマーム広場の南側3分の1



エマーム広場のバザール(職人街)

エマーム広場のバザールでは、単に商品を売るだけでなく、職人が技を披露してくれる。

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更紗は木製のハンコでパターンを印刷して制作する
更紗の販売 何種類ものハンコが展示されていた

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ペルシア細密画は、サーマーン朝(875年~999年)に始まるといわれるが、本格的に細密画が描かれるようになったのは
モンゴル系の王朝であるイル・ハーン朝(1258年~1353年)が建国されてからである。モンゴル民族は中国文化の影響を
受けたので、イル・ハーン朝やその後のティームール朝(1370年~1507年)の絵画には中国絵画の影響が明らかである。

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販売している作品の例
 
ラクダの骨に2~3分で描いて見せた 作者のライセンスのようなものだろうが、ペルシア語は分らない
 

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自由時間にまたチャイハネに行った。
若者が水パイプを吸っていた。30分ほど楽しんで出て行った。
たまたま女性ばかりだったので、まるでハーレムの雰囲気だった。
 



夜のエマーム広場 - マスジェデ・エマーム

幸い泊まったホテルがエマーム広場から30分ほどの近さだったので、夜景を撮りに来た。

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マスジェデ・エマーム始め広場の周りの建物の2階部分は外観だけの飾りだ マスジェデ・エマームの入口と上弦の月



14日目
(4月26日)
  エスファハーンのホテル空路でマシュハドへフェルドウスィー廟
   ハラメ・モタッハル広場とエマーム・レザー廟マシュハドのバザール
   
空路でテヘランへ
テヘランのホテル(泊)

今日は、連泊したエスファハーンを出発し、空路でマシュハドへ行き、フェルドウスィー廟を見学する。その後、今回の旅の1つの目玉である聖地マシュハドのエマーム・レザー廟に参詣し、テヘランに戻るという長距離旅程である。

エスファハーンからマシュハドへ

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エスファハーン空港を07:15発のQB1288便(Fokker100型機)で発ち、マシュハド空港に08:40に着く



フェルドウスィー廟

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詩人フェルドウスィーの霊廟は、彼の没後1000年を記念して1933年に建てられたが、それはあまりにも簡素であったため、パサルガタエのキュロス2世の墓(11日目に訪ねた)に模して建て直された。 地下の博物館の入口にあるレリーフ
 
 

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博物館に掲げられた詩人フェルドウスィーの肖像画
 
博物館で演ぜられるフェルドウスィーの物語、ペルシャ語は分らないが迫力満点
画像をクリックして、動画をご覧ください



ハラメ・モタッハル広場とエマーム・レザー廟

ハラメ・モタッハル広場は、シーア派8代目のエマーム・レザーの聖墓を中心とした、宗教施設の複合体がある広場であり、聖地マシュハドの中心である。私のお目当ては勿論エマーム・レザー廟である。

マシュハドが聖地となったのは、817年、8代目エマームであるエマーム・レーザーがこの地で殉教したことによる。その後もマシュハドは発展し、16世紀に入ると、サファヴィー朝のもとでイランで最も名高い巡礼地としての地位を確保した。アッバース1世がエスファハーンからマシュハドまで1300kmを徒歩で巡礼すると、聖地としての地位はゆるぎないものとなった。各時代に霊廟は拡大され、現在もなお拡張工事が進められているという。

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黒いチャドルをまとった女性も次々やってくる
 
 
ここがエマーム・レザー廟のあるハラメ・モタッハル広場の入口。
男女別のゲートで厳格な持ち物検査がある。
もちろんカメラの持ち込みは出来ない。

許されるギリギリの場所から内部を眺める。幸いにもエマーム・レザーの聖墓の納められている黄金のドームの写真が撮れた。

ハラメ・モタッハル広場では、エマーム・レザーの聖墓、絨毯博物館の内部を、国際関係局の女性職員の案内で見学したが、写真は撮れない。上の写真は、記念に頂いたエマーム・レザーの聖墓の外観である。上の私が外から撮影した写真と左右が逆になっているのは撮影の方向が違うためであろう。



昼食

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現地ガイドのマンスリさんが、「これぞ世界一のケバブ」といっただけあって、骨付き羊肉は最高に美味かった。これが一人分! 隣席のイラン人の家族も大きなシシケバブを食べていた
 



マシュハドのバザール

マシュハドの空港行く前に時間があったので、バザールに立ち寄る。

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バザールへの入口に若者の肖像写真があった。
 
イランイラク戦争で戦死したこの町出身の35人の若者とホメイニー・ハーメネイー
両最高指導者の写真である。このような写真は多くの町で見かけた。

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ここでも買い物するよりもイランの人々と写真を通じて交流 この中に若者が4人いる

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写真屋さんの店頭で、俺の写真を撮って行け! 娘さんとご両親


アメリカが絡んだ革命と戦争  イスラム革命、イラン・イラク戦争、湾岸戦争
 イスラム革命
パフラヴィー朝のパフラヴィー国王は1963年に農地改革、国営企業の民営化、婦人参政権などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めたが、宗教勢力や保守勢力の反発を招き、イラン国民のなかには政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー国王は自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。

1979年1月パフラヴィー
国王は国外に亡命し、2月にはホメイニが亡命先のパリから帰国し、反体制勢力が政権を掌握するに至った。4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ここにイスラム革命は成功した。アメリカが背後から支援して樹立したアメリカの傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国から敵視された。1979年11月にはアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。

イラン最高指導者ホメイニ
イラン・イラク戦争
イラン・イラク戦争(1980年9月22日-1988年8月20日)は、イランとイラクが国境をめぐって行った戦争である。一般に中東における不安定要因は、イスラエルとイスラム諸国の対立という図式で考えられることも多いが、この戦争はイスラム教内のシーア派とスンナ派の歴史的対立や、アラブとペルシア(イランはアーリア人の国でアラブの国ではない)の歴史的な対立の構図を現代に復活させたことに於いて、興味深い。またイスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。イランはシーア派が多数でシーア派が政権を持っている。一方イラクもシーア派が多数であるが政権を握っているのはバアス党(党員の多くはスンニ派)のためにイラクのフセイン大統領は反対派を粛清し独裁制を敷く必要があったといわれる。

1980年9月22日、イラク軍が全面攻撃を仕掛け、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍がそれを迎撃するという形で戦争は始まった。イランのイスラム革命に介入しようと、米国や欧州、ソ連などはイラクを積極的に支援した。アラブ諸国はスンニ派や世俗的な王政・独裁制が多い為、イランのイスラム革命の輸出を恐れてイラクを支援した。特にクウェートはペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援し、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。イランは全般的には劣勢であり、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。しかしイラクの予想よりもイラン民衆の抵抗は強く20万を越える義勇兵が前線に加わった。1988年イランイラク双方が安保理決議を受諾し、8月20日に停戦が発効した。両国の犠牲者は100万人程度と推定され、経済的な被害も大きい。

一説では、この戦争を通じてイラクがクウェートに対して抱え込んだ負債を帳消しにすることが、イラクがクウェートへ侵攻して、次の湾岸戦争を起こした目的の1つであったとされる。



イラク大統領フセイン
湾岸戦争
湾岸戦争は、1990年8月2日にイラクのクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、1991年2月28日クウェートを解放した。

イラクはイラン・イラク戦争中にアメリカなど大国や、ペルシア湾岸のアラブ諸国への600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなった。イラクが外貨を獲得する手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は安値を推移し、イラク経済は行き詰っていた。イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、サッダームは追い詰められた。

クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領した。同時に革命評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、クウェート暫定自由政府の要請により介入したと報じた。さらにイラクはクウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、米国や英国などの民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。この行為は世界各国からの批判を浴び、のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。

なお、湾岸戦争終了の12年後にイラク戦争(第2次湾岸戦争ともいう)が勃発した。これは2003年3月20日から、アメリカが主体となりイギリス、オーストラリア等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由として、イラクへ侵攻したもの。2011年12月14日、米軍の完全撤収によってオバマ大統領がイラク戦争の終結を正式に宣言した。開戦前にブッシュ大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたが、大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判が巻き起こる結果となった。2006年12月30日、フセイン元大統領の身柄は米軍からイラク側に引き渡され死刑が、バグダードで執行された。
                                       以上、Wikipedia他による



アメリカ大統領ブッシュ



15日目
(4月27日)
  テヘランのホテル朝の散歩ゴレスターン宮殿(世界遺産)アーザーディー・タワー
   
スーパーマーケット建設中のホメイニ廟
ホメイニー国際空港カタール・ドーハ空港

今日は、イラン滞在の最後の日である。テヘランのホテルの周辺を早朝散歩した後、ゴレスターン宮殿(世界遺産)、アーザーディー・タワースーパーマーケット、建設中のホメイニ廟を見学し、ホメイニー国際空港からカタールのドーハ空港に向かう。

テヘランのホテルでの朝の散歩

宿泊したラーレ国際ホテルの隣にあるラーレ公園を早朝散歩した。
健全な市民の姿に接した気がした。

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ジョギングする人 バドミントンをする人 遊具で運動する人

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バレーボールを楽しむ女学生たち 綿毛が飛んでいた。もしこれが柳なら、春の季語「柳絮(りゅうじょ)」に当たる。

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公園の池と噴水に映える雪山
 
公園の中で子供音楽祭のようなものが催されていた。
上の画像をクリックして動画をご覧ください



ゴレスターン宮殿(世界遺産)

テヘラン市内にあるユネスコの世界遺産「ゴレスターン宮殿」を見学した。庭園や建物は、テヘランが首都になった直後、ガージャール朝の王宮として使われていたもの。美しいペルシャ式庭園がある。

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目障りなビルの標識を、後日インターネットで調べると、O.I.E.T.A.I は、

The Organization for Investment, Economic and Technical Assistance of Iran

という政府系の組織のようである。
ゴレスターン宮殿が世界遺産に登録されたのが2013年だから、多分それ以前から建っている建物だろう。しかし何とかならないものだろうか。
噴水側から見るゴレスターン宮殿  残念ながら後方のビルが目障りだ。

宮殿の一部である民俗学博物館には民俗衣装や生活用品が展示されていたが、撮影禁止。
ゴレスターン宮殿は「バラの園」という意味だそうで、バラの花と建物のデザインはよく調和している。



昼食

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日の丸付きのチキン・シシケバブ ミックスサラダ インスタントのナンと生タマネギ



ミラッド・タワーとアーザーディー・タワー

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テヘランのテレビ塔「ミラッド・タワー」は435m、2007年建造
 
高速道路の標識はアラビア文字のペルシャ語だが
英語表記も小さく書かれている

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国威発揚のためか、イラン国旗が目立つ
 
アーザーディー・タワー
1971年にペルシア建国2500年を記念して建てられた。



スーパーマーケット

テヘランの市内観光の一環として最近できたというスーパーマーケットを訪ねた。

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スーパーマーケットの入口に展示された車
 
店内はよく整理されている。
柱ごとに消火器が置かれているのに驚いた。

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ビン入りの発泡ジュース(ザクロ、ミックス、メロン)
1本 17,100リアル(約68円)
カン入りファンタ(レモン、オレンジ、グレープ)
1カン 9,000リアル(約36円)
外国のスーパーで食料品の価格を見るのが私の趣味だが、イランでは数字は読めても量目が分らない。
その点、カン・ビンなら分りやすい。イランの公務員の平均月収は1000ドル(約12万円)、
家賃は月100ドルで安いが、失業率が12~13%で、生活は厳しいという。

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家電製品は多いが日本製はほとんどない レジではガイドのマンスリさんが現地通貨リアルを立て替えてくれる

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日本人はスター並みに写真ラッシュである。スーパーの店員と スーパーの買い物客と

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イランの10万リアル紙幣(表) イランの10万リアル紙幣(裏)
紙幣には500、1000、2000、5000、1万、2万、10万リアルがある。 10万リアルは約400円相当で、食べ物などの買い物に便利。



建設中のホメイニ廟

テヘランのエマーム・ホメイニー国際空港の近くに建設中のホメイニ廟(ルーホッラー・ホメイニーの墓廟)を見学した。 建築はホメイニ師が亡くなった1989年6月3日に開始された。

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車から遠望したホメイニ廟、手前のビルが目障りだ
 
 
工事中だか見学は可能だった。
いつ完成するかは「神のみぞ知る」、Inshallah!(if Allah wills)
何年か後に、間違いなく最高の霊廟ができるだろう。

ホメイニ廟を見学した後、エマーム・ホメイニー国際空港のから帰国の途に就いた。
テヘラン発23:20のカタール航空QR487便で、カタールのドーハ空港へ



16日目
(4月28日)
  カタール・ドーハ空港(機中泊成田空港

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カタールのドーハ空港で、01:50発のカタール航空QR806便に乗り換え、機中泊で成田空港に17:55に到着した



長い間憧れていたイラン(かつてのペルシア帝国)を訪ねることができ、感慨無量である。イランは、中東の一部である西アジアという地政学上の条件から、文明が行き交い、時には侵略されながらも、それを糧として栄えてき国で、島国日本とは異なる大陸文明の逞しさが、私には感じられた。

今回の旅で訪れた世界遺産は11か所に及び、歴史を満喫することができたが、それにも増して、イスラム共和国としての安定性と人々の穏やかさが印象的であった。とりわけ、人々の親日さは予想をはるかに超えるものであった。これがテレビドラマ「おしん」が放映されたためだと聞くと、今更ながら国際文化交流の重要さに驚く。

私個人としては、今回のイランの旅のお蔭で、中国西安からトルコのイスタンブールを経てイタリアのローマに至るシルクロードを、曲がりなりにも訪ねたことになる。今年80歳を迎える私としては、健康に恵まれたことを感謝したい。


最後に、ユーラシア旅行社添乗員の浅野清美さん、現地ガイドのマンスリさん、15人の旅仲間の皆さんに、心より感謝申し上げます。今回の旅には一緒に行けなかったが、いつもホームページのチェックをしてくれる妻にも感謝したい。



イラン(2)は、シーラーズ、ペルセポリス、ヤズド、エスファハーン、マシュハドなどを回りました。
         世界遺産も5箇所訪ねました。
如何でしたか。
イラン(1)は、テヘラン、ケルマーンシャー、ハマダーン、タブリーズ、カスピ海、アフヴァーズなどを回り、
         世界遺産も6箇所訪ねます。


   まだご覧になっておられなければ、上をクリックしてイラン(1)をご覧下さい。 



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