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 北京と天津----静園、天津旧租界地、黄崖関長城、清東稜、頤和園、盧溝橋、北京原人遺址博物館、
    故宮博物院、景山公園、胡同、天壇公園、雑技鑑賞、明十三陵、八達嶺長城、京劇鑑賞、国子監街


 中国といえば、「シルクロード」や「チベットからエベレスト越え」は、以前に旅行したことがあったが、現代中国である「北京」には、まだ行ったことがなかった。過去の日中戦争や現在の発展した中国を見ることに、ちょっとした躊躇があったからである。しかし、現実から目を逸らしてはいけないと意を決して出かけることにした。

 チョットお断りしたいことがある。清代の皇帝陵である清東稜、明代の皇帝陵である明十三陵、明代と清代の旧王宮である故宮などをいささか詳しく記載したことである。これらの歴史的建造物を文言で説明することは、私には荷が重すぎる。沢山の写真を掲載することにより、その歴史的な意義を理解して頂ければ有難いと思う。

 盧溝橋、北京原人遺址博物館、八達嶺長城を見学し、雑技と京劇などを鑑賞することができたのも、今回の旅のお蔭であった。2017年7月現在中国には52件の世界遺産が登録されているが、その内8か所を今回の旅で訪ねることができた。誠に有意義な旅であった。

以下は私が過去に行った旅行であるが、併せてご覧下さい。(クリックするとご覧になれます)

中国シルクロード(1)----西安、敦煌、陽関、玉門関など
中国シルクロード(2)----ウルムチ、ホータン、カシュガルなど
中国シルクロード(3)----カラクリ湖、南疆鉄道、トルファンなど

中国青海省とチベット(1)----青海省、青蔵鉄道、ラサ
中国青海省とチベット(2)----エベレスト展望、カトマンズ

                                            (2017年10月)
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 慣用的には「ビ
も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
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            北京の天安門
世界遺産・故宮(紫禁城)の正門。1949年に楼上で毛沢東が中華人民共和国の建国宣言を行い、中華人民共和国の象徴のひとつとされている。「長安街」通りを隔て天安門広場がある。
 
 
 
 
 
 


北京・天津旅行の全行程マップ


中国の概要

国 名 中華人民共和国
国 旗

国 章
   
首 都 北京
政 治 社会主義人民共和制
1912年中華民国成立
1945年国連加盟
1949年中華人民共和国成立
面 積

959万6960km2(台湾を含む)
日本の25倍

人 口

13.79億 ‎(2016年)、日本の1.27億の10.8倍
漢族92%、55の少数民族が残りの8%を占める。少数民族のなかではチワン族(1,600万人)、満族(1,000万人)、回族(900万人)、ミャオ族(800万人)、ウイグル族(700万人)、イ族(700万人)、モンゴル族(500万人)、チベット族(500万人)、プイ族(300万人)、朝鮮族(200万人)が、比較的大きな民族集団

言 語

漢語(中国語)、少数民族言語

宗 教 道教、仏教、イスラム教2~3%、キリスト教1%、無宗教
産 業 第一次産業
中国の農業生産高は世界1位(2012年)、第1次産業部門の実質経済成長率は2007年で前年比3.7%の12兆1381億元であるが、第2次産業、第3次産業と比べて低成長である。主要農作物として、米、小麦、 じゃがいも、 とうもろこし、 ピーナッツ、 茶、 黍、 大麦、 綿花、 菜種、 豚、 魚がある。また、中国の穀物自給率は、100%である。中国の労働者の半分弱が農業に従事しているが、耕地面積が国土の14%と限られている為、農業の生産性はアメリカ合衆国に比べてかなり低い。
第二次産業
中国の工業生産高は世界1位である(2012年)。第2次産業部門の実質経済成長率は2007年で前年比13.4%の12兆1381億元と中国経済を牽引している。主要産業として靴・衣服といった繊維製品、食品加工物といった軽工業から、石炭、石油および化学製品、鉄鋼、機械・兵器・自動車といった機械、家電製品・電話・パーソナルコンピュータといった電化製品、重化学工業まで存在する。
第三次産業
中国の商業・サービス業の生産高は世界第2位である(2015年)。第3次産業部門の実質経済成長率は2007年で前年比12.6%の10兆53億元である。
GDP

11兆2182億ドル(2016年)世界2位
日本の2.7倍

1人当
GDP
8,123.米ドル/年(2016年)
日本の1/4.8
通貨 元(2017年10月現在、1元は約17円)


1日目
(10月24日)
 羽田空港北京空港天津市近代天津博物館静園天津租界地南市食品街天津のホテル(泊)

当初10月23日に羽田を出発する予定であったが、台風21号が日本を襲い、急遽翌日の10月24日の早朝出発となった。そのため前夜は羽田空港近くのホテルが旅行社から提供された。

羽田空港から北京空港

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実は、10月23日に出発する予定だったが、23日の朝に台風21号が関東を通過し、北京からの飛行機が到着出来なかった。急遽24日早朝出発となり、旅行社の負担で空港近くのホテルに前泊した。 羽田国際ターミナルに5時20分集合し、7時20分発の中国国際航空CA184便に搭乗
 

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搭乗前のCA184便エアバスA321-200 北京空港着陸直前の機内のモニタ

北京空港に着く。空港内には昔のような日本の企業の広告はほとんどない。
やっと見つけた東芝の水力発電所の広告

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空港ビルを出たところにあった「吸烟区」の標識。
空港では禁煙が徹底しているようだ。
ビルを出て専用バスを待つ
 

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専用バスと現地ガイドのリーさん バスは3列座席のデラックス



北京市から天津市へ

北京空港から食事を挟んで4時間余り走って、天津市に着く。

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空港を出発して間もなく「開元食府」で昼食
 
駐車場に停まっている車はスズキ、トヨタ、日産の日本車(現地生産だろう)
走っている車は、他にベンツ、フォルクスワーゲン、ホンダが多い。

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郊外では高速道路の周りに緑が多い ぼつぼつ紅葉が始まっている

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林立する高層マンション レトロな建物もある

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中国では街にスローガンが多い。今は、「増産!」ではなく、「信仰」、「希望」、「守礼」などの文字が多い



近代天津博物館

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近代天津博物館は、歴史史料とその解説だけのこじんまりとした博物館 撮影禁止のため、ロビーに飾られた昔の街の絵だけ撮る



静園(ラストエンペラー溥儀の旧居)

愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ、1906年 - 1967年)は、清国第12代にして最後の皇帝(在位:1908年 - 1912年)。その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。

西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。1912年の辛亥革命後は遜清皇室小朝廷として保護されるも北京政変で追われて天津の日本租界で日本政府の庇護を受けた。1931年満洲に展開する関東軍を含む日本陸軍が起こした「柳条湖事件」を切っ掛けに「満洲事変」が始まった。その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領した。関東軍は国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した国家の樹立を目論み、1934年に親日的な「満洲帝国」を作り、溥儀は満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となった。

1945年に満洲帝国の崩壊とともに退位し、ソ連赤軍の捕虜となって中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所からの釈放後は一市民として北京植物園に勤務し、1967年北京で死去した。(享年72)

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静園の入口 清朝のラストエンペラー溥儀の旧居

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溥儀皇帝の着色写真 書斎 夫人の部屋

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食堂 応接室、ここで何を語ったのだろうか




旧天津租界地

租界(そかい)とは、清国(のちに中華民国)内の外国人居留地である。阿片戦争後の1840年代以降、不平等条約により中国大陸各地の条約港に設けられたもので、行政自治権や治外法権をもつ。
上海、天津などに、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、アメリカ 、ロシア、日本と、なんと9ヶ国もの租界地が置かれた。

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フランス風の建物 1916年の標識のある建物 1931年の標識のある建物

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イタリア風の建物 天津市人民代表大会常務委員会が入っている建物 イルミネーションをしている建物

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解放北路は、外国の銀行が集まる天津の一大金融街 日本の小学校があったところという 阪之屋という日本料理屋が見つかった



南市食品街

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この楼閣の1階が食料品店街になっている

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狗不理で夕食

南市食品街の近くにある「」で夕食。狗不理は、天津市和平区にある中国を代表する包子専門の老舗である。1858年に創立された、中国で最も歴史の古いブランドのひとつである。「狗不理」とは「犬も食わない」という意味。この変わった名前の由来に関してはいくつかの説があるが、最も一般的なものは、幼少時に不運から守るため「狗子」と呼ばれていた創設者の高貴友が、包子作り・売りに精を出し、それ以外の事に一切構わなかった(不理という)ことに、由来するという説である。

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理不狗の入口 1階は中国人で満員、エレベータのない3階に上がる

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ドイツのメルケル首相 習近平主席 江沢民主席

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中国の略歴史年表(日本年表対比付)

ここで、日本と中国の歴史を振り返ってみよう。古くは魏志倭人伝に記された邪馬台国、遣隋使・遣唐使、元軍の来襲、明との勘合貿易など、日本との関わりが多い。 しかし日本人にとって重いのは、日清戦争・満州事変・太平洋戦争であろう。

中  国 日  
西暦 王朝名 事件 西暦 事件
~前1050 実在が明白な最古の王朝。黄河下流域に栄える。30代紂王の時、周の武王に滅ぼされる。最後の都が殷墟。青銅器文化が栄え、文字(甲骨文)の使用開始。 前10000~前300
縄文時代
3万年前~1万年前 打製石器から磨製石器へ 
 前1100年   
   ~前256
開祖は武王。太公望の力を借りて殷を滅ぼす。都は後の長安。前770年に今の洛陽に遷都(周の東遷)。これ以降王室の統率力が弱まり、春秋戦国時代となる。前256年、37代のとき秦に滅ぼされる。
 前770年~前221 春秋戦国時代 前770年の周の東遷から、前221年の秦の統一までの約5世紀半の間をさす。 前300~後300
弥生時代
前57 倭の奴国の王が後漢の光武帝に朝貢し
    「漢委奴國王」と刻まれた印綬を受ける。

239  邪馬台国の王卑弥呼が魏の明帝より親魏
    倭王の称号、金印、銅鏡を与えられる。
前221~前206 最初に中国を統一した。初めて皇帝の号を用いる。始皇帝の死後帝国は漢の高祖に滅ぼされる。始皇帝は中央集権を推進し、万里の長城を建設し、度量衡・貨幣・文字を統一した。都は咸陽。
前202~後8 前漢(西漢) 項羽を倒した劉邦(高祖)が天下を統一した。都は長安。
後8~後23 前漢の外戚だった王莽が実権を握った後、帝位についたが自滅。
25~220 後漢 劉邦(光武帝)が劉氏の天下を復興した。都は洛陽。黄巾の乱により漢王朝は衰退し、魏に滅ぼされる。
220~589 魏晋南北朝時代 後漢の滅亡から唐による統一までの時代。魏(曹操)、呉(孫権)、蜀(劉備)の三国時代、華北に異民族が侵入した五胡十六国、鮮卑族が建てた北魏が華北を統一した。北魏は東魏と西魏に分裂し、さらに北朝、南朝と呼ばれる時代へ。 300~600
古墳時代
4C末~5C末 前方後円墳巨大化
538 百済聖明王、仏教を伝える 
591~619 高祖文帝が北朝の北周を奪って581年に隋を建国。589年南朝の陳を滅ぼして天下を統一。中央集権的帝国を樹立。律令・科挙などの制度を定めた。日本とも国交を結ぶ。 600~710
飛鳥時代
593 聖徳太子、推古天皇の摂政となる
600 倭王、隋に遣使(遣隋使の始め)
607 小野妹子を隋に派遣
645 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を暗殺
    (大化の改新)
663 白村江の戦いで日本は唐に敗れる
618~907 隋末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵し、禅譲を受け618年に建国。628年に天下統一。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令政治を整える。首都は長安。 710~794
奈良時代
710 平城京に遷都
794~1192
平安時代
794 平安京に遷都
894 遣唐使の停止
907~979 五代十国時代 907年唐の滅亡から979年宋による統一までの時代をいう。
916~1125 契丹族が中国東北部に建てた国。947年国を遼と号した。9世で滅亡。
960~1279 後周世宗の武将趙匡胤(太宗)が、960年世宗の没後即位。都は開封。1127年靖康の変で江南に逃れる。それまでを北宋、それ以降を南宋(都は今の杭州)という。1279年帝ヘイが元に滅ぼされた。 1192~1333
鎌倉時代
1192 源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を
    開く
1274 元・高麗軍、対馬・壱岐・博多に上陸(文永
    の役)
1281 元・高麗軍、対馬・壱岐に上陸し博多に
    迫る(弘安の役)
1271~1368 1271年に国号の元が定められた。モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)が後の北京に遷都して、中国を支配。1279年南宋を滅ぼし、領域は中国全土からモンゴル本土を含み、朝鮮、チベット、をも服従させて。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。 1338~1603
室町時代
1338 足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を
    開く
1401 足利義満、日本と明の間に国交と通商の
    合意を成立させる
    (勘合貿易は1401年~1549年に19回)
1368~1644 1368年、朱元璋(洪武帝)がを元を倒し建国、皇帝独裁の支配体制を確立した。15世紀初頭最盛期を迎えるも、その後、宦官の台頭、北慮南倭に苦しみ、農民反乱も続発、16世紀以後は衰運に向かう。1644年李自成に北京を占領され、17世で滅亡。
1616~1912 始祖ヌルハチは満州の女真族を統一、1616年即位して後金国と号した。都は瀋陽。その子ホンタイジ(太宗)が1636年清と改称。第3代順治帝の1644年、明朝の滅亡に乗じて中国に入り、北京に遷都。 19世紀に入り白蓮教徒の乱、太平天国の乱などの内乱とアヘン戦争、アロー戦争などの外圧が相次いで起こり、日清戦争に敗北するや義和団事件が起こる。1911年辛亥革命の結果、中華民国が成立し、1912年12世宣統帝愛新覚羅溥儀が退位して清朝は滅亡した。 1603~1867
江戸時代
1603 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を
    開く
1867 徳川慶喜が大政奉還
1912~1949 中華民国 辛亥革命の結果清朝が倒れた後、1912年中国最初の共和制政体として成立した国。初代大総統袁世凱。1928年中国国民党が国民政府を樹立、全国を統一したが、第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、1949年本土を離れて台湾に移った。1927年を境として、前半の軍閥混戦を背景とした北京政府時代と、後半の中国国民党による国民政府時代とに分けられる。首都は前者は北京、後者は南京。 1867~  
明治・大正・
昭和・平成時代
 
1868 王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立
    を決定、明治改元
1869 東京遷都
1885 天津条約(朝鮮において緊張状態にあった
    日清両国が、緊張緩和のために締結した
    条約)
1894 日清戦争勃発
1895 日清戦争の結果下関条約にて台湾が日本
    に割譲される(日本による統治は1945年
    まで)
1910 朝鮮併合(日本による統治は1945年まで)
1931 満州事変(1931年中華民国奉天(現瀋陽)
    郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の
    線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を
    発し、関東軍による満洲(中国東北部)
    全土の占領を経て、1933年の塘沽協定
    成立に至る、日本と中華民国との間の
    武力紛争)
1932 上海事変
1932 関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政とし
    て満州国を建国。これに対してリットン調査
    団が派遣され、日本の主張を認めない
    報告を発表。日本は国際連盟から脱退。
1934 廃帝溥儀が満洲国皇帝に即位(康徳帝)。
1937 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1941 太平洋戦争勃発
1949~   中華人民共和国 1949年10月1日、中国国民党との内戦に勝利を得た毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。 内戦に敗れた中国国民党率いる中華民国政府は台湾に撤退した。1950年中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。この条約でソ連が租借していた大連、旅順が返還された。1950年、中国人民解放軍はチベットに侵攻し、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。

1953年より社会主義化が進み、全国人民代表大会(全人代)が成立した。1958年に、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進したが、都市人口の異様な増大など深刻な問題を引き起こしていた。1959年と1960年には、大躍進政策の失敗と天災が重なり、大規模な飢饉が中国を襲い、少なくとも2000万人と言われる餓死者を出し大躍進政策も失敗に終わった。1964年中国は核実験に成功し、軍事的な自立化に大きな一歩を踏み出した。

1966年に毛沢東は文化大革命を提唱した。紅衛兵が結成され、文化大革命は政治だけにとどまることがなく、広く社会や文化一般にも批判の矛先が向けられ、反革命派とされた文化人をつるし上げたり、反動的とされた文物が破壊されたりした。1971年に国連の常任理事国の地位を中華民国政府(国民党政権)に変わって手にするなど、国際政治での存在感を高めつつあった。

その後、政権を握った鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの改革開放政策を取り、近代化を進めた。1989年には北京で、民主化を求める学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、政府により武力鎮圧された。

1990年代には、江沢民政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、特に安い人件費を生かした工場誘致で「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。なお、1997年にイギリスから香港が、1999年にポルトガルからマカオが、それぞれ中華人民共和国に返還された。

2007年GDPが独を抜いて3位に、2008年 北京オリンピック、2010年GDPが日本を抜いて世界2位に。2013年より習近平が第7代中華人民共和国主席を務め、中華人民共和国の最高指導者の地位にある。2014年に提唱された「一帯一路」の経済圏構想、2015年に発足したアジアインフラ投資銀行AIIBなど、世界戦略を進めている。
1945 太平洋戦争終了
1951 サンフランシスコ講和会議署名(ソ連、中国
    は署名せず)
1978 日中平和友好条約を締結

                                 中国歴代王朝(http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/jidai.htm)、中国の歴史(Wikipedia)などを参考にした


天津の維多利亜国際大酒店(ホテル)

天津の維多利亜国際大酒店(ホテル)に宿泊。

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五つ星ホテルの維多利亜国際大飯店 何と驚いた、寝室からシャワールームが丸見え、カーテンがない。



2日目
(10月25日)
 天津のホテル黄崖関長城独楽寺清東陵北京のホテル(泊)

今日は、天津から、黄崖関長城、独楽寺、清東陵を見学しながら北京に着くという、長い1日であった。

黄崖関長城

黄崖関長城は天津と河北省の境である薊県にある長城。557年に造られた関を明代に大規模修築したものである。特殊な煉瓦でできており、夕陽に当たると黄金色に光るという。

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朝靄の中をバスは行く 川を渡る

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黄崖関長城の入口 黄崖関長城への登り口にある鼓楼、「黄崖口開」と書かれている

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長城の上。塀が高く狭間がある左が城外、右が城内、 城内には果樹が多い

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城内の建物は、兵士の館だろうか 長城は続くが、この辺で引き返す。

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サンザシ(山査子)は、バラ科サンザシ属の落葉低木。赤い果実は生薬、果実酒、ドライフルーツなどの用途があるという。 梨だろうか
 
 
 
ドライフルーツ、ナッツなどを売るお婆さん
 
 
  



独楽寺(どくらくじ)

天津市薊県(けいけん)にある古建築で著名な寺。唐代の創建と伝えられ、遼代984年に再建された観音閣と山門が残る。

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独楽寺の参道入り口 独楽寺の山門

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山門にある金剛力士塑像は遼代のもの。 左が阿形(あぎょう)、右が吽形(うんぎょう)

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観音閣は中国に現存最古の木造楼閣建築で、外部は二層、内部は吹き抜けの
三層で、高さ23m。観音閣の入口にかかる扁額“観音之閣”の文字は唐代の
詩人李白によるものと伝えられている。
観音閣には、中央に高さ16mの十一面観音像が立つ。
現存する中国最大の塑像である。
 



漁陽賓館で昼食

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漁陽賓館の入口 料理の種類は多かった

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現地ガイドが露店で買ったサンザシの実を試食。甘酸っぱかった。 これも露店で買ったザクロ。日本のものと異なり、大きくて甘かった。



清東陵

清東陵には、清朝の入関後最初の皇帝となった順治帝の孝陵を中心に、康熙帝の景陵、乾隆帝の裕陵、咸豊帝の定陵、同治帝の恵陵など5人の皇帝の陵墓がある他、孝荘文皇后の昭西陵、東太后の普祥峪定東陵、西太后の菩陀峪定東陵などの皇后陵などがあり、2000年にユネスコの世界遺産に登録された。我々は、定東陵、裕陵、孝陵を見学した。

清東陵の入口

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清東陵の入口にある石碑坊。実際には帰路に訪ねたのだが、説明の都合上、最初に紹介する。

石碑坊の近くに建てられた案内板。赤い丸は訪問した陵墓



定東陵(第9代咸豊帝の側室・西太后の陵墓)

定東陵は、第9代咸豊帝の側室・西太后の陵墓である。東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。西太后は1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の長く生きた男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。北京帰還後載淳は同治帝として即位したが、同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。西太后は血縁の近い妹の子載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。東太后の死去により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。

日清戦争における清朝の敗北は北洋艦隊の予算不足が原因であったが、頤和園の再建と拡張に伴う予算が不足のため北洋艦隊の予算を流用したことや、西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費をしたことが影響した。1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も72歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまった。

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定東陵の入口にある碑亭
 
碑亭の中には亀の上に建てられた石碑がある
左半分は漢字、右半分は満洲文字である。

石碑は、下から上に、亀趺(きふ)―碑身(ひしん)―螭首(ち しゅ)で構成される。亀趺は碑身と螭首を支える部分であり、碑身は被葬者の功績などを記したもので建立についての詳しい記録が残っており、最も中心となる部分である。螭首は、碑石を保護するための守護的な意味と、装飾的な効果のために、碑身の上に載せられる部分である。螭(みずち)は一種の龍である。亀趺と螭首に現れる亀と龍は、各々長寿を象徴し、水と地上・天上の世界を思いのままに出入りし得る力と神通力を備えた動物である。したがってこれは、碑の主人公の霊魂を天上の世界に導き、碑文を後世に永遠に伝えるための意味を持つ。

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定東陵の慈禧陵に西太后は眠る 定東陵隆恩殿、宝物殿に相当する 盗掘されたという真珠の残りか

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茲禮陵から地下宮殿に入る 地下宮殿に入る 西太后の棺がある



裕陵(第6代乾隆帝の陵墓)

乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出した。祖父康熙帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されていた。乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが『十全武功』と呼ばれる10回の外征である。国内政治においては繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。その一方で退廃の芽生えもあった。乾隆帝は思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。晩年の乾隆上皇は王朝に老害を撒き散らした。


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裕陵の入口の門
 
裕陵の隆恩殿
 
隆恩殿の前の石に刻まれた
龍と鳳凰

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隆恩殿に陳列された「震撼的遺珍」(Shocking Treasure Legacy) 隆恩殿の天井



孝陵(第3代順治帝の陵墓)

順治帝は、清の第3代皇帝。清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の黄金時代を導く役割をした。当時、全国各地から名産品を皇帝に献上することになっていたが、これをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっていた者を還俗させた。また宦官が政治に関与することを厳重に禁止した。愛妃ドンゴルを亡くしてからは気落ちし、1661年に24歳の若さで天然痘のため急死した。

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孝陵の碑亭
 
石碑の下部の亀趺
 
碑身は満州文字だけで
漢字がない

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孝陵の門の1つ 孝陵の隆恩殿 隆恩殿の前の龍と鳳凰の石彫り



食色家厨にて夕食

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食色家厨の外観

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北方佳苑飯店(ホテル)に4連泊

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北方佳苑飯店(ホテル)の外観 ホテルの客室

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ホテルではNHKの日曜討論がリアルタイムで視聴できた CNNは見えたり見えなかったり。電波状態かスクランブルかは不明



3日目
(10月26日)
 北京のホテル頤和園盧溝橋北京原人遺址博物館前門大街北京のホテル(泊)

今日は、清代の庭園「頤和園」、日中戦争の発端となった「盧溝橋」、昔シナントロプス・ペキネンシスと習った北京原人を展示する「北京原人遺址博物館」、北京の浅草とも呼ばれる「前門大街」を巡る。

朝の風景

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ホテルの吹き抜けで、バイキング朝食 ホテルの北方桂苑飯店は四つ星

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北京の朝は靄がかかる日が多い 北京大学の施設はいたるところにある。車窓より



頤和園

頤和園(いわえん)は北京市ある庭園公園。1998年、ユネスコの世界遺産に登録された。頤和園の前身は清漪園(せいいえん)である。1750年、崇慶皇太后の還暦を祝い息子の乾隆帝が昆明池の掘削と万寿山の造営を命じた。1764年、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成した。以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。

1884年から1895年にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清漪園の再建が命令された。その造営は日本と軍事的緊張が高まり軍備増強の歳出を必要とする清朝には大きな負担となったが、西太后が北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用したことで、日清戦争敗北の原因の1つとなったと言われる程国庫を圧迫するものであった。その後庭園は再建され頤和園と改称、西太后の避暑地に利用された。

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頤和園の正面入口、実際は脇から入る 頤和園の扁額

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仁壽門 賑わう仁壽殿は皇帝が政務を執る建物

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仁壽殿の扁額、ここも漢字と満州文字の併記 頭が龍、胴体が蛇、角は鹿、蹄は牛というお目出度い麒麟の像

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2.2km もある人造湖の昆明湖の岸辺には蓮が植わっている。中央の写真の万寿山は昆明湖を掘った土を盛り上げたもの

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            青芝岫と呼ばれる中国最大の庭園石
明のある官僚が青く霊芝に似たこの石を見つけ、自分の家に運ぼうとしたが、その途中で財産を全部使ってしまい、道に捨てられたという話からこの名がつけられた。その後、乾隆帝が江南からの帰途でこの石を見つけ、大変気に入り、巨大な資金を投じて頤和園まで運ばれたという。 
米寿堂
 
 
  
 

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邀月門、長廊はここから始まる 邀月門の扁額

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長廊は昆明湖の北岸に沿って建てられた回廊で全長728m 長廊から北側の眺め

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長廊の梁には、三国志や水滸伝の歴史画、花鳥画が描かれている

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長廊の中央に舟泊まりがある。
時間がなくてここで引き返した。
長廊の一部にはガラス越しに彩色画や外の景色が見えるところもある
 



盧溝橋

盧溝橋(ろこうきょう)は、北京市の南西約15kmの盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。盧溝橋は金代の1192年に完成し、その後度々修復が施されている。全長266.5m、各アーチの長さ11m。橋の欄干には、それぞれが異なる表情や姿をした計501基の獅子の彫像が置かれている。かつてこの地を訪れたマルコ・ポーロは、その著書『東方見聞録』の中で、この橋が「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と記した。そこから、西欧ではこの橋はマルコポーロの橋と呼ばれている。

盧溝橋の名は、1937年7月7日にこの地で起きた謎の発砲事件・盧溝橋事件の名とともに、日本でも広く知られるようになる。この事件が引き金となって日本の中国駐屯軍と中華民国の国民革命軍が衝突、これが日中戦争の発端となった。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在する。

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地元では「鳥の巣」と呼んでいる北京オリンピックの水泳会場
経費が掛かるので、2008年にコンサートで使われただけだという
明代に建設された城郭都市宛平県城の城門。現地で説明はなかったが、
ここに駐在していた中国軍と近くで訓練中の日本軍の間に衝突があった。

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盧溝橋の東詰にある「盧溝橋」の石碑
 
清の皇帝である康熙帝が、
盧溝橋の修復を記念して建てさせた石碑

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乾隆帝の筆と伝えられる「盧溝暁月」を記した石碑 乾隆帝が詠んだという詩が彫られている

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橋は拡幅され、保護のため車は通行禁止となっている 欄干には501体の石造りの獅子が立ち並ぶ

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橋の上に置かれた石製の本には中英日韓露語で、「修復は1986年12月開始、1987年7月完成。文物を大切にしてください」という趣旨が記されている。 盧溝橋が車禁止になったため架設された盧溝橋南路橋から眺めた盧溝橋。
 半円アーチの橋脚と欄干の獅子像が認められる。
 



北京原人遺址博物館

北京原人は、北京市周口店の竜骨山の森林で発見された化石人類である。学名はホモ・エレクトス・ペキネンシス。現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種として扱われる。北京原人を含むホモ・エレクトスが生きていた時代は更新世である。(近年の研究によると、上記の化石の年代は68~78万年前と推定されている。)

1921年にスウェーデンの地質学者 ユハン・アンデショーンらが人類のものと思われる歯の化石を発見した。さらに、その後の調査で1929年に中国の考古学者 裴文中が完全な頭蓋骨を発見した。結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。しかし、日中戦争の激化により、化石は調査のためにアメリカへ輸送する途中に紛失した。紛失の前に協和医学院の客員解剖学教授であったドイツ出身の学者F・ワイデンライヒがすでに詳細な記録や研究を残しており、レプリカが現存しているので、これが今日の北京原人の研究資料となっている。北京原人を現生人類の祖先とする考えがあったが、現在では、現代人のミトコンドリアDNAの系統解析により否定されている。北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつであるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられている。

周口店の北京原人遺跡はユネスコの世界遺産として登録されている。今回の旅行では発掘現場の周口店には行けなかった。


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周口店遺址博物館の石碑 周口店遺址博物館は、北京原人遺址博物館ともいわれる

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          北京原人の想像復元像
学名はホモ・エレクトス・ペキネンシス。現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種で、現生人類(ホモ・サピエンス)ではないと考えられる。化石の年代は68~78万年前と推定される。
                山頂洞人の想像復元像
北京原人が発見された周口店にある竜骨山の頂上付近にある洞窟から発見された。ヨーロッパのクロマニョン人や日本(沖縄)の港川人と並ぶ化石の現生人類(ホモ・サピエンス)と考えられる。旧石器時代後期1万8000年前の新人。

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北京原人とその頭蓋骨の復元模型

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周口店発掘地点周辺のジオラマ、北京原人の化石は竜骨山の麓の森林で、 山頂洞人の化石は竜骨山の頂上付近の洞窟から発見された。

北京原人などホモ・エレクトス(Homo erectus)の世界分布図らしい



前門大街

前門大街は、北から故宮、天安門、天安門広場、正陽門、箭楼と並び、北京市の中心軸上にある。庶民的な賑わいの街で、現地ガイドは「北京の浅草」と呼んでいた。

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前門大街の近くにある中国鉄道博物館 前門大街の北端にある箭楼

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路面電車が保存展示されている 前門大街の入口、北京オリンピックを機に整備されて、歩行者天国に

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ユーモラスな路上の銅像 人気のある菓子屋さん

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菓子屋さんの外と中

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靴屋さんの外と中



東来順飯店で夕食

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東来順飯店に入るときは夕暮れだったが・・・ 店を出たときは、イルミネーションされた正陽門と人民大会堂が見られた

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今日の夕食は、しゃぶしゃぶ



4日目
(10月27日)
 北京のホテル故宮博物院景山公園胡同天壇公園雑技鑑賞北京のホテル(泊)

故宮、かつての名を紫禁城という。明と清の歴代皇帝が暮らした、広大な中華帝国の正に中心である。現在は故宮博物院として公開されている。見るべきものは夥しい数の建物群と収蔵された宝物であろう。宝物の方は、国共内戦の際に目ぼしいものは蒋介石が台湾に輸送し台北の故宮に納められている。ここでは主な建物を見学しただけであるが、2時間を要した。

故宮博物院




http://www.chijonotenkyu.jp/about.html より引用
A       北京の故宮博物院について

明代と清代の旧王宮である紫禁城は、1924年の北京政変の際、溥儀への紫禁城退去が通告され、その後は故宮と呼ばれた。故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味である。現在は故宮博物院となっている。 故宮博物院は、1987年にユネスコの世界遺産に認定された。世界遺産としての名称は、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮となっている。

故宮は、元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、滅亡まで宮殿として使われた。1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。

1908年に、西太后が光緒帝の後継者として愛新覚羅溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となった。1911年に辛亥革命が起き、1912年に溥儀は退位したが、中華民国臨時政府の「優待条件」として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。しかし1924年の北京政変の際、溥儀を初めとする皇族は紫禁城から退去させられた。1949年に、中国共産党の指導者の毛沢東は城門の一つである天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。

故宮は南北の奥行961m、東西の幅753m、面積は約72.5万m2。周囲は幅52m の堀が囲む。城壁の高さ12m、底厚10m、頂厚は6m ~7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門がある。「紫禁城」は中国の天文学に従い、北極星(天帝)を皇帝に擬え、地上に「紫微垣」を再現し、世界の中心を地上に再現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。 紫禁城の由来は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせ、紫禁城と呼んだことに由来する。


故宮の中心線に沿って南から順に大略を説明する。
紫禁城の南門である午門を入ると、外朝の正門である太和門 に至る。太和門から中は外朝といわれる領域で、前三殿(太和殿、中和殿、保和殿)がある。
乾清門から中は内廷といわれる領域で、後三宮(乾清宮、交泰殿、坤寧宮)がある。
内廷の北側中央の神武門は、紫禁城の北門。現在は故宮博物院の正門(出口)となっている。

今回の旅行では、中心線に沿った建物を見学したが、宝物はほとんど見なかった。それでも約2時間を要した。
                          Wikipedia他より

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出口専用の東華門の脇から筒子河(濠)を巡り、故宮の正面入口「午門」へ

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午門前の広場(5枚接続のパノラマ) 午門の扁額

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午門を潜ると、太和門前の広場 驚くべきことに、これは太和門であって、まだ正殿でない 獅子の像

太和門を潜ると、広場の向うに聳えるのが故宮の中心となる正殿の太和殿が現れる
白大理石でできた三重の基台の上に建てられた太和殿は間口60m、基台を含めた高さは35.5m、
現存する中国の木造建築物中で最大のもの。創建は1420年、幾度か焼失し、現在の建物は1695年に
再建されたもの。太和殿は、政治や儀式の中心として、皇帝の即位や婚礼、祝日の祭典、詔書の頒布
など重要な国家的式典や儀式はすべてここで行われた。

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太和殿に近づくと階段の中央に皇帝の象徴の龍と皇后の象徴の鳳凰を刻んだ石彫が見える 太和殿の扁額

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嘉量(容積の標準器) 銅缸(防火用の水瓶) 太和殿の内部 床の煉瓦を補修する人達

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中和殿は太和殿での公式行事に赴く皇帝が休息を取る場所 中和殿の内部

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保和殿は皇帝が衣装を替える場所だったが、後に科挙の最終試験がここで行われた。 保和殿の内部

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乾清門は内廷への正門である。
石階には金メッキを施した1対の獅子像が、その両側に防火用の金メッキした缸が並ぶ。
金メッキを施した獅子像
 

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           乾清門を潜ると、内廷の中心となる乾清宮が現れる。
創建は明代の1420年だが、清代の1798年に再建された。明代から清代までの皇帝の寝宮であったが、雍正帝以降は寝宮は養心殿に移され、乾清宮は皇帝が各大臣を引見する日常的政務の場所となった。
乾清宮の内部
「正大光明」の額は順治帝の筆になる
 
 

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        坤寧宮は、「内廷三宮」のひとつで最北端に位置する。
明代には皇后の寝宮であったが、改修後は満州族が信仰するシャーマニズムの神を祀る場所、皇帝の婚礼が挙行される場所となった。康煕帝、同治帝、光緒帝、廃帝後の溥儀もここで大婚を行った。
坤寧宮の内部。双喜(囍)の文字が描かれている
 
 
 

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交泰殿は、乾清宮、坤寧宮とともに「内廷三宮」と呼ばれている。清代に、皇后の勅封などの儀式はここで行われた。
 
 
交泰殿の内部。宝座の上には康煕帝の筆になる「無為」の額が掲げられている。金色の箱は皇帝の印である玉璽を納めるもの。古代の周王朝が25代続いたのにあやかって25の玉璽が納められたが、清は10代で終ってしまった。右にあるのは銅壺滴漏で、乾隆年間に造られた精巧な水時計。

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堆秀山の上に建つ御景亭。堆秀山は太湖石でできている。 神武門は故宮の最北にあり、故宮の裏門
太湖石とは、蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形の奇石である。青白い石灰岩でできているが、かつて内海だった太湖の水による長年の侵食によって石灰岩には多くの穴が開き、複雑な形と化した。

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神武門を出ると、景山公園のある景山(比高43mの人工の築山)
の頂に立つ萬春亭が見える。
振り返って神武門を眺めると、郭沫若の書である「故宮博物院」が見える
 

景山公園

故宮の北側にある景山に登って、故宮を眺めた。

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景山山頂に建つ萬春亭 萬春亭から眺める故宮。生憎北京名物の大気汚染で霞む

霞がなければこのように南北の奥行961m、東西の幅753mの故宮が見渡せるはず。 http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2002beijing/photo/kokyuwl.jpg より引用

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景山の麓に建つ、明朝第17代(最後)の皇帝崇禎帝(廟号は思宗)の殉国300年祈念碑。
李自成の軍に包囲された
崇禎帝は紫禁城の北にあるここ景山で首を吊って自殺した。

崇禎帝は1627年に即位してすぐに、兄帝の下で専横を振るった宦官魏忠賢を誅殺し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。当時は北に満州族の後金が進入し、南では李自成たちの反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。崇禎帝は政治に熱心であり、色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。しかし猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を有していた。即位直後から重臣を次々と誅殺してまわった。明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。

1644年、李自成の軍が北京を包囲し、北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。



胡同(フートン)

北京の庶民の暮らしが分るという「胡同」を、三輪リキシャと徒歩で散策した。

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三輪リキシャに2人ずつ乗って、胡同の路地裏を巡る

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最初にコースの説明がある。この地図と異なり往路は后海のほとりの到着点まで三輪リキシャ、
帰路は歩いて路地を見て回り出発点に戻る。「胡同は歩かなきゃ面白くない」はガイドの弁
胡同を三輪リキシャで行く
上の画像をクリックして、4分間の動画をご覧ください

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落ち着いた風景の后海であるが、今や北京随一のナイトスポットだという。
 
四合院形式の豪邸が点在する。夜学で日本語を学んだという
見るからに苦労人風のガイドが「この家は金持ちです」と説明。

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一軒の家庭を訪問 食堂らしいが、空き家同然で、がっかり

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台所には、いわゆるシステムキッチンが入っていた ちゃっかり、中国民芸品の販売も

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現地の人達と行き交う胡同の路地を歩く

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路地から出たところに邸宅の立派な門があった。政治家で文学者の郭沫若氏の故居だという。立派な額がかかっていた。

郭沫若は、中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、詩人、歴史家。中国の近代文学・歴史学の先駆者。中国各地で彼の揮毫による扁額や石碑が見られる。1892年四川省の生まれ。1914年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。その後国民党に参加するも、左傾化した。1927年蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加し、直後に中国共産党に加入。蒋介石に追われ、1928年日本へ亡命。1937年の盧溝橋事件が起こると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加した。

戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に、1954年には全人代常務副委員長に就いた。1963年中日友好協会名誉会長。反右派闘争以降は発言や作風が毛沢東に迎合するようになる。文化大革命発生直後の1966年、全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行い、知識人の思想改造の成功例として取り上げられ毛沢東の庇護を受けた。毛沢東や江青らの詩を賛美し、当時の政策を褒める詩を多く発表した。しかし四人組が逮捕されると一転して彼らを批判する詩を発表した。1978年北京で病没。



華風宴館で昼食

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華風宴館 肉・魚・野菜のバランスのとれた中華料理



天安門広場

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天安門は紫禁城の外城壁南端に位置する正門、明代の1417年に建てられたが焼失し、清代の1651年増築
された。この前が天安門広場で、南北880メートル東西500メートル、東京ドーム約10個分の広さで100万人収容。
1949年10月1日、毛沢東は天安門の楼閣から中華人民共和国の成立を宣言した。
今も中国の象徴であるが、天安門事件のあったところでもある。
天安門に掲げられた
毛沢東の肖像
 
 

天安門事件は1989年6月4日(日曜日)に、同年4月の胡耀邦元党総書記の死をきっかけとして、天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺し)し、多数の死傷者を出した事件である。

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中国共産党第19回全国代表大会が、2017年10月18日~10月24日に北京人民
大会堂で開催され、今日は大会終了3日後である。祝福ムードが残っている。
中国国旗(五星紅旗)と衛兵
旗竿の高さは32.6m

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広場から天安門に向かって左側に、人民大会堂と人民英雄祈念碑 広場から天安門に向かって右側に、中国国家博物館



天壇公園

天壇は、明、清時代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った場所で、現存する中国最大の祭祀建造物である。1998年に世界遺産に登録された。

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一番外にある門 南側の昭亨門から中に入る

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石畳の参道を進む 祈念殿の扁額

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祈年殿は直径32m、高さ38mの巨大な木造建築で、現存する中国最大の祭壇。三層の円形の屋根と瑠璃瓦の青が独特の美しさを作り出し、
その姿は天壇のみならず、天安門や故宮(紫禁城)と並ぶ北京のシンボルとなっている。

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祈念殿の外側の装飾。龍は皇帝のシンボル、鳳凰は皇后のシンボル
 
祈年殿の内部には、玉座が安置されており、
柱や梁に施された極彩色の装飾も圧巻である



北京の奇妙な建物群

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中央のビルは108階建、北京で最も高いという
 
3棟の奇妙な形のビル
 
中国中央電視台(CCTV)本部ビル
高さは234メートル、51階建て

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奇妙な形のビルは数限りない

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中国銀行のビル 大規模な商業ビル「北京・銀河SOHO」は、曲線でできている



雑技を鑑賞

雑技は中国の伝統的なサーカスである。1950年、最初の国家雑技団である中国雑技団が設立された。現在、中国には県級以上の専門雑技団が100余個があって雑技関係者は 1万名余に至るという。残念ながら撮影禁止。不用意にフラッシュ撮影する者がいるのだろう。

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雑技が公演される朝陽劇場 何と7台のオートバイが球の中で乱舞、 朝陽劇場のホームページより

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朝陽劇場の前のポスター 胡錦涛前国家主席も 日本の村山富市元首相も



金鼎軒で飲茶の夕食

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金鼎軒は飲茶で有名 小澤征爾も

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5日目
(10月28日)
 北京のホテル明十三陵八達嶺長城京劇鑑賞北京のホテル(泊)

この日は、北京市郊外にある、明代の陵墓を見学し、八達嶺長城に登り、夕食後京劇を鑑賞した。

明十三陵

明十三稜は、北京の中心部から北西約50km、天寿山の麓にある。中国に現存する皇帝陵墓群としては最大規模である。「明十三稜」の名は、明朝16皇帝のうち13人の皇帝の陵墓があるからである。1409年の着工から1644年の明朝滅亡まで、その造営期間は延200年余りにわたる。広さは陵墓エリアだけでも40km2に及ぶ。2003年に世界文化遺産に登録された。公開されている長陵、定陵、昭陵のうち、定陵を見学した。

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北京にもこんな風景が 格好いいマンション群

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陵墓の周辺にある果樹園 明十三陵の参道で売っている、林檎、桃は大粒である

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神功聖徳碑、碑亭があったが、取り壊された 明十三陵の1つ、定陵の入口である稜門

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博物館の第一展覧室
 
 
金冠
 
 
発見された地下宮殿の入口を示す石碑(左は実物、右は拓本)
石碑には「この石より、前へ十六丈、下へ三丈五尺行けば、金
鋼石に至る」と刻まれている。その通り入口が見つかったという。

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地下宮殿の入口 地下宮殿の地図(新たな入口を設け、本来の入口を出口にしている)

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左配殿、巨大な地下空間である。天井の高さは9.5m 萬暦帝の宝座

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鉄の扉の向うにある后殿へ 后殿には宝物が格納されている

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孝靖皇后の宝座 深さ27mの地下から見学用の階段を上る

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出口(本来の入口)に出る。足元のプレートの位置で、地下宮殿の入口を示す石碑が発見された。 碑亭
 
 
碑亭の中の石碑
白碑である。萬暦帝の業績は
多すぎて刻めないということ

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博物館の第二展覧室とその内部 アクセサリーか

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展示品のいろいろ



金殿で昼食

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金殿の入口 メニューはバラエティに富んでいる

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金殿は美術品の工房で、制作・販売もしている



八達嶺長城

八達嶺長城は北京の中心部から北西約75kmのところにあり、北京から近く、保存状態もいいので、観光客が多い。万里の長城は1987年に世界遺産に登録された。匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。その後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返された。現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100㎞も離れていない稜線上に設けられている。

なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中国の教科書から、この節は正式に削除された。2009年、中国国家文物局は、万里の長城の総延長を、従来の6,352kmから、8,851.8kmに修正発表した。2012年、中国国家文物局は、秦代、漢代など他時代を含んで調査した所、万里の長城の総延長は従来の2倍以上の21,196.18km(地球の赤道半周に相当)であったと発表した。

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北京から鉄道も通じているが本数は少ない。我々は専用バスで 世界文化遺産であるだけに、安全検査が厳しい

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八達嶺長城見学の入口、ロープウェイもあるが強風のため止まっていた 入口を抜けると、延々と続く長城が見える。傾斜の緩い女坂を登る。

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最初にある北一楼(The First Tower of the North Side) 北一楼を通り抜ける

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傾斜が緩い部分は斜面に、急な所は石段になっている。結構寒い。

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北二樓を通過する。 北二樓で記念写真を撮る。今回の旅で唯一の自画像。

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長城は延々と続くが、下から見えた最高地点(北三楼)で引き返す。 最高地点から先の延々と続く長城を眺める

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最高地点からの展望。 城内(右側)にはいくつかの道があり、ショップも立ち並ぶ 長城から城内へは出口がある



金聚徳焼鴨店で夕食

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金聚徳焼鴨店 ここの名物は北京ダック

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いろいろ料理があったのだが、撮影し忘れた



京劇鑑賞

京劇は、中国の伝統的な古典演劇である戯曲(歌劇の一種)の1つである。清代に安徽省で発祥し、北京を中心に発展したのでの名が付き、主に北京と上海の二流派があるという。この日の演目は「水滸伝」。筋を知らなかったが、面白かった。

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京劇は、前門建国飯店の中の梨園劇場で行われる 梨園劇場に入る

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開演前に、役者の化粧風景が披露される 衣装係が役者に衣装を着ける 見得を切って披露はおしまい

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出し物は「水滸伝」とのことだが、ストーリーはよく分らない。

上の画像をクリックして、動画をご覧ください。

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京劇のお土産グッズ



6日目
(10月29日)
 北京のホテル国子監街北京空港で待機全航線国際大酒店(臨時泊)

今日は、午前中に北京国子監街を散策し、北京空港へ向かったが、日本を襲った台風22号のため予定の便は取消となり、臨時でホテルに宿泊した。

国子監街

国子監とは、中国における隋代以降、近代以前の最高学府。各王朝の都に設けられた。明代には南京と北京の二都に設けられた。元・明・清三代に渡って置かれた北京国子監は、現在は国子監街にある。西晋武帝の276年に国子(貴族・官僚の子弟)の教育機関として設置されたが、隋代の607年に「国子監」と改称された。唐代には長安に国子学(博士2名・助教2名・五経博士5名・学生300名)・太学(博士3名・助教3・学生500)・四門学(博士3名・助教3・学生500・俊士800)・律学・書学・算学・広文館などの教育機関があり、これらを統括する行政機関として国子監が設置された。清代には最高責任者として国子監管理監事大臣が置かれ、その下に漢民族と満州族の国子祭酒が1名ずつ置かれた。  Wikipediaによる

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国子監街の入口。なぜか「成賢街」とある。

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街路樹のある古い町並み
 
 
北京でよく走っている電動バイク。エンジンとガソリンタンクを外して、
モーターとバッテリーを付けたもの。フル充電で70km走るという。
静かなので、後ろから来ても気づかないのが欠点。

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お金持ちの邸宅らしい

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途中に「国子監」の門があった。 北京国子監の入口 全国重点文物らしい

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北京孔子廟の入口 入場しなかったが孔子が祀られている、これも全国重点文物

孔子廟と国子監の地図が掲示してあった

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国子監街にある仏具屋さん 国子監街の出口の門にも「成賢街」とある



日本台風のため北京空港で待機

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北京発羽田行きのCA421便は、
日本を襲った台風22号のため1時間30分遅れるという 
空港のミネラルウォーターの価格、中国産は4~5元(28~35円)だが、
フランス製のevianは16元(110円)

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空港で待機したが、当初の出発時刻から2時間遅れて「取消」となる
 
航空会社が手配した全航線国際大酒店に泊まることになる
夕食のバイキングは大混雑



7日目
(10月30日)
 全航線国際大酒店北京空港羽田空港

今日は、昨日取消となった代りの便で、早朝北京空港を出発し、1日遅れで帰国した。

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早朝3:30の送迎バスを待つ人でホテルのフロントは混雑 1日遅れの羽田行きCA421Dに搭乗

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行きも帰りも日本を襲った台風のお蔭で1日遅れたが、無事に日本に帰れた



永年行きたいと思っていた北京をやっと訪ねることができた。日中戦争のわだかまりがあったが、2000年余の中国の歴史遺産の見学に大満足出来た。旅行を催行されたユーラシア旅行社、台風アクシデントにも適切に対応して下さった添乗員の水野慈子さん、現地ガイドのリーさんにお礼申し上げます。


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