西部トルコ(1)----イスタンブール 東ローマ帝国からオスマントルコ帝国への歴史を刻む大都市 |
一都市の陥落が一国家の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。 だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか。 塩野七生著 「コンスタンティノープル陥落」(新潮社) より 西洋の歴史を時代順に訪ねる私の旅は、エジプト、ギリシア、イタリアを終わり、次はトルコの番となった。 私なりにトルコの歴史を、大胆に5つの時代に分けてみた。 @ 世界ではじめて鉄を使ったヒッタイト帝国に代表される古代アナトリア 時代(〜前700) A トロイ、エフェソスに代表されるヘレニズム・ローマ時代(前700〜395) B キリスト教の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが栄えたビザ ンツ時代(395〜1453) C コンスタンティノープルが陥落し、イスタンブールと改名された後の、 オスマン帝国時代(1453〜1923) Dアタチュルクにより建国され、現在にいたるトルコ共和国時代(1923〜) このように書いてみて驚いた。 トルコ一国を訪ねれば、他の東地中海の国々をすべて訪ねるほどの遺跡を見ることが出来るではないか。 ともあれ、妻と二人の14泊15日の西部トルコの旅を、次の3部に分けて掲載しよう。 西部トルコ(1) イスタンブール 西部トルコ(2) エーゲ海・地中海沿岸 西部トルコ(3) 中部アナトリア 順次ご覧下さい。 (2002年5月) |
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ブルーモスク | |
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イスタンブール概略図 |
ローマ時代の遺跡 |
ローマ時代の競馬場跡 |
ヒポドロムといわれる幅117m、長さ500mの広場は、ローマ時代に戦車競技が行われたところ。高さ26mのテオドシウス1世のオベリスクはエジプトのカルナック神殿から運ばれたもの。
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広場で行われた祭りに参加する少女達 カメラを向けると微笑んでくれた。 |
地下宮殿 |
4〜6世紀に作られた地下の貯水池。水は「ローマの水道橋」から引かれ、トプカプ宮殿のスルタンの喉を潤した。長さ140m、幅70m、高さ8m | 薄暗い宮殿の一番奥にメドゥーサの顔のついた柱がある。伝説によると、メドゥーサの顔は見た者を石にしてしまうという。だから、逆さまや横向けにしてあるのだろうが、私には、ジンクスに負けない統治者の権威のように見えた。 |
テオドシウスの城壁 |
イスタンブールの旧市街を取り巻く城壁を外側から見たもの。テオドシウス1世(349-395)の時代に建設を開始し、幾度も改築された。壁は3重になっており、大きいところでは高さ17m、幅60mもある。全長10km。1453年5月29日の夕刻、オスマントルコ軍によるコンスタンチノープル陥落のときに、トルコ軍がこの壁を破壊し、怒涛のごとく城内へなだれ込んだ様は、塩野七生の著書に生き生きと記されている。 |
アヤソフィア |
325年にキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、330年にビザンティウムと呼ばれたこの地をコンスタンティノープルと改名し、ローマ帝国の首都とした。 395年にローマ帝国が東西に分裂した後は東ローマ帝国の首都となった。 コンスタンティヌスにより建設されたバジリカは、その後幾度か焼失・再建され、537年にアヤソフィア教会になった。 1453年コンスタンティノープルを陥落させたスルタン・メフメト2世は教会をモスクに改装させた。 しかし壁画は漆喰で覆われた部分もあったが、破壊はされなかった。 |
現在のアヤソフィアは4本のミナレットを持つモスクである |
内部は今も補修が行われている | 教会の名残が残る | キリスト教のモザイク画 |
トプカプ宮殿 |
弱冠21才のメフメト2世はコンスタンチノープルを征服後、宮殿の建設に取り掛かった。建設に7年の歳月を要したこの宮殿は、現在は博物館になっており、オスマントルコ帝国の栄華を偲ぶことが出来る。 |
トプカプ宮殿の送迎門 | 送迎門の衛兵とアラビア文字 |
アラビア語のハラム(=聖域)を語源にするハレムはトプカプ宮殿の見所の1つ。オスマントルコ帝国の王、スルタンのプライベートの部分である。ここには美女が500人もいたという。 |
ハレムの入口で入場時間を待つ | 入口の美しいタイル |
スルタンの浴室 | ||
スルタンの大広間 |
宦官の人形 ハレム内には宦官しか入れない |
中国の白磁・青磁のコレクションも多い | ||
5000人の食事を賄う宮殿の厨房の煙突 | 日本の伊万里焼も |
美しいタイルや金箔は今も補修されている | タイルだけでなくステンドグラスも |
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ブルーモスク |
ブルーモスクの名で親しまれるスルタン・アフメト・ジャミィは高さ43m、直径27.5mの大ドームと、珍しい6本のミナレット(尖塔)を持つ。写真では4本が写っている。 |
モスクの中は、4つの副ドームと30の小ドームが、青のイズニック・タイルに映えて妖しい雰囲気である。 |
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軍事博物館 |
コンスタンチノープル攻略の時に、東ローマ帝国側が金角湾の封鎖のために使った錨 | コンスタンチノープル攻略の時に、オスマントルコが使った大砲と石の砲弾 |
第一次世界大戦の頃のクルップ砲 | 戦闘機(トルコ軍はNATOのの有力メンバー) |
軍事博物館では、毎日何回か軍楽隊の演奏がある。 |
イスタンブール考古学博物館 |
イスタンブール考古学博物館の見学は、私にとって今回の旅行の大目玉である。 ヒッタイト帝国のムワタリ(在位前1315-1282)はエジプトのラムセス2世とシリアのガデシュで刃を交えた。 エジプトのアブ・シンベル大神殿に刻まれた碑文によると、エジプトはヒッタイトを打ちのめしたことになっているが、実際はヒッタイト側の完勝であった。 ラムセス2世とムワタリとの間で取り交わした和平条約の粘土板がこの博物館に展示されているという。はたして見れるだろうか。
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博物館の建物の1つ この博物館は、European Museum of the Year Award を 1993年に受賞した。 |
古代オリエント |
ついに見つけたカデシュ条約の粘土板(前13世紀、ハットゥシャ) 楔形文字で書かれている。 |
戦車の浮き彫り ヒッタイトは戦車に鉄の車軸を用いた。 |
ドラゴンの浮き彫り(前6世紀、バビロン) | ライオンの浮き彫り |
石 棺 |
アレクサンダーの石棺(前4世紀) アレクサンダー大王がペルシャ軍と戦う様を彫ったもので、大王の遺体が葬られたものではない。大王の腹心の部下、アブダロニモスが自らの棺をアレクサンダーで飾った。大理石で一部彩色されている。 |
アレキサンダの石棺の長辺の一部 |
リキアの石棺(前5世紀) | 嘆き悲しむ女性達の石棺(前4世紀) |
い ろ い ろ |
タプトンの石棺 (前6世紀、レバノン) |
バエビアの像 (前1世紀、セグネシア) |
巨人の戦い (前2世紀、アフロディシアス) |
グランド・バザール |
グランド・バザールの名で親しまれるカパル・チャルシュは、屋根付き市場の意味である。出入口が20余り、店の数は4400軒もあり、迷わぬように歩くだけでも神経を使うが、めっぽう楽しい。 |
入口の1つ | 通りは人と商品が溢れている |
金属品屋 | 絨毯屋 | 陶器屋 |
貴金属屋 | トルコ石 | 見物に疲れてチャイを飲む |
エジプシャン・バザール |
昔エジプトからの貢物を集めたことに由来するというエジプシャン・バザールは別名、香辛料市場である。 |
入口 | 市場の前のモスクのハト |
香辛料屋 | チーズ屋 | 八百屋 |
ボスポラス海峡クルーズ と ルメリ・ヒサール |
エーゲ海と黒海を結ぶマルマラ海は、イスタンブール付近で最も狭いところでは幅700m程のボスポラス海峡となっている。 海峡の西側はヨーロッパ、東側はアジアである。 ここは黒海沿岸の穀倉地帯からヨーロッパへ小麦を輸送する海路の要衝で、395年に海峡の出口のヨーロッパ側に東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルが築かれた。 1453年にはコンスタンチノープル陥落の舞台となった。 我々はドルマバフチェ宮殿の船着場を出発して、第2ボスポラス大橋の手前ルメリ・ヒサールまでの1時間のクルーズを楽しんだ。 |
釣りを楽しむ人達 | ガイドを含めて14人の専用クルーズ船 |
ヨーロッパとアジアを結ぶボスポラス大橋 (1973年開通) |
日本のI H Iが主契約者になって建造した 第2ボスポラス大橋(1988年開通) |
ドルマバフチェ宮殿と近代的なホテル (ヨーロッパ側) |
ガイドのムヒッテンさんが卒業した士官学校 (アジア側) |
城塞ルメリ・ヒサールと第2大橋(ヨーロッパ側) | 城塞アナドル・ヒサール(アジア側) |
ルメリ・ヒサールから海峡を望む オスマン・トルコはコンスタンチノープル攻略に先立ってこの城塞を4ヶ月で建造し、対岸のアナドル・ヒサールと連携して海峡を通過するベネツィア船を牽制した。 |
海峡を睨むルメリ・ヒサールの大砲 |
コンスタンチノープル陥落祭 |
1453年5月29日のコンスタンチノープル陥落を記念するコンスタンチノープル陥落祭が5月26日の日曜日に行われ、幸運にも見物できた。 パレードに船が参加しているのは、東ローマ帝国側に金角湾の入口を封鎖されたトルコ軍が、ボスポラス海峡から金角湾まで丘の上に木道を設けて船を引いた作戦に因むもの。 |
軍楽隊 | 馬 | 船 |
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イスタンブール から トロイへ |
イスタンブールからトロイへの高速道路の脇に咲くケシ |
フェリー |
東西文明の十字路の町イスタンブールを後にして、マルマラ海をフェリーで渡り、トルコのエーゲ海沿岸へ向かった。 引き続き、西部トルコ(2)と(3)をご覧下さい。 |
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