佐渡の自然と文化----ドンデン山の花、佐渡金山、史跡を訪ねる旅 |
狭い日本というが、一度訪ねたいと思いながらまだ足を踏み入れていないところも多い。私にとって佐渡はそのような場所の1つである。 私が属している日本山岳会の「山の自然学研究会」が企画した「佐渡のドンデン山の花を訪ねる旅」に参加して、長年の念願を果たした。 離島には固有種と呼ばれる島独特の植物が生育することがあるが、佐渡の場合はそうではなく、山で一般によく見られる種ではあるが、数多くの種類の花が美しく咲きそろうのが特徴である。 今回の旅の後半は、研究会の行動から離脱して、佐渡金山を見学し、随所で地学観察をし、佐渡の史跡を訪ねることにした。 |
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カタクリの花 案内して下さった本間さん撮影 |
佐渡の地図 本州と結ぶ2つの航路は国道! 赤字は訪問地 |
1日目(4月24日) | フェリーで両津へ→トキ順化センター→清水寺→大銀杏→民宿 |
フェリーで佐渡・両津へ |
新潟港から佐渡の両津港へ、佐渡汽船の大型カーフェリー「おけさ丸」で 2時間30分の旅。(ジェットフォイルなら1時間) |
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新潟港からフェリーに乗船 | フェリーから信濃川河口を振り返る |
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どうしてカモメがフェリーの後をついて来るのだろうか | カモメに餌をやる人がいた | 港を出るとすぐに佐渡が見える |
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佐渡に近づく 左が小佐渡、右が大佐渡、その間が国中平野 | フェリーの船尾(艫)から車両が出る見慣れた風景 |
しだれ杉 |
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佐渡市指定の天然記念物 「しだれ杉」 | 両津からトキ保護センターに行く途中の菩薩寺にある |
佐渡トキ保護センター・野生復帰ステーション |
トキ小年表 |
1999年5月 中国から贈呈されたペアから人工繁殖に成功 2003年10月 日本の野生産最後のトキが死亡(36歳) 2008年9月 人工繁殖された10羽のトキが放鳥された |
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トキの森の整備事業には、カーボン・オフセット事業の資金が使われている | 靴を消毒して、鳥インフルエンザのトキへの感染を防止 | |
カーボン・オフセット やむを得ず排出されたCO2を、森林整備に資金提供することにより相殺する仕組み |
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観察棟 | 観察棟から見る順化ケージ |
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職員から丁寧な説明を受ける | 順化ケージの中のトキ | ケージに設置されたカメラで観察できる |
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国中平野には水田が多い | 観察棟から眺める金北山 |
清水寺 |
トキ保護センターの近くにある清水寺(せいすいじ)は、808年に賢応法師が京都から布教に来た折、京都の清水寺(きよみずでら)に参詣できない人のために建立したという。今では廃寺となり荒れ果てているのが痛ましい。 |
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無人の寺の山門に、なぜか明りが灯っていた | 立派な杉並木の参道 |
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京都清水寺の「清水の舞台」を彷彿させる救世殿 | ひっそりと咲くオドリコソウ |
大銀杏 |
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清水寺のすぐ真向かいの民家の庭にある大銀杏、樹高26m、樹齢1000年以上といわれる。今は芽吹いたばかりだが、黄葉の時期はさぞかし |
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幹周は7.7m、正に神木である | 樹下に咲くオオアマドコロ |
民宿 「佐渡庄や」 |
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庭に咲くナシの花 | 民宿 「佐渡庄や」の玄関 |
豪華なご馳走で宴会の始まり |
2日目(4月25日) | ドンデン山→トキの森公園→佐渡芸能祭→民宿 |
ドンデン山 |
今回の佐渡の旅の目玉「ドンデン山」に向かう。道中のアオネバ渓谷は標高800m未満にかかわらず高山植物の宝庫である。当初の予定ではドンデン山に登り、あわよくば、金北山を縦走する予定であったが、この時期は残雪が多く断念。 |
民宿から3台の車に分乗してドンデン山の登山口へ向かう。 左奥は金北山。 |
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ここから青粘峠までの2時間が、花の名所アオネバ渓谷である。峠から30分ほどでドンデン山荘に着く。 | アオネバ渓谷登山口 |
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梅津川のアオネバ渓谷沿いに登る | 4月下旬でもソメイヨシノ(?)が満開 |
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ニリンソウ | シラネアオイ | カタクリ | ヒトリシズカ |
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キクザキイチゲ | キクザキイチゲ | エンレイソウ | エンレイソウ |
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オオイワカガミ | ミヤマキケマン | フクジュソウ | フクジュソウ |
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オドリコソウ | ニシキゴロモ | エゾエンゴサク | アマナ |
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登山道の脇にニリンソウの群落 | 渓谷にグリーンタフ(緑色凝灰岩)の崩壊地が見られる |
グリーンタフ(緑色凝灰岩) 日本海側~北海道東部にかけて、新第三紀中新世の海底火山活動による火山岩が大量に存在し、そのほとんどが緑色を呈するため、「グリーンタフ」と呼ばれることが多い。凝灰岩だけでなく他の火山砕屑岩や溶岩も含まれる。 |
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オオミスミソウ(ユキワリソウ) | オオミスミソウ(ユキワリソウ) | オオミスミソウ(ユキワリソウ) | オオミスミソウ(ユキワリソウ) |
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コゴミ | ザゼンソウ | ナニワズ | ヒメアオキ |
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スミレ | スミレ(距が長い) | スミレ | ユズリハ |
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青粘峠に近付くと登山道は青い粘土でぬかるむ | グリーンタフが風化して砂または粘土状になったようである |
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ヒョウタンボク | ||||
佐渡縦貫線に出る。除雪が完了せず、車は通行禁止 | フキノトウ | ドンデン山荘に着く。 ここからは回送した車で下山 |
トキの森公園 |
ドンデン山荘からの帰路、「トキの森公園」に寄る。ここにはトキ資料展示館、トキを観察できる飼育ケージ、繁殖ケージ、育雛ケージなどがある。 |
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トキ資料展示館入口 |
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トキの学名は、「Nipponia nippon」 属名nipponia、種名nipponで1属1種である |
トキのはく製 |
いわゆる「朱鷺色」の羽 伊勢神宮に20年ごとに奉納される須賀利御太刀 (すがりのおんたち)の柄の飾りに欠かせないもの |
佐渡芸能祭 |
宿への帰路、真野公園で開催されている「春の佐渡芸能祭」に立ち寄り、プログラムの後半「鬼太鼓」から鑑賞した。 |
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下の画像をクリックするとビデオをご覧になれます |
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鬼太鼓 | 相川甚句 | 相川音頭 | 佐渡おけさ* |
*佐渡おけさの歌詞はいろいろありますが、一例を示します |
3日目(4月26日) | 尖閣湾→平根崎→佐渡奉行所→佐渡金山→ホテル |
3日目は研究会の皆さんは、朝一番のフェリーで新潟に戻り、五泉市の「トゲソの観察」と「里山散策」を行ったが、私と妻はグループを離脱し、佐渡の自然と文化の探勝を続けた。五泉市の「トゲソの観察」と「里山散策」は、2年前にお世話になり十分に楽しんだからである。 |
尖閣湾 |
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佐渡市達者の集落 達者という地名は、厨子王丸と母が出会った場所に因む |
大佐渡の東海岸には段丘が多い。段丘の上にはこのように広い水田もある。 |
安寿と厨子王の物語 その昔、悪者の陰謀で離ればなれになった父を訪ねて、母と安寿姫と厨子王丸は遠く越後にたどり着いた。母子三人は人買いにだまされ母のみが佐渡へと売られてしまい、母は朝から晩まで働かされ、とうとう目が見えなくなってしまった。 人買いから逃れ、母を助けようと安寿と厨子王は二手に分かれ母を探した。安寿は年老いた母を見つけかけよったが、いたずらと勘違いした母は安寿姫を殴りつけ殺してしまった。後に実の娘と知った母は泣き崩れてしまった。 せめて厨子王に逢いたいと願い、母は相川へと向かい、ようやく厨子王に逢うことができた。二人は「逢えて良かった」「達者で良かった」と喜び合い、近くに湧き出る清水で母の目を洗ってあげたところ目が見えるようになったと伝えられている。厨子王と母が出会った場所が今も「達者」と呼ばれ、地名として残っている。 |
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尖閣湾は、昭和9年文部省より名勝地に指定された。断崖絶壁に無数の岩礁が発達している。この岩礁は珊瑚礁の名残といわれる。 |
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海が荒れていて、尖閣湾の船着き場に船はいない | 海中透視船は陸に揚げられていた |
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「君の名は」は菊田一夫の代表作。1952年にラジオドラマで放送され、「番組が始まる時間になると、 銭湯の女湯から人が消える」と言われた。 後に、主演岸恵子と佐田啓二で映画化された。 |
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灯台 | 水族館兼資料室 | 岸恵子と佐田啓二 |
平根崎 |
平根崎には天然記念物の海食甌穴があるというので、尖閣湾からさらに足を伸ばした。 |
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ウミネコであろうか、遠目であるが枕状溶岩も見られる | コンブを干すためのコンクリート台 |
幾重にも重なった溶岩に断層が見られる |
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平根崎の海岸は砂質石灰岩で出来ていて、1600~1500万年前の温暖な時代の貝の化石も含まれるという。 一度岩の弱い部分に窪みができると、そこに石が入り、波で石が回転すると窪みがだんだん大きくなる。 こうしてできた窪みを「甌穴(ポットホール)」という。平根崎の海食甌穴は国の天然記念物に指定されている。 |
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不思議な「緑色の岩」 変質した安山岩溶岩であろう。だとすれば、この中にできた石英脈中に金銀が含まれる。 |
今にも落ちそうな「はさみ岩」 |
相川の二見半島付近には海成段丘(海岸段丘)が多くみられる。平らなところは沼や水田になっている。 |
A | 海成段丘はどのようにしてできるか 海の底の岩盤の上に堆積物が貯まる。海水面は、氷期と間氷期で変動するし、海岸の隆起でも変動する。 その結果、1段あるいは数段の段丘ができる。 左の図は福井市自然史博物館ホームページから引用 |
大佐渡をGoogle Earthで3D表示してみると、二見半島に海成段丘が認められる |
佐渡奉行所(復原) |
慶長6年(1601年)の佐渡金山開山に伴い、相川は幕府直轄の天領となり、慶長8年(1603年)に佐渡奉行所が建てられた。その後何度か焼失したが、安政5年(1858年)頃に建てられた奉行所を基に復原されている。佐渡奉行所には、一般の奉行所と異なり、役所と役宅と工場がある。 |
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ここは廊下であるが、畳が敷いてあり、 右の部屋との間の襖をとるとさらに広く使える |
廊下の右側にある大広間 一段高いところが奉行の座る上之間 |
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訴訟犯罪等の審理を行う法廷。庭に砂利を敷き詰めていたのでこの名がある。 被疑者の百姓・町人・下級浪人はその上にむしろを敷いて座った。 |
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奉行所跡を発掘調査した後、1mの深さに埋め戻され、 その上に建物が復原された |
発掘で見つかった鉛板 金の精錬に使用された |
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金銀を含んだ鉱石を選別する施設が復原されている |
時鐘楼(じしょうろう) 18世紀から明治の初頭まで200年にわたり、相川に時刻を知らせてきた鐘楼。 鐘は佐渡で産出された銅で鋳造され、高さ1.5メートル。 |
佐渡金山 |
佐渡金山は、慶長6年(1601)佐渡金山の山向こう鶴子(つるし)銀山の山師3人によって発見され、以来、江戸時代を通じて徳川幕府の財政を支えた。明治に入ると、国内主要鉱山として一早く官営化・近代化され、我が国の模範鉱山となった。明治29年(1896年)三菱合資会社に払い下げられた。 金鉱脈は、東西3,000m、南北600m、深さ800mの範囲に分布し、坑道の全長は400kmに達する。平成元年(1989)の操業停止に至るまで、388年間に生産された金は78トン、銀は2,330トンに上り、日本最大級の産出量を誇る金銀山である。 佐渡鉱山において我が国で初めて実用化された技術には、火薬による採掘、削岩機、空中ケーブル、アセチレン灯などがあり、産業遺跡としても興味深い。 |
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宗太夫坑コース |
宗太夫坑(そうだゆうこう)は、江戸時代初期から開発された富鉱の一つ「青盤脈」の採掘跡。江戸期の旧坑でみられる諸条件を備えており、斜坑は海面下に達している。国指定の史跡となっている。 |
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鉱山では湧水を汲み出すため、 水上輪と呼ばれる手回しポンプが使われた。 |
坑内の酸素欠乏を防ぐため唐箕(とうみ、送風機)を回した。 |
水上輪 紀元前3世紀にアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプ。 動作原理は、螺旋によって水を押し上げる。 右の図はWikipediaから引用 |
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休憩所 採掘作業は4時間ごとの交代制であった。金穿大工は 他の坑内労働者と違い、技術者として処遇されていた。 |
狸穴(たぬきあな) 人一人がやっと通れるだけの狭い坑道。試し掘りにも使った。 |
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宗太夫坑の出口 | 宗太夫坑を出ると、ミュージアムに通じる |
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佐渡の金鉱石は、白い石英の中の黒い部分に金と銀が含まれている | 精錬や金貨の計量の様子が、精巧な人形で展示されている |
道遊坑コース |
道遊坑(どうゆうこう)は、明治以降平成まで使用された坑道。出口に往時を偲ばせる機械工場もある。 |
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明治32年開削された主要運搬坑道で、 平成元年の操業停止まで使われた |
ここにも狸穴が |
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明治時代の初代佐渡鉱山局長・大島高任を祀る高任神社 神社の背後は「道遊の割戸」 |
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↑ヒトリシズカ ↓スミレ | ||||
佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」は、江戸時代は露天掘りで、明治以降は機械掘りで掘り尽くされた。今は野の花が静かに咲いていた。 |
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高任立坑 | 機械工場と機関車 機械工場の屋根瓦(上は官営時代の菊紋、下は民営時代の三菱マーク) |
産業遺産散策コース |
かねてから見たいと思っていた佐渡金山の産業遺産を、我々2人だけで、案内付きで見学した。 |
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道路から眺める大立竪坑の やぐら(高さ15m)と鉱倉 |
鍵を開けてもらって、 やぐらに入る |
やぐらに設けられたエレベータの穴は、今は危険防止のためコンクリートの床で塞がれている | 操業中は、ここに2基のエレベータがあった。竪坑の深さは352m |
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2台のエレベータで、作業員の出入りと鉱石を積んだ鉱車の 運び上げをする (他の鉱山の古い写真を見せて頂いた) |
鉱車で運ばれた鉱石はここから鉱倉に落とされる |
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エレベータを駆動する複胴型巻揚機 | 電動機? | 採掘に使用する圧縮空気を作る200馬力圧縮機 |
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巻揚げ室の入り口に見られる佐渡金山の典型的な金銀鉱脈。白色の石英脈中に銀黒帯がある。 | 経済産業省の「近代化産業遺産」と 文化庁の「登録有形文化財」のプレート。 ニュアンスは少し異なるが、 同じようなことを2つの省庁でやっている。 |
無宿人慰霊碑 水替人足として佐渡に送られた無宿人は、流刑とは関係なく罪のない人たちだった。幕府は、江戸の治安対策のため無宿人を水替人足として佐渡に送った。幕末までに送りこまれた無宿人は総勢1874名と記録されている。 |
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破砕場 運ばれてきた鉱石をクラッシャーで径15cm以下に破砕する | 破砕された鉱石はベルトコンベアで貯鉱舎へ運ばれる |
容量2500トンの貯鉱舎 ここから北沢選鉱・精錬所に運ばれる |
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北沢火力発電所跡 (現在は資料館) 明治40年建設の佐渡で最初の火力発電所(出力500kW) それまでは15kWの水力発電所のみ |
馬による鉱車の牽引 明治2年に軌道が敷かれたが、 この時期にはもっぱら人力と馬が使われた |
「道遊の割戸」の露天掘採掘 佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」は、佐渡金山で最も厚い鉱脈。明治、大正、昭和に採掘された |
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浮遊選鉱場・精錬所跡 昭和13年から、国を挙げて金の大増産が始まると、北沢地区には鉱石処理能力月間7万トンの「東洋一の浮遊選鉱場」が建設された |
シックナー 精錬過程で鉱石と泥を分離するための施設。 現在残るのは直径50mのもの |
ホテル 「万長」 |
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相川で老舗のホテル万長 |
ホテルから見る相川の甍 金山で栄えた人口密集地であるので道路を挟まずに家が接している。このため江戸時代以降何度も大火に見舞われた。 |
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客室から、遊覧船も欠航する荒波を眺める |
ホテル内の美術館 白石や良寛の書、切手にもなった長井亮之の朱鷺の日本画などが展示されている |
4日目(4月26日) | 佐渡博物館→妙宣寺→佐渡国分寺→佐渡国分寺跡→順徳天皇火葬塚→ 佐渡歴史伝説館→八幡若宮神社→両津からフェリー |
佐渡博物館 |
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佐渡博物館への路上で見た鬼太鼓 祭の行事として各家を回る |
佐渡博物館は、佐渡島の成り立ちを示す岩石や化石。 豊かな自然にはぐくまれた動植物と海洋生物。 縄文時代から古代へとつながる考古学上の遺跡。 さらには歴史上、多くの貴人、文化人が流され独自の文化を育てた佐渡。
そして桃山から江戸時代にかけてわが国の財政の源となった金銀山の開発など。 佐渡の持つ貴重な自然、風土、考古、歴史、美術、芸能などの資料を総合的に収集、紹介する総合博物館です。 (佐渡博物館のホームページから要約) |
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小規模の博物館だが、なかなか充実している | 瓶と深鉢 (縄文時代) | 佐渡国分寺瓦 (奈良・平安時代) |
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佐渡金山の出来方を示す図 普通の岩石に含まれる金は平均で1トン当たり0.001グラムであるが、金鉱石には10,000倍も多く金が含まれる。これはマグマで熱せられた水(熱水)が金などの金属を岩石から溶かしだし、濃縮したからである。 |
金鉱石のサンプル |
妙宣寺 |
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文政8年(1825年)建立の五重の塔は、新潟県唯一のもの。 下の2層は親の作、上の3層は子の作で、両者に作風の違いがみられるという。 |
佐渡国分寺 |
佐渡国分寺は、天平13年(741年)、聖武天皇の詔により諸国に1寺ずつ建てられた国分寺の1つ。 現国分寺は江戸初期の建立と思われる。 この西側に当時の国分寺の基石群が残っている。 |
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仁王門は延宝5年(1677年)の建立で当寺最古の建造物。 作風が洗練されていないので、地方仏師の作と思われる。 |
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客殿は文化8年(1811年)の再建で、本尊不動明王が祀られている | 瑠璃堂は寛文6年(1666年)の再建で、本尊薬師如来が安置されている |
佐渡国分寺跡 |
国分寺跡は、現国分寺の西隣にある。当時の国分寺の遺構がこれほど残っているのは珍しいといわれている。 |
金堂、廻廊、中門、南大門、塔、新堂、それぞれの基石群が残され、往時を偲ぶことができる |
順徳天皇火葬塚 |
百人一首の「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり(順徳院)」で知られる第48代順徳天皇は、後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒に参加し、承久の乱を引き起こした。変の後、佐渡へ配流となり、1242年この地で崩御し、京都の大原陵に葬られた。ここには火葬塚がある。 |
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火葬塚とはいえ、立派なものである |
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宮内庁が管理しており、陵(みささぎ)並みの監視下にある |
承久の乱 鎌倉時代の承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵をあげて敗れた兵乱である。承久の変ともいう。 順徳天皇は倒幕に積極的で、承久3年に仲恭天皇に譲位し自由な立場になって積極的に進めた。上皇の挙兵は鎌倉軍に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。承久の乱の後、朝廷は幕府に完全に従属するようになった。 私は小学校の歴史で、「承久の変」と習った。当時の皇国史観の立場では、上皇が「乱」を起こすはずがないという思想的な立場からであろう。第二次世界大戦後は「乱」という表記が主流になっている。 Wikipediaを引用・改変した |
石抱の梅 |
順徳天皇御手植えと伝えられる梅・木の根元に大石を抱いているので、「石抱(いしだき)の梅」と名付けられる。 |
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佐渡歴史伝説館 |
真野公園にある佐渡歴史伝説館は、佐渡にゆかりのある順徳天皇・日蓮聖人・世阿弥の歴史や安寿逗子王・夕鶴の伝説を等身大のロボットと音と光で演じるもの。ロボットの精巧さには感心するが、いささか際物である。 |
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日蓮聖人 佐渡伝説の一場面 |
お土産の収益の2%は北朝鮮拉致被害者救出活動に寄付される。 ジェンキンスさんがここで働くようになってから、売上げが倍増したという。 |
八幡若宮神社 |
北 一輝(1883-1937)は、佐渡両津出身の思想家・社会運動家(弟の北昤吉は衆議院議員)。明治39年刊行の『国体論及び純正社会主義』の内容は、法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。
かつては右翼思想家として評価されることが多かったが、『国体論及び純正社会主義』は社会主義者河上肇に賞賛された。強権による改革の後には社会民主主義的な政体の導入を想定していた。こういった点は戦後のアメリカによる日本占領政策と共通するともいわれる。 |
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両津湊の八幡若宮神社に、兄の思想家北一輝(右)と弟の哲学者北昤吉(左)の彰徳碑がある |
思い出を残し、再びフェリーの「おけさ丸」で、佐渡を後にした |
ドンデン山の花を愛で、トキの里を見学し、佐渡の芸能を鑑賞し、佐渡金山を見学し、随所で地学観察をし、古代から現代に至る歴史を訪ねることができた。 4日間とは思えないほどの多くを学んだ素晴らしい旅であった。 |
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