山の辺の道----講演会「邪馬台国ヤマト説を検証する」、講演会「初期ヤマト政権の王墓群」、 纏向遺跡、黒塚古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、珠城山古墳群、山の辺の道 |
ピューリツァー賞を受賞したアフリカ系アメリカ人Alexander Palmer Haleyの小説 「ルーツ」が話題になったのは1976年であった。
誰にもルーツはあるが、なかなか発見することが困難であり、ルーツ探しはいつもロマンに溢れている。アメリカのような新しい国を除けば、国のルーツとて同じである。日本国のルーツ探しは、邪馬台国の卑弥呼という大ロマンに辿り着く。 幾度か計画しながら実現しなかった大和の「山の辺の道」探訪は、思いがけず、桜井市で開催される講演会と遺跡見学に妻と2人で参加する形で実現した。最近、卑弥呼の墓ではないかと考えられている箸墓古墳、多くの天皇陵や古墳を訪ねるという考古学ファンには垂涎の旅であった。 私が天皇陵に関心があるのを見て、「皇国史観ですか」といわれたことがある。私は冗談交じりに「いいえ、唯物史観です」と答えた。実はどちらでもない。ただ日本のルーツを知りたいだけである。同じような関心をお持ちの方々に、このホームページが少しでも参考になれば幸いである。 (2011年10月) |
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箸墓古墳 全長280mの我国最初の巨大前方後円墳は、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと考えられている |
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━━━ 今回の経路 山の辺の道 訪問地マップ 桜井市観光課発行 観光マップ{山の辺の道}を改変 |
1日目 10月8日 |
JR桜井駅→桜井市民会館(講演会)→纏向遺跡 →JR桜井駅→宿(泊) |
今回の旅の目的は、10月8日と10月10日に講演会と遺跡見学 (ガイドツアー)に参加し、中日の10月9日は気軽に「山の辺の道」を訪ねることである。 いよいよ第1日目が始まった。 |
講演会−邪馬台国ヤマト説を検証する− |
12:30〜13:40は、桜井市民会館のホールで、寺沢薫氏の講演を聴いた。 |
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JR桜井駅は近鉄も隣接している | 国道169号(バイパスでない方)は、ハナミズキ並木の紅葉が美しい |
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市役所に隣接する桜井市民会館が、講演会の会場 | イベント表に10/8と10/10の講演会が表示されている |
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寺沢薫氏 講演会は写真・録音禁止。この写真はWebsiteから引用した。 |
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桜井市民会館ホールの緞帳の図柄は三輪山と大神神社 (おおみわじんじゃ、三輪明神ともいう)、作者は平山郁夫 |
纏向の古墳巡り (ガイドツアー) |
石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳 |
これら4つの古墳は直径600mの円内にはいるほど集中している。いずれも前方後円墳で、築造時期も古墳時代前期初頭(3世紀前半)である。邪馬台国との関係が想像される。 |
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石塚古墳の後円部は、纏向小学校に 接している。右手が纏向石塚古墳 |
石塚古墳は全長約96メートルの前方後円墳。前方部からの写真。 高いはずの後円部が低く、だだっ広いのは、太平洋戦争末期に 後円部の墳頂部が削平され、そこに高射砲台が築かれたからか。 |
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纏向小学校の正門前を通って、 勝山古墳に向かう。 |
勝山古墳は全長約110メートルの前方後円墳。周濠は幅約25メートル。 築造は古墳時代前期初頭(210年頃か)で、卑弥呼の父の墓だという説がある。 |
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矢塚古墳は全長約96mの前方後円墳 築造は古墳時代前期初頭 |
東田大塚古墳は全長約96m(2007年の調査では推測110mの 前方後円墳。築造は古墳時代前期初頭。左遠方は三輪山 |
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歩道橋の上から眺める箸墓古墳 | 遠望するホケノ山古墳 |
ホケノ山古墳 |
ホケノ山古墳は、上の4つの古墳から1000mほど離れていて、箸墓古墳のすぐ隣にある。築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。 |
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ホケノ山古墳は全長約80mの前方後円墳。後円部は3段築成。築造時期は遺物や埋葬施設から 3世紀中頃と考えられる。墳頂部の中央から埋葬施設である「石囲い木槨」が出土し、復元されている。 |
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後円部に登る | 後円部の墳頂に立つと、目前に箸墓古墳の後円部が見える |
箸墓古墳 |
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳ともいう)は全長約280mの前方後円墳で、纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、最大最古級と考えられている。日本書紀には、昼は人が造り夜は神が造ったと記されている。 宮内庁では、第7代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の叔母であった倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓として陵墓に指定している。一切の立入調査が制限されているが、過去の周辺部の調査から3世紀後半の築造と考えられる。 |
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北西方向から周濠越しに眺める箸墓古墳(左が後円部、右が前方部) | 樋口隆康氏筆の歌碑 |
大坂に継ぎ登れる石群を 手ごしに越さば越しのてむかも 日本書紀 崇神紀 大坂山に人々が並んで登って、たくさんの石を手渡していけば渡せるだろうなあ |
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西側の正面に回ると、陵墓並みの厳重な管理である | 大市は古墳のある地名。 |
箸墓の由来 |
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形となって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。 (Wikipediaによるチャンポン現代語訳) |
帰路に西側から眺める。左に正面の鳥居が見える。 |
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ちょうど三輪山から月が昇ってきた | 箸中バス停から奈良交通バスで桜井駅前の宿へ |
箸墓古墳は卑弥呼の墓か |
この箸墓古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王「卑弥呼」の墓とする向きもある。従来、箸墓の構築年代が3世紀末から4世紀初頭であり卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半との時期にずれがあるためその可能性は少ないといわれてきたが、最近年輪年代法や炭素年代測定法による年代推定を反映して古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となってきた。箸墓古墳の築造年代は研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が有力になっている。 |
2日目 10月9日 |
JR桜井駅→桜井市立埋蔵文化財センター→天理市立黒塚古墳展示館→黒塚古墳 →石上神宮→山内永久寺跡→夜都伎神社→竹之内環濠集落→大和古墳群 →衾田陵→燈籠山古墳→念仏寺→大和神社御旅所→長岳寺→JR桜井駅→宿(泊) |
2つの講演会・ガイドツアーに挟まれた今日2日目はフリーである。午前中は、桜井市立埋蔵文化財センターと天理市立黒塚古墳展示館を見学し、午後は時間の許す範囲で「山の辺の道」を散策することにした。 |
桜井市立埋蔵文化財センター |
桜井市立埋蔵文化財センターでは、「ヤマトの王と居館」と題した特別展を開催していた。纏向遺跡等の発掘調査の成果を示す素晴らしい展示であるが、このホームページではその中のごく一部を紹介する。 |
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JR三輪駅で降り、徒歩で20分ほどで桜井市立埋蔵文化財センターに着く |
埋蔵文化財センターの展示室入口 |
縄文・弥生時代の遺物 |
縄文時代の土器と石器 |
弥生時代の土器と装飾品 |
弥生時代の木製品、金属器、石器 |
纏向遺跡の居館 |
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166次調査(2009年)で検出された建物跡 | 卑弥呼が住んでいたかもしれない建物の復元模型 |
辻地区の遺構配置地図 建物B、C、Dは柱列(柵)の内側(内郭)にあり、首長のための空間と考えられる。大型建物Dは、南北19.2m、東西12.4mの規模に復元された。これは当時の日本列島における最大の規模である。 |
ヤヨイからマキムクの時代へ 弥生時代を通じて活動が繰り広げられた拠点集落は、2世紀末から3世紀初頭になると規模が小さくなっていく。このような集落構造の変化は、それまでの弥生社会の枠組みが崩れたことを表すとともに、新たな古墳社会の幕開けを告げるものと考えられる。 弥生集落が衰退に向かうちょうどその頃、入れ替わりに出現するのが纏向遺跡である。弥生時代には集落がなかった場所に突如として直径1kmと当時としては国内最大の規模を持つ巨大な「マチ」が出現した。それは、今までの農耕的色彩の強い弥生時代集落のような自然発生的なものではなく極めて強い政治的な意図のもとにつくり上げられたマチであると考えられる。 そういえば、纏向には農耕の遺構はなく、出土土器の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達する。これらのことからも当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。 |
箸墓周辺の再現模型(地名、遺跡名等を加筆した) 縄文時代には大阪湾は大阪平野の奥深くまで入り込んでいた(河内湾)。弥生時代になると、河内湾は淡水化し、河内湖となった。古墳時代には、大和川(上流は初瀬川と呼ばれる、纏向川はその支流)は河内湖に注ぎ、瀬戸内海から大和まで船で遡上できた。纏向には川の他に運河も作られていたようだ。 |
纏向遺跡の出土品 |
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祭祀用の土器とともに、2765個の桃の種が出土した | 砥石、鞴羽口(ふいごはぐち)、鉄滓など鍛冶関連の遺物 |
桃の種は、祭祀のお供え物が埋められた可能性が高いとみられる。桃の種と一緒に約10種類の魚や動物の骨、約70種類の植物の種が見つかった。骨や種が出土したのは、3世紀前半としては全国最大の建物跡の南約5メートルの所。 |
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家屋文鏡 | 家形飾環頭 | 木製仮面 |
木製仮面は国内最古で、これまでの例を約400年遡るという。仮面はアカガシ製で、縦26センチ。未使用の鍬の刃を転用したと見られ、柄を差し込む穴を口に、柄の支え部分を鼻にしていた。仮面をつけて踊る呪術師の姿をほうふつとさせる。古代祭祀の具体像を知る一級資料である。 |
黒塚古墳と天理市立黒塚古墳展示館 |
天理市立黒塚古墳展示館 |
天理市立黒塚古墳展示館には出土した33枚の三角縁神獣鏡(レプリカ)が展示されている。これらの鏡は中国の魏で作られ、卑弥呼に与えられたものとの期待がある。初期ヤマト政権や邪馬台国との関係は今後解明されて行くことであろう。 |
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黒塚古墳と展示館は柳本公園のなかにある。 | 天理市立黒塚古墳展示館 |
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案内して下さったボランティア解説員 | 復元された黒塚古墳の竪穴式石室と副葬品 |
竪穴式石室は、黒塚古墳の後円部の中央にあり、前方後円墳の主軸に直交して造られ、全長約8.3m。石室中央には長さ6m、直径1m以上の桑の巨木をくり抜いた木棺が使用されて、木棺の中央は水銀朱が、両端はベンガラが施されていた。現在は木棺は腐り、粘土の棺台が残っている。石棺から出土した三角縁神獣鏡は33面で、その数は発掘調査で出土した枚数としては日本一となった。 |
以下の4枚の画像は、黒塚古墳展示館のパンフレットより | ||
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8号鏡 三角縁神人龍虎画像鏡 | 30号鏡 三角縁獣帯四神四獣鏡 |
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8号鏡の神人 | 30号鏡の神仙 |
黒塚古墳 |
黒塚古墳は、全長約130mの前方後円墳、築造は3世紀末〜4世紀前半。珍しく盗掘を逃れ、33枚の三角縁神獣鏡が出土したことで有名。これは室町時代の後期に砦として利用されたためである。1577年(天正5年)には織田信長による激戦地となったが、破壊を免れた。 |
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黒塚古墳へは、前方部からではなく、渡土堤を通って後円部から入る。周濠もよく保存されている。 |
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後円部の中央に復元された石棺 |
後円部から周濠越しに南方を見る。 遠方の山は大和三山。手前の家並みはかつての武家屋敷跡か。 |
大和三山は、右から畝傍山、耳成山、天香久山(森の蔭になっている) |
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後円部の高さ11mに対して、前方部の高さは6mと低く、落差が大きい | 南側の周濠越しに見ると、前方部と後円部の落差がよく分る |
山の辺の道 (石上神宮から長岳寺へ) |
朝から桜井市立埋蔵文化財センターと天理市立黒塚古墳展示館を見学したら早くも昼になった。JR桜井線で天理まで行き昼食を摂った後、タクシーで天理教本部の前を通り、石上神宮に向かった。 |
石上神宮(いそのかみじんぐう) |
石上神宮は、日本最古の神社の一つで神剣・布都御魂を祀っていること、百済国王から送られた七支刀を収蔵していること、ヤマト政権の武器庫であったこと、古代豪族であった物部氏の総氏神であったこと、などで知られる。天理市から桜井市への「山辺の道」の起点になる。 |
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JR天理駅 | 額束(がくづか)には「布都御魂大神」と記されている |
布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。荒ぶる神を退ける力を持つ。神武の治世にあっては、物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となったという。 |
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楼門 本殿はこの奥にあるが禁足地である | 拝殿 |
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山の辺の道の道標 | 古今和歌集 僧正遍昭の歌碑 | 山の辺の道は、東海道自然歩道の一部でもある |
里は荒れて人はふりにし宿なれや 庭もまがきも秋の野らなる 古今和歌集 巻4 僧正遍昭 親王の御宿となります我が家ですが、すっかり荒れてしまって、住む人も 年老いてしまった為でございましょうか、庭も垣根も秋の野となっております。 |
内山永久寺跡 |
内山永久寺は、鳥羽天皇(在位1107-1123年)の勅願により建立され、時の年号をとって「永久寺」と名付けられたという。明治の廃仏毀釈により堂塔全てが消失した。 |
寺跡に建てられた案内板の古い絵地図に往時が偲ばれる |
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柿本人麻呂の歌碑 | 芭蕉の句碑 |
娘子らが袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ思ひき我は 柿本人麻呂 万葉集 巻4 少女たちが袖を振る、布留の石上神宮の垣、その古い垣のように昔から変わらず、ずっとあなたを思っていた |
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伽藍のない寺跡では放生池が昔の名残である | 辺りの丘陵は果樹園や野菜畑になっている |
天理観光農園周辺 |
「山の辺の道」の道中の天理観光農園に「峠の茶屋」がある。辺りはのどかな果樹園風景である。 |
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竹林の道を行く | 十市遠忠の歌碑 |
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天理観光農園の峠の茶屋 | 柿の木と風情のある民家 |
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これは渋柿なんですよと言いながら収穫するおじさん | 蜜柑の木も |
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ここでは申し合わせて休耕地にコスモスを咲かせている | 稲刈りをする夫婦 |
夜都伎神社 |
夜都伎神社(やつぎじんじゃ、「やとぎじんじゃ」ともいう)は、春日大社との関係が深く、春日大社から、古くなった社殿・鳥居を60年毎に夜都岐神社に下賜して使用させる伝統があるという。 |
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廣瀬東畝の歌碑 | 夜都伎神社の石の鳥居 |
山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木(をとぎ)の鳥居 朱(あけ)に立つ見ゆ 廣瀬東畝 山の辺の道はのどかにずーっと続いてます |
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拝殿は、この地方では珍しい萱葺である。燈籠が4つも | 拝殿の奥に本殿 |
竹之内環濠集落 |
奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが多い。大和では、室町時代になると動乱による影響を受け、自衛手段として濠を作ったものと思われる。現在では灌漑用に転用されたものが姿を留めている。一般に環濠集落は低地で発達した集落形態で、竹之内町のように標高100mの山麓に立地するものは県下でも少ないという。 |
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残された環濠 | 馬で山の辺の道を闊歩する人 |
大和古墳群とその周辺 |
大和古墳群は奈良盆地東南部の東山麓沿いにある古墳群。その周辺を散策した。 |
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石と瓦積みの塀、伝統料理屋さんだった | 鬼 | 福の神? | 龍 |
案内板に分りやすい地図があったので、写真に撮る 奈良盆地東南部の東山麓沿いには、古墳出現期から前期にかけての大型古墳が多数存在する。この中で、最北部に位置し、成願寺町付近に点在する古墳群が大和古墳群である。最古級のノムギ古墳、最大規模の西殿塚古墳などの前方後円墳があり、古墳の成立過程を知る上で重要と考えられるという。 |
西山塚古墳は、周濠を持つ全長114mの前方後円墳、継体天皇の后である手白香皇女墓と推定する考えがある |
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柿本人麻呂の歌碑 |
五社神社とはいえ、武甕槌命、 比淘蜷_の四柱を祀る。明治に合祀、戦後再興されたもの。 |
あしひきの山川の瀬の響るなべに 弓月が嶽に雲立ち渡る 柿本人麻呂 万葉集巻7 山から流れ落ちてくる川の瀬の音が高くなり響くにつれて 弓月嶽には一面に雲が経ち渡ってゆく |
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衾田陵(西殿塚古墳) |
衾田陵(ふすまだのみささぎ)は、全長230mで、大和古墳群では最大の前方後円墳である。 |
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遠くに古墳の正面の礼拝所が横向きに見える | 畑の中に衾田陵の道標が建っている |
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衾田陵正面の礼拝所 宮内庁では手白香皇女(たしらかのひめみこ)衾田陵として管理しているが、 先に述べたように、年代的な整合性から西山塚古墳の方が手白香皇女墓であると推定する考えもある。 |
燈籠山古墳 |
燈籠山古墳は、全長110mの前方後円墳。念仏寺の墓地内にある。 |
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ルートをはずしたかと思ったころに案内板が出る | 墓地の向うに後円部が見える |
墓地の横に大きな濠があるが周濠ではなさそうだ |
念仏寺 |
浄土宗の大塚山宝性院念仏寺で、15世ごろまで存続し今は廃寺となっている中山寺の一坊であったと伝えられている。 |
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念仏寺の山門 | 本堂にお参りする若い人 |
大和神社御旅所 |
大和神社御旅所は、大和神社の境外摂社で、御旅所坐神社、大和稚宮神社ともいう。ここは中山廃寺跡でもある。 |
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大和神社御旅所は、御旅所坐神社、大和稚宮神社ともいう | 柿本人麻呂の歌碑 |
A | 衾道を引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし 柿本人麻呂 万葉集巻2 衾道を 引き手の山(竜王山)に 妹の屍を置いて 山路を帰ると 生きた心地もない。 |
長岳寺 |
長岳寺は、真言宗の寺である。淳和天皇の勅願により、天長元年(824)に空海が精舎を建てたものがもとであるという。山辺の道で唯一拝観料を払ったが、それだけの値打ちのある名刹である。かつては龍王山城への登山口として武士や僧侶が滞在した。 |
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大門 | 鐘楼門は創建当時の唯一の遺構 | 夕陽に映えた萩の花 |
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本堂の前には苑池が広がって いるのだが、写真に撮れなかった |
大師堂 |
石棺仏 鎌倉時代後期と思われる稀な石仏 |
長岳寺拝観の後、上長岡バス停から桜井駅前の宿に帰った。 |
3日目 10月10日 |
JR桜井駅→大神神社→平等寺→磯城瑞籬宮跡→金屋の石仏→海柘榴市観音堂 →仏教伝来之地→桜井市民会館(講演会)→天理市立黒塚古墳展示館→黒塚古墳 →崇神天皇陵→景行天皇陵→額田王歌碑→珠城山古墳群→JR桜井駅 |
山の辺の道 (大神神社から仏教伝来之地へ) |
大神神社(おおみわじんじゃ) |
大神神社と書いて「おおみわじんじゃ」と読ませる。日本最古の神社といわれ、本殿はなく三輪山が御神体。大三輪の神は国造りの神様、また医療・酒造り・方除等人間生活全般の守護神とされ、延喜式名神大社であり、大和の国一の宮として崇められている。また、俗に三輪明神として親しまれている。 |
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JR桜井線の三輪駅で下車 | 一旦国道169号の一の鳥居まで戻ると、三輪山が見える |
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酒栄講(さけさかえこう) | 二の鳥居の額束(がくづか)には「三輪明神」と記されている |
酒栄講とは、大神様と杜氏の祖神の御神徳を慕う全国の酒造家の集まり。毎年、11月14日の「醸造安全祈願祭」(酒まつり)には、酒栄講の講員が御神前に集う。その前日には、大神神社の拝殿の正面に掲げられる大杉玉が新しいものに掛け替えられる。「味酒(うまさけ)」は三輪の枕詞である。 | A |
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掃き清められた参道 | 独特の注連縄の三の鳥居 |
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豪華絢爛な拝殿 |
正面に掲げられた大杉玉(150kg)。今は枯れた色だが11月13日には新しい緑のものに掛け替えられる。 |
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樹齢350年の己の神杉(みのかんすぎ) | 山の辺の道に戻る |
巳(みー)は、ヘビのこと。三輪山の霊威である大物主大神は蛇の形で信仰される。蛇神は酒造の神としても崇められる。 | A |
平等寺 |
平等寺は大神神社の神宮寺(神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた寺院)であったが、明治の廃仏毀釈で廃墟状態となったがその後復興された。 |
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山門 | 左から本堂、不動堂、二重塔釈迦堂 |
磯城瑞籬宮跡(しきのみずがきのみやあと) |
磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都。現在、磯城瑞籬宮は桜井市金屋にあったとものと推定されている。志貴御県坐神社には大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられた。 |
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竹林の道を行く | 崇神天皇磯城瑞籬宮跡は志貴御縣社となっている |
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拝殿 | 裏に回ると本殿。宮内庁の管理らしい物々しさ。 |
金屋の石仏 |
2枚の泥板岩(石棺の蓋)に刻まれた浮き彫り(レリーフ)は重要文化財。三輪山中腹に安置されていたが、明治初年の神仏分離により現在地に移したという。制作年代:平安初期〜鎌倉といわれている。金屋はここの地名。 |
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石仏を安置した収蔵庫の鉄格子の間から写真を撮る | 右は釈迦如来像、左は弥勒菩薩像といわれている |
海柘榴市(つばいち)観音堂 |
海柘榴市は、古代から栄えた交易市。大陸からの使節も大和川の舟運を利用して、この地まで遡った。この市は歌垣でも有名で、人々は歌を通じて愛を交歓した。 |
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建て替えられた観音堂、ここでも格子の間から撮らせてもらう | 中央の二体の石仏が、十一面観音と聖観音だそうだ |
海柘榴市に因んだ歌垣の例 紫は灰さすものぞ、海石榴市(つばいち)の、八十の街に逢へる子や誰れ 万葉集 巻12−3101 この海石榴市(つばいち)の道で出会った君の名を教えて欲しい たらちねの、母が呼ぶ名を、申(もう)さめど、道行く人を、誰れと知りてか 万葉集 巻12−3102 母が呼ぶ(私の)名をお教えしたいけれども、通りすがりの人が誰かは分からないのでお教えできません |
仏教伝来之地 |
ここ一帯は古代ヤマト政権の中心地で、舟運の終着地であった。仏像と経論を携えた百済聖明王の使者も上陸の第一歩をこの地にしるしたということで、大和川河畔に佛教傳来之地の碑が建っている。日本書紀には欽明天皇13年(552年)に伝来したと記されているが、最近の研究では宣化天皇3年(538年)が有力であるという。私は国民学校で、紀元1212年(仏教はイチニ! イチニ!)と教わったので、西暦552年説であったことになる。 |
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佛教傳来之地と彫られた立派な石碑 | 大和川(この辺では初瀬川という)に架かる馬井手橋 |
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馬井手橋から大和川の上流を見る | 下流を見る。この先が難波津(今の大阪平野)である。 |
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歩道にはめ込まれた絵タイル |
佛教傳来之地碑に別れを告げ、タクシーで午後の講演会場「桜井市民会館」に向かった。 |
講演会−初期ヤマト政権の王墓群− |
先程も述べたが、今回の旅の主たる目的は、10月8日と10日の講演会と遺跡見学 (ガイドツアー)に参加することである。10日午前中の気軽な「山の辺の道」散策を終え、2回目の講演会に臨んだ。 |
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菅谷文則氏 講演会は写真・録音禁止。この写真はWebsiteから引用した。 |
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山の辺の道・古墳巡り (ガイドツアー) |
黒塚古墳と天理市立黒塚古墳展示館 |
博物館は団体見学に適しないので、前日に個人的に済ませておいた。したがって、黒塚古墳と展示館の説明は2日目に掲載し、ここでは省略する。 |
崇神天皇陵(行燈山古墳) |
行燈山古墳(あんどんやまこふん)は、天理市柳本町に所在する古墳時代前期の全長242mの前方後円墳である。三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。初期ヤマト政権の大王陵である。 幕末の文久の修陵の開始時には、本古墳が景行天皇陵だったのが、修陵事業の完成直前の1865年(慶応元)に、崇神天皇陵に取り替えられた。これなどは、考古学の遺跡名に陵墓名を持ち込むと混乱を引き起こす原因になる好例であるといわれている。 礼拝所に続く参道の両側に2基の陪塚があり、やはり前方後円墳である。北側が北アンド山古墳(全長120m)、南側が南アンド山古墳(全長60m)である。 |
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正面の礼拝所から古墳前方部を見る。 碑は「崇神天皇山邊辺道勾岡上陵」となっている |
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周濠越しに見る正面の礼拝所 | 古墳後円部 |
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周濠の堤から景行天皇陵を望む | 万葉集歌碑 |
玉かぎる夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく 作者不詳 万葉集 巻10 夕方になってくると、弓月が岳に霞がたなびいているよ |
崇神天皇と神武天皇は同一人物か? 日本書紀や古事記によると、神武天皇東征の際に一行が熊野山中で難渋していたとき、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、八咫烏(やたがらす、日本サッカーのサムライジャパンのロゴマークになっている!)に化して一行を宇陀まで先導した。そのころ磯城の地を支配していたのは、兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)という兄弟だった。彼らを帰順させなければ、一行は大和に入れない。そこで、八咫烏は天皇の使者として磯城に赴き、二人に降伏を勧めた。兄磯城は勧告に応じず結局戦闘で殺されてしまう。 戦後の日本史では10代、崇神天皇に先行する神武天皇から9代開化天皇までは、記紀編纂の都合上創作された架空の天皇であるとされており、大和朝廷の創始者を崇神天皇に求める研究者も少なくない。すなわち、崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説である。 |
景行天皇陵(渋谷向山古墳) |
渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)は、大和・柳本古墳群で最大の全長310mの前方後円墳である。宮内庁により景行天皇陵(山邊道上陵)に指定されている。江戸時代には崇神天皇陵と思われていた。築造年代は現在の崇神天皇陵とされる行燈山古墳より少し遅れた4世紀後半と推定される。 景行天皇は崇神天皇、垂仁天皇に続く12代天皇で、日本武尊の父。記紀の記事は多くが日本武尊の物語で占められ、景行天皇の実在性には疑問も出されている。 |
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崇神天皇陵から景行天皇陵までは約2km | 景行天皇陵に近付く。左が後円部、右が前方部 |
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周濠から見る後円部の一部 |
左の写真の撮影点。ガイドツアーでは正面の礼拝所には 行かなかったので、天皇陵を見たような気がしない。 |
日本武尊(やまとたけるのみこと) この物語は景行天皇陵と直接関係はないが、私のような古い世代が子供の時から親しんだ話なので、ここで紹介しよう。4世紀から7世紀ごろの数人の大和(ヤマト)の英雄を統合した架空の人物とされる。日本書紀と古事記でかなり記述が異なる。 日本武尊は、父景行天皇に九州の熊襲建(クマソタケル)兄弟の討伐を命じられる。西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。叔母倭姫命(やまとひめのみこと)は日本武尊に伊勢神宮にあった天叢雲剣(須佐之男命が出雲で八岐大蛇を退治したときに得た剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」という。相模の国で、野中で火攻めに遭ったとき、叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、天叢雲剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。以後、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになった。 相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして日本武尊の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら日本武尊に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。その後日本武尊は東国を平定して、四阿嶺(四阿山か)に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻(あづま)はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったという。 素手で伊吹の神と対決しに行った日本武尊は対決に敗れ、能煩野(三重県亀山市〉に到ってついに 「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」 以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなり、白鳥(ハクチョウではなく白い鳥)になって、大和を指して飛んで行った。 |
額田女王の歌碑 |
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景行天皇陵を過ぎて稲田から三輪山がよく見えるところに額田女王の歌碑がある |
うま酒三輪の山青丹よし奈良の山の山のまにい隠るまで道のくまいさかるまでに つばらにも見つつ行かむをしばしばも見さけむ山を心なく雲の隠さふべしや 万葉集 巻1 額田女王 懐かしい三輪山よ。この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、 また行く道の曲がり角が幾つも幾つも後ろに積もり重なるまで、 充分に眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山あるものを、 無情にもあんなに雲が隠してしまってよいものだろうか。 (反歌) 三輪山をしかもかくすか雲だにも 心あらなむかくさふべしや 万葉集 巻1 額田女王 名残惜しい三輪山をどうして雲があんなに隠すのか。 人はともかく、せめて雲だけでもやさしい情があってほしい。あんなに隠すべきであろうか。 |
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懐かしい稲木干し | 珠城山古墳群への途中に神籬が見られた |
神籬(ひもろぎ)は、神祭りの施設で神霊の降臨する依代(よりしろ)である。日本書紀にも記載があるという。 |
珠城山古墳群 |
珠城山古墳群は、古墳時代後期(6世紀)に築造された前方後円墳3基からなる古墳群で、発掘が行われた1・3号墳からは、環頭太刀や金銅装馬具などの豪華な副葬品が出土している。この地域を支配していた豪族が築いたものと思われる。国指定の史跡。 |
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道路から鈴なりで登る | 1号墳と2号墳の鞍部から2号墳に登る | 2号墳の後円部から前方部を見る |
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1号墳には横穴式石室が見られる。墳頂には後世のお稲荷さんが祀られている。 |
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垂仁天皇纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)跡 この辺りが、「日本書紀」に「纏向に都し、珠城の宮という」と 書かれた第11代垂仁天皇の「纏向珠城宮跡」伝承地である。 |
国道169号のバス停「相撲神社口」から バスで桜井駅に行き、帰路に着いた。 |
かねてから訪ねたいと思っていた「山の辺の道」とその周辺の古墳群を回ることができ、満足感に満たされている。幸い天候に恵まれ、黄金色に輝く稲田をはじめ、日本の原風景に接した気分である。しかし残念ながら私の知識では、いささか消化不良のきらいは否めない。またの機会を期したいと思う。 なお、9年前の2002年に作成した古いホームページで恐縮ですが、下記の頁もご参照下さい。 タイトルをクリックして、ご覧になれます。 大和路(1)平城宮跡・奈良公園・西ノ京を訪ねる 大和路(2)聖徳太子ゆかりの地、斑鳩を訪ねる 大和路(3)万葉のふるさと、藤原・飛鳥を訪ねる |
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