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下仁田ジオパーク----跡倉クリッペ、中小坂鉄山、荒船山、蝉の渓谷、
          砥沢鉱山跡、青岩公園、はねこし峡、不通渓谷、妙義山


山はどうして出来たのか、この花はなぜここに咲いているのか、など自然を巡る不思議は果てしない。地質学・地形学、いわゆる地学は地味な学問であるが、最近「巨大地震」との関係で関心がもたれている。しかしそんな恐ろしいことではなくロマンを感じさせるテーマはないだろうか。

近年、地学を身近に感じさせるものとして、ジオパークなるものが登録されるようになった。ジオパークは、「地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、その他の自然遺産や文化遺産を有する地域が、それらの様々な遺産を有機的に結びつけて保全や教育、ツーリズムに利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組みである」といわれている。現在日本には15箇所の「日本ジオパーク」が認定されている。これとは別に、世界に27箇国87箇所に「世界ジオパーク」が認定され、その中の5箇所は日本にあるという。

2011年9月に認定された
下仁田ジオパークは、日本ジオパークの1つである。下仁田町といえば、葱(ねぎ)と蒟蒻(こんにゃく)で有名な群馬県の南西部にある人口約8000人の町であるが、今ジオパークで燃えている。

山の自然学を学習する会「山遊会」の45人の仲間と一緒に1泊2日の巡検に参加した。                             (2011年12月)
 
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   跡倉クリッペの滑り面
上盤はクリッペ(根なし山)である跡倉層(砂岩)、下盤は三波川結晶片岩である。
 
 
 
 
 
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ジオパークについて
Wikipediaなどによる
ジオパークとは
ジオパーク (geopark) とは、地球科学的に見て重要な自然遺産を含む、自然に親しむための公園である。
日本ジオパーク委員会 では「大地の公園」という言葉を使っている。「地質遺産」と訳されることがあるが、
誤訳である。ジオパークは、次の3つを目的としている。

 ・保全(conservation) : 地元の人たちが大地の遺産を保全する。
 ・教育(education) : 大地の遺産を教育に役立てる。
 ・ジオツーリズム(geotourism) : 大地の遺産を楽しむジオツーリズムを推進し、地域の経済を持続的な形
  で活性化する。

地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、その他の自然遺産や文化遺産を有する地域が、それらの様々な遺産を有機的に結びつけて保全や教育、ツーリズムに利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組み。2004年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の支援により、世界ジオパークネットワーク (GGN) が発足。ジオパークを審査して認証する仕組みが作り上げられた。ジオパークの活動は、ヨーロッパで始まり、ヨーロッパと中国に多くの GGN 加盟ジオパークがある。北アメリカ大陸とアフリカ大陸には、今のところジオパークはない。

日本では、2008年に国内の認定機関として日本ジオパーク委員会 (JGC) が発足。JGC が2008年に認定した地域により、2009年に日本ジオパークネットワーク (JGN) が設立された。JGN 加盟地域は、JGC の審査を受け推薦を受けると GGN 加盟申請を行うことができる。現在5か所が、GGNに加盟を認められ、「世界ジオパーク」となっている。
世界のジオパーク
GGN 加盟ジオパーク(いわゆる世界のジオパークは、2011年9月18日現在世界に27箇国87箇所あり、
そのうち下記の5箇所は日本にある。

 ・洞爺湖有珠山ジオパーク : 2009年8月認定(日本ジオパークには2008年12月認定)
 ・糸魚川ジオパーク : 2009年8月認定(日本ジオパークには2008年12月認定)
 ・島原半島ジオパーク : 2009年8月認定(日本ジオパークには2008年12月認定)
 ・山陰海岸ジオパーク : 2010年10月認定(日本ジオパークには2008年12月認定)
 ・室戸ジオパーク : 2011年9月認定(日本ジオパークには2008年12月認定)
日本のジオパーク
GGNに加盟していないが、JGN に加盟しているジオパーク(いわゆる日本のジオパーク)は2011年9月現在
15箇所ある。

 ・アポイ岳ジオパーク : 2008年12月認定
 ・南アルプス(中央構造線エリア)ジオパーク : 2008年12月認定
 ・恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク : 2009年10月認定
 ・隠岐ジオパーク : 2009年10月認定
 ・阿蘇ジオパーク : 2009年10月認定
 ・天草御所浦ジオパーク : 2009年10月認定
 ・白滝ジオパーク : 2010年9月認定
 ・伊豆大島ジオパーク : 2010年9月認定
 ・霧島ジオパーク : 2010年9月認定
 ・男鹿半島・大潟ジオパーク : 2011年9月認定
 ・磐梯山ジオパーク : 2011年9月認定
 ・茨城県北ジオパーク : 2011年9月認定
 ・下仁田ジオパーク : 2011年9月認定
 ・秩父ジオパーク : 2011年9月認定
 ・白山手取川ジオパーク : 2011年9月認定

今回は下仁田ジオパークを見学



下仁田町役場の屋上から見る跡倉クリッペ

今回の巡検でお世話になる下仁田町役場を訪ね、ご挨拶し、役場の屋上から跡倉クリッペを眺める。クリッペとは、岩体の上に別の岩体が押し上げられて載った地塊のこと。別名「根なし山」ともいう。

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バス2台で、下仁田町役場を訪問 町役場の玄関には、「ジオパークの下仁田町へ」のノボリ

町役場で下仁田ジオパークの皆さんの歓迎を受ける。
今回は、下仁田ジオパークにとって初めての大規模団体の受け入れということで、
下仁田町役場屋上の開放、町内での分宿、ガイドがバスに分乗して解説するなど
多数の新しい試みをして下さった。

町役場の屋上から眺める跡倉クリッペ群。生憎ガスが掛っているが、かえって幻想的である。
これらの山々は離れた場所にあったものが、ここに移動してきたのだが、どこから来たのか分らない。
下盤は三波川結晶片岩、上盤の山々は跡倉層の跡倉礫岩や石英閃緑岩などであるという。

 離れた場所から移動してきた部分(クリッペ)            「下仁田町と周辺の地質」より

クリッペ(Klippe、ドイツ語、根なし山ともいわれる)。地質学上の用語。水平に近い低角度の衝上断層によって移動してきた岩体(ナップ)が、侵食作用によって本体から切り離されて孤立した地塊。したがって、新しい岩石からなる山体の上に山頂部にだけ古い岩体が乗ることになる。ヨーロッパ・アルプスのものが有名で、日本では関東山地の跡倉ナップに伴うものや、九州の延岡(のべおか)衝上断層に伴うものが知られている。   日本大百科全書(小学館)より



下仁田町自然史館

下仁田町自然史館は、今は学校移転で廃校となった下仁田青倉小学校校舎を利用している。ここを活動拠点とした下仁田自然学校は1999年に設立された。下仁田が日本ジオパークに選定された背景には地元の長い努力と熱意があったのだろう。

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町役場から2kmほど離れたところにある下仁田自然史館へ。
ここは2011年6月までは、下仁田青倉小学校だったところ。
下仁田小学校新校舎へ引越したため、今は下仁田自然史館となっている。

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元職員室のような部屋で説明を受ける。
その後ここで弁当昼食、勿論おかずには下仁田葱と蒟蒻
掲示された「青倉小学校校歌」
 

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教室は展示室になっている 開校百年記念碑、開校は1974年(明治7年)

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小雨の中、下仁田自然史館を出発して、
近くの跡倉クリッペの滑り面の観察に行く
校庭には青みを帯びた砂が播かれている。
多分、地元の青岩(三波川緑色結晶片岩)の砂であろう。



跡倉クリッペの滑り面

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下仁田町自然史館前の青倉川を渡って、跡倉クリッペの滑り面へ行く
左は現地の説明板、右は現地の写真

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下盤は三波川結晶片岩、上盤は跡倉層の砂岩 上磐はオーバーハングしていて、擦られてできた条線が見られる

コンニャク芋の製粉に使われた水車小屋跡



跡倉のフェンスター

クリッペの滑り面が地表近くにあって、河川の浸食により、上盤に穴が空いて、
下盤の岩石が河床に現れたものをフェンスター(Fenster ドイツ語で窓の意)という。
                                                          「下仁田町と周辺の地質」より

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跡倉クリッペから青倉川を5分間ほど下ると、
跡倉のフェンスターに着く
青倉川の右岸から上流を見る

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青倉川の左岸 ここで見つけた石灰岩



中小坂鉄山

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可哀そうにガードレールの蔭になっている小坂鉄山跡案内図 山道を登って行く

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幕末(1848年頃))に、当時の名主永井善右衛門によって採鉱精練が始まった。
明治7年、英国人とスウェーデン人を招き、蒸気機関も整えられた製鉄所が造られた。
大正7年に採掘が中止され、全設備が撤去されたが、太平洋戦争中は一時復活した。
ここに製鉄所が造られたのは、単に鉄鉱石が得られたからだけではない。製鉄には鉄鉱石の他に、木炭(還元剤、かつ鉄を溶かす燃料、現代ではコークスを使用)、石灰石(造滓剤=フラックス)が必要である。造滓剤というのは、鉄原料中の不純物と化合してスラグをつくる働きをするもので、製鉄には不可欠のものである。ここでは、木炭は近くの森林から得られ、石灰石も近くに産出した。

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道端で見つけた平滑花崗岩 磁鉄鉱を含むと思われる重い岩石
ここは、南蛇井層と呼ばれる地層と、南蛇井層の北部に貫入した平滑花崗岩とが接する付近である。南蛇井層と平滑花崗岩は領家帯に属しており、南蛇井層は検出された放散虫からジュラ紀後期の海成層由来で、日本列島に付加した付加体であり、平滑花崗岩は約6400万年前に南蛇井層に貫入したマグマが固まったものと考えられている。南蛇井層に平滑花崗岩となるマグマが貫入したことが引き金となって、磁鉄鉱が主体である中小坂鉄山の鉱床が形成されたと考えられているが、鉱床形成のメカニズムは現在のところはっきりとしていないという。磁鉄鉱の化学式はFe3O4であるから、純粋な磁鉄鉱の鉄含有率は72.4%となる。

因みに、現在鉄の原料として世界で使われている鉄鉱石は
赤鉄鉱(Fe2O3)である。これは、約27億年前に、光合成を行うシアノバクテリアが地球上に現れて、当時の無酸素状態の海水に大量に溶解していた鉄イオンから酸化鉄を沈殿させたことによる。北アメリカやオーストラリアには、厚さが数百m、長さが数百km以上に達する大規模な鉱床があるという。地球上の生物の活動には驚かされる。

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このような坑道跡はいくつもある 許可を得て坑道跡の1つに入るが、真っ暗で早々に退却

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山頂に向かう途中に、「露天掘り」と「坑道掘り」の重なったようなところがあった。いい鉱脈が見つかったのであろう。



荒船山

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車で荒船山に近付く。この付近は本宿大陥没があったところ 登山口(駐車場)から見上げる荒船山(1422m)
本宿大陥没は、1200〜700万年前に2度にわたり起こった直径10km、深さ数100mの大陥没。近くに中央構造線が通っているにもかかわらず本宿層が切られていないので、この地域の中央構造線は本宿層が堆積してからは活動していないことになる。

登山口にある地質案内板
荒船山を作っている溶岩は、ガラス質安山岩(荒船溶岩ともいう)で玄武岩に近く、流動性に富んでいる。
湖が干上がる頃に水平に堆積した地層の上を、この溶岩が流れたために、溶岩の上面が平になったと考えられる。

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宿への帰路の途中で、1997年にできた新しい町営温泉「荒船の湯」に浸る。
泉質は含二酸化炭素-ナトリウム-塩化物強塩冷鉱泉。源泉温度16℃の加熱泉

「荒船の湯」を浴びた後、下仁田の町の旅館で、ジオパークを案内して下さった下仁田町の皆さんと一緒に宴会。料理はもちろん下仁田葱と下仁田蒟蒻の入った好き焼。



蝉の渓谷

翌朝は、白いチャートの見られる蝉の渓谷へ

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南牧川は蝉橋付近では、深く掘られて渓谷になっている。
渓谷の岩は白っぽいチャートである。チャートは岩石の中でも硬い部類なので、渓谷ができるのは不思議である。大洪水のときに転がってきた大きな石が当たり、チャートが砕けたのではないかと推測されている。 
この付近には庚申塔などの石碑が多い
 
 
 
 

渓谷の麓には金沢の俳人闌更が安永2年に建立した芭蕉句碑があり、「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」と刻まれているのに因んで「狭水(せみ、蝉)の渓谷」といわれる。残念ながら句碑は見落とした。

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芭蕉橋より下流は川幅が広くなり、水流が弱くなって、渓谷を浸食した転石が堆積している。

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右岸の高みには、見事な茶色のチャートの板状節理がみられた



砥沢鉱山跡

主要地方道 下仁田・日田線に車を置いて、砥沢本谷を南へ遡る

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20分余りで砥沢鉱山跡に着く 左の写真の右下に写っている本山の滝

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壁面は全て砥石の材料である。砥石は粒子の大きさにより、荒砥(あらと)、中砥(なかと)、仕上げ砥(しあげと)の3種に
大別される。天然砥石の原料は主に堆積岩であり、荒砥は砂岩、仕上げ砥は泥岩(粘板岩)から作られる。ここで産するのは、
火山岩の一種である流紋岩(石英粗面岩)である。火山岩であるを流紋岩を砥石にしている例は少ないが、隠岐がある。

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寒桜だろうか 和紙の原料となる三椏(ミツマタ)の蕾

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主要地方道 下仁田・日田線に戻り、南牧川を東進する。
左岸の山裾の日当たりのいい南斜面には人家が多い。
村の物産店に立ち寄る
 

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名産の砥石が並んでいる(500円〜5000円) これは何と3万円 直径30cmもあるコンニャク芋

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街道沿いの古い農家の屋根には、家屋の大きさに応じて、1〜5個の小さな屋根 (気抜き) が付いている。
これは養蚕農家独特の家屋で、蚕のための自然冷暖房装置である。今は養蚕農家も減って、新築の家には見られない。



青岩公園

西牧川と南牧川が合流し鏑川になる地点にある青岩公園は、それぞれの川の起源の石を見ることができ、さながら「石の博物館」である。

青岩は三波川結晶片岩。緑色をしているのは緑泥岩を含むからで、緑色片岩ともいう。

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断層面は光っているので
「鏡面」といわれると説明される小泉先生
大きな白いチャートの岩は、
洪水のときに南牧川の上流から流されてきたもの

三波川結晶片岩には、板状に割れる片理や脈(不規則な白い筋)が見られる。
脈は、岩石ができた後に割れ目を石灰質や石英質が埋めたものらしい。

眼の前の河原の石を集めただけで岩石標本ができた。
チャート・石灰岩・青岩(結晶片岩)などは南牧川起源、
安山岩・蛇紋岩・流紋岩などは南牧川起源だという。



ここでチョット、岩石の大雑把な分類

分 類 定  義 化学組成 岩石の例
火成岩 火山岩  マグマが地上で固まってできた岩石 超塩基性 蛇紋岩
塩基性 玄武岩
中 性 安山岩
酸 性 流紋岩
深成岩  マグマが地下で固まってできた岩石 超塩基性 かんらん岩
塩基性 斑れい岩
中 性 閃緑岩
酸 性 花崗岩
変成岩  火成岩、変成岩、堆積岩に、新たに圧力・温度が加え
 られ、別のものに変わった岩石
  片岩、片麻岩など
堆積岩  海底や地上で、礫・砂・泥などの砕屑、生物が作った
 炭酸塩、火山砕屑、などが堆積してできた岩石
   礫岩、砂岩、泥岩、
 石灰岩、チャート、
 凝灰岩など 
 
超塩基性・・珪酸SiOの含有量が非常に少いもの
   塩基性・・・ 珪酸SiOの含有量が少いもの

   中性・・・・・珪酸SiOの含有量が中くらいのもの
   酸性・・・・・珪酸SiOの含有量が多いもの



はねこし峡

はねこし峡は鏑川の下流で、神農原礫岩が連続して川岸の崖を作っている。はねこし峡の由来は、「鮎が跳ねる」からとか、「跳んで渡れるくらいの峡谷(跳越)」だからとかいわれている。

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はねこし峡の標識から遊歩道を下ると河原に出る
 
ここの神農原礫岩は、礫がびっしり詰まっていて
礫のまわりを埋める砂や粘土が少ないのが特徴。

鏑川の流路変更の跡が見られる
左が現在の流路、右が旧流路。どうしてこのようなことが起こったのだろうか。

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川向こうを中央構造線が通っているというが、
露頭を見れなかったのは残念であった。
 
 
  
神農原礫岩には礫の中にひび割れがあり、割れ目に沿って
ずれているものも見られ、「ずれ礫」と呼ばれる。
神農原礫岩に含まれる花崗斑岩ができたのが8500万年前、神農原礫岩の上に堆積した下仁田層が2000万年前であるから、神農原礫岩が堆積した時代はその間ということになる。

 
A             中央構造線
中央構造線は日本列島を東西に貫いている大断層。中央構造線の北側を内帯、南側を外帯という。糸魚川静岡構造線(フォッサマグナの西縁)より西側では中央構造線は明確で、内帯は領家帯、外帯は三波川帯といわれる。

フォッサマグナ地域では、フォッサマグナの海を埋めた新第三紀の堆積岩に覆われているが、第四紀に大きく隆起している関東山地では古第三紀以前の基盤岩が露出し、その北縁の群馬県下仁田に中央構造線が露出している。大北野-岩山断層は中央構造線の延長だと考えられている。

我々は、長野県、愛知県・三重県、和歌山県、徳島県・愛媛県の4回に分けて、2003年〜2006年に見学したことがある。

  
ここをクリックして、中央構造線をご覧下さい

中央構造線博物館ホームページを改変



河岸段丘の浅間パミス

鏑川の右岸に形成された河岸段丘を走り、下仁田葱の畑で、浅間パミスが散在するのを観察した。パミス(軽石)は、テフラ(火山砕屑物)の一種である。

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葱畑の中に、褐色の浅間パミスの大小さまざまな塊が見つかった。何年前の噴火のときのものであろうか。
テフラ(火山砕屑物「かざんさいせつぶつ」の総称)にはいろいろなものがある。そのうち淡色のものはパミス(軽石)と呼ばれ、暗色のものはスコリア(岩滓
「がんさい」)と呼ばれるようである。下仁田には、浅間、姶良「あいら」、大山、御岳、立山、八ヶ岳などの噴火のテフラが堆積しているという。



不通渓谷

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左の「四ツ又山」もクリッペの1つ。砂岩、泥岩、チャート、石灰岩、
石英閃緑岩などいろいろな岩石からできているという。
右の二こぶの山が鹿岳。凝灰角礫岩でできたマグマの通り道である。
カラスウリ
緑の残る葉とオレンジ色の実のコントラストが印象的
 

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鏑川にかかる不通橋から上流に見える不通渓谷は、両岸に20m以上の崖が500mも続いている。
この付近は下仁田構造帯の中心部で、南蛇井層が広く分布していて、泥岩や砂岩が露出している。
南蛇井層は、中生代ジュラ紀後期(約1億5000万年前)に海底に堆積した地層であることが、放散虫化石から分っている。

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不通橋から駐車場まで上信電鉄の線路に沿って歩く。
レールの再利用である架線の支柱に、HARRON STEEL 1894と記されている。
上信電鉄は、上野鉄道として明治30年(1897年)下仁田・高崎間が開通したから
このレールは、開通の3年前にイギリスで製造されたものであることが分る。



虻田の化石

妙義山から流れ出す小坂川沿いの集落虻田は、河床の石灰岩から大型の有孔虫の化石が見つかるという。

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(左)有孔虫の化石が出たという小坂川に架かる小竹橋の下流右岸  (右)有孔虫レピドシクリナの化石の顕微鏡写真
                                                          「下仁田町と周辺の地質」より
レピドシクリナは、古第三紀の後半から新第三紀のはじめにかけての暖かい海の地層でしか産出しないので、この化石によりその堆積時代と環境を推定することができるという。



妙義山

妙義山は、赤城山、榛名山とあわせて上毛三山と呼ばれるが、妙義山という名の山はなく、白雲山、金洞山、金鶏山の三峯からなる。とくに中央にある金洞山(標高1104m、別名中之嶽)は、山の姿や岩の様子が様々で、石門や石柱があり、趣があって美しい。

妙義山は約700〜550万年前の古い時代の火山活動と地殻変動によってつくられた。その後、いろんな大きさの断層に沿った弱線、火山噴出物の違いなどにより風化侵食の量に違いができ、現在の奇岩の山ができたと考えられている。

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駐車場から眺める妙義山 麓にある中之岳神社

登山道入口にある石門群案内図
我々は第一石門を観察後、悪路の第二石門を通らず、第四石門に向った

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第一石門を潜り抜けた所
から振り返る
安山岩の溶岩、凝灰岩、礫岩等が
ごろごろした歩きにくい登山道
陽のあるうちに、第四石門のある広場に着く。
今日はここまで!

第四石門前で記念写真
向うに大砲岩が見える。このような石門はどのようにして出来たのだろうか。
石面を観察すると、一様ではなく礫の多い部分と少ない部分があり、浸食の違いから石門ができたことが窺われる。

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このようなローソク岩が何本もある 下山後駐車場から眺めた、航空母艦のような荒船山

下仁田ジオパークの皆さん、有難うございました。



今回の巡検は、山の自然学を学ぶ「山遊会」が開催したものである。日頃ご指導頂く東京学芸大学の小泉武栄先生、巡検を企画された小池さん、現地を案内して下さった関谷さんはじめ下仁田ジオパークの皆さんに、厚くお礼申し上げます。



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