南三陸の地層観察−1---石巻市、南三陸町、北上川、志津川、歌津、田束山、 魚竜化石、貝化石、ペルム紀-三畳紀境界、東日本大震災津波の被災地 |
人はなぜ旅に出るのだろうか。人により目的はさまざまであろう。 出会いを求める旅、癒しの旅もあるだろうが、私の場合は「好奇心を満たす旅」である。日本列島の中でも北上山地には比較的古い地層が見られるという。それも火成岩や変成岩ではなく、堆積岩なので「化石」が見つかる可能性がある。化石には少年が持つような素朴な好奇心が湧く。化石探しは、考古学少年が遺跡で遺物を探すのに似ている。 私は、北上山地といえば早池峰山に登った程度である。 歴史と文化・民俗、地学の点で好奇心をくすぐられる北上山地には、何時か訪ねたいと思い、資料だけは集めていた。ところが、2011年3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した大津波)のために北上山地を地学見学旅行することは遠慮せざるを得なくなった。 幸い、自分もその一員であるNPO法人 「山の自然学クラブ」 が、 被災地の訪問を兼ね、弘前大学教授の鎌田耕太郎先生のご案内で南三陸の地層観察会をやるというので、参加させて頂くことにした。 (2012年4月) |
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アンモナイト化石 南三陸町細浦のジュラ紀の地層の露頭で観察できる |
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主な訪問地 (宮城県北部の石巻市と南三陸町) |
南三陸町北部地図 ━━ はGPS軌跡 上の画像をクリックすると新しいウインドウが開きます。 さらにクリックすると大きな地図になります。 |
石巻市北部〜南三陸町南部地図 ━━ はGPS軌跡 上の画像をクリックすると新しいウインドウが開きます。 さらにクリックすると大きな地図になります。 |
1日目 (4月7日) |
仙台駅→北上川のヨシ原→釣石神社→相川地区→小滝漁港・リップルマーク →神割崎→母恋岬→伊里前・ナウマン博士の貝化石→ニュー泊崎(泊) |
北上川周辺 |
旧北上川 |
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8:50JR仙台駅に集合。貸切バスで南三陸へ。 | 途中で旧北上川を渡る |
北上川の洪水と河道変更の歴史 | ||
A | 岩手県を南に縦貫し宮城県に流れる北上川は、流路の延長249km、流域面積10,150km2の一級河川である。 北上川の中下流域は、古来たびたび甚大な洪水被害を被ってきた。最古の記録は、平安時代の「日本後記」に記載された811年の洪水である。1247年には花巻地域に未曾有の被害をもたらした「白髭洪水」があり、以後、これは大洪水の代名詞にもなった。 治水の歴史も長く、中でも有名なものは江戸時代の伊達相模宗直によるものと、その後の江戸時代の川村孫平衛による河道付替工事である。明治以降にも、新河道の開削、分流施設、遊水地、ダム等の設置が行われた。 |
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北上川の河道変遷 国土交通省 東北地方整備局 北上川水系河川整備計画より |
道の駅「上品の郷」 |
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石巻市にある道の駅「上品の郷」で休憩 |
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2010年に国土交通省が設置した太陽パネル(出力9kw) |
上品とは極楽浄土を意味し、上品山から命名。木造建築で 人にやさしい、環境にやさしい、癒しの場にふさわしい構造。 |
道の駅の情報館で、鎌田先生の三陸の地質についての講義が始まる |
大槻憲四郎 「宮城県の地質」を改変 |
北上山地の中古生代の地質略図 今回訪ねる相川、志津川、歌津は、ジュラ紀、 三畳紀、ペルム紀の地層からなることが分る。 |
日本列島の誕生と古い岩石 | ||
平朝彦、「日本列島の誕生」岩波新書より |
A | 地球は約46億年前に誕生したが、日本列島で見つかっている最古の岩石は約20億年前という年代値をしめす変成岩である.それは2ヶ所で見つかっており、1つは島根県の隠岐島後で、もう一つは岐阜県上麻生付近を流れる飛騨川の河床である。変成岩は、既存の岩石が高圧下あるいは高温下に置かれて変化させられてできた岩石であり、上麻生の岩石は花崗岩が変化してできたと思われる珪長質片麻岩と呼ばれる岩石である。 上麻生礫岩は、1.6億年前に海溝付近に堆積したものである。2000万年前までは日本列島はアジア大陸の一部であった。その頃太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜る際に堆積岩が付加帯として日本列島にくっ着いた。だから日本にある一番古い岩石といっても日本製という訳ではない。 現在の南部北上帯は、シルル紀〜デポン紀にはゴンドワナ大陸北東端の赤道付近にあったことが古地磁気から分っている。今回の巡検で観察するペルム紀〜三畳紀の化石はこのような低緯度でできたものが付加体として日本列島にくっ着いものである。もっともこの時代には日本列島はアジア大陸の東端の一部であった。日本海が拡大し、アジア大陸から離れたのは新第三紀の初頭(1800万〜1500万年前)であるから、現在の北上山地の位置で付加したわけではない。 蛇足ですが・・・ いずれにしても時間的にも空間的にも、想像を絶する悠久広大な話である。地球上で大陸を載せて移動するプレートの移動速度は非常に遅く、おおよそ10cm/年といわれている。 そうすると、1億年間に1万km(赤道から北極までの距離)を移動することになる。 そこで私は地質年代を考える時には、時間は1億年を、距離は1万kmを単位にして想像を巡らすことにしている。 |
北上川のヨシ原 |
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北上川の北上大堰から追波湾にかけての河口域には、 日本有数の広大なヨシ原が十数kmにわたって広がっている |
津波で被害のあった河口に架かる新北上大橋を渡る |
ヨシ原は、もともと村落内の互助組織である「契約講」により占有されてきた。ヨシは、茅葺屋根、海苔簾、土壁の小舞(下地)の原料として利用されてきたが、現在では需要が低下し、文化財である社寺の屋根材や簾の材料として細々と利用されており、地元のヨシ茅採取・加工・販売業者が行ってヨシ文化を保存していると聞く。最近は、水質浄化や絶滅危惧種の昆虫や鳥の生息場としてのヨシ原の働きが注目されている。 |
釣石神社 |
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釣石神社の駐車場は津波被害地の中にある | 釣石神社の仮社務所 |
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ヨシで出来た輪をくぐって参道を登る (地元の皆さんがヨシ文化を残そうと頑張っている) | 大震災の鎮魂碑に一礼する |
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石段の途中にある「津波観測点」の標識 (GPSによる実測では、ここは標高18mとなっている) |
石段を登りきった所に石釣神社の本殿がある |
本殿から北上川河口を眺めると、震災後に地盤沈下した様子が窺える |
国土地理院の地形図によると釣石神社の対岸は干拓農地であるが、写真では水没している。 ━━ はGPSによる軌跡 |
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石段の中程左側に崖の中腹から突き出た巨石は、ご神体の男石で周囲14mの砂岩である。 落ちそうで落ちないので、釣石神社の由来となった。「落ちない」から受験生が祈願に訪れる。 |
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地震と津波で倒れた釣石神社縁起の石碑 |
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この碑の石材は井内石と呼ばれる砂質頁岩(粘板岩、泥岩)。 黒い部分は泥岩、白い部分は砂岩で、2.4億年前に堆積したもの。生物が擾乱した痕跡が見られる。 |
井内石は「仙台石」とも呼ばれ、全国にその名を馳せてきた名石。その歴史は古く、文永五年(1268年)に建てられた宮城県河北町の板碑に使われているのが確認されている。墓石界では"至高の石"と称され、山形の文人斎藤茂吉が「父のために」と墓標の石を稲井に求めにきたという逸話も残されている。石巻湾に注ぐ旧北上川沿いに「井内石」の産地稲井地区がある。井内石はこの地「牧山」という山から産出される。牧山の岩石層には、数メートルから十数メートルの板岩が挟まれていて、石層は約250メートルに達するといわれている。 http://www.oshika.miyagi-fsci.or.jp/inaiishi/story/より引用 |
相川地区 |
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相川小学校では大津波で、帰宅した1年生1人が行方不明と |
東日本大震災の被災者に焼きたてのピザを味わって もらおうと、石窯ピザ店を営む海藤さんが作った石窯 |
平成24年4月6日付け河北新報の記事 |
ピザ窯の前で記念写真 |
小滝漁港 |
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小滝漁港は石巻市の北端にある小さな漁港 | 漁港の海岸に沿って歩く |
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この海岸は三畳系平磯層が続いている。岩脈は安山岩質で、昔は「ひん岩(?岩)」といったが今は使わない岩石名。 白い脈は石英か方解石だという。ハンマーで引っ掻いてみればよかった。方解石なら傷が付くはずだった。 |
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貝化石が抜けた跡? | 貝化石、白いところは貝殻の断面 |
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このリップルマークは、嵐により海底の堆積物が撹乱され、 掃き寄せられて新たにできた堆積物の表面に見られる、いわば「波の化石」 |
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泥岩と砂岩の互層の中に化石がないか探す |
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脱水構造とよばれるもの 地層が堆積した後に、何らかの圧力がかかるなどの理由で、指の方向に水が噴き出すようなことがあったと考えられる。地震の時に液状化がおきるとできたりするという。 |
ここは、ペルム紀(Permian period、古生代の最後)と三畳紀(Triassic period、中生代の最初)の地層の境界になっているので、P-T境界(2億5,100万年前)と呼ばれる。この海底に境界が走っているかもしれない。 |
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堆積岩である泥岩・砂岩の間に、火成岩である「ひん岩」が貫入したもの。道を挟んで両側の海岸に露出している |
神割崎 |
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神割崎は石巻市と南三陸町の境界にある大きな岩の割れ目 口伝によると、江戸時代に村間の境界争いがあったとき落雷があって岩が割れ、以後両村の浜人は仲良く暮らしたという。 |
確かに見事な神割崎の岩の割れ目 |
母恋岬 |
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母恋岬は神割崎のさらに北、戸倉半島の北東端にある |
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あっちの方が登り易い! | ここは三畳系大沢層の泥岩 |
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泥岩と砂岩の互層があり、暴風雨や海底地滑り などで荒れ狂った2億年前の海底が想像される |
時ならぬみぞれの中を車に戻る |
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津波で全館が被害を受けた公立志津病院 | 鉄筋住宅の屋上に乗り上げた乗用車 |
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不通のJR気仙沼線のトンネル | JR気仙沼線の高架橋 |
伊里前−ナウマン博士の貝化石 |
明治8年に来日したドイツ人地質学者ナウマン博士が明治14年にここで二枚貝化石を 発見した。この発見は日本に三畳系地層が存在することを示す最初の証拠となった。 |
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みんなで化石を探そう |
二枚貝モノティスの化石、三畳紀後期の示準化石とされる。 2億年前とはいえ、石というよりも風化して粘土状である。 |
今夜の宿、ニュー泊崎荘に着く |
2日目 (4月7日) |
ニュー泊崎→魚竜館→館浜・ペルム紀−三畳紀 境界→韮の浜・アンモナイト化石 →田束山→南三陸町志津川河口→入谷・重ね石→仙台駅 |
南三陸町水産振興センタ− 魚竜館 |
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宿泊したニュー泊崎荘は岬の高いところにあり、津波災害の時には避難所に使われた。現在も空き地に仮設住宅が建てられている。 | 伊里前湾のワカメ養殖場 |
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ワカメの収穫で賑わう漁港、水揚げされたワカメはすぐに熱湯で茹でると美しい緑色に変わる |
南三陸町水産振興センターの魚竜館の近くに分別された瓦礫 |
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南三陸町水産振興センターで、 高橋元館長ご夫妻にご案内頂いた |
中に入ると津波被害の大きさが想像される。 しかし内部の展示物はほとんどが奇跡的に流出を逃れた。 |
展示物等は東北大学「歌津魚竜館化石標本レスキュー事業」により運び出され、魚竜館の再建をめざし、同定作業・修復作業が行われた。現在は、東北大学総合学術博物館の委任管理のもと、仙台市科学館エントランスホールにおいてベザーノ産三畳紀魚竜標本(レプリカ)とともに展示され、自然史標本の被災や郷土の学術遺産に関する情報提供に活用されている。 |
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別棟の魚竜館 | 真っ暗闇のなか、懐中電灯で照らしながら見学する |
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屋外で日干しされている化石 | 二枚貝の化石 |
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魚竜館の近くの歌津館崎の魚竜化石の発見場所 |
魚竜の化石はアクリル板で覆われて現地保存されている。 ここで発見された魚竜はウタツサウルス(歌津魚竜)と いわれている |
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交代で岩に登り化石を観察 | 魚竜のどの部位の化石だろうか |
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アクリル板が光って分り難いが、どの部位? | これは植物化石か? |
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化石は基盤の岩の層理面に現れ易いよといいながら観察 |
ウタツサウルス(歌津魚竜) |
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館浜のペルム紀−三畳紀境界露頭 |
魚竜館の近くにあるペルム紀−三畳紀境界(P-T境界)の露頭を見学した |
↑新しい中生代・三畳紀(2億4,700万年前〜2億1,200万年前)の地層、 古い古生代・ペルム紀(2億8,900万年前〜2億4,700万年前)の地層↑ |
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中生代・三畳紀(2億4,700万年前〜2億1,200万年前)の地層 | 古生代・ペルム紀(2億8,900万年前〜2億4,700万年前)の地層 |
P-T境界とは地質年代区分の用語で、2億5,100万年前の古生代ペルム紀Permianと中生代三畳紀Triassicの境目に相当する。古生物学上では史上最大級の大量絶滅が発生したことで知られている。 一般に古生代の陸上生物は両生類、中生代は恐竜に代表される爬虫類の時代と言われている。P-T境界では、この交代の原因となった大量絶滅事件が起こった。ペルム紀末に海中に住んでいた海棲無脊椎動物は種レベルでの絶滅率で90%以上が消滅したと見積もられている。この中には三葉虫・古生代型サンゴ・フズリナなど古生代に幅広く棲息していた生物種が含まれる。脊椎動物では82%の科が絶滅した。また昆虫・植物などの陸上生物もたくさんの種類が絶滅した。絶滅した生物種は恐竜の絶滅で有名なK-T境界(中生代白亜紀Cretaceous と新生代第三紀Tertiary の境目、約6550万年前)よりはるかに多く、カンブリア紀以降で最大規模の絶滅であった。 大絶滅の原因については、陸地が1か所に集合した超大陸パンゲアの形成、過去6億年間でもっとも大きな火山噴火のひとつとされているシベリア洪水玄武岩の噴出、スーパーアノキシア(Superanoxia)という大規模な海洋無酸素事変、巨大隕石の落下の可能性など、種々の仮説が提出されているが、いまのところ地質学者の大半が同意するような明確な説は無い。 Wikipediaによる |
韮の浜〜細浦・アンモナイト化石 |
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南三陸町 韮の浜には、1日3本の臨時無料バスがある |
7〜8mほど上の木の枝に漁具が絡まっている。津波の高さは10m以上か。 |
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ここはジュラ紀の初めの韮の浜層 |
露出している最下層の岩のサンプルを採取した跡。持ち帰って、 古地磁気を測定すると、岩石が固化した時の磁気緯度が分るという |
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これは化石ではなく、現生の貝である | 二枚貝化石(貝の型の化石というべきか) |
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傾いた泥岩・砂岩の互層 | 黒い物質の中の貝化石は、どう理解したらいいのだろう |
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古代人が描いた壁画のような化石 | ずいぶん乱れた地層? |
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貝化石 | トリゴニア(三角貝)の化石 |
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岬の突端まで、杉の植林地を歩く | 海岸でお弁当 |
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何かありますか? | 見事なアンモナイトの化石 |
アンモナイト(アンモナイト亜綱)は、古生代シルル紀末期(もしくはデボン紀中期)から中生代白亜紀末までのおよそ3億5,000万年前後の間を、海洋に広く分布し繁栄した、頭足類の分類群の一つ。全ての種が平らな巻き貝の形をした殻を持っているのが特徴である。古生代と中生代の下位にあたる各年代を生きた種はそれぞれに示準化石とされており、地質学研究にとって極めて重要な生物群となっている。アンモナイト亜綱は、オルドビス紀から生息するオウムガイ亜綱の中から分化したものと考えられている。以来、彼らは実に長い間の時代を繁栄していたが、中生代の幕引きとなる白亜紀末のK-T境界を最後に地球上から姿を消した。 |
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ベレムナイトの化石、化石の表部が浸食されて溶けている。 | 植物化石らしい |
ベレムナイトは白亜紀末に絶滅した軟体動物門、形態的には現生のイカに類似している。ベレムナイトの殻は方解石からなり、一般に化石としての保存状態が良い。また殻は化学分析の試料に適しており、試料中の同位体比(13Cと12Cの割合)から生存時の古水温を復元する用途にもよく用いられという。軟体動物の化石が思いがけないところで役立つのは興味深い。 |
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海岸まで降りてみたが、さしたる成果はなかった | 蕗の薹(フキノトウ)が見つかり、東北の遅い春を感じた |
田束山(たつがねさん) |
田束山(たつがねさん、512m)は宮城県の南三陸町と気仙沼市の境界にある。 駐車場から山頂まで遊歩道を歩いた。 |
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山腹に残雪が見られた |
平泉の藤原秀衡がこの山を信心し、七堂伽藍を建立した。下って伊達氏も寺に寄進した。 昭和46年に山頂において11個の経塚群が発見された。 |
寺は現在は礎石のみとなり、往時をしのぶこともできない。 |
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計仙麻大嶋神社跡 | 田束山寂光寺跡 |
昭和46年の田束山経塚群発掘で、平安末期のものと思われる法華経十巻が出た |
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第1号経塚から第3号経塚、全11塚の略測図 |
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末の崎 歌津崎 神割崎 金華山 志津川湾AAAAAAAAAAAA |
山頂からの景観のパノラマ写真を撮って風景案内板の絵と対応させてみた。 この海岸はリアス式海岸と呼ばれる。 |
鋸の歯のようにギザギザに連なっているような地形のうち、河川の浸食によってできた開析谷が沈水して溺れ谷となっている場合をリアス式海岸、氷河の浸食によってできたU字谷が元になっている場合をフィヨルドと定義されている。リアス式海岸の沈水は谷の周辺の沈降によって起きたと考えられていたが、気候変動などの研究が進み、最終氷期が終わったことによる世界的な海水面の上昇によるものと考えられるようになった。三陸海岸は、岩手県宮古市より北では、陸地が大きく隆起し、海岸段丘が発達している。宮古市よりも南では、隆起速度を上回る海面上昇により相対的に沈水し、リアス式海岸となったという。 Wikipediaほかによる しかし、ここから眺めた景観では、谷を浸食する大きな川は見当たらず、一般論をそのまま納得することに自分としてはいささか抵抗があり、今後の課題としたい。 |
南三陸町志津川河口 |
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南三陸町の中心部を流れる志津川の河口部 2011年3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波は、この川を駆け上った。 |
宮城県・南三陸町の防災庁舎で防災無線のアナウンスを担当していた遠藤未希さんは、ギリギリまで防災無線で大津波警報をアナウンスし続け、行方不明になった。合掌 |
防災庁舎で防災無線のアナウンスを担当していたのは遠藤未希さん。2011年3月11日午後2時46分、 |
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頑丈な南三陸町合同庁舎の建物は残っているが、現在は仮庁舎に移っている |
16人全員で記念写真 元合同庁舎に隣接して「南三陸さんさん商店街」が2012年2月25日にオープンした。私はここで美味しい蕎麦を食べ、お土産の海産物を買った。一日も早い復興を祈らずにはいられない。 |
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「南三陸さんさん商店街」には、30店舗もあり、豊かな三陸の漁場の魚介類などの水産物を 提供する居酒屋や食堂をはじめ、土産物屋、花屋、蒲鉾屋、床屋などもある。 |
志津川中学校は高台にあり、津波の難を逃れた。 |
志津川中学校脇から、志津川湾、志津川、南三陸町の中心部が見渡せる。津波災害の甚大さに心が痛む。 |
入谷の重ね石 |
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入谷というところにある「重ね石」を見学 | 志津川の上流の八幡川の河原に、花崗岩の巨石がゴロゴロ |
ここは白亜紀前期(1億4000万年くらい前か)に花崗岩が貫入し、 その後浸蝕されて盆地型の地形になったと考えられる。 |
入谷花崗岩帯は、南三陸町に見られるもっとも大きな貫入岩帯(もともとあった堆積岩などを貫いて上昇したマグマがそのまま冷えて固まったもの)で、長さ約4km、幅約2kmの範囲で分布する。河床には新鮮な露頭が見られ、近代に入ってからは石材としても重宝された。岩帯の西側では古生代ペルム紀の登米層に、東側では中生代三畳紀の稲井層群に接しており、それらの堆積岩は貫入時の熱変成でホルンフェルスと呼ばれる特殊な岩に変化している。ホルンフェルスは硬くて浸食に耐えるので、盆地型の地形になったと考えられる。 こうした接触面からさらに細かく貫入した微細なマグマの筋に沿って金鉱脈が形成されたらしく、岩を砕いて坑道を掘り進める中世以降の金山は、ほぼ例外なくこの岩帯の外縁部より外側で掘られている。ただし、入谷千軒のゴールドラッシュを招いたのは砂金や土金と呼ばれる堆積砂金鉱床だったらしく、その後は近世・近代をとおして有力な金山は開発されていない。 |
今回の巡検の目的は、日本列島で古い地層の1つである古生代から中生代の地層のある南三陸町を訪ね、地層や化石を観察することであるが、同時に、昨年の東日本大震災による津波の被災地を訪ねて被害の実態を肌で感じ、犠牲者への鎮魂の思い込めることでもあった。私にとっては、P-T境界を見ることや、アンモナイトや魚竜の化石に触れることなど夢のような2日間であった。津波の被災地を見ることは心苦しかったが、たとえ負の遺産であっても自分の心の中に留めることは、真実を求める科学者・工学者として体験してよかったと思う。 最後に、ご指導下さった弘前大学教授の鎌田耕太郎先生、企画されたNPO法人山の自然学クラブの中村華子さんに感謝します。 |
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ホームページの中で検索したい |
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ホームページの中で道に迷ったら |
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