南三陸の地層観察−2--- 一関市、気仙沼市、陸前高田市、石と賢治のミュージアム、 刈生沢渓谷、千厩、徳仙丈山、岩井崎、九九鳴き浜、唐桑御崎、巨釜、 東日本大震災津波の被災地 |
自然科学にはいろいろな分野があるが、学ぶ人によって魅力と感じるポイントが異なるような気がする。 植物学は、花の美しさに惹かれて入門すること人が多いだろう。
物理学や化学は法則性が魅力だが、それがつまらないという人もいるだろう。 さて、地学の面白さは、一体何であろうか。 私が中学生のときに、担任の先生の専門が地理学で、先生が調査山行をされるときにお手伝いに(というよりも理科好きの少年を楽しませてやろうと)連れて行って下さったことがあった。1つの川について、上流から下流に向かって歩きながら、河原の石の丸さ(円磨度)を形見本と見比べながら記録して行く作業であった。河川の上流で角礫として供給された礫が下流に行くに従って角が取れて円礫になって行く過程を調査するものであった。地学というのは面白いが、大変労力の必要な学問だなというのが当時の印象であった。 悠久の昔の噴火や洪水、生物の営みなどが、眼の前の景観や岩石に痕跡を残しているのを想像し解き明かしていくのが、何と言っても地学の魅力である。その点では考古学と相通じるロマンであると、最近は思うようになった。 先回と今回の南三陸の地層観察で、私にとって初めての化石探しは楽しいの一言に尽きる。また花崗岩の貫入により周囲の岩が熱変成しホルンフェルスになったのをつぶさに観察するのも興味深かった。 ご指導下さった弘前大学教授の鎌田耕太郎先生に心からお礼申し上げます。 東日本大震災大津波の被災地を訪ねることは心苦しいが、「一日も早い被災地の復興」と「被災の記憶を後世に残そう」という二者の葛藤に悩む現地の姿を垣間見ることができ、意義深い旅となった。 (2012年6月) |
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褶曲した砂岩泥岩互層 唐桑半島御崎に分布する三畳紀の稲井層群大沢層には、大規模な海底地滑りによると思われる地層の変形が見られる |
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今回の訪問地は、岩手県一関市・陸前高田市、宮城県気仙沼市に跨る |
1日目 (6月1日) |
一関駅→一関遊水地→石と賢治のミュージアム→旧東北砕石工場→化石産地 →東山総合体育館グランド→幽玄洞→藤壺の滝・金山坑→一関(泊) |
今日は、明日から始まる南三陸地層見学会(第2回)のオプション行事として、NPO法人 「山の自然学クラブ」 会員で岩手県出身の佐々木誠一氏に、一関周辺の歴史と文化・地学を案内して頂く。 |
1日目のGPS地図 ━━ はGPS軌跡 |
一関遊水地 |
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13:13にJR一ノ関駅に集合 | 2台のレンタカーで、磐井川を渡り北上する。正面は束稲山。 |
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左手(西方)に遠望される栗駒山 | 一関遊水地の堤防に着く。東北新幹線の遥か彼方に焼石岳 |
一関遊水地の堤防から見るパノラマ写真 |
A | 一関遊水地 「遊水地」とは、洪水のときに一時的に水をためて下流に流れる水の量を減らすためのものである。普段は水田などに利用していて、洪水のときだけ水を貯めるしくみになっている。 一関地区は約26kmに及ぶ下流狭窄部の影響により、古来より水害に悩まされてきた。一関遊水地事業は、昭和22・23年の死者行方不明者600名に及ぶ未曾有の大水害を契機に、水害防御、洪水調節、土地の有効利用を目的として計画され、これまでに低平地家屋移転、周囲堤の盛土及び主要な構造物の改築を進めてきた。 この一関遊水地計画には、以下の目的がある。 @ 市街地の水害防御 A 下流地域の洪水調節 B 地内の優良農地の有効利用 <一関遊水地事業規模> 全体面積 1,450ha 第1遊水地 820ha 第2遊水地 470ha 第3遊水地 160ha 国土交通省 東北地方整備局ホームページほかによる |
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磐井川に架かる東大橋の橋脚には、昭和22年のカスリン台風と昭和23年のアイオン台風のときの水位が示されている |
石と賢治のミュージアム |
石と賢治のミュージアムは一関市立の博物館で、宮沢賢治の人となりと業績を展示する「太陽と風の家」や賢治が勤めていた「旧東北砕石工場」がある。 |
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石と賢治のミュージアム「太陽と風の家」へのアプローチ |
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東北砕石工場は大正13年に鈴木東蔵が 興した石灰工場。賢治はここに勤め 農業用石灰の普及に努めた。 |
賢治が東北砕石工場に勤めていた頃に、 代表作の1つグスコーブドリの伝記を書いた |
グスコーブドリの伝記は、1932年(昭和7年)4月に刊行された雑誌『児童文学』第2号で発表された童話。 グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれた。冷害による飢饉が招いた一家離散、火山噴火の影響による職場の閉鎖などといった苦難を経験して育った彼は、イーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させる。 ところが、ブドリが27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。火山を人工的に爆発させることで大量の二酸化炭素を放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖めよう。ブドリは解決法としてそのように提案した。しかし、彼の案を実現するためには自らの犠牲を覚悟した誰か一人が最後まで火山に留まる必要があった。年老いたペンネン技師が最後の一人になろうとするが、ブドリはそれを引き止めた。そうしてブドリは、皆に黙って自分が最後の一人として残る。決死のブドリが火山を爆発させると、見事に冷害は食い止められた。イーハトーブは救われたのだった。 二酸化炭素による温室効果を取り上げた小説は、小生の知る限りほかにない。しかも1932年に刊行された児童文学である。そこに賢治の偉才さが見られる。もっとも現代の科学では、火山の噴火は二酸化炭素による温室効果よりも噴煙の太陽光遮蔽による冷却効果の方が大きいといわれている。神奈川県地球温暖化防止推進員を委嘱されている小生は、講演の際にグスコーブドリの伝記を紹介すようにしている。 |
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アプローチからミュージアムへは、古い線路道を歩く |
線路わきには、天然珪砂(塩化カルシウム粒)の袋が 積んである。次第に賢治の世界へ導かれる。 |
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「太陽と風の家」の外観と内部 |
旧東北砕石工場 |
「太陽と風の家」を出て歩いて3〜4分の所、石と賢治のミュージアムの一角に 「旧東北砕石工場」が保存されている。 この工場は大正13年(1924年)創業、 昭和53年(1978年)まで操業していた。 |
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「旧東北砕石工場」は文化庁の登録有形文化財に指定されている |
炭酸カルシウムCaCO2を主成分とする岩石を砕いて袋詰めする工程(時代と共に使用する機械は異なる) |
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岩石を細かくするフレットミル | エアーセパレーターで粗いものと細かいものに分けられる | 細かいものは製品として袋詰めされる |
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ハンマークラッシャーで砕かれた大粒 | ハンマークラッシャーで砕かれた小粒 | ボールミルでさらに細かくされたもの | エアーセパレーターで分粒されたもの |
石灰岩を掘り出していた坑道 |
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宮沢賢治と東北砕石工場の人々の人形 |
14人の中に我々も混って写真撮影 後列の右から5人目(頭を少し傾けたネクタイを締めた人)が賢治 |
車窓から見える現在の石灰岩採掘工場(セメントの材料になる) |
○○の化石探し |
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化石発見の功労者七田清さんの案内で山に入る | 崖に落ちている石をハンマーで叩いて割る |
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巻貝の化石? |
コケムシの化石 カンブリア紀末期、5億年前頃から 現在の海にも生きつづけているという |
ワンソク(腕足動物)の化石 二枚貝のように2枚の殻を持つが、体の左右に1枚ずつあるのではなく殻は背腹にあるとされている |
東山総合体育館グランドの化石探し |
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東山総合体育館グランドの脇にある化石は結構硬い岩になっている | ? |
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ロクボクの化石? | ? |
幽玄洞 |
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幽玄洞の入口にある展示館 |
展示館には本物の化石やパネル展示がある これはウミユリの萼の化石の写真か? |
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七田清氏は一関市在住の化石収集家 |
リンボク(鱗木)は石炭紀に栄え化石としてのみ知られる。 現生のバラ科樹木であるリンボク(木編のリン)とは異なる |
幽玄洞は、石炭紀中部から石炭紀下部の竹沢層群でできているという。つまり3億5500万年前以降の地層である。 |
ウミユリはウニ、ヒトデの仲間で、その形がユリの蕾に似ているのでその名で呼ばれる。 4億5000万年前のオルドビス紀に出現し、1億3000万年前の中生代以降は急速に衰えた。 萼と呼ばれる部分は脆く化石になると壊れやすい。萼の化石が完全な形で岩盤上で 発見されたのは日本で初めてであるという。 |
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階段で地底に降りて行く | 洞穴サンゴと呼ばれるが、サンゴの化石ではなく一種の鍾乳石 |
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不思議な美しさの地底湖 |
藤壺の滝・金山坑道 |
矢ノ森八景には、藤壺の滝(藤原秀衡ゆかりの金山址)、頼朝の墓(と称するもの)、 キリシタン処刑場など、歴史・伝説の地が含まれる。 |
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金山坑道の入口には、見事な藤の大木と「藤壺の滝」がある。この金鉱の発見は川の砂金が元かもしれない。 |
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坑道はいくつかの道に分れている |
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勿論今では廃坑であるが、観光用に整備されている |
貫入した花崗岩(石英っぽい)の筋が見られる。 高温の花崗岩が貫入し金などの金属が析出したのであろう。 |
2日目 (6月2日) |
一関駅→旧有壁本陣跡→刈生沢渓谷→千厩→折壁→さかなの駅 →徳仙丈山→ホテル観洋(泊) |
2日目前半のGPS地図 ━━ はGPS軌跡 |
旧有壁宿本陣跡 |
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9:30にJR一ノ関駅に集合し、貸切バスで出発 | 奥州街道の宿駅、旧有壁宿本陣に立ち寄る |
いわゆる五街道の1つ奥州街道の宿駅である旧有壁宿本陣は、元和5年(1619年)に創設された。 現存する建物は延享元年(1744年)に改築されたもので、国指定の史跡となっている。 |
金森遺跡 |
金森遺跡(花泉遺跡)は、一関市花泉町金森に所在する後期旧石器時代の遺跡である。金竜川南岸の段丘上に位置し、厚さ2.5メートルほどの粘土・泥炭・砂層からなる化石床からヤギュウ、オーロックス(原牛)、野牛の一種ハナイズミモリウシ、ヘラジカ、オオツノジカ、ナウマンゾウなどの化石骨が多量に出土している。 これらの動物群は、マンモス動物群が一時的な氷の橋を渡って北海道に入り、本州へ南下してきたものと考えられている。 また、植物化石(イラモミ・トウヒ・エゾマツ・アカエゾマツ・グイマツ・チョウセンゴヨウ)も多量に出土している。放射性炭素年代測定法により3.5〜1.6万年前と測定されている。 約2万年前の自然環境(いわゆる最終氷期で、当時の気温は現在より摂氏6、7度ほど低かったと推定される)を具体的に復元できる遺跡として有名であるという。 |
遺跡は現在水田になっている |
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刈生沢の滝 |
刈生沢川は北上川の支流瀬脇川の上流。 バンガロー(2棟)、炊事棟、トイレだけの簡単なキャンプ場がある。 |
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渓流に架かる橋を渡ると不動滝が見える |
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滝の近くには気になる礫岩がある。礫の種類は酸性凝灰岩、酸性火山岩、花崗質岩が多く、 玄武岩、安山岩、ハンレイ岩、ホルンフェルス、角礫岩、石灰岩などからなるという。このような礫は 海溝に溜まるわけがないので、大きな土石流で溜まったものが隆起して地上で見られるのであろうか。 |
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不動岩は巨大な石灰岩の塊で、奥まった所に祠がある。化石も見られるようだ。 石灰岩は面白い岩だと思う。CO2を含む雨水に溶けて岩の割れ目に流れ込み、そこで再度固まる。 |
千 厩 |
車窓から見た「千厩地名発祥の地」の案内板 奥州藤原家が栄える前の天喜5年(1057年)、源頼義・義家父子が安部貞任を討つため奥州に 出向いた(前九年の役)。その後、義家がこの地に陣を敷きこの岩窟に軍馬千頭を繋いだという。 |
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この山中に、何故かハマナスの花? |
涸れ沢に花崗岩の巨石がゴロゴロ |
この花崗岩は厳密にはトーナル岩である。捕獲岩が見られる。 |
トーナル岩は、花崗岩質岩石の1つ。アルカリ長石をほとんど含まず、石英と斜長石、有色鉱物からなる深成岩。石英閃緑岩よりも石英が多いものを指すが、石英閃緑岩と同じ扱いをされることもある。トーナル岩よりもアルカリ長石の割合が大きいのは花崗閃緑岩といわれる。 | A | 捕獲岩(ゼノリス)は、火成岩に含まれる異種の岩石片のこと。マグマが上昇してくる途中で周りから取り込まれたもので、マグマの熱により変成している場合が多い。より広い言葉では、シュリーレンの1種といえる。 |
車窓から見た夫婦石 2011年11月に、東日本大震災からの復興の礎として、
第20回全国夫婦岩サミット本会議が千厩で開かれた。 |
2日目後半のGPS地図 ━━ はGPS軌跡 |
室根山麓のはんれい岩 |
室根山(895m)は、北上高地の南部の独立峰として知られる。 山頂には、テレビ中継局とFM放送中継局が置かれている。 |
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室根山の麓の林内に大きな岩塊がある。これがなんと、はんれい岩である。折壁複合深成岩体の北部岩体に区分される中の兵沢型はんれい岩と呼ばれるそうである。貫入したマグマによって形成された。 | 花崗岩とはんれい岩が、このように近いところに出るのは珍しいという。 |
はんれい岩(斑糲岩)は、深成岩の一種で、火山岩の玄武岩に対応する。有色鉱物の角閃石や輝石を多く含み、岩石全体が黒っぽい。無色鉱物はほとんどが斜長石で、アルカリ長石や石英をほとんど含まない。斑糲岩という難しい訳語を作ったのは、小藤文次郎(1884年)。「糲」は「くろごめ」玄米のことで、粒状で黒い斑点のある石という意味らしい。 |
さかなの駅 |
気仙沼水産地域振興組合が、昨年12月10日に気仙沼市に、『さかな、肉、野菜』が何でも揃うプロ集団のお店『さかなの駅』を開店した。 |
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さかなの駅の正面 | 昼食に頂いた『まぐろ丼』はマグロがたっぷり |
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ここでお土産に購入した「きざみ海苔」の大袋は、持ち帰って大好評。毎日の「ざるそば」に重宝している。 |
さかなの駅の横を流れる神山川は、気仙沼湾に注ぐ大川の支流。 東日本大震災の際の津波はこの防波堤を越えて、写真の左側の住宅地まで浸水したという。 |
徳仙丈山 |
気仙沼市で震災復興活動をしておられるNOP法人「海べの森をつくろう会」の皆さんのご案内で、ツツジ満開の徳千丈山に登った。 |
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ツツジの名所で、駐車場に整理員が出ていた | ツツジに包まれた登山道を登る山頂まで約1時間 |
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ボダイジュの木陰に茶店が出ていた。開花にはちょっと早かったようだ。 |
ボダイジュ(菩提樹)は、中国原産の落葉高木。高さは10mほど。日本へは、臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったと伝えられる。日本では各地の仏教寺院によく植えられている。釈迦がその下で悟りを開いたという菩提樹は、本種ではなくクワ科のインドボタイジュである。シューベルトの歌曲集『冬の旅』で歌われる「菩提樹("Der Lindenbaum")」は本種ではなく近縁のセイヨウボダイジュである。 Wikipediaによる |
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登るほどに、独立峰の室根山が見えてくる | 十二曲り登山道に入ると、急に傾斜がきつくなる |
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十二曲りに入る所は、花崗岩からホルンフェルス化した伊里前層の泥岩に変わるところ。 | ホルンフェルス化した伊里前層の泥岩は硬いので浸食に耐え、急傾斜になっているという。 |
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足元の花々 スミレ科スミレ | ? | ? |
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山頂のツツジとアカマツ(戦時中に松根油を採るために植えたという) | ここにもホルンフェルス化した伊里前層の泥岩 |
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山頂の記念碑 明治42年、度重なる山火事を防ぐため火防線に着工した |
ここから北に見える鞍部で左折して下山、 なんとも素晴らしい、ツツジを愛でる初夏のハイキングだった。 |
石切り場 |
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徳仙丈山からの帰路に立ち寄った石切り場 |
モンゾニ岩(モンゾナイト)は花崗岩質岩石の1つ。石英をほとんど含まず、アルカリ長石と斜長石の割合がほぼ同じの深成岩。石英を少量含むものは石英モンゾニ岩(折壁みかげ)と呼ぶそうだ。 |
ホテル観洋 |
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18時頃にホテル観洋に到着 |
このホテルは高台にあり、津波の難を免れた。ホテルの屋上から見ると、写真の左手の海岸に近いところは鉄筋の建物は残っているが、壊滅的な津波の被害を受けている。右手の高台は助かったようだ。 |
ホテルの屋上から気仙沼の全貌を眺める 中央の対岸は唐桑半島の付け根の部分、右手奥の富士山型の亀山(235m)が見えるところは大島、手前は気仙沼港 |
気仙沼港は、世界三大漁場 の1つである三陸沖を操業域とする漁船の主要な水揚げ港の1つであると同時に、日本の遠洋漁業(主にマグロ)の基地の1つとなっている。2008年の水揚げ高は280億円で、東北地方第1位であった。 2011年3月11日の東日本大震災の大津波で、市場など漁港全体が壊滅した。3月20日陸路が遮断される中、支援隊を発足した日本かつお・まぐろ漁業協同組合や三浦市などが神奈川県の三崎漁港にて日本全国から集まった救援物資を支援船「第11八幡丸」(気仙沼漁港所属)に積み込み、第1便として出港。22日に気仙沼漁港に入港。物資は陸揚げされ、自衛隊などを通じて気仙沼市に引き渡されたという。 |
3日目 (6月3日) |
岩倉神社→岩井崎→九九鳴き浜→唐桑御崎→巨釜→漁火パーク →気仙沼市街→隕石落下点→高田松原の一本松→一関駅 |
3日目のGPS地図 ━━ はGPS軌跡 (−−−はGPSデータ不取得) |
岩倉神社 |
朝一番、地元の「海べの森をつくろう会」の皆さんのご案内で、岩倉神社に参拝する。岩倉神社は気仙沼市の岩倉山(294m)の麓にある。社伝によると、日本武尊東征の際に勧請されたという古社。朝の参拝はいいものだ、清々しい気分になる。 |
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赤い鳥居をくぐり、見事な杉に囲まれた参道の階段を登る。 | これは拝殿。後方に回ると、大石の上に本殿がある。 |
岩井崎 |
気仙沼湾岩井崎の案内板 岩井崎の東海岸のほぼ全域を観察した。 |
観察地域のほぼ中央部分のパノラマ写真 左方の海の向こうは大島の南端 |
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灯台の下まで歩く |
中部ペルム系岩井崎層は、主に石灰岩からなる堆積層 一種のカルスト地形で、CO2を含んだ雨水で浸食されて ラピエのような状態になっていて触れると手を切り易い。 |
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早速、化石を探す | ウミユリの茎の化石 |
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これもウミユリの茎の化石 |
石灰藻の化石 石灰藻は、体内に石灰を沈積する藻類の総称 |
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サンゴの化石 観察場所により化石の種類が異なる。 北の方はウミユリが多かったが、南に行くに従ってサンゴ、有孔虫が多くなる。気温や水深などの古環境の変化だろうか。 |
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マツバイシの化石 | マツバイシのぬけがら |
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時には数mも上がる「吹き潮」 | ちょっと危ない石灰岩と泥岩の互層の崖 |
大型のフズリナ化石 |
岩井崎から唐桑半島へ |
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東日本大震災の津波で、気仙沼市中みなと町に大型漁船が打ち上げられている写真は、 新聞やテレビでお目にかかった。 第18共徳丸(全長約60m、約330トン)である。 |
気仙沼市によると、市内に打ち上げられた100総トン以上の大型船は17隻。共徳丸以外は海に戻されたり、解体されたりした。 移動には高額な費用がかかるため、共徳丸も解体予定だったが、市は6月、津波被害を象徴する船として残したいと所有会社に申し出、管理下に置いた。 国に支援を要請し、市の復興計画に船の保存を含む公園整備を盛り込んだ。 しかし、10月に行われた地区内の法要では「船が悪いわけではないが、あの船を見ると、悔しさがこみ上げてくる」といった声が相次いだ。震災当日、住民は近くの高台から船が自宅を破壊していく様子を目撃していたからだ。市と自治会長や住民との意見交換では「後世に残そう」との意見が出た一方、「いつまで置いておくのか」と強い反発も。市議の中にも「国の財源でできないなら反対」などの声がある。読売新聞(2011年12月10日)より要約 |
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気仙沼市内の交通標識 |
唐桑半島には、豪壮な家々が立ち並ぶ。入り母屋造りの反り返った屋根。遠洋マグロ漁などで稼いだ漁師たちが、心意気を競って建てたもので、「唐桑御殿」と呼ばれる。 |
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九九鳴き浜の内陸に当たるところにジュラ紀の地層の露頭がある。 花崗質砂岩またはアルコース砂岩といわれ、石英、長石、雲母といった花崗岩を構成する鉱物 からなる砂岩である。かつては近くに花崗岩の源を求めなければならなかったが、現在では プレートテクトニクスのお蔭で、日本以外で生まれてやってきたと考えることができるようになったという。 |
唐桑町九九鳴き浜 |
両側が岩場に囲まれたこのような地形をポケットビーチというそうだ。ここは鳴き砂の浜として知られている。 |
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植林された杉がこの部分のみ伐採されている | 釣り人の他に全く人気がない静かな浜 |
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踏んづけてもなかなか鳴らなかった。砂は石英粒で、汚れると鳴らなくなるという。我々は浜のゴミ拾いをした。 | ジュラ紀中期の唐桑層群舞根層だという |
唐桑半島御崎 |
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御崎山日高見神社は航海・漁業の守護神で、日本武尊 (やまとたけるのみこと)による東夷征伐と関係があるとも いわれている。 |
中部三畳系の稲井層群大沢層の説明板 |
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御崎の先端は砂岩泥岩の互層 |
こんなところに咲く海浜植物のハマボッス サクラソウ科オカトラノオ属の越年草 |
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褶曲にもいろいろありそうだ。大は山脈ができるものから、小は人間サイズのものまで。 |
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足元の岩は両側の岩石と異なり、貫入した「ひん岩」 「ひん岩」は熱い状態で貫入するので、 両側の堆積岩を熱変成させる。 |
左の写真の左半分は貫入した「ひん岩」、右半分は熱変成を受けて硬くなったホルンフェルス。右の写真はホルンフェルスをハンマーで割ったもの、鋭い角ができる。 |
ホルンフェルス(hornfels)は変成岩の一種。熱による変成によって生じる接触変成岩。 ドイツ語のHorn(角)とFelsen(崖・岩石)からできているので、「角ばった固い岩石」という意味だろうか。 ホルンフェルスとなる岩石は主に、泥岩や砂岩などの堆積岩である。ホルンフェルスは、「原岩の種類により分類される場合」と、「ホルンフェルス形成後に特徴的に生成する鉱物種により分類される場合」とがある。前者の分類では、原岩が泥岩の場合には泥質ホルンフェルス、原岩が砂岩の場合には砂質ホルンフェルス、原岩が石灰岩の場合には結晶質石灰岩(大理石)、チャートの場合には珪岩と呼ばれる。 |
砂岩泥岩互層中に見られるリップルマーク リップルマークは漣痕(れんこん)ともいわれ、砂の粒子が運搬される時にその堆積物の表面に形成される凹凸模様である。リップルマークから、当時の流れの方向を推定することができるといわれている。 |
巨釜とその周辺 |
巨釜・半造の観光案内図 |
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巨釜の折石は高さ16m、幅3m。ペルム紀の堆積岩に花崗岩が貫入してできホルンフェルスである。 | 折石のてっぺんに留るカモメ |
右の方は「半造」と呼ばれる地域。昔アワビが沢山採れて「繁盛」したのが訛ったともいわれる。 |
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ここで見られる石灰岩は、花崗岩の熱の影響で再結晶している。 左遠方の大理石海岸は時間がなくて行けなかったが、結晶質石灰岩(大理石)が見られるという。 | 唐桑半島の展望台「漁火パーク」から西方を望む。 富士山型の島は大島。手前の海はすべて牡蠣の養殖場。 気仙沼の牡蠣は畠山重篤氏の「森は海の恋人」で有名。 |
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復興支援のために手芸品を作るコンテナ工房が、最近立ち上げた | 案内して下さった地元の方々といっしょに記念写真 |
日本一の隕石気仙隕石が落下した長圓寺(車窓から) |
気仙隕石は、1850年6月13日(嘉永3年5月4日)、現在の岩手県陸前高田市気仙町丑沢の長圓寺前に落下した隕石である。これは日本最大の石質隕石で、落下した時の重量は135kgで、H4型普通コンドライトに分類される。コンドライトとは、46億年前の太陽系生成時に形成されたものをいう。落下日時や飛来方向、落下時の様子などの記録が気仙郡大肝入であった吉田家の文書に残されている。その後、住民たちがお守りとして削るなどして、現在の量は約106kg。明治27年に帝室博物館に献納され、現在は、国立科学博物館に収蔵・展示されている。 |
高田松原の一本松は、なんとか生き残って欲しい。 そして、高田松原で採取した松ぼっくりの種から芽生えた若松が育って欲しい。 |
高田松原は、江戸時代の寛文7年(1667年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられた。その後、享保年間(1716-1736年)には松坂新右衛門による増林が行われ、以来、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、景勝の一つであった。 しかし、2011年3月11日の東日本大震災で、高田松原は10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅した。その際、奇跡的に1本の松だけ倒れずに残り、この松は震災直後から復興のシンボルと捉えられ、「希望の松」「希望の一本松」「ど根性松」「奇跡の一本松」などと通称されるようになった。しかし、この松の周囲の土壌は大地震による地盤沈下で海水がしみ込み塩分過多の状態にあるため、徐々に悪化していった。新葉が出ず、葉の褐色化が進んだことから、5月20日には根元に活性剤を撒く処置が執られ、6月5日には傷ついた幹を保護するためにこもが巻かれた。しかし、一時は新芽も確認され回復の兆しが見られたものの、新芽の多くが変色し衰弱が進んでいる。2011年10月の調査で海水で根が殆ど腐っており再生不可能と判断、保護を事実上断念、接木を育てるなど苗木を移す計画を進めるとしている。 「高田松原」を復活させようと、「松ぼっくり」の種から育てたクロマツなどの苗木300本が2012年5月12日、「高田松原を守る会」の会員や14人の全国からのボランティアによって同市小友町の苗畑へ植えられた。元の松原が整備されるまで数年間、苗畑で成長しながら待つ。 産経ニュースほかから要約 |
4月の南三陸の地層観察(第1回)に引き続き、6月の(第2回)に参加することができた。今回は南三陸とはいいながらも前回よりも少し北の、一関市、気仙沼市、そして一部ではあるが陸前高田市を含む地域であった。 巡検の目的は、前回同様、日本列島で古い地層の1つである古生代から中生代の地層や化石を観察することであるが、同時に、昨年の東日本大震災による津波の被災地を訪ねて被害の実態を肌で感じ、犠牲者への鎮魂の思い込めることでもあった。 最後に、今回もご指導下さった弘前大学教授の鎌田耕太郎先生、ご案内下さった「海べの森をつくろう会」代表の菅原さんはじめ地元の皆さん、初日のオプション行事を企画案内して下さった仲間の佐々木誠一さん、全行事を企画されたNPO法人山の自然学クラブの中村華子さんに感謝します。 |
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