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日本の近代化遺産(1) ---- 絹産業  
養蚕農家、富岡製糸場、製糸機の歴史、織機の歴史、西陣織、
群馬の絹産業、八王子-横浜 絹の道、横浜市街の絹関連遺産


 いろいろな機会にいろいろなものを見聞する。つくづく「明治の人は偉かったな」と思うことが多い。今の科学者・技術者はスーパーコンピュータを使いたがるが、全くコンピュータのなかった時代に、物理学・化学・生物学を構築し、立派な建築物や土木工事をやっている。

 そんな明治時代の先人たちの業績を訪ねたいという欲求がいやがうえにも高まってきた。そこで、日本の近代化遺産を訪ねることにした。

 近代化遺産とは、文化庁の定義によると「文化遺産保護制度上の概念の1つで、幕末から第2次世界大戦期までの間に建設され、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る建造物」ということらしい。文化庁では、1990年から「近代化遺産総合調査」を実施するのに先立ち、造語したという。

 文化庁がやるなら経済産業省もほってはおけないという訳ではなかろうが、経済産業省は2007年に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産を公表した。さらに2009年に近代化産業遺産群・続33として、新たに33件の「近代化産業遺産群」と540件の個々の認定遺産を公表した。

 こうなると素人が楽しみで訪れる文化遺産巡りではなくなってくる。そうだ! わが道を行こう!

先ずは、日本の絹産業遺産を訪ねることにした。
                       (2013年5月)
 
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          旧富岡製糸場の正門
明治政府は、お雇い外国人のフランス人技師の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡に日本初の機械製糸工場を設置し、明治5年に操業を開始した。当時は世界でも有数の規模であり、数百人の士族の子女が日本全国から集められた。女工の労働環境は充実しており、六工社など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。

これにより、我国の生糸生産は質的にも量的にも格段の発展を遂げ、生糸輸出による外貨獲得は日本の近代化に貢献した。しかし後に「女工哀史」といわれる悲劇を伴なったことは看過できないであろう。 
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ホームページの目次
 1.はじめに
 2.養蚕 (ようさん)
 3.製糸 (せいし)
 4.機織 (はたおり)
 5.絹の道
 6.むすび



は じ め に

カイコという不思議な生物、カイコが生み出す生糸、生糸から織られた絹織物。それは美の世界であると同時に、外貨獲得、戦費捻出、機械産業の萌芽になる、など大きな社会貢献をしてきた。しかし、かつては「女工哀史」といわれ、現在は絹織物産業が衰退するなど、様々な社会問題を抱えている。

A
生糸はカイコ(蚕、蠶)のマユ(繭)から造られる。
カイコには家畜化された家蚕(かさん)の他に、野生の野蚕(やさん)がある。
                                     富岡製糸場
生糸から織られた絹織物は、和服の華である。
京都の西陣織会館では、毎日着物ショーが繰り広げられる。
 

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日本の生糸輸出額は明治の初期から増え続け、昭和の初期が最大となった。1900年頃は中国を抜いて世界一の生糸輸出国となり、生糸を輸出して得たお金で様々な機械を購入するなど、日本の歴史において重要な役割を果たしてきた。生糸がなければ、我国は日露戦争も2度の世界大戦も戦えなかったであろう。
 日清戦争     1894年〜1895年
 日露戦争     1904年〜1905年
 第1次世界大戦 1914年〜1918年
 太平洋戦争    1941年〜1945年

しかし、1965年(昭和40年)から生糸輸入が始まると共に国内生糸生産量が激減した。現在は主に中国からの輸入に頼っている。
 
 
 
群馬県日本絹の里展示より


我国の主要輸出品の長期推移−輸出に占める構成比の推移 (財務省貿易統計等による)
我国の主要輸出品が、茶、生糸、絹織物、綿織物、船舶、鉄鋼、自動車、電子、化学製品、機械・機器・同部品と、変遷
していることが分る。過去の栄光を回顧するだけでなく、新しい産業分野を開拓して行くことが我国にとって重要である。



養 蚕 (ようさん)

養 蚕 業

養蚕農家は、蚕種を仕入れて自家の桑葉で蚕を育て、繭にして出荷する。昭和4年のピーク時には、国内の農家戸数600万のうち約4割に相当する220万戸で養蚕が行われ、桑園面積は全畑地の約4分の1の71万haを占め、生糸輸出は約35,000トンであった。それが平成20年には国内の養蚕農家は約1,000戸(群馬県が約400戸で最多)、繭生産で約380トン(生糸2トン/平成18年)まで衰退した。

A                蚕の一生(生活環)

孵化したての1令幼虫は黒色で疎らな毛で覆われているので「毛蚕(ケゴ)」と呼ばれる。桑の葉を食べて成長し、十数時間程度の「眠」(脱皮の準備期間にあたる活動停止期)を経て脱皮する。

多くの品種の幼虫は、5令で終令を迎え、口から絹糸を吐き出し繭を作り、その中で蛹(さなぎ)になる。蛹は羽化すると、絹糸を溶かす酵素を出して自ら作った繭を破って出て行く。蛹は羽化すると、成虫(蛾)となる。成虫は飛翔筋が退化しているので、飛翔力を全く持たない。交尾の後、卵を約500粒産み、約10日で死ぬ。

           蚕の餌 桑葉と人工飼料

蚕は桑葉を主食として成育するが、実際の養蚕では、稚蚕期(1〜5令までの蚕の成育段階のうち、主として1〜3令の時期)は施設の整った共同飼育所で人工飼料を与えて飼育され、その後の壮蚕期に個々の農家で桑葉を与えて飼育されている。稚蚕期の蚕は非常に病気に弱いため、清浄な環境が保たれた共同飼育所で、安全な人工飼料で飼育されることにより、成育のそろった健康な蚕を飼育することができるほか、桑採りや飼育の労力も大幅に軽減できるため、現在の養蚕現場において人工飼料は不可欠な存在となっている。

人工飼料は乾燥した桑葉粉末とデンプン、脱脂大豆粉末、ビタミン等を混合し羊羹状にしたもので、蚕が健康に成育し、高品質な繭がより多く生産されるよう、栄養バランスと安全性に優れた飼料として、全国の養蚕農家に供給されている。
下仁田ふるさとセンター歴史民俗資料館展示より

A A A
蚕の卵(蚕種、さんしゅ)
1辺30cm余りの長方形の紙の
上に整然と産み付けられる
 
蚕種紙(蚕紙)の上に産み付け
られた卵は、重さ約0.6mg、
直径約1mmのラグビーボール型
 
桑の葉を食む蚕
最近は1〜3令の時期は人工飼料を与えるという
 
カイコが繭(まゆ)をつくる場所を蔟(まぶし)という。昔はわら蔟が使われたが、今はワンルームマンション式である。

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(左)群馬県前橋市総社地区 (右)群馬県甘楽町
いずれも換気のために建てられた高窓(ヤグラ、ウダツともいう)が、養蚕農家の特徴

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明治31年設立の前橋市にある群馬県蚕糸技術センターを訪ねた 技術センターの隣にある桑畑では、4月から手入れをしていた

     群馬県蚕糸技術センターでは、次の事業を行っている。
1.新しい蚕糸業の創出に関する試験研究
2.蚕糸業の高付加価値化に関する試験研究
3.保存蚕種及び育成蚕品種の製造、配布
4.養蚕農家及び製糸業者への技術支援
5.養蚕・製糸・絹業技術の保存と継承、体験支援
6.その他蚕糸業に関する試験研究、技術支援、情報提供及び人材育成



風穴(ふうけつ)による蚕種の保存

江戸時代まで蚕の飼育は気候に合わせた年内1蚕(春蚕中心)しかできなかった。しかし年間を通して涼しく、温度変化の少ない山間の風穴を利用することによって、人工的に蚕種を保存する技術が進み、蚕種の孵化時期が調整できるので、明治半ば以降には年に複数回の孵化が行えるようになった。

夏秋蚕は農家にとって農閑期にあたり、飼育に都合がよく急速に普及することとなった。明治期後半の蚕の増産は、風穴の利用によってもたらされたものと言っても過言ではない。また、この天然の冷蔵庫で冬(寒さ)を経験させることにより孵化の時期が不揃いであったものが一斉に孵化することとなり、作業効率が著しく向上したことも風穴の効用であった。
昭和初期に機械式冷蔵庫が普及するまで、養蚕・製糸業の一翼をになった。

荒船風穴は、富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡と共に、世界遺産候補「富岡製糸所と絹産業遺産群」の4資産の1つとなっている。

今回は下仁田町教育委員会ふるさとセンターの方に案内頂いた。

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荒船風穴は、群馬県下仁田から長野県佐久への峠越えの街道の途中の標高840mの所にある。付近からは荒船風穴の名前の縁である荒船山が望まれる。 峠越えの街道に面した山の斜面は、
世界遺産候補のバッファゾーンとなっている。
 

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              現地に建てられた説明板
左から、番社(管理棟)、1号風穴(明治38年建設)、2号風穴(明治41年)、3号風穴(大正3年)。3基の風穴を合わせた蚕種貯蔵枚数は110万枚に及んだ。番社から地元の養蚕家・庭屋静太郎の自宅の間には当時珍しい電話が敷かれた。
 
                   2号風穴
沢の片面を利用し、荒船山の火山の安山岩を使って約3mの高さに石垣を組み、岩の間から吹き出す冷風によって蚕種を貯蔵した。現在は斜面の土圧で石垣が崩れるが、国指定史跡のため石1個ずつ写真を撮り、番号を付けて保管し、修復している。工事業者も大変である。

外気温が28℃に達する8月でも貯蔵庫の中は8℃未満で、蚕種の保存に適している  下仁田ふるさとセンター歴史民俗資料館




野 蚕 と 天 蚕

室内で飼育されるカイコ(家蚕、かさん)に対して、屋外に生息する絹糸昆虫を野蚕(やさん)という。野蚕の種類は多いが、中でも天蚕(てんさん)はクヌギの若葉で飼育され、緑の絹糸を吐くので珍重される。

マダガスカルで見た野蚕

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2010年10月に、マダガスカルの
イサロ国立公園をトレッキングした
 クリックするとマダガスカル旅行をご覧になれます
トレッキング中にガイドのウイルソンさんが、この木はタピアの木で、蚕の餌になると話してくれた
 
しばらく歩くと偶然、タピアの幼木に付着した野蚕の繭を見つけた。 今回の旅で、私にとって天からの贈り物だと思った
マダガスカル島に生息するボロセラはマツケムシの仲間で害虫であるが、この繭から作られた絹布は、死者を包む布として有名である。世界にはいろいろな野蚕が生息しており、家蚕にない特徴ある野生絹糸が生産されている。蚕が家畜化に伴って失われたもの、すなわち、大量生産に不向きな不揃いや個性などが、野蚕系の繭糸に残されている。それが大衆化されないシルクの魅力を創出し、希少性と環境保全にもからみ高付加価値をもたらしている。                   「繊維と工業」Vol.63,No.9(2007)から抜粋



安曇野市天蚕センターで見た天蚕

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長野県安曇野市天蚕センターでは、
天蚕から造った生糸や織物を展示している
天蚕から造られた生糸
 




                         養蚕の起源と伝説

中国での起源
養蚕はは少なくとも5000年の歴史を持つ。伝説によれば黄帝の后・西陵氏が、庭で繭を作る昆虫を見つけ、黄帝にねだって飼い始めたと言われる。絹(silk)の語源は、西陵氏(Si Ling-chu)であるという。
「カイコ」の祖先は東アジアに生息する「クワコ 」であり、中国大陸で家畜化されたというのが有力な説である。カイコとクワコは別種とされるが、これらの交雑種は生殖能力をもち、飼育環境下で生存・繁殖できることが知られている。一方でクワコはカイコとは習性がかなり異なり、カイコと異なり活発に行動し、また群生する事が無い。これを飼育して絹糸を取る事は不可能に近い。むしろ科レベルにおいてカイコとは異なる昆虫である「ヤママユ」のほうが、絹糸を取るのに利用されるほどである。そのためカイコの祖先は、クワコとは近縁だが別種の未知の昆虫ではないかという説もある。


日本の伝説
カイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して日本に伝わってきたといわれているが、古来においては様々な言い伝えがあり、『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。

『古事記』上巻
高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。頭に、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれたという。

『日本書紀』神産みの第十一の一書
ツクヨミ(月夜見尊)がアマテラス(天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ(保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト(天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。
                                         Wikipediaによる



製 糸 (せいし)

繰糸機の歴史

蚕の繭から生糸を造ることを製糸という。製糸を行う機械(器械)を繰糸機(繰糸器)という。富岡製糸場創業当時フランスやイタリアから輸入された繰糸機は、大正・昭和の時代には世界最高性能の日本製に置き換わって行く。ここには日本の機械工業発展の原点が見られる。

操糸機の進歩を分りやすく示している     日本絹の里

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江戸時代の上州座繰り機                     東京農工大学科学博物館

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明治5年富岡製糸場に設置されたフランス式操糸式                       富岡製糸場

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大正14年(1926年)に完成された御法川式多条操機
御法川(1857〜1930)は繭の性質を調べるうちに、繰糸速度を5分の1に落とす代わりに、
1人が担当する条数を5倍にした20条緩急速度低温多条繰糸機を完成させた。
この機械の出現により、日本の製糸法は一変し、繰糸を中心とする周辺技術を巻き込んで
製糸技術が飛躍的に発展した。それまでの能率至上主義だった日本の経営姿勢を、
                            品質第一に転換させるきっかけとなった。                片倉シルク博物館り

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日本的工夫の一例
繭から糸口を引き出すのに、高温の湯の中でミゴホウキで繭の表面を擦ることにより、繭から糸口を引き出すことに成功した。
しかも自動的にやってしまうという日本的発明である。ミゴホウキとは、藁の穂先部分(ミゴ)を集めて作ったホウキのこと。
                                                                  片倉シルク博物館

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ニッサン自動繰糸機 HR-2型
湯の中の繭から生糸を造る全工程を自動化した機械。繰糸中の生糸の太さを感知し、細くなると繭糸1本を追加して
生糸の太さを補正する。この展示機は、昭和49年の北京農業博覧会に出展し、連日実演して好評を博した。
富岡製糸場に最初に設置されたのはフランス式であったが、昭和41年〜55年にすべてニッサン HR-2型に置き換えられた。
                                                               東京農工大学科学博物館



富岡製糸場

富岡製糸場(とみおかせいしじょう)は、群馬県富岡市にあった日本初の機械製糸工場である。官営模範工場の一つであり、明治5年10月4日(1872年11月4日)に操業を開始した。

開国直後の日本にとって、利益が期待された輸出品は茶と生糸であった。だが、繭から生糸をつくる製糸工程は人力や前近代的な小規模な器具によるところが大きく、フランスやイタリアよりも製品の質の面で大きく劣ると評されていた。このため、これらの国々と同様に大規模な機械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが殖産興業推進のためには欠かせないと考えられるようになっていった。

明治政府は、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡に日本初の機械製糸工場を設置した。当時は世界でも有数の規模であり、和田英ら数百人の女工が日本全国から集められた。女工の労働環境は充実しており、六工社など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。ただし、当時大蔵民部省官吏として建設に尽力した渋沢栄一は、後年自己批判も込めて「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書き記している。

明治8年に日本人による操業が始まったが、大規模すぎたため十分に機能を発揮できず、官営工業の払い下げ令により、明治26年(1893年)に三井家へ払い下げられた。明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡り、昭和14年(1939年)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となり、昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けた。

現在、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産に登録する取り組みが進められており、平成19年日本の世界遺産暫定リストに加えられた。
                                               
Wikipedia ほかによる

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富岡製糸場の入口  世界遺産候補となってから見学者が引きも切らない
正面の東繭倉庫のアーチのキーストーン

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(左)は東繭倉庫で、木骨煉瓦で全長104m、煉瓦の積み方は
 フランス式。煉瓦は、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教え、
 福島町(現甘楽町福島)にき焼き上げた。
(右奥)は、検査人館。生糸や機械の検査を担当したフランス人
 男性の住居
(右手前)は女工館。日本人の女工に技術を教えるために雇われた
 フランス人女子教師の住居
ブリュナ館
製糸場首長のポール・ブリューナ・一家とメイドは、
明治8年末の任期満了まで、ここで生活した。
 
 
 
 

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繰糸場の外観
全長140m、当時貴重だったガラス窓が使われている。
 
 
繰糸場の内部
柱のないトラス構造、創業当時はフランス式の繰糸機が
設置されていたが、現在は操業終了時の片倉製糸時代
のニッサン製が設置されている。

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       操業開始当時のフランス式繰糸機(復元機)
明治5年、官営富岡製糸場の創業にあわせて、ブリューナにより300釜のフランス式繰糸機が設置されたが、その後イタリア式に置き換わり、閉業のときには国産のものが設置されていた。
  
                     鉄水槽
明治8年(1875年)ごろに設置され、直径15m深さ2.1mで、貯水量は400トン。製糸場で使用する大量の水をためておくために造られ、現存する国産最古の鉄構造物とされる。
                    東京農工大学・養蚕業と製糸業アーカイブスより
 
鉄水槽は、最初はレンガ造であったが、しばしば漏水してその修理中は製糸作業が出来ず相当な損失が出たので、これを鉄製にしようとブリューナが提案し、フランスに発注しようとしたが、費用がかかり過ぎるので、横浜製造所において製作することになった。当時横浜製造所は大蔵省の管轄下にあり、艦船の修理が中心だった。水槽本体は、厚さ約5mmの鉄板を使用し、3m程度の鉄板を組み合わせ、リベットで接合している。他に例を見ない鉄製構造物として、重要な産業遺産といえる。詳しくは、国立科学博物館の報告書をご覧頂きたい

A
            錦絵に見る富岡製糸場(全景)
                                     富岡製糸場入場券より
         錦絵に見る富岡製糸場(糸繰場内部)
                              東京農工大学科学博物館



富岡製糸場と絹産業遺産群の世界文化遺産への推薦

2013年にユネスコ世界遺産センターへ正式推薦書が提出された「富岡製糸場と絹産業遺産群」について、資産の意義、資産の範囲、該当する登録基準などについて原文のまま紹介する。      ホームページ 富岡製糸場と絹産業遺産群 より 

富岡製糸場と絹産業遺産群の案内図関東地方北部に位置する群馬県域には、わが国初の大規模工場として誕生した富岡製糸場はじめ、繭を生産した養蚕農家群、自然の冷気を利用して蚕種(繭の卵)を保存した風穴などの絹産業遺産が良好な状態で遺されています。

明治5年(1872年)に建設された富岡製糸場の生糸の大量生産は、養蚕・製糸・織物にかかわる一連の絹産業を発展させ、群馬県域をわが国有数の絹産業の地にしました。その先進的な技術は国内各地に伝播され、さらに養蚕の技術革新が進み、原料繭の大量生産に成功しました。
その結果、1920年代には世界一の生糸輸出国になり、安価で良質な生糸を輸出し、高級繊維の絹をより身近な存在に変えました。戦後は、生糸生産のオートメーション化にも成功、自動繰糸機は全世界に輸出され、絹の大衆化に貢献、世界の絹産業を支えています。

政府は、2012年8月23日、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に推薦することを決定。2013年1月31日、ユネスコ世界遺産センターへ正式推薦書を提出しました。2014年に開催される世界遺産委員会で登録の可否が審議されるはこびになりました。

登録を目指す資産は次の4資産です。
   富岡製糸場(とみおかせいしじょう)
   田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)
   高山社跡(たかやましゃあと)
   荒船風穴(あらふねふうけつ)

産業の近代化に貢献した近代産業遺産は、アイアンブリッジ(イギリス)、フランス王立製塩所(フランス)、ダージリン・ヒマラヤ鉄道(インド)などが世界遺産に登録されていますが、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が登録されると、わが国では初の近代産業遺産になります。


■暫定リストに記載された年
2007年

■該当する登録基準
(ii) 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v) あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存在が危ぶまれているもの)。




製糸工場と工女物語

富岡製糸場の工女の墓

富岡製糸場の工女等の墓がある龍光寺は、上信電鉄上州富岡駅から富岡製糸場へ歩いて行く途中にある。この墓は明治26年に元富岡製絲所長によって建立されたものである。女工哀史といわれた後の世のものではない。これからも明治の士族の工女と大正・昭和の女工の違いが想像できる。

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富岡製糸場の工女等の墓がある龍光寺 寺の境内にある案内板

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Aゾーンにある合同墓碑(表)には、
14人の名前が刻まれている 
合同墓碑(裏)には、
明治26年11月に元富岡製絲所長によって建立されたと刻されている



明治・大正・昭和の工女たち

士族の子女であった明治の富岡製糸場の工女と、貧しい農家出身の大正・昭和の女工は、区別せねばならないだろう。明治・大正・昭和の日記・記録・小説から、時代と共に厳しくなっていく工女の姿が窺える。各種の書評、Wikipediaなどを参考にした。

富岡日記 (明治の日記)

A 著者:和田 英 (わだ えい、1857 - 1929) 旧姓は横田

出版:みすず書房 (2011年 )ほか
   著作権は1981年に消滅。Websiteから無料ダウンロードできる。

著者経歴:
1857年 長野県埴科郡松代町(現・長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次女として生まれる。
1873年 松代町から英を含む16人が富岡製糸場へ伝習工女として入場する。
1874年 富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村(現・長野市松代町西条) に建設された日本初の民営機械製糸場六工社の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たす。
1878年 和田盛治と結婚。
1905年 富岡製糸場での日々を回顧して『富岡日記』を著す。

概要と感想:
富岡製糸工場の初期女工として働いた武家の娘、和田(当時は横田)英による、富岡製糸工場の記録と、彼女が故郷松代に帰ってから操業に参加した六工社の記録。当時の労働環境、女工の日々の生活、労働倫理や事業への参加意識が伺われる重要な資料。また、日本の西洋技術の習得およびその技術移転の実態も非常によくわかる。
英は17歳で故郷を離れ富岡に着任するが、工女募集責任者である父親横田数馬の影響をうけ、国益と家名のために自ら進んで工女となっている。『富岡日記』の前半は伝習生として、後半は技術者としての記録であるが、どちらも国家的視点から展開されている。


女工哀史 (大正の記録)

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著者:細井和喜蔵(ほそい わきぞう 1897 - 1925)

出版:岩波文庫 (1980年 )ほか
   初刊は大正14年(1925年)、改造社

著者経歴:
京都府の生れ。幼いときから両親と別れ、13歳の時には唯一の保護者だった祖母にも死なれ、学校をやめて近くの機屋の小僧となる。
1916年に大阪に出て、紡績工場に勤める。まもなく、草創期の労働運動にも参加するようになる。
1920年に上京して、紡績工場に勤めるが、実際の労働運動からは距離をおくようになる。そのころから文学の道に向かう。
1924年、紡績工場の現実をルポルタージュにした「女工哀史」を雑誌『改造』に発表し、翌年単行本として改造社から刊行し、注目を浴びる。

概要と感想:
本人の職場経験あればこそのリアルな観察、古老からの聞き書き、妻「としを」の職場経験や、彼女との討論などが生かされ、内容は多岐にわたっている。
章を挙げると、工場組織と従業員の階級、女工募集の裏表、雇用契約制度、労働条件、工場における女工の虐使、労働者の住居および食物、工場設備および作業状態、いわゆる福利増進施設、女工の心理、等々である。工場内部に精通していなければ、また女性の協力者がいなければ書けない内容である。



野麦峠 (昭和の小説)

A 著者:山本 茂実 (やまもと しげみ 1917 - 1998)

出版:角川文庫 (1977年 )ほか
   初刊は昭和43年(1968年)、朝日新聞社

著者経歴:
長野県松本市の農家の生まれ。長男。松本青年学校に通う。招集され近衛歩兵第3連隊に入る。終戦後、31歳になってから上京し早稲田大学文学部哲学科の聴講生となる。
1948年 雑誌「葦」を創刊。
1952年 雑誌「潮」を創刊し編集長となる。
1968年 ノンフィクション文学 「あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史」を発表。250万部のベストセラーとなった。
松本市歴史の里に「山本茂実記念館」がある。

概要と感想:
戦前に飛騨の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの姿を伝えた。山本は10数年におよび飛騨・信州一円を取材し数百人の女工、工場関係者からの聞き取りを行ったという。

         中学生が制作した短編映画 『野麦峠を越えた少女たち』
あゝ野麦峠」は大竹しのぶ主演で1979年に映画化された。これとは別だが、松本市の奈川中学校3年生が「野麦峠を越えた少女たち」という題名の短編駅画を制作し、キッド・ウィットネス・ニュース 2012年度日本最優秀作品賞/未来をつくる少女賞を受賞した。近代の歴史とふるさとの歴史を見事に描いている。
              
ここをクリックしてYoutubeでご覧下さい


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         松本市歴史の里に移築されたかつての「工女宿」宝来屋
江戸時代後期、野麦峠直下の集落に、野麦街道に面して建てられた旅人宿。野麦街道は、古来信州松本と飛騨高山とを結ぶ経済交通路で、明治・大正時代には諏訪地方の製糸工場で働く飛騨の女性たちが往来したことで知られている。
松本市歴史の里にある
野麦峠の少女像
 
 



機 織 (はたおり)

織機の歴史

機織りについて素人の私にとって、機織りの原理を知り、機織りの歴史を訪ねることは興味深かった。織機の画期的進歩という点ではフランス人ジャカールの業績が大きいし、高速自動織機では日本メーカーの豊田と日産の果たした役割は大きい。ここでは絹織物に限らず、綿・化繊を含めた織機の歴史を訪ねよう。

A         織りの基本作業

「織物」は縦に張り渡した糸、経糸(たていと)に、横方向の糸、緯糸(よこいと)を交差させて作るものである。織機はこれを行うための機械である。

@ 開口

先ず、「たて糸」を2グループに分け、上下に動かすことにより2グループの「たて糸」の間に空隙を作る。

A よこ入れ
出来た「たて糸」の空隙に「よこ糸」を通す。「よこ糸」は「杼(ひ)」と呼ばれる糸巻きに内蔵されている。「杼」は布の端から他の端に向かって手で(後には機械で)飛ばされる。

B 筬(おさ)打ち(よこうち)
たて糸の2つのグループを入れ替え、「よこ糸」を挟む。その後「筬」を手前に引き寄せることにより、「よこ糸」を布まで押し込む。

         織機の進歩

「たて糸」をどのように2グループに分けるかで織り模様が出来る。「たて糸」を奇数番と偶数番にに分ければ、平織りになる。「たて糸」を数本まとめてグループにし、織って行く途中でグループを変更すれば、柄織りになる。グループによって色の異なる「よこ糸」を通せば色模様が織れる。織機の進歩は、たて糸のグループ分けをどのような方法で行うかにかかっている。シャカード織機の発明はこの点にある。

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日本古来の手織機
「鶴の恩返し」に出てくるもの  西陣織会館の展示模型
 
   桃山期以降、西陣など各地で使われ空引機(そらびきばた)
子供が織機の上に居て、たて糸の複雑な上げ下ろしを下からの指示通り行って文様を作っていた。           西陣織会館の展示模型

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(左)ジャカード紋織機  (右)ジャカード装置の紋紙
                                        東京農工大学科学博物館
 
 
ジャカード付き手織機
このような海外技術の取り入れは
明治時代から日本人の得意技である
                  西陣織会館の展示模型
ジャカード紋織機は、1804年フランスの発明家ジョゼフ・マリー・ジャカール(Joseph Marie Jacquard)により発明・開発された。紋紙の1列の孔が「よこ糸」および「たて糸」に対応しており、孔の有無に従って「たて糸」を個別的に上下させて、紋紙のパターン通りの模様を織り出す。それまで複雑な模様の布を織ることは非常に手間がかかったが、ジャカードにより複雑な模様が生産性よく織ることが出来るようになった。

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無停止杼交換式豊田自動織機(G型) 東京農工大学科学博物館 豊田自動織機の交換用の杼が3本見える 東京農工大学科学博物館
豊田左吉が、1924年に発明・完成した、世界初で最高性能の完全な無停止杼交換式自動織機である。高速運転中にスピードを落とすことなく杼を交換して、「よこ糸」を自動的に補給する自動杼交換装置をはじめ、24の自動化、保護・安全装置を連動させ、生産性を一躍20倍以上に向上させた。

第1次世界大戦後の不況克服のための世界的課題であった、産業・経営合理化に非常に期待をもって迎えられ、綿布を重要輸出品とする日本の紡織界を救った。第2次世界大戦後は、国民の衣料不足の緩和に重要な役割を果たすとともに、日本の機械の輸出第1号となって、外貨を獲得し、生活必需物資の輸入を可能にしたなど、日本の復興に多大な貢献をした。

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       ニッサンジェットルーム・ウォータタイプ LW41型
          ウォータジェット織機(昭和43年製造)
杼の代りに、「よこ糸」を高速で噴出する水流に乗せて運ぶ方式の織機である。水を使用しているため、疎水性のナイロン、ポリエステルなど、合成繊維の製織に適している。
                            東京農工大学科学博物館
       ニッサンジェットルーム・エアータイプ LA20型
          エアージェット織機(昭和51年製造)
杼の代りに、「よこ糸」を空気の墳流に乗せて運ぶ方式の織機で、1分間に数百本の「よこ糸」を織りこむことが可能である。Yシャツ生地やデニム、シーツなど量産織物の多くが、世界中でエアジェット織機によって生産されている。                    東京農工大学科学博物館



先染めと後染め、先錬りと後錬り

                        織物染物
染織
(せんしょく)とは、布を「染める」ことと「織る」ことの総称である。「染物(そめもの)」と「織物(おりもの)」は区別することが出来る。しかし、布は何らかの繊維を織らなくては存在し得ないので、「織物」の「織る」という過程無くしては「染物」も存在しえないため、「染織」は「織物」と実体としては同一と考えてよい。しかし、「織物」が成果物のみを指すのに対し、「染織」はその製作過程を含めたより広い概念であり、同一概念ではない。

織物
 (1)全く染めない
 (2)繊維を染めてから織る
 (3)繊維を織ってから染める
の3種に分類できる。「染物」は通常3を指す場合が多い。(2)も染めてはいるが、普通「染物」とは言わない。

                       
先染め後染め
糸の段階で染め、その染めた糸を用いて織りあげること、または、そのようにして製造した織物を後染めという。 一方、染めていない糸で織り上げた織物(白生地)を染めること、または、そのようにして製造した織物を後染めという。先染めでは、絣模様、西陣織、博多織などが有名。後染めでは、友禅染めなどがその技法の代表格。

                        
先練り後練り
生糸(繭から繰り出したそのままの糸)の状態ではフィブロインという繊維質のまわりにセリシンというにかわ質の、いわば接着剤のようなものがついている。そのままではごわごわしていて硬い感じなのでセリシンを取り除く。この工程が絹の精錬で「練り」と呼ばれる。この練りを、糸の状態で行ってから織物にするのが先練りで、織物にしてから行うのが後練りである。両者で、できる布に違いが出る。例えば、セリシンは生糸の重量のうちの約1/4で、精錬はこれを溶かして落とすことであるから糸は当然やせて細くなる。後練り織物の場合、織りあがった直後に比べ、練った後は糸と糸との隙間が広がり薄く軽くなるというわけである。それから、先練りではほとんどの場合先染めを行うが、後練りでは、布になって練るまではセリシンがついたままであるので染めることができないため、後染めとなる。
                                   
Wikipedia、Seesaaブログなどを参考にした



絹織物の種類

日本全国にそれぞれ独特の伝統的絹織物がある。群馬県立「日本絹の里」では、それらを総覧できる。開館15周年を迎えたこの博物館は、養蚕、製糸、機織り、絹織物など日本の絹文化を紹介する貴重な博物館である。

日本の伝統的シルク産業                        日本絹の里

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代表的な織物が展示されている          日本絹の里HPより 群馬県立「日本絹の里」



絹織物の生産地

日本全国にそれぞれ独特の伝統的絹織物の生産地があるが、江戸時代に「西の西陣、東の桐生」とまで謳われた「西陣」と「桐生」を訪ねよう。

京都 西陣

京都で織物作りが始まったのは、桓武天皇によって平安京が築かれるよりも前の5世紀頃のこと。平安遷都とともに宮廷の織物を管理していた「織部司」と呼ばれる役所が置かれ、今の上京区黒門上長者町あたりに住んでいた職人に、綾・錦など高級な織物作りを奨励したのにともない、発展したといわれている。

平安時代も半ばを過ぎると、こうした官営の織物工房も衰えてきたが、職人たちは織部司の東の大舎人町あたりに集まって住み、宮廷の管理下を離れた自由な織物作りを開始。「大舎人の綾」、「大宮の絹」などと呼ばれる織物などが作られた。また、宋から伝えられた綾織の技を研究して、独自の唐綾を開発。神社や寺院の装飾にふさわしい重厚な織物として重宝された。

1467年に起こった応仁の乱が終わると、各地に離散していた織物職人たちも京都に戻り、戦乱の際に山名宗全率いる西軍の陣地が置かれていたあたりで、織物作りを再開した。戦乱以前から織物の町として栄えていた京都北西部の一帯が「西陣」と呼ばれるようになったのはこの頃から。西軍の陣地跡だから「西陣」というわけである。

西陣では、西陣織工業組合の「西陣織会館」と、手織技術振興財団の「織成館」を見学した。



西陣織会館

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京都市上京区堀川通今出川南入に建つ
西陣織会館
 
会館に掲げられた旗は、山名宗全の陣地西陣のものかと思ったが、「西陣織物同業組合」時代(昭和26年頃)にデザインされたものらしい。

西陣織会館には、資料室、西陣織ショップ、きもの体験、手織体験など見るべきものが多いが、ここでは「きものショー」を紹介しよう。

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織 成 館 (おりなすかん)

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京都市上京区浄福寺通大黒町辺りは、古い町屋が並び、
機織りの音が聞こえてきそうな情緒がある。
表道りを見ただけでは町屋の奥行きは分らない。たまたま1建分が
空地になっている所があり、町屋の奥行きの深さが実感できた。

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このような町屋の並ぶ一画に、織成館(おりなすかん)がある

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暖簾をくぐると、坪庭があり右に入口、左に長い通路がある 入口を入った所の、能装束を飾った吹き抜けの展示フロアー

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総理大臣賞などを受賞されたご主人が、西陣織の機織り工程を
説明して下さる。 ご厚意で撮影させて頂いた。
出来あがった見事な織物
 

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十数本の異なる「よこ糸」が収納された杼を、「たて糸」の間を通すことにより、
複雑な模様が織られる。鏡と照明で裏の織り具合も確認できる。
 
       出来あがった西陣織の帯
照明により色合いが異なって見えるので、色調調整をした。

2階の能装束展示室  町屋の奥庭からの自然光と室内の電灯光がミックスし、写真の色調の再現が難しい

2階から眺める、奥行きの長い町屋の奥庭



群馬県 桐生

群馬県桐生市は、江戸時代から絹織物業で栄えたところ。明治期から昭和初期にかけて、桐生はその経済的豊かさを背景に日本の近代化を先導した町だったという。戦災を免れた桐生の町にはその頃に建てられた建物が数多く残されている。桐生市はこうした「近代化遺産」の保存、活用に積極的で、平成4年には「近代化遺産拠点都市」の宣言を行っている。

桐生特産の絹織物は「桐生織」と呼ばれ、江戸時代には「西の西陣、東の桐生」とまで謳われたほどだった。桐生ではすでに天保年間(1830年〜1843年)にマニュファクチュア(工場制手工業」と訳される)を導入していたというから、そもそも新しいものへの進取の気風が桐生の人々にはあったのだろう。

有 鄰 館(ゆうりんかん)

桐生市有鄰館は、桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区内である本町二丁目の南端にある。かつて酒・味噌・醤油を醸造し、保管していた江戸時代から昭和時代にかけての11棟の蔵群が舞台や展示、演劇、コンサートなど多目的に活用されている。絹織物とは直接の関係はないが、伝統的建造物群として興味深い。

「有鄰」とは、孔子の「徳孤ならず必ず鄰あり」という故事 から引用した言葉

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大谷石造りのノコギリ屋根の工場 有鄰館の入口

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広い塩蔵で開催されている陶器展



無 鄰 館 (むりんかん)

無鄰館は、桐生市本町にある旧北川織物工場の現在の名称。現存するノコギリ屋根工場は、大正5年(1916)に建築され、昭和35年頃まで操業していた。現在は、建築設計事務所のほか、彫刻家、画家、音楽家たちの創作工房として利用されている。

「有鄰館があるのだから無鄰館があってもいいだろう」という館長の北川さんのネーミング

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付近にはノコギリ屋根工場の名残が多い
残念ながら、この屋根の北窓は塞がれている
ノコギリ屋根の工場群を活用した無鄰館は、
文化庁の登録有形文化財に指定されている 

                       コノギリ屋根工場
西の西陣、東の桐生といわれ、群馬県桐生市は絹織物の町として栄えた。屋根の北側に向いた斜面にガラスの天窓が付いている。北からの採光で1日を通して均一の明かりを取り入れ、織物の色合いを見るのに適している。また、天井が高いので、当時普及したジャカード織機を使うためのモーターのシャフトを取り付ける空間を確保しやすい。「連」とも呼ばれる三角屋根をつなげれば自由に増築していくことができる。これがノコギリ屋根が流行した理由のようだ。ほとんどが木造だが、煉瓦(れんが)造り、大谷石などのものもある。

しかし、中国や韓国の追い上げで日本の織物工業は衰退、昭和35年(1960年)以降、ノコギリ屋根工場はどんどん減った。冷暖房効率が悪いことや、屋根の溝部分のメンテナンスが厄介なことも理由だった。市内には現在、約260棟が残っているが、そのうち創業当時のまま工場などに使われているのは4分の1程度で、後は倉庫や住宅、レストラン、アトリエ、工房、卓球場などに転用されている。                                
日経 日本の近代遺産50選より

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ライブハウス クリエーターの工房



織物参考館 紫(ゆかり)

桐生市の森秀織物株式会社という操業中の織物工場の敷地内に設けられた博物館。見学者に織物の歴史を知ってもらえるよう、消えつつある古い染織技術、文化の発展、足跡を物語る貴重な資料1200点余りを展示している。 合わせて藍染色、手織り教室も開校している。

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織物参考館の入り口 建物はノコギリ屋根の工場である

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明治時代の高機(たかはた)  ジャカードはなく、平織りしかできない 手織機にジャカードを付加したもの

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            ジャカード付き手織機の実演
「たて糸」の上げ下げはジャカードがやってくれるので、織り手はいくつかの杼を選んで通すだけでよい。 
                  八丁撚糸機
古来より手回しの撚糸機であったが、岩瀬吉兵衛は天明3年(1783年)に水車動力を用いるよう改良し、多大の便益を桐生に与えた。

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工場の一角にある藍染め工房 掲示されていた「藍がめの醗酵条件」

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工場では、土産用の「織物カレンダー」が織られていた。ジャカードは機械上部にあり、紋紙を使わないダイレクト・タイプで、電気と磁石を使いコンピューターで操作する。 浮世絵部分だけ、5連で織っていた。
「たて糸」はテトロン、「よこ糸」はアセテート
 
 
別に織ったカレンダーと
組み合わせて、完成

  



絹 の 道

絹の道(シルクロード)とは

シルクロードという語は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China』(1877年)においてザイデンシュトラーセン Seidenstrassen(ドイツ語で「絹の道」の意)として使用したのが最初で、弟子であるヘディンが著した中央アジア旅行記の書名の一つに用い、さらに1938年に『The Silk Roads 』の題名で英訳されたことで有名となった。中国語では絲綢之路

シルクロードを中国とローマとの間の主要貿易路とするならば、その中国側起点は洛陽か長安(現在の西安)という説が有力であったが、2007年に中国政府は洛陽であると認定した。その欧州側起点はシリアのアンティオキアといわれている。シルクロードは中国国内ではいくつかの経路に分岐するが、主なものは北から天山北路、天山南路、西域南道の3つである。

シルクロードという語は中国と関わる貿易路の代名詞のようにもなっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路のことを海のシルクロードと呼ぶこともある。

日本では、奈良の正倉院に残る数多くの中国製やペルシア製の宝物、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人が日本に来朝したことに関する記録などがある。当時の日本は唐代の東西交通路に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。

日本国内においても、幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品であった絹を横浜港に運ぶ交易路が存在し、その集積地があった八王子から横浜にかけての道が絹の道と呼ばれることもある。
                                                                 Wikipediaほかによる
小生の中国シルクロードの旅については、ここをクリックしてご覧下さい

東西を結ぶシルクロード                      日本絹の里の展示より 

A         日本のシルクロード

幕末から明治にかけて、絹の集積地八王子から横浜港に運ぶ道は絹の道と呼ばれることもある。絹の道はヨーロッパの文化を運ぶ道でもあった。

外貨獲得のもっとも重要な輸出品である生糸を早く、大量に、しかも安く輸送するため、群馬県・長野県各地から横浜につながる、まさにシルク鉄道といえる鉄道が整備された。高崎線、八高線、中央線、上野鉄道(現在の上信電鉄)などである。特に、多くの養蚕農家が出資した群馬県の上野鉄道(こうずけてつどう)は、蚕種や繭の輸送に利用された。 
江戸時代の街道
            群馬県生涯学習センターHPを改変



八王子と横浜を結ぶ絹の道

八王子と横浜を結ぶ絹の道のうち、八王子周辺と、旧道が整備されている鑓水〜大塚公園を散策した。


  八王子市内の絹業関係建造物・記念碑マップ  群馬県生涯学習センターHPより

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               八王子市の桑並木通り
八王子は桑都とも呼ばれる。これは西行法師の詠んだ歌に由来する。
  浅川を渡れば富士の影清く 桑の都に青嵐吹く
               八王子市郷土資料館
市内の考古資料や民俗資料が展示してある。古くから行われていた製糸や織物に関する器具の展示があり、織物体験が出来る。

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鑓水の小泉家屋敷は、この地域を代表する往時の養蚕農家 大栗川に架かる御殿橋に記された道標

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絹の道資料館の正門
この場所は「石垣大尽」と呼ばれた鑓水の豪商、八木下要右衛門の屋敷跡である。明治17年(1884年)に
母屋が永泉寺本堂として移築されて以降、ここには建物はなかった。発掘調査による遺跡の確認や石垣の
復元を経て建物を復元し、平成2年(1990年)に資料館とした。館内には生糸を扱う鑓水商人の盛衰の歴史の
資料が展示されている。

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 鑓水から、道了堂跡のある大塚公園への「絹の道」を北上すると、
 この説明板がある
説明板から大塚公園までは、八王子市で大塚山「絹の道」として
自然環境を保全している

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道了堂跡と「絹の道」の道標
鑓水商人の大塚五郎吉が中心となって、峠を通る旅人や村内の安全のために、
見晴らしの良い峠に、浅草花川戸から道了尊を勧請して明治7年(1874年)に
創建したもの。次第に荒廃し、今は礎石がわすかにかつての面影を偲ばせる。



横浜市街の絹関連遺産

生糸の輸出港であった横浜市街には、絹関連の遺産が多い。横浜は私の第2の故郷(第1の故郷は大阪)であるので、ついつい詳しく説明してしまうことをご容赦願いたい。

横浜市街の絹業関係建造物・記念碑マップ    群馬県生涯学習センターHPより

「象の鼻」から眺めた横浜市街の臨港地区のパノラマ写真
安政6年(1859年)の横浜開港に当り、現在の大桟橋付け根付近に波止場として2本の突堤が造られた。西側は税関用として、
東側は外国貨物用として使われた。この波止場は数年後には内側に湾曲した形状に改修され、その形から、「象の鼻」と呼ばれた。
ここから生糸などが海外に輸出された。今では「象の鼻」は横浜市街の臨港地区を眺める絶好の観光ポイントになっている。

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       日米和親条約調印の地
嘉永6年(1853年)に米国東インド艦隊のペリー長官が浦賀に来航し、開国を要求した。幕府はその威力に屈し、翌年3月に横浜で日米和親条約を結び、長い鎖国を終え、開国した。
                         シルク博物館
シルクセンタービルの2階にシルク博物館がある。館内は4つのゾーンからなる。
(1)絹と生活ゾーン  (2)蚕から絹ができるまでの学習ゾーン  (3)世界の絹の歩みゾーン  (4)日本の絹の歩みゾーン  特に、(4)の日本の風俗衣装の変遷は、人形に本物の衣装を着せたもので、素晴らしい展示である。

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英ジャーマディン・マセソン商会(英一番館)の跡
ここは開港直後初めて居留地が建設されたところ
英一番館の近くにある「シルク通り」
 

A 上州出身の中井屋重兵衛(1820-1861年)は、安政6年(1859年)の開港と同時に横浜に進出し、外国貿易を目的に誰よりも早く時代を予見した人物である。独自の商才と商魂で危険や冒険をものともせず、生糸や織物・雑貨を外国商人相手に商売し豪商の名を築いたものの、時代が追い付かず突然横浜から姿を消したといわれている。

中井屋重兵衛店跡には、今は東京都民銀行横浜支店があり、昔日の面影はない。
  中井屋重兵衛店跡の碑

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旧横浜生糸検査所(現横浜第2合同庁舎)
開港すると貿易が始まり、大量の生糸が外国商館を通して輸出され出した。しかし、避けて通れない日本の粗悪品生糸の課題を
解決するため生糸検査制度が確立された。横浜生糸検査所が発足したのは明治29年(1896年)である。フランスから製糸技術や
生糸検査の方法を学び検査機械を買い入れて検査を始めた。昭和2年(1929年)からは輸出生糸検査法が施行され、輸出生糸は
すべて強制的に検査を行うようになったので、相互に信頼できる貿易が行われるようになった。関東大震災後に再建した建物は
平成2年に取り壊され、平成5年に横浜第二合同庁舎としてよみがえった。低層部は旧庁舎の外壁が復元されている。

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旧横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争の戦費を調達するために紙幣を増発したため紙幣価値の暴落、輸入超過による銀貨の
海外流出などが生じ、これを調整する貿易金融機関が必要となり、明治政府は明治10年(1880年)に横浜正金銀行を開業させた。
建物は明治37年(1904年)に建てられたもので、明治建築界の巨匠といわれた妻木頼黄の代表作で古典主義様式の石造建築である。

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          吉田橋関門跡
吉田橋は「絹の道」横浜道の終着点に当り、横浜の開港場の入口である。安政6年(1859年)の開港の際に、攘夷論者から居留地の外国人を保護するため、関門を設けた。
 
                        赤レンガ倉庫
横浜港の発展に伴い当時新鋭最大の新港埠頭が竣工された。この時に建てられた赤レンガ倉庫の2号倉庫は明治44(1911)年、1号倉庫は大正2(1919)年に竣工された。この倉庫は横浜税関の施設として管理され、一部は保税倉庫や輸出入貨物(葉タバコ、羊毛、光学機械、
洋酒、食料品など)の長期置場として使用した。生糸を一時的に保管したこともあった。
現在は文化施設、商業施設として利用されている。

                         生糸も運んだ氷川丸
昭和5(1930)年春、横浜で竣工し、同年5月、北米シアトルへ向かって初航海をして以来、シアトル航路の花形客船となった。 昭和16(1941)年、海軍に徴用され病院船になり、戦後は復員船として活躍した。その後、ニューヨーク航路、欧州航路、再度シアトル航路に復帰したが、昭和35年(1960年)には同航路から引退をした。この船の下層部にはシルク・ルーム(生糸倉庫)があり、生糸輸出にも一翼を担っていた。生糸は高価な輸出品であったので、輸送中の湿気を防ぐため特殊な構造の倉庫に納められていた。
現在は、観光施設、ユースホステルに改装され、ゆかりある横浜の地、山下公園前に錨を下ろしている。

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三渓園
横浜本牧にある三渓園は、自然の景観の中に
多くの古建築が移築された純日本式庭園である。
原三渓(本名・富太郎)は、先代の富三郎から受け継いだ生糸貿易を発展させ、
美術・建築など文化事業に貢献した偉大な実業家だった。また富岡製糸場を
中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られている。



む す び

絹産業について素人の私が、限られた見聞をもとに結論を記すことは、おこがましいとの謗りを免れない。しかし日本の絹産業の復活を願って、敢えて「むすび」を述べさせて頂く。

日本の絹産業の復活を願って

明治以降の短期間に輝かしい発展を遂げたが、今は全くの低迷を余儀なくされている日本の
絹産業を復活させる魔法の技はあるのだろうか。


私は、次の3つの選択肢を提案したい。

(1)和装を中心とした伝統的な絹織物を復活させる
  和装は言うまでもなく内需産業である。伝統的な絹織物を復活させるには、次のことが
  必要ではないだろうか。
 〇 日本人の個人所得を増大させて、購入にしろレンタルにしろ、和装をしたくなるような
   条件を整えること。
 〇 日本人(特に若い女性)が和式の所作、和式の身のこなしを学ぶこと。
   成人式で和装を経験しても、苦しかった想い出が残るようでは、和装は普及しない。

(2)洋装の中に日本の絹の価値を持ち込む
  絹織物は和装だけの世界ではない。絹という光沢、軽さ、風合いの優れた素材は、洋装
  の世界でも珍重されるに違いない。洋装の世界で絹産業を復活させるためには、次の
  ことが必要ではないだろうか。
 〇 国内や海外の優れた服飾デザイナーに、日本の絹を使ってもらうよう製糸・織物業界が
   総力を挙げて支援すること。
 〇 新しい洋装に相応しい新しい生糸を製糸・織物業界を挙げて研究開発すること。研究
   開発は日本のお家芸である。

(3)服飾以外の分野で養蚕・絹産業を発展させる
  服飾以外に、食品、医薬、試薬などの用途を開発する。この分野は、途上国の追随を
  許さないに違いない。
 〇 これを成功させるには、異業種連携の研究体制が必要であろう。
 〇 既に実用されているアレルギー体質に優しい肌着は、これに属するといってようだろう。

上に述べた選択肢は既に実行されているのもあろうし、三者択一ではない。いくつかの道で、
日本の絹産業が復活することを願う次第である。


本ホームページの作成に当り、各地の教育委員会、博物館、企業等のお世話になりました。記して謝意を表します。



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