西田進のホームページ
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               日本の近代化遺産(4) ---- 琵琶湖疏水
  琵琶湖疏水の歴史、疏水の成り立ち、琵琶湖取水口、大津市三井寺、
  京都市蹴上、琵琶湖疏水記念館、南禅寺、哲学の道、高瀬川一之舩入


 私のホームページに、『日本の近代化遺産』を掲載し始めて、今回の琵琶湖疏水は、絹産業、製鉄業、石炭産業に続く4作目である。

 「琵琶湖疏水」には、チョットした思い出がある。大阪に住んでいた国民学校(太平洋戦争中は小学校をそう呼んでいた)の頃、親父に連れられて京都を旅行した。多くの神社仏閣を訪ねたが、「清水の舞台」と「三十三間堂」くらいしか記憶がない。しかし蹴上のインクラインははっきりと覚えている。台車に乗った船が坂を登る仕組みが面白かった。70年ほど前の話である。今、近代化遺産のホームページを作るに当って「琵琶湖疏水」を1頁に加えたいと思ったのは、そのような記憶があったからかもしれない。

 明治2年(1869年)に東京へ首都が移り、産業も人口も急速に衰退して行く京都を復興させるために計画されたのが、琵琶湖疏水の建設であった。建設には、当時の京都府の年間予算の約2倍という膨大な費用が投じられた。事業の主唱者である北垣国道 京都府知事が、その事業の主任技師に登用したのが、工部大学校を卒業したばかりの青年技師 田邉朔郎(当時21歳)であった。

 建設当時日本最長の第1トンネル、日本最初の事業用水力発電所、日本最初の電気鉄道、建設当時世界最長のインクラインなどを、当時一般的であった外国人技術者の指導に頼らずに日本人の手によって完成した。

 今回ホームページを作成するに当たり、琵琶湖から京都までの疏水を踏査してみて、改めて明治の先人たちの偉業に敬服した次第である。
                      (2014年2月)
掲載済みの3件については下記をクリックしてご覧下さい。
 日本の近代化遺産(1) ---- 絹産業
 日本の近代化遺産(2) ---- 製鉄業
 日本の近代化遺産(3) ---- 石炭産業

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      琵琶湖疏水第一トンネル入口

琵琶湖疏水は、琵琶湖の取水口から第一トンネル入口まで直線的に延びている開水路から出発する。開水路の突き当りにあるのが第一トンネル入口、ここから建設当時日本最長のトンネルが始まる。

疏水沿道は桜の名所である。桜を愛でながら、明治の偉業に想いを寄せることができる。
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目 次 訪 問 地


 1.はじめに
 2.琵琶湖疏水の成り立ち
 3.琵琶湖疏水を歩く (左図参照)
   3.1 琵琶湖取水口~大津市三井寺
   3.2 大津市三井寺~京都市蹴上
   3.3 京都市蹴上周辺
   3.4 琵琶湖疏水記念館
   3.5 南禅寺~哲学の道
   3.6 南禅寺船溜り~高瀬川一之舩入
 4.むすび
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地図中の数字は、左の目次に対応する



は じ め に

京都を救え!

京都は平安京の誕生以来千年の間、日本の首都として栄えてきたが、明治2年(1869年)に東京へ首都が移り、産業も人口も急速に衰退して行った。この衰退していく京都を復興させるため、特に産業の振興を図ろうと計画されたのが、琵琶湖疏水の建設であった。

その目的と規模の雄大さは、当時としては画期的なものであったが、その反面これに伴う種々の困難、障害も非常に大きいものであった。 しかし、事業の主唱者である北垣国道京都府知事をはじめ、工事を担当した田邉朔郎、府市関係者、市民が、京都の将来を考えて、いかなる困難をも克服して疏水を完成させるという一致した決意のもとに、この事業が成し遂げられた。

当時、日本の重大な土木工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていたが、琵琶湖疏水の建設は、すべて日本人の手によって行った日本最初の大土木事業であった。歴史的変遷に伴い疏水の用途は変更されたが、今日においても約150万市民の上水道の水源や水力発電など多目的に利用されている。

琵琶湖疏水の建設には、当時の京都府の年間予算の約2倍という膨大な費用が投じられた。その事業の主任技師として、北垣知事に登用されたのが工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりの青年技師 田邉朔郎(当時21歳)であった。

日本の技術で行う土木工事としては、今までに例を見ない大工事であり、当時の未発達な土木技術や貧弱な機械・材料に悩まされながら工事を進めた。ダイナマイトとセメント以外の資材の大半を自給自足し、夜には技術者を養成し昼には実践するという、現代ではおよそ想像もつかない努力を積み重ねて工事は進められた。

計画は着工前後に何度も変更されたが、最も大きな変更は、工事の途中で田邉朔郎らが水の利用方法等を視察するため渡米し、水力発電の実用化に踏み切ったことである。明治24年(1891年)、蹴上に日本最初の事業用水力発電所が運転を開始したことは、日本の産業史に大きな足跡を残したといわれている。

明治14年(1881年)に京都府知事に就任した北垣国道は、この計画を実現するため、疏水線路の調査、測量、設計に取り掛からせ、その案を政府に諮るなど、工事の準備を進めた。しかし、設計の変更とそれに伴う工事費の増加や、滋賀県と大阪府に対する補償などいろいろな問題が起こり、計画の立案から着工までに約4年の歳月を要した。しかし、明治18年(1885年)1月に政府の起工特許を得、同年8月に着工し、明治23年(1890年)3月に大津から鴨川落合まで、約11.1kmを完成させた。鴨川落合以南の鴨川運河(伏見区堀詰町まで)約8.9kmは明治25年(1892年)11月に着工し、明治27年(1894年)9月に完成した。

第1疏水は、大津市観音寺の取水口を起点とし、三井寺下の第1トンネル(長等山トンネル)を抜け、山科北部の山麓を西進し、京都市蹴上に出る。さらに蹴上船溜から蹴上インクライン、蹴上発電所、南禅寺船溜、夷川発電所を経て鴨川運河(現在御池・塩小路間は暗渠になっている)に至り、伏見インクライン(太平洋戦争後廃止された)、墨染発電所を経て宇治川に達する。

第1トンネルは、当時日本最長のトンネルとして計画されたため、多くの人々がその完成を疑った。しかし、山の東西両側から横穴を掘る方式に加え、山の上から垂直に穴を掘る竪坑(シャフト)方式を初めて採用し、工事の促進を図った。この難関であった第1トンネルの開通により、関係者は疏水建設の成功を確信したといわれている。

蹴上発電所で得られた電力は、主に工業用動力として供給するよう定められていたが、
実際には織物、絹糸、時計などの工業生産のほかに、電灯や電気鉄道の動力源となり、後の京都市発展の一大原動力となった。明治28年(1895年)には日本最初の電気鉄道(京都駅~伏見油掛間約6km)が開通した。
        京都市上下水道局ホームページより
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京都府知事 北垣国道
 


大学卒業直後の青年技師 田邉朔郎
 



進化する琵琶湖疏水

疏水分線は第1疏水建設当初、幹線水路として計画されたが、計画変更により規模を縮小することになり、蹴上から水流を分岐させた枝線水路になった。京都の風物詩として知られる五山送り火の大文字山の山麓に沿い、南禅寺、若王子、吉田山の東北を経て、高野、下鴨、堀川と、南から北へ流れ、沿線各地への水の供給を主目的に設けられた。第一疏水と同時期の明治20年(1887年)9月に着工し、明治23年(1890年)3月に竣工した。若王子から銀閣寺道までの分線に沿って、日本画壇の橋本関雪が大正時代に植樹した老桜があり、哲学者の西田幾多郎などの文化人がこよなく愛し、瞑想に耽った散策路といわれる。その後整備され、現在は「哲学の道」と呼ばれている。

明治30年代に入ると第1疏水の流量では毎年増大する電力の需要を満たせなくなった。そのため、第2代市長の西郷菊次郎(西郷隆盛の子)は、第2疏水を計画し、明治41年(1908年)に着工し明治45年(1912年)に完成した。

この第2疏水は、大津市の観音寺の始点から第1疏水の北側にほぼ並行して建設された。上水道の水源として汚染を防ぐため全線掘抜きトンネルまたは鉄筋コンクリート製の埋立てトンネルに設計された。全長7.4kmで蹴上で第1疏水に合流している。第2疏水の開削に伴い蹴上から下流の第1疏水は、流量が増加したため、現在のように拡幅され、第2期蹴上、夷川、墨染の3つの発電所が新設され、発電量が増加した。この電気によって新しく広げられた幹線道路に市電を走らせ
また市内に電灯が灯された。

疏水は完成後今日まで無事に過ぎたわけではない。第1疏水の山科地区の開水路部分をコンクリートで底張りするなど、多くの導水路整備事業が行われた。こうして琵琶湖疏水は今も進化し続けているのである。
            京都市上下水道局ホームページより
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西郷菊次郎



琵琶湖疏水 概略年表

明治14(1881)年 2月  北垣国道京都府知事が着任
   16(1883)年 2月  島田道生が路線測量を完了
    5月  田邉朔郎が琵琶湖疏水工事担当に着任
           11月  琵琶湖疏水起工伺を国に提出
   18(1885)年 1月  起工許可
           6月  起工式を行う
   22(1889)年 4月  京都市制施行
   23(1890)年 4月  竣工式を行う
            6月  鴨川運河起工許可
   24(1891)年 5月  蹴上発電所完成
   25(1892)年11月  鴨川運河着工
   27(1894)年 9月  鴨川運河完成
   28(1895)年 2月  京都電気鉄道伏見線開業
   35(1902)年 4月  第2疏水計画を府に出願
   38(1905)年 9月  第2疏水計画を滋賀県にも出願
   39(1906)年 4月  第2疏水開削許可
   42(1909)年 5月  水道創設事業に着手
   45(1912)年 3月  第2疏水・蹴上浄水場完成
大正 3(1914)年 3月  夷川発電所完成
            5月  伏見(墨染)発電所完成
昭和45(1970)年 5月  諸羽トンネル完成
昭和47(1972)年 3月  哲学の道開通式
昭和49(1974)年 5月  大津・蹴上間整備事業竣工
昭和52(1977)年 5月  蹴上インクライン復元
昭和58(1983)年 7月  南禅寺水路閣と蹴上インクラインを市の文化財に指定
平成 元(1989)年 8月  琵琶湖疏水記念館開館
平成 2(1990)年 4月  琵琶湖疏水竣工百周年記念式を拳行
平成 8(1996)年 6月  第1琵琶湖疏水(インクライン,水路閣等12か所)を国の史跡に指定
京都市上下水道局ホームページより



疏水の洞門扁額と記念碑

扁額(へんがく)は、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額、看板であり、書かれている文字はその建物や寺社名であることが多いが、建物にかける創立者の思いなどを記すことがある。扁額は神社、寺院、城門、茶室などの伝統建築のみでなく、学校、トンネルなどの近代建築においても掲げられる。 扁額の文字は著名人が揮毫することがあり、扁額そのものが書跡としての文化財の扱いを受けることがある。 (Wikipediaより)

琵琶湖疏水には数多くのトンネルがあるが、それぞれのトンネルの入口と出口には洞門扁額が掲げられている。これらは漢文で書かれており、漢籍に踈い私には分り難いが、揮毫した明治の著名な政治家たちの意気込みが感じられる。疏水沿いには、洞門扁額の他に記念碑も多い。その中のいくつかを、見つけた場所で紹介する。

京都市上下水道局ホームページより



疏水の近代化遺産への認定

近代化産業遺産(Heritage of Industrial Modernization)は、経済産業省が認定している文化遺産の分類である。2007年に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産が公表された。さらに2009年に近代化産業遺産群・続33として、新たに33件の「近代化産業遺産群」と540件の個々の認定遺産が公表された。

琵琶湖疏水は、2007年に認定された近代化産業遺産群33の1つで、琵琶湖疏水関連遺産(第一疏水の第一・第二・第三トンネルの出入口、第一竪坑、第二竪坑、日本初の鉄筋コンクリート橋、琵琶湖疏水記念館所蔵物、南禅寺境内水路閣、蹴上インクライン、蹴上浄水場、蹴上発電所等)、理化学機器製造関連遺産(島津製作所創業記念資料館及び所蔵物)、西陣織関連遺産で構成される。
                                西陣織関連遺産についてはホームページの別の頁で紹介した。



琵琶湖疏水の成り立ち

琵琶湖疏水の概要については、既に「はじめに」で述べたので、ここでは鳥瞰図、断面図、地図を使って、琵琶湖疏水がいかなるものかを説明する。

GoogleEarthで見る第1琵琶湖疏水(取水口~蹴上)  ━━━ 掘割   ━ ━ ━ トンネル
琵琶湖と京都盆地の間に立ちはだかる比叡山、大文字山、東山を避け、最短のトンネルで結ばれていることが分る。
後年に設計された第2琵琶湖疏水は、飲料水への配慮から全路をトンネルとし、第1疏水の北側に建設された。(図示せず)


                    琵琶湖取水口から南禅寺船溜までの第1疏水の縦断面図 京都市上下水道局ホームページより
トンネル部分の勾配は僅か1/3000(3㎞進んで1m下る)、当時の正確な水準測定の技術が窺われる。
南禅寺手前は1/15(582m進んで38m下る)という急勾配のため、船を浮かべることが出来ず、斜面に
ケーブルカーで船を運ぶインクラインが設けられた。水は水圧管で落とし、水力発電に使用された。


           琵琶湖疏水全水路 京都市上下水道局ホームページより
第1疏水、分線、鴨川運河、第2疏水、第2疏水連絡トンネル、導水管・導水トンネルを示す。



琵琶湖疏水を歩く

琵琶湖取水口から夷川発電所まで、第一疏水と分線を歩く。途中気の向くままに寄り道をしながらも、地下に埋もれたトンネルの上を道さえあれば出来るだけ忠実に辿る。晴天に恵まれ、桜を愛でるハイキングの一日であった。


3.1 琵琶湖取水口~大津市三井寺

琵琶湖疏水踏査の日は、朝7時50分に取水口のある新三保ケ崎橋を出発した。前夜に名物の三井寺のライトアップを観賞しておいたことは言うまでもない。

琵琶湖取水口~大津市三井寺 のGPS軌跡  ━━ は実際に歩いた跡

大津市浜大津の国道161号の新三保ケ崎橋から第1疏水取水口を見る

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取水口の閘門(琵琶湖側) 取水口の閘門(疏水側)

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疏水が北国街道を横切る所にある閘門 疏水沿いの道は桜の名所

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第1トンネル入口部
取水口から700mほどは開水路であった疏水は、ここからトンネルになる
第1トンネル入口部の扁額
左の写真ではよく分らないので、現地の説明板を紹介する

現場の説明板 なかなかよくできた説明板であるので、その都度利用させて頂く。

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三井寺(園城寺)の仁王門は、1452年建立の重要文化財である
 
近江八景の「三井の晩鐘」で知られる鐘楼は、
1602年再建の重要文化財

夜の琵琶湖疏水と三井寺

ライトアップされた第1トンネル入口部

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同じ三井寺の仁王門も、夜桜のときは趣が異なる 霊鐘堂の弁慶の引摺り鐘は、重要文化財

(伝説)弁慶の引摺り鐘 奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えられている。その後、延暦寺との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると、”イーノー・イーノー”(関西弁で”帰りたい”の意)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまった。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っている。




3.2 大津市三井寺~京都市蹴上

大津市の三井寺入口で第1トンネルに入った疏水は、第1トンネルを出た後は開水路、諸羽トンネル、開水路、第2トンネル、開水路、第3トンネルを出て京都市の蹴上に達する。その間の約7kmを踏査した。


大津市三井寺~京都市蹴上のGPS軌跡  ━━ は実際に歩いた跡

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        三井寺の南西の隅に建つ長等神社の楼門
貞観2年(860年)円珍が園城寺の守り神として祀ったといわれる。
楼門は明治38年(1905年)の完成だが、中世の古い様式が細部にわたり見事に生かされている。大津市指定文化財。
          長等神社で左折して進路を南西に取り、
人も疎らな「小関越え」の峠道を歩く。地図によると、この辺りの地下に疏水のトンネルが通っているはずである。
 

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峠を過ぎたところで、分岐に差し掛かった 地元の人が、「左の道を行くと疏水に出ますよ」と教えてくれた

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           第一竪坑の寸法

     坑の深さ :4.38m
     坑の形状:上部5.4mは直径5.4mの円形
            下部は3.2m×2.7mの楕円形
     地上部分:高さ6m
            現在坑上は金網
 
分岐を左に行くと、「琵琶湖疏水第一竪坑」に出くわした。柵があって近付けないが、竪坑の地上部分が遠望できる。
第1トンネルは、当時日本最長2436mのトンネルとして計画されたため、多くの人々がその完成を疑った。しかし、山の東西両側から
横穴を掘る方式に加え、山の上から垂直に穴を掘る竪坑(シャフト)方式を初めて採用し、工事の促進を図り、3年8カ月で貫通した。

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第1トンネルを出ると、開水路になる 第1トンネルを出口部の扁額

第1トンネルを出た所にある説明板

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第1トンネル出口から諸羽トンネル入口までの間は、楽しい散歩道である

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諸羽トンネルの入口にある四ノ宮の船溜 諸羽トンネルは全長520mで出口が見えている
諸羽トンネルは、実は昭和45年(1970年)にできた新しいトンネル、だから扁額がない。建設当時の疏水は四ノ宮の船溜から安朱東谷まで山地を南に迂回していた。国鉄東海道線と並行して走る湖西線を通すため、疏水をトンネルに変更した。元の疏水は埋め立てられて公園になっている。

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諸羽トンネルの出口部分 この辺りは建設当時の開水路であろう。

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疏水を西に下り、安朱橋で右折し直進すると毘沙門堂がある。季節がら枝垂れ桜が美しい。
毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹である。
本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名がある。創建は大宝3年(703年)、
その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文5年(1665年)、山科安朱の地に再建された。

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疏水に沿って散歩道を西に進むと天智天皇陵の裏手に出る 疏水から陵墓への分岐点は標識がなく分り難い

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一旦表参道に出てから陵墓に向かう 天智天皇山科陵

天智天皇山科陵 琵琶湖湖畔の大津市には、中大兄皇子(天智天皇)の大津宮跡、壬申の乱で自害した大友皇子(弘文天皇)陵、時計博物館など天智天皇ゆかりの史跡を見学したが、疏水と関係ないので紹介は省略しよう。
なお、大津宮は地元では大津京と呼んでいるが、藤原京・平城京などのような大規模な条坊制をともなっていないので、大津宮というべきであろう。


大本山本圀寺の参道へと架かる橋

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疏水の第2トンネル入口 第2トンネル入口部の扁額

天智天皇陵を過ぎて、第2トンネル入口まで来た

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疏水の第2トンネル出口 第2トンネル出口部の扁額

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第3トンネル入口の約50m手前にある日本最初の鉄筋コンクリート橋(幅1.5m、長さ7.2m)
明治36年(1903年)に建設されたもので、現在は鉄製の手すりで補護されている。
碑には「本邦最初鐡筋混凝土橋」と書かれている。

日本最初の鉄筋コンクリート橋から疏水を挟んだ対岸にある新山科浄水場取水池

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鉄筋コンクリート橋付近から眺める第3トンネル入口 第3トンネル入口部分の扁額

第3トンネル入口部分にある説明板



3.3 京都市蹴上周辺

第3トンネルを出ると蹴上である。しかし蹴上という地名はなく山科区・東山区・左京区が入り組んでいるところである。ここには、浄水場、船溜、インクライン、発電所、疏水公園、疏水記念館など、琵琶湖疏水に関係ある施設が多い。

蹴上の名の由来は、中西一彌氏 によると、次の通りである:
このあたりは三条白川橋から山科大津に至る街道筋にあたり旅人が往来する道であった。安元3年(1177年)の秋、牛若丸(後の源義経)が金売り吉次に伴われて奥州目指してくだる途中、たまたまここを通りかかった平家の武士関原与市重治の馬が水溜りの水を牛若丸に蹴りかけてしまった。牛若丸がその無礼をとがめて喧嘩となり、与市を斬り捨てたことからこの地区を蹴上と呼ぶようになったという。


蹴上~鴨川運河のGPS軌跡  ━━ は実際に歩いた跡


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疏水が第3トンネルを出たところに蹴上浄水場がある。右の写真は京都市上下水道局提供。
日本最初の急速ろ過式の浄水場として明治45年(1912年)に竣工し、給水を開始した。
平成24年には、浄水施設の全面リニューアルが完成した。

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山ノ内浄水場導水管
ダクタイル鋳鉄管と呼ばれる管種で、直径1.65m、長さ4m、
重さ5トンで、1日に26万mの原水を送ることができる
京都市上下水道局旧九条山浄水場ポンプ室
第二琵琶湖疏水の建設に伴い、京都御所へ水を送るために
明治45年(1912年)に竣工した煉瓦造の建築物

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琵琶湖疏水事業の主任技師 田邉朔郎の銅像と顕彰碑
この付近は、一般に蹴上疏水公園と呼ばれている
 
明治35年(1902年)工事犠牲者慰霊のため田邉朔郎が自費で建立
「一身殉事萬戸霑恩」(いっしんことにじゅんじばんこおんにうるおう)
の銘と、裏面に犠牲者17名の氏名が刻まれている。

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形態保存されたインクライン(傾斜鉄道)の台車と船 現地にあるインクラインの説明板
インクラインは、標高差の大きい二つの水路の間の輸送を容易にするための装置。レールを敷いてワイヤロープで船を載せた台車を昇降させる。琵琶湖疏水の大津から宇治川に至る20.2kmの舟運ルートの途中、水路落差の大きい2カ所に敷設した。蹴上インクラインは全長581.8mで建設当時世界最長。伏見インクラインは全長290.8m。いずれも1890年代(明治23年~)に完成、蹴上のみ形態保存されている。

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蹴上インクラインの往復2対のレールは残され、桜並木になっている インクラインの下の歩行者トンネルはねじりまんぽと呼ばれる
ねじりまんぽは通称で、正式には、斜拱渠(しゃきょうきょ)または斜アーチと呼ばれている。拱渠等のアーチ部に煉瓦やコンクリートブロックを用いるときは、水平に積むのが普通であるが、鉄道線路とその下の道路や川が斜めに交差する場合などに、アーチ部を螺旋状に積まれることがある。これは、上部の盛土に対して直交しない形でトンネルを作るとトンネルにひずみがかかるので、トンネルの強度を保つために用いられる工法だという。ねじりまんぽは、日本では30例ほど確認されているが、蹴上インクラインのものが有名。                右の写真はWebsiteより
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第一疏水の蹴上船溜と南禅寺船溜の間は高低差が大きいのでインクラインを設けた。
インクラインでは水は鉄製水圧管に流し、蹴上発電所に導き発電に利用された。
第一疏水の初期の計画では、水車を設けて動力とする予定であったが、田邉朔郎らが
水の利用方法等を視察するため渡米し、水力発電所を設けることに変更した。
この結果、京都に日本最初の電車が走り、町に電灯が灯り、工場にモーターが回った。

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亮天功(てんこうをたすく)
久邇宮邦彦筆
民を治めその所を得さしめる(書経・舜典)
道路から見える蹴上発電所・変電所
 
第2期蹴上発電所入口扁額
関西電力HPより 



3.4 琵琶湖疏水記念館

蹴上船溜に面して建つ琵琶湖疏水記念館は、琵琶湖疏水竣工100周年を記念して京都市が平成元年(1989年)8月に開館した施設である。琵琶湖疏水の計画と建設の過程を示す資料、疏水建設の中心となった北垣国道、土木技師の田邉朔郎、測量技師の島田道生に関わる資料などが展示されている。屋外には、当時発電に使われたペルトン式水車とスタンレー式発電機が展示されている。
記念館内展示の写真に付した記号は、S は京都市上下水道局所蔵資料、T は京都市上下水道局・田邊家資料であることを示す

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琵琶湖疏水記念館   記念館は平成19年度に近代化産業遺産に指定された

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記念館から眺める鴨東運河 創業当初発電に使われたペルトン式水車

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  田邉朔郎が受賞したテルフォードメダル
英国土木学会は明治27年(1894年)に琵琶湖疏水を完成させた田邉に対してテルフォードメダルを贈呈した。テルフォードメダルは英国土木学会初代会長トーマス・テルフォードが1835年に創設した賞。日本人では今までに田邉朔郎だけが受賞している。 T
建設の中心となった北垣国道 京都府知事 T 主任技師の土木工学者 田邉朔郎 T

                      田邉朔郎の略歴
                                           
Wikipediaより
1861年 - 高島秋帆門下の洋式砲術家である田邉孫次郎の長男として江戸に生まれる
1883年 - 工部大学校卒業。卒業論文は、『琵琶湖疏水工事計画』であった
       北垣国道京都府知事に請われて京都府御用掛となり、琵琶湖疏水工事に従事
1888年 - 渡米。水力発電所などを視察
1890年 - 琵琶湖疏水が完成。秋、北垣国道の長女・しずと結婚
1891年 - 日本初の水力発電所である蹴上発電所が完成。帝国大学(現東京大学)教授に就任
1894年 - 英国土木学会からテルフォード・メダルを授与される
1896年 - 北海道庁長官を務めていた岳父・北垣国道に請われ、帝国大学教授を退任し、
       北海道庁鉄道部長として北海道官設鉄道の計画・建設にあたる
1900年 - 京都帝国大学教授に就任
1923年 - 京都帝国大学を退官。退官後も大阪市営地下鉄などの各地の鉄道建設計画に関与
1944年 - 死去

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測量技師の島田道生と当時の測量機器・製図用具 S

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工事中の大津運河の制水門と閘門 T 藤尾運河の掘割工事 T

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工事中の蹴上船溜と第三トンネル西口 T 蹴上インクライン上部の滑車据付工事 T

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大津運河 第一トンネル東口  (白黒写真に彩色したもの)  南禅寺船溜 蹴上インクライン 鴨川運河 伏見インクラインS

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第一期蹴上発電所 内部 T 第二期蹴上発電所 外観 S 第二期蹴上発電所 内部 S



3.5 南禅寺~哲学の道

蹴上から高野川まで第一疏水から分岐した疏水分線が北上している。疏水分線沿線には、南禅寺、哲学の道、銀閣寺などの名所がある。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で話題になった新島襄・八重が眠る同志社共葬墓地も訪ねた。琵琶湖疏水と直接の関係はないが、明治の偉人に関心があったので・・・

南禅寺水路閣

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南禅寺三門(重要文化財)
三門とは、仏道修行で悟りに至る為に通過しなければならない
三つの関門を表す。寺院を代表する正門である。
                 南禅寺法堂
法堂は公式の法要が行われる場所で、南禅寺の中心となる建物。
創建当時のものは応仁の乱で焼失し、これは明治に再建されたもの

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南禅寺境内の法堂奥にある水路閣は、琵琶湖疏水の分線が流れる水道橋。京都五山の別院という格の高い寺院の境内に近代施設を設けることには、建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあったそうだが、今では風景に溶け込み名勝となっている。 水路閣の上に登ってみると、ここが、哲学の道に沿って流れる疏水分線の始まりであることが分る。有名なローマの水道橋も登ってみると水路閣と同様僅かな水量である。
 

同志社共葬墓地

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熊野若王子神社
祭神は国常立神伊佐那岐神伊佐那美神天照大神
熊野権現を禅林寺の守護神として勧請して建立したもの。
同志社共葬墓地の案内板
熊野若王子神社の南側の裏山に同志社創立者新島襄の墓がある。
平成25年1月~12月のNHK大河ドラマ「八重の桜」で有名になった。

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急な山道を15分ほど登る 同志社共葬墓地がある

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 新島襄(天保14年(1843年) - 明治23年(1890年))
同志社創立者、宗教家、教育者。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられる。
             写真は国立国会図書館より
 新島八重(弘化2年(1845年) - 昭和7年(1932年))
会津藩の砲術師範山本権八の子として誕生、会津戦争では銃を持って奮戦したと伝えられる。新島襄と再婚、同志社の運営に助言した。
                       写真はso-netより
 山本覚馬(文政11年(1828年)- 明治25年(1892年))
江戸時代末期の会津藩士、八重の兄。明治維新後は政治家として初期の京都府政を指導した。また、新島襄の協力者であった
                    写真は会津市HPより
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哲学の道

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哲学の道は、若王子神社から銀閣寺まで疏水分線に沿っている。
京都大学の哲学者西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことから、この名がついたと言われる。

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哲学の道の桜の一部は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、
大正11年(1922年)に京都市に苗木を寄贈したのに始まるという。

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哲学の道は、銀閣寺(慈照寺)の入口まで続いている
                             写真はWebsiteより
 
京都盆地を流れる鴨川、堀川などは南下しているのに、どうして疏水分線は北上するのか不思議である。そこで琵琶湖疏水(分線)付近の地形概念図を描いてみた。

琵琶湖疏水(分線)付近の地形概念図   琵琶湖疏水(分線)は、京都盆地の東にある大文字山山稜の裾を流れている。この付近の等高線はほぼ南北に走っており、疏水は等高線に沿いながら少しずつ高度を下げるように掘られている。その結果、疏水の水は北上することが出来る。一旦北に運べば、その後は動力を使うことなく疏水の水を京都盆地の各地に供給できるのである。このことは文献などで指摘されていないようだが、古人の知恵に驚く。



3.6 南禅寺船溜~高瀬川一之舩入

南禅寺船溜は蹴上インクラインのいわば下流駅である。第一疏水はここから西方に向かって流れ、夷川発電所を経て鴨川に達するが、鴨川に合流せず、鴨川運河として鴨川の左岸(東岸)を南下し、伏見インクライン、墨染発電所を経て宇治川に達する。残念ながら、昭和63年(1988年)鴨川運河の約半分は暗渠化され、伏見インクラインは撤去されて、いずれも見ることができない。ただ墨染発電所は健在であるという。今回の旅では、暗渠化された鴨川運河の代りに(?)、歴史的にはより古い高瀬川一之舩入を訪ねることにする。

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南禅寺船溜の噴水は疏水の水圧で噴出しているという 疏水は平安神宮の大鳥居の前を西に流れる

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南禅寺船溜付近は桜の名所で、花見の屋形船も賑わう 夷川船溜にある第3代京都府知事 北垣国道の銅像

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夷川発電所
大正3年に京都市が運用開始した水路式発電所。
現在は関西電力が運用しており、有効落差3.42m、最大出力300kW
 
夷川発電所の排水口
排水口は鴨川の左岸(東岸)を流れる鴨川運河に繋がっている。
鴨川運河は明治27年に竣工した琵琶湖疏水の一部であるが、
現在は大部分が暗渠になっており、眺めることはできない。

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ここは田辺橋
鴨川運河は御池通りから暗渠になる
 
鴨川の左岸(東岸)の川端通の下に鴨川運河(暗渠)がある。鴨川運河は京都市内を南下し、濠川に合流している。 鴨川から分水し、右岸(西岸)を流れる
「みそそぎ川」は高瀬川への導水路と
なっている。 

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二条大橋で鴨川を西に渡ったところにある島津製作所・創業記念資料館と創業者初代島津源蔵の銅像
創業以来、製造販売してきた理化学器械、医療用X線装置や産業機器をはじめ歴史的な文献・資料
などが常設展示されている。今日は残念ながら17時の閉館時間を過ぎているので、改めて見学したい。

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島津製作所・創業記念資料館の南隣りにある高瀬川一之舩入
京都は古代から近世まで日本の大都市であったが、内陸に位置するため交通運輸の面で大きな隘路を抱えていた。
これを打開するために開発されたのが、高瀬川水運であった。その計画・施工をしたのは、嵯峨の豪商・角倉了以であった。
江戸時代初期(1611年頃)から開削され、大正9年(1920年)まで約300年間京都の中心部三条と伏見間の水運に用いられた。
高瀬川と高瀬舟は、森鴎外の小説の題材として登場する。高瀬川一之舩入は琵琶湖疏水とは別のものだが、水運ということで付言した。

この付近は史跡が多い。ここで元治元年(1864年)に佐久間象山が刺客に襲われて斬られて絶命した。
それから5年後の明治2年(1869年)に大村益次郎が刺客に襲われその傷がもとで大阪の病院で没した。
高瀬川一之舩入から500mほど南に、天正10年(1582年)明智光秀の率いる軍勢に包囲され織田信長が
討死する事件(本能寺の変)が起きた本能寺(現在)がある。実は当時の本能寺跡は元本能寺南町にあり、
現在の本能寺がある下本能寺前町とは1.6kmほど離れている。高瀬川一之舩入の話から脱線してしまった。



む す び

 明治になって首都が東京へ移り、産業も人口も急速に衰退して行く京都を復興させるために計画されたのが琵琶湖疏水の建設であった。事業の主唱者である京都府知事・北垣国道と主任技師の田邉朔郎の功績を、疏水沿道の桜を愛でながら、カメラに収めたのが、このホームページである。

 明治の偉業を見ると、どうしても現在の政治の不甲斐なさを感じてしまう。例えば、3年経ってもなかなか進まぬ東日本大震災の現場を見聞きする。私が訪ねた宮城県気仙沼市では、国が1200億円を投じて完成させギネス世界記録にも登録された海底からの高さ63mの釜石湾口防波堤が東日本大震災で破壊され、その修復に490億円を掛けることを決定している。しかし、住民が高台に逃げる道路の僅か数千万円の予算は認められないという。 (朝日新聞2014年2月4~6日)

 明治に出来て平成に出来ない公共事業を見ると、問題は経済力や技術力ではなく政治の姿勢にあることに気付く。私は素人ながら、「琵琶湖疏水」を契機にその問題を考えてみたい。

(1)大志のない今の政治家
 明治の政治家が大志を抱いたことは疑う余地がない。なぜ明治の政治家は大志を抱けたのであろうか。それは、260年続いた徳川時代からの変革期であったからだ。もう少し具体的に言うと、今まで忠誠を誓っていた藩主が廃藩置県でいなくなった。そこで旧藩士(特に下級武士)たちは忠誠の対象を国家に求めたからである。そこに大志を抱いた根源があると思う。二世、三世の政治家が多数を占める現在の政治家に大志がないのは当然といっていいだろう。実は太平洋戦争終戦のときも変革の好機であった。しかし、残念ながら当時は戦争で物心ともに疲弊し、明治維新のような世直しの意気込みはなかった。

(2)政治に期待しない国民
 太平洋戦争直後のある時期を除き、高度成長期を経て国民が豊かになるに従って、国民の政治への関心が薄れてきた。国民の多数を占める勤労者は、国家ではなく会社(カンパニー)への忠誠心を強めた。いわゆる「猛烈社員」の誕生である。これによって会社は成長を遂げ、経済力(カネの力)で社員の忠誠心に応えた。その結果、経済的には豊かであるが政治には無関心な世代が出来てしまった。ふと気が付くと、我国は、中国・韓国の激しい追撃を受け、高齢化社会に突入していることに気付くが、既に手遅れと諦めているのが現在の日本ではなかろうか。

(3)復活した土建国家
 3年経っても東日本大震災からの復興がままならないのに、東京五輪、リニア新幹線と、今の政権は土建国家復活への道を進んでいる。東京五輪のための新国立競技場は、1300億円の当初予定が1800億円(現在の見積もり)に膨らむという。延べ床面積で、ロンドン五輪のメイン会場よりも大きい会場がどうして必要だろうか。今後間違いなく押し迫る超高齢化社会への備え、欧米や韓国・中国に対抗できる産業競争力の強化など、金のかかる課題が山積する中で、政治家は「税金を産業界に流し込むポンプの役割」をするという、正に土建国家への道を驀進しているとしか思えない。

(4)政界に媚びる学界
 政府はことあるごとに有識者懇談会の意見を尊重するというが、それは政府の思う壺である。一例をあげれば、日本の原子力政策は実質的には秘密裏に行われてきたといわれている。いわゆる原子力村の人達が牛耳り、村内では正当な議論ができないという。私は、3.11の1年後に開催された日本原子力学会の公開シンポジウムに出席した。座長の指名で質問もさせて頂いたが、講演者は私の質問には答えず、彼らの原子炉設計の正当性を主張するのみであった。我国の良心ともいうべき有識者・学界は、政界に媚びていると実感せざるを得なかった。原子力だけではない、近年話題の「地球温暖化問題」でも、多額の研究費が「地球温暖化は人為的CO2が原因で、人間生活に多大な悪影響を与える」という結論を支持することに費やされているという。研究者は、研究費と名誉にかけて「地球温暖化問題」に取り組んでいると揶揄されるが、このような研究者に対する心配が杞憂に終われることを、関係者の一人として願っている。

(5)今こそ、政治を変える市民活動を
 政治家も、国民も、学界も頼りにならないとしたら、何に救いを求めればいいのだろうか。「天は自ら助くる者を助く」という。実は、”Heaven helps those who help themselves”は聖書の言葉ではなく、スコットランドの作家・医者である Samuel Smiles の言であるという。さあ、自分の力に見合う、自分の信じる市民活動で、日本を変革して行こうではないか。

以上、明治の偉業「琵琶湖疏水」を踏査したことを契機に、思いつくままに述べた。100年後の人々に「平成時代はいいことをしてくれた」といわれるようなことをやりたいと願う次第である。

本ホームページの作成に当り、京都市上下水道局並びに同ホームページに
大変お世話になりました。記して謝意を表します。



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