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熊野古道 ---- 中辺路参詣道の旅
田辺市、熊野本宮大社、小雲取越、大雲取越、那智本宮大社、熊野速玉大社、日本書紀伝承地


 現世での生まれ変わりを信じて歩く巡礼の道は、スペイン-フランスの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に続く2例目として、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録された。(2004年7月) 信仰心はないけれども、山登りと歴史が好きで、80歳を目前にして人生の再スタートを模索する私にとって、熊野古道は魅力的である。

 平安時代の上皇・貴族の、熱に浮かされたような熊野詣はいったい何であったのか。熊野詣の記録保持者 後白河上皇の場合は、34歳の1160年以来35年の在院期間のうちに34回行っている。毎回200~300人の女房、貴族、北面の武士、雑人を伴い、食糧・燃料・食器まで運ばせる大事業であったという。日頃の権謀術策を忘れ、極楽往生を願う姿が浮かび上がる。

 室町時代以降は、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、「蟻の熊野詣」といわれるほどの賑わいだったという。江戸時代には伊勢詣と並び、庶民が数多く詣でた。熊野信仰の御利益を求めるとともに、レクレーション産業が成立したのではないだろうか。

 現代の我々にとって、熊野詣はどういう位置付けになるのだろうか。難しことは考えずに、10kgのザックを担ぎ、1週間の旅に出かけた。                (2014年11月)

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         熊野那智大社の大門坂
熊野古道中辺路には杉林の中の石畳の道が多い。なかでも熊野那智大社の大門坂は、杉の大樹が立ち並び、歴史を感じさせるところで、素晴らしい。
 
 


世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道)とは
世界遺産 「紀伊山地の霊場と参詣道」 の登録基準と登録資産については後述することにし、ここでは参詣道(熊野古道)にはどのような経路があるか、歩行距離はどのくらいになるかを述べておく。

熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道の総称で、主に以下の6つの道を指す。
 紀伊路(渡辺津-田辺)
 小辺路(高野山-熊野三山、約70km)
 中辺路(田辺-熊野三山)
 大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)
 伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)
 大峰奥駈道(吉野-熊野三山、約100km)
紀伊路に距離が記されていないのは現在では市街化され古道は確認できないからでる。中辺路の場合は複数の路があるからである。

紀伊路の渡辺津は、現在の大阪市の中心部、天満橋から天神橋の間くらいの位置で旧淀川に面しているところと推定される。昔の中辺路の経路は、
田辺→熊野本宮大社→船で熊野速玉大社→熊野那智大社→熊野本宮大社→田辺
が多かったようである。

中辺路は田辺から始まるが、田辺周辺は市街化しており現代の古道歩きは滝尻王子から始まる。また船による熊野川下りも不便なので、次の経路を採ることが多い。
 鉄道・バス→滝尻王子→熊野本宮大社→熊野那智大社→熊野速玉大社→鉄道
この場合の歩行距離は、約100kmとなる。
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熊野本宮観光協会ホームページより

 
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私が訪ねた熊野古道中辺路と伊勢路の一部)のGPS地図
上の地図をクリックすると拡大されます。スクロールしてご覧下さい。




1日目
(11月2日)
 JR新横浜駅JR新大阪駅JR紀伊田辺駅滝尻王子栗栖川・きけうや旅館(泊)

今日は、横浜から新大阪経由でJR紀伊田辺に着いた。熊野古道中辺路は田辺から始まる。田辺で熊野古道と南方熊楠に所縁のところを訪ねた後、路線バスを利用して滝尻王子まで行く。ここから山道の参詣道が始まる。

紀伊田辺駅周辺

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新大阪を出発し、大阪環状線・阪和線・紀勢本線を経由し
和歌山市に入ると、車窓にミカン畑が見えてくる
JR紀伊田辺駅で紀勢本線を下車する

JR紀伊田辺駅周辺地図  熊野古道と南方熊楠に所縁の地を中心に


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 紀伊田辺駅でタクシーに乗り、地図を見せて「秋津王子跡」を探してもらう。住宅地の畑に「秋津王子安井宮跡」の石碑を
 見つけた。この辺りは、右会津川と左会津川の合流点に近く、両川の氾濫原であるため1mほど土砂が堆積し、800年前
 の遺跡の位置の確定は困難であるという。

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上の秋津王子安井宮跡から700mほど下流、左会津川に架かる竜神橋の袂に秋津王子の説明版を見つけた 左会津川
 

九十九王子
九十九王子とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。

王子の名の初出史料と考えられているのは、増基の手による参詣記『庵主』にある「王子の岩屋」で、花の窟についての記事に登場する。この文書の成立年代は10世紀後半から11世紀半ばまでと見られている。12世紀に入ると、王子社が急増乱立し、史料にも新王子の記述が増え、12~13世紀に最盛期を迎える。だが、こうした新王子の中には、短命のものもかなりあった。その後、概ね鎌倉時代以降に、熊野詣の主体の変化や熊野詣自体の後退に伴って、多くは衰退するに至った。

王子は参詣途上で儀礼を行う場所であった。主たる儀礼は奉幣と経供養であり、神仏混淆的である。これら王子の形成において、本来は沿道住人の祀る雑多な在地の神々である諸社を王子と認定したのは、熊野参詣を主導する先達たちである。また、王子という命名も、峯中修行者を守護する神仏は童子の姿をとるという修験道の思想に基づくものであると考えられる。同時に、熊野修験は院政期以降の皇族・貴人たちの参詣の先達をつとめたが、このことは、九十九王子の顕著な特徴である、紀伊路・中辺路への集中や院政期に重なる12世紀の大量出現をもたらしている。                                                      
Wikipediaによる



闘鶏神社

この神社は、允恭天皇8年(419年)、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。平安時代末期の熊野別当・湛快(藤原実方の子孫)のとき新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、弁慶の産湯の釜が当社に残るという。田辺は熊野街道の大辺路・中辺路の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。平家物語などによれば、源平合戦の時、湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に鬪雞神社を正式な社名とした。        Wikipediaによる

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神社内の表記は、闘鶏神社でなく、「闘雞神社」となっている 拝殿

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社殿は6棟あり、速玉之男命、伊邪那美命、伊邪那岐命、天照皇大神、手力男命、八百万神など、が祭られている 昭和62年(1987年)、武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣800年祭を記念して、鶏合せをじっと見つめる湛増・弁慶の父子像が建立された



南方熊楠の菩提寺 高山寺

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文化13年(1816年)に建造された多宝塔   Websiteより
 
 
南方熊楠の墓と昭和天皇御製(昭和37年)
雨にけぶる 神島をみて 紀の国の 生みし 南方熊楠を思う



南方熊楠顕彰館と旧居

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南方熊楠顕彰館と南方熊楠の旧居
 
 
明治24年(1909年)フロリダ州ジャクソンヴィルで撮影して友人に贈った写真 昭和6年(1931年)北海道帝国大学の今井三子が南方熊楠邸で撮影。今井は熊楠が何度も引きとめたので8日間滞在した。

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胸像が置かれた資料室
 
Nature,vol.48,pp.541-543(1893) 在英時代にNature誌に初めて掲載された論文
タイトルは、The Constellations of the Far East (東洋の星座)

全長約7.7mの巻紙に細かな文字がびっしり書かれた超長文の熊楠の履歴書(右は巻頭、左は巻末)
南方植物研究所設立に向けて寄付金を求めていた熊楠が矢吹義男氏(当時、日本郵船株式会社大阪支店副長)に宛てた
大正14年1月31日・2月2日付の書簡。熊楠の半生が綴られており、日本の自伝文学の最高傑作と評される。

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顕彰館(右)の奥にある南方の旧居 書斎 土蔵(書庫)

南方熊楠
南方熊楠(慶応3年(1867年)~昭和16年(1941年))は、博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。菌類学者としては粘菌の研究で知られている。18言語を解し、「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

南方熊楠は和歌山県に生まれ、東京での学生生活の後に渡米、さらにイギリスに渡って大英博物館に入る。日本に帰国後は、和歌山県田辺市に居を定めた。多くの論文を著し、大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。熊楠の学問大系は博物学、特に植物学を基礎とするが、その学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中に籠って勤しんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。


明治25年(1892年)にはイギリスに滞在時に、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見・採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌『ネイチャー』などに次々と寄稿した。帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗・伝説・宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。

彼は自然保護運動における先達としても評価されている。特に神社合祀令に反対運動を起こしたのは、それによって多くの神社の鎮守の森が失われることを危惧したことによる。これに関しては特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。南方はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点できわめて先進的であった。   Wikipediaより


なお、白浜には南方熊楠記念館がある。南方熊楠記念館は私のHPにある→



中辺路の山の道スタート

JR紀伊田辺から滝尻王子までは路線バスを利用した。ここまでは町中であり、山道はここから始まるからである。

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滝尻にある熊野古道館には、熊野古道に関するさまざまな展示が
あり、中辺路の観光情報の拠点になっている
「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道 中辺路」
の立派なモニュメントが建つ

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鳥居の扁額は「滝尻王子宮」となっている。このように社のある王子は少ない。 浩宮皇太子は平成4年(1992年)に中辺路を歩かれた

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 胎内くぐり
狭い岩の隙間を通過できず、ドイツ婦人に助けられた
伝説のある乳岩
 
胎内くぐりを過ぎると、急登が始まる
 

乳岩伝説 平安時代後期、奥州の覇者として君臨した豪族、藤原秀衡はその権勢とは裏腹に40歳を過ぎても子宝に恵まれず、子どもが授かるようにと熊野権現に祈願した。ほどなく願いがかない、秀衡の妻は身ごもり、夫婦ともども東北の地からはるばる熊野権現にお礼参りへと旅立った。やっとの思いで滝尻王子に到着すると、にわかに妻は産気づいた。そこで妻は王子社の背後にある山中の岩屋に入って男子を出産した。夫婦は先を急いでいたので、我が子の無事を王子社に祈願しつつ、その子を岩屋に寝かせたまま熊野本宮大社に向かった。参拝を済ませ滝尻の岩屋へとたどりつくと、赤ちゃんは岩からしたたり落ちる白い乳を飲み、狼に守られて丸々と育っていた。この子が後の藤原忠衡であるといわれている。

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不寝王子で朱印を押すドイツ婦人
 
「不寝王子」の名は中世の記録にはなく、
江戸時代の記録では、すでに「ネズ王子跡」となっているという

熊野古道最初の旅館、栗栖川の「きけうや(桔梗屋)」
写真を撮り忘れたので、これはネットより頂戴した。



2日目
(11月3日)
 きけうや旅館近露王子継桜王子民宿のなか山荘(泊)

今日は、近露王子、継桜王子という中辺路の2つ名所(?)を巡る楽しみな一日である。

高原熊野神社~大門王子

当初、中辺路最初の宿は「霧の郷 たかはら」にしたいと思ったが、予約するのが直前であったので満員で断られた。例のドイツ婦人は「霧の郷」を予約したという。外国人は早くから予約するから、日本人は出遅れてしまった恰好だ。しかし、宿泊した「きけうや」の主人は参道道まで車で送ってくれたので、助かった。

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熊野古道中辺路の標準的道標 道標はよく整備されており、約10分毎に道標が現れるので、それに従う限り道に迷うことはない。
道中で1回だけ30分間道標が現れず不審に思って引き返したことがあった。やはり道間違いで、そのため約1時間ロスをした。

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高原熊野神社はいわゆる九十九王子には入らないが、高原王子権現とも呼ばれ、中辺路における最古の神社建築であるといわれている

集落の高いところまで来ると展望が開けた。村の古老が集まっていたので、話の輪に加わった。
これから冬になると、雲海が広がる朝は最高の眺めだとのこと。古代の人々がここを「高原(たかはら)」と名付けた気持ちが分る。

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山中にある旧旅籠「田中屋」
今は営業していなくても旅人の心を和ませる中辺路の心憎い演出
熊野古道といえば杉並木を連想しがちだが、
この辺りは落葉広葉樹が多く、樹下は明るい



大門王子~十丈王子~悪四郎屋敷跡~上多和茶屋跡

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大門王子跡  建仁2年(1201年)に参詣した藤原定家は、この付近の山中で宿泊したという

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平安・鎌倉時代の日記には「重點王子」と書かれていたが、江戸時代以降は「十丈王子」と書かれるようになったという

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悪四郎は伝説上の人物、「悪」とは勇猛で強いという意味
 
悪四郎山(782m)の脇の崖沿いの道
 
和歌山市からの里程を表す現代の一里塚

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熊野詣の盛んな時代にはここに茶店があったという 陰暦11月23日には近くの高尾山の頂きで三体の月が出るという



大坂本王子~牛馬童子像~東屋

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大坂(逢坂峠)のふもとにあることから大坂本王子の名が付いたという 自分で朱印を押すようになっている

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近くを国道311号が走っており、参詣道から道の駅「熊野古道中辺路」を見下ろせる

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箸折峠の牛馬童子像(左)と役行者像(右)
牛馬童子像(田辺市指定文化財)は高さ50cm程度の小さな石像。文字通り、牛と馬の2頭の背中の上に跨った像である。
一説には、延喜22年(922年)に熊野行幸を行った花山法皇の旅姿を模して明治時代に作られたとされる。
この石像のある箸折峠の由来は、花山法皇が食事のため休憩をした時に、近くの萱を折って箸代わりにしたからといわれている。

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牛馬童子像の近くにある鎌倉時代の建立と推定される
宝篋印塔(ほうきょういんとう、和歌山県指定文化財)
牛馬童子像と宝篋印塔は古道から50m程脇に入ったところにある
 

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箸折峠から5分ほど下った展望のよいところに東屋がある。周辺には秋の野草が咲いていた。

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ムラサキシキブ ノアザミ ノギクか



近露王子~比曽原王子

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東屋を過ぎて下ると日置川に出る 川縁に水垢離の標識。ここで、心身を清浄にしたのであろう。

水垢離(みずごり)とは、神仏に祈願する時に、冷水を浴びる行為のこと。垢離は漢語には見当たらず、純粋な和語と考えられている。神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。神道でいう禊と同じであるが、仏教では主に修験道を中心に、禊ではなく水垢離などと呼ばれ行われることが多い。                      Wikipediaより

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日置川の橋を渡ったところに近露王子跡がある。
王子社の初見は、藤原宗忠の日記の天仁2年(1109年)10月24日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣している。

近露(ちかつゆ)という地名は、藤原氏の策略にあって出家とともに皇位を失い、呆然とした心境のまま都を離れ熊野御幸に旅立った花山法皇が、現在の箸折峠で食事をしようとして箸がなかったので、萱の茎を折って箸にし、そこからしたたり落ちる赤い汁を見て「これは血か露か」と言ったことに由来すると伝えられる。

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現在の近露王子の境内に、昭和9年(1934年)1月に建立された王子碑がある。
大本教の思想は、戦前の官憲には革命思想として捉えられ、徹底した弾圧を生む原因となった。

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近露付近は、茶店や旧家、美術館もあり、気持ちよく散策できる

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近露王子跡から3km程の所に比曽原王子跡がある。藤原定家も参拝している。



継桜王子~野中の清水~のなか山荘

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継桜王子社
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継桜は天仁2年(1109年)の藤原宗忠の日記にも記された古くからある桜。
鎌倉時代にはこの桜の木の傍らに王子ができたようである。
野中の一方杉
和歌山県指定天然記念物
行啓記念碑

一方杉と南方熊楠

この王子を特徴付けるものにはもうひとつ、社地を囲む鎮守の森の巨木群があり、集落の名をとって野中の一方杉と呼ばれる。これら巨木のなかには樹齢800年以上ともいわれ、直径が2~3mを越えるものも9本を数える。日照や地形の関係のため、どの木もみな一様に南東方向の那智山の方角にのみ枝を伸ばしていることから一方杉の名がついている。

この一方杉の森が今日に残るのは、多能の異才として知られた南方熊楠の働きによるところが大きい。熊楠は欧米遊学の後、田辺に居を構えると、1度の上京を除いて熊野を出ることなく生涯をすごした。熊楠にとって、熊野の山野は、同じ和歌山でも和歌山市などと異なる辺境の地であり、半熱帯と温帯の交錯する貴重な自然の残された土地であった。熊楠はこの地の自然に大きな関心を寄せ、粘菌をはじめとする植物の採集など、博物学上の大きな成果を残すと同時に、民俗にも目を向けていた。

明治39年(1906年)に神社合祀令が発されると、各地で小社の合祀廃絶が相次いだが、それは中辺路町においても例外ではなかった。加えて、熊楠が報告するところによれば、地元の有力者や一部の官吏が合祀令を悪用し、私利のために神社の土地や神社林の木々を売り払おうとする動きが見られた。熊楠はこの動きに抗議し、当時の東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎らとともに、神社林の伐採を阻止すべく運動を行った。

明治44年(1911年)、継桜王子の神社林にも伐採がついに及んだが、かろうじて中心部の杉だけは救われたのである。しかし、これは幸運な例に属する。熊楠の奮闘も熊野全域に及ぶ神社合祀の流れを押しとどめるには至らず、南方熊楠の説得により伐採を免れた神社林も、この野中の一方杉の他にもいくつかあることにはあるが、ほとんどの神社は廃れて、結局は神社林を伐採されて姿を消した。  Wikipediaによる


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継桜王子では、ちょうど和歌山県指定民俗文化財の「野中の獅子舞 」が奉納されていた

「野中の獅子舞 」の奉納が終わって自宅に帰る村人たち

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昨日訪ねた滝尻の「乳岩」のところで述べた藤原秀衡にまつわる秀衡桜は、
ヒノキにサクラを継いだものであったといわれる。今の桜は何代目かになる。

サクラの接木はほとんど不可能であることから、戦前の植物学者・郷土史家の宇野縫蔵は、継桜の起源を、檜の古木が枯れて空洞化したところに桜が根付いたのだろうと考定している。こうしたことからすると、檜の台木に桜が継がれるという継桜の奇跡がまず先行し、次いで王子が設けられたり、熊野詣の功徳を説くために秀衡伝説が付会されるなどしたものであろうといわれている。 Wikipediaによる

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継桜王子の前の崖下に湧き出る水は、野中の清水と呼ばれている。日本名水百選のひとつに選定されており
現在も簡易水道の水源として、地元の人たちの貴重な飲料水・生活用水として使われている。 田辺市指定天然記念物。


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松尾芭蕉の門人・服部嵐雪句碑(1705)
住かねて 道まで出るか 山清水 
齋藤茂吉は、昭 和9年(1934年)に土屋文明と ともに熊野を訪れ、短歌を詠んだ
いにしへの すめらみかども中辺路を 越えたまひたり のこる真清水

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伐採の跡か、自然災害か? 築20年とは思えない清楚な「のなか山荘」に着く



3日目
(11月4日)
 民宿のなか山荘三越峠発心門王子(聖域入口)熊野本宮大社湯の峯荘(泊)

今日は、三越峠を越えて、熊野三山の1つ「熊野本宮大社」に到着する日である。
小栗判官で有名な湯の峰温泉で泊まるのも楽しみである。

のなか山荘~安部清明の腰かけ石~中川王子~小広王子~熊瀬川王子~草鞋峠

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早朝に宿を出て山道を歩くと、柑橘類の香りがしてすがすがしい

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とある民家の入口に、平安時代の陰陽道の大家・安部清明が腰を下ろしたという岩があった。
彼が、花山法皇のもとを訪れる途中、この地で土砂が崩れることをを予知し、土砂崩れを未然に防いだという。

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中川王子は、継桜王子と小広王子の間の、ちょっと脇に入ったところにある。王子は平安時代に始まるが、江戸時代には「社なし」と記されている

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歌人「日比野友子」の歌碑がある
  遠つ世の 蟻の詣でをしのびゆく 熊野古道は 若葉の盛り
今は、若葉ではなく紅葉の盛りだった

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小広王子は平安時代に始まるが、江戸時代の記録には登場しない。道路建設のため王子碑は移されたが、頭部は欠けてしまった。

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参詣道は熊瀬川谷に下る。この辺りの杉は細いので、戦後植林されたものであろう。

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熊瀬川王子跡には緑泥片岩の石碑だけが残る 熊瀬川を渡り、再び尾根に出る

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熊瀬川側から急坂を登ると草鞋峠に出る。



迂回路~岩上峠~蛇形地蔵~湯川王子~三越峠~船玉神社~猪鼻王子

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草鞋峠を過ぎたところで、岩上峠経由の迂回路の道標に出くわす。
台風の被害のためというが、立派な道標が建てられていることから、「常設迂回路」と思われる。

道標がないが、ここが岩上峠だろうか

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迂回路から本道に戻ったところに蛇形地蔵がある

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湯川王子は平安時代から、上皇、女院、貴族の宿所が設けられた記録がある。現在も昭和58年に再興された社が残されている。
なお、この地は戦国時代に紀南地方に勢力をふるった湯川氏の発祥の地と伝えられている。

湯川から長い坂を上りきると、ススキが美しい三越峠に出た

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三越峠休憩所
ソーラー発電によるバイオトイレ
三越峠は、湯川水系と音無川水系の分水嶺である。いよいよ熊野本宮大社に近付いたと感じる。 外国人の参詣者が撮ってくれた
熊野古道唯一の自分の写真

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熊野古道入口と書かれたゲートをくぐる 猪鼻王子へと杉林の中を下る

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音無川沿いに船玉神社がある。ここは湯の峰温泉に通じる赤木越の分岐点であるが、私は直進して猪鼻王子への道を行く。

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船玉神社から少し下ったところにある猪鼻王子跡



発心門王子~水呑王子~伏拝王子~祓所王子

猪鼻王子から1kmほど進んだところに発心門王子跡がある。
ここは聖域への入口で、例の世界遺産の立派なモニュメントがある

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発心門という語は山岳信仰における四門修行に由来する。四門修行においては、山上の聖地に至る間に発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、
それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説く。このとき、発心とは発菩提心、すなわち仏道に入り、修行への志を固めることを意味する。

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藤原定家の歌碑がある。 入りがたき 御法の門は 今日過ぎぬ 今より六つの 道に帰すな
大意 : 難行苦行の末やっとの思いで発心門・熊野本宮の聖域にたどり着いた、ここからは、
六道(地獄・餓鬼・畜生など人間の迷いの世界)にかえらず、清らかな気持ちでお参りしたいものだ
ここにはバス停がある


藤原定家と後鳥羽上皇と熊野詣
藤原定家(応保2年(1162年)-仁治2年(1241年))は、平安時代末期~鎌倉時代初期の公家・歌人。2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』の撰者、依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家は藤原道長の5代後の子孫に当るが、摂関家の嫡流から遠く、歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった。18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(国宝)を残した。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』と呼ぶ。

後鳥羽上皇(治承4年(1180年)-延応元年(1239年))は高倉天皇の第4皇子。平家一門が安徳天皇を伴って都落ちしたことを受けて、寿永2年(1183年)、祖父・後白河法皇の意向で4歳で即位した。15年の在位の後、建久9年(1198年)に19歳で譲位、院政を開始し、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って院政を行った。

後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに28回。往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペースで行った。28回の後鳥羽上皇の熊野御幸のうち、史料的に和歌会が催されたことが確認できるのは、3回目の正治2年(1200年)の御幸と4回目の建仁元年(1201年)の御幸の2回のみである。

そのうち、建仁元年の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『熊野御幸記』に記していて、それによると、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子(以上、紀伊路)・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智(以上、中辺路)の9ケ所で和歌の会が催されていることがわかる。

承久元年(1219年)、三代将軍源実朝が暗殺されて源氏の将軍が絶えると、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立が先鋭化し、承久三年(1221年)、後鳥羽上皇はついに北条義時追討のために挙兵し、承久の乱が起こった。承久の乱が起こる3ヶ月前に、後鳥羽上皇は28回めの熊野御幸を行っており、熊野で鎌倉幕府打倒の密談が行われた可能性もある。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流されてしまった。

熊野御幸を準国家的行事として営んできた院政政権はこの乱の敗北により崩壊し、熊野御幸は終焉に向かう。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が2回、亀山上皇が1回詣でているのみである。
                                                  Wikipedia他より
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藤原定家像 (伝藤原信実筆)
後鳥羽上皇像 (伝藤原信実筆)
 


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元小学校分校のあった広場の一隅に、水呑王子跡がある。この辺りは地道である。

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伏拝王子とは、熊野本宮が遥か彼方の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りにして、
感動のあまり「伏して拝んだ」からだという
和泉式部供養塔

和泉式部供養塔 和泉式部が熊野詣で伏拝に差し掛かったとき、にわかに月の障りとなったため、
参拝が出来ないと思い歌を読んだ。
    「晴れやらぬ 身のうき雲の たなびきて 月のさはりと なるぞかなしき」
その夜、熊野権現が夢に現れ、
    「もとよりも 塵にまじはる 神なれば 月の障りも なにかくるしき」
とお告げがあり、式部は参拝することができたと伝えられている。
この言い伝えは、熊野権現は「信・不信を問わず、貴賎を問わず、女人の不浄を嫌わず、全てを受け入れる奥の深い大らかな神である」ということを和泉式部を題材に物語としたものと言われている。
                                               じゃらんWebsiteより

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遥か彼方に見える熊野本宮

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心身に積もった穢れを祓い清め、熊野権現に祈願し、生命力を蘇らせることを目的とする熊野参詣では、禊ぎや祓いが重視された。
中でも熊野本宮参詣直前の祓殿王子での祓いは重要であった。



熊野本宮大社~和歌山県世界遺産センター~湯の峰温泉

熊野本宮大社裏鳥居
熊野古道中辺路を歩き、祓殿王子を経て熊野本宮大社に参拝すると、裏鳥居から入ることになる

    祓殿王子から来るとここから入ることになる
この掲示板によると社殿参拝には順序がある。神様名と社殿名を混交して記すと、
①スサノオノミコト、②イザナギノミコト、③イザナミノミコト、④アマテラスオオミカミ、⑤結いの神・祓いの神、⑥産田社、⑦大斎原(⑥と⑦は明日訪ねる)

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拝殿 通常はここから拝礼する
 
拝殿の右側に神門がある
神門は入ることができるが、これより内部は撮影禁止

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八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。
熊野三山において八咫烏は熊野大神(スサノオノミコト)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルとされる。

三本足の八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマーク

神門を入ると社殿に近付いて拝むことができる。撮影禁止であるので、熊野本宮観光協会HPの写真を使わせて頂く

裏鳥居から入って逆コースを進むことになったが、これが振り返って見た表参道
残念ながら、熊野大権現の幟(のぼり)が裏になっている

権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想による神号である。という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「れた」ことを示す。

垂迹神と本地仏の例として、天照大神 = 大日如来、熊野権現 = 阿弥陀如来 などがある。

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世界遺産センターには「紀伊山地の霊場と参詣道」の情報が一杯
世界遺産センターのHPを見る→ 
和歌山県世界遺産センターに展示されている江戸時代の社殿の絵
当時は、すべての社殿は熊野川の中州にあった。
現在は、大斎原の大鳥居のみが再建されている。

熊野本宮大社について
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称)の1つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。家都美御子大神はイザナミノミコトとする説がある。熊野坐大神はスサノオノミコトとされる。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがあるという。熊野加武呂乃命は『出雲国風土記』に出てくる神様である。

現在の熊野本宮大社の社地は山の上にあるが、明治22年(1889年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(平成12年完成)が建っている。


世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」
和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録された。道が世界遺産として登録されるのはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路という先例があり、和歌山県とスペインガリシア州は両古道の姉妹道提携を締結している。

                遺産の種別

                 文化遺産(記念工作物、遺跡(文化的景観))

                  世界遺産の登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザ
  インの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と
  直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと
  世界遺産委員会は考えている)。

具体的には、次の通り
(2) 紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は、神道と仏教のたぐいまれな融合であり、
  東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する。
(3) 紀伊山地の神社と仏教寺院は、それらに関連する宗教儀式とともに、1000年以上にわたる
  日本の宗教文化の発展に関するひときわ優れた証拠性を有する。
(4) 紀伊山地は神社・寺院建築のたぐいまれな形式の創造の素地となり、それらは日本の紀伊山地
  以外の寺院・神社建築に重要な影響を与えた。
(6) と同時に、紀伊山地の遺跡と森林景観は、過去1200年以上にわたる聖山の持続的で並外れて
  記録に残されている伝統を反映している。


登録資産  赤字は今回訪ねた資産
登録資産エリア 登録資産名称  
吉野・大峯  吉野山  
 吉野水分神社  
 金峯神社  
 金峯山寺  
 吉水神社  
 大峰山寺  
熊野三山  熊野本宮大社  
 熊野速玉大社  
 熊野那智大社  
 青岸渡寺  
 那智大滝  
 那智原始林  
 補陀洛山寺  
高野山  丹生都比売神社  
 金剛峯寺  
 慈尊院  
 丹生官省符神社  
参詣道  大峯奥駈道  
 熊野参詣道  中辺路 花の窟・七里御浜・熊野川〈熊野本宮大社と熊野速玉大社間〉・熊野の鬼ケ城 附 獅子巖・つぼ湯〈湯の峰温泉〉を含む
 小辺路
 大辺路
 伊勢路
 高野山町石道  


熊野本宮大社前からバスで湯の峰温泉の「湯の峯荘」に向かった

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これは前菜、この後二の膳、三の膳が出た お酒の銘柄は「八咫烏」



4日目
(11月5日)
 湯の峯荘湯の峰温泉大斎原小雲取越小口自然の家(泊)

今日は小雲取越の難行の日だ。その前に湯の峰温泉を探訪し、大斎原を参拝をせねばならず、
忙しい一日になる。

湯の峰温泉

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現在の温泉名は「湯の峰温泉」であるが、王子名は「湯峯王子」である

湯峯温泉は、600年前足利時代に小栗判官が蘇生したという物語の地である

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          東光寺前に建つ「玄峰塔」
山本玄峰は、太平洋戦争のとき鈴木貫太郎首相に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を示唆した人物だったという。

世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の
構成資産の一部となっている「つぼ湯」

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湯の峰温泉 公衆浴場
正面番台の奥にユノミネシダは自生している
  (左)ユノミネシダ(葉が丸味を帯びている) (右)普通のシダ
ユノミネシダHistiopteris incisa (Thunb.) J.Smは、コバノイシカグマ科の多年生シダ植物。国の天然記念物で、この地が自生地では北限だという。 


大斎場(おおゆのはら)

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産田社は、大斎原と同じ熊野川の中州にある、熊野本宮大社の末社の1つである。
祭神はイザナミノミコトで女性の守り神だという。

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鳥居の扁額の八咫烏
かつて熊野川の中州に鎮座した熊野本宮大社が、明治22年(1889年)の大洪水で流され、石祠二殿と大鳥居だけが再建された。日本一高い大鳥居は、高さ34m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年に完成

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現在の熊野本宮大社に再建された第一殿~第四殿を除く、第五殿~第十二殿は、大斎原に仮の石祠二殿を設けて祀られている



小雲取越 (田辺市本宮町請川 ~ 新宮市熊野川町小口)

今日は「小雲取越」である。ガイドブックによると、歩行距離13km、歩行時間4時間25分、所要時間約5時間30分とある。最高地点の桜峠の標高は466mである。後期高齢者の私にとって厳しい一日になりそうだ。

雲取越
雲取越(くもとりごえ)は、熊野本宮大社と熊野那智大社を結ぶ参詣道。熊野本宮大社から赤木川に至るまでを小雲取越(こぐもとりごえ)、赤木川から熊野那智大社に至るまでを大雲取越(おおぐもとりごえ)という。

平安時代後期から鎌倉時代初めにかけて確立した中世熊野詣における通常の巡拝ルートは、熊野本宮大社から熊野川を下って熊野速玉大社に、ついで陸路で熊野那智大社に詣でてから、同じ道をたどって熊野本宮大社に帰参するものであった。しかし、熊野川は舟賃を要するうえ、大雨の後などは航行困難ないし不能となる。そのため、修行者や庶民が通行する道として山間部をぬって本宮と那智を結ぶ道が早くから存在したと考えられている。

院政期の熊野詣のなかにも雲取越の道を辿って本宮へ直行する例があり、1201年(建仁元年)の後鳥羽院の4回目の参詣がその例である。その様子は、随行した藤原定家により「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)に記録されている。一行は朝から降り続く大雨をついて出発し、私の場合と逆方向に、那智から本宮までを1日で越えているが、雲取越を1日で越えることは今日でも困難なことである。定家は、笠をかぶり蓑を着て輿に乗っていたにもかかわらず、輿の中でずぶ濡れになり、本宮に着いたときには「前後不覚」となったと記し、厳しい一日であったことを伺わせる。

熊野大社大斎場~国道168号~小雲取越入口~松畑茶屋跡

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熊野川の右岸を下流に向かってひたすら歩くと、左手に備崎橋が見える。ここは大峰奥駈道と中辺路の合流点である

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国道168号のコンクリート道を歩くのは、結構つらい 熊野川の中流域は上流からの砂礫が大量に堆積している。水の色が普通の川のように緑色ではなく青色で独特の色をしている。水に石灰が混ざっているからである。

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長い国道歩きの後に
「世界遺産 熊野古道 小雲取越」の標識を見ると安堵する
請川の民家の玄関先から、小雲取越は始まる
 

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請川から小口まで13kmの山道である コンクリート道から杉林の山道に入るとホッとする

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松畑茶屋跡  昔は道中のちょっとした平地には茶屋があったようだ。今は小雲取越の道中に茶屋はない。



万歳峠への分岐~百間ぐら~賽の河原地蔵~石堂茶屋跡~桜峠~桜茶屋跡~小和瀬橋~小口自然の家

請川から4kmほどの所に万歳峠への分岐がある。
分岐で左折して万歳峠へ進む道は伊勢路である。私は分岐を直進し、中辺路を小口に向かう。

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小雲取越の絶景ポイントといわれる「百間ぐら」に着く 生憎のガスで遠望は利かないが、一休みする

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霧の中の果無山脈、地蔵尊、野の花に心が和む

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百閒ぐらから2kmほどのところに「賽の河原地蔵がある。昔は熊野詣での途中で亡くなる人もあったのだろう。

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やがて「石堂茶屋跡」に着く。東屋があり休憩する。嶋正央の歌碑がある。
「歩まねば供養ならずと亡き母がのたまいていし雲取に来ぬ」

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桜峠は小雲取越の最高地点で標高466m。齋藤茂吉の歌碑がある
「まさびしきものとぞ思ふたたなづく青山のまの川原を見れば」
石垣が現れると、やっぱり茶屋跡だ

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桜茶屋跡は結構な広さがあり、かつての繁盛が偲ばれる

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長塚節の歌碑 「かがなべて待つらむ母に真熊野の羊歯の穂長を箸にきるかも」
羊歯を箸にするというのは箸折峠の花山法皇の故事に因んだのであろう。
歌碑を過ぎて10分ほど歩くと、熊野川の支流赤木川の見えるところに出た。
川が蛇行し中州のように見えるところが長井で、その右下の樹木と羊歯で
隠れているところが、今日の下山予定地の小和瀬だ。地図の通りなので驚く。

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最後は石段を降りて車道に出る 赤木川に架かる小和瀬橋を渡る

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行く手に立派な建物が見えるが、これは老人ホーム 老人ホームの右手前が今夜泊まる小口自然の家。かつて中学校だった校舎が、熊野古道を歩く人々を迎える宿に変身した。



5日目
(11月6日)
 小口自然の家雲取越熊野那智大社美滝山荘(泊)

今日は、中辺路中の最大の難所「大雲取越」を通過し、熊野三山の2つ目「那智本宮大社」に至る
苦労と喜びの一日である。

大雲取越 (新宮市熊野川町小口 ~ 那智勝浦町熊野那智大社)


小口自然の家~円座石~楠の久保旅籠跡~越前峠~石倉峠

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「小口自然の家」を出発すると、昨日越えてきた小雲取とこれから行く大雲取の標識が目につく。大雲取は小雲取よりも厳しいという。 今日も昨日同様、小雨混じりである。林の中に白いプラスティックの筒が立っている。植林した苗木が鹿に食べられないためのものであろう。

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自然の家を出発して30分余りで、円座石に着く。
円座(わろうだ)とは丸く編んだ敷物のことで、この石の上面の模様がそれに似ているためにその名が付けられたといわれている。

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杉浦勝の歌碑 「わが越ゆる大雲取の山中に円かに坐す地蔵菩薩は」 須川峡生の句碑 「鯉のぼり大雲取の一軒に」

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楠ノ久保旅籠跡  上の説明板のように、大正年代までは旅籠があったという。その頃の雲取越えは現代よりものんびりとしていたことだろう。

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越前峠の手前の立派な石畳の道 越前峠で、例のドイツ婦人に追いついた

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この標識には、越前峠は標高870mで中辺路の最高地点と書いてあるが、最高地点は船見峠の883mで、越前峠は2番目に高いといってよい。この辺りは急坂が多い。
 
A           土屋文明の歌碑
 「輿の中、海の如しと嘆きたり、石を踏む丁(よぼろ)のことは伝えず」
後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家が、
輿の中海の如く・・・と書きとめている。それを皮肉った歌だという。

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越前峠からの下りは、石だらけの滑りやすい道、転ばぬように慎重に下る A       長塚節の歌碑
「虎杖(いたどり)のおどろが下をゆく水のたぎつ早瀬をむすびてのみつ」

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越前峠からの下りは、まだ続く 少し登って石倉峠に達すると、地蔵茶屋休憩所への下りである

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石倉峠の斉藤茂吉の歌碑
「紀伊のくに大雲取の峰ごえに一足ごとにわが汗はおつ」
A 峠の石仏



大雲取地蔵茶屋休憩所~舟見峠~船見茶屋跡~登立茶屋跡~那智高原公園~那智大社

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大取雲地蔵尊 無人の大雲取地蔵茶屋休憩所 自動販売機は130円、安いので感心!

大雲取地蔵茶屋休憩所の前の東屋にて
写真に写っている人たちは7人、日本人1人の他は外国人。当然、熊野古道での公用語は英語
彼ら彼女らは、我々と同じ山荘に泊まり、一緒に風呂に入り、浴衣を着て、日本食を食べる。
日本の政府が国威発揚をしなくても、彼ら彼女らは日本文化を理解し、国際交流に貢献してくれるだろう。

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地蔵茶屋休憩所は清冽な沢のほとりにある サワガニを見つけた

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地蔵茶屋休憩所でゆっくり休憩したら、再び山道へ 道沿いの名もない地蔵尊

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色川辻から600mほど行くと、船見峠に着く。
ここの標高は883mで、越前峠の840mよりも高く、中辺路の最高地点である。
辺りは笹原と杉の植林地で、地形はなだらかである。

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船見峠から距離で100mほど下ったところに船見茶屋跡があり、現在も東屋が設けられている。

船見茶屋跡からの眺めは素晴らしく、眼下に那智湾が望まれ、本宮大社から那智大社へ来たと実感される。
右の山が、那智山の一角に在する阿弥陀寺妙法山である。

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船見茶屋跡から40分ほど下ったところに登立茶屋跡がある。石垣や入口の痕跡に、往時の繁栄の跡を偲ぶことができる。

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登立茶屋跡から1km余り下ったところに
那智高原公園がある。
ここは昭和52年に全国植樹祭が開催されたところで、昭和天皇の御製の碑がある
「かすみたつ 春のひと日を のぼりきて 杉うゑにけり 那智高原に」



那智本宮大社

熊野本宮大社から、長い小雲取越と大雲取越を歩いて、やっと熊野那智大社に辿り着いた。

熊野那智大社は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称)の1つ。熊野夫須美大神(イザナミノミコトとする)を主祭神とする。熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部である。

那智山周辺地図

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熊野那智大社の社殿配置図
                               Websiteより
熊野那智大社の本殿 右より第一殿~第五殿
        拝殿からは見ることができない       Websiteより

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ここは熊野那智大社拝殿(礼殿) 拝殿の右隣にある樹齢800年の大楠。
平重盛が参詣の際、手植したものと伝えられる。

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熊野那智大社に隣接する青岸渡寺 青岸渡寺三重塔

青岸渡寺(せいがんとじ)は、天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称された。明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。

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飛瀧神社(ひろうじんじゃ)は熊野那智大社の別宮であり、那智滝自体が御神体であり、本殿は存在しない。
拝殿もなく、直接滝を拝むこととなる。

飛瀧神社の奥の鳥居の扁額

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今夜宿泊の美滝山荘

那智滝(なちのたき)は、花崗斑岩(花崗岩の仲間)からなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し、滝壺までの落差は133m、その姿は熊野灘からも望見することができる。総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本1位。華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。熊野の岩質は熊野酸性岩類である。この大部分は花崗斑岩であるが、岩体の中央部に流紋岩と流紋岩質凝灰岩があり、分布が途切れている。那智の滝は、浸食に強く硬い花崗斑岩の南端に位置しており、その花崗斑岩の末端が滝を形成しているといわれている。




6日目
(11月7日)
 美滝山荘大門坂補陀洛山寺JR智駅JR新宮駅
 
      
神倉神社熊野速玉大社ステーションホテル新宮(泊)

今日は熊野那智大社からJR那智駅まで歩き、路線バスで新宮に行き、熊野速玉大社を拝観するほか、新宮市内見物を楽しむ一日である。

美滝山荘~大門坂~尼将軍供養塔

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美滝山荘を出て大門坂に行く途中に、旧史跡「清明橋の石材」がある。
陰陽道の安部清明の庵の近くの橋を「清明橋」と呼んでいた。昭和45年に地形が変わったため橋材をここに移したものという。

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私は大門坂を逆コースで下っている。下から上ってくるならば、ここは大門坂を上り詰めたところ、つまり大門坂の出口である。
大門坂は全長600mの石畳敷の石段(267段)で、両側の杉並木は132本あるという。

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石段の写真は上からよりも下から撮る方がよい。時々振り返って写真を撮る。

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樹齢800年の楠の大樹

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「多富気王子跡」は中辺路最後の王子社。
おそらく樹叢や峠の神仏に「手向け(たむけ)」をした場所で、それがいつしか王子と呼ばれるようになったと思われる。

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那智大社への入口 逆コースのため、最後に大門坂の標識を見る

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大門坂から那智川に沿って真っすぐ南下すれば那智に着くのだが、途中で尼将軍供養塔を見るため迂回した。
尼将軍とは、源頼朝の妻、北條政子のこと。政子は頼朝の死後仏門に入り、 尼将軍と呼ばれていた。
二度の熊野三山詣でこの地に立ち寄った際、子の供養のためにこの供養塔を建立したといわれている。

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尼将軍供養塔全景 尼将軍供養塔に立ち寄ったお蔭で、
国道を避けて、静かな荷坂峠の「曼荼羅の道」を歩くことができた



補陀洛山寺~浜の宮王子~JR那智駅

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は天台宗の寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。


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補陀洛山寺の本堂 本堂に懸かる扁額

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補陀洛渡海は、生きながら南海の観音浄土(補陀洛浄土)を目指して行われた一種の捨身行である。
船の復元模型が展示されているが、一人座れるだけの小さな屋形を備えた小船で、四方の鳥居には
『発心門・修行門・菩提門・涅槃門』との額が掲げられている。こんな小舟で大洋に出ていった、
その強烈な信仰心には驚くほかない。

補陀洛渡海は、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。
この記念碑には他の記録を含め25名の名が記されている。

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熊野三所大神社の鳥居と拝殿
祭神は、夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の熊野三所権現。九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、
浜の宮大神社とも呼ばれる。浜の宮王子の守護寺である補陀洛山寺が隣接しており、神仏習合の名残をみることができる。
中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となっている。境内は浜の宮王子社跡として和歌山県指定史跡となっている。

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浜ノ宮王子社跡の標識がある なぜか境内に神武天皇頸宮跡があるが、詳細はわからない

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浜の宮王子跡から3分のところにJR那智駅がある 那智駅の裏の那智湾を眺めると、これで中辺路の旅が終ったような気になるが、
実は新宮にある熊野三山の1つ熊野速玉神社が残っている。



JR新宮駅~神倉神社~権現山

JR那智駅からJR新宮駅へは、古道を歩かず、路線バスを利用した。この間は山中ではなく市街地を結ぶ海岸沿いの道であることと、いつか熊野古道伊勢路の延長として歩く機会もあるだろうという気がしたからである。

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JR新宮駅 神倉神社は、熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社で、世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。

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 神倉神社の神橋の正面に祀られた猿田彦神社・神倉三宝荒神社
猿田彦は、高天原から地上に降る天孫ニニギノミコトを降臨地・日向高千穂まで導いた国津神。一方の神倉三宝荒神社の祭神は火産霊神と誉田別命で、火産霊神(ホムスビノカミ)とはイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神、誉田別命(ホンダワケノミコト)は応神天皇のこと、どうして神倉神社に祀られているのか私には分らない。

神倉神社は、神倉山(標高120m)に鎮座し、山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。神倉神社には、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。


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山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が神体として祀られている ゴトビキ岩の拝殿からの眺めは雄大で、熊野灘と新宮市が一望できる

神倉神社と熊野速玉大社の間にある権現山は、世界遺産一部だという。神倉神社はその南端(写真の左端)にある。



熊野速玉大社

熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、和歌山県新宮市新宮にある神社。熊野三山(熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社の3つの神社の総称)の1つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。

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熊野速玉大社の参道 熊野権現と書かれた鳥居の扁額

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神門 拝殿

社殿十二殿には14の神が祀られているが、主祭神は熊野速玉大神(イザナギノミコトとされる)と熊野夫須美大神(イザナミノミコトとされる)である。
もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。
神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。

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八咫烏神社と手力男神社は、熊野速玉大社の摂末社である

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   境内にある国指定の天然記念物「梛(ナギ)の大樹」
高さ20m、幹周り6m、推定樹齢1,000年、ナギとしては国内最大であるとされる。1159年(平治元年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる。ナギは凪に通じることから、ナギの枝を護符にする。
 後白河法皇御撰梁塵秘抄所載の今様
 熊野へ参るには
 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
 広大慈悲の道なれば
 紀路も伊勢路も遠からず
後白河法皇は大の熊野信者だった。歴代の上皇の中で最も多い34回の熊野詣をしている。



新宮市内見物

せっかく新宮市に来たので、熊野速玉大社だけでなく、市内見物を楽しんだ。

佐藤春夫記念館

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熊野速玉大社に隣接する佐藤春夫記念館を見学した。
新宮市に生まれた佐藤春夫の東京の旧宅を、誕生地近くのここに移築復元したもの。



新宮城跡

新宮城(しんぐうじょう)は別名を丹鶴城(たんかくじょう)ともいう。城跡は国指定の史跡。天正年間に堀内氏によって築城が計画されたが、関ヶ原の戦いで豊臣方についたため工事は着手されず、代って、1618年、紀州藩主浅野長晟の重臣・浅野忠吉が、場所を熊野川の沿岸に移して再築。後に紀州藩の付家老・水野重仲が城主となり、水野氏の居城として明治維新を迎えた。明治6年に天守などの建物を払い下げ、取り壊された。現在は、本丸跡などが丹鶴城公園として整備されている。

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城跡の地下をJR紀勢本線が通っている 石垣は残っているが、天守閣は取り壊されて今はない

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与謝野鉄幹が北原白秋と新宮を訪れた際に詠んだ歌碑がある
「高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」
熊野川の河口付近が望まれる



阿須賀王子・阿須賀神社

阿須賀王子跡は阿須賀神社の境内にある。阿須賀神社のは、祭神は事解男命(コトサカオノミコト)で、ほかの熊野三山の神々も祀っている。熊野権現は神倉山へ降りたのち、阿須賀へ移ったといわれている。

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阿須賀王子跡のある阿須賀神社の背後の蓬莱山は、標高48mの椀を伏せたような山容で、
神奈備(神霊が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域)の典型とも言うべき姿を
している。境内からは弥生時代の遺跡が発掘されている。



新宮市立歴史民俗資料館

新宮市立歴史民俗資料館は、阿須賀神社の境内の一画にあり、新宮市内の文化財を収集・保管している。

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新宮市立歴史民俗資料館の外観 蓬莱山発掘出土品(弥生時代)

新宮市立歴史民俗資料館で興味深いものとして、徐福渡来伝承関係の展示がある。
徐福は秦の始皇帝の命を受けて当方に船出したといわれている。



徐福公園~ホテル

徐福公園(じょふくこうえん)は、JR新宮駅の近くにある、徐福を記念する公園である。この公園には徐福の墓がある。伝承によると、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州に不老不死の霊薬があると具申し、命を受けて財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出したというが、その内蓬莱に当たるのがここ新宮とされていて、徐福はその後新宮に住み着いたという。ここに住み着いた徐福とその従者たちは大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を新宮の人々に伝え、ここ新宮の地で歿したと伝わっている。

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平成6年に設置された、公園の目印ともなっている中国風の楼門 平成9年制作の徐福像

熊野那智大社から、補陀洛山寺、神倉神社、熊野速玉大社、それに新宮市内見物と忙しい一日を終え、ステーションホテル新宮に辿り着いた



7日目
(11月8日)
 ステーションホテル新宮JR新宮駅JR有井駅産田神社花の窟神社
   →JR熊野駅松本峠(伊勢路)
JR熊野駅JR名古屋駅JR新横浜駅

昨日で中辺路の旅が終わった私にとって、今日は余得の1日である。産田神社、花の窟神社など日本書紀伝承の地を訪ねる。その後、紀伊路を松本峠まで歩き、次回の旅の布石(?)とするつもりだ。

JR新宮駅~JR有井駅

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JR新宮駅に飾られていた日本サッカー協会の必勝祈願の旗 新宮駅から紀勢本線の列車でJR有井へ

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発車してすぐ熊野川の河口を鉄橋で渡る 車窓から名産のミカン畑が見える
 
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無人のJR有井駅で下車 駅から少し歩くと稲を刈った水田に出た。ところが11月だというのに刈り取った後の稲が青々としていて稲穂まで出ている。刈り取った後の切株から伸びる新芽は(ひつじ)とよばれ、秋の季語になっている。(一方、樹木の切り株から生えてくる若芽は孫生え(ひこばえ)と呼ばれ、春の季語となっている。)
近年はが目立つようになった。この原因には、①台風前に刈り取るため早生の品種を栽培するから、②コンバインで刈り取るので、茎の下部が多く残るから、③地球温暖化の影響、などが考えられるが、本当はどうしてだろうか?



産田神社

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有井駅から30分ほど歩くと産田神社に着いた。
「日本書紀」の神代上第五段の一書に、イザナミノミコトは火の神・カグツチを産むときに灼かれて死んでしまったので、紀伊国の熊野の
有馬村に葬ったと記されている。熊野市有馬町にある『花の窟』がその墓陵だという。そして出産の場所がこの地だと伝えられている。

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左側にある神籬(ひもろぎ)の跡 拝殿に相当する場所であろうか 右側にも僅かだが神籬の跡

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いて執り行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、古くはその場所が神籬と呼ばれた。次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、古い形の神社は、建物の中に玉垣を設けて常盤木を立てて神の宿る所とし、祭るものであった。後にはこの常盤木を神籬と呼ぶようになった。現在は、神籬は地鎮祭などで用いられる。           Wikipediaより

   産田川を挟んで産田神社の対岸に、「トーエネック太陽光熊野発電所」がある。
  設置面積:約16,000平方メートル、 発電容量:1,990kW
熊野市および地元自治体と災害時の電力供給に関する協定を結んでおり、
非常時に本発電所にて発電した電気を使用することがでるという。



熊野市歴史民俗資料館

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熊野市歴史民俗資料館はJR有井駅の近くにある。郷土の遺跡出土品や近代の民具などが展示されている。

日本書紀の「花の窟」に関連する記述の解説があり、「御縄掛け神事」の木版画が展示されていたが
ガラスの反射のためうまく撮影できなかったので、頂いた木版画の印刷物から複写して挿入した。
「御縄掛け神事」の木版画の版木は熊野市指定有形民俗文化財である。(絵柄は写真のものと異なる)



七里御浜と浜街道

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熊野市歴史民俗資料館から歩くと、防潮堤を越えて七里御浜に降りることができる。
浜で見かける黒い石は、新第三紀中新世の熊野層群の粘板岩で、「那智黒石」と呼ばれ、碁石の黒石、硯、床置石、装飾品などに加工される。

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国道42号の中で七里御浜に沿う部分は「浜街道」と呼ばれる。ここから「花の窟」の頭部を眺めることができる。
因みに、「七里御浜」も「花の窟」も世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部である。

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花の窟の曲がり角に立つこの道標には、「右、熊野山巡礼道」と書かれている。道標が熊野市有形民俗文化財に指定されている。

花の窟神社

花の窟神社(はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊(イザナミノミコト)と軻遇突智尊(カグツチノミコト)を祀る。『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。神社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである。

神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、拝所が設けられている、一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.5km先にある産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当神社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。当神社においては、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18mの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている。今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45mの巨岩である磐座(いわくら)が神体である。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。

「花の窟」は「七里御浜」とともに世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。  Wikipediaによる


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花の窟神社の鳥居 参道

神体の巨岩から渡された綱

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        伊弉冉尊(イザナミノミコト)が祀られている
日本書紀では伊弉冉尊と記されている。『記紀神話』では、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と共に天津神に国造りを命じられ、大八島国(日本の国土)と大事忍男神ら35の神々を生むが、軻遇突智尊(カグツチノミコト)を生むときに火傷を負い、それがもとで亡くなる。

          日本書紀神代上第五段一書に曰く:
伊奘冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。
         軻遇突智尊(カグツチノミコト)が祀られている
日本書記では軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ホムスビ)と記されている。伊弉冊尊が火の神である軻遇突智に焼かれ、臥せりながらも土神(ツチノカミ)埴山姫(ハニヤマビメ)と水神(ミヅノカミ)罔象女(ミツハノメ)を生んだ。軻遇突智は埴山姫を娶って、稚産霊(ワクムスビ)を生んだ。この神の頭の上に、蚕と桑とが生じた。また臍の中に五穀が生じた。すなわち、五穀・養蚕の神の誕生である。



獅子巖~松本峠~JR熊野市駅

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獅子巖は地盤の隆起と海蝕でできた奇観で、、鬼ケ城とともに世界遺産 『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部となっている。
なお、近くにある地学的に興味深い「鬼ケ城」は以前に訪ねたことがあるので、今回は時間の都合上省略した。鬼ケ城を見る→

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ついでだから熊野古道伊勢路を少し歩いてみようと、
獅子巖から、苔むした江戸時代の石畳を松本峠まで歩いた。
松本峠には、妖怪と間違えられて鉄砲傷をつけられたという地蔵様が出迎えてくれる。ここから先の伊勢路は、またの機会に訪ねることにしよう。

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松本峠から東に200mほど行ったところに、
七里御浜や遠く熊野三山を望む熊野古道随一の展望台があるという
説明版どおり東へ歩くと東屋があり、展望が望めた

東屋からの展望  小雲取山、大雲取山、那智湾、新宮が見えるという

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松本峠からJR熊野市駅まで歩いて戻り、駅前の食堂でめはりずしを食べた。
これは酢飯を高菜の浅漬けの葉でくるんだもので、井上靖も好んだという三重の味である。

JR熊野市駅から紀勢本線・関西本線を経由して名古屋に出て、新幹線で横浜に帰った



非常に長い 「熊野古道---中辺路参詣道の旅」 をご覧下さって、有難うございました。

私は中辺路を旅して、次のような点に興味を持ちました。
 平安・鎌倉時代の上皇や貴族はなぜ熊野詣をしたのだろうか(浄土信仰のため?)
 江戸時代の庶民はなぜ熊野詣をしたのだろうか(レクレーションの始まり?)
 現代人(特に外国人)はなぜ熊野詣をするのだろうか(現代生活を見直す機会に?)
 日本の神話の伝承地が現在の歴史や地理と繋がっていること
 熊野の自然が南方熊楠などの先人の努力で維持されてきたこと

皆さんはいかがでしたか。



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