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日本の近代化遺産(5) ---- 日本の銅山史を訪ねる
広瀬歴史記念館、別子銅山記念館、マイントピア別子・端出場
マイントピア別子・東平
銅ができるまで鉱害克服の歴史



 私は特段、「鉱山好き」というわけではないが、制作したホームページの中に鉱山関係が多いのは事実である。私のホームページの「国内の歴史と文化」のカテゴリーを見て頂くと、

  足尾銅山、 佐渡金山、 石見銀山、 釜石鉱山、 九州の炭鉱群
などを含むページがアップされている。 (それぞれクリックしてご覧になれます)

 私にとって鉱山が魅力的である理由を考えてみると、
(1)江戸時代までは日本古来の技術が使われ、明治以降は西洋技術を導入し改良した点が
  「技術史」として興味深い
(2)狭い日本がかつて世界有数の鉱山国で、明治の富国強兵に必要な外貨を稼いだという
   歴史がある
(3)今では廃墟と化した日本の鉱山跡であるが、「滅びるものへのノスタルジア」を感じさせる
   魅力がある
などがあるのだろうか。

 銅山でいつも問題になるのが鉱害(鉱業が原因で発生する公害)である。足尾銅山の鉱毒事件と田中正造は日本の公害の原点といわれる。いささか堅い話であるが、日本の三大銅山(足尾、別子、日立)でいかに鉱害が克服されたかをホームページの最後の部分に記した。近年話題になるCSR(企業の社会的責任)の問題としてご覧頂ければ幸いである。

 なお、別子銅山の取材は、出雲・石見・雲南(たたら製鉄)に引き続き2013年7月に行なったが、諸般の事情でホームページへの掲載が1年半ほど遅れてしまった。お世話になった方々にはお詫びしたい。
                                             (2015年2月)
              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
 下記にメールでお知らせ願います。
       メール
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       別子銅山・東平ゾーンの一風景
別子銅山跡を観光地として活用しようと旅行業者を招いたときに、「まるで『東洋のマチュピチュ』ですね!」 と称されたのが、別子のニックネームとして『東洋のマチュピチュ』が使われるようになった由来だという。
 
 
 
 
 

目次
1.広瀬歴史記念館・旧広瀬邸

2.広瀬歴史記念館・展示館

3.別子銅山記念館

4.マイントピア別子・端出場ゾーン

5.マイントピア別子・東平ゾーン

6.新居浜の市街

7.銅ができるまで

8.日本の三大銅山に見る鉱害克服の歴史

9.むすび
別子銅山の所在地

新居浜市にある別子銅山関連施設 (は訪問地)

銅鉱床のある銅山峰、最初の製錬所があった惣開(そうびらき)、明治38年に製錬所を移した四阪島(しさかじま)


 
1.広瀬歴史記念館・旧広瀬邸

広瀬宰平は1828年に近江の北脇家に生まれ、9歳で別子銅山に勤務し28歳の時に広瀬義右衛門の養子となった。幕末から明治初期にかけて支配人や住友家総理事などを歴任し明治新政府による接収から銅山を守り、また積極的に外国人技師の招聘や機械化など近代化を進め、ダイナマイトの活用や日本初の山岳鉄道の導入などで効率化を図った。

彼は1877年(明治10年)に居を構え、移築・増築を重ねて1889年(明治22年)に新座敷や庭園などを完成させた。邸宅には和式建築ながら板ガラス・洋式トイレ・マントルピース・避雷針などの西洋建築技術がいたるところに採用され、明治初期の西洋化という新しい流れを巧みに利用する彼の先見性を伺うことができる。隠居後は近江で暮らしたが、この邸宅はその後も子孫によって管理され続けた。そして1970年(昭和45年)に新居浜市に寄贈され、近年になって大規模な調査・改修がなされて、隣接地に作られた展示館とともに広瀬歴史記念館として公開された。なお旧広瀬邸は当時の時代背景を物語る貴重な近代建築として2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定された。


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母屋玄関 新座敷内部

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内庭 内庭からみた、新座敷(左)と母屋(右)


 
2.広瀬歴史記念館・展示館

展示館には、広瀬宰平の人生がいくつかのテーマ毎に映像や実物資料、パネルを用いて紹介されている。叔父に伴われ9歳にして初めて別子銅山に赴いて以来、その経営維持に奔走し、採鉱・製錬や陸運の近代化を推進するなど、わが国殖産興業に尽力した宰平の姿がここにある。

展示館のレイアウト

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風変わりなこの建物は、未知の航海に漕ぎ出そうとする船を
イメージしている。手前の広瀬宰平像は高村光雲の木型を
用いて、東京芸術大学の手で復元されたもの。
幕末期の大坂住友本店図 (1849年(嘉永2年))
敷地は600坪、左手に同面積の銅吹所(製錬所)があった。
物資運搬には手前の長堀川の水運を利用した。
住友家の初代政友は、京都で薬舗や出版を営んでいたが、二代友以は同業を家業とし、1623年(元和9年)大坂へ進出し、泉屋を屋号とした。1690年(元禄3年)、別子銅山を発見、その後の発展の契機となった。。

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                コワニェ(1835-1902年)
フランスのサンテチェンヌ生まれ、1867年(慶応3年)のパリ万博を機に薩摩藩の鉱山技師として来日、翌年明治政府最初のお雇い外国人として生野鉱山に赴任した。広瀬宰平は1872年(明治5年)にコワニェの別子視察を要請し、1874年ラロックを雇用した。
                ラロック(1836-1883年)
別子鉱山雇いのフランス人鉱山技師。1836年フランスのグラース生まれ、1872年(明治5年)広瀬宰平が銅の取引先リリエンタール商会に人選を依頼し、雇用契約を結んだ。


 
3.別子銅山記念館

日本三大銅山の一つである別子銅山での功績を永く後世に伝えたいと願い、住友グループが共同で設立した記念館である。館内には住友グループと別子銅山の歩んできた歴史を始め、技術や従事者の生活などを紹介するコーナーで構成されており、当時の様子についても学ぶことができる。

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別子銅山記念館は大山積大神に隣接している 山の斜面を利用した半地下構造の別子銅山記念館の外観
残念ながら、別子銅山の歴史が展示された館内は、撮影禁止
大山積大神(大山津見大神、大山祇大神)は、山を支配する神であると同時に海の神でもあり、地神海神兼備の霊神として日本民族の総氏神、日本総鎮守の神として崇敬されてきた。1691年(元禄4年)、別子銅山稼行に際し、住友家が鉱山鎮守の神として大三島の分霊を頂き、別子山村足谷に祀られたのが別子大山積神社の縁起である。 その後、昭和3年に現社地に正遷座された。 別子銅山鎮護の神として崇敬され、鉱夫が入・出坑の際には必ず坑口にまつられた大神に拝礼することを常としたという。

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ドイツから購入された別子1号機関車
1893年(明治28年)に開通した鉱山専用の上・下部鉄道に使用された
部品を購入し別子事業所で組み立てた自社製電気機関車
1950年(昭和25年)、鉱石運送増強のため電化された



別子銅山の歴史年表

愛媛県ホームページより 


 
4.マイントピア別子・端出場ゾーン

マイントピア別子・端出場(はでば)ゾーンは、市内の中心部から車で約15分の「端出場」という所にある新居浜市を代表する観光施設である。ここ端出場は、別子銅山の最後の採鉱本部が置かれたかつての採鉱の拠点で、周辺には打除(うちよけ)社宅や鹿森(しかもり)社宅が整備され、鉱山で働く人々の生活の拠点でもあった。約6万㎡の広大な敷地には、別子銅山の歴史を遊びながら学べる鉱山鉄道・観光坑道や、ゆったりとリラックスできる広々とした温泉施設、またレストランなどの飲食施設もあり、一日ゆっくりと楽しめる施設となっている。

別子銅山・端出場ゾーンの地図         Websiteから引用したが引用元を失念

端出場ゾーン散策1

タクシーで端出場に着いて、鉱山鉄道に乗って観光坑道に行く。坑道内に作られたジオラマで別子銅山の歴史を学ぶ楽しいひと時であった。

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1991年(平成3年)に作られた端出場大橋
県道に沿った芦谷川の川向こうに建設されたテーマパーク
「マイントピア別子」へのアクセス用として作られた橋である。
1912年(明治45年)完成の旧端出場水力発電所
銅山川の水を利用し、落差597mは当時日本一。大正時代には
四阪島製錬所へは20kmの海底ケーブルで送電された。

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発電所の内部        LococoのHPより

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端出場記念館と正面入口
明治調の赤レンガ造りで銅板葺き屋根の建物は、マイントピア別子・端出場ゾーンの中心で、
ヘルシーランド別子(端出場温泉保養センター)、レストラン、ショッピングプラザなどがある

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仲持とは、元禄4年(1691年)の別子銅山の開坑以来牛車道が開設されるまで、奥深い銅山で精錬した粗銅や
山中での生活物資(男性は45キロ、女性は30キロ)を背負って、険しい山道を運搬した人達のこと。
明治13年に牛車道が開設され、明治26年(1893)以降、上部鉄道、索道、下部鉄道が順次開通した。

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「マイントピア別子」の端出場駅と観光坑道に近い打除駅を結ぶトロッコ列車。発車するとすぐにトンネルに入る。

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坑木台車は、坑内で使う木材などを運ぶための貨車 人車は坑内で働く人を乗せる客車、トロリー電気機関車で牽引

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                             終点の打除駅を降りると、歩いて橋を渡り、端出場坑道へ
観光坑道は、別子銅山の旧火薬庫を利用した坑道で、江戸時代の様子を再現した「江戸ゾーン」、別子銅山の近代史を学べる「近代ゾーン」のほか、地下1,000mの疑似体験ができる



江戸ゾーン

観光坑道の中に設けられた「江戸ゾーン」では、当時の坑内風景と製錬の様子がジオラマで楽しめる。

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負夫(おいふ)と掘子(ほりこ)
背に葛で編んだ篭を背負った運搬夫(負夫)と採鉱夫(掘子)は、
サザエの貝殻で作った「明かり取り」を手にして坑内に入った
掘場(つぼ)
採鉱は主に槌(つち)と鑿(のみ)を使って、手作業で行われた
 

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湧水の引揚げ
鉱石を採ると石の目を伝わって水が溜まり、採鉱が難しくな
る。そこで、湧水を昼も夜も坑外へくみ出す作業が行われた。
坑口と風呂場
別子銅山では、歓喜坑を出るとすぐに共同浴場があり、便利に作られていた。
銅山で働く人々は、その日の作業を終えると風呂で疲れを癒した。

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砕女小屋(かなめごや)
運び出された鉱石は、男が大割した後、砕女(かなめ)と呼ばれる女性たちによって、
金槌(かなづち)で3㎝角位くらいの大きさに砕かれ、色の濃淡によって選別される

銅の精錬工程
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             焼鉱
鉱石を焼くことで、鉱石中の硫黄分を取り除く。鉱石の重さはは2、3割減って、銅・鉄の酸化物と石英、少量の硫黄を含む焼鉱になる。
   「一番吹き」または「鉑吹き(はくぶき)」
焼鉱を珪石、木炭とともに、吹床(ふきどこ)に入れ、「ふいご」で風を送って熱して溶かすと、成分の比重によって、”カラミ”と”カワ”に分離する。”カラミ”は銅をほとんど含まない鉄分の多い残りカス。”カワ”は、銅成分を含んだもの(硫化銅)で、”カラミ”に比べ比重が重く、下に沈む。
    「二番吹き」または、「真吹(まぶき)」
、”カワ”を真吹床に入れ、前工程と同じように、珪石とともに木炭の加熱で溶かす。すると、さらに”カワ”の中の硫黄分が亜硫酸ガスとなって発散し、硫化鉄は珪酸鉄となって除かれ、硫化銅は酸化されて銅分97~98%となる。 これを「粗銅(そどう)」という。輸出用の粗銅は棹銅の形にされる。

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粗銅改め(あらどうあらため)
山で作られた粗銅は、山役人の立会いのもとに、重量が測られた。
当時、銅山税として、生産量の13%が幕府に納められた。
             山神社(さんじんじゃ)
山神社とは、昔から鉱業を行なう者が信仰した大山積神(おお
やまづみのかみ)を祀るもの。坑内にこの神を祀り、無事を祈った。



近代ゾーン

観光坑道の中に設けられた「江戸ゾーン」の奥には「近代ゾーン」と「体験型ゾーン」がある。

この動く巨大ジオラマは、別子銅山(旧別子・東平・端出場)の明治から昭和の模様を一か所に集約したもの

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観光坑道の一番奥にある「体験型ゾーン」では、別子銅山での作業内容を遊びの中から学習することができる。
索道のカゴに乗るのはちょっとスリリングだった。



端出場ゾーン散策2

観光坑道のジオラマ展示を見た後、駐車場まで、端出場ゾーンの散策を続けた。

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観光坑道を出ると、打除鉄橋がある。これは1893年(明治26年)に架設されたもので、連絡点がピン構造になっている珍しい橋である。

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第四通洞の入口(左) 第四通洞は昭和48年の別子銅山閉山まで、大動脈として活用された最後の水平坑道(全長4,596m)、
大立坑と端出場の間には四通橋(右)が架かり、トロリー電車が走っていた。


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泉寿亭(せんじゅてい)は、1937年(昭和12年)に建てられた住友各企業の迎賓館 住友由来の「泉屋」を寿ぐとして、泉寿亭と名付けられた


 
5.マイントピア別子・東平ゾーン

マイントピア別子・端出場ゾーンの見学を終えて、別子マイントピアのボランティアガイドの石川さんに案内して頂いて、駐車場からマイントピア別子・東平(とうなる)ゾーンへ移動し、東平ゾーンを見学した。


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端出場ゾーンから登ると、鹿森ダムを通過する 風花トンネルを抜けると東平ゾーンである

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共同浴室の跡 東平接待所跡に建てられた往時をしのぶ写真パネル

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車で上がると廃墟が見えてくる
(手前)貯鉱庫跡、(奥)索道基地
インクライン跡に設けられた220段の階段を下る
インクラインは傾斜面にレールを敷いてトロッコを走らせるようにしたケーブルカーの一種。生活物資や資材の揚げ降ろしに使われた。

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(上)貯鉱庫跡、(下)索道基地
先程上から見下ろしたところを、今度は下から見上げる。正に『東洋のマチュピチュ』である
案内して下さった
ボランティアガイドの石川さん

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                東平娯楽場跡
この娯楽場は1912年(明治45年)に建設され、東平坑が閉坑される1968年(昭和43年)までの57年間、東平の人々に親しまれた。2000人が収容できた劇場も撤去され、跡地は植林され、橋の欄干だけが残っている。

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                  保育園跡
この保育園は、1950年(昭和25年)に開設されて18年間使用された。残っている楕円形のコンクリートは幼児のプールだったのかもしれない。

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病院跡
住友別子病院東平分院は、1905年(明治38年)に開設、1968年(昭和43年)に廃止されるまでの63年の間、
東平の人々の命と健康を守り続けてきた。普通の病室の他に隔離病棟と避病舎も設置されており、
法定伝染病の人たちの収容も行われた。

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                  旧保安本部建屋
現在、東平記念館のマイン工房として利用されている赤レンガ造りの建屋は、明治期は配電所、大正期は林業課事務所、その後は保安本部として活用されていた。
               旧東平第三変電所跡
1904年(明治37年)に完成した赤レンガ造りの第三変電所は、水力発電所から送電されてきた電力の電圧調整と明治38年(1905)に第三通洞に電車が導入されたことに伴い、その電車用に直流変換するために設置されたものとされている。

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                   第三通洞
明治35年に貫通した東延斜坑底と東平坑口を結ぶ延長1795mの水平坑の東平坑口跡。掘り出した鉱石を坑内電車で東平の選鉱場まで運んだ。
            小マンプ(鉱山鉄道のトンネル)
マンプは坑道のことを「間符(マブ)」と呼ばれていたところからきている。現在は、当時の鉱山関連機械器具類が展示されている。

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                 東平歴史資料館
鉱山の町として賑わった東平の往時の生活文化や銅及び別子銅山等を紹介している。
東平歴史資料館の中の展示の1つ
2000人が収容できた東平娯楽場のジオラマ


 
6.新居浜の市街

マイントピア別子を見学した後、ボランティア・ガイドの石川さんにお願いして新居浜市の住友系の工場の外観を車窓から案内して頂いた。

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            高さ18mの旧山根製錬所煙突
山根製錬所は、1888年(明治21年)に完成。銅を精錬するだけではなく、その過程で発生した亜硫酸ガスから硫酸を、残りカスから銑鉄(せんてつ)を製造するもので、銅製錬所に新居浜製鉄所が併設された。官営の八幡製鉄所に先立つこと7年も前のことであった。しかし、これらの製鉄・化学事業は当時の技術水準では海外に太刀打ちできず、明治28年に山根製錬所と新居浜製鉄所は閉鎖された。
新居浜市街の下水道と側溝
かつて別子銅山の鉱害対策として整備されたという。

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                住友化学(株)
住友グループの大手総合化学メーカー。国内化学メーカーとしては、三菱ケミカルホールディングスに次いで第2位。1913年(大正2年) 別子銅山から産出した銅を新居浜工場で精錬する過程で発生した亜硫酸ガスを処理する目的で、肥料製造所として創業。
               住友重機械工業(株)
住友グループの造船・各種製造装置や精密機械など最先端のメカトロニクス分野で世界中に展開する日本の代表的な総合重機企業。1888年(明治21年) 別子銅山の採鉱に使用される機械設備の製作を担当する「工作方」として創業。

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住友化学歴史資料館は住友化学愛媛工場の近くにある。残念ながら下車の時間がなく車窓見学となった。
この建物は元住友銀行新居浜支店、文化庁の登録有形文化財、経産省の近代化産業遺産となっている。


 
7.銅ができるまで

銅鉱石から銅ができるまでの話を、銅と人間の関わり、銅鉱石はどのようにしてできたか、銅の精錬法の今昔、に分けて記す。

銅と人間の関わり

銅は人類が初めて使った金属であるといわれている。BC7000年~8000年頃、新石器時代人によって偶然に自然銅の形で発見されたと思われる。BC6000年頃、西アジアのメソポタミア地域で孔雀石や藍銅鉱が大量に発見されるので、木材を燃料に生活していた際の炉壁などから金属が遊離することを知ったと思われる。その後、エジプトではBC5000年頃の墓から副葬品として銅製の武器や用具が出土されている。BC3800年頃、シナイ半島において銅鉱石が採掘されたという記録や、当時のるつぼも発見されており、鉱石からの銅精錬技術があったことを示している。BC2750年頃のエジプトのアプシル神殿には、銅で作った給水管が使用された事実があり、これは銅を薄い板にたたき出して、管にまるめて用いたものである。

日本で初めて銅が使われたのはBC300年頃(弥生時代)といわれている。日本における
銅の歴史は、中国大陸から渡来したもので、当時は北九州を中心に銅剣・銅鉾・銅鏡など青銅器文明が栄え、その後、東日本に広まっていった。国内で銅鉱石を初めて産出したのは698年(文武2年)で、因幡国(鳥取県)から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられている。また708年(慶雲5年)に武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(
和同開珎)が造られ、年号も和銅と改められた。最近、7世紀後半の飛鳥池遺跡から発見された「富本銭」はその鋳造が700年以前に遡ることが確認された他、遺跡からの溶銅の大量出土は7世紀後半の産銅量が既に一定の水準に達していたことを物語っている。

以降も全国各地で各種の鉱物が続々と発見され、奈良朝および平安朝時代にかけては
青銅の仏像や仏具・工芸品などが盛んに作られ、749年(天平勝宝元年)に鋳造終了した
東大寺大仏で、銅の精錬・鋳造加工技術は著しい進歩を示した。因みに大仏の製造には500トンの銅が使われた。

室町時代にはいると中国・スペイン・ポルトガル・オランダなどとも貿易が開かれたが、鉄砲その他の武器・貨幣・日常生活の器具等銅に関する需要が内外ともに旺盛となり、江戸時代の寛文、元禄の頃銅は金銀にかわって長崎貿易の主力となった。世界的に見て、新大陸(米国)の銅山がいまだ多く開発されていなかった1697年(元禄10年)の日本の銅の生産高は世界一の約6000トンで、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状況であった。

その後日本の銅生産量は減少の一途をたどり18世紀中旬には産業革命を迎えたイギリスに抜かれて2位となった。明治に入ると新規産業技術の導入や機械化などによって日本の銅生産は持ち直したが、チリやアメリカ、アフリカの大規模鉱山の開発が始まるとそちらが世界の主流となっていった。日本の銅山はその後、公害問題や採算性の悪化により1970年代頃から閉山が相次ぎ、1994年に日本最後の銅鉱山が閉山した。

現在、日本は銅鉱石生産世界一のチリなどから銅精鉱の形で輸入し、国内で製錬して銅地金(電気銅)を生産している。

                                             日本伸銅協会HPなどを参考にした
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自然銅  Wikipwdiaより
和同開珎
東大寺大仏
 
 
 
 

A
銅鉱石生産は、鉱石に含まれる銅量に換算した重量
                               日本伸銅協会HPによる
銅地金生産は、精錬された電気銅(純度99.999%以上)の重量
                                 日本伸銅協会HPによる



銅鉱石の話

鉱石とは、資源となる鉱物を含む岩石を指す。鉱石が集合している部分を鉱床と呼ぶが、開発されている場合は鉱山と呼ばれる。岩石の成因的分類(火成岩・変成岩・堆積岩)と同じように、鉱石の成因的分類として大きく火成鉱床・変成鉱床・堆積鉱床に分けることが多い。しかし、全般的に熱水の働きが重要であり、変成と堆積の場合も含めて熱水の関与が大きいため、鉱床をこのように簡単なタイプ分けすることは難しい場合もある。

世界最大の銅鉱山チリのチュキカマタ鉱山
成因的分類(火成鉱床-熱水性鉱床-斑岩銅鉱床)

花崗岩質のマグマが地殻浅所まで貫入して半深成岩体をつくる場合、そのマグマ活動末期に生じた熱水により、岩体自身及びその周縁部の被貫入岩は著しく熱水変質を受ける。と同時に、銅を主としモリブデンや金を伴う鉱化作用が変質岩体中で広く行われ、大規模な網状鉱染鉱床が生成される。このタイプの熱水性鉱床を斑岩銅鉱床という。特徴的なことは、銅や金、モリブデンが低品位ではあるが広範囲に含まれていて、鉱床の規模が極めて大きいことである。

日本の代表的な銅鉱山別子
成因的分類(火成鉱床-熱水性鉱床-キースラーガー型鉱床)

北欧の硫化鉄鉱鉱床と日本の層状含銅硫化鉄鉱鉱床が類似しているので、日本の層状含銅硫化鉄鉱鉱床もキースラーガーと呼ばれるようになった。
したがって、キースラーガーとは硫化鉄に富む層状含銅硫化鉄鉱床をいう。別子鉱山(愛媛県)の層状含銅硫化鉄鉱鉱床は規模が大きく典型的なキースラーガー型鉱床であった。中生代以前に噴出した塩基性火山岩類(玄武岩溶岩および同質凝灰岩からなり、大部分は広域変成作用を受けて緑色片岩になっている)に関連した鉱床で、それらにほぼ整合的に胚胎した層状ないしレンズ状鉱体からなる。日本で採掘された銅の35%はこのタイプの鉱床からであった。現在日本には稼行されている鉱山はない。
          
山口大学工学部学術資料展示館HPを参考にした
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現在のチリのチュキカマタ鉱山の露天掘り
         山口大学工学部学術資料展示館HPより
江戸時代の別子銅山の手掘り

いろいろな鉱床の形成場



江戸時代の銅の製錬

江戸時代の銅製錬技術は一般に鉱石から荒銅(あらかね)までの製錬は、鉱山のある山元で行われ荒銅の精製は大阪で行われた。この時代になり古来の製錬法が改良されると共に、南蛮人から伝えられて改良されたとされる南蛮吹法(なんばんふき)と、16世紀のはじめに開発されたとされる日本独自の技術で、現在の精製法のさきがけとなった真吹法(まふき)等を組み合わせて銅製錬と同時に銀の回収が出来る現在の製錬工程の原型が出来た。南蛮吹法により銅と銀の分離回収が出来るようになり、従来評価されなかった銀が製品として評価されその経済効果は大きかった。19世紀の初頭に住友から刊行された鼓銅図録に記載されている工程と南蛮吹法を右に示す。

  国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第6集
  「銅製錬技術の系統化調査(酒匂幸男)」より
                        
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工程略図 住友家の鼓銅図録より 南蛮吹法 住友家の鼓銅図録より



現在の銅の製錬

JXホールディングスHPを基に作成 


 
8.日本の三大銅山に見る鉱害克服の歴史

銅製錬に鉱害は付きものであった。人々はいかにして鉱害を克服してきたかを、日本の三大銅山で見てみよう。

別子銅山(愛媛県)、足尾銅山(栃木県)、日立鉱山(茨城県)は、日本三大銅山と呼ばれた。1660年頃から生産量の急増に伴い、銅の輸出も増大し総生産量の約2/3に達しており、一方国内消費は1/3であった。元禄10年(1697)には銅生産量は年間約6,000トン程度と考えられ、我が国はおそらく当時世界一の産銅国であった。銅の生産の増加に伴い鉱害が発生した。

鉱害とは鉱業(鉱物資源の採掘活動)が原因で発生する公害のことである。銅山における鉱害には、主に次の2つがある。
 (1)銅の製錬に伴う亜硫酸ガスの発生によるもの(煙害)
 (2)鉱山周辺や流域の土壌汚染・水質劣化(鉱毒)
いずれも、人体の健康への被害と農作物・森林への被害がある。

以下、埼玉大学経済学部 社会環境設計学科 外岡豊教授のHP、「足尾鉱毒事件と明治時代の鉱害」 等を参考にして3つのケースを検討する。

足尾銅山の場合
 足尾銅山は1877年に古河市兵衛が明治政府から払い下げを受け、その後大鉱脈の発見があり、イギリス商社からの大量注文を受けて西欧近代鉱業技術の導入により急激に生産拡大が進められた。しかし生産開始直後から煙害による森林破壊と鉱滓に含まれる重金属の流出による渡良瀬川の鉱毒が発生、大洪水のたびに下流域の農業、漁業に大きな被害が発生した。
 そこで農民は鉱山の操業停止を求め、田中正造は1891年に第二議会(衆議院)で質問し、初めて鉱業停止の要求と農商務相陸奥宗光の責任を追求したが、折しも軍事予算を巡り国会解散となり、効を奏さず、1892年、農民は安い示談金で苦情を言わない約束(永久示談)をさせられ、被害は拡大した。1896年の大洪水による被害拡大をきっかけに鉱毒反対運動が広がり渡良瀬村の雲龍寺(鉱毒事務所)を拠点として東京押出し(陳情直訴デモ)が行なわれるようになった。時の農商務相榎本武揚は鉱毒調査会を設置、鉱毒防御命令を出したが、設置された粉鉱採聚器は被害防止には役立たず、1900年、東京押出しに向かう農民等を警官隊が弾圧した川俣事件が発生、1901年田中正造は議員を辞し、12月10日、天皇に直訴しようとして失敗した。この事件で市民の関心は高まったが事態は変わらなかった。

 煙害が激しかった近隣の松木村は人が住めなくなり1903年廃村になった。1904年日露戦争が始まり、政府は鉱毒問題を治水問題にすり替え足尾銅山の生産を維持増大させた。洪水対策と称して鉱毒反対運動農民の拠点、谷中村に遊水池を計画、田中正造は谷中村に住み込み農民とともに反対運動を続けたが1907年強制撤去され谷中村は滅亡した。
 経営者古河市兵衛は農商務相陸奥宗光の二男を養子に迎える等藩閥、政財界と強いつながりを持ち、被害防止策や十分な補償をせず生産を維持拡大し、鉱毒反対運動を押さえ込み続けたが、陸奥宗光の秘書官をしていた原敬は1905年古河鉱業の副社長となり、1907年内務相として、谷中村廃村化を推進した。農地土壌の汚染は銅の濃度が高いがその後の研究でカドミウムによる被害が大きいことが解明されている。

 汚染はその後も続き1958年源五郎沢堆積場が決壊、再び被害が顕在化した。1959年の水質保全法の施行に伴い、農民は鉱毒根絶期成同盟会を結成、渡良瀬川を審議対象とするよう陳情し、1962年審議対象になった。1956年自溶炉完成、SO2回収がなされるようになり、1965年草薙ダム着工、1976年に完成し汚染物質の下流農地への流入が防止されるに到ったが、農地汚染は1970年代も続き、毛里田地区産米から基準を大幅に超えるカドミウムが検出され1972年出荷停止となり、カドミウム汚染田の指定を受け、1974年被害農民は古河との和解調停を受諾した。

 また明治時代に煙害ではげ山になった付近の山に鉱滓が捨てられた場所もあり、今日なお健全な植生が回復していない山腹も多く、その回復には現在なお多額の費用が投じられている。
A
古河市兵衛
 
 
公害反対運動の神様・田中正造
 
 
現在も続けられている植生回復
 
 
 

別子銅山の場合
 別子銅山は1690(元禄3)年、住友家が幕府の許可を得て開坑、江戸時代から幕府の庇護の下で経営された。四国の山中、吉野川上流に位置する別子銅山は山に囲まれた狭隘な土地のため1883年に精錬工程を移設、新居浜精錬所で生産を開始した。ところが付近の農作物に煙害による被害が発生、1894年被害農民が操業停止を求めて新居浜分店を襲撃するに到り、会社は被害農地を買い上げ、1895年農民代表は住友大阪本店と補償交渉をすることになった。そこで時の鉱業所支配人、伊庭貞剛は「住友家の家名を汚すようなことがあってはならない」と足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無人島への精錬所移転を計画、1895年四阪島を買収、翌年着工、総費用は当時銅山年収の1.5倍以上に相当する170余万円を要した。しかし1899年に別子で大洪水が発生、設備半壊、500名が死亡する大被害があり四阪島への移転は2年遅れ1904年操業開始となった。移転してみると期待に反して被害は減らず、むしろ汚染地域が拡大、1908年には米麦とも収穫量が激減した。愛媛県会は県知事と農商務相への陳情決議と被害救済建議案を全会一致で可決、愛媛県選出代議士も連署して除害命令と被害救済建議案を衆議院に提出、被害郡の町村長も連署して上申書を農商務相へ提出、自治体関係者がこぞって農民側に立ち住友を追求した。しかし被害の補償額を巡って折り合いが付かず、1910年農商務相の調停で煙害賠償金の支払いと農作物の生育に重要な期間10日間の操業停止が決着した。政府は日立、小坂銅山など全国的に激しくなってきた鉱毒問題に対処するため鉱毒予防委員会を設置、その専門家の政府指導で1915年に建設費35万円で低い煙突6本を四阪島に設置したが効果無く失敗。その後高い煙突を建てたり電気集塵機を導入し排ガス浄化に努めたが、1939年SO2中和工場(脱硫)完成によりようやく賠償金を大幅に減らすことができた。

 住友鉱業の煙害では足尾鉱毒とは全く異なり、被害農民は県、国、会社に強く訴え会社側の対応を引き出し、会社側は被害防止に前向きな対応を図っている。支配人・伊庭貞剛は煙害を受けた銅山周辺に植林を積極的に進め今では緑が回復している(この植林事業が今日の住友林業の元になった)。田中正造は足尾に比べて前向きな住友の対応を評価したという。しかし技術的な知識不足から多額の費用をかけた移転、低煙突建設ともに効果がなく、1939年までに被害農民に支払った賠償金等は総額730万円に上った。
A
伊庭貞剛
 
四阪島へ移転しても鉱害収まらず
 
1939年完成のSO2中和工場
 

日立鉱山の場合
 日立鉱山の旧名称は赤沢鉱山で、1591年に豊臣秀吉が佐竹義重に朱印を与え金山開発をしたのが始まりとされる。明治以降、1905年久原房之助が買収、日立鉱山として本格操業を開始した。しかし、すぐに煙害が発生、被害農民は寄り合いを重ねて討議、足尾の惨状を知っており、強硬抗議活動陳情案も出たが、村の長老たちが平和的交渉をすることに議論を集約、1907年会社に賠償要求をすることになり被害農民との補償交渉が開始された。1912年22歳の若さで入四間村煙害対策委員長になった関右馬允は郷里の被害救済に奔走、大学への進学も断念し、農民と会社の間に立って賠償金額を算定する作業を担当、被害実態調査を会社と協力して行った。今日の環境NGOに相当する先駆的な活動者であった。小坂銅山での経験から久原は煙害に前向きに対処する基本方針を持ち、煙害対策と被害補償に十分な費用と人材を当てた。角弥太郎庶務課長の下に鉱毒問題担当の地所係を創設、東大林科卒の鏑木係長、農事係に盛岡高農卒3名、山林係に元営林署長の宮下、農政学者山崎延吉の弟子長戸、煙害試験担当、佐藤を配し被害補償に科学的紳士的に最善をつくして対応した。そこで近くの山頂に気象観測所を設け気球を飛ばして高層大気観測も実施、気温、湿度、風向などと煙害の関係を調べたり、耕地、山林の基礎生産力を計算して補償金額案を作成した。そのため要員は総勢100名を越し経費をかけすぎとの批判もあったが角課長の努力で予算確保したという。当時、国にも自治体にも大学にもこのような研究をしている機関が無かったので日立鉱山では問題解決のために研究機関まで社内でまるがかえで対処したと言える。今日では県の環境研究所などが行うことを広い専門分野にわたって実行している点は当時世界的にも先進的なことであったと思われる。

 1909年政府の鉱毒予防調査会の指令に従い山の中腹に向けて多数排煙口のついた俗称、百足(むかで)煙突を建設200馬力の送風機も備え1911年竣工したが、分散をはかった煙が風向により合流して効果が無く失敗に終わった。続いてこれも政府指令に従い1913年に完成した太くて短い煙突、阿呆煙突、も多数の送風機を設置、大量の空気で希釈し、煙突出口濃度は低くできたが被害の軽減には効果がなかった。煙害地域は拡大し4町、30村に及び1914年の被害補償金額は20万円以上に及んだ。そこで久原は高い煙突を建設することを決断、社内の工学士、宮長の設計で1914年3月着工、3万7千人の多大な労働力を集中して注ぎ12月完成した大煙突は高さ156m、当時世界一の画期的なものであった。総工費は15万2千円であったが、この煙突の効果は大きく被害が減少、補償費も半分以下になった。高煙突でも気象条件によっては被害が出ることがあり、戦前は継続して年5万円程度の補償費を支払っている。

 煙害対応に関わってきた関は1920年頃に画期的提案を行い、初期の煙害で被害を受け森林が壊滅している地域に森林回復させるため植林をしたいと言い出し、会社に苗木の無償交付を要求した。関は反復説明して会社側を説得1922年から苗木の無償交付が始まり1936年まで植林を行い、おかげで今日きれいに森林回復している。また過酷な鉱山労働にはけがや病気がつきものであったので、どの鉱山も所内に病院を持っていたが日立鉱山の病院長、齋藤国太郎は『煙害の罪滅ぼし』に近隣農山村にも往診に出かけ御礼も払えない貧しい人が遠慮して往診を頼んでこないといけないからと御礼の金を受けとろうとしなかったという。

 このように労力、技術力をかけ、必要に応じて先進的な試みを自ら行い、環境NGO先駆者関右馬允(うまのじょう)との協力による科学的観測にもとづく被害軽減対策と、被害者側と紳士的に接し不足のない補償を行うなど、日立鉱山の前向きな対応は、当時としては世界的にも最先端の試みであった。


 
A
久原房之助
 
 
 
関右馬允
 
 
 
高さ156mの大煙突
 
 
 
 
 
 

足尾銅山・別子銅山・日立鉱山における鉱害の略年表
西暦 元号 足尾銅山関係 別子銅山関係 日立銅山関係 日本・世界
1610 慶長15 幕府直轄鉱山として開坑      
1691 元禄4    住友家が別子銅山開坑     
1625 寛永2      水戸藩が赤沢銅山開坑するも休山となる  
1877 明治10 古河市兵衛に払い下げ      
1881 明治14 有望鉱脈発見      
1883 明治16   新居浜製錬所開始    
1888 明治21 海外から大量受注(29ケ月、1.9万トン)      
1889 明治22       大日本帝国憲法公布
1891 明治24 田中正造、鉱毒を衆議院で初質問      
1893 明治26   別子煙害農民運動高揚    
1894 明治27   別子銅山被害農地買い上げ
伊庭貞剛、大造林計画
赤沢銅山操業再開と鉱毒水問題発生 日清戦争開始(~1895)
1896 明治29 渡良瀬川大洪水      
1900 明治33 川俣事件(東京押出を警察隊が弾圧)      
1901 明治34 田中正造、天皇直訴失敗      
1904 明治37       日露戦争開始(~1905)
1905 明治38   四阪島製錬所操業開始、対岸に煙害広がる 久原房之助、赤沢銅山を買収し日立鉱山とする  
1907 明治40     日立、地元に補償金支払い  
1911 明治44     ムカデ煙道(全長1630mの煙道)  
1913 大正2     阿呆煙突(高さ36m、内径18m)  
1914 大正3     お化け煙突(高さ156m世界一)  
1939 昭和14   亜硫酸ガス中和工場完成(煙害解決)    
1941 昭和16       太平洋戦争開始(~1945)
1951 昭和26     亜硫酸ガスを回収し硫酸を製造  
1956 昭和31 亜硫酸ガス回収装置完成      
1974 昭和49 足尾鉱毒農民と古河が和解      
本表作成に当たり多くの文献を参考にしたが、不正確・不適正を案じます。お気づきの方はご一報下さい。


 
9.むすび

鉱業について素人の私が、「鉱業の将来に向けて」を書くことは、おこがましいが、日本の鉱業の発展を願って、敢えて「むすび」を述べさせて頂く。

鉱業の将来に向けて

 鉱業とはいったいどんな産業であろうか。

 イギリスの経済学者クラークによれば、自然界に働きかけて直接に富を取得する産業を、第一次産業
いい、農業、林業、漁業、鉱業が、これに該当するという。一方、総務省が定める日本標準産業分類
(平成25年10月改定)では非常に詳しく分類されており、大分類Cに、鉱業、採石業、砂利採取業 が入って
いる。この大分類には、有機物、無機物を問わず、天然に固体、液体又はガスの状態で生ずる鉱物を掘採、
採石する事業所及びこれらの選鉱その他の品位向上処理を行う事業所が分類される、とある。
さらに調べてみると、鉱石から含有する金属を抽出するための製錬及び精製を行う事業所は大分類E
製造業(中分類の鉄鋼業、非鉄金属製造業を含む)に分類される、とある。

 しかしここでは、鉱業を、日本標準産業分類が定義する鉱業から、石炭・石油・天然ガス等のエネルギー
関係を除き、非鉄金属精錬業を加えたものを想定する。つまり、非鉄金属鉱石を採掘し、製錬し、非鉄金属
材料・部品を製造するまでと考えよう。

 以下、思いつくまま書かせて頂く。

(1)過去において我が国はの近・銀・銅の産出量が世界有数であったことは驚異に当たるが、途上国の
   大陸にの鉱山が開発された今日、狭い国土の日本で経済的な採鉱は望むべくもない。

(2)資源の入手は海外に依存するとしても、採鉱・選鉱の技術で日本の独自性が発揮できないだろうか。
   鉱山には環境問題がつきものであるので、日本の環境技術に期待したい。

(3)国土は狭くても日本の領海・排他的経済水域の海底に、金、銀、銅、亜鉛、鉛、石油、メタンハイドレート
   等の豊富な資源の存在が確認されている。海底資源採掘技術を世界に先駆けて開発・実用化して欲し
   いものである。

(4)金属製品についていえば、日本が得意とするエレクトロニクスなどの関連技術分野で使用される高付加
   価値の材料・部品
で海外に対する競争力を発揮できないだろうか。

(5)自然から掘り出す鉱物資源はいずれ枯渇するので、持続可能な鉱業が必要になることは必定である。
   その最も 身近なものが不要の工業製品から金属などを回収する都市鉱山であろう。我が国の優れた
   金属回収技術で世界に貢献してもらいたいものである。


 我が国にとっては、厳しい道と考えられるが、健闘を祈りたい。



別子銅山関係の近代化産業遺産の見学記に続き、鉱石と製錬の話、公害克服の歴史など堅い話をご覧下さって、有難うございました。

最後に、別子銅山見学でお世話になったマイントピア別子のボランティア・ガイドの石川勉さんに感謝します。また、銅の生産量について教えて頂いた日本伸銅協会、多くの文献を引用させて頂いた皆さんにお礼申し上げます。



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