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四国遍路1/5 ---- 阿波(徳島県)の前半
霊山寺、極楽寺、金泉寺、大日寺、地蔵寺、安楽寺、熊谷寺、十楽寺、法輪寺、切旗寺、
     藤井寺、井戸寺、焼山寺、大日寺、常楽寺、国分寺、観音寺、恩山寺、立江寺


  日本には霊場を巡礼するという文化がある。四国に限らず、伊勢、西国、坂東、秩父、東北、などに沢山ある。昨年訪ねた熊野古道もそれに類する。しかし「遍路」と呼ばれるのは四国だけのようである。

 四国遍路の歴史を紐解くと、「今昔物語」(1120~1150年頃)には、修行者たちが、伊豫、讃岐、阿波、土佐の海岸を選んで修行したことが書かれているという。その頃は神仏混淆で、仏教の「補陀落浄土信仰」と神道の「根の国信仰」が重なっていたという説もある。四国遍路が弘法大師空海(774年 - 835年)ゆかりの霊場を参拝して廻るものとなったのは江戸時代以降であろう。  江戸時代になると社会が安定し、民衆の中に商人を中心とした裕福層や上位農民層にゆとりが生まれ、庶民の巡礼が広まった。封建制度は、庶民が居住地を離れることを難しくしていたが、社寺に行くことは例外として認めており、このことが民衆巡礼を盛んにする要因の1つともなった。徳川家康は全国を統一すると大規模な街道の整備を行った。やがて街道は庶民の道としても使われるようになり、民衆の巡礼を可能にしていった。

 現代人にとって、 四国遍路は、身内の供養や自分の念願成就を祈願するだけでなく、日頃のストレスから解放されるレクレーション ・ 癒しの旅でもある。 日常生活では忘れがちな宗教心を想い起す機会でもあり、日本の古い文化を再認識するきっかけにもなる。

 「四国遍路の意義や如何!」などと難しいことは考えず、「衆人のすなる遍路とてふものを、我もしてみむとてするなり」ということで、「クラブツーリズム社」が主催するツアーに妻と一緒に気楽に出かけた。                                    (2015年3月)

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         お遍路姿の老夫婦
日頃宗教に疎い我々は、できるだけ目立たぬ恰好でお遍路をしたいと考えたが、「白衣」と「菅笠」はお遍路のユニフォームだから、これだけは外せない。
 
 
 
 
 
四国八十八ヶ所霊場



1日目
(3月17日)
 羽田空港岡山空港JR岡山駅JR高松駅1番札所・霊山寺2番札所・極楽寺3番札所・金泉寺
 
4番札所・大日寺安楽寺・宿坊(泊)

四国への路でハプニング

羽田空港から高松空港まで飛んで、そこからバスと歩きでお遍路を開始する予定であった。ところが高松空港が濃霧のため着陸できず岡山空港に着いてしまった。そのため今日は予定した6ヶ寺を回れず、4ヶ寺とし、残りは明日に回すこととなった。

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羽田空港からANA531便で高松空港に向かう 離陸前のボーイング767-300

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中央アルプスの山々が見え、晴天に恵まれた旅が期待されたが・・・ ところが高松空港は濃霧のため着陸できず、着いたのは岡山空港

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急遽、陸路で岡山から高松に向かう : 岡山空港→JR岡山駅→(瀬戸大橋経由)→JR高松駅

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予定より3時間遅れて、12:50にJR高松駅から専用バスに乗車 一番札所への途中で巡拝用品店に立ち寄り、予約した品を受取る



第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺(りょうぜんじ)

聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6年(815)、弘法大師がこの地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難をはらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。

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一番札所霊山寺の手前には、なんと「発心門」が・・・ 山門 (山門は寺の正門)
通常、仁王像を左右に安置してあるので、仁王門ともいう

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           本堂(本尊は釈迦如来)                 大師堂
中央の綱は、弘法大師像と繋がっており、これに触れることでご利益があるという。

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多宝塔
応永年間(1394〜1428)の建造
先達の山崎英生さんの説明を聞く
霊山寺の前に掲げられた旅館の広告を兼ねた「おへんろ道しるべ」


 
参拝の手順
  - 山門  門前で合掌、一礼   
  - 手水場  手と口を清める   
  - 鐘楼堂  鐘を二度突く  大勢が突くと迷惑であるので、省略した
  - 本堂  納札を納める   
  - 本堂  灯明・線香をあげる   
  - 本堂  お賽銭をあげる   
  - 本堂  納経する  「写経」したものを納めるといいのだが、私は「読経」を納めた
  - 大師堂  納札を納める   
  - 大師堂  灯明・線香をあげる   
 10 - 大師堂  お賽銭をあげる   
 11 - 大師堂  納経する  「写経」したものを納めるといいのだが、私は「読経」を納めた
 12 - 納経所  納経帳に墨書・ご朱印をいただく まとめて添乗員さんにお願いした
 13 - 山門  門前で合掌、一礼   
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手水場で手と口を清める 納札に住所・氏名・年齢・日付を書いて納める 灯明をあげる 線香をあげる



第2番札所 日照山 無量寿院 極楽寺(ごくらくじ)

行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で37日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。

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山門 (朱塗りで鮮やかであるが仁王門である) 本堂(本尊は阿弥陀如来)

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大師堂 弘法大師お手植えとされる長命杉は、樹齢1200年、樹高31m、幹回り6m、鳴門市指定の天然記念物



第3番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺(こんせんじ)

聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。

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山門(仁王門)

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本堂(本尊は釈迦如来) 大師堂



第4番札所 黒厳山 遍照院 大日寺(だいにちじ)

弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられる。先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを、手厚く接待していたことで知られる。

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山門(朱塗りの鐘楼門) 本堂(本尊は大日如来) 大師堂



安楽寺・宿坊

寺院に宿泊することを参籠というが、平安の昔より祈願、供養のため読経し、仏様のもとで一夜を明かして御利益や夢告に浴するのが目的であった。安楽寺の宿坊は、安土桃山時代に阿波藩祖蜂須賀家政公により四国遍路や旅人のための駅路寺(官寺)に定められて以来、宿坊として400年の歴史を持ち、弘法大師ゆかりの温泉である「弘法の湯」の湯脈は今に続き、宿泊者の旅の疲れを癒している。

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宿坊の入口
ガラスの映り込みで醜い写真になってしまった
金剛杖は弘法大師そのものと考える
綺麗に手洗いして宿坊に持ち込む

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箸袋の裏に書かれた「食前のことば」
食事の度に全員で唱える
精進料理を中心としたものであるが結構美味しい 蕎麦粒の清し汁

宿坊に掲げられた四国遍路の古地図 (宝暦13年正月8日(旧暦)、1763年制作らしい) 上が南になっている

ここの温泉は、弘法大師が温泉湯治のご利益を伝えた旧跡だという。ゆっくりと浸かり、お遍路の疲れを取った。



2日目
(3月18日)
 宿坊6番札所・安楽寺5番札所・地蔵寺(羅漢堂)7番札所・十楽寺8番札所・熊谷寺
 →
9番札所・法輪寺10番札所・切旗寺沈下橋11番札所・藤井寺17番札所・井戸寺
 
ホテル
(泊)

昨日は濃霧のため高松空港に着陸できず岡山空港から陸路で高松入りしたため、予定の6ヶ寺を打てず4ヶ寺となった。今日は8ヶ寺を打って予定のスケジュールに回復させるという。 途中、10番切幡寺から吉野川を沈下橋で渡り、 日本最大級の中州(川中島)を横断し、 11番藤井寺に至るという、変化に富んだお遍路道である。

第6番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺(あんらくじ)

安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。

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山門(仁王門) 本堂(本尊は薬師如来)
立派な(?)灯明立てと香炉ができたため、本堂の写真が撮り難くなった

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大師堂 平成5年に建立された極彩色の多宝塔。内部には大日如来を中心とする五智如来が祀られている、多宝塔の外部、基壇上には四国八十八か所の砂が埋められ、一周するだけで八十八か所のお砂踏みができる。



第5番札所 無尽山 荘厳院 地蔵寺(じぞうじ)

嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。その後、淳和天皇(在位823〜33)、仁明天皇(在位833〜50)の3代にわたり天皇家が篤く帰依えされた。源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができた。しかし、天正年間(1573〜92)の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は40,000m(12,000坪)にもおよぶ古刹である。本堂左の参道をとおり、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775)の創建で、五百羅漢堂とされていた。だが、現在は大正4年の火災で焼け残ったものが祀られている。

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山門(仁王門) 地蔵寺の本堂(本尊は延命地蔵)前で般若心経を唱える
上の画像をクリックすると読経の動画が表示される

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大師堂 境内を歩いて羅漢堂へ 見つけた句碑
百薬に優る遍路に出でにけり

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五百はないが、かなりの数の羅漢像が並ぶ 中心に置かれた釈迦如来像 西国・秩父・坂東の
千手観世音菩薩を集めたコーナー


 
般若心経について
般若心経(正式名称:般若波羅蜜多心経)は、大乗仏教の空・般若思想を説いた般若経の1つとされる経典である。
僅か300字足らずの本文に、大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。現在までにサンスクリット、漢訳ともに2系統のテキストが残存している。現在最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。

サンスクリット写本
西暦2~3世紀にインドの龍樹が般若経典の注釈書である『大智度論』を著したとされ、般若心経もこの頃に成立したものと推定する説がある。しかしながら、現存する最古のサンスクリット本(梵本)は東京国立博物館所蔵(法隆寺献納宝物)の貝葉本(東京国立博物館によれば後グプタ時代・7~8世紀の写本)であり、これを法隆寺本(もしくは法隆寺貝葉心経)と称する。漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない。

漢訳
649年、インドより帰還した玄奘は、『般若心経』を翻訳したとされている。

日本における般若心経
日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。
ただし、伝統的な仏教宗派、浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗・法華宗は『妙法蓮華経(法華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。
                                                            Wikipediaより
玄奘三蔵像
東京国立博物館蔵



第7番札所 光明山 蓮華院 十楽寺(じゅうらくじ)

大同年間(806年~810年)に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。

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山門は竜宮門 中門(遍照殿)の上層には愛染明王が安置されている

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本堂(本尊は阿弥陀如来) 大師堂



第8番札所 普明山 真光院 熊谷寺(くまたにじ)

弘仁6年、弘法大師がこの地で修行をされていた。その折、紀州の熊野権現が現れ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。昭和2年(1927年)の火災では本堂とともに弘法大師作のご本尊も焼失した。その後、本堂は昭和15年に再建された。

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先達さんを先頭に、黙々とコンクリート道を歩く 古い「へんろ道」の道標は、
歩き遍路用だから安心して歩ける
新しい「四国のみち」の道標は、
車用のため遠回りさせられる
こともある

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山門(仁王門)は四国霊場の中でも最大級
貞享4年(1687年)の建立で、徳島県の指定文化財である
和様と唐様の折衷様式で、間口は9m、高さは12.3m
安永3年(1774年)建立の多宝塔

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本堂の左手石段の上に大師堂はある 本堂(千手観世音菩薩) 本尊千手観世音菩薩が開帳されていたので、失礼ながら撮影させて頂いた



第9番札所 正覚山 菩提院 法輪寺(ほうりんじ)

古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。その礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされている。

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山門(仁王門) 本堂(涅槃釈迦如来) 大師堂



第10番札所 得度山 灌頂院 切旗寺(きりはたじ)

切旗山の中腹、標高155mに境内があり、展望が素晴らしいところというが、生憎の曇り空である。

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麓から333段の石段を登る 途中、祠で休憩して・・・ 残りの234段を登る

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本堂(本尊は千手観世音菩薩) 大師堂と弘法大師像

                切幡寺の由来

古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。

大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。得度山・灌頂院・切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。
                        
四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページより
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              手前は不動堂、奥は大塔
大塔(重要文化財)は、桃山時代1607年建立、 明治15年移築、高さ24m。現存する唯一の二重方形塔婆である



沈下橋と吉野川中州

10番札所切幡寺と11番札所藤井寺の間には吉野川が流れている。吉野川には日本一の中州(川中島)があり、2つの沈下橋を歩いて渡るという興味深い場所である。

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吉野川の北岸の堤防を上る 河川敷を歩く。行く手に見えるのは欄干のない沈下橋(大野島橋)。

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沈下橋(潜水橋ともいう)は、増水時には水中に没する。
人とバイクと軽自動車は通行できるが、バスは通行禁止。
雨模様なのでレインコートを着て歩く

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中州といっても面積は500haもあり、野菜畑が広がっている 路が二股に分かれている。左が古来のへんろ道で、かつての渡しの船着き場に通じる。右はもう1つの沈下橋を経て対岸に通じる。

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もう1つの沈下橋(川島橋)を渡る。対岸は川島町。 橋を渡ると川島城がある。1572年に三好氏の家臣であった篠原長房が滅ぼされた後、その功績によりこの地を与えられた川島惟忠が長房の上桜城に代わって城を築き、後に蜂須賀家政の家臣である林能勝が城主となる。

吉野川の中州(善入寺島)付近のGPS軌跡
吉野川左岸(北岸)から大野島沈下橋(全長211m)を渡って中州(善入寺島)に入り、中州を横断して、
川島沈下橋(全長304m)を渡って吉野川右岸(南岸)に出た。中州は全長6.2km、最大幅1.8km、面積
約500haである。善入寺島は吉野川の遊水池として全島買収される大正4年まで約500戸、3,000人が
住んでいた。当時、島には宮の島村や粟島村などいくつかの村があり、学校が2校、浮島八幡宮などの
神社もあった。これらの人々の犠牲によって下流の堤防が守られてきたともいえる。島内はきれいに
整備された広大な畑地帯では、大根、人参、ほうれん草など様々な野菜や菜の花が栽培されている。


 
沈下橋
沈下橋(ちんかばし、ちんかきょう)とは河川を渡る橋の一種。地方により潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋、冠水橋、地獄橋などともいう。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところだけに架橋され、また床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいう。なお、沈下橋ではない通常の橋は、「沈下橋」の対語としては「永久橋」「抜水橋」などと呼ばれ、橋の床板は、増水時などの高水位状態になっても沈まない高さに設けられており、増水時にも橋として使うことができるようになっている。沈下橋は、低い位置に架橋されることや、架橋長が短くできることから、低廉な費用で作ることができるというメリットを持つ反面、増水時には橋として機能しなくなるという欠点を持つ。

沈下橋の特徴として、橋の上に欄干がないか、あってもかなり低いもの・増水時に取り外し可能な簡易的なものしか付いていないことがあげられる。これは、増水時の橋が水面下に没した際に流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水がせき止められ洪水になることを防ぐためである。また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もあり、実際に流されることを前提としている例もあり、これらは「流れ橋」などと呼ぶ場合がある。増水時に流木などが橋脚・橋桁を直撃して損害を与えることを防ぐために、上流側に斜めに傾けた丸太・鉄骨などの流木避けが設置されているケースもある。

その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られること、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えないことから、徐々に姿を消しつつある。           Wikipediaより

沈下橋と水位との関係
 

               沈下橋の数
全国の一級河川及び支流には合計410ヶ所の沈下橋があり、
都道府県別に見ると、高知県(69か所)、大分県(68か所)、
徳島県(56か所)、宮崎県(42か所)の順で多い。

               吉野川
吉野川は、一級水系である吉野川水系の本川で、延長194 km、四国では四万十川の196kmに次ぐ。日本三大暴れ川の一つで、利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ。 



第11番札所 金剛山 一乗院 藤井寺(ふじいでら)

三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされた のは弘仁6年(815年)のことと伝えられている。 大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。

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山門(仁王門) 弘法大師が悪疫退散の祈願のあとに
お手植えしたと伝えられる藤の古木

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本堂(本尊は薬師如来) 大師堂

本堂左側から12番札所焼山寺への道がある。
細く険しい13kmの山道で、「遍路ころがし」の異名がある。明日登る予定。



第17番札所 瑠璃山 真福院 井戸寺(いどじ)

7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。弘仁6年(815)に弘法大師が訪れたとき、十一面観音像を彫って安置した。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。

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山門(仁王門) 本堂(七仏薬師如来)

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本堂内部
本尊の七仏薬師如来は伝聖徳太子作
大師が彫ったという像高1.9mの十一面観音像(国指定重要文化財)は右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶を持つ姿形 websiteより

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大師堂 面影の井戸 大師が掘ったという伝説の井戸で、
覗き込んで自分の姿が映れば無病息災。幸い映った!


今日は、ホテル サンシャイン徳島に宿泊した。



3日目
(3月19日)
 ホテル藤井寺山越え(遍路ころがし)12番札所・焼山寺神山温泉ホテル(泊)

藤井寺から焼山寺へ(遍路ころがし)

ホテルを出発して専用バスで一旦昨日参詣した11番藤井寺に戻り、そこから雨の中の細く険しい13kmの山道(遍路ころがし)を経て12番焼山寺へ行く。八十八ヶ所で最難の一日である。


11番藤井寺から12番焼山寺への「遍路ころがし」の地図 GPS軌跡


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焼山寺本堂脇から山道に入る 奥ノ院への分岐らしい。祠がある。

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「へんろころがし(1/6)」の標識 なるほど、急斜面の下りだ

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柳水庵で弁当をもらう。13kmの道中で唯一林道とクロスするところ。
何人かはここでリタイヤし、山の反対側からタクシーで焼山寺に登る。
雨の中で食べた弁当は美味かった

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浄蓮庵(一本杉庵)で、お大師さんに見守られて雨宿り

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ようやく雨も小降りとなり、下界の集落が見えてきた 北側の焼山寺の参道に出る

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不動明王 慈母観音菩薩 地蔵菩薩 弥勒菩薩
参道に沿って十数体の最近作られた仏像が並ぶ。画一的な奉納者碑が刻まれているところも見るとビジネスの匂いが強い



第12番札所 摩廬山 正寿院 焼山寺(しょうざんじ)

焼山寺は、焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。天気が良ければ、剣山や白髪山など四国山脈の山々がひろがる眺望はすばらしい所だという。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかあるが、焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」であった。縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。

ところが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、阿弥陀様があらわれた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(サンスクリット語で水輪の意)の印」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた。「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来しており、鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138〜39)の勅願所となっている。

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最後の詰めの石段が厳しい 本堂(本尊は虚空蔵菩薩)

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大師堂 境内の樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)の中を下山する

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焼山寺境内から1.6kmほど下ったところにある番外霊場・杖杉庵 弘法大師と四国遍路の元祖・右衛門三郎の像がある
                         右衛門三郎と杖杉庵
弘法大師空海が故郷である四国に修行の場を次々に開いていた頃,強欲非道の金持ち右衛門三郎がいて人々を苦しめていた。大師はその門前に立って念仏をとなえ、彼を教化しようとしたところ、鍬をふりかざして打ちかかってきた。危うく手にした鉄鉢で受け止め大師は去ったが、その夜から毎日一人ずつ右衛門三郎の子供が死んでいった。8日目に最後の8人目の子が死ぬ。「お大師さんを殺そうとした因果」と感じた三郎は、大師の後を追って四国の霊場をまわりはじめる。21度まわっても大師に会えないので<逆打ち>に歩きはじめた。しかし会えぬまま12番札所焼山寺で倒れる。その時,大師が現れ、「汝の罪障は四国修行の功徳で消えた」と三郎を安心させた。さらに死に行く彼の手に小石を握らせる。なんと三郎は転生して伊予の豪族河野家の男子となって生まれた。 生まれた赤ん坊はあの小石を握っていたのである。

話は戻って、大師は右衛門三郎をこの地に葬り、墓標として右衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てた。これがやがて根を張り杉の大木となったという。この地に庵が設けられ、伝説にちなんで杖杉庵と名付けられた

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集落まで下ると梅林に出た。そこで駄作を一句
梅が香に ホットする間の 焼山寺
「神山温泉 ホテル四季の里」
に泊まる
「食前の言葉」を唱えて頂く夕食


 
弘法大師空海について
空海(宝亀5年(774年) - 承和2年(835年))は、平安時代初期の僧。弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖である。最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの初期に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。

延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学び、さらに中国語や梵字などにも手を伸ばした形跡もあるという。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟(次回の四国遍路2/5で訪ねる予定)で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれる。当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。

延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。第16次遣唐使一行には、最澄や橘逸勢がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一修行者だった。同年5月12日難波津を出航、7月6日肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆した。同年12月23日に長安に入った。

永貞元年(805年)5月になると空海は、密教の第七祖である長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。8月に明州を出航して、帰国の途についた。途中、暴風雨に遭遇し、五島列島大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗したため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためか大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。

弘仁7年(816年)7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)高野山の開創に着手し、弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。また弘仁12年(821年)、満濃池(現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。

天長8年(831年)5月末、病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。承和2年(835年)3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。延喜21年(921年)10月27日醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られた。

故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。
                                               Wikipediaによる
重要文化財 「弘法大師行状絵詞・渡海入唐」
中国西安青龍寺の空海像(2006年撮影)
国宝 「風信帖」 空海筆
 
 
 
 



4日目
(3月20日)
 ホテル13番札所・大日寺14番札所・常楽寺15番札所・国分寺16番札所・観音寺
 →18番札所・恩山寺19
番札所・立江寺
徳島空港羽田空港

朝の散歩

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今日は出発が遅いので、朝のうちにホテルの近くを散歩 吉野川水系の一級河川である鮎喰川に架かる沈下橋



第13番札所 大栗山 花蔵院 大日寺(だいにちじ)

開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。ただ、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺と元の寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。

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本堂(本尊は十一面観世音菩薩) 大師堂

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大日寺と道路を挟んで隣にある阿波国一宮神社(徳島市一宮町)
神仏習合の時代には大日寺と一体化していた。元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、
参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。



第14番札所 盛寿山 延命院 常楽寺(じょうらくじ)

縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天(とそつてん、須弥山の頂上にある宮殿)に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余年の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。。

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山門はなく、「流水岩の庭」といわれる岩盤を越えて本堂に進む
本尊は弥勒菩薩(四国八十八力所のうち唯一)
境内にはイチイの大木(アララギの木)がある。大師が自ら挿し木をしたともいわれる古木で、眼病や糖尿病に効験のあるアララギ大師として有名。

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大師堂 徒歩3分ほど北に奥の院「慈眼寺」がある。
本尊は十一面観世音菩薩



第15番札所 薬王山 金色院 国分寺(こくぶんじ)

四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇は、天平13年(741年)に勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建した。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。

弘法大師が弘仁年間(810〜824年)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」によって灰燼に帰し、後に伽藍が再建されて以来、現在の曹洞宗となっている。なお阿波国分尼寺跡は北へ約1kmのところにあるという。

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山門 大師堂は1996年に火災で焼失したが、2014年に新築再建された

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左手前は鐘楼、右奥は本堂
本堂は重層の入母屋造り、文化文政年間(1804〜30) に再建。
聖武天皇、光明皇后の位牌が祀られている。本尊は薬師如来。
阿波国分寺跡としての説明板



第16番札所 光耀山 千手院 観音寺(かんのんじ)

寺伝によれば、聖武天皇が国分寺建立の勅命を出した際に行基に命じて勅願道場として本寺を建立、弘仁7年(816年)に空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火に焼かれるが、万治2年(1659年)阿波藩主蜂須賀光隆の支援を受け宥応法師が再建した。


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徳島県のシンボルともいわれる眉山(290m) 長閑な歩き遍路を楽しむ 山門(鐘楼門)は和様重層で、昔の面影を残している

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本堂(本尊は千手観世音菩薩) 大師堂



第18番札所 母養山 宝樹院 恩山寺(おんざんじ)

縁起をたどると、創建は聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。弘法大師がこの寺で修行をしていた頃、大師の生母・玉依御前が訪ねてきたが寺は女人禁制、大師は女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改めた。

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山門をくぐると石段を登って本堂へ 本堂(本尊は薬師如来)

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                        大師堂(左)と母公堂(右)
延暦年間(782〜806)に弘法大師がこの寺で修行をしていた頃、大師の生母・玉依御前が訪ねてきた。
だが寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して
母君を迎えることができた。
弘法大師御母公御剃髪所の碑



18番恩山寺と19番立江寺の間の閑話

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恩山寺から立江寺への途中に「源氏橋」がある。ここ小松島市は屋島の合戦へ向かう源義経が四国に最初に上陸した地である。近くの旗山には、6.7mの日本一の高さを誇る義経騎馬像が建つというが、残念ながら団体バスは訪れない。
一ノ谷の戦いに敗れ、讃岐屋島に逃れた平家軍追討の命を受けた義経は、摂津渡辺の津(今の大阪市堂島)から20隻の船で漕ぎ出し、紀淡海峡を南下、折からの暴風雨に乗じて、通常2日かかる行程をわずか6時間で阿波の国勝浦(現在の小松島市)に漂着した。寿永4年(1185年)2月18日早朝のことであった。義経が率いた軍は、精兵わずか150余騎、現在の小松島市を横断して土佐街道を北へ進み、夜を徹して難所とされる大坂峠を越えて讃岐国に入った。19日には、背後から平家軍を攻撃、義経軍の奇襲を受けてあわてた平家軍は海に逃れ、源氏は屋島の戦いに勝利した。
やはり恩山寺から立江寺への途中に「お京塚」がある。幸い車窓から見ることができた。
お京は大阪で芸妓をしていた折に要助と結婚。郷里大阪に帰り生活していたが鍛冶屋長蔵と密通、要助を殺害。お京と長蔵は郷里を出て讃岐丸亀に渡り自害しようとしたが果たせず、四国霊場巡礼をする気になり、立江寺まできた。ご本尊を拝もうとしたときに、お京の黒髪がさっと逆立ち鉦の緒にまきつき、たちまち巻上げられた。院主から罪の報いであろうと問いただされて、お京はありのままに一切を告白した。すると不思議にもお京の頭部の肉が剥がれ、黒髪もろとも元に戻り、辛うじて命は助かった。ふたりは罪を深く悔い改心して出家、ほど遠からぬ田の山中に庵をむすび、一心に地蔵菩薩を念じて一生を終えた。立江寺には黒髪堂がある。



第19番札所 橋池山 摩尼院 立江寺(たつえじ)

高野山真言宗の別格本山で、「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれる。縁起によると、聖武天皇の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5cmどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815年)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9mもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400mほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。

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山門(仁王門) 本堂(本尊は延命地蔵菩薩)

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大師堂 黒髪堂(由緒は上に記した



徳島空港から帰宅の途に就く

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吉野川を河口付近で渡り、徳島空港へ 「徳島阿波おどり空港」から羽田への帰途に就く


 
四国遍路の歴史など
                           遍路の歴史
人間は旅が好きである。特に神社・仏閣などの霊場を巡り、その体験を他人に聴いてもらうことを楽しみにする向きも多い。
霊場巡礼は四国に限ったことではなく、伊勢、西国、坂東、秩父、東北、などに沢山あるが、「遍路」と呼ばれるのは四国
だけのようである。

江戸時代以降の「四国遍路」は、弘法大師空海(774年 - 835年、平安時代初期)のゆかりの霊場を参拝して廻るものと
いえるが、歴史的にはいろいろな変遷を経て現在の形になったと考えられる。

「今昔物語」(1120~1150年頃)には、修行者たちが、伊豫、讃岐、阿波、土佐の海岸を選んで修行していることが書か
れている。このことから、当時海の彼方にあると信じられていた神道上の世界「根の国」へ渡ることを願った修行ではない
かと考えられる。その後、仏教の広まりと共に、仏教の中の海の彼方にあるとされていた「補陀落浄土」と神道上の「根の
国」が重なり、「根の国信仰」と「補陀落浄土信仰」が混同していったのではないかという説がある。「梁塵秘抄」(1169年)
には海岸沿いを修行する人々が書かれいるが、室戸岬を金剛浄土の入口と称している。

その後、大師信仰が四国に広まるにつれ、補陀落浄土に至るための修行は、お大師さまをおもい大師生誕・修行の地
四国を巡る遍路に変わっていったと考えられる。四国に限らず、巡礼はもともと僧が中心の修行であったが、江戸時代
を境に庶民の姿が多くみられるようになった。そこには江戸時代における社会背景の変化があったと考えられる。

江戸時代は戦乱期の終息によって社会が安定し、民衆の中に商人を中心とした裕福層が生じた。また、農民層にもゆとり
を生み、上位農民層にも巡礼が広まっていった。封建制度は、庶民が居住地を離れることを難しくしていたが、社寺に行く
ことは例外として認めており、このことが民衆巡礼を盛んにする要因の1つともなった。徳川家康は全国を統一すると大規模
な街道の整備を行った。やがて街道は庶民の道としても使われるようになり、民衆の巡礼を可能にしていった。

                          遍路のスタイル
遍路は全1200kmの道程である。1日に30km歩いたとしても、単純計算で40日かかる。休養日を入れると一般には50日
かかるとされている。宿泊費、飲食費、納経料、四国への往復旅費などを含む全費用は50~100万円かかると考えられる。
現代では、いろいろなスタイルがあり、自分の体力、金力、時間に応じたスタイルが取れる。
   (1)歩き遍路         50日     体力と金力と時間に恵まれた人向き
   (2)バス&ウォーク遍路  4日×5回  中程度の体力と時間のある人向き
   (3)バス遍路         13日     体力と時間のない人向き
私は「バス&ウォーク遍路」に決めた。このほか、マイカー、自転車、タクシーによる遍路もある。

                              遍路の目的
遍路の目的は人により様々だが、分類すると次の3つがあるようだ。
   (1)追善供養   今は亡き人の冥福を願って巡礼をするというもの
   (2)予修供養   自らが生前に、あらかじめ死後の冥福を祈るためにするもの
   (3)自分探し    信仰的な発心よりも、癒し、リフレッシュを目的とした巡礼者が増えたといわれている
私の場合は(3)かもしれない。スタイルや目的がどうであれ、年間30万人(うち歩き遍路が5000人)がお遍路をに出かける
といわれている。
                                     「お遍路のススメ」友の講HP、旅行会社HPなどを参考にした
  
 
 
 
梁塵秘抄(1169年)
 
   
真念著四國徧礼霊場記
 (1690年)
 
 



奉納経帳より

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奉納経帳(朱印帳) 第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺 19番札所 橋池山 摩尼院 立江寺


四国遍路1/5 という、どちらかというとオタッキーな内容にお付き合い下さいまして、有難うございました。

自分のホームページを開設して、今年で15年になります。内外の旅行記を基にして、歴史、文化、自然、
科学と技術などを紹介し、皆さんと一緒に考えてきました。今回の四国遍路は、八十八ヵ所霊場めぐりが
中心で、寺院にご関心の薄い閲覧者には退屈なものとなることを危惧しました。そこで退屈さを少しでも
緩和するために、随所にコラムを設けました。
 1.参拝の手順
 2.般若心経
 3.沈下橋
 4.弘法大師空海について
 5.四国遍路の歴史など
がそうです。上の項目をクリックすると、それぞれのコラムの頁にリンクします。

今後、1年がかりで四国遍路5/5まで続ける予定です。これからもご覧願うとともに、ご意見をお寄せ
頂ければ幸いです。

四国遍路2/5 は、左の文字をクリックするとご覧になれます。

最後に、今回の旅でお世話になった先達の山崎英生さん、添乗員の有井さんにお礼申し上げます。

なお、各寺の説明は、四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ等を参考にしました。



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