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釜山・対馬・壱岐 ---- 日韓の歴史と自然を訪ねる旅
   釜山(福泉博物館、国立金海博物館、首露王陵、太宗台など)、
   対馬(日本海海戦記念碑、豊砲台跡、韓国展望台、白嶽、和多都美神社、浅茅湾クルーズ、万松院など)、
   壱岐(猿岩、原の辻遺跡、一支国博物館、初瀬のマグマ岩脈、岳ノ辻展望台など)


  壱岐・対馬に歴史と自然を訪ねる旅に行く話が出た時に、私はどうしても韓国・釜山から対馬入りをしたいと思った。その理由は、対馬・壱岐は、

  ①3~4万年前に日本列島に人類が移住してきたルートであること
  ②いわゆる「三国志魏志倭人伝」に記された対馬国・一支国であること
  ③遣隋使・初期遣唐使など古代の中国との交流のルートであること
  ④元と高麗の連合軍による日本侵攻(元寇)のルートであること
  ⑤秀吉による朝鮮侵攻のルートであること
  ⑥朝鮮通信使などの日韓交流のルートであること
  ⑦日露戦争の時の日本海海戦の舞台であること

など、歴史に興味があったからである。

 というわけで、釜山では一人旅を楽しみ、対馬で仲間と合流することになった。釜山は13年前に訪ねたことがあり、今回は思い出の旅となった。釜山のいくつかの博物館・遺跡を訪ねたが、非常によく保存・展示されている。展示には、まだ少ないとはいえ日本語・中国語の説明もあり、現代版「東アジア文化圏」の実態を垣間見た。釜山から対馬へは高速船で僅か70分で、韓国が最も近い隣国であることを実感した。

 対馬では、歴史と自然を堪能した。歴史としては、良くも悪くも日韓交流の歴史の現場であった。対馬藩主宗家の苦悩に思いが至る。自然に関しては、大陸系植物と日本系植物が混生する植生や、対馬固有のツシマサンショウウオを見ることができた。リアス式海岸の浅茅湾には圧倒された。どのようにしてこのような多島湾ができたか、興味深い。

 壱岐では、魏志倭人伝に伝えられる一支國の中心集落と考えられている「原の辻遺跡」を訪ねた。地学の対象としては天然記念物「初瀬の岩脈」に地球の息吹を感じた。

なお、2006年に訪ねた韓国南部については下記をクリックしてご覧ください。、
  韓国南部の古代遺跡(1)
  韓国南部の古代遺跡(2)
                                               (2016年9月)
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   壱岐「原の辻遺跡」にある一支国の王の館
中国の「三国志」魏書の東夷伝倭人条、いわゆる「魏志倭人伝」に記されている、邪馬台国の支配のもとにあったという一支国は、現在の壱岐島で、その中心地は「原の辻遺跡」であると考えられている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



6泊7日の全旅程のGPS軌跡地図
数字は宿泊日 (Xは、X日目の宿泊地を示す)



中国・朝鮮・対馬・壱岐・列島日本の略歴史年表
関連する歴史事象を集めてみた

中国
 

朝鮮
  

対馬
 
 

壱岐
 
 

列島日本
 
 
殷(前1600~前1027)


縄文時代(前13000~前300)
周(前1027~前770)


春秋・戦国
(前770~前221)



弥生時代(前300~後300)






魏志倭人伝に邪馬台国卑弥呼、魏に遣使と記載(238)
秦(前221~前206)


前漢(前202~後8)


後漢(25~220)


魏・蜀・呉(220~280) 魏志倭人伝に帯方郡、狗邪韓国(倭の西北端とも記す)の記載 魏志倭人伝に対馬国の記載 魏志倭人伝に一大国(一支国)の記載
五胡十六国(304~439) 高句麗・馬韓・辰韓・弁韓
高句麗・百済・新羅・伽耶
統一新羅(356~935)

白村江の戦いで倭国・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗れる(663年)


古墳時代(3世紀中頃~ 7世紀頃)
北魏(386~534)

南北朝(420~589)

隋(581~618)

唐(618~907)
対馬に金田城を築き、烽火台を設ける(664年)
壱岐に烽火台を設ける(664年)
飛鳥時代(592~710)
 遣隋使(600~618)5回
 遣唐使(630~702)8回
奈良時代(710~784)
 遣唐使(717~779)8回
平安時代(794~1192)
 遣唐使(804~838)2回
北宋(960~1127) 高麗(918~1392)


南宋(1127~1279)



元(1271~1368)
高麗との連合軍による日本侵攻
元・高麗連合軍による日本侵攻
文永の役・弘安の役で元軍に占領される 文永の役で元軍に占領されるも、弘安の役では撃退する 鎌倉時代(1192~1333)
 文永の役(1274)・弘安の役
 (1281)で元軍は博多湾上陸
明(1368~1644)

朝鮮(李朝)(1392~1910)

室町期朝鮮通信使
 第1回(1428)~第3回(1443)
対馬を中継地として、
朝鮮通信使が来日

南北朝時代(1333~1392)

室町時代(1338~1573)
秀吉朝鮮通信使 第1回(1590)
文禄の役(1592~1593)
 秀吉による朝鮮侵攻
秀吉朝鮮通信使 第2回(1596年)
慶長の役(1597~1598)
 秀吉による朝鮮侵攻


秀吉の朝鮮侵攻の際、
日本軍の兵站地となる

安土桃山時代(1573~1603)
清(1635~1912)

江戸期朝鮮通信使
 第1回(1607)~第12回(1811)
対馬藩の仲介により
朝鮮通信使復活

江戸時代(1603~1867)



明治時代(1868~1912)
中華民国(1912~) 朝鮮(日韓併合)(1910~1945)

大正時代(1912~1926)
中華人民共和国
(1949~)
大韓民国(1948~)
 
朝鮮民主主義人民共和国(1948~) 太平洋戦争に日本敗北(1945)

昭和時代(1926~1989)


平成時代(1989~)



1日目
9月5日(月)
 成田空港釜山空港釜山ホテル(泊)

今日は、成田から釜山に飛び、釜山のホテルに泊まるだけ。実は天気がよければ、釜山の太宗台から対馬を眺めようと思っていたが、曇天のため諦めた。

成田から釜山へ

A
成田空港発12:45の大韓航空KE716で出発 準備中のB737-900機

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釜山空港(正式には釜山金海国際空港)上空から、
日本と同様に農地と温室栽培地が見られた。
 
13:50に定刻通り釜山空港に着陸。フラップを一杯下ろしてタッチダウン、直ちにスポイラーを立ち上げて、エンジンリバースで制動し、ショックもなく見事な着陸であった。

A A
釜山空港からリムジンバスでホテルに向かう。
リムジンバスの表示はハングルと英語のみ。漢字がない!
 
以前よりも交通マナーが良くなった。13年前には、赤信号で止まった時に角のガソリンスタンドを通過して右折(日本の左折に相当)したのには驚いた。

A
予約しておいたホテル東横イン釜山2にチェックイン

 
ホテルの深夜空室割引の広告。国内からこれより安価に予約出来た。
成田~釜山の航空券、釜山2泊、釜山~福岡の航空券が、38,578円。
釜山~対馬は船に乗るので、釜山~福岡の航空券は放棄した。

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ホテルのベッド 机とテレビと冷蔵庫

A
ホテルの周りはビジネス街で飯屋がない。地下鉄1駅分ほど歩いて南浦付近で焼肉の簡単な夕食を食う。韓国焼酎も忘れずに。

ホテルに帰ると、窓から釜山港大橋(2014年開通)のイルミネーションが見えた



韓国の紙幣

紙幣のデザインは、その国の歴史・文化の象徴である。現在の韓国の紙幣は、1,000、5,000、
10,000、50,000ウォンの4種類であるが、今回の旅行でお目にかからなかった5,000ウォンを除く4種類の紙幣の写真を下記に示す。


現在広く流通している韓国の硬貨は、10、50、100、500ウォンである。500ウォン硬貨は、日本の500円硬貨と比べると、材質が同じ白銅であり、大きさが同じ26.5mmで重さ7.7gとやや重いだけであるため、表面を僅かに削ったりドリルなどで穴を空けたりすることで質量を減らし、日本において自動販売機で500円硬貨として悪用される例が続出したことがあった。

なお、現在円とウォンの交換レートは、1円≒10ウォンである。釜山のタクシー料金は初乗り2キロまで2800ウォン、以降は143mごともしくは34秒ごとに100ウォンずつ加算される。地下鉄の4系統共通1日券が4000ウォン。簡単な焼肉料理が5000ウォン程度からあるので、交通費、食事代は日本の約半額といえる。

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50,000ウォン紙幣(表)
申師任堂の肖像・申師任堂の『墨葡萄図』と『草蟲図繡屏』の茄子の絵。
申師任堂
(1504 - 1551)は李氏朝鮮中期の女流書画家。良妻賢母の鑑。
50,000ウォン紙幣(裏)
珍しい縦のデザイン。
上(写真では右)が李霆の『風竹図』。下(左)が魚夢龍の『月梅図』。

A
10,000ウォン紙幣(表)
世宗大王(1397~1450、朝鮮第4代王、ハングルの創製者)の肖像
と龍飛御天歌と日月五峰図(ハングルだけで書かれた初めての作品)
10,000ウォン紙幣(裏)
天象列次分野之図(地模様、朝鮮太宗のとき、製作された天文図)と
渾天時計(朝鮮顯宗の時、製作された天体観測機天球儀)

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1,000ウォン紙幣(表)
退渓(1501~1570、朝鮮時代の朱子学を集大成した儒学者)の肖像と
明倫堂(ソウルに設置された儒学教育機関、成均館
の中にある建物)
1,000ウォン紙幣(裏)
渓上静居図(退渓が学んだ書堂(寺小屋)とその周辺の風景を描いた図 )
 



2日目
9月6日(火)
 釜山ホテル釜山港国際旅客ターミナル(確認)釜山タワー福泉博物館
                     →国立金海博物館太宗台
釜山ホテル
(泊)

今日は、まだ登ったことがない釜山タワーに登り、13年前に訪ねたことのある福泉博物館、国立金海博物館などを訪ねる。以前は天候に阻まれて対馬を目視できなかった太宗台に再挑戦する。

釜山港国際旅客ターミナルの事前確認

明日早朝に釜山から対馬へ高速船を利用するので、事前に釜山港国際旅客ターミナルの位置を確認しに行った。

A
手持ちの地図では釜山港国際旅客ターミナルはこの奥にあるはず
だが見つからない。周りの人に訪ねるとここでいいのだというが・・・ 
昨年8月に、3kmも北の方に移動し、
立派な釜山港国際旅客ターミナルができていた

A
国際旅客ターミナルの中にある高速船ビートル号の発券所 釜山から対馬・福岡・大阪への船便が沢山出ている



釜山タワー

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エスカレーターで丘の上にある龍頭山公園まで上る
 
 
 
龍頭山公園は昔日本人が多く住んでいた所。1678年に開館されたといわれる草梁倭館が今の釜山タワー辺りにあり、約500人以上の日本人が移住し、貿易、外交を行い、公園周辺は日本人村のようだったという。

A
李舜臣将軍の銅像
彼は文禄・慶長の役のとき朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍した
釜山タワー展望台から南方を眺める。
タワーの高さは118mだが、
龍頭山公園そのものが180mの高台にあるので、展望は頗るいい。
右遠方は影島大橋、左手前はロッテ百貨店、中央手前足下は龍頭山公園



福泉博物館と福泉洞古墳群

釜山の郊外にある福泉博物館とそれに隣接している福泉洞古墳群を訪ねた。実は逆で、福泉洞古墳群に隣接して福泉博物館が建てられたのである。

福泉博物館

福泉博物館には馬具や土器、装飾品の展示が多かったことを思い出して、訪ねることにした。

A 釜山の地下鉄1日券(4500ウォン)を買う。2区間を3回乗れば、元が取れる。地下鉄4系統すべてに乗車できるが、高架の釜山・金海軽鉄道はダメ。 A
地下鉄明倫駅
すべての地下鉄のプラットフォームにはホームドアーが設置
地下鉄明倫駅で下車して、タクシーで福泉博物館に向かう
 

釜山地下鉄および釜山金海軽電鉄路線図     地球の歩き方「釜山 慶州」より引用
上の路線図をクリックすると拡大表示される。 この地図は大変便利であった。 許諾を得ていないが掲載させてもらう。

福泉博物館の外観

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博物館では先生に引率された何組かの小学生に出逢った 鎧をつけた馬と兵士の像

A
ハングルだけの説明が多い中で、
英語・中国語・日本語を併記したものもあり、助かる
外来系の土器
 

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三韓(馬韓・弁韓・辰韓)後期の墓から出土した青銅矛 百済漢城期の墓地から出土した装身具(左:水晶細工 右:ブレスレット)

A A
高句麗の墓の模型 高句麗の土器 高句麗の装身具

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伽耶の出土品 すぐ近くにある福泉洞古墳群の航空写真

福泉洞古墳群

福泉洞古墳群は、4世紀初頭から7世紀代にかけて 営まれた古墳群である。長さ約700m、幅80~100mのなだらかな丘陵上に、古墳約100基が集中している。この一帯は金官伽耶の中心地と考えられ、この古墳群もこの地域を支配していた権力者達の墓だろうと考えられている。

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福泉洞古墳群の現地案内板 福泉洞古墳群の野外パビリオン

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ドーム内にある主室は石槨墓で、主葬者と副葬品として金銅冠、馬具、鉄鋌が出土
 
ドーム内にある副室は木槨墓
何故か多数の土器が---

A
福泉洞古墳群の発掘跡には目印の樹木が植えられている ここでは幼稚園児に出逢った



国立金海博物館

金海博物館は韓国の建国神話の首露王に因んで亀旨峰に建てられた国立博物館で、伽耶国の遺物、特に鉄に関する展示が多いので、再訪することにした。

福泉博物館から金海博物館へ

福泉博物館からタクシーで最寄りの東莱駅へ行き、そこから地下鉄4号線で美南駅へ、3号線に乗換え大渚駅へ、そこで高架の釜山・金海軽鉄道に乗換え博物館駅に行く。

A
東莱駅の付近で、昼食に軽く韓国ウドンを食う。ソーメンのように細いウドンが玉になって入っている。
それをほぐして食う。エビ天、揚げ玉、海苔が入っていて、まずまずの味。

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東莱駅から地下鉄に乗る。いろいろな系統があるので、表示を見ながら乗り換える。ハングルが読めなくても何とかなる。

A A
金海軽電鉄は往復1回だけの乗車なのでトークンを購入。この鉄道もホームドアーはしっかりしている。高架なので明るい。

A
博物館駅で下車し、10分余り歩いて金海博物館へ 国立金海博物館は鉄をイメージした外観である



国立金海博物館

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1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代の地図
であろう。上の地図の倭奴国が奴国(なこく)と同一だとすれば、1世紀から3世紀前半
にかけて「魏志倭人伝」に記載された日本である。
伽耶(かや、以前は加羅と表記)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

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金海博物館は日本語の説明もあり、助かる

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佐賀県伊万里市越岳産の黒曜石原石 黒曜石から作られた鏃(大宗台から出土)

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卜骨(ぼっこつ) 羊、鹿などの骨を火で熱してひびの入り方で占うことは世界中にあった 水鳥の水差し
 

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宝石のアクセサリー 金の王冠

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伽耶土器は、日本の須恵器に影響を与えた

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伽耶の特産品である鉄は、鉄製品の原料であるばかりではなく、貨幣として使用された。
弥生時代には日本では鉱石から製鉄する技術がなく、韓国から鉄鋌の形で輸入された。

A
韓半島と日本との交易を示す展示  壁面に展示された巴(ともえ)形銅器は、その鋳型が吉野ヶ里遺跡などで見つかり、日本製ではないかと考えられる。
巴形銅器の用途は不明であるが、武器(飛び道具)というよりも「魔除け」ではないだろうか。なお、巴の形は日本の伝統的な文様の一つとされる。

今回は訪ねなかった金海市にある大成洞古墳群では、木槨墓から豊かな鉄器文化と強力な騎馬軍団を持つ加耶文化が窺える多くの遺物が出土している。後漢時代の中国製の鏡、日本製の筒型銅器なども出土し、すでに日中韓の文化交流があったことが分る。2003年に訪ねた大成洞古墳群の博物館には、船で韓国に鉄材を買いに来た倭人と製鉄をする加耶の人のジオラマがあり、興味深かった。



首露王陵

首露王(しゅろおう)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。韓国の国作り神話といっていいだろう。13年前に訪ねた記憶を辿りながら再訪した。

『三国遺事』に抄録された『駕洛国記』によれば、亀旨峰の6個の金の卵から、後漢の光武帝の建武18年(西暦42年)に首露王が生まれたとされる。韓国の人たちの一部はこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合)が成立したと見なしている。金官伽倻国は『魏志倭人伝』には狗邪韓国(くやかんこく)と記載されている国である。

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陵墓の一番外側にある栄化門 中門の駕洛樓

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一番内側の納陵正門(ここから内側には入れない) 納陵正門から窺う墳墓(韓国に多い円墳である)



太宗台を見てホテルに戻る

釜山の最南東にある太宗台は、対馬が遠望できる景勝地として知られているが、残念ながら天候に恵まれず、対馬は見えなかった。

A A
太宗台は、釜山中心部と橋で結ばれいる影島の南東端にある。
付近はタクシーを含む車の乗り入れ禁止で、岬を一周する列車型の車「タヌビ列車」を利用する

A
天候に恵まれれば、灯台から日本の対馬が見えるはずだった 生憎、展望台は改修中だった

A
ホテルに戻った。近くの地下鉄への階段を見ると、わざわざ2段昇ってから降るようになって
いる。これにはいくつかの理由が想像できる。1つは、暗がりや満員の時に階段の入口での
転倒を防ぐことができる。もう一つは、空襲時の避難所として使われる地下街を水害から
守ることができる。道路からの水の侵入を防ぐ防水板を挿入できるようになっている。
ホテルの近くのセブン・イレブン
 
 
 



アジア大陸と日本列島を結ぶ道
 皆さんは、「どうしてもこのルートで旅をしたい」というときがありませんか。私にとって今回のルートは、長年温めていた旅でした。

 人類がアジア大陸から日本列島に最初にやってきたのはどのルートであろうか。それは韓国・対馬・壱岐・九州の海上ルートに違いないと、私は確信している。時代が下って、魏志倭人伝に記載されている邪馬台国への道は、間違いなく対馬と壱岐を経由している。さらに時代が下って、初期の遣唐使はこのルートを使ったことは、記録に残っている。そのような知識が、人類史・古代史好きの私をこのルートに駆り立てるのである。

 ヒト属(ホモ属)は、およそ200万年前にアフリカでアウストラロピテクス属(猿人の1つ)から別属として分化し、ヒト属の中のホモ・サピエンスは40万年前から25万年前に現れたといわれている。これらの他にも、すでに絶滅したヒト属の種が幾つか確認されている。その中にはアジアに生息したホモ・エレクトゥス(原人の1つ)や、ヨーロッパに生息したホモ・ネアンデルターレンシス(旧人の1つ)が含まれる。ホモ・エレクトゥスやホモ・ネアンデルターレンシスは絶滅し、アフリカに住んでいたホモ・サピエンス(属名・種名)だけが生き残り、ホモ・サピエンス・サピエンス(属名・種名・亜種名、現生人類)になったと考えられる。(アフリカ単一起源説)

 人類は10万年前アフリカ大陸を出てアジア大陸へと渡り、その後ベーリング海峡を越え、アメリカ大陸へと広がった。アジア大陸から日本列島に踏み入れたのは、3万8千年前と考えられる。その理由は、日本列島にその時代の遺跡や人骨があり、それよりも古いものが見つからないからである。

 日本列島へのルートは、図1の3つが考えられるが、私は朝鮮・対馬・壱岐・九州を経由する対馬ルートが最も可能性が高いと思っている。その理由は、漂流でなく移住が目的であるならば、相当数の男女が海を渡り、でき得れば往復できなければならないからである。そのためには、渡るべき島影が可視できる必要がある。ただ海流に乗って一方向にのみ漂流するのではなく帆や櫓を使って双方向に渡海できる必要があるからである。そのような理由から、図1の3つのルートのうち最も可能性が高いのは対馬ルートであると思う。

 図2に示すように、最終氷期の最寒期(2万年前頃)は、海面が今よりも130mも下がっており、韓半島と古本州(本州と陸続きの対馬・壱岐を含む)の間は幅12-15km、深さ10-20m、長さ150kmの水路を挟んでいるに過ぎなかった。人類が初めて移動した3万8千年前は最寒期ではないが氷期であり、人間が移動できる程度の狭い水路であったと考えられる。

 史料に残された古代の大陸と日本の文化交流のルートは、遣唐使に限ってみても、時代により図3に示す3つのコースが使われた。これは船の進歩にともない韓半島を経由する必要性がなくなったことによるものであろう。
A A
  図1 日本列島への人類移動で
     考えられる3つのルート
  図2.最終氷期の最寒期
      (2万年前)の陸地
  海部陽一:「日本人はどこから来たのか」、文芸春秋社、2016年より
図3.遣唐使の渡航ルート(7世紀中頃~9世紀中頃)
Wikipediaより引用


 
 



3日目
9月7日(水)
 釜山ホテル釜山港国際旅客ターミナル(高速船ビートル号)対馬・比田勝港日本海海戦記念碑
 →
日露友好の丘
豊砲台跡韓国展望所百濟国・王仁博士顕彰碑鰐浦ヒトツバタゴ自生地対馬ホテル
(泊)

今日は、釜山港から高速船で対馬・比田勝港に向かう。対馬では北部にある日本海海戦記念碑、豊砲台跡、韓国展望所、鰐浦のヒトツバタゴ自生地などを見学する。
ホテルで対馬へ直行した仲間と合流する。

釜山港から対馬・比田勝(ひたかつ)港へ

今日は朝早くホテルをチェックアウトして、タクシーで釜山港国際旅客ターミナルに向かう。一昨日、ターミナルの場所を確かめておいたので、タクシー運転手に指示できた。

A
予定の9:00出航のビートル号の乗船は8:00から始まる 韓国の出国審査を受ける

A A
ビートル号は岸壁に着いていた ビートル号に乗船する

A
ジャンボ機(ボーイング747)のような9列の席があるが、
通路も座席も広い。窓は開かず、シートベルトを締めるので、
その点では飛行機のような感じである。
ビートル号は、米国ボーイング社が開発した水中翼船で、ジェットフォイル (Jetfoil) という愛称を持つ。翼が全て水中にあり、ガスタービンを動力としたウォータージェット推進である。停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行する。速度が上がると翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し離水、最終的には翼だけで航行する(翼走)。翼走状態では、水面の波の影響を受けにくく高速でも乗り心地がよい。姿勢制御は、自動姿勢制御装置(ACS)と油圧アクチュエータに依存するので、推進用のタービン共々、航空機なみのメンテナンスが必要である。現在は、ライセンスの提供を受けて川崎重工業で生産している。
◍ 速度: 約45ノット(時速約83km)
◍ 航続距離: 約450km
◍ 全長: 27.4m
◍ 総トン数: 267トン
◍ 旅客定員: 約260名

A
韓国の釜山港国際旅客ターミナルを出航する 釜山港大橋の下をくぐると翼走の高速航行になる

A
韓国・釜山港国際旅客ターミナルを出航して、
僅か70
分で対馬・比田勝港国際ターミナルに着く
 
比田勝港でスーツケースを空ける厳格な入国検査を受けて
ターミナルを出て、最初に目に留まったのが海上保安庁の
巡視艇である。国境の島であることが認識された。

A
今日から3泊する「つしまホテルプラザ」は比田勝港のすぐ向かいにある



3泊4日の対馬島内のGPS軌跡地図



対馬北部をタクシーで巡る

今日は夕食時に、対馬直行の皆に合流するので、それまでは1人で対馬北部の観光地を巡る。

乗ったタクシーの運転手が比田勝さん

たまたま乗ったタクシーの運転手さんが、町の名前と同じ「比田勝」さん。伺うと、この町の
旧家で、蒙古襲来の時迎え撃った宗下野次郎の子孫だという。

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比田勝は韓国から最も近い港だけに、町の看板はハングルが多い 乗ったタクシーの運転手さんが、町の名前と同じ「比田勝」さん

A
比田勝さんの案内で、比田勝家が建てた先祖の宗下野次郎の墓を拝見する



日本海海戦記念碑と日露慰霊碑

日露戦争(明治37年(1904)2月8日 - 明治38年(1905)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

日本海海戦
(1905年5月27日 - 28日)は、7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達したバルチック艦隊と日本の連合艦隊の間で闘われた海戦である。日本以外では対馬沖海戦と呼ばれている。この海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。

A
明治44年に建てられた日本海海戦記念碑

A
撃沈されたロシアバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名が、
4隻のボートに分乗し、この地に上陸した。地元の農婦たちは、この水兵達
を水の湧き出す泉へ案内し、夜は民家へ分宿させるなど、手厚くもてなし
たという。
日本海海戦から百年を迎えた
2005 年5 月27 日に除幕された日露慰霊の碑。
日本海海戦で戦死したとされる日本兵117人、
ロシア兵4830人の戦没者の名前が刻まれている。



日露友好の丘

日本海海戦から百年を迎えた2005 年に、日露友好の丘に建立された巨大なモニュメントン

モニュメントの中央上部には連合艦隊司令長官の東郷平八郎が、
バルチック艦隊司令官のジノヴィー・ロジェストヴェンスキーを見舞うレリーフ

A A
左側のレリーフは秋山真之参謀の電文皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ
 
 
 
中央にある旗艦三笠の艦上の東郷平八郎
 
 
 
 
 
右側のレリーフは、旗艦三笠から大本営へ打電した電文敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ



豊砲台跡

対馬島の北端の高台に豊砲台跡がある。これは1922年のワシントン海軍軍縮条約により改造せざるをえなくなった巡洋戦艦の40センチ砲を取り外し、対馬海峡防衛のためここに移設したもの。砲身長18.5m、砲身重量108トンという巨大なもの。太平洋戦争後、米軍の指令で砲身は撤去され、今は砲台跡だけが残る。正に「兵どもが夢の跡」である。

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豊砲台の入口前でタクシーを降り、中に入る 入口に掲げられた説明板

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砲動力機室、多分ディーゼル発電機が設置されていたのだろう 廊下から外部に通じる通気孔

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砲塔部、狭い2つの入口は通路、広い2つの入口は運弾薬口
 
砲塔部の中心から空を見る
ここに40センチ砲が設置されていた。

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砲台の出口から振り返る 出口の横には偽装された窓が見られる



韓国展望所とヒトツバタゴ

釜山から直線距離で僅か50kmの対馬の北端部に、韓国展望所があり、韓国人観光客で賑わっている。

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韓国展望所への門 韓国展望所は八角形の韓国風の建物

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ここから晴天ならば釜山が望めるというが、生憎見えない。
 
遠方は釜山の夜景。望遠鏡ならビルの窓が見えるという。
手前は自衛隊のレーダードーム。(Websiteより引用)

韓国展望所の中に掲げられた朝鮮通信使の説明
朝鮮通信使のもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であったが、
実態は日本近海に出没する倭寇への禁圧対策を日本に要請することが当初の目的だった。
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年-1598年)のため中断された。江戸幕府では、断絶していた
李氏朝鮮との国交を回復すべく、主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介にあたった。
上の表には江戸時代の慶長12年(1607)~文化8年(1811)の12回の朝鮮通信使の記録が記されている。

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朝鮮国譯官使殉難之碑 元禄16年(1708)2月5日に、朝鮮訳官108名と対馬藩士4名を乗せて釜山を出帆した朝鮮船は
鰐浦入港直前に嵐に襲われ、対馬藩の救難対策もむなしく全員が死を遂げた。霊位には112名の名が刻まれている。

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ヒトツバタゴ(モクセイ科ヒトツバタゴ属)の花期(5月頃)には、白い花が見られるという。 写真はWebsiteより
 
ヒトツバタゴの大木があったが、
残念ながら花期ではなかった

韓国展望所の中に掲示されていた昭和天皇の御製



鰐浦とその周辺

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百済国の王仁博士の顕彰碑
 古事記や日本書紀によると、王仁博士は日本へ最初に漢文を伝えたといわれている。ここ鰐浦は九州に渡るときの経由地であった。

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鰐浦の漁港
平地の少ない対馬では農業は振るわず、生業は専ら漁業である。
ここの倉庫はすべて高床式である。潮位が高い時があるのだろう。
 

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鰐浦では真珠貝の養殖も行なわれている 上対馬高校 対馬には高校は3校ある



4日目
9月8日(木)
 対馬ホテ白嶽登山渚の湯対馬ホテル(泊)

昨日まで一人旅であったが、今日から山の自然学を学ぶ一行35人と合流し、白嶽登山を楽しむ。

対馬の地形を観察しながら白嶽へ

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車は対馬の佐須奈港から山道を登る
 
 
佐渡川は仁田川に次ぐ対馬第2の川で、対馬では珍しく水田が広がる。ここでは病虫害や台風の被害に備えるため、米の収穫時期を3回に分けている。



白嶽登山

この山は大陸系植物と日本系植物が混生する植生の、石英斑岩の双耳峰である。九州百名山に数えられる。

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下の駐車場の白嶽登山口の案内板
大型の専用バスで来れるのはここまで、これから先はレンタカーでピストン輸送
登山口から見る白嶽、一見不思議だが
左が最高峰の雄嶽(518m)、右が雌嶽

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戦後拡大造林した杉が伐採されて短く裁断されている。
林道が整備されていないので、勿体ないがやむを得ない。
レンタカーとガイドの車を上の駐車場に置いて、登山開始
 

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上の駐車場の近くの砂岩の上を流れる滝 滝の脇に祀られる不動明王

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コシダ
(ウラジロ科コシダ属)
 
ヒノキシダ
(チャセンシダ科    
    チャセンシダ属)
カギカズラ
(アカネ科カギカズラ属)
 
沢の河床に見える真っ黒い泥岩
 
 

上の駐車場から少し登ったところにある掲示板

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イロハモミジ(ムクロジ科カエデ属) 植栽したものという キエビネ(ラン科エビネ属) シロダモ(クスノキ科シロダモ属)

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サンヨウマツ(マツ科マツ属)

日本には三葉のマツは自生していないが、化石の研究から中新世後期(約1000万~1200万年前)には
オオミツバマツと名付けられた種が分布していたことが確認されているという。
とすると、この三葉松は誰かが植えたものか、それとも生きている化石か?


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ツシマサンショウウオ(サンショウウオ科サンショウウオ属)
図鑑には全長10-12cmとあるが、ここのものは5cm程度であった。子供かも知れない。
カゴノキ(鹿子の木、クスノキ科ハマビワ属)
樹皮が鹿子模様に見えるのが、和名の由来

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この辺りの岩は凝灰岩であろうか。ボロボロしている。
 
クマノミズキ(熊野水木、ミズキ科ミズキ属)
花柄がサンゴのように美しい

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この辺りには上から落ちてきた岩塊が多い 黒い実のなる木は何だろうか

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炭焼き釜の跡 白嶽神社の鳥居

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急な岩塊斜面に設けられたロープ 足元には、神社に相応しいサカキ(榊)

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狭い平地に灯篭が建つ。社殿はないが、昔拝殿があったのだろう。 ここで昼食にする

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石英斑岩の険しい登山道を登る 不動明王を祀る祠

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山頂が近づくと展望が利いてくる

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白嶽の最高峰・雄岳(518m)。山頂には数人ずつ交代で立つ。
背景の雌嶽の向うに、浅茅湾が見える。雄岳も雌嶽も石英斑岩の山だ。
白嶽山頂から南方に見えるのは無名峰(515m)か
 

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慎重に岩場を下山する 植林されたスギ林の下山は意外に長く感じられた



白嶽を下山して「渚の湯」へ

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ホテルには大浴場がないので、
登山の帰りに上対馬温泉・渚の湯に入る
一風呂浴びた後、日の入りを眺める
 

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山の自然学を学ぶ一行35人で夕食を楽しむ



魏志倭人伝と対馬・壱岐
Wikipedia他から引用
魏志倭人伝』 紹煕本   著作権の関係で不鮮明にしています
                     日本語訳

倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。

始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。

また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

以上、帯方郡から末廬国までの部分の日本語訳を引用した。
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A いわゆる魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の『魏書』第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称である。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。『三国志』の中『倭人伝』という独立した列伝が存在したわけではなく、『東夷伝』の中に倭及び倭人の記述がある。 帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。
狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。『三国志』では「倭国の北岸」、または「韓は南は倭と接する」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。
対馬国は、倭国の対馬国。その初見は、三国志魏志倭人伝の現存する最古の版である紹煕本では對海國、紹興本では對馬國となっている。
一大国は、倭国の壱岐国。魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされている。

末廬国は、音の近い松浦地方の佐賀県唐津市に菜畑遺跡に比定される。
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5日目
9月9日(金)
 対馬ホテル万関瀬戸アカハラダカ展望所鮎もどし赤米新田
                
烏帽子岳展望所和多都美神社
対馬ホテル
(泊)

今日は、対馬の北端にあるホテルから南端にある名所旧跡を訪ね、北端のホテルに戻るロングドライブの一日である。

万関瀬戸と大船越瀬戸

対馬島の東西を結ぶ水路、万関瀬戸と大船越瀬戸に先人たちの苦労の跡を偲ぶことができた。

全長約70kmの対馬島は、通称北は上対馬、南は下対馬と呼ばれる。しかし本体は地続きの1つの島で、対馬海峡を東水道と西水道に分けている。
そのため、対馬の東海岸と西海岸を結ぶ船は、島を半周する必要があった。

寛文 12年 (1672) に対馬藩21代藩主の宗 義真により延35,000人の手で大船越瀬戸が開削された。後に拡張され長さ242m、幅49mになった。
現在大船越瀬戸は漁港となっており、漁船の重要な通路となっている。

その後、明治33年(1900)に旧日本海軍が軍艦を通すために万関瀬戸を開削した。当時は長さ約500m、幅約25m、深さ約3mであった。
1905年に起きた日露戦争の日本海海戦では水雷艇部隊がここを通って出撃した。1975年に幅40m、深さ4.5mに拡張された。

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大船越瀬戸に架かる大船越橋から西側(浅茅湾に通じる側)を見る 万関瀬戸に架かる万関橋

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万関橋の南側袂に小さな公園があり、万関瀬戸開削之碑が建っている 屋根を粘板岩(泥岩)で葺く対馬古来の建物

万関瀬戸の歴史が、日本語、中国語、ハングル、英語で書かれている。3代の万関橋の写真がある。

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第1代万関橋は明治33年(1900年)竣工 第2代万関橋は昭和31年(1956年)竣工 第3代万関橋は平成8年(1996年)竣工

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万関橋の中央から三浦湾側(対馬海峡東水道側)を眺める 万関橋の中央から浅茅湾側(対馬海峡西水道側)を眺める



車窓から見る厳原(いづはら)

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対馬藩の藩校日新館の正門(元は宗家の中屋敷門だった)
 
厳原の街灯は、宗家の家紋
(丸に四目結)の入った高張提灯

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厳原八幡宮神社
神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この
山は神霊が宿る山であるとして山頂に天神地祇を祀ったという。 
この写真には写っていないが、
1663年に築造された御船江(ドライドック)の跡がある
 



内山峠のアカハラダカ観察地

秋の渡りの季節9月には、厳原町の内山峠では小型の猛禽類・アカハラダカの渡りが観察される。1ヶ月で10万羽を超える年もあり、条件がよければ1日で数千の渡りを観察できるという。

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アカハラダカ観察地は内山峠にある 峠の駐車場から階段を上る

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数十羽のアカハダタカが螺旋状の軌道で上昇するのが、
肉眼で確認できたが、カメラに収めるのは難しい。
双眼鏡ではよく見える。望遠カメラに収める人たちも多い。
 

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アカハラダカは朝鮮半島や中国などで繁殖し、秋には越冬のため東南アジアへ南下する。
最近、対馬の飛来数に比べ宮古での飛来数が極めて少ないことから、対馬を通過後は南西諸島ではなく、
「朝鮮半島→対馬→長崎県佐世保→五島列島→上海」のルートを渡っているのではないかと分析されるという。

Websiteにみるアカハラダカ

アカハラダカは双眼鏡で眺めたけれども、写真には撮影できなかった。そこで帰宅後、Websiteで調べた写真を紹介させて頂く。

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鷹柱をつくるアカハラダカ
2014年9月対馬市内山峠 Kumamonのブログより 
アカハラダカのクローズアップ
2014年9月名護市名護岳 名護・自然観察日記より 



鮎もどし(花崗岩の川底)

「鮎もどし自然公園」は、下対馬の南部の瀬川(対馬海峡西水道に流れ出す二級河川)の中流域にある。瀬川は数百mにわたって、つるつるの花崗岩が継続する川で、非常に珍しい景観である。「鮎もどし」というネーミングは、遡上してきた鮎が滑って戻されることによるのであろう。

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鮎もどし自然公園の入口 瀬川に架かる吊橋を渡って、鮎もどし自然公園へ

瀬川は数百mにわたって、つるつるの花崗岩が継続する川で、非常に珍しい景観である

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上流側の景観 下流側の景観

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花崗岩には、ポットホールと呼ばれる楕円形の穴が開いている。
小石が入った水流による磨耗でできた穴といわれるが、ここの穴は円形ではなく楕円形であるのが珍しい。
暗色包有岩入りの
花崗岩 
地下のマグマ溜りの中で、花崗岩が生まれる過程でできたもの

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吊橋の袂で見つけたニホンミツバチの蜂洞(巣箱) 心和ませてくれる白・ピンク・赤の花の名は?
ニホンミツバチの蜂洞(巣箱) 対馬は、ミツバチの仲間ではニホンミツバチだけが生息する島といわれている。養蜂の歴史は古く、1500年前頃から飼育され、江戸時代には将軍・諸大名等への進物として使われていたという記録が残されている。「蜂洞(はちどう)」と呼ばれる丸太材をくり抜いた巣箱と伝統の技術を守りながら継承され、現在も島民の生活に深く関わっている。島の豊かな自然と共生しながら長い歳月、静かに息づいてきたツシマハチミツを島の資源として後世に引き継ごうという取り組みも行われている。



厳原町豆酘の美女塚・多久頭魂神社・赤米神田

厳原町(いづはらまち)豆酘(つつ)地区には、珍しい伝承、行事などが残されている。時間の都合ですべてを見るわけにいかないが、赤米神田を訪ねた。

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厳原町豆酘地区に悲しい美女塚伝説が伝えられている
 
多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)には今回行けなかったが、禁足の聖山である天道山の遥拝所であるという 豆酘は古代米「赤米」の伝来地とされ、住民が赤米を栽培し、多久頭魂神社に祭る「赤米神事」を受継いでいる
美女塚伝説 昔、豆酘に鶴王という美しい娘が住んでいた。賢く親孝行な彼女は、あるとき宮中の采女(女官)として召し出すようにと命じられた。年老いた母を残していく悲しみに耐えられず、都へ上る日、この場所で自らの命を絶った。「美しく生まれたために哀しみにあうのなら、これからは、この里に美女が生まれませんように・・・」という言葉を残して。「美女塚伝説」を伝える石碑があるという。 多久頭魂神社 延喜式神名帳に対馬国下県郡十三座のうちとして収録される「多久頭神社」は当社に比定されている。祭神は天照大神など5柱とされているが、本来の祭神は対馬特有の神である多久頭神である。所蔵していた「大蔵経」は長崎県指定文化財となっているが、2012年に盗まれた(対馬仏像盗難事件)。韓国人グループが拘束され、仏像2体は回収されたが、大蔵経は「神社周辺の野山に捨てた」と供述している。

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赤米が栽培されているところに(ぬさ)が手向けられている ここの赤米の稲穂は、赤というよりも褐色である
赤米 イネの栽培品種のうち、玄米の種皮または果皮の少なくとも一方にタンニン系の赤色色素を含む品種を指す。赤米品種は全国的に残存しており、その形質もさまざまであるが、一般的には吸肥力が強い、病害虫や気候の変化などの環境変化に強い、棚田などの環境不良田であっても育成が比較的容易といった特徴がある。一方、丈が長く倒れやすい、収量が少ないなどの難点も有している。普通米を栽培するにあたっては、赤米などの有色米が混入すると米の検査等級が下がってしまう。江戸時代の藩の中には価格の安い赤米での年貢納入を禁じているところもあった。

紀元前に日本に伝来した際、米には白米と赤米とがあったが、赤米は白米によって次第に淘汰されていった。日本の赤米に関する最古の記録は、飛鳥京跡苑地遺構から出土した木簡にある赤米の納品の記述である。日本では明治以降、赤米が全国的な撲滅の対象となった。そうした状況の中、神社では神事用に赤米が栽培され続けた。長崎県対馬市の多久頭魂神社、岡山県総社市の国司神社、鹿児島県種子島の宝満神社の3つである。
  Wikipediaより

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赤米神田からの帰路、黒い紗に囲われた場所があったので覗くと、椎茸畑だった。
対馬の「どんこ椎茸」は「森のアワビ」といわれる名産である。



厳原で六兵衛汁の昼食

六兵衛(ろくべえ)は長崎県島原半島周辺と対馬に伝わる麺料理である。両地域は現在でこそ同一の県内であるが、江戸時代以前は肥前国と対馬国に分かれており、また地理的にも大きく離れたこの2つの地域に、なぜ同じ名前の類似した郷土料理が存在するのかは、現在でも不明である。サツマイモを主原料とする麺料理で、魚介や地鶏などでダシを取った澄まし汁に入れて食する。黒っぽい麺とプルプルした食感、サツマイモ由来のほのかな甘さが特色で、この黒っぽい色はサツマイモに含まれる色素によるものだという。

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対馬市農業振興公社の「そば道場美津島店」で、六兵衛汁を頂く



烏帽子岳展望所

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烏帽子岳に行く途中の山中で、赤い大鳥居に出くわす。通常は海から入るが陸路から和多都美神社に入るとこの鳥居を通ることになる。 駐車場に車を置いて、10分ほど階段を上って烏帽子岳頂上に行く
 

烏帽子岳(標高176m)は、対馬の中央に広がる浅茅湾の北岸に位置し、360度をぐるりと見渡せる展望台である。
東には対馬海峡東水道、西には対馬海峡西水道が広がり、複雑な入り江と無数の島々がおりなす典型的なリアス式海岸の景観を一望できる。

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生憎の薄曇りだが、昨日登った白嶽らしい山影が見えた 山頂に掲げられたレリーフ



浅茅湾の多島海はどのようにしてできたのか

 浅茅湾は、図1に示すように多島海である。多島海ができた理由は、ケスタ地形にあると、小泉先生がおっしゃったので、多島海とケスタ地形について調べてみた。

 土地が沈降するなどして、海水が陸地に浸入してできた複雑な海岸地形を沈水海岸という。この沈水海岸において、更に沈降が進んだり、海面が上昇したりすると、かつての山の頂上部分だけが海面に頭を出し、多くの島ができる。このようにして多くの島々ができた海域を多島海という。ギリシアのエーゲ海をはじめ、地球上には多くの多島海が存在する。

 多島海で構成された国としては、インドネシア、日本、フィリピン、ニュージーランド、イギリスがあげられる。そのうち最大の多島海がインドネシアである。

 海岸線に直角な隆伏の激しい地形が沈水するとリアス式海岸(連続して鋸の歯のようにギザギザに連なっているような地形)になる。海岸線に対して平行な開析谷が沈水した場合は、ダルマチア式海岸(海岸線に平行な細長い島が形成されることに特色がある)と呼ばれる。リアス式海岸やダルマチア式海岸で、さらに沈水が進むと 多 島 海 になる。

 浅茅湾付近は、砂岩と泥岩の互層からなっているという。砂岩は浸食に強いが、泥岩は浸食に弱い。そこで、図2のような傾斜している地層で浸食が起こると、浸食を受けやすい軟い地層は急崖になり、浸食を受けにくい硬い地層は緩斜面(低平地)になる。このような地形をケスタ地形という。図3のような水平な地層で浸食が起こると、メサになる。四国の屋島はその例である。

 ケスタ地形は世界中で見られるが、パリ盆地はその一例で、低平地では放牧や小麦の栽培、崖ではぶどうの栽培が行われているという。

 浅茅湾では、陸地の沈降または海水面の上昇により、ケスタ地形からリアス式海岸に、さらに多島海になっている。

Wikipedia、
共同総合学校ホームページなどを参考にした。

 
図1.浅茅湾は日本有数の多島海である
図2.多島海の成因の1つであるケスタ地形
図3.ケスタ地形とメサ



和多都美(わたづみ)神社

和多都美神社は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸彦の名で知られる)と豊玉姫命の夫婦神が祀られている。『記紀』に記された日本神話によると、山幸彦は兄の海幸彦から借りた釣り針をなくし、それを探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。(竜宮伝説) 海中に建つ鳥居は、厳島神社を連想させる。

厳島神社の初出は弘仁2年(811年)であるが、和多都美神社の方も貞観元年(859年)に清和天皇から従五位上の神階を賜っているから結構古い。厳島神社は平家一門の隆盛とともに栄えて平家の氏神となり、今では世界遺産である。一方、和多都美神社は、対馬の地にあって竜宮伝説を育んだ穏やかな存在である。それとなく対比すると興味深い。

海から神社に向かって、海中に2本、陸上に3本(うち2本は写っていない)の鳥居が縦列する。
当然のことだが、神社側から見ると鳥居は裏側で、扁額は見られない。

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陸上2番目の鳥居
不思議なことにこの鳥居の扁額は無地である
 
拝殿の前の陸上3番目の鳥居
扁額は遠方なので読めないが、
多分「和多都美神社」であろう
参道脇の3本柱の鳥居の中央の下にある岩は、磯良恵比須と呼ばれる御神体石で、「安曇磯良の墓」だという伝承がある。
御神体石は鱗状の亀裂が入った岩。『日本書紀』では、豊玉姫が出産のときに龍の姿となったのを、夫が約を違えて伺い見たため、海へ帰ったと記されている。

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本殿の裏に豊玉姫の墓があるというので、1人で訪ねた。辺りは神域といわれるだけあって、
無信仰の私にも何か霊気を感じた。和多都美神社と書かれた鳥居をくぐって進んでいくと磐座があり、
豊玉姫之墳墓と記されていた。ただ、豊玉姫命は「仁位の高山」に葬られたと伝承されているので、
この磐座は恐らく古い斎場の跡であったものが、太平洋戦争後の混乱期に「豊玉姫の墳墓」と言われる
ようになったとも考えられている。



6日目
9月10日(土)
 対馬ホテル仁位(浅茅湾クルーズ樽ヶ浜萬松院厳原港(高速船ヴィーナス号)
               →
壱岐・郷ノ浦港猿岩壱岐の土台石原の辻遺跡壱岐ホテル
(泊)

今日は対馬最後の日である。浅茅湾クルーズ、対馬藩主宗家の菩提寺訪問、対馬の厳原港から高速船ビーナス号で壱岐の郷ノ浦港へ、壱岐北部の地質見学、魏志倭人伝に伝えられる「原の辻遺跡」の見学、という忙しいい1日である。

浅茅湾クルーズ

いよいよ待望の浅茅湾クルーズである。小泉先生から「浅茅湾がどのようにしてできたか」を伺いながら、多島湾の景観を楽しんだ。

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渡船場で見た可愛いクラゲ
浅茅湾の北岸にある渡船場から対馬市営渡船「うみさちひこ」に貸切乗船して、クルーズ開始 山幸彦に釣針を差し出す乙姫の像

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今日は、海側から和多都美神社を眺める

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秀吉の朝鮮出兵のとき兵の出身地の名をとったという嵯峨の集落。
古代には対馬海峡西水道側の遠見山に烽火台があった。
対馬海峡西水道はアナゴの産地だという
 

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浅茅湾の島々は地質が異なる。(左)は泥岩の島、(右)は石英斑岩の島

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森の中に5~6頭の鹿が見えた カメラの望遠レンズで見ると・・・

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マグロの養殖場 白嶽がシルエットで見えた

対馬空港(左上)に近い、浅茅湾の南岸の渡海船乗場に着岸、バスが待っていてくれた

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イカ釣り船の照明灯は、今やLEDだ。
渡海船乗場は漁港で、イカ釣り船が停泊していた
 
漁港で食べた鮨は美味かった。
上のメニューにイカ刺しを追加した。



対馬藩主宗家の菩提寺・萬松院

前田家、毛利家の墓地とともに「日本三大墓地」に数えられる対馬藩主宗家の菩提寺にある宗家の墓地を訪ねた。

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昔は寺と城は一体であった。対馬藩金石城の楼門 金石城庭園への橋

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本堂脇にある諌鼓(かんこ) 万松院本堂
諌鼓(かんこ)は、領主に諌言しようとする人民に打ち鳴らすために設けられたものである。この上で鳥が遊んでしまうほど善政を施すことを諌鼓鳥といい、閑古鳥の由来という。

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本堂に掲げられた「萬松精舎」の額。
松の字が枩になっているのが面白い。
徳川歴代将軍の位牌が
祀られている
朝鮮国王から贈られた三具足は
文化庁指定の日本遺産

徳川幕府諸侯格式一覧表によると、対州国主は「十万石以上格」で、271諸侯の中で43番になっている。
山がちで平野の少ない対馬では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫しかなく、
十万石以上格は破格の扱いである。朝鮮との外交・交易を評価したものと思われる。

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万松院境内にある宗家墓地は、132段の石段の上にある
 
万松院の大杉は3本あり県の天然記念物。
最古のものは樹齢1200年といわれる。

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宗家代々の墓
 
藩政確立中興の祖といわれる21代義貞(1639-1702)と
京極夫人の墓標は、墓地の中央一番高いところにある



対馬から壱岐へ

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対馬の厳原港から、高速船ビーナス号で壱岐の郷ノ浦港に向かう

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高速船で僅か1時間5分で壱岐の郷ノ浦港に着く。
壱岐島は面積では対馬島の1/5と狭いが、歓迎の気持ちが伝わってくる。



1泊2日壱岐島内のGPS軌跡地図



郷ノ浦から黒崎半島の猿岩へ

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途中、黒崎砲台跡の入口を車窓から一瞥する 黒崎半島の突端、高さ45mの海蝕崖

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玄武岩の猿岩は広い草原台地の片隅に佇む。自然の造形に驚かされる

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黒崎園地の案内板 ヘクソカズラ(アカネ科ヘクソカズラ属)

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トベラ(トベラ科トベラ属)

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平地が多い壱岐島には水田が広がる。このような農村地域には、若松触、新田触のように「触(ふれ)」が付く地名が多い。 漁業・商業を中心とした地域には、郷ノ浦、渡良浦のように「浦(うら)」が付く地名が多い。



勝本町の「壱岐の土台石」

壱岐島の北端にある「壱岐の土台石」を見に行った。

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「壱岐の土台石」とは
壱岐島の基盤となる勝本層の露頭のこと
 
上のような頁岩(粘板岩の一種)からなる。
板状に割れるので硯石になる。
 
崖上部に匍匐性針葉樹ハイビャクシン(這柏槇、ヒノキ科ビャクシン属)が見える。県指定の天然記念物である。

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勝本層の露頭は長く、岬の先端(右)まで続いている。色が異なるのは風化の関係であるという。



原の辻遺跡

三国志魏志倭人伝に伝えられる一大國(一支國)の中心集落と考えられている「原の辻遺跡」を訪ねた。想定復元の建物が並ぶ。吉野ヶ里遺跡ほどではないがチョットやり過ぎではないかと思う。平成12年に国の特別史跡に指定された。弥生集落遺跡では、登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡に続いて3例目である。

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ホテルを出発して壱岐第2の河川である「谷江川」を渡る 谷江川流域には水田が広がる

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谷江川流域から高々70mほどの丘を越えて
幡鉾川の流域に入ると、原の辻の弥生遺跡がある
原の辻遺跡の北側の台地の上に
明日訪ねる一支国博物館が見える

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迎賓の建物 迎賓の建物の内部、囲炉裏とその上の火棚(ひだな)

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王の館 高床穀倉にはネズミ返しが付いている

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祭りや儀式の場
高床建物だが、穀倉でないのでネズミ返しがない。
儀式に必要な神殿か。
一般の住居と異なり屋根に千木が付いている。

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使節団の倉庫を覗く 交易司の家 交易司の家の内部

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番小屋 物見櫓(見張り台)



壱岐のホテル

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「壱岐牧場」という名のホテルに着く

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壱岐牛、サザエ、伊勢エビなどの海産物のバーベキューに、アルコールが進む

35人の乾杯と舌鼓と談笑が続く



7日目
9月11日(日)
 壱岐ホテル一支国博物館初瀬のマグマ岩脈岳ノ辻展望台玄海酒造見学
        →
壱岐・郷ノ浦港
(高速船ヴィーナス号)博多港福岡空港羽田空港

今日は、7日間の旅行の最終日である。昨日訪ねた「原の辻遺跡」に関する「一支国博物館」を見学し、天然記念物「初瀬の岩脈」に地球の息吹を感じ、壱岐最高峰・岳ノ辻展望台で展望を楽しみ、壱岐・郷ノ浦港から高速船で博多港へ、さらに福岡空港から羽田空港への帰途に着く。

一支国博物館

一支国博物館のホームページには、「壱岐島には定住のさきがけとなった縄文時代の遺跡から元寇などに関する中近世の遺跡まで通史的に歴史を知ることができる遺跡が残っている。これらの遺跡からは、壱岐をはじめ、日本を代表する遺物が出土している。各時代の遺物を点で見せるのではなく線で結ぶことで、壱岐の歴史を通史的に学習できる総合的な博物館を目指している。」と書かれている。ところが実際の展示を見ると、残念ながらジオラマばかりが目立ち、がっかりさせられる。

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原の辻遺跡の北側の丘の上に建つ一支国博物館 建物設計者の黒川紀章

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博物館の展望台から原の辻遺跡を見下ろす 遺跡の船着場の位置に設けられた目印

GoogleEarthで見た「原の辻遺跡」、「幡鉾川」、「一支国博物館」

展望台から撮影した写真(博物館の展示)

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展示された一支国の時代の船(準構造船)の模型 準構造船の説明(これでは説明になっていない!)



準構造船と構造船
 
和船(準構造船)
 
大型の和船(北前船)
 
博物館の展示には「準構造船と構造船の違い」が説明されていない。ここで、両者の違いを説明する。

和船は、丸木舟の上に人間や荷物を載せる部分を継ぎ足した形をしている。これを準構造船という。準構造船には竜骨(キール)や肋骨(リブ)はない。その代りに「かわら」と呼ばれる底板を厚くして、船の強度を得ている。日本ではスギやカヤの良材が得られたので、この形式の船が発達した。大型の和船である北前船は下船梁で補強しているが基本的には準構造船であり、大型化に限度があった。

一方、ヨーロッパで発達した
洋船は、竜骨(キール)肋骨(リブ)で強度を持たせた構造船である。この形式の船では、厚い板を使用する必要がなく、薄い板でも大量に使って大型の船を建造できた。大航海時代のスペイン・ポルトガルの船、太平の眠りを覚ましたアメリカの黒船などは洋船である。

和船は船底などの外板も船に掛かる応力を負担するモノコック構造洋船はキールとリブが船に掛かる力を負担し外板では受けもたないフレーム構造をしているといえる。
                      
多くのWebsiteを参考にした
大型の洋船(構造船)



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船着場 住居と見張り台


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祭祀の広場 墓に埋められる土器



初瀬の岩脈

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天然記念物
初瀬の岩脈
壱岐島の南端にある「初瀬の岩脈」では、
高さ41mの海蝕崖に、流紋岩に挟まれた幅17~18mの玄武岩を観察できる。

この景観はどのようにしてできたのであろうか。最初の火山活動で白い流紋岩が噴出し、
2回目の火山活動で流紋岩を割って黒い玄武岩が貫入したと考えられる。
その証拠に、玄武岩に接している流紋岩には熱変成を受けた跡が見られる。

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流紋岩の中のタフォニ
 
 
玄武岩の中のタフォニ
 
 
ダルマギク(キク科シオン属)か
海岸に生育する野生のキクで、葉や茎は
海岸植物らしく肉厚で毛が密生している。
タフォニ(Tafoni)とは、岩盤や岩塊の表面に数10cmから数mに達する楕円形から円形の穴を持つ洞穴状の風化浸食穴のこと。語源は、地中海のコルシカ島で日常用いられている呼び名に由来する。岩盤表面から水が蒸発する過程で、水に溶けていた塩類(石膏など)の結晶が成長し、結晶成長圧により岩盤表面が引張破壊を受ける現象(塩類風化)によって形成されると推定される。砂漠などの乾燥地域や、海水飛沫を受ける海岸域によく見られる微地形であるが、内陸の山地にもしばしば分布している。オーバーハングした不安定斜面をなすことが多く、オーバーハング部分は岩盤崩壊や落石を起こしやすい。



壱岐最高峰・岳ノ辻展望台

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岳ノ辻の展望台(212.8m)
壱岐最高峰だけに展望がいいし、アンテナが林立する
展望台の直下の窪地が80~60万年前の火口跡。
河口壁に建つのは携帯電話の基地局のアンテナ。
80~60万年前の時期決定は、噴出物のK-Ar年代測定による。

展望台から北西を望む。この森や田畑の下は溶岩である。

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NHK長崎放送のテレビ送信アンテナ
通信用アンテナ
 
携帯基地局のアンテナ
 
NBC長崎放送とNCC長崎文化放送の
テレビ送信アンテナ

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噴火口跡に建つ竜神大神
 
折口信夫の歌碑
葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり

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岳ノ辻の復元狼煙台
白村江の敗戦翌年(664)、新羅の来襲に備えて壱岐にも防人と狼煙台を設け、対馬-壱岐-九州を結ぶ緊急連絡用として利用された。
岳ノ辻(213m)の標識と三角点
 
 

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クズ(マメ科クズ属)
先ほど見た折口信夫の歌碑を思い出した

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岳ノ辻の山頂付近の照葉樹の森を歩く タブノキ(クスノキ科タブノキ属) ヤブニッケイ(クスノキ科クスノキ属)



壱岐焼酎の玄海酒造を見学

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壱岐焼酎の玄海酒造を見学する 発酵槽だろうか鉄製のタンクが並ぶ

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1斗カメ徳利に希望の文字を焼きつけてくれるという
 
熟成用の樽には昭和37年(1962年)の刻印
これは樽の検定日であって、44年物という訳ではなさそうだ

見学の後の販売コーナーでは、飲兵衛には嬉しい飲み放題



壱岐から福岡を経て羽田へ

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高速船ビーナス号で、壱岐・郷ノ浦港を出港 約1時間で福岡の博多港に着く

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博多港からバスで福岡空港へ 16:50福岡空港発のANA262便ボーイング787機で羽田空港へ



 永年温めていた韓国から対馬、壱岐を経由して九州に至る旅が実現し、感無量である。このルートは、日本列島に人類がはじめて移住してきたルートであり、「三国志魏志倭人伝」に記された対馬国・一支国であり、遣隋使・初期遣唐使など古代中国との交流のルートである。時代が下れば、元と高麗の連合軍による日本侵攻(元寇)のルートであり、秀吉による朝鮮侵攻のルートであり、日露間の日本海海戦の戦争のルートでもある。また、朝鮮通信使などの日韓交流のルートでもあった。

 対馬と壱岐は、歴史的に重要な地であることはいうまでもない。また生態学的にも地学的にも興味深い地である。ついついホームページの記載が詳しくなり、お読み下さる方々にご迷惑を掛けてしまったかもしれない。

 最後に、楽しく勉強になる旅を企画して下さった山遊会の小池忠明さん、随所で自然学を解説して下さった小泉武栄先生、楽しい旅を共有して下さった会員の皆様に、お礼申し上げます。



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