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秋山郷 ---- 鈴木牧之の足跡 と 苗場山麓ジオパークを巡る旅
マウンテンパーク津南から眺める河岸段丘、見玉不動尊、逆巻の川原と猿飛橋、清水川原の屏風岩(大嵓)、
結東の石垣田、見倉橋、蛇淵の滝、甘酒村跡、苗場神社、黒駒太子堂、大瀬の滝、切明の夫婦滝、切明温泉


 秋山郷、なんといい響きであろう。秋山郷は、新潟県と長野県の県境、昔風にいえば、越後国と信濃国の国境にある。過去に1つの行政区になったことはないが、昔からそう呼ばれている。

 ここは、雪深い地方で、JR飯山線の森宮野原駅に建つ「日本最高積雪地点の標柱」には積雪7.85mと記されている。江戸時代後期に秋山郷を旅した鈴木牧之は、後に「秋山記行」を著した。これは、この地の珍しい風俗や習慣などを絵と文章で克明に綴った大変貴重な民俗学的記録である。

 近年、地質学、民俗学、観光資源などを統一的に理解し、村おこしに活用しようという動きがあり、ジオパーク運動はその1つである。秋山郷はほぼ全域が、「苗場山麓ジオパーク」として、2014年に36番目の日本ジオパークに認定された。

 今回の旅は、「秋山記行」に記された鈴木牧之の足跡を訪ねながら、地質学と民俗学を学習し、幾十万年もの大地の歴史と1000年に及ぶ自然の中での人々の営みを訪ねる旅である。
                                              (2016年10月)

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  鈴木牧之画・見玉村正法院不動堂境内畧圖
江戸時代後期の商人・随筆家の鈴木牧之は、文政11年(1828年)9月に秋山郷を探訪し、翌年には「秋山記行」稿本を完成した。牧之は訪れた村々で、今日の民俗学のような調査を行い、1週間という短い日数にもかかわらず、方言、衣食住、信仰、などのほか、人々の動作や態度に及ぶまできめ細かな観察をした。なお、牧之は、「紀行」ではなく「記行」と記している。


秋山郷って、どこ?
 
秋山郷は新潟県と長野県の県境にある。昔風にいえば、越後国と信濃国の国境にある。新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村とにまたがる、中津川沿いの地域の名称であるが、過去に1つの行政区になったことはない。いわゆる通称である。東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間地域で、日本の秘境100選の1つである。新潟県側に8つ、長野県側に5つの集落がある。

文治年間(1185年~1189年)に上野国草津の平勝秀が源頼朝に敗れて落ち延びたという平家の落人伝説が残る。狩猟(特にクマ狩り)や焼畑を行っていたことでも知られる。また交通・通信が不便で、豪雪地帯でもあったことから、独特の生活習慣が残されてきた。江戸時代に、塩沢出身の文人鈴木牧之の著書『秋山記行』や『北越雪譜』によってこれらの自然や歴史、風俗習慣が紹介された。

交通の便が悪く、近年まで冬季には隔絶されるケースが多く何度も飢饉、飢餓が発生し、時に村が全滅した。現在は国道405号が中魚沼郡津南町大割野から切明まで通っている。また、長野県側からは奥志賀林道から雑魚川林道に分岐し、切明まで繋がる林道が整備されており、飢饉、飢餓の危険はなくなったが、依然秘境の面影を止めている。

秋山郷の名の由来と考えられている大秋山という集落が信濃側にあったが、天明3年(1783年)の飢饉によって一村8軒が全滅したと『北越雪譜』に記されている。昭和の初めに秋山郷を測量隊が訪れたところ、村人から「源氏はまだ栄えているか」と尋ねられたという逸話が残る。当地に平家の落人伝説があることと、里から隔絶された秘境であることから生まれた伝説であろうと思われる。
                                 Wikipedia
などを参考にした

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秋山郷とは、新潟県津南町と長野県栄村とにまたがる、
中津川沿いの地域の名称である


往路のGPS軌跡地図
今回の旅行の往路(10月15日~16日)のGPS軌跡を示す。 (数字)は苗場山麓ジオパークのジオサイト番号。



1日目
10月15日(土)
 東京越後湯沢森宮野原山伏山風穴マウントパーク津南(河岸段丘)
    
上野の大杉外丸矢放神社の八本杉体験実習館なじょもん船山神社の大欅
    
津南町歴史民俗資料館石落し(屏風岩)見玉不動尊猿飛橋結束温泉・かたくりの宿
(泊)

旅の初日は、自宅を出て日本最高積雪地点の森宮野原へ。私の苗場山麓ジオパークの旅はここから始まる。ジオサイト(8個所)、体験実習館、民俗資料館などを訪ね、かたくりの宿に泊まる旅である。

(57)日本最高積雪地点・JR森宮野原駅へ

以下、(数字)はジオサイト番号である

当初、東京からJR飯山線の森宮野原駅へは長野駅から飯山線で行こうかと考えたが、上越新幹線の越後湯沢駅から長距離路線バスが出ていることが分った。安くて速く、助かった。

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越後湯沢駅、この駅にはスキー以外で今回初めて降りた。 バス停の標識を見てホッとした

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森宮野原駅では、「日本最高積雪地点の標柱」はすぐに見つかった。積雪7.85m 昭和20年2月12日記録とある。
この標柱が、なんと苗場山麓ジオパークのジオサイトの57番となっている



(13)山伏山と風穴

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(株)良品計画が経営する全国3カ所のキャンプ場の1つ
津南キャンプ場は、山伏山の麓にある。
山伏山の影を映す薬師湖
 

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山伏山(903m)の中腹に見える柱状節理
山伏山は220~150万年前の火山活動でできた。
安山岩が魚沼層群に貫入したもの
柱状節理は垂直に立つものが多いが、何とこれはほぼ水平
 
 

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風穴には、養蚕卵保管施設跡があり津南町有形文化財に指定されている。蚕は基本的に春に孵るので、
低温の風穴で保管することにより、蚕種が孵る時期を遅らせ、夏や秋に養蚕する数を増やし増産に貢献した。

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風穴の周りにはミヤマカタバミが多い。
涼しいせいだろうか。
近くにトチノキがあり、ゴルフボールよりやや小さなトチの果実が落ちていた
果皮が3つに割れると中に1個の種子がはいっている

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アブラガヤ(カヤツリグサ科ホタルイ属)
スゲに似ているが、スゲ属でない
オオバクロモジ
(クスノキ科クロモジ属クロモジの変種)
コシアブラ(ウコギ科ウコギ属)
新芽は最高の山菜に

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気持ちのいいブナ林を散策
 
ブナの穀斗(こくと)
中に1~3個の種子がはいっている

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ブナ林を抜けると、明るい草原に出た 植生が変わり、ワラビが現れた

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ミツバアケビ(アケビ科アケビ属) アケビには三葉と五葉があるが、
五葉の方が甘いという。生憎果実は見つからなかった。
クロバナヒキオコシ(シソ科ヤマハッカ属)
同属のヒキオコシと同様、消化不良、食欲不振、腹痛の薬だという。
ヒキオコシ(引起し)の名の由来は、弘法大師が病で倒れた旅人にこの草を煎じて飲ませたところ、その病人が起き上がったという伝説からくる。別名エンメイソウ(延命草)

樽田の池まで来て、引返した。セラピー効果満点の散策だった。



(1)マウンテンパーク津南からの眺望

マウンテンパーク津南からの眺望(河岸段丘)は、苗場山麓ジオパークのジオサイトの1番に指定されている。このケー冠を見るためにジオパークを訪ねたようなものである。

マウンテンパーク津南の展望台(標高732m)からの眺望 (河岸段丘)

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(左手前)清津スキー場
(右奥)巻機山(1967m)
(左奥)霧ノ塔(1994m)
(右奥)苗場山(2145m)
(左手前)高倉山(1326m)
(右奥)鳥甲山(2038m)
マウンテンパーク津南からの眺望 (名山の数々)



マウンテンパーク津南から眺めた河岸段丘
(段丘面を同定する)

  10月15日、津南町ジオパークガイドの風巻トシさんに案内頂き、マウンテンパーク津南から河岸段丘を眺めた。余りの見事さに圧倒された。
  撮影したパノラマ写真、GoogleEarthの衛星写真から計測した段丘面の高さ、「苗場山麓ジオサイト巡り」(1)、田中真弓氏の論文(2)などから、
  写真に写っている段丘面の同定を試みた。
 


図1.GoogleEarth衛星写真
 

GoogleEarth衛星写真から、マウンテンパーク上空約3kmから東斜め下方を眺めた画像を作成し、GoogleEarthの機能を使って段丘面の標高(海抜m)を
計測し、写真中に記入した。衛星写真の段丘面の標高と形状を、実際にマウンテンパーク津南の展望台から撮影した写真の段丘面の標高と形状と
比較し、段丘面を同定してみた。


図2.10月15日マウンテンパーク津南から撮影したパノラマ写真  段丘名は、文献1、文献2および図1から推定したもの


 同定された各段丘について、文献(1)に記載された段丘の比高と衛星写真から推定した段丘の比高とを比較したものを、表1に示す。
 両者はおおむね調和的であった。

表1.文献(1)に記載された段丘の比高と衛星写真から推定した段丘の比高との比較
文献(1)による 衛星写真による
段丘面名称 記号 比高(m) 比高(m)
谷上段丘 250~400 285~364
米原Ⅰ段丘 MⅠ 200~300 144~267
米原Ⅱ段丘 MⅡ 120~300 205~239
朴の木坂段丘 105 67~129
貝坂段丘 80 62~123
正面段丘 60 50~79
大割野Ⅰ段丘 OⅠ 30 10~47

GoogleEarth衛星写真から計測された標高から、河川水面標高210mを減じた値


文献
(1)長野県栄村役場:「苗場山麓ジオパーク・ジオサイト巡り」ジオサイトNO.1河岸段丘 http://www.vill.sakae.nagano.jp/geo-park/geo-park.html
(2)田中真弓:「信濃川中流域、十日町盆地における河成段丘の変異から見た活褶曲4と断層の関係」 第四紀研究、39(5)、P.411-426
 



河岸段丘はどのようにしてできたか
 

 

 


下記のWebsiteから、図表を引用させて頂きました
   長野県下水内郡栄村大字北信3433番地 栄村役場 「苗場山麓ジオパーク・ジオサイト巡り」
           http://www.vill.sakae.nagano.jp/geo-park/geo-park.html 



越後妻有の大地の芸術祭

マウンテンパーク津南の上野池の近くで、3年に1度の世界最大級の国際芸術祭「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の作品の一部にお目にかかった。芸術祭が行われている越後妻有地域(新潟県十日町市・津南町)は「大地の芸術祭の里」と呼ばれている。

「大地の芸術祭」の基本理念は、『 過疎化・高齢化が進む越後妻有の地域再生の契機として、地域資源の発見や地域の知恵の学習、住民との協働、空間を息づかせる制作という、アートがもつ力を信じ、この地域づくりが企画されました。「人間は自然に内包される」というこの理念が、「大地の芸術祭の里」のすべてのプログラムに貫かれています。人間と自然がどう関わっていくかという可能性を示すモデル地域となることを目指して、越後妻有の地域づくりは進められています。 』 とWebsiteに謳われている。

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小高い丘に立つカモシカの家族
妻有で使用された農機具を溶接してつくられた。
ブルガリアのゲオルギー・チャプカノフ氏の作品<2016年)
韓国の芸術家の作品
 説明板が見当たらないので、多分過年度の作品
 



(2)上野の大杉

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経塚と考えられる墳丘状の塚(ワラビ畑)に生えるスギは、幹周6.5m、
高さ30m、樹齢300~400年と推定される集合樹。津南町指定天然記念物
スギの木の向う側にある小さな祠
 



信濃川

信濃川は、新潟県および長野県を流れる一級河川。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲川と呼称が変わる。全長367kmで日本で一番長い川。流域面積11,900km2は日本第3位。

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越後田中駅付近を流れる信濃川 橋から眺めたJR飯山線を走る列車



(6)外丸矢放神社の八本杉

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外丸矢放神社の鳥居と杉並木の参道 神社の境内、右端が八本杉

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幹周11.4m、高さ40m、樹齢400~500年と推定される。木肌が美しい。
8本のスギが集合して成長とともに根本がくっつき、巨大な1本のスギのように見える。津南町指定の天然記念物。



農と縄文の体験実習館なじょもん

「なじょもん」とは、珍しい名前である。実はこの名前、町民の数多くの応募の中から選ばれたもの。津南の方言で「なじょも」と言う言葉があり、その方言と「縄文」を組み合わせて作られた。 「なじょも」とは、「是非何々して」をさらに丁寧にした言葉で、「なじょも来てくんねかい」(是非来て下さい)と言う意味を含めたものだという。館内には、津南町の文化財(民具や古文書、遺跡から発掘された土器や石器など)が展示されているほか、陶芸や土器づくり、和紙づくりや草木染め、わら細工などの実習ができる。当日は、お忙しい中をジオパーク推進室長の佐藤雅一さんに案内して頂いた。

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「農と縄文の体験実習館なじょもの」の外観 ロビー正面に展示されら縄文土器

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縄文土器といってもいろいろある。
この2つは火焔型土器(堂平遺跡出土、5500年前、国保有文化財)
この縄文土器は王冠型土器(レプリカ)
(道尻手遺跡出土、5500年前、国重要文化財)

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下モ原Ⅰ遺跡の石器と居尻A遺跡の石器の間の接合 石器の接合が確認された例



苗場山麓ジオパークとは
日本ジオパークネットワークの
Website ( http://geopark.jp/jgn/ )
の一部を引用させて頂きました
 ジオパークとは何か
日本のジオパーク
(日本ジオパーク委員会認定のもの)
苗場山麓ジオパーク
苗場山麓ジオパークは、日本ジオパーク委員会が認定したジオパークの1つです。

苗場山麓ジオパークは、奥信越と呼ばれる新潟県津南町・長野県栄村からなり日本有数の多雪地域です。私たちの祖先は、多雪という環境に適応して段丘に暮らし、豊かな湧水や動植物の恩恵を受け歴史を紡いできました。縄文の遺跡が多く発掘され、火焔型土器に代表される当時の暮らしを見ることができます。約1万年間森と生きた縄文の民に習い、自然と共生することを五感を通し体感しながら学ぶ場所、それが苗場山麓ジオパークです。


苗場山麓ジオパークは、57箇所のジオサイトからなります。今回の旅行ではそのうちの26か所を訪問または遠望します。このホームページで、(23)のような数字はジオサイト番号です。
世界ジオパーク



(8)船山神社の大欅

船山神社の境内にある大きなケヤキ。幹周5.5m、高さ25m、
樹齢300~400年と推定される。津南町指定の天然記念物。



津南町歴史民俗資料館

歴史民俗資料館は、茅葺民家、 埋蔵文化財展示室、 民具展示室からなる。私にとっては、特に資料館2階 民具展示室が面白かった。

茅葺民家

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雪国特有の茅葺民家(津南町指定文化財) 茅葺民家の説明

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茅葺民家の台所 茅葺民家の囲炉裏(土間にあって、椅子に座るのは珍しい)



資料館3階 埋蔵文化財展示室

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埋蔵文化財の展示室 打製石器 磨製石器



資料館2階 民具展示室

重要有形民俗文化財指定書(平成3年に文部大臣が指定したもの)

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信仰用具の例 ミノ(蓑)、ヤマガサ(菅笠、スゲガサ)

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セナコウジ(背負い子) ヤマゾリ(山橇)

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縄文遺跡からも同じ網目の布が出土しており、織物以前の編み物といわれる。編み方は俵と同じ。
アンギン(編布)の説明 アンギンを編む素材の繊維 アンギンの衣類

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山樵用具(のこぎり) ハッタイ(雪中のカモシカ猟具) 火縄銃と銃を支える二股付の木の棒



(11)七ツ釜

七ツ釜は、津南町歴史民俗資料館から見玉不動尊への経路から外れているため、今回訪ねることができなかった。そこでガイドの風巻さんが後日送って下さった写真を紹介する。

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国指定の名勝・天然記念物というから、貴重なものである。
落差600m。柱状節理が見事である。鈴木牧之の北越雪譜と秋山記行にも絵入りで紹介されている。



(14)石落し(岩屏風)

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池の向うを流れる中津川の対岸に見えるのが石落し(岩屏風)
この柱状節理は苗場山第Ⅱ期溶岩である。
春の雪解けにより雪や水とともに柱状節理の岩が崩れ落ちる音が
川のこちら側でも聞こえたという。



(15)見玉不動尊と仁王門

ここは比叡山延暦寺天台宗のお寺であるが、平家の守護神である不動明王が祀られていることから通称「見玉不動尊」といわれている。この不動尊は、1185年に壇ノ浦の戦いに敗れた平清盛の臣下、宮本清左ェ門が安置したと言われている。昔から眼病にご利益があるとされ、遠方からも参拝者が訪れる。江戸時代には、鈴木牧之が滞在し、当時の様子を書き残している。

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立派な仁王門 金玉山正宝院の本堂

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本堂に祀られた不動明王像 本堂の脇を流れる延命水 仁王門の横に植えたメグスリノキ(ムクロジ科カエデ属)



穴藤ダムと中津川第一発電所

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中津川に設置された東京電力の穴藤ダム ダム直下にある東京電力中津川第一発電所
中津川第一発電所 の水は、上流の高野山調整池から地下導管と上の写真の地上の導管で導かれる。高野山調整池の水は、なんと秋山郷最奥の切明発電所で使われた水が、長い地下の導水路(直線距離で16km)で導かれたもの。なお、穴藤ダムの水は中津川の下流の東京電力中津川第二発電所で使われる。日本の水力発電は、正にエネルギー有効利用のお手本である。




(17)逆巻の川原と猿飛橋

この地域で一番古い結東(けっとう)層は、約1,800万年前から1,500万年前の日本海ができ始めた頃の地層である。結東層は、中津川流域の逆巻から小赤沢にかけて分布し、おもに海底火山の噴出物である。左岸にはグリーンタフ(緑色凝灰岩)が露出している。逆巻の川原には柱状節理も見ることができる。この柱状節理は貫入岩体(岩床)の玄武岩である。もともとは、地中に埋まっていたものが、川ができ洗われて露出した。この下流の逆巻の川原には、猿飛橋が架かり、鈴木牧之がその様子を書き残している。

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国道 405号線から見る猿飛橋 川原に降りて見上げるとなかなかの絶景である

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右岸には柱状節理が見られる
 
左岸にはグリーンタフ
(緑色凝灰岩)が露出
川原の大きな石もグリーンタフか
 

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川原にでる途中にカラムシ(苧、イラクサ科カラムシ属)を教えてもらった カラムシの茎の繊維
カラムシは、茎の皮からは衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な繊維が取れるため、分布域では6000年前から栽培されてきた。このため日本に自生するカラムシは、繊維用に有史以前から栽培されてきたものが野生化した、史前帰化植物であった可能性が指摘されている。『日本書紀』によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。



結束温泉かたくりの宿

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今夜泊る「かたくりの宿」に着いた。
明治17年に開校し平成4年に廃校となるまで、秋山郷で地元の子どもを見守り続けた小学校を改築した宿。
平成20年に1年間休業となったが、平成21年「大地の芸術祭」をきっかけに新たにスタートした。

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小学校の雰囲気が残る2階の廊下。泊まった部屋は「1組」 部屋は落ち着いた和室に改装されている

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さすが雪国! 階段横に張られていたのは「津南町累計積雪図年表」
これは昭和38年以降の津南町の記録で、昭和20年の森宮野原での「日本最高積雪7.85m」はない 
昭和59年の五九豪雪の記録
2月~3月はずーっと積雪4m

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この日は泊り客は私1人、でも立派な「おしながき」 最初に運ばれた料理、地元の食材を可愛くアレンジ、それに地酒を注文

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石垣田産のコシヒカリと味噌汁
 
山ぶどう羊羹入ミルク
シャーベット・アカモモ
食堂に貼られた子供たちの絵に心が和む
 



2日目
10月16日(日)
 かたくりの宿結東神社・佐藤翁の碑石垣田見倉橋清水川原の屏風岩(大嵓
     →
結東のシシ穴
トチノキ原生林前倉橋蛇淵の滝甘酒村跡小赤沢のユモトマユミ
     
秋山郷保存民家秋山郷総合センター「とねんぼ」
苗場神社黒駒太子堂大瀬の滝
                                            
天池
切明切明温泉・雄川閣
(泊)

2日目は、かたくりの宿を出発し、ジオサイト(15箇所)を訪問し、秋山郷総合センター「とねんぼ」で鈴木牧之の秋山記行の図などを鑑賞し、切明温泉の雄川閣に泊る旅である。

佐藤佐平治翁の碑

昨夜宿泊した「かたくりの宿」の裏に、結東神社があったので訪ねてみた。境内に佐藤佐平治翁の記念碑と顕彰碑があった。

江戸時代後期に全国で相次いだ大飢饉で、秋山郷が大きな被害を受けた。天明3年(1783年)の大飢饉では大秋山、矢櫃村が全滅。天保7年(1836年)の大飢饉では甘酒村、高野山村が全滅し、他の村も絶望の危機に陥った。その悲惨な状況に救いの手を差し伸べたのが、片貝村(現:小千谷市片貝町)の造酒屋・佐藤佐平治であった。佐藤家(代々の当主は佐平治を襲名)は以前から飢饉の度ごとに全力を挙げて被災者を救い、そのため一時は家業の酒造業が破産寸前になったほどであった。
 第21代佐平治は父の代から20年間に渡って蓄え続けた籾・稗1200俵(1080石)昆布1万把を片貝近郷・上妻有郷・秋山郷の村々に与えた。特に秋山郷・結東村へは全体の3分の1にあたる361石と共に御救方手金10両及び協力金50両を施した。1両は現在の金額で約20万円ですから50両だと1千万円になる。しかもその50両を自分が結東村から借り受けて利息7分(3両2分)を毎年村に払い続けた。この支払いは昭和42年(1967年)まで、実に135年間にも渡って続けられた。

                 津南町観光協会公式サイト「津南彩発見」 - 佐藤佐平治 - より引用

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結東神社の鳥居、奥に記念碑と石段が見える 石段の上に社が建つ

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佐藤佐平治翁の記念碑 佐藤佐平治翁の救恤(きゅうじゅつ)と題した顕彰碑



(11)結東の石垣田

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宿を出て10分歩くと、「結東の石垣田、これより10分」の標識。この石垣田は日本の農村景観百選の1つだという。 水田環境調査鑑定地区というのは、何だろうか
 
朝の1人散歩は危険?
 

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石垣田に着いた。棚田の石垣は高いところでは3mもあり、村民の苦労が偲ばれる。開墾が始まったのは明治25年(1892)頃で、それまでは秋山郷は稲作には厳しい環境とされていた。  清水川原の屏風岩の直下だ。上は30万年前の苗場山噴火の溶岩、下は77万年前の鳥甲山の噴火の溶岩、大きな落石もある。
 
谷間で日照時間が短いために刈取りを遅らせたのだろうか。もし観光用に残してくれたのなら、有難い。
 



(21)見倉橋

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見倉橋は、新潟の橋百選の1つ
 
 
ガイドの本山さんは難なくわたるが、結構揺れる。
鈴木牧之の「秋山記行」に描かれた「三倉橋之図」を見ると、
一本の橋でなく、いくつかの岩を結ぶ複数の丸太橋であったことが分る。

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吊橋から下を見ると、溶岩が固まった両岸の間を清らかな水が流れている



  おおくら
(18)清水川原の屏風岩(大嵓) と (20)結東のシシ穴

国道405号線から分岐して見倉トンネルに向かう林道から、中津川の対岸(左岸)の屏風岩(大嵓)や結東のシシ穴がよく見えた。

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中津川の右岸の清水川原の屏風岩(大嵓)
 
 
屏風岩(大嵓)の、下部は77万年前に形成された鳥甲山火山の
溶岩とその上に堆積したローム層、上部は30万年前の苗場山
火山の溶岩とその上に現在までに堆積したローム層だという。

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左奥は高倉山(1326m)、右手前は結東のシシ穴
 
 
シシ穴は77万年前に形成された鳥甲山火山の溶岩(前倉溶岩ともいわれる)。ろうそく状に浸食されているのは、雪崩による浸食の跡だという。
高倉山の名は、高倉天皇が平家滅亡の際にここに落ち延びたという伝説に由来するという。
高倉天皇(1161年 - 1181年)の父は後白河天皇で、母は平清盛の妻時子の妹の平滋子、8歳で天皇に擁立された。1177年に「鹿ケ谷の陰謀」が起き、父後白河法皇と平清盛との対立が決定的になり、高倉天皇は、その翌年平清盛の強訴により安徳天皇に譲位し、1181年21歳の若さで没した。その後1185年に平家は壇ノ浦の戦で源氏に敗れ、安徳天皇は入水し平家一門は滅びた。したがって1181年に没した高倉天皇は平家の落人よりも時代が少し古いと思うのだが・・・



見倉集落

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雪深い見倉の集落、茅葺きにトタンをかぶせた急勾配の寄棟が絵になる 山積みされた冬のための燃料

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五戸の里に 女もあるか子もあるか 陽の当たる軒に 赤きもの干す
ジャーナリストで民俗学者、歌人、俳人の小林存(ながろう)の歌碑
小林存は、日本民俗学界においては「幻のあみ衣」とされていたアンギンを
昭和28年に秋山郷の結東集落で再発見したといわれている。
集落内にある諏訪神社の小さな祠
 
 
 



(22)見倉の風穴とトチノキ原生林

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見倉集落の近くに風穴跡があるというので訪ねたが、ここは廃墟であった さらに奥に行くと、(左)国有林のカツラノキ、(右)民営林のトチノキ

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トチの実が沢山落ちている
 
見上げると見倉の大栃があった。
幹周8.5m、樹高25m、推定樹齢500~800年
風穴跡とトチノキ原生林から戻って、
前倉橋へ行く見倉トンネルを潜った



(23)前倉橋

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前倉橋は、中津川渓谷にかかる新潟の橋50選の1つ。柱状節理のある岸壁は
結東層(約1,800万年前から1,500万年前の日本海ができ始めの頃の地層)。
中津川流域の逆巻から小赤沢にかけて分布し、おもに海底火山の噴出物である。



ケヤキの銘木店

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春夏秋冬のうち、秋がないから「商い中」 店内にはケヤキの銘木が沢山

店内最大の見ものは、樹齢439年のトチノキのテーブル(53万円)
1548年誕生、本能寺の変、大坂夏の陣、天明の大飢饉、鈴木牧之の秋山入り、などを経験している
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(24)蛇淵の滝

「蛇淵の滝]は、長野県と新潟県の県境でもある硫黄川と中津川合流点のやや下流に位置し、結東層と呼ばれる固く変質した玄武岩によってつくられた高さ約10mの滝。その名の由来とされる、「熊捕り名人の善七さんが熊を追って川を渡ろうとしたとき、川に丸太橋が架かっていた。渡り終え、ふと後ろを振り返るとそれは大蛇だった。」という蛇にまつわる伝説が残されている。

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国道405号線から「蛇淵の滝」に入る途中で、鳥甲山が見えた 続いて、苗場山が

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「蛇淵の滝」は、谷の奥まったところにあり、午前中は最悪の撮影条件だった。 「蛇淵の滝大権現」の碑



(26)甘酒村跡

甘酒村は、大赤沢集落と小赤沢集落との間、硫黄川の左岸に位置していた。江戸時代、鈴木牧之による『秋山記行』には越後秋山郷と記録されているが、現在は長野県栄村である。当時は2軒の家があったと書かれており、同時に、1人の老婆が「イラクサ」から繊維をとる図が描かれている。この繊維から編み上げられたアンギンという布で、用途に合わせてさまざまなものを作っていた。アンギンの起源は古く、縄文時代からあったとされているが、文献で記録はあるものの、その現物が確認されたのは、昭和28年、小林存によるという。鈴木牧之が訪れた後、甘酒村は天保飢饉(1833~1839)において住人が餓死し、廃村となった。

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石垣田で稲作が行なわれるようになったのは明治以降
である。江戸時代はもっぱら粟、稗、大豆を作っていた。
「牧之の道」として保存されている。草津街道の一部だろう。
 

一番奥まったところに、甘酒萬霊供養塔と墓碑が並ぶ



鈴木牧之の秋山記行
牧之は、「紀行」ではなく、「記行」と書いている
鈴木牧之 A
鈴木牧之座像
現存する「秋山記行」
鈴木牧之が描いた「信越境秋山の図」
鈴木 牧之(すずき ぼくし、明和7年(1770年) - 天保13年(1842年))は、江戸時代後期の商人、随筆家。越後国魚沼郡の塩沢で生まれる。鈴木屋の家業は地元名産の縮の仲買と、質屋の経営であった。地元では有数の豪商であり、三国街道を往来する各地の文人も立ち寄り、その影響を受け幼少から俳諧や書画をたしなむ。

19歳の時初めて江戸に上り、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、
雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと決意。帰郷し執筆した作品を寛政10年(1798年)、戯作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みたが果たせず、その後も曲亭馬琴らを頼って出版を依頼するが、なかなか実現できなかった。しかしようやく、山東京伝の弟山東京山の協力を得て、天保8年(1837年)『北越雪譜』を刊行した。同書は雪の結晶、雪国独特の習俗・行事・遊び・伝承や、大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、地方発信の科学・民俗学上の貴重な資料となった。

『秋山記行』は、十返舎一九の勧めで書いたものである。 書き上がったのは3年後の天保2年(1831年)だったが、出版を依頼した十返舎一九が亡くなり、出版は宙に浮いてしまった。牧之も天保13年(1842年)に死去し、『秋山記行』は出版されることはなかった。現在、『秋山記行』と呼ばれるものは、自筆草稿として現存する資料を指す。

 
牧之の秋山探訪の旅程

出発日 文政11年(1828年)9月8日(新暦10月16日)
日付 時刻 場所 行動内容(人家数)
9月8日 早朝 塩沢 食料・衣類を持って、桶屋団蔵なる案内人との2人旅
夕方 見玉 天台宗見玉不動堂の別当、正法院に宿泊する。(34軒)
9月9日 見玉 見玉不動尊をお参りする。
夕方 小赤沢 夜具があると思われる福原市右衛門宅に泊まる。(28軒)
9月10日 小赤沢 系図か黒駒太子の軸を拝見したいと願うが見せてもらえず、
太子堂のみお参りする。
  湯本 切り開いたばかりの畑がある。湯守の主人は島田彦八、
そこへ泊めてもらう。(1軒)
9月11日 湯本 寒くて早湯、宿では囲炉裏を焚いて暖かい。子どもから
雑魚川の案内を受ける。
夕方 湯本 狩人(秋田マタギ)と対面し話を聞く、秋山から上州草津へ
の往来や猟のことなど聞く、めずらしい猿の皮を購入する。
9月12日   屋敷 赤倉山(鳥甲山)はこの村の持山である。(19軒)
前倉 桶屋の知り合いの家を訪ね、お茶代の代わりに短冊を
おいていく。(9軒)
  上結東 桶屋の知人太右衛門に今晩の宿を頼む。(29軒)
9月13日   逆巻 猿の集団をみる。初めて土蔵を見る。猿飛橋を渡るのに、
近くで案内人を得てスリルある橋を渡った。(4軒)
  小出
新田
市右衛門宅に泊まり、大蛇の話を聞く。
9月14日   塩沢 早朝出発し、時雨の中、無事帰宅する。
             * 湯本は、現在の切明

Wikipediaのほか、下記の資料を参考にさせて頂きました。
  現代口語訳「秋山記行」 信州教育出版社 2013年
  栄村秋山郷観光協会 「鈴木牧之と秋山郷」
    http://sakae-akiyamago.com/suzuki-bokushi/
  苗場山麓ジオパーク振興協議会 ガイド養成講座第6回 「秋山記行を読み解く」
    http://naeba-geo.jpn.org/guide_06



(30)小赤沢のユモトマユミ と 秋山郷保存民家

ユモトマユミは小赤沢集落にある巨木。マユミ(檀、真弓、ニシキギ科ニシキギ属)は落葉広葉樹で、北海道、本州、四国、九州に分布している。ふつうは直径15cm、高さ4mほどであるが、小赤沢にあるものは直径76cm、高さ6.2mもあり、この種としては稀な巨木。樹齢は200年ほどといわれており、村の天然記念物に指定されている。マユミの葉は両面とも無毛であるが、この巨木の葉裏の脈上には短い毛が密生している。このタイプはユモトマユミ(カントウマユミ)として区別されている。5月中旬から6月上旬にかけて咲く花は、淡い緑色の小花で目立たないが、秋に熟す果実は淡紅色で人目を引く。

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ユモトマユミの巨木 ユモトマユミの近くにある秋山郷保存民家

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囲炉裏の機能の1つが乾燥である。
火棚を組み、衣類・食料・生木などの乾燥に用いた。
また、着物掛けを炉辺に置いて濡れた着物を乾かした。
座敷には箱火鉢(長火鉢)が置かれていた。
この民家からは鈴木牧之が訪ねたころの貧しい山村の生活は想像できない。

 



秋山郷総合センター「とねんぼ」
栄村役場秋山支所・小赤沢簡易郵便局・民俗資料館)

「とねんぼ」とは、方言で「物と物とがまとまる」という意味で付けられた名前。村役場、郵便局、民俗資料館、観光案内所などを備えた施設である。
以下、民俗資料館の展示から紹介する。

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「とねんぼ」に相応しい看板 雪深い地域だから、3mほどのコンクリートの上に建つ2階建



マタギ文化

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マタギ文化は、東北を中心に北関東、新潟県に存在する 秋山郷の猟師は、秋田からやってきて定住したマタギの5世である



アンギン網衣

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鈴木牧之が描いた
イラクサから繊維をとる婦人、網衣を着た婦人と童の絵
イラクサからとった繊維
 

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江戸時代の秋山郷では綿作は行われておらず、山野に自生する苧麻(ちま)や栽培種の苧(カラムシ)で、縮(ちじみ)を織った。



鈴木牧之の秋山記行の図より

鈴木牧之の秋山記行の図が沢山展示されていたので、いくつかを紹介する。

信越境秋山之圖 中津川に沿った集落の軒数が記されている

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見玉村正法院不動堂境内畧圖 秋山第一の入口 清水川原村之圖

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(左)七五縄張り高札之圖       (右)秋山家作の圖 三倉村橋之圖 現在の1本の吊橋でなく、岩を結ぶ複数の丸太橋である



(28)苗場山神社

若い頃に登った苗場山(2145m)の印象は、平坦な山頂に多数の池塘が存在することであった。この池塘が苗代田を思わせるため、苗場山は「神の苗代田」と呼ばれ、農耕の神様として祀られてきた歴史文化を持つ。麓にある苗場山神社を訪ねた。

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苗場山神社の鳥居 (左)苗場山神社本殿、(右)十二社



(29)黒駒太子堂

鈴木牧之は、「黒駒太子堂は3m四方ほどの草の庵で、戸もなく、箱のような厨子の中に60cmほどの何かの如来像が入っていた。秘蔵されているという太子の掛け軸を見たいといったが、祟りがあるからといって村外の人には見せてくれなかった。」と記している。

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黒駒太子堂の外観
 
黒駒太子堂の内部
 
鈴木牧之が見せてもらえなかった聖徳太子の掛け軸 
聖徳太子の掛け軸の画像は、Website 栄村役場 「苗場山麓ジオパーク・ジオサイト巡り」より引用



(31)大瀬の滝

「大瀬の滝」は、落差約15m。苗場山の溶岩を削り、結東層の中の玄武岩の水冷破砕溶岩(ハイアロクラスタイト)と呼ばれる固い岩石が滝を形成している。この岩石は蛇淵の滝を構成する岩石と同じものであるという。

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マイナスイオン一杯の「大瀬の滝」は、爽快である いい香りがすると思ったら、頭上にカツラの木が・・・



(37)天池

白樺やもみじなどに囲まれた池で、幻想的なたたずまいを見せ、鳥甲山と木々が湖面に写る。カメラマンの撮影スポットとなっている。

天候に恵まれ、鳥甲山がよく見えた。惜しむらくは、紅葉に早かった。



和山集落と仁成館

和山は江戸時代に秋田のマタギによって発見されたという温泉。一帯では今でも冬になると、マタギの流れをくむ村の猟師が熊狩りをすることでも有名。次回は冬に来て、露天風呂に入り、朝夕に変わる鳥甲山の景色を眺めながら素朴な山菜料理、新鮮なイワナの味に舌鼓をちたい。津南町からの路線バスはここまで。

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茅葺きにトタンをかぶせた急勾配の寄棟は、雪国の象徴だ
 
和山集落の最奥にある仁成館は、現皇太子が宿泊された
という旅館。残念ながら、今は日帰り入浴のみだという。



(43)切明の川原(温泉湧出) ・ (45)夫婦滝 ・ 雄川閣

ついに秋山郷の最奧にある温泉宿、切明の雄川閣に到着。鈴木牧之は、「ここ切明(当時は湯本)への道は険しく、お化けか鬼の住むところ」と表現している。彼はここに2泊し、湯守りの嶋田三左衛門から「ここを開いてやっと二十年、五月から七月までは湯治客が来るが、その後は吹き降ろしがひどく湯治に来る者はいない」と聴かされている。昼は子どもに雑魚川を案内してもらい、夜は秋田マタギの話を楽しんだ。

雄川閣は秋山郷の最奧にある温泉宿。露天風呂、内湯のほか、中津川の河原に天然温泉が湧出しているので、
河原を掘って自分だけの温泉も楽しめる。ただし、12月から3月末までは冬季休館となる。

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切明橋の中央から南側を見る。(左)魚野川の上流、(右)雑魚川の上流、間にあるのが東京電力切明発電所
 
切明橋から北側の中津川下流を
見る。枯れた夫婦滝が1本見える。

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魚野川に架かる吊橋を渡り、発電所の脇から川原に降りる 川原から吊橋と雄川閣を眺める

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川原にはスコップで温泉を掘って楽しむ先客がいる 川原には種々な石があり面白い

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宿に戻り、自家製の露天風呂を楽しむ

嬉しい宿の夕食



3日目
10月17日(月)
 切明温泉・雄川閣和山集落津南町越後湯沢東京

3日目は、切明温泉雄川閣を出発し、ジオサイトの見学はなく、路線バスで津南町まで戻り、越後湯沢を経由して帰京する1日である。

果たせなかった山越え奥志賀コース

当初の計画では、切明温泉で1泊の後雑魚川を遡行し、大滝(おおぜん)を眺め、奥志賀林道を歩いて奥志賀スキー場に至る予定であった。10年前に奥志賀スキー場から大滝へは、逆コースで来たことがある。ところが、切明まで来たガイドとタクシー運転手、それに雄川閣のフロントから、熊が出るから一人歩きは危険だと諭された。せっかく熊撃退スプレー、鈴、大音量の携帯ラジオを持参したのだが、地元の人たちの忠告に従うことにした。

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奥志賀雑魚川の大滝(おおぜん) 2006年6月24日撮影 熊撃退スプレー、鈴、大音量の携帯ラジオを用意したのだが・・・



切明温泉から和山温泉へ

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早朝に、雄川閣のご厚意で和山のバス停まで送って頂く 和山からは津南方面行の路線バスの始発が出ている。

バスの出発前にバス停から名残りの鳥甲山を眺める



和山温泉から津南町へ

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一昨日泊った小学校改造の「かたくりの宿」を通過する 路線バスを津南役場前で下車し、津南の町を中津川まで歩く

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町中から「マウンテンパーク津南スキー場」が見えた。
展望台から見た河岸段丘は見事だった。
町役場の前にある観光案内書に立ち寄ってお礼を言い、
路線バスで越後湯沢に向った



 永年温めていた秋山郷の旅が、ついに実現した。紅葉の時期に少し早すぎたことと、熊の危険のため秋山郷から奥志賀への通り抜けを断念したことが残念であった。しかし、鈴木牧之の足跡を訪ねることと、できる限り多くのジオサイトを見学するという所期の目的を達成することができた。新潟県津南町と長野県栄村それぞれの苗場山麓ジオパーク資料は素晴らしいもので、今回の旅に大変役立った。

 最後に、津南町観光協会、栄村観光協会、
1日目のガイドの風巻トシさん、2日目のガイドの本山佐利さんに、心からお礼申し上げます。



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