難波と飛鳥 ---- 古代の宮跡、陵墓、大和川、飛鳥と奥飛鳥、二上山の旅 |
仁徳天皇陵、狭山池、白鳥陵、大阪歴史博物館、難波宮跡、法円坂遺跡、住吉大社、大和川地すべり資料館、三室山、 藤ノ木古墳、大和川沿いに歩く、初瀬川沿いに歩く、長谷寺、藤原宮跡、石舞台古墳、奥飛鳥、二上山博物館、二上山 |
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今回の旅は5泊6日で、大阪府と奈良県にまたがる。主な訪問先は下記のとおり。 1日目:仁徳天皇陵、応神天皇陵、白鳥陵、狭山池など 2日目:大阪城、大阪歴史博物館、難波京跡、住吉大社など 3日目:大和川亀の瀬、龍田大社、三室山、藤ノ木古墳など 4日目:大和川中流域、大和川上流域、長谷寺など 5日目:藤原京跡など飛鳥の遺跡、奥飛鳥など 6日目:香芝市体育館・公民館、二上山博物館、二上山など |
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1日目 4月3日(火) |
横浜→大阪→堺市役所展望ロビー→仁徳天皇陵→狭山池→白鳥陵古墳→墓山古墳→白鳥神社 →応神天皇陵と誉田八幡宮→大阪(宿) |
今日は旅の1日目、新横浜を発って大阪へ。百舌鳥古墳群と古市古墳群の中の いくつかの古墳を見学する1日である。 |
百舌鳥古墳群 |
舌鳥古墳群(もずこふんぐん)は、大阪府堺市にある古墳群。半壊状態のものも含めて44基の古墳がある。このうち17基が国の史跡に指定されているほか、これとは別に宮内庁によって3基が天皇陵に、2基が陵墓参考地に、18基が陵墓陪冢(ばいちょう)に治定されている。かつては100基を上回る古墳があったが、第二次世界大戦後に宅地開発が急速に進んだため、半数以上の古墳が破壊されてしまった古市古墳群とともに、巨大な前方後円墳を擁する古墳群として知られる。 |
堺市役所展望ロビー |
地上80mから360度の展望が 楽しめる堺市役所の展望ロビーA |
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百舌鳥古墳群付近の地図 GoogleMap |
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展望ロビーからの景観 (自分で撮影した写真よりも、ロビーに展示された写真の方が名称が記入されていて便利である) |
仁徳天皇陵 (大仙陵古墳) |
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国土交通省 国土画像情報より |
クフ王のピラミッド、秦始皇帝の墓、仁徳陵古墳の大きさの比較 堺市運営のホームページより |
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堺市役所を出発して、徒歩20分ほどで仁徳天皇陵の周濠に着く |
周濠に沿う道には、現在どのあたりにいるのかを示す道標がある。 左回りに一周することにする。ほぼ3kmあって、50分ほどかかる。 |
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ここには4つの万葉歌碑があった。犬養孝先生の揮毫になる万葉仮名で、私には読めない。 書き下し文と口語訳のプレートが添えられているので助かる。これは古歌の1つである。 |
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残りの三作はいづれも磐姫皇后 (『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売と記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり) の作である |
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この辺りは周濠に沿って桜が植えられている |
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銅亀山古墳は百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳(一辺26m) である。仁徳天皇陵の陪塚とされる。 |
竜佐山(たつさやま)古墳は、墳丘長約61mの帆立貝形 前方後円墳。仁徳天皇陵の陪塚とされる。 |
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仁徳天皇陵の正面 宮内庁が管理する天皇陵の正面はみな同じ形式である |
3重の周濠に囲まれている。これは一番外の濠。 |
狭山池 |
仁徳天皇陵を見学後、南海高野山線の三国ヶ丘駅から大阪狭山市駅に向かった。大阪狭山市駅から歩いて約10分で狭山池に着く。 |
A | 狭山池(さやまいけ)とは、大阪府大阪狭山市にある日本最古のダム式溜池とされる。 石川や大和川といった水量の多い河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水に乏しく潅漑に苦労した地域で、狭山池周辺には大小の溜池が数多く存在する。 飛鳥時代前期、朝廷によって西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め築造されたとされるが、正確な築造年は明かでは無く、4世紀から改修記録が残る7世紀まで幅広い説がある。『古事記』・『日本書紀』にもその名が記されているという。 1704年(宝永元年)の大和川の付け替えまで、現在の大阪市域に至る80か村、約55,000石を灌漑していた。各時代で幾度となく改修が重ねられ、1988年から10年以上の工期をかけた大改修のダム化工事により洪水調整機能を備え、同時に池の周囲は公園として整備された。また、以前の狭山池の保存と公開を目的とした大阪府立狭山池博物館が池の北側に2001年に開館した。 |
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堤防に「日本最古のため池『狭山池』」の掲示がある | 「現代の樋」を見ながら堤防を歩いて大阪府立狭山池博物館に行く |
満開が過ぎた桜並木の堤防を歩き博物館に入る。この博物館の建物は安藤忠雄によって設計され、 1400年の歴史を刻む日本最古の「ダム式溜池」である狭山池と一体化した親水空間を有する土地開発史専門の博物館。 |
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度肝を向くような巨大な堰堤の剥ぎ取標本が展示されている |
剥ぎ取標本から、狭山池誕生当時(616年頃)から昭和の改修までの 地層が読み取れるという。 |
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発掘された古代の改修の際に用いられた樋(重要文化財)。 東樋(ひがしひ)の木材の年輪年代測定結果から、 7世紀前半につくられた日本最古の溜池であることが分った。 |
現代の東樋 樋はため池から水を取るための取水施設で、ゲートと樋管からなる |
古市古墳群 |
狭山池博物館を見学後、南海高野山線の大阪狭山市駅から河内長野駅に行き、近鉄長野線に乗り換えて古市駅に着く。そこから歩いて古市古墳群の中の白鳥陵と応神天皇陵を訪ねた。 |
A | 古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、大阪府羽曳野市・藤井寺市にある古墳群。20基が国の史跡に指定され、27基(重複含む)が宮内庁により天皇陵(8基)・皇后陵(2基)・皇族墓(1基)・陵墓参考地(1基)・陵墓陪塚(15基)に治定されている。 東西約2.5km、南北4kmの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200m以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成される古墳群である。いずれも標高24m以上の台地や丘陵上にある。 百舌鳥古墳群と合わせ「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産に申請中である。 |
白鳥陵古墳 |
軽里大塚古墳は大阪府羽曳野市にある古墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により白鳥陵(しらとりのみささぎ)として第12代景行天皇皇子のヤマトタケルの陵に治定されている。 |
ヤマトタケルの物語 | ||
ヤマトタケルは、『日本書紀』では主に日本武尊、『古事記』では主に倭建命と表記される。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。 『古事記』 と 『日本書紀』 の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、豪胆な主人公や父天皇に疎まれる人間関係から来る悲劇性が濃い 『古事記』 の説話を中心に紹介する。 ヤマトタケルは本名を小碓命(おうすのみこと)という。父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ殺害する。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれ、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると斬り殺した。 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。 倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売と婚約をして東国へ赴く。相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘比売のことを思って歌にした。入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。 さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも (大意) 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。 その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる 「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、 「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」 と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売と歌を交わし、伊勢の神剣、草那芸剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げ(自分の意志をはっきりと声に出して言うこと。それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる)をし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は 倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」 から始まる国偲び歌を詠って亡くなる。 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は白鳥となって飛んでゆくので、后たちはその後を追った。白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。ヤマトタケルの墓は、宮内庁により3ヶ所に治定されている。白鳥陵(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里)はその1つ。遺跡名は「軽里大塚古墳」である。 Wikipedia他による |
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ヤマトタケルが敗北した伊吹山の麓に立つ像 滋賀県米原市・産経WESTより |
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ヤマトタケル国固めの旅・産経WESTより |
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古市駅付近から白鳥陵への道は特別の舗装がなされ、 白鳥陵に対する地元の思い入れが感じられる。 |
幅広い白鳥陵の周濠 |
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周濠の周りの柵には白鳥のレリーフ | ||
周濠に住んでいるのは白鳥ではなく鴨だろうか | 白鳥陵から墓山古墳、白鳥神社、誉田八幡宮、応神天皇陵まで、ハイキングコースを歩く |
墓山古墳 |
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墓山古墳と説明掲示板 |
白鳥神社 |
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日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。 南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、 そのまま放置されていた。1784年(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。 |
応神天皇陵と誉田八幡宮 |
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)または誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第15代応神天皇陵に治定されている。全国で大仙陵古墳(仁徳天皇陵に治定されている)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。 |
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応神天皇陵の正面 |
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。主祭神は応神天皇で、 社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置された ことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を称している。 |
大阪の宿へ |
古市古墳群を訪ねた後、土師ノ里駅から近鉄南大阪線に乗り大阪に戻り、大阪のホテルに泊まった。 |
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渡来人の土師氏に因んだ土師ノ里駅。古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。 | 大阪のビジネスホテル、ホテルノース大阪 |
2日目 4月4日(水) |
大阪(宿)→難波津跡→大阪城→大阪歴史博物館→難波宮跡→住吉大社→大和川河口→大阪(宿) |
今日は大阪市内の古代遺跡、とりわけ難波津跡、難波京跡を訪ねる。関連するものとして、大阪歴史博物館、住吉大社などを見学する。 |
難波津の跡を探す |
現在大阪湾に注いでいる大和川と淀川は、古代には草香江(河内湖)に注いでいた。草香江は河川が運んだ土砂が堆積して砂州となり出口が塞がれていた。日本書紀には「仁徳天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた」という内容の記述がある。難波津はどのあたりであろうか。 |
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中之島に建つ日銀大阪支店 辰野金吾の設計により明治36年(1903年)に竣工 |
大阪市中央公会堂(国指定重要文化財) 辰野金吾・片岡安の設計により1918年(大正7年)に竣工 |
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難波橋は中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る 最初の橋は、704年ごろに行基によって架けられたといわれている。難波橋は天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称された。 橋の南詰めおよび北詰めには、最上級の黒雲母花崗岩を素材にしたライオンの石像(天岡均一作)がある。 南詰めには、蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された 大阪株式取引所が前身の大阪取引所がある。戦後は東京証券取引所とともに日本の株式市場の一翼をなしていたが、 東証との経営統合で現在はデリバティブ専門取引所に位置付けられている。 |
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なにわ橋の由来を記す御影石(花崗岩)の標識 |
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大川の支流東横堀川に架かる高麗橋は江戸時代からの由緒ある橋である |
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高麗橋の東詰に里程元標跡がある。明治時代に西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われた。 |
A | 古代の大阪平野の復原景観 5~6世紀にかけて大阪平野の南方には「仁徳陵」を中心とする百舌鳥古墳群、「応神陵」を中心とする古市古墳群ができた。大阪平野の北方では上町台地の北端から北に延びる天満砂州に難波堀江が開削され、難波津が設置された。 その結果、遣唐使や唐からの来客は難波堀江を通過して難波津で上陸し難波京に入ることができるようになった。さらに難波京から陸路または旧大和川系の水路により飛鳥に入ることができた。 旧大和川は大阪平野に入ると玉串川、長瀬川、平野川などに分流し草香江(河内湖)に流入していたが、下流での氾濫が多かった。江戸時代の宝永元年(1704年)に、直接大阪湾に流れる大和川放水路(現大和川)が開削された。工期は僅か8ヶ月だった。 左図は「古代景観の復原」、日下雅義、中央公論社 より |
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古代の難波津については諸説があるが日下雅義氏の「高麗橋付近説」が有力である。それによると古代の難波津はこの辺りだろうか。 大阪市文化財協会「東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究」2010年、7頁 |
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ちょうど桜の満開 | 水陸両用バスも出ている |
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大川の南岸を歩いていると八軒家浜の船着き場に出た。 |
A | 八軒家ものがたり 7~8世紀には、この辺りに難波津があり、遣唐使はここから旅立った。 11世紀頃、現在の天神橋付近は渡辺津と呼ばれ、熊野参詣に利用されたため、熊野街道の起点として有名になった。 江戸時代、京都~大阪間を航行する三十石船などで賑わった。当時この辺りには八軒の船宿があり、「八軒家」と呼ばれた。 八軒家の船宿の1つ。京屋は新撰組の定宿であった。一方坂本竜馬も八軒家を利用したひとりであった。 安政7年(1860年)夜の安全のため地元町人が燈籠を建てた。 明治3年(1870年)に蒸気船が就航すると、江戸時代からの三十石船は衰退した。 しかし、現在、「水の都大阪再生」の核となる取り組みとして、水上交通の拠点となる船着場が八軒家に完成し、往時の賑やかな水上ターミナルの役目は、現代に引き継がれている。 |
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常夜燈の下部に嵌められた黒御影石の説明板の1つ |
江戸時代の八軒家の賑わい(浪花名所図会 八軒家着船の図 初代歌川広重) |
大阪城 |
大阪生まれの私は、大阪城を何度か訪ねたことがあるが、今回は上町台地の北端に建つ 大阪城を見るため改めて訪ねた。 |
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大阪城の天守閣 大阪城といえば1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)と 考えられるが、現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)に かけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。現在の天守閣は、1931年(昭和6年)に 地上55mの鉄骨鉄筋コンクリート構造によって復興されたもので、登録有形文化財となっている。内部は博物館である。 |
大阪歴史博物館と周辺の遺跡 |
大阪歴史博物館は一部遺構の上に建っている。歴史博物館の展示と合わせて、周辺の法円坂遺跡、前期難波宮跡、後期難波宮跡を見学した。 |
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大阪歴史博物館(左)とNHK大阪放送局(右)は隣接して建つ | 2つの建物の入口は並んでいて一体である |
古代の大阪 |
博物館の10階は、「難波宮の時代」(古代)である |
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大阪歴史博物館の10階から高速道路の向うに難波京跡が見える | 博物館の10階の展示は、古代の難波京大極殿にタイムスリップ |
古墳時代の難波は、東アジアへの交通拠点であった |
昨日訪ねた百舌鳥古墳群と古市古墳群は、難波京の南方約10kmのところにある |
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大阪歴史博物館の周辺から5世紀後半の16棟の大型建物跡が見つかった。間口10m、奥行き9mの当時としては 破格の規模で、東西2群に分かれて整然と並び建っていた。これらの建物は規模や数、配置、さらに難波堀江に近い ことから、倭王権が物資集散の拠点に建てた倉庫群と考えられる。 |
難波宮跡から見つかった素弁蓮華文軒丸瓦 (四天王寺と同笵) |
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飛鳥時代(7世紀)に造営された前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の模型 大極殿はなく、内裏、朝堂院、朱雀門が一直線に並んでいた |
奈良時代(8世紀)に造営された後期難波宮の模型 内裏には大極殿と大極殿後殿があった |
中世・近世・近代の大阪 |
博物館の9階は、「天下の台所時代」(中世・近世)である。8階は発掘をテーマにした展示、7階は大大阪の時代(近代・現代)である。下記は9階の展示の一部を紹介する。 |
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水の都のパビリオンは楽しい | 午前中に訪れた八軒家着船場の模型 |
大阪歴史博物館の地下遺構 |
博物館とNHKに跨って、法円坂遺跡と前期難波宮跡の一部が地下遺構となっている。 |
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大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の共通の1階ロビー 柱跡は地下遺構の柱の位置を示す |
ボランティアによる地下遺構見学ツアーに参加 倉庫群の柱の位置が「行燈」で示されている |
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博物館の前に復元された大型倉庫(法円坂遺跡の一部) | 博物館、NHK、古墳時代の倉庫群(法円坂遺跡)、前期難波宮の一部 |
難波宮跡 |
博物館を出て、難波宮跡を歩く。前期難波宮あとと後期難波宮跡が重複しており、頭が混乱する。 |
前期難波宮(難波長柄豊碕宮)、後期難波宮、法円坂遺跡の位置関係 Websiteより |
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後期難波宮大極殿の基壇 | 大極殿の基壇に上がる (向うに見えるのは博物館) |
住吉大社 |
住吉大社は大阪市住吉区、上町台地の南部の西端ににあり、大阪湾の方角に西面している。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の1つである。 |
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大阪から住吉大社へは、阪堺電軌阪堺線が便利である | 阪堺線は、今時珍しい路面電車である |
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八重桜が満開で、朱塗りの太鼓橋に生える | 住吉大社の幣殿、背後に本殿の一部が見える |
A | 神社本殿の主要な三様式 |
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三様式とも、すべて切妻造りである 神明造りは、平入り 大社造りは、妻入りで左右非対称 住吉造りは、妻入りで左右対称 |
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住吉大社の本殿(国宝)には近付けなかったので、Wikipediaの写真を引用 | TAC建築士ブログより |
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住吉大社の海側に隣接した住吉公園に行く。ここは元は住吉大社の境内で、大きな「心字池」がある。(3枚パノラマ撮影) 心字池は文字通り細い「細井川」で住之江競艇場を経て海と繋がっている。古代にはこの辺は海であっただろう。 日本書紀に出てくる「住吉津」はこの辺りではないだろうか。 |
住宅の間を流れる細井川 |
大和川の付替え |
ここで大和川の付け替えの歴史に触れる。詳しいことは下記のサイトをご覧ください。 国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所HP |
A | 大和川の付替えの歴史 現在の大和川は、奈良県と大阪府を流れ大阪湾に注ぐ一級河川である。 江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川)・楠根川・玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、最後は淀川に注ぎ込んでいた。淀川はそこからまた安治川や木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。 これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代に遡る。主なものだけで下記の通り。 仁徳天皇による堀江掘削 『日本書紀』仁徳紀11年の記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、 難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水でき るようにし、堀江と名付けた」という内容の記述がある。 和気清麻呂の工事 延暦7年(788年)頃、平野川を西へ分流しようとしたが、上町台地の 高さに挫折した。 江戸時代の付け替え工事 度重なる被害に庄屋中甚平衛らが幕府に請願し続けた。幕府はついに 翌1704年(宝永元年)2月から工事を開始し僅か8ヶ月で大和川は現在 のように大阪湾に直接流れるようになった。 Wikipedia他による |
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付け替え前後の大和川 関西地図の会HPより |
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流路変更された現在の大和川の河口付近 阪堺電軌阪堺線の大和川鉄橋 |
大和川鉄橋から海側を見る ここは河口から4kmの標識がある |
大和川の河口付近を見た後、昨夜と同じ大阪の宿に向かった。 |
3日目 4月5日(木) |
大阪の宿→亀の瀬地すべり資料館→ →龍田神社→藤ノ木古墳→斑鳩文化財センター→斑鳩の宿(泊) |
今日は大阪の宿を出発して、JR関西本線の河内堅上駅で下車し、亀の瀬地すべり資料館、龍田大社、三室山、藤ノ木古墳などを訪ねる全行程歩きの一日である。 |
国土交通省大和川河川事務所「亀の瀬地すべり資料館」 |
たまたま地質調査の関係者から地すべり多発地として有名な「亀の瀬」のことを聞いていた。そこで今回国交省大和川河川事務所にお願いして、「亀の瀬地すべり資料館」を見学させて頂いた。 |
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関西本線河内堅上駅で下車 |
関西本線は昭和30年頃は「本線」とは名のみで実質ローカル線だったが、 今は10分おきに電車が走っている。 |
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大和川を渡りトンネルに入る。 この辺りが「地すべり多発地帯」か |
「亀の瀬」と呼ばれる岩が動くと地すべりが生じると、 昔から言われていたそうな |
亀の形をした岩が幾つもある |
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国土交通省河川事務所「亀の瀬地すべり資料館」を訪ねる | 事務所でビデオを見てから現地見学に入る |
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先ず、今から49年前の昭和44年に完成した 亀ノ瀬排水トンネル(1号)を見学 |
トンネルの入口に掲げられた説明板。地中に含まれる水を集めて川に流すものらしい |
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建設専門官の八木啓太氏が案内して下さる | 所々に垂直の集水井がある | 場所によっては、排水トンネルは二股に分かれている |
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集水井の外観 | 集水井の中を覗くと保守点検のための階段がある |
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亀の瀬(7号)排水トンネルを見学する | 支線はコンクリート内装がされていない | 平成22年に完成 |
河川事務所のホームページから |
国交省近畿地方整備局大和川河川事務所のHPの中に『亀の瀬地すべり災害を防ぐ「地すべり対策」』という頁がある。 亀の瀬の地すべり対策について詳しく分り易く書かれている。関心のある方はぜひをクリックしてご覧下さい。 ここではその中からいくつかの図を紹介させて頂く。 |
A | 亀の瀬の歴史 亀の瀬は「畏(かしこ)の坂」として万葉集にも登場するほど、地すべりでおそれられてきましたが、その一方で亀の瀬付近の道は、奈良と大阪を結ぶ重要な街道として、多くの人が利用してきました。 |
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←古代の大和川 | ||
A | 地すべりしやすい亀の瀬の地質 亀の瀬の地質の特徴は、第三紀層の火山岩や堆積岩が積み重なってできた地層の表層をドロコロ溶岩がおおっていることです。これは数百万年前、亀の瀬の北方にあったドロコロ火山が新旧2回噴出してできたと推定されています。 亀の瀬が地すべりしやすいのは、弱い地層が変質して粘土層になった上に荷重の大きい溶岩がのったこと、地殻変動により大和川方向に傾斜していることなどが関係していると考えられています。 |
A | 地すべり発生のメカニズム 地すべりとは、斜面を構成している土地の一部が、おもに地下水の影響により、ある程度原形を保ったまま、ゆっくりと斜面下方に移動する現象です。 亀の瀬の地質は、大きく2つの層に分けられ、土台は岩石でできた硬い地層です。その上を、水を含んですべりやすい粘土質の地層が覆っています。2つの地層の境目はすべり台のように傾斜しており、硬い地層の表面はつるつるで大変すべりやすくなっており、この境目を「すべり面」と呼んでいます。 |
A | 「地すべり面」が大和川の河床の下に広がる特殊な地形 大和川の河床が何度も隆起している原因は、亀の瀬の地すべり面が大和川の下に広がっているためです。そのため、すべり落ちた土が川に入ると河床をせり上げ、土砂災害に加え、河床の隆起による川の閉塞が広い範囲に水害をもたらしていたのです。 |
A | 地すべりで水害が起きるメカニズム 亀の瀬は大阪府と奈良県の県境にあり、大和川は生駒山地と金剛山地の間の狭いところを流れています。ここで地すべりが発生すると、 河道閉塞が発生し、 上流側の奈良盆地が湛水し、 閉塞土砂が決壊すると、 下流側の大阪平野が氾濫する |
A | 地すべりで大和川が15mの高さでせきとめられたら (奈良盆地の湛水) 亀の瀬地すべりで大和川が完全に閉塞した場合、奈良県側はかなり広い範囲で浸水被害が発生すると想定されています。総面積約600ha、甲子園球場の410倍の広さです。4,700世帯以上の住民、650以上の会社、230ha以上の田畑が浸水することになります。 |
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←奈良県の浸水想定区域 |
A | 15mの高さでせきとめられていた大和川が一気に流れ出すと (大阪平野の氾濫) 亀の瀬地すべりによる大和川の閉塞が決壊した場合、大阪府側では約5,400haに氾濫被害が発生すると想定されています。これは約18万世帯、約3.4万の会社が影響を受ける大規模な水害となります。被害想定額は4.4兆円と試算されています。 |
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←大阪府の浸水想定区域 |
A | 世界に誇る地すべり防止技術 亀の瀬では、昭和35年から調査を開始し、抑制工と抑止工の両方を用いて対策工事を進め、平成23年3月に地すべりを防止するための主な対策工事が完了しました。 「地すべり対策工事」は、地すべりの被害を防ぐための工事で、大別すると2種類あります。まず「抑制工」。これは地すべりの地形・土質・地下水の状態など自然条件を変化させることによって、地すべり運動を停止または緩和させる工事です。代表的な工法として、水を集める巨大な井戸である「集水井」と集めた水を大和川へ流す「排水トンネル工」、地中の水を集める「集水ボーリング工」、土を取り除く「排土工」があります。そして「抑止工」。これは杭などの構造物を移動土塊に直接打ちこみ、その抵抗力を利用して地すべり運動の一部または全部を止める工事です。 |
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←亀の瀬地すべり対策工事の地中の様子 |
A | 水路網の 全体配置図 亀の瀬の地下水を集める生命線が、 集水ボーリングとよばれる細い管です。このパイプには水を集めるための細い穴があいており、亀の瀬地すべり地帯の地下水を集めています。集水ボーリングの総延長は約147Kmです。 排水トンネルは集水井で集められた地下水を排水するとともに、トンネル内部から打ちこまれた集水ボーリングにより、トンネル自身で集水を行っています。排水トンネルの全長は約7. 2kmです。 |
河川事務所を出て、 |
A | ||
河川事務所を出て奈良街道を歩いていると、排水トンネルや集水井に出くわした。改めて随所に設置されていることを実感した。 |
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「大阪府柏原市峠」という地名の所に「峠八幡神社」がある。隣接する「石造地蔵菩薩坐像」には説明板があるが八幡神社にはない。 |
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半跏趺坐(片方の足だけを他方の大腿部の上に置く座り方)をしている地蔵菩薩は珍しいという。残念ながら、足元を写真に撮り損じた。
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A | ||
八幡神社を越えて下りにかかると竹藪がある |
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果樹園の桃が満開である | さらに下ると、大和川に出る |
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三郷駅の手前に、磐瀬の杜という木立があり、鏡王女の万葉歌碑があった |
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JR関西本線の三郷駅の前を通る |
龍田大社を経て三郷町から斑鳩町へ |
龍田大社で高橋虫麻呂の長歌の万葉歌碑にお目にかかれるはずである。 |
A | ||
龍田大社の旧称は龍田神社。風の神(風神)として古くから信仰を集める。 『延喜式』の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って 祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。 |
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龍田大社の境内に建つ高橋虫麻呂の万葉歌碑 この長歌は、難波宮から龍田路を通って平城京に還ってくる峠越えの際に読まれたと考えられている。 |
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近鉄生駒線の大和川鉄橋が見える。ここは三郷町 | やがて三郷町から斑鳩町に入る |
三室山と竜田川 |
ここでも能因法師と在原業平の百人一首の歌碑にお目にかかれるはずである。 |
A | ||
三室山は標高僅か82mの小山であるが、古来紅葉の名所である |
山の麓に、能因法師(後拾遺集/百人一首)と 在原業平(古今集/百人一首)の歌碑があった |
A | ||
階段を上ると、頂上に能因法師の供養塔があった |
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山の上の広場で園児たちが写生をしていた | 山の上から大和川の支流である三室川が見えた |
A | ||
三室川の桜の満開は過ぎているが、川縁は公園になっていて気持ちがいい。 |
龍田神社 |
三室山から藤ノ木古墳へ行く途中に龍田神社があった。この龍田神社は、奈良県生駒郡斑鳩町にある神社で、奈良県生駒郡三郷町にある龍田大社とは縁はあるが、別社である。 |
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伝承によれば、聖徳太子が法隆寺の建設地を探し求めていたときに、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、「斑鳩の里こそが 仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を 創建したという。明治の神仏分離により法隆寺から離れ、龍田大社の摂社となったが、大正11年に龍田大社より独立し、県社となった。 |
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金剛流は、能のシテ方五流(観世・宝生・金春・金剛・喜多)の1つ。法隆寺に所属して発展し、この地が金剛流発祥の地とされている。 |
藤ノ木古墳 |
藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳(円墳)。玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350mに位置する。現在は周辺が公園として整備されている。また、古墳から南へ200mほど行くと、ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されている。 |
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斑鳩文化財センター |
藤ノ木古墳から200mほどのところにあり、藤ノ木古墳出土品の主なもの60点のレプリカが展示されている。 |
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斑鳩文化財センターの外観と展示、 |
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こんどうせいくらかなぐ まえわ 金銅製鞍金具 (前輪) |
こんどうせいくらかなぐ しずわ 金銅製鞍金具 (後輪) |
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こんどうせいくつ 金銅製履 (A) |
こんどうせいつつがたひん 製筒形品 用途不明である |
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2人の被葬者の安置状況 棺内遺物出土状況 |
かんじょうにゅうがもんたいしんじゅうきょう (左) 環状乳画文帯神獣鏡 |
じゅうたいきょう (右) 獣帯鏡 |
A | ||
40個出土した須恵器は6世紀第4四半期のものと考えられる | 11個出土した土師器は器種に偏りがあるので葬送儀礼用と考えられる |
石棺のレプリカ 二上山産の凝灰岩に水銀朱塗りの刳抜式家形石棺 |
斑鳩文化財センターの見学を終え、近くの宿「卯川家」に泊った |
4日目 4月6日(金) |
斑鳩の宿→法隆寺駅から結崎駅まで(大和に流入する支流を訪ねる) →三輪平等寺から長谷寺へ(万葉歌碑を訪ねる)→長谷寺門前の宿(泊) |
今日の行程は、斑鳩の宿を出発して、何回か拝観した法隆寺には寄らずに、大和川に流入する支流を訪ねる。大和川の支流には、昨日訪ねた竜田川を始め、富雄川、岡崎川、曽我川、飛鳥川、寺川、佐保川がある。最後に現れるのはは別名初瀬川とも呼ばれる大和川本流である。初瀬川になったところで、手を抜いて近鉄橿原線の結崎駅から電車に乗り、JR桜井線の三輪駅から再び初瀬川沿いに長谷寺まで歩く。今日の目的は大和川の支流を観察することと初瀬川沿いの万葉歌碑を訪ねることである。 |
法隆寺参道入口から結崎駅まで(大和川に流入する支流を訪ねる) |
下の地図は、法隆寺参道入口から結崎駅まで、実際に歩いたGPS軌跡である。 |
奈良県内の大和川の流路変更 |
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法隆寺参道入口 | JR関西本線法隆寺駅 |
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富雄川に架かる弋鳥橋(いとりばし)の欄干に面白いレリーフがあった。 何をしているのか、誰か教えて下さいませんか。 |
富雄川は奈良県最北部に位置する生駒市の高山溜池に発し、南へ向かって流れ、大和川に合流する。大和川水系で最北端の川でもある。 |
奈良県生駒郡安堵町役場 産業建設課 田村さんが教えて下さいました。 「藺草」(いぐさ) ・・・灯芯の材料となる植物。安堵町では、かつて、米の裏作(11月から6月の間)として安堵町全域で栽培されており、灯芯用藺草の一大生産地でした。 現在では、安堵町歴史民俗資料館前にて藺草が栽培されています。 |
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この辺りの富雄川堤防は桜の名所らしい。 サイクリングロードは飛鳥まで続く。 |
一級河川でも、本流の大和川は国交省、支流の富雄川は奈良県の管理である |
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富雄川が大和川に合流する地点 |
富雄川が合流するほぼ同じところで岡崎川も合流する。 岡崎川にはゲートがある。逆流を防ぐためであろうか。 |
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西名阪自動車道が大和川を渡る橋 | 一級河川大和川の標識 |
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右から合流するのは曽我川 |
右上から合流するのは飛鳥川。写真では飛鳥川の方が川幅が広いように見えるが、大和川の方が広い。 | 大和川河口から34.0kmの標識 |
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白鷺 | ||
右上から合流するのは寺川。この辺りは河川敷の菜の花が美しい。 | 鴨だろうか |
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大和川に架かる板屋ヶ瀬橋の欄干 | ||
板屋ヶ瀬橋から見る合流点 (左)佐保川、(右)大和川(ここからは初瀬川とも呼ばれる) |
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浄化センターからの放水口、流入口は佐保川側にある |
浄化センターの施設平面図 浄化センターの汚水処理区域は大和川右岸の 奈良市、大和郡山市、天理市、桜井市、生駒市、香芝市、平群町、三郷町、 斑鳩町、安堵町、川西町、三宅町、田原本町、広陵町の6市8町 |
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大和川の堤防から見える家々 大きな屋根は大和棟か |
散ってしまった桜 |
同じ川でも、初瀬川となると 奈良県の管理になっている |
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マメ科ソラマメ属クサフジか | キク科タンポポ属 タンポポ | キク科タンポポ属シロバナタンポポ |
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タデ科ギシギシ属スイバ(ギシギシ) | 菜の花は、アブラナ科アブラナ属の花の総称 | モンシロチョウ |
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近鉄橿原線の結崎駅に着き、ここから大和八木駅経由で三輪駅へ | JR桜井線の三輪駅で下車 |
三輪山平等寺から長谷寺へ(万葉歌碑を訪ねる) |
JR桜井線の三輪駅で下車し、先ずは三輪山平等寺を訪ねる。この辺りは「山の辺の道」で、7年前に来たことを思い出す。今回は沢山あるといわれる万葉歌碑を探しながら歩く。 |
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平等寺は、奈良県桜井市三輪にある曹洞宗の寺。 伝承によれば、聖徳太子が開基。 |
平等寺境内に建つ柿本人麻呂の万葉歌碑 (大意)三輪山の黄葉の色が素晴らしいので、その色に自分の衣を染めたいと願う |
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金屋の石仏はコンクリート造りの小堂に安置され、格子越しに拝観できる。もとは平等寺にあったが廃仏毀釈で寺と一緒に破壊されるところを村人が移し、守り続けている。 | 高さ2m、幅83cm、厚さ21cmの2枚の泥板岩に浮き彫りされた像は、右が釈迦如来、左が弥勒如来(弥勒菩薩の将来像?)とされる。鎌倉時代の作といわれるが、天平末期という説もある。国の重要文化財 | 比較的表情もはっきり分かる 釈迦如来 |
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初瀬川のほとりに高さ3.8mの「佛教伝来の之地」の碑ががある。 欽明天皇の時代に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金剛像一躯と経論若干巻物等を献上し、日本に 仏教を最初に伝えたといわれている。時期については、古来から有力な説として552年と538年の2説がある。 この地に碑が建つのは、当時難波津まで外洋船で来て、川船に乗り換えて大和川・初瀬川を遡り、 ここに上陸したのであろう。 |
万葉歌碑 作者未詳 (大意)夕方になると、いつもカジカの鳴く声のする三輪川の清い瀬の音を聞くのは、何ともいえずいい気持ちだ。 |
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佛教伝来の之地碑の建つ馬井戸橋(うまいでばし)付近からの初瀬川の眺め |
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磯城嶋公園に建つ作者未詳の万葉歌碑 泊瀬川 速み早瀬を むすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも (大意)泊瀬川のほとばしる早瀬の水、その水を手に掬って飲ませてくれながら、満足したかと尋ねて下さったあのお方は、 ああ今どうしているのだろう |
A | ||
欽明天皇磯城嶋金刺宮址伝承地 磯城嶋(しきしま)は「大和」の枕詞となり、このあたりは日本文化の原点というべき土地 |
柿本人麻呂の万葉歌碑 磯城島の 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ (大意)日本の国は言霊が幸いをもたらす国です。どうか私が言葉で「ご無事でいて下さい」と申し上げることによって、どうぞ無事でいて下さい。 (海路の旅に上る人に餞した歌) |
A | ||
朝倉小学校の西にある雄略天皇万葉歌碑 夕されば 小倉の山に 伏す鹿の今夜は鳴かず 寝ねにけらしも |
(大意)夕方になると小倉の山でいつも鳴いていた鹿、その鳴き声が今夜は聞こえない。一緒に夜を過ごす相手を見つけ、寝てしまったのだろう |
A | A | |||
白山神社。このあたりは、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)があったところとされるところで、萬葉集発燿讃仰碑([まんようしゅうはつようさんごうひ)がある。しかし発掘調査から、今日では朝倉宮は脇本の地と推定されている。 |
萬葉集全20巻の巻頭を飾るのは、雄略天皇の御製とされる次の歌である。 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち この丘に 菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らぬ 家をも名をも (大意)美しい籠(かご)を持ち 美しい箆(へら)を持ち この丘で 菜を採む娘よ どこの家の娘か 教えてくれ。 大和の国は すべて私が統率している。 私こそは…そうだ名乗ろう。家の名も、自分の名も。 |
初瀬川畔に建つ但馬皇女の万葉歌碑 背後の山は三輪山 人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る (大意)人の噂があまりに多くうるさいので、自分が生きてきたこの世でいまだ一度もしたことのない 夜明けの川を渡ります。 当時は男性が女性のもとへ通うのが普通だったが、この歌では但馬皇女が穂積皇子のもとに通い、 人に気づかれないように明け方の川を渡って帰ったと詠んでいる。 |
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桜井東中学校の校庭に建つ 紀鹿人の万葉歌碑 石走り激ち流るる泊瀬川 絶ゆることなくまたも来て見む (大意)岩の上を激しく流れる泊瀬川。この流れの絶えないように、絶えることなくまた来て見たいものだ。 泊瀬川は初瀬川のこと。 |
長谷寺 |
長谷寺は奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山、院号を神楽院と称する。本尊は十一面観音、西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。 |
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長谷寺の参道入口 | 仁王門 |
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高浜虚子の句碑 「花の寺 末寺一念 三千寺」 「三千寺」とは、長谷寺が真言宗豊山派総本山で、約3千の末寺があることらしい。 |
八重桜が満開だった 長谷寺で有名な牡丹はまだ蕾だった |
A | ||
時期なら長い登廊の両側は牡丹が見られるはず |
蔵王堂の前に紀貫之の古今集歌碑があった 人はいさ 心も知らず故里の 花ぞ昔の 香ににほいける |
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小林一茶の句碑 我もけさ 清僧の部也 梅の花 |
A | ||
大伴坂上郎女の万葉歌碑 こもりくの 泊瀬の山は 色付きぬ しぐれの雨は 降りにけらしも (大意)初瀬の山はすっかり色づいたことだ。しぐれの雨が降ったに違いない。 隠国(こもりく)は、初瀬(泊瀬・はつせ)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地のこと |
A | ||
松尾芭蕉の句碑 (大意)春の夜、籠りの人が、灯明も幽かなお堂のほの暗い片隅で、黙然と祈りを捧げている。その光景は何ともいえず艶で、心ひかれる。 |
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初瀬川は長谷寺の東側を流れる。上流に初瀬ダムがあるが、そこまで行けなかった。門前通りにある宿「大和屋」に泊る。 |
5日目 4月7日(土) |
長谷寺門前の宿→藤原京跡→奈良文化財研究所→香久山と万葉の森→雷丘 →甘樫の丘→吉野川分水東部→石舞台古墳→奥飛鳥→桜井の宿(泊) |
今日は、長谷寺門前の宿を出発して奥飛鳥まで行き、桜井まで戻る長い一日である。途中見るべきものは数多いが、時間の関係で藤原京跡、奈良文化財研究所、香久山と万葉の森、甘樫の丘、石舞台などに限らざるを得なかった。 |
藤原京跡 |
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城である。694年(持統8年)から平城京に遷都される710年(和銅3年)までの16年間、日本の首都とされた。その規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京や平城京をしのぎ、古代最大の都となることがわかった。 一方、藤原宮(ふじわらきゅう)は、藤原京の中心部にあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を一か所に集めたようなもの。その大きさは約900m四方、周りを大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に三か所ずつ門が開く。中には天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院、そして役所の建物などが立ち並んでいた。 |
A | ||
藤原宮跡の北側現在の道路を挟んだ醍醐池の東畔に建てられた持統天皇の万葉歌碑 (大意)春も終わり夏がやってきたようですね 天の香具山に(神祭りの)純白の衣が乾されているのが見えますよ |
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古代(飛鳥時代~平安時代)の9つの京 | 特別史跡「藤原京」の碑 |
藤原京は当初、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、東西1.1km、南北3.2km 程度とみられていた。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかっrた。 |
藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ40~50cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿(基壇は東西約52m、南北約27m)などの建物は礎石建築がなされ、中国風に日本の宮殿建築でははじめて瓦を葺いた建築がなされていた。 |
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西に見える畝傍山(199m火山) | 北に見える耳成山(140m) | 東に見える香久山(香具山とも書く、152m) |
奈良文化財研究所 |
奈良文化財研究所 都城発掘調査部は、飛鳥地域に残る遺跡を発掘し、出土した遺物を保存整理している研究機関である。遺物のほかに分り易い説明パネルを展示している。 |
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石神遺跡出土の土器 | ||
奈良文化財研究所 都城発掘調査部の外観 | 飛鳥池遺跡出土の漆容器 |
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奈良盆地内の瓦窯 | ||||||
奈良盆地内の瓦窯だけでは供給できず、遠方の瓦窯も使用された |
今も昔も税は国家財政の基盤である。当時は現物納税であった。これらの税は俵や籠に詰められ、 地方の役人に引率された農民によって都に運ばれた。荷物には税を納めた人の名前と住所、品名、 数量、納めた日付などを書いた木札(木簡)が荷札として付けられた。都に着いて不要になった荷札が 沢山見つかっている。木簡を通じて、納められた品目や特産品が見えてくる。 |
香久山と万葉の森 |
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、または香久山、香具山と呼ばれる大和三山の1つ。他の二山が単独峰であることに比して香久山は多武峰から続く竜門山地の端にあたる。古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち最も神聖視された。山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)神社、山の北麓には櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、東麓には万葉歌碑の多い「万葉の森」がある。 |
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天香山神社の鳥居 正しくは天香山坐櫛真命神社というらしい |
天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)の祭神は、櫛真智命神(くしまちのみことのかみ) 拝殿の扁額を新調したらしい |
拝殿扁額を新調したことを宮司が謹言している |
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天香山神社の境内に建てられた欽明天皇の万葉歌碑 ただ大和の国を褒めているのではなく、舒明天皇の国見の歌である。 |
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天香山神社の境内にもう1つあった柿本人麻呂の万葉歌碑 |
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山頂付近は迷いやすい | 香具山の山頂に国常立神社がある |
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香具山の東側の「万葉の森」の中にある、山上憶良の万葉歌碑 |
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大伴家持の万葉歌碑 他に沢山歌碑があるはずだが、予定時間が大幅に過ぎたので、残念だが先を急ぐ。 |
雷丘から飛鳥川河畔へ |
雷丘(いかづちのおか)は、明日香村大字雷にある標高110mほどの丘。「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」という柿本人麻呂の歌が残っている。この辺りの飛鳥川河畔は万葉歌碑が多い。 |
A | A | |||
雷丘は、明日香村大字雷にある標高110mほどの丘 | 雷丘を望む場所に柿本人麻呂の万葉歌碑がある |
A | ||||
甘樫の丘の麓を流れる飛鳥川河畔には いくつかの万葉歌碑がある。 川の向うは、甘樫の丘。 |
作者未詳(元明天皇)の万葉歌碑 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ (大意)飛ぶ鳥の明日香の里を後にしていったなら、君のいるあたりを目にすることが 出来なくなってしまうかも |
A | ||
上古麻呂の万葉歌碑 |
甘樫の丘 |
甘樫丘(あまかしのおか)は、明日香村にある標高148m、東西数百m、南北1kmほど広がる丘陵である。丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側には甘樫丘展望台が整備されており、明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むことができる。 2007年に東麓遺跡において7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。大化の改新以前には蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。 |
A | ||
甘樫の丘に志貴皇子の万葉歌碑がある。この歌碑は大阪大学名誉教授で文化功労者の犬養孝先生の生誕百年を記念して設置されたもの。 |
A | ||
甘樫の丘から見える耳成山(左)と香久山(右) | 畝傍山(手前)と二上山(背後) |
甘樫の丘から東方を眺める 遠方の山は左から音羽山、経ヶ塚山、熊ヶ岳の音羽三山 手前中央に飛鳥寺 |
吉野川分水東部 |
かねて国土地理院地形図で飛鳥盆地を調べていて、「吉野川分水東部」というものを見つけた。吉野川は四国の吉野川との混乱を防ぐため紀ノ川ともいわれる。吉野川分水は吉野川から奈良盆地へ水を送る国の事業であることが分った。 |
分水界(囲まれた範囲が河川の流域) 県境 (上の地図は国土地理院のデジタル標高地形図「近畿」を改変したもの) 大和川水系と紀ノ川水系の流域を調べてみると、大和川の流域は雨が少ない(大和盆地の年間平均雨量:約1300㎜)。 一方吉野川(紀 ノ川)の流域は雨が多い(吉野川流域の年間平均雨量は2000㎜~4000㎜) この吉野川の水をなんとか大和盆地へ引けないものか・・・・ |
A | ||
吉野川分水東部を地図上で発見した国土地理院地形図 | 現地に掲げられた説明板 |
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3.しばらくは開渠(かいきょ)だが、 やがて暗渠になって大和盆地北部へ |
2.川の立体交差、四角い断面の管は暗渠の続き |
1.吉野川からここまで暗渠(水路 トンネル)で送られてくる |
石舞台古墳 |
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な花崗岩の石組みを用いた横穴式石室が露出している。その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3kmの多武峰のふもとから運ばれた。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。 |
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現地にあった説明板 | 見学する子供達 |
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古墳の羨道を入る | 古墳の内部(玄室)の天井は結構高い |
奥飛鳥を訪ねる |
奥飛鳥(おくあすか)とは明日香村の大字「稲淵」「栢森(かやのもり)」「入谷(にゅうだに)」の三集落周辺を指す。奈良県道15号桜井明日香吉野線沿道の飛鳥川流域に点在する農地・森林・住居などの景観が文化財保護法に基づく重要文化的景観に選定されている。 |
マラ石 |
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明日香村にある謎の石造物マラ石 子孫繁栄や農耕信仰に関係すると考えられる |
飛鳥稲淵宮殿跡 |
飛鳥稲淵宮殿跡は、明日香村大字稲淵に所在する飛鳥時代の宮殿跡である。『日本書紀』孝徳天皇の653年(白雉4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)が難波宮から飛鳥宮に帰り、一時期過ごした「飛鳥川辺行宮」にあてる説があるが、なお、今後の検討が必要とされている。 発掘調査は、1976年と1977年に、奈良国立文化財研究所によって行われ、遺跡は南北約170m、東西約60mの広さであることが判明した。主な遺構は、東西棟2軒、南北棟2軒の計4軒の大規模な掘立柱建物と建物の間に敷き詰められた石敷きである。建物の年代は、出土土器などから7世紀中頃に造営され、同世紀末に火災により焼失したことが分かる。 |
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飛鳥稲淵宮殿跡の飛鳥川河畔に建つ作者未詳の万葉歌碑 : 明日香川 七瀬の淀に住む鳥も 心あれこそ 波立てざらめ (大意) 明日香川の七瀬の淀に住む鳥も、心があるからこそ、波を立てないのでしょう。 あなたのことを深く想っているからこそ、噂が立たないように静かにしているのですよ。 |
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史跡 飛鳥稲淵宮殿跡の碑が立っている | 現地は、今はやや傾斜した棚田になっている |
現地に建てられた説明板 |
棚田風景 |
道路から眺める棚田風景、中央で屈曲しているのが飛鳥川 |
男綱(おとこづな) |
稲渕の棚田の少し先に「男綱」があり、そこからさらに2kmほど南下しところの栢森集落に掛けられているのが「女綱」である。この綱掛けは勧請縄といい、この地域だけでなく日本中で見ることが出来るが、今もこの綱掛けをしている所は少ない。 五穀豊穣、子孫繁栄を祈り、さらに飛鳥川を伝って疫病が入りこまないようにするための綱掛神事である。 |
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飛鳥川を跨いで男綱が架けられている | 勧請橋の欄干に、「南淵請安先生講義図」というレリーフが嵌められている |
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男綱には男性のシンボルが架けられている。 |
飛鳥川万葉の飛び石 |
奥飛鳥に来たらぜひお目にかかりたいものの1つである。 また、万葉歌がいい。 『石橋(飛び石)の 遠き心は 思ほえぬかも 』、 こんな表現は現代人にはできない。 |
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有名な飛鳥川の飛び石 |
すぐそばに板橋があるから、 今では飛び石を通らないで渡れるが・・・ |
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飛び石の傍に建てられた作者未詳の万葉歌碑 : 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも (大意) 明日香川を明日も渡って逢いに行きましょう。私の心は石橋のように飛び飛びじゃなくて、ず~と貴女のことを思っていますよ。 |
南淵請安の墓 |
南淵請安(生没年不詳)は飛鳥時代の学問僧。大和国高市郡南淵村漢系渡来氏族出身の知識人。 608年(推古天皇16年)、遣隋使小野妹子に従い留学僧の一人として隋へ留学する。32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して、640年(舒明天皇12年)に帰国。隋・唐の進んだ学問知識を日本に伝え、開塾した。 中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の中臣鎌足、藤原氏の祖)は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられる。請安が伝えた知識が大化の改新に与えた影響は大きいが、彼自身は新政府に加わっておらず、これ以前に死去したものと思われる。明日香村稲渕の談山神社に南淵請安の墓とされる明神塚がある。 |
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石の鳥居が立ち立派な祠がある | 祠の裏手にある南淵請安の墓(撮りそこなったのでWebsiteから) |
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社 |
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)は、大字稲淵・栢森・入谷・畑の氏神で延喜式内社。祭神は宇須多伎比売・ 神功皇后・応神天皇。本殿はなく、拝殿後方の南淵山をご神体とする原始神道の神社。 |
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飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の境内に行くには200段の石段を登らなければならない。 朝から歩き続けて疲労困憊、神社の参拝を諦め、タクシーを呼んで、奥飛鳥を先へと進むことにする。 |
女綱(めづな) |
稲淵の男綱に対して、飛鳥川上流の栢森には女綱がある。いずれも、子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに川を通って悪病が侵入するのを防ぐものである。男綱の神事が神式であるのに対して、女綱は仏式で行うという。 |
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現地の説明板 | 栢森の女綱 |
栢森(かやのもり)集落 |
タクシーを利用して、国選定の重要文化的景観の1つになっている奥飛鳥の栢森集落(標高290m)まで行った。最奥の入谷集落(標高350~430m)には時間の都合で行けなかった。これより先は奈良県吉野町である。後に天武天皇となった大海人皇子が壬申の乱の前に吉野に身を潜め、平家を討った源義経が兄頼朝に追われて吉野に逃げ込み、北条幕府を倒して建武の中興を遂げた後醍醐天皇が南朝の拠点として選んだのもすべて「吉野」である。 |
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柏森の壽亀山鳳来院龍福寺は浄土宗の寺 | 大きな石垣のある栢森集落 |
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栢森の集落には大和棟の住居もあり、奥飛鳥の文化的景観である |
奥飛鳥の棚田風景 |
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桜井から呼び出したタクシー運転手が案内してくれた | 桜井駅前の宿 「とみやま館」 |
6日目 4月8日(日) |
桜井の宿→香芝市総合体育館・中央公民館→二上山博物館→二上山登山→大阪→横浜(帰宅) |
今日は、万葉歌碑のある香芝市総合体育館・中央公民館を訪ね、次いで二上山博物館を見学し、最後に二上山を登り、大阪経由で横浜の自宅に帰る一日である。 |
香芝市総合体育館・中央公民館 |
香芝市の総合体育館と中央公民館は、二上山の麓にあり、 いくつかの万葉歌碑が建てられている。 |
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香芝市総合体育館と隣接した中央公民館には、いくつかの万葉歌碑がある。 |
大伯皇女の万葉歌碑 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (大意) 生きてこの世に残っている私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めよう。 謀反の疑惑をかけられ自害した大津皇子の遺体は大和盆地の西の端にある二上山に埋葬された。 この歌は大伯皇女が、藤原京から弟の大津皇子が眠る二上山を眺めて詠んだ歌である。 |
大津皇子の万葉歌碑 あしひきの 山のしづくに 妹待つと我立ち濡れぬ 山のしづくに (大意)あしひきの山の雫に君を待ち続けて僕はずぶ濡れに なってしまったよ。 この歌は大津皇子が恋人の石川郎女に贈った恋歌である。 これに対して石川郎女が大津皇子に贈った返歌がある: 吾を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを (大意)私を待ってあなたが濡れたという山のしずくに私もなり たいものだわ |
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額田王の万葉歌碑 : あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (大意) 紫草の生えた野を、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら そんなことをなさって。野の番人に見られてしまうではないですか、 あなたが私に袖を振るのを。 |
天武天皇(大海人皇子)の万葉歌碑 : 紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも (大意) 紫草のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、 どうして私はあなたのことをこんなにも恋しく思うのでしょうか。 額田王の歌に対する返歌で、「相聞」でなく「雑歌」に納められている |
二上山博物館 |
二上山博物館は、奈良県香芝市の二上山の山麓にある。この博物館の特徴は、千数百年前に噴火した二上山の産物、サヌカイト、凝灰岩、金剛砂に関する展示である。 |
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二上山博物館の外観 | 二上山の四季というパネル展示がある |
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サヌカイトは安山岩の一種で、1891年にドイツ人のワインシェンクが香川県の讃岐国に因んで名付けたもの。 サヌカイトはガラス質で、ナイフ形石器の材料に利用された。二上山麓には後期旧石器時代の遺跡が70か所もある。 |
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凝灰岩は、火山噴出物が地上や水中に堆積してできた岩石である。 古墳時代には、藤ノ木古墳などの石棺に、飛鳥・奈良時代には寺院の礎石など、平安時代以降は燈籠などに利用された。 |
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金剛砂は、不純物の多い砂質のコランダム(鋼玉)、またはガーネット(ざくろ石)を粉末にしたもので、 研磨剤に用いる。純粋なものは宝石となる。 |
二上山登山 |
二上山は、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある双耳峰である。因みに、古代には「ふたかみやま」と読まれたが、現在は「にじょうざん」と読まれることが多い。 |
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近鉄南大阪線の二上山駅から登山 | ミツバツツジであろうか |
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大津皇子(天武天皇皇子)の二上山墓 | 葛木坐二上神社(かつらぎにいますふたかみやまのみやしろ) |
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三等三角点 |
雄岳山頂にある日時計 |
作者未詳の万葉歌碑があった (大意)大坂を私が越えてきたら、二上山には時雨の中を もみじの葉が流れていました |
雄岳山頂から眺める大和盆地 (左から、音羽岳、経ヶ岳、熊ヶ岳、竜門岳、手前は中央は大和三山の1つ畝傍山) |
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タチツボスミレだろうか |
高市皇子の万葉歌の標識があった 文字通りの解釈のほかに、「亡くなった皇女の生命を復活させる泉に 水を汲みに行きたいのだが、その道がわからない」という解釈もあるという |
雄岳から雌岳を経て東側に下山すると鳥谷山古墳がある。一辺が約7mの四角形の古墳。 大津皇子の墓は二上山雄岳山頂にあるとされているが、 鳥谷口古墳が大津皇子の墓の可能性が高いという。 |
さらに東へ下ると、當麻寺(たいまでら)がある。7世紀創建の寺院で、創建時の本尊は弥勒仏であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅である。當麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と當麻曼荼羅の寺として知られるようになる。本堂、塑造弥勒仏坐像、當麻曼荼羅図などが国宝に指定されている。 |
この後、當麻寺から当麻寺駅まで歩き、近鉄南大阪線で大阪阿部野橋に行き、 新大阪を経て横浜の自宅に帰った。5泊6日の長い旅であった。 |
非常に長い 「難波と飛鳥 ---- 古代の宮跡、陵墓、大和川、飛鳥と奥飛鳥、二上山の旅」 をご覧下さって、 有難うございました。 今回訪ねられなかったところは、下記をクリックすると私の過去のホームページでご覧になれます。 葛城と河内の古墳群 --- 百舌鳥古墳群、古市古墳群など 山の辺の道--- 纏向遺跡、景行天皇陵、石上神宮など 大和路(1) --- 平城宮跡・奈良公園・西ノ京 大和路(2) --- 聖徳太子ゆかりの地、斑鳩 大和路(3) --- 万葉のふるさと、藤原・飛鳥 82歳の体力を考えると予定したコースを6日で巡ることは日程的に厳しく、一部は省略せざるをえなかった のは残念でした。 末筆ですが、国土交通省河川事務所「亀の瀬地すべり資料館」の見学でお世話になりました八木啓太氏に お礼申し上げます。 |
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