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世界遺産 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』
新原・奴山古墳群、宗像大社辺津宮、宗像大社中津宮(大島)、宗像大社沖津宮(沖ノ島)、志賀島、福岡市博物館


 日本のユネスコ世界遺産(文化遺産)は、2018年5月現在で22ある。その中の1つが、2017年に登録された 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』 である。ぜひ訪ねたいと思いつつ今まで果たせなかった。

 世界遺産といえば、ユネスコの世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) が推薦して決定されるので、「神道」や「自然崇拝」といった先進諸国には分り難い遺産価値を有する 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』 が認められるのは困難だろうと思っていた。ところが、航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価され、登録された。

 この世界遺産は、宗像市にある 沖ノ島(宗像大社沖津宮)、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、福津市にある新原・奴山古墳群などから構成される。このうち 沖ノ島には、4世紀後半から約500年間にわたり、ヤマト王権による国家的な祭祀が執り行われた遺跡がある。出土した約8万点の遺物は全て国宝に指定され、「海の正倉院」と呼ばれているが、研究者以外には禁足の島である。

 今回参加したユーラシア旅行社主催のツアーでは、沖ノ島を除くすべての世界遺産の構成資産を見学し、禁足の沖ノ島は船から眺めることができる。世界遺産には含まれていないが、「漢委奴國王」と刻された金印が発見された志賀島を訪ね、金印が収蔵されている福岡市博物館を見学する。日本の歴史と文化・考古学ファンには垂涎の旅である。  (2018年5月)

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          「神宿る島」沖ノ島
沖ノ島は九州本土から約60km離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4kmの孤島である。4世紀後半から約500年間にわたり、ヤマト王権による国家的な祭祀が執り行われた遺跡がある。出土した約8万点の遺物は全て国宝に指定され、「海の正倉院」と呼ばれている。
 
 
 

 
 
 

旅行の全図
1日目:新原・奴山古墳群、宗像大社(辺津宮)、 2日目:大島(中津宮)、沖ノ島(沖津宮)、 3日目:志賀島(金印公園)、福岡市博物館



1日目
5月30日(水)
 羽田空港福岡空港原・奴山古墳群宗像大社辺津宮海の道むなかた館宗像のホテル(泊)

福岡空港に着いて、世界遺産構成資産の1つである福津市にある「新原・奴山古墳群」、次にこれも構成資産の1つである「宗像大社辺津宮」、最後に宗像市郷土文化学習交流館「海の道むなかた館」を訪ねた。

羽田空港から福岡空港へ

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羽田空港発福岡空港行ANA243便 ボーンング787機



新原・奴山古墳群

一番最初に訪ねたのが、世界遺産 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』 の構成資産の1つ 「新原・奴山古墳群」である。「新原・奴山古墳群」は、海を越えた交流に従事し、沖ノ島祭祀を担った古代豪族である宗像氏が、5世紀から6世紀にかけて築いた古墳群である。かつての入海に面した台地上に、前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基からなる計41基の古墳が良好な状態で残されている。

世界遺産 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』 の構成資産の1つ、「新原・奴山古墳群」の全体地図

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上の地図の展望所から眺める「新原・奴山古墳群」の一部 右遠方に見える山が大島

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34号円墳 30号前方後円墳

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21号墳の上に建つ新原の百塔板碑

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12号前方後円墳 20号円墳

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24号前方後円墳



ユネスコ世界遺産:「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群とは

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、ユネスコの世界遺産リスト登録物件で、日本の世界遺産の中では21番目に登録された。福岡県の宗像市及び福津市内にある宗像三女神を祀る宗像大社信仰や、大宮司家宗像氏にまつわる史跡・文化財を対象とするものであり、自然崇拝を元とする固有の信仰・祭祀が4世紀以来現代まで継承されている点などが評価されている。世界遺産委員会では、航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価されたという。世界遺産暫定リスト記載時点では宗像・沖ノ島と関連遺産群だったが、正式推薦とともに改称され、その名称で正式登録された。

構成資産

宗像市
沖ノ島(宗像大社沖津宮)
「宗像神社境内」として島全体が御神体で国の史跡に指定、「沖ノ島原始林」が国の天然記念物に指定。また、「福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」として約8万点の出土品が国宝に指定されており、「海の正倉院」とも呼ばれる由縁となっている。正式版の推薦書では、島の手前にある小屋島・御門柱・天狗岩の三つの岩礁が鳥居の役割を果たしているとし、付帯施設として記載された。
宗像大社中津宮(御嶽山祭祀遺跡を含む)
宗像市大島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定、本殿は福岡県の有形文化財に指定。中津宮背後に聳える御嶽山山頂に鎮座する御嶽神社の裏で確認された御嶽山祭祀遺跡は沖ノ島と同時期の露天祭祀遺構である。
沖津宮遥拝所
宗像市大島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定。
宗像大社辺津宮
宗像市田島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定、本殿及び拝殿は国の重要文化財に指定。境内背後にある高宮祭場の地中にある下高宮祭祀遺跡は沖ノ島および御嶽山祭祀遺跡同様の露天祭祀遺構である。

福津市

新原・奴山古墳群
宗像大宮司を務めた宗像氏に関わる古墳とされ「津屋崎古墳群」の一部。国の史跡に指定されている。

登録への経緯

2000年代初頭、宗像大社の氏子を中心とする地域住民が世界遺産を目指す市民運動を起こした。この時点では沖ノ島のみを対象とし、仮称として「沖ノ島祭祀遺跡」を用いていた。2006年度と2007年度に、文化庁は各地方自治体から世界遺産暫定リストに加える候補の提案を受け付けた。当初の記載名称は「宗像・沖ノ島と関連遺産群」であった。

2016年1月に「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(Sacred Island of Okinoshima and Associated Sites in the Munakata Region) の名称で文化庁から正式推薦された。その後2017年5月に世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、沖ノ島および周辺の3岩礁のみに、古代祭祀に関する考古学的観点からの顕著な普遍的価値を認める一方、宗像大社の信仰上の価値などは日本国内レベルでの価値にとどまるとして、沖ノ島と3岩礁以外の構成資産の除外を条件に「登録」を勧告し、あわせて名称を「『神宿る島』沖ノ島」(Sacred Island of Okinoshima)とすることなども勧告した。

ICOMOSの勧告に対しては、、文化庁からは逆転登録に向けた前途の厳しさを指摘する意見も出ていたが、地元の意向にも配慮し、政府は8件全てでの逆転登録を目指すことになった。

世界遺産委員会での状況

世界遺産委員会の審議では、インドネシアが「沖ノ島(沖津宮)と中津宮および本土の辺津宮(宗像本社)は全体的に融合しており不可欠だ」、ベトナムが「資産一つひとつが価値を高める」など委員国から8件全ての価値について好意的な意見が示され、日本の発言も認められ佐藤地ユネスコ大使が「沖ノ島の祭祀遺跡が守られてきたのは宗像信仰という神道形態に発展し神域になったからこそで、その信仰は自然崇拝の時代から連綿と続いており、神道としても海神・海洋信仰が継承されており切り離すことはできない(意訳)」という見解(文化庁による)を表明。

「神宿る」をキリスト教的な「God dwell」ではなく「Sacred」としたのは民俗学的な慣用句であり、現地視察したイコモス調査員も用いていたことに配慮したもので、推薦書や委員会での発言では単に「Shintoism(神道)」や「Shinto shrine(神社)」といった単純な言葉ではなく、「find their origins in ancient nature worship faith(古来の自然崇拝に由来する信仰)」のように丁寧な解釈に努めユネスコが重視する「自然の聖地」であることを強調、その上で「アニミズム」や「スピリチュアル」などの身近で馴染みのある単語を織り交ぜて説明した。

日本は委員会開催前の6月に委員国の内11ヶ国のユネスコ大使を招聘し、宗像大社や同神宝館蔵の沖ノ島出土遺物(国宝)を案内したり、葦津敬之宮司の「神道は自然を神様とするエコロジカルな宗教で環境破壊は神殺しとなるため、現代社会に求められる自然保護を必然としてきた。一神教は対立軸による軋轢をもたらしているが、多神教やアニミズムに基づく民族信仰はその地域の外へ出ること(布教)を想定しておらず、性善説に基づき安寧(平和)を祈願している」という主張などを紹介した。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値
   の重要な交流を示すもの。

 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
                                                                    wikipediaを改変した




宗像大社辺津宮

次に訪ねたのが、世界遺産構成資産の1つ「宗像大社辺津宮」である。宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い。辺津宮は、本殿のほかに第二宮、第三宮、高宮祭場、神宝館などからなる。

三社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神と総称する。
 沖津宮(おきつぐう)  :  田心姫神(たごりひめ)
 中津宮(なかつぐう)
  :  湍津姫神(たぎつひめ)
 辺津宮(へつぐう)   :  市杵島姫神(いちきしまひめ)

天照大神が国つくりの前(天孫降臨より以前)、この三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓(うけい)の結果から生まれたという。この三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」との神勅が示された。(日本書紀)

宗像大社辺津宮境内配置図

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宗像大社辺津宮の大鳥居(第一鳥居)から境内へ
 
境内から外を振り返る。この先に大島(宗像大社中津宮)が、さらに先に沖ノ島(宗像大社沖津宮)あるという。

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神門を潜り拝殿へ
 
向って右側の青銅狛犬、実は盗難にあった。全体ではなく
尻尾だけ切り取られ、明治に修復されたと、彫られている。

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拝殿の三十六歌仙篇額は黒田藩第三代藩主黒田光之が、延宝8年(1680)に辺津宮に奉納したもの
 
拝殿正面奥の扁額
「奉助天孫而 為天孫所祭」
日本書紀に記載された神勅は、「汝三神、宜しく、道中(みちなか)に
  下りまして、天孫を助け奉り天孫に祭(いな)かれよ」とある

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(左)拝殿、(右)本殿 (共に重要文化財
 
本殿の扁額
 
千木は外削ぎ(地面に対して垂直)になっているが、実は女神

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この楢(なら)の木は種名ナラガシワらしく樹齢550年、宗像大社のご神木

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どこかで見た神社のようだ。その筈、伊勢神宮の第60回式年遷宮(昭和48年)に際し、特別に下賜されたたもの。
(左)第二宮は田心姫神を祀る沖ノ島沖津宮の分室、 (右)第三宮は湍津姫神を祀る大島中津宮の分室

現地に掲げられた説明板

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境内の最奥にある高宮祭場への長い石段を上る

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高宮祭場は、凛とした神聖な雰囲気に包まれている。
神籬(ひもろぎ、神霊を招くための神聖な場所)を、依代(よりしろ、神霊が降臨する拠点)としており、
社殿が建てられる以前の神社祭祀(庭上祭祀)が継承されている。



神宝館

神宝館は、宗像大社の本殿脇にあり、昭和29年から三次に亘る沖ノ島古代祭祀遺跡の学術調査で発掘された4~10世紀頃のものと見られる12万点もの奉献品を収蔵・展示するために開館された。沖ノ島祭祀遺跡出土品約8万点が国宝に指定され、その他の展示品についてもそのほとんどが重要文化財として指定されている。
出土神宝は、古代における我が国の対外交渉を反映する銅鏡、武器、工具、装身具、馬具、金属製雛形品、滑石製品、土器、貝製品などで質・量ともに他を凌駕する。 
館内は撮影禁止のため、以下の写真はすべてwebsiteから引用

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神宝館入口 金製指輪(国宝) 三角縁神獣鏡(国宝)

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金銅製龍頭(国宝) カットグラス碗片(国宝)

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唐三彩長頸瓶口頭部分(国宝) 奈良三彩小壺(国宝) 金銅製高機(国宝)

宗像大社と出光佐三
出光興産の創業者、出光佐三は旧宗像郡赤間宿の出身で、幼少より宗像大社を崇敬していた。1937年、邊津宮に参拝した折に神社の荒廃を嘆き、1942年に「宗像神社復興期成会」の結成を呼び掛け、初代会長に就任。戦中・戦後の活動停止を経て、1969年に宗像大社復興期成会に改組した。辺津宮本殿や拝殿の修復など佐三の寄進によるところが大きいが、本人が畏れ多いと辞退したため境内にその名を示す痕跡は永く無かったが、現在は祈願殿二階などに佐三を顕彰する展示が為されているという。 東京にある出光美術館は佐三が収集した美術品を展示する美術館で、宗像・沖ノ島展などの特別展を定期的に開催する。



海の道むなかた館

宗像大社辺津宮第1駐車場に隣接する「海の道むなかた館」(宗像市郷土文化学習交流館)は、市内の遺跡から見つかった貴重な出土品をはじめ、「交易・交通・民衆の生活」に関する資料などが展示されている。3Dメガネを着けて、シアター画面に臨むと、世界遺産登録の中心遺跡、海の正倉院と呼ばれる「沖ノ島」を音と映像でリアルに体験できる。

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「海の道むなかた館」の外観
 
発掘された
銅戈(どうか))
海外交易の広がりと発展
 



宗像のホテル

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宿泊したロイヤルホテル宗像 ホテルの中庭 ホテル附属のプールとチャペル



2日目
5月31日(木)
 宗像のホテル大島(宗像大社中津宮、沖津宮遥拝所)沖ノ島クルーズ(宗像大社沖津宮を臨む)宗像のホテル(泊)

今日は、フェリーで大島に渡り、宗像大社中津宮と沖津宮遥拝所を訪ねる。その後、海上タクシーで沖ノ島一周の船旅に出る。沖ノ島には宗像大社沖津宮があるが、上陸は許されない。

大島

大島は九州本土の神湊港から約6.5kmの場所に位置する。面積は7.17km2、最高峰は御嶽(みたけ)で標高224m。宗像大社中津宮、沖津宮遥拝所などがある。

宗像大社中津宮

宗像大社中津宮には、宗像三女神の中の「田心姫神(たごりひめ)」が祀られている。また鎌倉時代まで遡ることができる七夕伝説発祥の地といわれている。

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宗像市神湊(こうのみなと)へは、フェリー「おおしま」 (198総トン、旅客定員245名、乗用車11台)で行く。所要時間約25分

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大島港に着く、鳥居が見える
鳥居の扁額は「中津宮」、柱には戦役紀念・明治三十七八年とある。
日露戦争は明治三十七年に開戦し三十八年に終戦した。

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参道の右手に牽牛神社 左手に織女神社があり、その間を天の川が流れている

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参道の石橋を渡り長い石段を登ると神門が 神門を潜ると、左が本殿、右が拝殿

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拝殿の正面
赤い灯篭には、東郷平八郎の揮毫「神光照海」
ここにも辺津宮と同じ神勅
「奉助天孫而 為天孫所祭」
楢の葉紋のついた賽銭箱
 

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イチョウの大木は御神木か
 
本殿の裏にバクチノキ
(博打に負けて丸裸?)
境内に多い小豆石(あずきいし)
紅簾片岩系の母岩にマンガン鉱の混じったもの



沖津宮遥拝所

沖ノ島から約48km離れた大島の北端に設けられた遥拝所がある。

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沖津宮遥拝所は大島の高台にある 鳥居を潜ると遥拝所の社殿がある

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毎年春秋の沖津宮大祭の時には
この社殿の扉が開かれ遥拝される
よく晴れて空気の澄みきった日には水平線上に浮かぶ沖ノ島を望むことができるという
 

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慶應三年の燈籠には、「瀛津宮」、「筑前宰相源朝臣齋溥賢獻」などと彫られている

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中津宮の前は野草が茂る タイトゴメ(大唐米)

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カタバミ オオニワゼキショウ セイヨウタンポポ ミドリハコベ

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ノアザミ ミヤコグサ チガヤ ハマユウ(浜木綿)
花の名前は、横浜国立大学名誉教授 大野啓一先生に教えて頂きました
 

大島交流館と「夢の小夜島」

大島交流館は3階建で、宗像市が島の歴史を紹介する資料館を改修。島内の中津宮と沖津宮遥拝所を紹介するほか、約49km離れた沖ノ島に船で近づく様子や、沖ノ島の古代祭祀遺跡の映像を上映している。

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大島交流館
 
みあれ祭は、毎年10月1日の宗像大社秋季大祭の最初に行われる海上、航海安全や
大漁などを願って行われる祭礼である。  朝日新聞デジタルより

大島交流館に展示された「大島の七夕伝説」

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誰もが安心して遊べるよう整備された人工の「かんす海水浴場」が、大島交流館の前に広がる。
「夢の小夜島」は室町時代の連歌師・飯尾宗祇の『筑紫道中記』にも歌われた島だという。

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昼食は民家風の食事処で 美味しい「魚尽くし」を頂いた



沖ノ島クルーズ (宗像大社沖津宮を臨む

大島から海上タクシーで沖ノ島一周の船旅に出る。沖ノ島は、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つである。宗像大社沖津宮は、島の南西部、標高75~85m付近の巨石群が密集する黄金谷と呼ばれる場所に鎮座し、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る。沖ノ島は「神の島」と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日に日本海海戦を記念して開かれる現地大祭以外は上陸を基本的に認められず、その数も200人程度に制限されてきた。世界遺産登録に際して、島への接近・上陸対策の強化をユネスコから要請されたため、2018年からは研究者らを除く一般人の上陸が全面禁止されている。

旧社務所跡地での発掘調査で出土した土器や石器から、縄文時代前期には漁民らが上陸し、ニホンアシカ猟の漁業基地として使用していたことが確認された。沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から古墳時代前期、4世紀後半頃と推測される。391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている。祭祀の終了は9世紀末頃とみられ、894年に遣唐使が廃止されたことや神道・神社の形式が確立したこと、仏教による鎮護国家の比重が増えたことなどとされる。幾度かの発掘調査が行われ、沖津宮社殿周辺の巨石に寄り添う23の古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物(全てが国宝に指定)が出土した。しかし学術調査されたのは祭祀遺跡の3割に過ぎず、多くは手付かずの状態で残っている。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称される。

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九州、大島、沖ノ島の位置関係。大島・沖ノ島間は約49km
 
沖ノ島は九州本土から約60km離れた
玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4kmの孤島

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大島漁港から海上タクシーで沖ノ島漁港沖まで1時間10分、
さらに沖ノ島を一周して帰路は大島に寄らず九州本土の
神湊漁港まで往復で3時間の船旅
大島漁港の突堤で釣りを楽しむ人
 
 

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沖ノ島が見えてくる
 
沖ノ島の鳥居の役割をするという3つの岩礁を通り向け、振り返る
左から天狗岩、御門柱、小屋島

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沖ノ島漁港沖から沖津宮の鳥居と沖ノ島灯台が見える
沖ノ島の最高峰は灯台のある付近の一ノ岳で標高243.5m
沖津宮の鳥居
 
沖ノ島灯台
 

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沖ノ島を一周すると、いろいろなものが見られる
風化でできたタフォニ
激しい地殻運動「傾動」の跡
 
垂直な割れ目は何だろうか
 

                      沖ノ島の地質
沖ノ島は新生代新第三紀中新世(2303万~533万年前)の地殻変動に伴い海底岩盤が隆起したものが原形とされ、中核部は主として石英斑岩からなる。第四紀更新世(258万年~1.2万年前)の最終氷期に日本列島がユーラシア大陸と陸続きであった時期、島の原形も陸地の一部(山)となり土壌が堆積。完新世(1万1700年前~)に氷河期が終わり海面上昇で対馬海峡や日本海が形成されたことで玄界灘の孤島が形成され、造山運動で海底に堆積していた対州層が周辺海域での火山活動で噴出し島の表面に露出する泥岩となった。 Wikipediaより

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沖ノ島を一周した後、再び鳥居の岩礁を抜けて帰路に就く 次第に遠くなる沖ノ島



3日目
6月1日(金)
 宗像のホテル志賀島(志賀海神社、金印公園、蒙古塚)福岡市博物館福岡空港羽田空港

今日は、世界遺産 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』 と直接の関係はないが、金印が発見された志賀島と、その金印が所蔵されている福岡市博物館を訪ねる。

志賀島

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今日訪ねるのは、志賀島と福岡市博物館 志賀島は観光バスで一周する

志賀海神社

志賀島へは「海ノ中道」を通って陸路で行く。先ずは志賀海神社へ。志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したという。

祭神は、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ) 、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ) 、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の綿津見三神(わたつみさんしん)で、記紀においては阿曇氏(あずみうじ、安曇氏・阿曇族・安曇族)の祖神または奉斎神とされている。

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二の鳥居を潜り、志賀海神社の境内へ
 
 
 
万葉歌碑 : ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも
               われは忘れじ志賀の皇神 ( 詠み人知らず)
(大意) 波のおそろしい鐘の岬(宗像市鐘崎)を過ぎてしまっても、
      私は海の守り神である志賀の神様のことを決して忘れない

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参道に立つ宝篋印塔(ほうきょういんとう、県有形文化財)。宝篋印塔とは仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、当塔は南北朝時代の貞和3年(1347年)の銘を持ち、完存では福岡県内最古である。 楼門
 
 

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石橋と楼門
 
亀石として神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后の前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある

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拝殿に掲げられた扁額
 
拝殿
 
鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている



金印公園

金印公園は天明4年(1784)、志賀島の農民甚兵衛が、大石の下から「漢委奴國王(かんのわのなのおくおう)」と刻された金印を発見したと伝えられる所である。全面再整備を行い、平成30年3月18日より開園したばかりである。展望広場には金印のレプリカを用いたモニュメントが設置され、園内にスロープの園路が整備されている。 また、郭沫若(かくまつじゃく)の詩碑、福岡市・広州市の友好都市締結1周年を記念した楊尚昆の詩碑があり、2000年前から現代までつづく大陸との交流を示している。

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全面再整備され開園したばかりの金印公園 漢委奴國王金印発光之処」の碑

現地に建てられた案内板はなかなかよくできている

これも現地に建てられたもの

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福岡と関係の深かった中国の古代史家で文学者でもあった郭沫若の詩碑 友好都市である広州市から福岡にやってきた楊尚昆主任の詩碑

能古島を望む展望公園に展示された「漢委奴国王」と陰刻された金印の印面は、漢字が読めるように左右を逆にした模型である



蒙古塚

文永11年(1274年)10月20日、対馬と壱岐を攻め尽くした元と高麗の連合軍が博多に来襲した。世に言う元寇である。時の鎌倉幕府は西国の御家人を中心に敵軍を迎え撃つが、苦戦し多くの御家人が討たれた。ところが、その夜には連合軍は船に戻って撤退する。そしてそれに追い打ちを掛けるように玄界灘は暴風雨となり、多くの船が沈没してしまった。翌日、志賀島に元軍の船が座礁しており、投降してきた兵を生け捕りにしてその首を刎ねたという。その数は約220名に及んだとされる。このときの処刑の場となった所に蒙古塚が建てられている。

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戦死した蒙古兵士供養のため、昭和3年(1928)に建設された石碑
張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」の碑もあるというが確認できず
平成17年(2005)の「福岡西方沖地震」が発生する前の「旧供養塔」だと思われる。

ホームページ作成後、今回の旅でご一緒だった下田氏から「私は撮ったよ」といって、写真を送って頂いたので、下記に追加掲載する
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張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」の碑。上は中国語、下は日本語訳 日本語訳とは言いながら、浅学の私には十分には理解できない

張作霖(ちょう さくりん、1875年 - 1928年)は、中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。当時の満州の統治者。日本の関東軍は、張作霖を支援して東北国民軍を打倒させることを決定した。しかし辛亥革命によって清朝が滅亡した直後から日本の一部に清朝の王族をかつぐ満蒙独立の動きがあった。そのねらい は満蒙における日本の権益を中国から切り離して温存しようというものであった。この計画の実現に大きな障害となってきたのが満州の実力者張作霖であった。1928年3月の供養碑除幕式には張作霖が祝辞を寄せられているが、除幕式の3ヶ月後には日本の軍人による張作霖爆殺事件が起きて、その責任をとって田中義一内閣は翌年総辞職に追い込まれた。志賀島の蒙古塚は 現代史のモニュメントでもある。



潮見公園

志賀島の最高地点の標高は169mだが、島の中央東寄りの標高150m付近の高台に
潮見公園がある。東側の展望が素晴らしい。

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潮見公園の展望台





万葉歌碑 : 志賀の浦に漁する海人明けくれば
           浦み漕ぐらしかじの音きこゆ ( 詠み人知らず)
(大意)天平8年(736)の遣新羅使一行が、途中筑紫館に滞在して
     いるときに詠んだ歌である。博多湾の志賀の浦で漁をする
     海人も夜が明けると船を漕いで家に向かっているらしい。
     楫の音が聞こえる。今の自分の境遇と比べるとうらやましい
     限りであるといった心情をうかがうことができる。

展望台からの眺め (3枚パノラマ撮影)
志賀島と福岡市をつなぐ「海の中道」といわれる「砂嘴(さし)」を渡って来た。
もともとは志賀島 は文字通り「島」であったが、長い年月の間に砂の架け橋が掛かってしまった。

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休暇村志賀島で昼食 この後、海鮮鍋があったが、撮り忘れた



福岡市博物館

福岡市博物館は以前に見学したことがある。お目当ては、もちろん「金印」である。展示されている「金印」は本物かレプリカか分らないが、関連するパネル展示もよくできている。

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福岡市博物館の玄関、生憎の完全逆光 撮影した金印(国宝)は、残念ながらピンボケ。この写真はwebsiteより引用

  金印の物理的諸元
材質/金
造り/鋳造
総高/2.236cm
鈕高/1.312cm
辺長/平均2.3476cm
質量/108.729g
体積/6.062cm3
比重/17.94
      成分
    金95%
    銀4.5%
    銅0.5%

金印が生み出す秩序  博物館の展示より

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金印発見の物語  博物館の展示より 金印をめぐる論争  博物館の展示より

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博物館を最後に、福岡空港から帰路に就いた ANA265便 B777-200機



ユネスコの世界遺産リスト登録物件で、日本の世界遺産の中では21番目に登録された 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』 をご覧くださいまして、有難うございました。

「神道」や「自然崇拝」といった先進諸国には分り難い遺産の価値を認めた世界遺産委員会に敬意を表したい。
登録への経緯を調べると、航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価されたという。文化庁やユネスコ大使ら関係者の努力が実って、アジア諸国の委員の賛同を得たことも力になったようである。これぞ世界遺産であると思う。

皆さんはいかがでしたか。



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