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東京の島を訪ねて(1) ---- 霊岸島・佃島など
一石橋、常盤橋、貨幣博物館、日本橋界隈、霊岸島、越中堀跡、於岩稲荷田宮神社、
佃島の超高層マンション群、佃住吉神社、名物佃煮屋さん、東京の治水と埋め立の歴史


 歴史的景観は、奈良・京都だけではない。どこの町や村にも歴史を感じさせる景観がある。
特に首都東京が面白い。

 太田道灌が、康正3年(1457年)に江戸城を築城した。天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入城したときは、荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていたという。

 家康は、最初に城の拡充に着手し、建築資材や蔵米などを江戸湾から舟で城に直接運ぶための水路を開き、城の工事で開削した堀の揚土で日比谷の入江を埋め立てた。城の周囲には家臣団の屋敷を配置した。そして、城の常盤橋門外から東の浅草方面へ向かう街道に沿って本町の町割りを行った。

 家康は1603年に征夷大将軍となって幕府を開くと、江戸を全国の政治・経済・文化の中心地にするための本格的都市計画事業を開始した。この事業は「天下普請」と呼ばれ、全国の大名には諸工事「御手伝普請」が賦課された。このとき神田山を掘り崩して砂洲や干潟等の低湿地を埋め立て、浜町から新橋にかけての町々となる広大な市街地を造成した。

 この江戸の都市構造が根本的に改造されるのは1657年の「明暦の大火」だった。この大火は江戸市街のほぼ60%を焼き尽したが、これを機に幕府は、江戸の町を防災都市へと構造的に転換させることにした。この結果、江戸の市街地は大きく拡大して、18世紀以後の100万都市に向かって発展することになった。

 東京の街を散策し、奈良・京都とは異なる近世・近代・現代につながる歴史的景観を楽しもう。
 (2019年2月)
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         佃島の超高層マンション群

 霊岸島を隅田川沿いに南下すると、中央大橋の
 向うに超高層マンションが立ち並ぶ。そこが佃島
 である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


訪問地全図

上の地図をクリックすると、大きな地図になりますので、スクロールしてご覧下さい。ブラウザの「戻る」で元の画面に戻ります。



東京駅から常盤橋へ


東京駅八重洲口

東京駅八重洲口を出て北に向って歩き出し、常盤橋に至る。

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東京駅地下の「銀の鈴」前で待ち合わせ 八重洲中央口を出て常盤橋の方へ           いずれもWEBから入手



一石橋迷子しらせ石標

常盤橋の手前に一石橋の石標がある。ここは、江戸時代は盛り場であった。

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一石橋の石標 一石橋迷い子しらせ石標の説明板



一石橋の親柱

一石橋の由来は洒落ている。江戸時代初期にここに後藤庄三郎と後藤縫殿助が住んでいたので後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けられたという。大正11年に一石橋が花崗岩張りの鉄筋コンクリート橋になったときの親柱が保存されている。

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花崗岩張りの鉄筋コンクリート橋に
なったときの親柱
一石橋の由来が記された説明板
 



常盤橋の親柱と常盤公園の渋沢栄一像

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日本橋川の上を通る首都高、奥の二重橋は常盤橋
 
 
 
常盤橋の親柱
 
 
 
常盤橋公園には、関東大震災で壊れた常盤橋を渋沢栄一記念会が復旧したので、渋沢栄一の像が建っている。

常磐橋 (ときわばし)の復旧工事

常磐橋 (ときわばし)は、江戸時代にはむろん木造の橋だったが、明治10年、廃止された常磐橋門の石垣に使われていた石を流用して石橋に改築。現在では道筋の変化によって、ほんの下流の「常盤橋」(読みは同じだが2文字めが異なる)にその役割を譲っており、この旧常磐橋自体は「記念碑」的な存在としてただ残されている。現在解体復旧工事中。



貨幣博物館

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日銀本店本館は、建築家・辰野金吾の設計で、柱やドームなどのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス建築様式を取り入れた「ネオバロック建築」。生憎外壁改修中。 道路を挟んで日銀本店本館の向かいに建つ日本銀行金融研究所。その2階にある貨幣博物館は、1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館した。

以下の画像は『貨幣博物館 常設展示図録』による。著作権については猶予願いたい。
詳しくは右をクリックして、『貨幣博物館 常設展示図録』をご覧下さい。 ブラウザの「戻る」でお戻りください。
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富本銭(ふほんせん)
日本最古の貨幣
7世紀後半
直径24㎜、4.25~4.59g
和同開珎(わどうかいちん)
(左)銀銭、(右)銅銭
708年発行
直径24㎜、3.75g
慶長小判
慶長6年(1601年)より発行
72×40mm、17.73g、品位85.7%
 
天正長大判
天正16年(1588年)が初鋳とされる
170×100mm、165g、品位75.7%
 

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金本位制とは、金と自国の通貨との交換(兌換)を保証するものである。19世紀後半から20世紀初めにかけて、イギリスをはじめ世界の主要国は金本位制を採用していた。日本も1897年(明治30年)に金本位制を導入した。
しかし日本は世界恐慌が深刻化するなか、1931年(昭和6年)末にイギリスに続いて金本位制から離脱し、管理通貨制度に移行した。
 
第二次世界大戦の戦費や戦後の復旧のための費用を日本銀行券で賄ったため急激なインフレが発生した。1946年(昭和21年)、政府はインフレの進行を抑えるため、それまで流通していた銀行券の通用を停止し、新しい銀行券(新円)による預金の引き出しを制限した。旧銀行券の代りに発行された新銀行券の供給不足を補うため1946年10月までは、「証紙」を貼った旧銀行券を新銀行券とみなし通用させた。
ちょうど小学4年生だった私は、「新円」や「証紙」を覚えている。



日本橋から霊岸島へ


日本橋と東京市道路元標

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日本橋の横にある「東京市道路元標」
 
 
 
道路元標から各地までの里程
 
 
 
明治44年に、現在の日本橋が架橋された際に、その中央に東京市道路元標が置かれ、その後「東京市道路元標」に代って現在の「日本国道路元標」が設置された。



日本橋魚市場発祥の地 と 乙姫広場

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚を荷揚げする「魚河岸」があった。この魚河岸は、大正12年(1923年)の関東大震災後に築地に移り、さらに平成29年豊洲に移り、東京都中央卸売市場として発展した。

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日本橋魚河岸の歴史を示す案内板
 
 
 
日本橋魚市場発祥の地の
記念碑
 
乙姫様の石像の由来は、当時の魚河岸の威勢の良い様子=鯛や鮃の舞い踊り=竜宮城=乙姫様…というイメージから来ているという。



日本橋ダイヤビルディング(旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル)

三代広重が明治13年に「古今東西名所」で描いた煉瓦造りの「江戸橋三菱の荷蔵」が関東大震災で焼け落ちたため、昭和5年に耐震耐火の鉄筋コンクリート造の江戸橋倉庫ビルが建設された。しかし建設以来80有余年が経過したため、平成26年に外観の7割を保存し立て替えられ、地上18階建のオフィスビル「日本橋ダイヤビルディング」として竣工した。

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この建物は、通産省の「近代化産業遺産」、
「東京都選定歴史的建造物」に指定されている
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画面をクリックすると拡大します。ブラウザの「戻る」で元の画面に戻ります。
 
もう少し右から撮れば
比較できてよかった
昭和5年竣工時の江戸橋倉庫ビル
 



兜神社 と 鎧の渡し跡
かぶと       よろい         

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日本の金融取引の中心地日本橋兜町
の守り 神社*
鎧の渡し* の説明板
 
渡し跡を想像させる川岸
 
神社の由緒 : 由緒は古いが創建は新しい
明治4年(1871年)、鎧の渡付近に平将門を奉斎していたとされる鎧稲荷や源義家所縁の兜塚が、鎧の渡と兜橋の中間付近に遷される際、兜神社が創建された。創建当時の御祭神は源義家であったといい、これは兜塚が源義家の奥州征伐時に兜を埋めて造られた、もしくは奥州平定の折に兜を掛けた兜岩に由来する。明治7年(1874年)、源義家の祭祀が廃され、兜町一帯を所有していた三井家が崇敬していた三囲神社の境内摂社・福神社から大国主命と事代主命が勧請された。明治11年(1878年)、東京株式取引所(現・東京証券取引所)の設立に伴い、同取引所が氏子総代となる。

境内には兜岩があり、地名の「兜町」はこの岩に因むといわれている。「兜岩」の由来には諸説あり、源義家が前九年の役に向かう際この岩に兜を掛けて戦勝祈願した、あるいは後三年の役を平定後、凱旋時に兜を埋め塚を造ったのが、いつしか岩に置き換わった、などといわれている。また別説では、平将門を討った藤原秀郷が供養のため兜を埋めて塚を作り、後に岩が残ったとする伝承もある。
*鎧の渡し
「鎧の渡し」は延宝7年(1679年)の絵図にその名が見られる。伝説によると、この付近には大河があり永承年間(1046-53年)に源が奥州平定の途中、ここで暴風に遭い、船が沈まんとしたため鎧を海中に投じて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだといわれる。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている。

明治5年(1872年)に鎧橋が架けられたため、この渡しはなくなった。



東京証券取引所

1949年4月に証券業者を会員とする東京証券取引所として設立。2001年11月に組織変更し、
株式会社東京証券取引所となった。設立以来、大阪証券取引所、名古屋証券取引所と共に
「三市場」と称され、日本を代表する金融商品取引所として日本経済の成長に貢献してきた。
米国ニューヨーク証券取引所、英国ロンドン証券取引所とともに「世界三大市場」とされる。

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テレビでもお目にかかる東京証券取引所の正面 玄関横にある花崗岩製の標識



霊岸島

茅場町から霊岸橋を渡り、霊岸島に入る。霊岸島は東京都中央区隅田川河口右岸の旧町名。現在の町名は新川1、2丁目。江戸時代初期には北の箱崎島 (現日本橋箱崎町) とともに江戸中島と呼ばれたが、新川の開削により分離。地名は寛永1年 (1624年)に創建された霊巌寺に由来 (寺は明暦の大火後、深川に移転) し、霊巌島とも書かれた。日本橋川、亀島川、隅田川に囲まれている。1948年に埋め立てられた新川跡を推定復元してみた。

霊岸島には、松平越前守の屋敷があり、その周りは越前堀で囲まれていた。埋め立てられた
越前掘跡も推定復元してみた。

霊岸島の地図

霊岸橋と日本橋水門

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茅場町から霊岸橋を渡り、霊岸島に入る
 
霊岸橋の上から亀島川に架かる日本橋水門が見えた。
この水門は霊岸島の南端にある亀島川水門とセットで、霊岸島、茅場町、八丁堀方面を高潮から守っている。



越前掘跡

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(手前)越前堀児童公園、(奥)明正小学校
霊岸島の由来を示す説明板
 
越前堀児童公園の紀念碑のプレートには昭和五年五月◎日 東京市越前掘り公園と記されている

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江戸時代、松平越前守の屋敷地を囲む「越前掘」があったが、関東大震災以後
埋め立てられ、往時を偲ぶものはここの越前掘り公園のみとなったとし記されている
石の由来には、日本橋川の皇居内堀の近くに架かる雉子橋
付近から見つかった石垣と記されている。「伊豆石」であろう。

越前堀児童公園に掲げられた「越前掘」の説明板
なお、この公園は関東大震災後につくられた「帝都復興小公園」の1つである「越前堀公園」から始まるという


於岩稲荷田宮神社

雨の夜、からんころんと駒下駄の音が近づいてくるのは「牡丹灯籠」。深夜、一枚、二枚と皿を数える声が聞こえてくる「番町皿屋敷」。毒を盛られて顔が青黒く変形した女の幽霊が出てくる「四谷怪談」。日本三大怪談の一つ、「四谷怪談」 は四代目鶴屋南北の全くの創作ではなくお岩の伝承に基づいている。
四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は、明治12年(1879年)の火災によって焼失して中央区新川に移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。 そのため、於岩稲荷田宮神社は新宿区四谷と中央区新川の二カ所にある。

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於岩稲荷田宮神社の入口 御社にお参りする ちょうど紅梅がほころんでいた



佃島

佃島の地図  佃島と月島の間の運河は埋め立てられて今では地続きである

超高層マンションが林立する佃島

霊岸島を隅田川沿いに南下すると、中央大橋の向うに超高層マンションが立ち並ぶ。そこが佃島である。

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中央大橋を通って、霊岸島から佃島に渡る
 
超高層マンションの高さで飛ぶ渡り鳥の一群
鳥の名は?
佃島の超高層マンションの
1つに案内して頂く

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53階建マンションの33階のロビーから隅田川と霊岸島と中央大橋を見下ろすパノラマ写真 佃島にある隣のマンション



超高層マンションの一郭にある蕎麦屋さんで昼食

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佃島の別のマンションの1階のPIER WEST SQUAREにある「玄粋庵」で、昼食に「とろろ蕎麦」を頂く



石川島の歴史

隅田川の河口に江戸湊があり、その先に二つの島、石川島と佃島があった。石川島は岩の島で、佃島は砂の寄州である。堅牢な地盤の石川島には江戸時代に水戸藩が日本初の洋式造船所をつくり、明治9年(1876年)に造船所(後の石川島播磨重工業)が建設された。佃島には家康が大阪から連れてきた漁民が住み着き、漁村となった。

その後、石川島と佃島の二つの島は関東大震災の瓦礫埋め立で繋がり佃町となり、佃町の南側には明治25年(1892年)に浚渫土砂で埋立てた1号地が完成し、やがて現在の広い月島町になった。ここは東京湾埋立地の先駆けである。

日本人によって設計・製造された最初の蒸気軍艦「千代田形」
明治9年に平野富二が民営洋式造船所を作り、明治22年には有限責任石川島造船所、(株)東京石川島造船所の社名のもとに多くの軍艦・商船が造られた。
その後、石川島重工業(株)、石川島播磨重工業(株)と社名が変更される中で、当地は日本屈指の造船所として活躍してきたが、昭和54年に閉鎖された。

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人足寄場(にんそくよせば)とは江戸幕府が設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設である。飢饉などで田畑を捨て
江戸に流れ込んできた無宿者や軽罪人を約3年間収容し、生活指導や職業訓練による自立支援・再犯防止のための
プログラムが行われていた。現在の刑務所と同様に労働に対する手当を支給したが、手当額の一部を強制貯金し、
3年の収容期間を終えて出所する際にはこの貯金を交付し、彼らの更生資金に当てさせるというシステムだった。
 
石川島灯台は、慶応2年(1866)石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもの。

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この亀島川水門は、霊岸島の北端にある日本橋水門とセットで、
霊岸島、茅場町、八丁堀方面を高潮から守っている。
折しも、隅田川を遊覧船が通行していた
 



佃小橋から見る掘割

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佃小橋から見るヘドロの掘割だが・・・ 住吉小橋から見る掘割。住吉神社の例大祭*に使用する大幟の柱が埋設されているとの掲示

*住吉神社の例大祭に欠かせない六本の大幟の柱や抱木(だき)は、空気に触れて木が 腐ってしまわないように、三年の間、川底に埋められている。本祭りの年、水の引く干潮時を狙って掘り起こされる。大幟は寛政10年(1798年)に徳川幕府により建立が許可されたもの。



佃住吉神社

                       佃島と佃住吉神社の由緒

天正年間(1573- 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社に参詣した際、佃村の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国でのを与えた。

天正18年(1590年)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年(1646年)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。


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境内にある二之鳥居
 
 
 二之鳥居の扁額は珍しい陶製
有栖川宮幟仁 (ありすがわのみや
たるひと)
親王による揮毫
社殿は、拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造という
 
 
神道は
天皇制礼賛か
 


佃島渡船場跡

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佃島渡船場の碑
 
 
佃島渡船場跡の解説板
 
 
広重の名所江戸百景
の「佃しま住吉の祭り」
のレプリカがあった



佃煮屋さんの前で集合写真

名物佃煮のお店は3軒ある。その1つ佃源「田中屋」の前で集合写真



佃天台地蔵尊

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民家の間の狭い路地を入ると・・・ 佃天台地蔵尊がある 建物の中に「イチョウの木」が・・・ 下町らしい佇まいに感激



月島駅前で解散

佃島と月島の間の運河は埋め立てられて境界は分らない。
メトロ有楽町線と都営大江戸線の交差する月島駅前で、今日の巡検は解散となった



豆知識 東京の治水と埋立の歴史

最後に、東京の治水と埋立の歴史についてお勉強 いくつかのWEBから引用させて頂いた。

東京の河川改修の歴史


知命庵さん (ペンネーム) 曰く:

関東南部、東京周辺の地図を開いてみると、千葉県との境から西に向って、江戸川、中川、荒川、隅田川と大きな川が4本南北に平行して流れている。隅田川を渡った更に西側には隅田川の支流として、石神井川や神田川が流れ、また荒川と隅田川に挟まれた、いわゆる江東デルタと称される地帯には東西南北縦横に運河のような小河川が何本も走っている。

現代に生きる私たちにとって、これらの川は昔から悠々と同じ場所を流れ続けてきたようにも思われるののだが、実は長い歴史の中で大規模な改修を加えられて川筋が変ってきたのである。また、荒川は水害対策として大正年間に新たに作られ、中川が完成したのは昭和の半ば頃(1962年)だった。

隅田川といえば江戸から東京へかけて、この町のシンボルであり続けたのだが、一時期、高度成長の頃には川の水が汚濁され、近づくのもはばかられる死の川となったこともあった。現在では水もかなりきれいになり、また堤にも工夫が加えられ、市民が川面近く散策を楽しめるようになってきた。

散人は隅田川をはじめ、東京の川に架かる橋の風景を好んで描いている。そんな散人の営みを見るにつけ、私は東京の川と橋にまつわる歴史的な事項を調べ、その由緒来歴の一端を明らかにすることにより、散人の絵を鑑賞するに際の一つの手がかりにでもなればと、この論考を起こした。


ホームページ「東京の川と橋(知命庵)」
  http://hix05.com/rivers/river01/river.011.html からの引用である。
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              1.東京の主要河川の現状
上の図は、東京の主要河川の現状を表したものである。図から読み取れるとおり、大きく分けて江戸川の水系と荒川の水系からなっている。江戸川は千葉県の関宿あたりで利根川から分流しているので、大きな括りでは利根川水系の一支流という位置づけになっている。一方荒川は秩父地方に発して、北区の岩淵水門で隅田川を分流している。この二つの大きな水系に挟まれたものとして新旧の中川がある。

これらの河川の流路が現在のように定まったのは、1962年に新中川が完成して以来のことである。それ以前、大正時代には荒川放水路(現荒川)が開削され、併せて隅田川に大規模な改修が加えられた。遡って、徳川時代には利根川の東遷、荒川の西遷とよばれる河川の大規模な付け替え工事が行われており、江戸の町を洪水から守り、また流域の灌漑施設の充実が図られてきた。東京の河川は17世紀の始め頃から20世紀の半ば頃まで、およそ350年の長い期間をかけて、形作られてきたのである。

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          2.徳川時代以前の江戸の河川流域図
上の図は、家康が江戸に入府する天正18年(1590年)より以前の時代における、主要な河川の流域を示したものである。

一番東側を流れる太日(ふとゐ)川は、渡良瀬川の最下流にあたっている。現在の渡良瀬川は利根川の一支流であるが、当時は独立した河川として江戸湾に直接流入していた。
利根川は、いま古利根川として残っている川筋をたどって、ほぼ現在の旧中川の流れに沿って江戸湾に流入していた。荒川は、昔から暴れ川として恐れられ、洪水のたびに流路を変えたと思われるが、途中で利根川に合流していた。つまり基本的には利根川の支流だったわけである。隅田川は、入間川の最下流にあたっていた。現在の隅田川は荒川の支流扱いであるが、昔は入間川筋として独立した河川だった。





 
            3.利根川の東遷、荒川の西遷
家康は、江戸へ入るとすぐ、江戸城の築城をはじめとした江戸の都市改造に取り掛かった。なかでも河川の改修整備は最も大きな意義を持つ事業であった。家康はすでにあった河川の付け替えをすることで、洪水や灌漑などの治水事業を進めるとともに、船による物資輸送の体系をも整備しようとした。この河川の付け替え事業は、世に「利根川の東遷、荒川の西遷」と称されている。上の図はこの付け替え事業の概要を示したものである。

まず、利根川については、文禄3(1594)年の会の川の締め切りにより、川筋を東に移して渡良瀬川に合流したのを始まりとして、その後渡良瀬川と鬼怒川を結ぶ水路の掘削が進み、承応3(1654)にはついに、鬼怒川と合流して銚子へと流れるようになった。この結果、江戸は河川を通じて直接太平洋と結ばれるようになり、銚子や佐原方面からの水運が発達するようになった。この工事により、中川は利根川とは縁を切られて地方的な中小河川となり、渡良瀬川は直接江戸湾に流入することなく、新たにできた大利根川の一支流となったた。また従来渡良瀬川の最下流だった流れは江戸川と名を変えて、利根川の分流となった。一方、荒川については、寛永6(1629)年、熊谷地先の久下で河道を締め切り、流路を入間川の支流に結んだ。これにより、荒川は入間川水系と合流し、隅田川の最上流となった。

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           4.荒川放水路の開削と震災復興橋梁
隅田川に流れ込むようになった荒川は、徳川時代を通じて何度か洪水被害を引き起こした。そこで幕府は江戸を洪水から守るために、上流部で堤防を決壊させるというような乱暴な政策を採用したりした。明治以降も、荒川の水害は引き続き起こり、なかでも明治43年の洪水は東京に甚大な被害をもたらした。この洪水をきっかけに、徹底的な治水対策の必要性が強く感じられるに至り、政府は隅田川を大きく迂回する大規模な放水路を作ることとした。

上の図は、荒川放水路の改修平面図である。北区の岩淵あたりから新しい流路を掘り、隅田川の北側から東側にかけて並行して流れる水路を作ろうというものである。明治44年に測量などの事業が始まり、大正2年からは人や馬の力を使って掘り進みはじめた。そして関東大震災の翌年、大正13年に岩淵水門が完成し、新しくできた荒川放水路に水が流れた。放水路が単に荒川と呼ばれるようになるのは昭和40年以降のことでる。荒川放水路の完成により、隅田川にかかる負荷が小さくなったので、隅田川においても本格的な河川改修が可能になった。大正12年におきた関東大震災では、隅田川に架かる橋も大きな被害を受けたため、河岸の改修と並んで、震災復興橋梁と呼ばれる橋が、次々と架けられた。今隅田川に架かっている主な橋は、みなこの時期に架けられたものである。
        5.新中川の開削と江東デルタ地帯の治水事業
荒川放水路の開削により、隅田川流域は洪水の脅威から開放されるようになったが、隅田川の東側に位置する低湿地地帯は依然洪水被害がやまなかった。この地域の真ん中を流れているのが中川で、埼玉県側から流れてきて都内に入ると大きく蛇行してる。この川がたびたび氾濫したため、昭和14年に東京府によって新中川の開削工事が計画された。

上図は新中川の改修平面図である。葛飾区の高砂あたりから中川を分流させ、江戸川区の今井あたりで江戸川に導くというものであった。工事は大戦のための中断をはさみ、昭和38年に完成した。これにより、現在の東京における主要な河川の流域が定まったわけである。新中川は人工の川なので、流域の町を分断する結果になった。ひところの江戸川区の地図をみると、ひとつの町名が川を挟んで両側にまたがっていたが、これは町の中を川が貫くことによって生まれた現象であった。一方江東区の低湿地地帯はまた、地下水汲み上げに伴う深刻な地盤沈下によって、特に高潮の時などは土地が海面よりも低くなるという事態に見舞われるようになった。そこで地域全体を高潮から守るため、周囲の河川の入り口に水門を設けて、高潮による被害から町を救う試みが続けられている。





東京港の埋立の歴史

 
 
有明、お台場、芝浦、豊洲と近年開発が著しい東京港であるが、15世紀、江戸城を築いた太田道灌が「江戸湊」を開いた当時は、海岸線は現在の皇居辺りまで入り込んでおり、日比谷は「日比谷入江」と名付けられた浅瀬であった。

江戸時代に入り、徳川家康は江戸のまちづくりの基本として、「港湾都市」を構想し、江戸湊の整備を推進した。そこで、当時の「神田山」と呼ばれる丘陵(現在の駿河台)を切り崩し、日比谷入江が埋め立てられた。 これが東京港の埋立の始まりになる。



国土交通省関東地方整備局 東京港事務所ホームページの中の
「家康が夢見た港湾都市」
  https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/index.htm
「東京港の変遷」
  https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do01.pdf
からの引用である。
 
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徳川家康は、神田山を切り崩し日比谷入江を埋め立てた。
これが東京港埋立の始まりである。

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時代別に色分けされた東京港埋立の歴史
 今回巡検をした「日本橋付近」は中世から江戸初期の埋立。ここでは「佃島付近」は江戸末期から明治末期の埋立となっているが中心部は江戸初期である。



東京の沖積層と洪積層

埋立地に高層ビルが建っている。ちょっと不安だったので、基礎がどのようになっているのか
調べてみた。軟弱な地盤の上でも、良好な地盤に届く支持杭の上にビルが建てられておれば
安心だ。


完新世(かんしんせい)は地質時代区分のうちで最も新しい時代で、沖積世とはほぼ同義である。
更新世(こうしんせい)は地質時代の区分の一つで、約258万年前から約1万年前までの期間で、
かつては洪積世(こうせきせい)といわれた。一般に、 沖積層(面)は軟弱、洪積層(面)は強固と
いわれる。

A 下記のホームページ他を参考にした。
ニッケンキソ・コンサルタント(株) http://www.nikken-kiso.co.jp/material_02.html
東京地盤ノート http://blog.livedoor.jp/geologistyouna202/archives/1153855.html 遅い!
大東建託 http://www.kentaku.co.jp/estate/tech-prod/tech/safety/

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地質時代区分表 東京の沖積低地と洪積台地

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東京区部(低地)の沖積層分布図 沖積層の成り立ち

建物はどのように支えられているのか。
軟弱な地盤の上でも高層ビルが建てられる理由が分ります。



巡検記録 「東京の島を訪ねて(1) -- 霊岸島・佃島など」 をご覧下さって、有難うございました。
私は加齢のため、登山やスキーはできなくなりましたが、町中ならまだまだ歩けます。これからも
街歩きの報告をしたいと思います。


今回の巡検を企画された小池さん、現地を案内して下さった小野寺さんにお礼申し上げます。



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