明治維新150年 ---- 久里浜・横須賀巡検 |
ペリー上陸記念碑、記念艦三笠、猿島要塞跡、ヴェルニー記念館、横須賀軍港めぐり |
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1853年米艦隊ペリー司令長官の上陸記念碑 嘉永6年6月9日(旧暦)に黒船4隻で来日したペリーが久里浜に上陸し、開国を迫る国書を幕府役人に渡した。これより戊辰戦争終了までの時代を「幕末」という。 |
「久里浜・横須賀巡検」の全行程の地図 |
「幕末・明治から現代の年表 (項目の選択は私の独断) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ペリー上陸記念碑 |
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も眠れず」は、幕末の狂歌。 |
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1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、幕府はペリー一行の久里浜上陸を許し、 浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見した。この記念碑は、 1901年(明治34年)7月14日に除幕された。 碑文の揮毫は伊藤博文。 |
記念碑の裏面 COMMODORE PERRYは海軍准将ペリーであるが、 一般にはペリー提督と訳されている。 |
記念碑の前の銅板 ペリーは米国東海岸のノーフォークを出航し、ケープタウン、マラッカ海峡、上海などを経由し来日し、帰路は太平洋を横断したことが分る |
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ペリー記念館はジオラマ、関係者の銅像、 パネル展示が中心の小さな記念館である |
記念館1階のジオラマ 蒸気船は2隻で、あとの2隻は帆船である 左から ミシシッピ Mississippi 蒸気外輪フリゲート 積載量1692t 大砲12門 乗員300 サスケハナ Susquehanna(旗艦) 蒸気外輪フリゲート 積載量2450t 大砲6門 乗員260 サラトガ Saratoga 帆走スループ 積載量882t 大砲4門 乗員260 プリマス Plymouth 帆走スループ 積載量982t 大砲4門 乗員260 |
1853年のペリー浦賀来航(久里浜上陸)の翌年1854年にペリーは再度来航し、 横浜村(現横浜市)に上陸し日米和親条約(神奈川条約)が締結された |
記念艦三笠 |
久里浜からバス、京浜急行を使って横須賀中央に着く。ここから徒歩で記念艦「三笠」へ。 三笠は、大日本帝国海軍の戦艦で、奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された。同型艦に敷島、初瀬、朝日がある。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。現在は防衛省が所管し、横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている。 日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を進めた。三笠はイギリスのヴィッカース社に発注され建造された。 1904年(明治37年)2月6日から日露戦争に加わり、2月9日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加し、8月10日に黄海海戦に参加した。1905年(明治38年)5月27日・28日に日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦した。 その後ワシントン軍縮条約によって三笠は廃艦が決定した。軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったが、国民から愛された三笠に対する保存運動が勃興し、条約に基づき現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、1925年(大正14年)1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。 太平洋戦争敗戦から1年経たない1946年4月の時点で、切断可能な金属はガスバーナーで切断されて盗まれ、甲板のチークは薪や建材にするために盗まれ、「三笠」は急速に荒廃していった。東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥はこれを知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせた。しかし、横須賀港を接収したアメリカ軍のために娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上に開かれた。のちに後部主砲塔があった場所に水族館が設置された。 日本での当時の世論は復元保存派と完全撤去派と賛否両論の真っ二つに分かれた。しかし予算が承認され復元工事が1959年に開始すると、同年6月27日に所管が大蔵省から防衛庁に移管された。工事は1961年に完了し、同年5月27日に復元記念式が挙行された。 三笠の諸元 排水量:15,140トン 全長:131.7m 最大幅:23.2m 機関:15,000馬力蒸気機関 速力:18ノット(時速33km) 装備 主砲:40口径30センチ砲4門 副砲:40口径15センチ砲14門 補助砲:40口径7.6センチ砲20門 魚雷発射管:4門 防御力 圧倒的な火力の充実を図ると共に、装甲板にクルップ鋼を使用して当時の世界最高水準の防禦力を実現 通信能力 当時の最新鋭の三六式無線電信機(国産)を装備しており、その通信能力は日本海海戦時に有効であった。 |
記念艦「三笠」の前で集合写真。日露戦争の日本海海戦の際に、 連合艦隊司令長官東郷平八郎が乗艦した旗艦「三笠」は、現在は復元されて博物館になっている。 |
「三笠」の全貌 (左が艦首、右が艦尾) |
パンフレットに書かれた見学コース 我々は50分しかなかったので、各自自由行動とした |
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この絵画は東城鉦太郎画伯が日本海海戦直前の旗艦「三笠」の 艦橋の様子を描いたもの。「この前で記念写真をどうぞ」ということ |
Z旗は信号旗の1つ。日本海海戦のとき、三笠はZ旗を掲げ、 「皇国の興廃この一戦にあり各員一層、奮励努力せよ」 との 東郷司令長官の号令を全軍に伝えた。 |
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「三笠」の主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門 40口径とは、砲身の長さが口径の40倍(すなわち12.2メートル)ある ということ |
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門 砲の隣にハンモックが吊るされており、砲兵はここで寝泊りしていた |
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「三笠」のメインエンジンは、ヴィカース社製直立3気筒3段膨張レシプロ蒸気機関である。高圧蒸気を効率よく使うため高圧・中圧・低圧のシリンダーを使用している。この写真は艦に搭載する前に撮影されたもの。 | 「三笠」の推進装置は、ボイラ25基、レシプロ蒸気機関2基、4翼スクリュー2基(左右)などで構成されており、最大速度18ノット(時速約33km)。ボイラの燃料には石炭が使われていた。 |
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最上艦橋 |
操舵室内部 |
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司令塔のある装甲艦橋は35cmの厚い鋼板で囲まれている |
司令塔の中には磁気羅針儀、操舵輪、速力指示器が装備されて |
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日露戦争で連合艦隊司令長官として、日本海海戦ではバルチック艦隊に 対して大勝利を収めた(イギリスに7年間留学) |
日露戦争で連合艦隊作戦主任参謀となり、「天気晴朗なれども波高し」の 電文を起案した作戦家(アメリカ留学組) |
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艦隊機関長の居室 | 長官公室 |
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長官公室の浴室・トイレ | 士官室 |
三笠公園に建つ東郷平八郎の像 |
猿島要塞跡 |
猿島は東京湾最大の自然島である。島の大半を猿島公園として、横須賀市が整備している。 周囲約1.6km、標高39.3m、三笠公園東方約1.75km 沖合にある。島からは縄文時代の土器や 弥生時代の土器・人骨が出土し、日蓮にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれて いる。 幕末から第二次世界大戦にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年 に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、 東京湾要塞の猿島砲台が築造された。本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁 を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本国では数少ないフランス積みが見られる。 使用された煉瓦は愛知県の東洋組士族就産所で製造された。国の史跡に指定されている。 |
見学時間が1時間と短かったので、ガイドの木暮さんの案内で猿島桟橋から日蓮洞窟の上の砲台跡を往復することとなった。 |
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三笠桟橋からSea Friend Zero号で猿島へ(乗船時間は約10分) |
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猿島に近付く | ウミウの群? | 海軍港であった名残り |
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先ず、ガイドさんに鍵を開けてもらって兵舎跡に入る | 切通しに沿って右側には兵舎跡・弾薬庫跡が並ぶ |
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弾薬庫跡に入る |
安全のため弾薬庫には灯がない。隙間から採光できるよう窓に工夫がされている。 | 弾薬庫の上には砲台があり、弾薬庫から垂直のトンネルで 弾薬が運べるようにできている |
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レンガの積み方にはいろいろある: イギリス積み、フランス積み、ドイツ積み、アメリカ積み |
屋外便所のレンガはイギリス積み |
切通しの壁の石材はフランス積み |
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このトンネル兼兵舎の工法は、 切通しを掘ってから天井を埋めたものだという |
いくつかある砲台跡の1つ 海軍の高角砲(陸軍のいう高射砲)を設置したもの |
猿島の植物 |
三浦半島から見る猿島は、いつでも黒々としている。これはタブノキに代表される木々が一年を通して生い茂っているからである。 島には約300種を超える植物があるが、三浦半島の植物と同じものばかりで島固有のものや貴重種は見当たらない。しかし、島の高地にはタブノキやカラスザンショウが大木で生育し、まるでジャングルの様相を呈している。また、低地には好海岸性植物のアシタバやハチジョウススキ・アズマネザサが光を求めて密集している。特別な植物はないが、自由に成長している木々は一見の価値がある。ここでは巡検当日に撮影したものや、Websiteから引用したものを紹介する。 |
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ハマダイコン(アブラナ科ダイコン属ダイコンの変種) | アシタバ(明日葉、セリ科シシウド属) | フウトウカズラ(コショウ科コショウ属) |
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アスカイノデ(明日香猪ノ手、オシダ科イノデ属) | ヤブニッケイ(藪肉桂、クスノキ科クスノキ属) | オオバヤシャブシ(カバノキ科ハンノキ属 )の実 |
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カラスザンショウ(烏山椒、ミカン科サンショウ属) | トベラ(トベラ科)の花 | スイカズラ(スイカズラ科) |
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タブノキ(クスノキ科) | フウトウカズラ(風藤葛)の雌花序 | フウトウカズラ(風藤葛)の赤い実 |
どぶ板通り |
「どぶ板通り」は、横須賀市中心部の国道16号と平行して並ぶ全長300m程の通り・商店街である。第二次大戦前、この通りには道の中央に「どぶ川」が流れていたが、人やクルマの通行の邪魔になるため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらい、どぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになった。その後ドブ川・鉄板ともに撤去された。 |
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バー、飲食店、土産物店等が並ぶ「どぶ板通り」 | スカジャンの店 |
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海軍カレーとハンバーガーの店 ”TSUNAMI” | 海軍カレーには、サラダと牛乳が付く。海軍らしい栄養満点である。 |
ヴェルニー記念館 |
「ヴェルニー記念館」は、フランス人フランソワ・レオンス・ヴェルニーの記念館である。 彼はフランス・ブルターニュ地方出身の技術者で、1865年から1876年にかけて横須賀 海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。 |
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ヴェルニー記念館の外観 Websiteより | 記念館の玄関に掲げられた「記念館のデザイン」 |
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横須賀製鉄所は元々「鉱石から鉄を作る工場」ではなく、 「鉄製品を作る工場、大型船の修理工場」だった |
横須賀製鉄所の船の修理工場「ドライドック」は、 現在の米海軍基地内にあり、今も使用されている。 |
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1876年(明治8年)に撮影された横須賀製鉄所(横須賀造船所)の全景写真 |
横浜製鉄所(横須賀製鉄所の分工場)で造られた富岡製糸場の鉄水槽 私のホームページ「日本の近代化遺産(1) ---- 絹産業 」に出ています |
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スチームハンマーの動作原理を説明する模型 蒸気の力でハンマーをを上下させて、鉄を鍛える |
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3トンスチームハンマーの実物 → 1865(慶応元)年、横須賀製鉄所の建設を主唱した徳川幕府勘定奉行小栗上野介の構想に基づき、6台がオランダから輸入された。これらは幕府の近代化政策の中で横須賀と横浜の造船所(当時は“製鉄所”と呼んだ)に配備されたが、現存するのは2台のみである。ハンマーヘッドの重さは、それぞれ0.5トン(単式フレーム)、3トン(複式フレーム)である。 明治維新後は日本海軍に引き継がれ、戦後は在日米軍横須賀基地の艦船修理廠で、0.5トンハンマーは1971(昭和46)年まで、3トンハンマーは1996(平成8)年まで使用されていた。 その後、これらのスチームハンマーは、日本に返還され、2002(平成14)年、横須賀市のヴェルニー記念館に移設されて現在に至っている。 |
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ヴェルニー記念館のすぐ隣に、JR横須賀駅がある。1889年(明治22年)に開通した横須賀線の終着駅である。ここで今日の巡検は終了した。 |
横須賀軍港めぐり |
巡検当日は手違いで、「横須賀軍港めぐり」の最終便に乗り遅れた。そこで、下見の時に撮影した写真で説明する。 ヴェルニー公園の近くから出航する「横須賀軍港めぐり」は約50分の航海で、海上自衛隊施設と米海軍施設を真近で見ることができる。平和を標榜する我国が最先端の攻撃型の艦船を保有し、米海軍の原子力空母の母港を提供していることは、考えさせられる。 |
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横須賀軍港めぐりの発券所 | 横須賀軍港めぐりの乗船場 | Sea friend V 号 |
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のっけから海上自衛隊の潜水艦 |
この木造プラスチック船は、海上自衛隊の掃海艦「はちじょう」 掃海艦は 磁気機雷に対する触雷を避けるため、 非磁性船体に非磁性化エンジンが搭載されている。 |
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海上自衛隊のイージス艦には、こんごう型、あたご型、まや型がある というが、外観の区別は私には分らない。 |
六角形のフェーズドアレイアンテナのカバーはずされている。 回転するパラボラアンテナと異なり、電子的に高速走査できる |
イージス艦とは、イージスシステムを搭載した艦艇の総称。高度なシステム艦として構築されているフェーズドアレイレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力を持つ。 |
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横須賀には、海上自衛隊自衛艦隊司令部と 在日米海軍司令部が置かれている |
世界で唯一外国に母港がある米海軍原子力空母ロナルド・レーガン 排水量101,429t、全長333m、速力30ノット、士官・兵員3200名、航空要員2480名 |
地形から考察する 横須賀が軍港になった訳 |
横須賀港が軍港になった訳は、歴史的な理由があると思うが、ここでは地形から考察してみよう。 図1.は東京港周辺の陸地の標高地図、図2は横須賀港周辺の陸地の標高地図である。いずれも標高差は10m毎に色分けした。 縮尺は同じである。 因みにこのような地形図は、地理院のサイト を使って自分で自由に設定して作ることができる。 便利な時代になったものである。 |
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図1.東京港周辺の陸地の標高地図 (隅田川・旧江戸川の沖積層が広がっている) |
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図2.横須賀港周辺の陸地の標高地図 (海岸線から急に山になっている) | 図3.東京湾の海底地形図 |
「明治維新150年 ---- 久里浜・横須賀巡検」 をご覧下さって、有難うございました。 猿島を案内して下さった猿島公園専門ガイド協会の小暮さんにお礼申し上げます。 いささかキナ臭い写真もありましたが、皆さんはいかがでしたか。 |
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