鎌倉ハイキング ---- スプリングクラブ巡検 |
岩殿寺、法性寺、まんだら堂やぐら群、名越切通、お猿畠の大切岸、衣張山、石切り場跡 |
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まんだら堂やぐら群(一部) 柔らかい三浦層群逗子層を掘って造られた横穴墓地。穴の数は150以上確認されているという。 |
鎌倉ハイキングの全行程 |
当日はGPSを携行しなかったので、上記の赤線は記憶による軌跡である。多少誤りがあるかもしれない。 |
京急新逗子駅から岩殿寺へ |
京急逗子線の新逗子駅に集合し、JR横須賀線の逗子駅で合流し、岩殿寺に向かう。 |
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京急逗子線の新逗子駅 |
岩殿寺の石垣といっても古いものではなく、 平成22年に神奈川県が行った急傾斜地崩壊対策工事。 |
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岩殿寺(がんでんじ)は神奈川県逗子市にある曹洞宗の寺院。 山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。 |
坂東三十三箇所観音霊場 第2番を参詣して、下山する |
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岩殿寺からJR横須賀線に沿って戸塚と浦賀を結ぶ「西の浦賀道」があった。 浦賀道の傍らに庚申塔。庚申塔は逗子市内に90基が確認されているという。 浦賀道については、 をクリックしてご覧下さい。 |
法性寺 |
JR横須賀線に沿って浦賀道を北上して、日蓮上人の『立正安国論』による 焼き討ちからの避難で有名な法性寺に至る |
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猿畠山 法性寺(えんばくさん ほっしょうじ)は、逗子市に建立された日蓮宗の寺院。 松葉ヶ谷法難の際、日蓮が白猿に導かれ難を逃れた岩窟の地に建立されたと伝えられる。 |
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法性寺の山門 | 猿畠山と記された扁額の左右には、日蓮を導いたとされる白猿が |
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法性寺の本堂 | 長い参道に実施された急傾斜地崩壊対策工事 | 山王権現へ向かう最後の階段 |
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逗子市名物の急傾斜地崩壊危険区域の表示 一定の基準を満たす場合は公費で工事が行われる |
日蓮を助けた白猿は、 山王大権現のお使いだという |
山王大権現の祀られている山頂から 「大切岸」の一部が見えた |
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「大切岸」の一部を探索 |
名越切通 |
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尾根道に鎮座するカラスザンショウ(烏山椒、ミカン科サンショウ属)の大木。カラスザンショウはアゲハチョウの食草で、落葉高木 |
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国指定の史跡「名越切通」の説明板 |
後世に通商路として開削されたところも あるが、鎌倉時代の面影を残す部分もある |
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名越切通は、鎌倉時代に尾根を掘り割って造られたとされる道で、鎌倉幕府の事績を記した「吾妻鏡」に「名越坂」として登場する。 我々は「名越切通」を抜けずに引き換えし、「まんだら堂やぐら群」に向かう。切通は平時は通商路であり、戦時は砦となった。 |
まんだら堂やぐら群 |
名越切通から少し進むと広場に出る。ここは「まんだら堂やぐら群」で、150穴以上の横穴が集中して造られている遺構で、国指定の史跡となっている。 |
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名越切通は、まんだら堂やぐら群、大切岸とともに国指定の史跡となっている。 |
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春秋の限られた期間だけ公開となり、説明してもらえる | 分り易い説明板も設置されている |
まんだら堂やぐら群の全景パノラマ写真 をクリックして、最大化してご覧下さい。 |
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やぐらとは、崖に四角い横穴を掘り、主として内部に石塔を建てるなどして納骨・供養する施設。13世紀後半から16世紀頃まで使われた。 | 近くの展望広場に登ると逗子方面が見渡せた |
最近、やぐら付近などで遺体を火葬したと思われる跡も各所で確認されている。 ここで荼毘に付された人の骨がやぐらに納められたのかも知れないといわれている。 |
平成18年度の発掘調査では、尾根上の岩盤をコの字形に粗く切り整え、その中央に切石を敷き並べた遺構が発見された。 この切石敷遺構の西側からは斬首されたと考えられるヒトの頭蓋骨1個が埋められた楕円形の土坑も発見されている。 この遺構は、訳あって処刑された名のある方を供養するための施設だったのかも知れない。 |
鎌倉・三浦半島の地質 |
鎌倉付近が属する鎌倉・三浦半島の地質を調べてみよう。 |
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上の図は神奈川県南東部の地質図である。鎌倉・三浦地方は、主に年代の若い順に 沖積層、ローム層、上総層群、三崎砂礫層、三崎層群、葉山層群である。衣張山は三浦層群の中にある。 神奈川県立生命の星・地球博物館発行 「かながわの自然図鑑① 岩石・鉱物・地層」を改変した |
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A | 各層群および層の簡単な説明 沖積層は、段丘面を開析する沖積谷底低地および一部の 海岸沿いに分布し、未固結の粘土、砂、礫からなる。 ローム層は、関東平野に広く分布する赤土で、砂、シルト、 粘土がほぼ等量混じり合っている。成因については、 かつては火山灰層などが地表からの土壌化作用を受け て生じた残積性土壌であるという説があった。しかし この説は現在では否定されており、風で運ばれた 細粒物質が少しずつ地上に累積的に降下堆積して 形成されたものであると考えられている。 上総層群は、第三紀鮮新世〜第四紀更新世古期までの 一連の海成層で、砂岩、泥岩および凝灰質砂礫など からなる。 三浦層群は、第三紀中新世から鮮新世の海成層で、上総 層群に不整合に覆われ、三浦半島では葉山層群を、 を覆う。三浦半島では下位から、三崎層・逗子層・田越川 層・池子層に区分される。 葉山層群は、第三紀中新世の海成堆積物で、泥岩、砂岩 泥岩互層、凝灰質砂岩および凝灰岩類からなる。この 地域では最も古い。 |
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神奈川県立生命の星・地球博物館発行 「かながわの自然図鑑① 岩石・鉱物・地層」を改変した |
お猿畠の大切岸 |
まんだら堂やぐら群から東に少し進むと、大きな切岸に着く。切岸とは、山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖のことである。お猿畠の大切岸は、長さ800m以上にわたって高さ3~10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続している。従来、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だといわれてきた。しかし発掘調査を行ったところ、現状の断崖は四角い板状の石材を切り出す作業を大規模に行った結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認された。 この結果のみをもって、大切岸に鎌倉を防御する目的は一切なかったと即断することはできないが、従来の通説を再検討する必要に迫られている。なお、お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮が、この付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものである。 |
「お猿畠の大切岸」(おさるばたけのおおきりぎし)は、池子層(鷹取山火砕岩部層)からなる断崖が幅800 m以上にわたって連なる遺構である。 |
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お猿畠の大切岸は断崖は風化で凝灰質砂岩の硬い層が残り、 軽石や岩片を含む軟らかい部分が浸食され、露頭面に明瞭な凹凸がみられる。 |
緑陰の中を衣張山へ |
お猿畠の大切岸から北上し、鎌倉逗子ハイランドへ。鎌倉逗子ハイランドは1960年代、衣張山南東山麓の高台が西武グループによって大々的に切り開かれた新興住宅地。開発にあたっては土砂崩れの発生など問題も頻出したが、現在は桜の名所となっている。 |
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緑陰の中を歩く | ツツジ | ヤマブキ |
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鎌倉逗子ハイランドを出ると衣張山 (きぬばりやま・120m)が見える |
衣張山山頂からの展望 (左)当日はガスのため富士山は見えず (右)晴天ならば富士山が見えるという(Websiteより) |
衣張山(きぬばりやま)の由来 熱い夏にうんざりした鎌倉幕府の要人たちが、衣張山の山頂に白絹を張り巡らし雪に見立て、遠い都の冬の山並みを偲んだ故事によるという。 |
衣張山山頂での記念写真 歴史・文化・地生態学に対して知的好奇心旺盛な素敵な仲間たち21名 枠内はシャッターを押して下さった世話役のお一人 |
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尾根筋で見た「玉縄桜」 地元のフラワーセンター大船が開発した染井吉野の早咲き品種だという |
石切り場跡 |
山頂から少し下ったところに「石切り場跡」がある。鎌倉時代から近世まで鎌倉の一産業であった「鎌倉石」の採掘場である。徳川家康は江戸城築城の際に鎌倉石を用いたという。 |
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鎌倉石は、この鷹取山の地層の西方延長部にあたる池子層から切り出した石材で、 黄褐〜褐〜青灰色の凝灰質粗粒砂岩や、軽石に富む凝灰質砂岩からなっている。 鎌倉時代から昭和初期まで採掘されたといわれている。鎌倉の歴史の古い寺院では鎌倉石によって、 より古刹の風情を出している。 山頂近くで切り出して下界まで担ぎ出すの大変だっただろうと思われる。 |
衣張山を下山してバス停へ |
石切り場跡から20分ほど下ると住宅地に出た。そこから町中を杉本寺バス停まで歩いて、今日のハイキングはお開きとなった。 |
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山中から突然鎌倉の住宅地に出た | 振り返ると今まで歩いてきた道は「平成巡礼道」だった |
一日がかりの鎌倉ハイキングにお付き合い下さいまして、有難うございました。 お若い皆さんには物足りなかったかもしれませんでしたが、83歳の私には チョッピリきつい旅でした。 でも、日頃一緒に、地生態学や地学を勉強する仲間とのハイキングでしたので、 楽しく勉強できました。 ハイキングを企画・実施して下さった世話役の皆さんに感謝します。 |
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